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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第125話 戻れる場所の前まで来ても、戻ると決めなくていい



 翌朝、生活観測区画の窓を叩いていたのは雨ではなく、少し強い風だった。


 夜のあいだに厚くなっていた雲はまだ空の大半を覆っていたが、昨日よりもわずかに高いところへ移ったらしい。灰色の濃淡がゆっくり東から西へ流れ、ときおり雲の薄くなった場所から朝の光が差し込み、庭の石畳を淡く照らしては、また消えていく。


 風が通るたびに窓の外の枝が揺れ、重なった葉がざわざわと擦れ合った。遠くでは屋根の上に落ちていた小枝か何かが転がる乾いた音も聞こえたが、学院の朝を告げる鐘はまだ鳴っていない。


 アリシアは窓際の椅子へ座り、膝の上に置いていた報告書を静かに閉じた。


 昨夜、中間通路から東側地下空室へ戻る方向へ移動していた名前のない光は、とうとう空室の入口まで辿り着いている。


 ただし、中には入っていなかった。


 生活観測区画から見れば、昨日よりかなり遠い。東側地下空室は、その光が一度留まっていた場所でもあり、人間側から見れば「元いた場所へ戻ろうとしている」と考えたくなる位置だった。


 だが、もし本当に戻ることだけを望んでいるのであれば、入口は目の前にある。結界も塞いでいない。人間側からの呼びかけも、誘導もない。


 それでも光は、入口の手前で止まった。


 戻ったとは言えない。


 戻らなかったとも言い切れない。


 ただ、入口まで来て、そこで夜を越した。


 報告書には、それだけが記されていた。


 もう一つ、西側貯水槽では別の変化が続いている。


 北側排水路を進み、あとわずかで人間側の用意した外周出口へ届くところまで来ていた光が、その正面を使わず、外周結界に沿って横へ動き始めたのだ。


 そこには、人間が「道」として整えたものはない。


 学院側は危険を減らすため、北側、西側、上層にそれぞれ通路を用意した。そこを通れば安全に外側へ出られるよう、時間をかけて確認もしている。


 けれど、その光は用意された出口を使わなかった。


 正面へ進まず、横へ動いた。


 それを「自分で別の道を選んだ」とまで記録する者は、もういない。


 ただ、正面へ進まなかったことと、横へ移動した事実だけが別々に残されている。


 以前より記録の言葉は少なくなった。


 それなのにアリシアには、以前よりずっと多くのものが失われずに残っているように感じられた。


『また朝から難しい顔で読んでいるのね』


 床へ敷かれた無地の布の上で丸くなっていたノアが、目を閉じたまま尻尾の先だけを動かした。


「一回しか読んでない」


『昨日は三回だったものね』


「今日は一回」


『成長したわ』


「褒めてる?」


『半分くらいは』


「残り半分は?」


『呆れている』


 アリシアは少し唇を尖らせた。


「セレナみたい」


『あの子よりは優しくしているつもりだけれど』


「どこが?」


『少なくとも、あなたへ廊下の向こうから冷たい目は向けないわ』


「猫の目で?」


『やろうと思えばできるわよ』


 小声でそんなやり取りをしていると、寝台の方から布の擦れる音が聞こえた。


 アリシアとノアは、ほとんど同時に口を閉じる。


 子供が目を覚ました。


 まだ眠気の残る目でしばらく天井を見てから、ゆっくり顔を横へ向ける。


 隣の寝台には、今日も顔のない存在がいた。


 胸に浮かぶ十一の光も、数だけなら昨夜と変わっていない。ただ、そのうち一つが他より少し暗く見え、逆に外側にある二つはわずかに明るかった。


「いる」


 子供が、確かめるように小さく言った。


 すぐには何も起こらない。


 それでも子供は以前のように、焦ってもう一度声をかけたり、手を伸ばしたりはしなかった。自分の布団を胸元まで掛けたまま、数呼吸だけ待つ。


 やがて、十一の光の一つがゆっくり明るさを増した。


「朝」


 今度は知らせるために言う。


 二つの光が、ごく小さく揺れる。


 子供の口元が少しだけ緩んだ。


「聞いたように見える」


「おはよう」


 アリシアが声をかけると、子供もこちらへ顔を向けた。


「おはよう」


「眠れた?」


「うん」


「途中で起きた?」


「覚えてない」


「じゃあ、たぶん眠れてたのかな」


「たぶん」


 以前なら、「覚えていないなら記録を見れば分かる?」と尋ねたかもしれない。


 今日はそれ以上、眠っていた時間を確かめなかった。


 子供はゆっくり身体を起こし、寝台から足を下ろす前に、自分で足裏を確認する。赤みがないかを目で見て、指先で軽く押し、足首を曲げてから片足ずつ床へ下ろした。


「痛くない」


「今日も自分で分かった?」


「うん」


「あとでセレナにも見てもらう?」


「見るだけ」


「分かった」


 子供は立ち上がると、いつものように棚へ向かった。


 そこには白い花がある。


 昨日、初めて自分から触れた花。


 触れたことで乾いた花弁の端が小さく欠け、その欠片は、小瓶の隣へ置かれた無地の木皿に残してある。


 夜のあいだに誰も動かしていない。


 花の方も、それ以上大きく崩れた様子はなかった。


 ただ、乾燥は確実に進んでいた。花弁は昨日よりさらに内側へ巻き、淡い茶色だった部分の一部が、少しだけ濃くなっている。


 子供は棚の前へ立つと、まず花を見た。


 それから隣の小皿を見る。


「ある」


「うん」


 アリシアも少し離れた場所へ立つ。


「昨日の」


「うん」


「夜になっても、なくならなかった」


「うん」


「誰も捨ててない」


「うん」


 ほんのわずかに、子供の肩から力が抜けた。


 昨日、自分が触れたことで欠けてしまった花弁。


 悲しくて、触らなければよかったとも思った。


 それでも夜のあいだに片づけられたり、なかったことにされたりはしていない。


「白い花」


「うん」


「欠けてる」


「うん」


「今日も」


「うん」


「戻ってない」


「うん」


 子供の右手がわずかに持ち上がる。


 だが、今日はそのまま花へ伸びてはいかなかった。


「触る?」


 アリシアは勧めるでも止めるでもