第124話 触れたことで形が変わっても、触れたことまで間違いにはならない
翌朝、生活観測区画へ差し込んだ光は、昨日よりもさらに淡かった。
夜のあいだに雲が厚くなったらしく、窓の向こうに青空はほとんど見えない。それでも雨は降っておらず、灰白色の空から落ちてくる柔らかな明るさが、庭の石畳や低い植え込みの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
風も弱い。鳥の声もまだ聞こえず、室内には寝台の布が時折擦れる音と、気温の変化に合わせて窓枠の木が小さく軋む音だけが残っている。
アリシアは窓際の椅子へ座り、膝の上に置いた報告書へ目を落としていた。
昨夜、生活観測区画の内扉を閉じたあと、中間通路の待機空間にいた名前のない光は、少しだけ元の通路側へ戻った。
そのまま最初に滞在していた東側地下空室まで引き返すかと思われたものの、途中で停止した。生活観測区画から見れば昨日より遠い。しかし東側地下空室へ完全に戻ったわけでもなく、どちらにも寄りきらない通路の途中で夜を過ごしている。
一方、西側貯水槽から北側排水路へ進んでいた別の光も、外周の直前で何度も動きを変えていた。
外へ近づいたあと、第四の声が響くと少し後方へ移動した。しばらく止まり、再び前へ進み、また止まる。
以前の学院なら、その動きへすぐに意味を与えていたかもしれない。
迷っている。
第四の声へ抵抗している。
救出を求めている。
あるいは、外へ出る決心がつかない。
どれも、人間側から見ればそう思いたくなる動きだった。
けれど現在の記録には、もっと短い言葉しか残っていない。
外周方向へ移動。
後方へ移動。
停止。
再び外周方向へ移動。
観測できたことだけを残し、その理由を勝手に埋めない。ここ数日で学院全体が覚え始めた、ひどく面倒で、それでも必要なやり方だった。
アリシアは報告書の端へ指を置きながら、昨日、内扉の前へ吊るした薄い布を思い出した。
顔のない存在は自分から扉まで歩き、布の前まで進んだ。そして、一度だけ指先で触れた。
けれど、向こう側にいた名前のない光は近づかなかった。
むしろ、少しだけ戻った。
子供は寂しそうにしていた。それでも最後には、三者が同じ速さで進む必要はないのだと、自分自身へ言い聞かせるように口にした。
同じ速さじゃなくていい。
それは、言葉にしてしまえば簡単だった。
けれど本当に、会いたい相手が離れていったとき。それを相手の速さなのだと受け止めることが、自分にできるのだろうか。
アリシアには、まだ自信がなかった。
『また難しい顔をしているわよ』
床へ敷かれた無地の布の上で丸くなっていたノアが、目を閉じたまま言った。
「起きてた?」
『あなたが三回も同じ紙を読み返せば、嫌でも目が覚めるわ』
「音、出してないけど」
『紙をめくる音の話じゃない。悩んでいる気配がうるさいのよ』
「気配って、うるさいの?」
『あなたの場合はね』
「酷い」
『事実を告げただけよ』
アリシアが小さく唇を尖らせた、そのときだった。
寝台の方で布が擦れた。
二人とも声を止める。
子供が目を覚ました。
まだ眠気の残る目で何度か瞬きをしたあと、いつものように最初に隣の寝台を見る。顔のない存在は横になったままで、胸に浮かぶ十一の光も消えていない。
昨日、布へ触れた瞬間には十一すべてが一度だけ強く輝いた。
けれど、それから新しい光は増えていない。
「いる」
子供が、確かめるように小さく言った。
胸の十一の光のうち一つが、ほんのわずかに明るくなる。
「朝」
今度は二つが緩く揺れた。
子供はしばらくその変化を見たあと、以前のように断定せず、自分から小さく言い直した。
「聞いたように見える」
「おはよう」
アリシアが声をかけると、子供もこちらを向いた。
「おはよう」
「眠れた?」
「うん。途中で起きてないと思う」
「思う?」
「覚えてないから」
「じゃあ、そうかもしれないね」
子供はそこで身体を起こしたものの、すぐには寝台から降りなかった。
まず自分の足裏を見る。
赤くなっていないか確かめ、指先で軽く触れ、少し押す。それから足首をゆっくり動かして、自分の身体から返ってくる感覚を待った。
「痛くない」
「今日も自分で分かった?」
「うん」
「あとでセレナにも見てもらう?」
「見るだけ」
「分かった」
生活観測区画へ移ったばかりの頃なら、身体の状態はすべて誰かに確認してもらわなければならないものだった。
今は違う。
自分でも見る。
自分でも感じる。
そのあとで、必要なら誰かにも見てもらう。
子供は寝台からゆっくり降りると、いつものように棚へ向かった。
そこには、白い花がある。
けれど今では、最初の姿を覚えていなければ、なぜ「白い花」と呼ばれているのか分からないほど色が変わっていた。花弁の大部分は淡い茶色になり、端の一部はさらに濃く乾いて、薄い紙のように内側へ巻いている。
茎も細くなった。
それでも、乾いた小瓶の中でまだ花の形を保っている。
「白い花」
子供は今日もそう呼んだ。
「うん」
アリシアも訂正しない。
子供は花をしばらく眺めてから、昨日までと違いを探すように目を細めた。
「花弁、昨日よりもっと丸くなったように見える」
「うん」
「匂いは……」
慎重に顔を寄せる。
鼻を少し動かし、もう一度確かめる。
「ほとんどない」
「昨日も少なかったね」
「うん。昨日のは、少し覚えてる」
「今日の匂いは?」
「分からない」
子供は少しだけ困ったように笑った。
「匂いがないのか、私が分からないのか、それも分からない」
「そういうこともあるね」
「うん」
そこで、子供は花を見たまま右手を上げた。
アリシアはすぐに気づいた。
昨日も同じところまで手を伸ばした。
触りたい。
でも、壊したくない。
二つの気持ちを抱えたまま、昨日は触れないことを選んだ。
今日は指先がさらに近づいていく。
アリシアは止めなかった。
勧めもしなかった。
子供の指が、乾いた花弁のすぐ手前で止まる。
「アリシア」
「うん」
「昨日、触らなかった」
「うん」
「今日、触りたい」
声には期待より緊張の方が強かった。
「壊れるかも」
「うん」
「触らない方がいい?」
アリシアはすぐに答えず、花を見た。
乾燥はかなり進んでいる。
昨日より壊れやすくなっていることは、専門家でなくても分かった。
「壊したくないことだけを一番大事にするなら、触らない方が安全だと思う」
「でも?」
「触ってみたい気持ちも大事にするなら、絶対に触らない方が正しいとも言えない」
「触ったら、戻らない?」
「元の形には戻らないかもしれない」
「昨日より?」
「昨日より乾いてるから、もっと壊れやすいと思う」
子供は黙った。
花を見る。
指を見る。
もう一度、花を見る。
怖い。
触りたい。
残したい。
知りたい。
どれも消えず、どれか一つだけが本物になるわけでもない。
それでも、今日は自分で決めた。
「私、今日は触る」
アリシアは小さく息を飲んだ。
けれど、驚きをそのまま止める理由にはしなかった。
「自分で決めた?」
「うん」
「どこへ触る?」
子供は花全体をしばらく眺め、端が少し丸まった一枚の花弁を指差した。
「ここ」
「分かった」
「触ったら……」
指先がわずかに震える。
「壊れても?」
その問いには、アリシアも少し長く考えた。
「壊れたら、悲しいと思う」
「うん」
「触らなければよかったって思うかもしれない」
「うん」
「でも、それだけで触ったこと全部が間違いだったとは、すぐに決めなくていいと思う」
「どうして?」
「今、触りたいって思ってるのも本当だから」
子供はアリシアを見る。
「壊したくないのも、本当」
「うん」
「両方、本当?」
「うん」
子供は視線を花へ戻した。
ゆっくりと指を伸ばす。
そして。
乾いた花弁へ、ほんのわずかに触れた。
かさり、と極めて小さな感触が指先へ返ってくる。
以前の柔らかな花弁とはまるで違っていた。乾いた薄紙よりさらに頼りなく、それでも触れた瞬間には確かにそこにあると分かる感触だった。
「硬い」
「うん」
「前は、柔らかかった」
「うん」
「全然、違う」
子供が指を離そうとした。
その瞬間だった。
花弁の端がほんの少しだけ欠け、小瓶の横へ落ちた。
「あ……」
爪の先よりも小さな破片だった。
床へ落ちる音すらしない。
花全体が崩れたわけでもない。
それでも、さっきまで確かに花についていたものが、今は離れている。
子供の身体が硬くなった。
「壊れた」
声が、急に小さくなる。
「少し欠けたね」
「私が……」
「触れたときに」
「私が壊した」
呼吸が少し速くなる。
アリシアは、そこで「違う」とは言わなかった。
触らなければ、少なくとも今この瞬間には欠けなかった可能性がある。
それは本当だった。
子供が触れたことで形が変わった。
その事実まで優しさのために消してしまえば、また別の形で子供から判断する権利を奪うことになる。
「ごめん」
子供が花へ向かって言った。
花は返事をしない。
「ごめん」
もう一度。
今度は、目の端に涙が滲んだ。
「触らなければよかった」
アリシアの胸も痛んだ。
それでも、すぐに慰める言葉を被せなかった。
「今は、そう思う?」
「うん」
「触る前は?」
「触りたかった」
「うん」
「でも、壊れた」
「うん」
「だったら、触らなければ……」
「今は欠けなかったかもしれないね」
子供は唇を噛んだ。
「私、間違えた」
アリシアは椅子から立ち、ゆっくり子供の隣へ座った。
肩へ触れようとはしない。
今はただ、同じ高さにいる。
「間違えたかどうかを、今すぐ決めなくてもいいと思う」
「でも、壊れた」
「うん」
「私が触った」
「うん」
「なら」
「触った結果、花弁が欠けた。それは本当だよ」
子供の目から、とうとう一粒涙が落ちた。
「でも、触りたかったことも本当」
「うん」
「壊したかった?」
子供はすぐに強く首を横へ振った。
「嫌。壊したくなかった」
「うん」
「触りたかった。でも壊したくなかった」
「うん」
「それでも壊れた」
「うん」
子供は俯いた。
小瓶の横へ落ちた花弁を見つめる。
誰も拾わない。
誰も片づけない。
治療教師もミレイも、少し離れたところで待っている。
「触ったら、変わった」
「うん」
「戻らない」
「たぶん、元の形には」
「嫌」
「うん」
しばらく、部屋には言葉がなかった。
窓の外では雲の切れ間がわずかに広がり、朝の光が少しだけ強くなる。棚の上の乾いた花弁へも同じ光が落ち、欠けた場所だけを特別扱いすることなく照らしていた。
やがて、子供が顔を上げる。
視線の先。
顔のない存在が、いつの間にか寝台の上で身体を起こしていた。
顔のない頭は、棚と子供のいる方向へ向いている。
「この人、見てる?」
「そう見える」
「花を?」
十一の光の一つが、小さく揺れた。
「昨日、この人は触らなかった」
「うん」
「私は今日触った。壊れた」
返事はない。
子供は少し迷ってから、アリシアを見る。
「私の方が悪い?」
「比べなくていいと思う」
「でも、この人は壊してない」
「昨日は触らなかったからね」
「なら、この人の方が正しかった」
アリシアはすぐに否定せず、一度顔のない存在を見る。
「顔のない存在が触らなかった理由、分かる?」
「壊したくなかった?」
「そうかもしれない。でも、怖かったのかもしれないし、触りたくなくなったのかもしれない。別のものが気になっていた可能性もある」
「分からない」
「うん」
「私の理由は?」
「触りたかった。壊したくなかった。それでも今日は触ってみるって決めた」
「それは分かる」
「うん。少なくとも、子供自身の理由は今なら分かる」
子供は再び落ちた花弁へ目を向けた。
「これ、捨てる?」
「子供はどうしたい?」
「……」
問いを向けられた瞬間、表情に疲れが浮かぶ。
アリシアはすぐに気づいた。
「今は、一つ決めてほしい?」
「うん」
「じゃあ、今は捨てない」
「どこに置く?」
「花の隣へ置いておこうか。小瓶へ入れると、ほかの花弁へ触れるかもしれないから、小さな皿を別に置く」
「名前なし?」
「うん。ただの皿で」
「それでいい」
治療教師が、文字も装飾もない小さな木皿を持ってきた。
けれど、花弁へ手を伸ばす前に子供へ尋ねる。
「私が移してもよいですか?」
子供は目元を拭いながら、少し迷った。
「私がやる」
「分かりました」
一度触れて欠けたからこそ、今度はさらに慎重になる。
子供は指でつまもうとはしなかった。
木片をすくうときに使った、薄く平たい小さな匙を借りる。息をすることさえ花弁を動かしてしまいそうで、子供は唇を閉じて慎重に匙を差し込んだ。
花弁の欠片が皿へ移る。
その途中で、端がさらにごく小さく崩れた。
「あ……」
子供の手が止まる。
けれど、今度はすぐに「私が壊した」とは言わなかった。
しばらく欠片を見てから、小さく息を吐く。
「また、少し変わった」
「うん」
「でも、置けた」
「うん」
目にはまだ涙が残っていた。
それでも呼吸は少しずつ落ち着いていく。
「白い花」
「うん」
「欠けた」
「うん」
「でも、まだ白い花?」
「子供は?」
「白い花」
「うん」
「欠けても?」
「うん」
「昨日と違っても?」
「うん」
子供はしばらく考えた。
「触ったことも、白い花に入る?」
「どういうこと?」
「前は柔らかかった。匂いもあった。白かった。乾かすって決めた。昨日は触らなかった。今日は触って、硬かった。欠けて、悲しかった」
アリシアは静かに聞く。
「それも、全部白い花?」
「子供の中にある白い花には、入っていると思う」
「名前って」
子供は鼻をすすった。
「いっぱい入る」
「そうだね」
「今の形だけじゃない」
「うん」
昨日だけでもない。
初めて棚へ置いた日。
白かった。
柔らかかった。
水を入れないと決めた。
萎れていくのを見た。
匂いが変わった。
色が変わった。
触れたいと思った。
触れない日があった。
そして今日。
初めて触れた。
欠けた。
悲しくなった。
そのすべてが、子供の中では同じ白い花へ重なっている。
少し離れたところから、治療教師が静かに声をかけた。
「朝食は用意できています。ただ、今すぐ食べなくても構いません」
子供は涙を拭い、食卓を見た。
「今は、食べたくない」
「少し待ちますか?」
「うん」
「分かりました」
誰も花の出来事を切り上げようとはしなかった。
朝食が冷める。
時間が進む。
それでも今は少しだけ、悲しさの中へ残る。
子供は棚の前へ座ったまま、白い花と小皿へ置いた欠片を見つめた。
アリシアも隣にいる。
ノアは何も言わず、少し離れた布の上で尻尾だけをゆっくり動かしていた。
ミレイは記録帳を開かない。
今、何回泣いたか。
何秒黙ったか。
花へ何度謝ったか。
そうしたことを残す必要はない。
やがて、顔のない存在が寝台から足を下ろした。
ゆっくりと立ち上がる。
子供が気づいて振り返った。
「来る?」
人影は棚の方へ歩き始めた。
一歩、二歩、三歩。
以前より姿勢は安定している。
だが今は、誰もその歩き方について「上手になった」とは言わなかった。
人影は棚まであと二歩ほどのところで、自分から止まった。
白い花。
隣の小皿。
子供。
その三つの方向へ、顔のない頭を少し傾ける。
「花?」
十一の光の一つが揺れた。
「欠けた」
子供が言った。
「私が触った」
人影は動かない。
「悲しい」
今度は二つの光が少しだけ強くなる。
「でも、触りたかった」
その言葉には、光の変化はなかった。
子供は少し待ったあと、自分から小さく笑った。
「分からない?」
人影は答えない。
「私も、まだ分からない」
その言い方に、先ほどまでの自分を責める響きは少し薄れていた。
顔のない存在も、棚へそれ以上近づかなかった。
子供も「来て」とは言わない。
しばらくして。
くう、と小さな音がした。
子供が目を見開き、自分の腹を見る。
「音」
アリシアも思わず笑った。
「お腹空いた?」
「たぶん」
「朝ごはん、食べられそう?」
子供は一度だけ白い花へ振り返り、それから食卓を見た。
「食べる」
悲しくても腹は減る。
花が欠けても朝は進む。
少し前なら、子供はそれを残酷なことのように感じたかもしれない。
決めていないのに花は変わる。
悲しいのに朝は進む。
待ってほしいのに、世界は待たない。
今も、その理不尽さが好きになったわけではない。
それでも。
悲しいまま食卓へ向かうことはできる。
それを、子供は少しずつ知り始めていた。
今日の朝食は、粥と柔らかく煮た根菜、小さい白。それから果実は甘い橙が少量だけ用意されていた。
子供は皿へ座るなり、少しだけ眉を上げた。
「黄色、ない」
「今日は橙です」
治療教師が答える。
「昨日は黄色だった」
「はい」
「今日は橙」
「はい」
「黄色も食べたかった」
「聞きました」
子供は甘い橙を見つめ、それからほんの少し笑った。
「でも、橙も好き」
「はい」
「今日は橙」
最初に粥を少し食べ、根菜も口へ運ぶ。
そのあと、甘い橙を一口。
舌へ触れた瞬間、子供は少し顔をしかめた。
「今日、酸っぱいの強い」
「前に食べたときより?」
「うん」
「嫌になりましたか?」
「まだ好き」
子供はもう一口だけ食べる。
「同じ甘い橙なのに、今日違う」
「果実は一つずつ味が違いますから」
「白い花と同じ?」
「少し似ているところはありますね」
同じ名前で呼ぶ。
でも。
同じではない。
それはもう、子供にとって特別な発見ではなく、日常の中で何度も出会うものになり始めていた。
食事の途中、扉の外で短い鐘が一度鳴った。
以前なら、子供は匙を持ったまま固まっていただろう。
西側。
光。
第四の声。
何が起きたのか。
すぐに知らなければならない。
だが今日は、手を止めただけだった。
匙に乗っていた甘い橙を口へ運び、飲み込んでから扉を見る。
「光?」
学院長の声が外から届く。
「報告はある。ただし、急ぎではない」
「危ない?」
「今のところ危険反応はない」
子供は皿へ目を戻した。
「じゃあ、食べる」
「分かった」
あと一口だけ。
そこで、子供は自分から匙を置いた。
「いっぱい」
「お腹?」
「うん」
「では今日はここまでにしましょう」
「うん」
食器が片づけられたあと、セレナが許可された三歩だけ生活観測区画へ入り、子供の足を確認した。
触れる前に、まず目で見る。
「赤みはありません」
「私も朝に見た」
「はい。今朝の自己確認と一致しています」
「触る?」
「今日は触って確かめる必要はなさそうです」
「じゃあ終わり」
「はい」
セレナが少しだけ笑った。
「確認が早くなりましたね」
子供はすぐ顔を上げる。
「私が?」
「はい。自分で見ることに慣れてきたように見えます」
「上手になった?」
「自分の身体を確認することについては」
「人間に近い?」
「そこは関係ありません」
一拍遅れて、子供が笑った。
「分かった」
いつもの確認が終わってから、学院長が扉の外へ立つ。
「今、報告を聞けるか?」
「大丈夫」
「では話す」
子供は今日は床の無地の布ではなく、棚の近くへ座った。
白い花と、小皿へ置かれた欠けた花弁が視界に入る場所だった。
アリシアも少し離れて隣へ腰を下ろす。
「まず、中間通路の光だ」
「戻った?」
「昨夜よりさらに少し、元の通路側へ移動した」
子供の顔がわずかに曇った。
「東側地下空室まで?」
「そこまでは戻っていない。途中で止まっている」
「こっちから遠くなった」
「少しな」
昨日ほど大きく傷ついた顔ではない。
それでも、寂しさは隠れなかった。
「それと、北側排水路へ進んでいる別の光が外周直前まで来ている」
「出る?」
「分からない」
「第四の声は?」
「何度も呼びかけている」
「戻った?」
「一度少し後方へ移動した。その後、再び前へ進んだ」
「行ったり、戻ったり」
「そう見える」
「文字環の近くにいた光は?」
「昨日、中央から少し離れた位置にいる。そこからは、ほとんど動いていない」
子供は三つの話を頭の中で並べるように、ゆっくり瞬きをした。
「みんな違う」
「そうだ」
学院長の答えは短かった。
子供は扉を見る。
「向こうの光」
中間通路へいる名前のない光。
「昨日も少し戻った」
「うん」
「今日も、また戻った」
「うん」
「じゃあ」
そこで言葉が詰まる。
胸が痛そうに、小さく服を握る。
「会いたくない?」
誰もすぐには答えなかった。
学院長も。
アリシアも。
セレナも。
答えを持っていない。
やがて、子供が自分で首を横へ振った。
「分からない」
「うん」
「でも、戻ってる」
「それは本当」
「私、嫌」
「うん」
アリシアはその寂しさを否定しなかった。
「追いたい?」
今度は、その問いへ子供が長く黙った。
昨日。
扉を開けた。
薄い布を下げた。
顔のない存在は、自分からそこまで進んだ。
でも、向こうの光は来なかった。
少し戻った。
「少し」
やがて、子供は正直に答えた。
「もう一回扉を開けたら、来るかもしれない」
「うん」
「昨日の布も使って」
「うん」
「この人も、また行くかも」
顔のない存在は、棚の近くの床へ座ったままだ。
「でも」
子供は息を吐いた。
「向こうが戻ってるのに、また扉を開けたら」
「追ってるみたい?」
「うん」
「そう感じる?」
「少し」
アリシアは昨日、自分が口にした言葉を思い出した。
今は追わない方がいい。
あれは昨日の判断だった。
だから今日も同じにしなければならないわけではない。
けれど子供自身が、今日は同じ判断をしたくないと感じているのなら。
「今日は開けない?」
学院長が尋ねる。
子供はすぐには答えなかった。
「見たい」
扉を見ながら言う。
「でも、追いたくない」
「うん」
「この人は?」
顔のない存在を見る。
「今日は扉を見た?」
ミレイが、必要な範囲だけ記録を確認した。
「朝に二度ほど頭部を扉方向へ向けています。ただし、昨日のように扉へ移動はしていません」
「昨日は布まで行った」
「うん」
「今日は行かない」
「今のところはね」
「この人も、速さが違う」
「うん」
子供はしばらく考え、やがて自分の膝へ両手を置いた。
「なら、私だけ昨日と同じにしなくていい」
「うん」
「昨日開けたから、今日も開けるじゃない」
「うん」
「今日は開けない」
学院長が念を押す。
「自分で決めたか?」
「うん」
「理由は?」
「向こうが少し戻った。私は追いたくない。この人も今日は扉まで行ってない」
「分かった」
子供は少し安心したように息を吐いたものの、すぐにまた眉を寄せた。
「でも、本当に何もしない?」
「中間通路の光へ?」
「うん」
「今は観測だけだ」
「香りも?」
「今日は置いていない」
「床は?」
「揺らさない」
「扉も開けない」
「そうだ」
「じゃあ、何もしない」
不安そうな声だった。
「見捨てる?」
「違うよ」
アリシアはそこだけは迷わず答えた。
「見てる。戻る道も残してる。危険が出たら止めたり守ったりする。でも今日は、こちらから距離を変えようとしない」
「向こうが戻ったから?」
「それもある」
「近づきたいなら?」
「また向こうが動くかもしれない」
「動かなかったら?」
「そのままかもしれない」
子供は扉を見た。
「私が寂しくても?」
「うん」
「光の方へ行かない?」
「今日は」
その答えを聞いて、子供はようやく少しだけ肩を落とした。
「じゃあ、今日はそれ」
午前中、生活観測区画では扉を開く準備をしなかった。
昨日、内扉へ吊るした薄い無地の布も、今日は使わない。
けれど片づけてもいなかった。
折り畳み、壁際の低い台へ置いてある。
子供がその布へ気づき、近づいた。
「これ、昨日の?」
「うん」
「洗わない?」
ミレイが答える。
「今のところ汚れは確認されていません」
「この人、触った」
「はい」
「向こうの光は触ってない」
「確認できていません」
「でも、昨日の布」
「はい」
子供はしばらく折り畳まれた布を見つめた。
「捨てない?」
「危険がないなら、今すぐ捨てる必要はないと思う」
「次、使う?」
「分からない」
「じゃあ」
子供の口元が少し緩む。
「白い花と似てる」
「どこが?」
「今すぐ片づけない」
「ああ」
「役に立つか、また使うか分からない。でも昨日あった」
「うん」
昨日。
顔のない存在の指が触れた。
布が揺れた。
子供は見ていた。
向こうの光は来なかった。
その全部が、この何の模様もない一枚の布へ重なっている。
「これにも、昨日が入ってる?」
「子供の中では?」
「うん」
「なら、入ってるんじゃないかな」
「ただの布じゃない?」
「ただの布でもいいし、昨日触った布って呼んでもいい」
「長い」
「うん」
子供が笑った。
その声に反応したのか、顔のない存在が折り畳まれた布へ頭を向ける。
「見た?」
「そう見える」
「触る?」
返事はない。
人影も近づかなかった。
「今日は触らない」
「今のところは」
「うん」
昨日触れたからといって、今日も触らなければならないわけではない。
白い花と同じだった。
昨日触らなかったから、今日も触れないわけではなかった。
午後。
西側貯水槽の北側排水路では、観測者たちがほとんど声を出さず、一つの光を見守っていた。
外周結界まで、あとわずか。
石床の上へ浮かぶ淡い光は、出口へまっすぐ進めばすぐにでも外へ出られる位置まで来ている。
遠くから第四の声が響く。
「戻れ」
光が、ごくわずかに後方へ動いた。
「帰属せよ」
そこで止まる。
「名を与える」
輪郭が小さく揺れた。
観測室の空気が張りつめる。
「接続値は?」
「基準以下です」
「介入条件には?」
「達していません」
「道は?」
「開放を維持」
「こちらからの呼びかけは」
「ありません」
誰も「進め」と言わない。
その一言を飲み込むことが、今の学院には以前よりずっと難しい。
出口は目前にある。
第四の声から遠ざかれる。
人間側が安全を確認した場所へ出られる。
ならば進んでほしい。
そう思う者は多い。
それでも。
光自身がそこへ進みたいかは分からない。
長い停止のあと、光はわずかに動いた。
だが、正面の出口ではなかった。
横。
外周結界の境界に沿うように、少しだけ移動する。
「出ない?」
「今は」
「別の出口を探している?」
「分かりません」
若い観測者が口を閉じる。
サーラは記録紙へ視線を落とした。
「外周結界沿いに横方向へ移動。そう残してください」
「はい」
「道を選ばなかった、ではなく?」
「こちらが道だと思っているだけです」
若い術師は少し驚いたあと、苦笑した。
「本当に、みんな違いますね」
「そう見えます」
「正面に出口があるのに」
「それがその光にとって出口かどうかも、まだ分かりませんから」
同じ頃。
東側の中間通路でも、名前のない光がまた少し動いた。
生活観測区画とは反対側。
最初に滞在していた東側地下空室の方向。
「移動を確認」
「方向は?」
「東側地下空室側」
「戻りますか?」
「方向としてはそうです。ただし、まだ通路途中です」
「生活観測区画からは?」
「さらに離れました」
サーラは報告を受け、紙へ書こうとして一瞬だけ手を止めた。
昨日。
子供は会いたいと言った。
扉を開けた。
布を一枚挟んで、そこまでなら近づけると決めた。
顔のない存在も、自分から布まで進んだ。
それなのに、名前のない光は今日、そこから離れている。
観測者でなければ。
人間として見てしまえば。
少し寂しくなる。
「中間通路の光。午後、東側地下空室方向へ移動。現在、通路途中」
サーラはそれだけを書いた。
隣にいた若い観測者が、小さく息を吐く。
「関係って、不思議ですね」
「何がですか?」
「離れていくと、なくなる感じがするんです」
サーラは顔を上げた。
「昨日、あそこまで来ていたのに。今日はまた離れていく」
「はい」
「戻っちゃう」
「戻るかもしれません」
「寂しくないですか?」
予想していなかった問いだったらしい。
サーラは少し驚いたあと、手元の記録紙へ視線を落とした。
「私が?」
「はい」
「……少しは」
誤魔化さなかった。
若い観測者が小さく笑う。
「ですよね」
「でも」
サーラは中間通路の先を見る。
「私が寂しいから、光が戻ることを失敗にはできません」
「はい」
「昨日あそこまで来たことも、今日離れたから消えるわけではありませんし」
「そうですね」
昨日と今日を、どちらか一つの正解へしない。
その考え方は、生活観測区画だけではなく、少しずつ観測者たちの間にも根を下ろしていた。
夕方。
生活観測区画へ東側の報告が届いたとき、子供は白い花の近くへ座っていた。
「もっと戻った」
声が少し小さい。
「うん」
アリシアも隣へ座る。
「東側地下空室まで?」
「まだ途中。でも、生活観測区画からは朝より遠くなったって」
「うん」
「今日、扉開けなかった」
「うん」
「だから?」
「分からない」
「開けなかったから、戻った?」
「それも分からない」
「昨日、来たのに」
「うん」
「待機空間まで」
「うん」
「今日は離れる」
「うん」
子供は白い花へ目を向けた。
欠けた場所。
隣の小皿。
朝、自分が触れた花弁の欠片。
「触った花」
「うん」
「欠けた」
「うん」
「触る前には戻れない」
「うん」
「でも、触った」
「うん」
それから扉へ目を向ける。
「向こうの光も、昨日近くにいた」
「うん」
「今日、離れた」
「うん」
「昨日近かったの、なくなる?」
「なくならないと思う」
「記録にあるから?」
「記録にもある。でも、それだけじゃない」
「じゃあ?」
アリシアは昨日の光景を思い出した。
扉。
布。
怖がりながら見ていた子供。
布へ自分から進んだ顔のない存在。
向こう側の待機空間に残っていた名前のない光。
「昨日、子供はここにいた」
「うん」
「顔のない存在もいた」
「うん」
「名前のない光も待機空間にいた」
「うん」
「扉は開いた」
「うん」
「布も揺れた」
「うん」
「それは、今日光が離れても変わらない」
子供は静かに息を吸った。
「じゃあ、離れたら昨日がなくなるんじゃない」
「うん」
「関係も?」
「全部なくなるとは思わない」
「会ってないのに?」
「少し知ったでしょう」
会う前に。
名前を知る前に。
相手がそこにいると、少しだけ知った。
子供自身が以前言ったことだった。
「少し知ったの、残る?」
「うん」
「向こうも?」
「向こうが何を知ったかは、分からない」
「うん」
「でも、少なくとも子供の中には残ってる」
子供は長く黙った。
寂しい。
本当は戻ってほしくない。
もう一度来てほしい。
布の向こうまで。
できれば今度こそ、自分も少し近づきたい。
その気持ちは消えない。
それでも。
「じゃあ、戻ってもいい?」
「光が?」
「うん」
「子供は、どう思う?」
「嫌」
答えはすぐだった。
「寂しい」
「うん」
「来てほしい」
「うん」
「でも……」
声が震えた。
「戻ってもいい」
「うん」
「私が嫌でも」
「うん」
「光の速さは、私のじゃない」
「うん」
「光の方向も」
「うん」
「私が決めるんじゃない」
「うん」
涙が一粒、頬を伝った。
子供は自分の手で拭う。
「でも、嫌」
「それも消さなくていいよ」
「うん」
相手の自由を認めることは、自分が寂しくならないことではない。
戻っていいと思うことと、戻ってほしくないと思うことは同時にあっていい。
子供は少し離れた場所に座る顔のない存在へ目を向けた。
「この人も、今日は扉に行かなかった」
「うん」
「昨日は行った」
「うん」
「布、触った」
「うん」
「今日は触らない」
「うん」
「でも、昨日なくならない」
「うん」
子供は人影へ向かって、小さく言った。
「昨日、触ったね」
十一の光の一つが、ゆっくり明るくなる。
「今日は触らない?」
返事はない。
「それでも、昨日はある」
今度は別の光が少しだけ強くなった。
子供の口元が緩む。
「聞いたように見える」
「うん」
夕食には粥と少量の根菜、それから朝に残した甘い橙が出された。
「朝も橙」
「保存状態に問題ありませんでした」
治療教師が答える。
「夜も食べる」
「味は少し変わっているかもしれません」
「食べたら分かる?」
「はい」
子供は一口だけ食べた。
少し考える。
「朝と違う」
「嫌?」
「ううん。今も好き」
治療教師が「朝とどちらが好きですか」と尋ねかけ、途中で口を止めた。
子供がその顔を見て、少し笑う。
「比べなくてもいい?」
「はい」
「今も好き」
「分かりました」
もう一口。
そこで、自分から匙を置いた。
「いっぱい」
「では、ここまでにしましょう」
「うん」
夜。
眠る前に、子供はもう一度白い花の前へ立った。
朝よりさらに変わったようにも見える。
けれど、それが本当に朝から変化したのか、自分がそう感じているだけなのかは分からない。
小皿の上には、欠けた花弁がそのまま残っている。
「今日、触った」
「うん」
アリシアもそばへ来る。
「欠けた」
「うん」
「まだ悲しい」
「うん」
「触らなければよかったって、少し思う」
「うん」
「でも」
子供は自分の指先を見る。
「硬いって分かった」
「うん」
「前は柔らかかった」
「うん」
「今日、硬かった」
「うん」
「触らなかったら、分からなかった」
「そうだね」
「じゃあ、触ってよかった?」
アリシアは少し考えた。
「よかっただけじゃないと思う」
「悪かった?」
「悪かっただけでもないと思う」
「また両方」
「うん」
子供は困ったように笑う。
「悲しい。でも、知った」
「うん」
「欠けた。でも、触った」
「うん」
「触りたかった」
「うん」
「今は、もう触りたくない」
「今日は?」
「うん」
「明日は?」
子供は花を見つめた。
「分からない」
「それでいいよ」
「うん」
棚の下には、戻りたい気持ちを置いたことにしている木箱がある。
今夜も開けない。
それでも、子供はそこにあることを知っている。
「箱」
「うん」
「今日も開けなかった」
「うん」
「戻りたいの、まだ少しある」
「うん」
「向こうの光、戻ってる」
「うん」
「同じ?」
「子供と?」
「戻りたいって」
アリシアは首を傾けた。
「分からない」
「うん」
子供も自分で答える。
「同じじゃなくていい」
「うん」
「私は戻りたいが少しある。でも、ここにいる」
「うん」
「光は、戻ってる」
「うん」
「この人は、ここ」
「うん」
「違う」
「うん」
同じ言葉で説明できそうに見えても。
同じではない。
子供は自分の寝台へ入り、少し遅れて顔のない存在も隣の寝台へ戻った。
「アリシア」
「うん」
「明日の扉」
「うん」
「今は決めない」
「分かった」
「光、もっと戻るかも」
「うん」
「また来るかも」
「うん」
「西の違う光、外へ出るかも」
「うん」
「出ないかも」
「うん」
「白い花、もっと壊れるかも」
「うん」
「私、また触りたくなるかも」
「うん」
「触りたくないかも」
「うん」
子供は少し笑った。
「全部、分からない」
「そうだね」
「でも」
ゆっくり目を閉じる。
「今日あったことは、明日なくならない」
アリシアは少しだけ目を見開いた。
「うん」
「光が戻っても」
「うん」
「花がもっと壊れても」
「うん」
「私が明日、違うこと思っても」
「うん」
「今日の私は、今日いた」
「うん」
今度の返事には、アリシア自身の気持ちも少し混じった。
子供は安心したように息を吐く。
「おやすみ」
「おやすみ」
顔のない存在の胸で、十一の光のうち一つが静かに揺れた。
その夜。
東側地下空室へ戻る方向へ移動していた名前のない光は、ついに空室の入口まで辿り着いた。
だが、そのまま中へは入らなかった。
入口の少し手前。
以前なら観測者たちが「戻るか」「戻らないか」と息を詰めて見守ったであろう位置で、光は静かに停止した。
「空室入口前で停止を確認」
サーラが記録する。
隣の観測員が遠くの通路を見ながら尋ねた。
「生活観測区画からは?」
「昨日よりかなり離れています」
「第四の声との接続は?」
「低いままです」
「呼びかけは」
「続いています」
さらに遠く、西側貯水槽から第四の声が響いた。
「戻れ」
光は動かない。
「名を受けよ」
変化はない。
東側地下空室は目の前にある。
それでも入らない。
かといって生活観測区画へ向き直ることもしない。
昨日いた中間地点でもない。
昨日とはまた違う場所へ、自分だけが残されているように見える。
同じ夜。
北側排水路の別の光もまた、人間側が出口として用意した正面を使わず、外周結界に沿うように横へ少しずつ移動していた。
戻るものがいる。
進むものがいる。
止まるものがいる。
横へ進むものもいる。
生活観測区画では、触る者がいた。
触らない者もいた。
昨日触れたのに、今日は触れない者もいた。
どれも、その瞬間に観測された動きでしかない。
人間側が用意した出口だからといって、そこを通らなければならないわけではない。
昨日近づいたからといって、今日さらに近づかなければならないわけでもない。
生活観測区画の棚では、白い花が一枚だけ欠けている。
その隣。
小さな木皿には、欠けた花弁が置かれている。
触れる前の形には戻らない。
けれど、触れる前の花がなかったことになったわけではない。
初めて見たときに白かったことも。
柔らかかったことも。
匂いがあったことも。
乾かすと決めたことも。
触らなかった昨日も。
触れた今日も。
欠けたことも。
悲しくなったことも。
硬さを知ったことも。
どれか一つが、ほかを消すわけではない。
扉の向こうにいた光が少し離れたからといって、昨日、待機空間まで来た時間が消えるわけでもなかった。
顔のない存在が今日は布へ近づかなかったからといって、昨日、自分から歩き、指先を伸ばしたことまでなくなるわけではない。
誰かへ触れること。
誰かへ近づくこと。
それによって、前と同じではいられなくなることがある。
触れる前へ戻れないこともある。
だから怖い。
だから待つこともある。
距離を残すこともある。
けれど、変わることが怖いからという理由だけで、永遠に触れないことだけを正しい答えにする必要もない。
触れて。
変わって。
悲しくなって。
あとから、触らなければよかったと思うことがあっても。
触れたいと思った自分まで、その瞬間ごと間違いへ変えなくてもいい。
生活観測区画の棚の上で、乾いた白い花と欠けた小さな花弁は別々の場所へ置かれていた。
もう一つには戻らない。
それでも。
どちらも同じ花から続いてきた時間の中にあり、何も語らないまま、その夜を静かに残していた。




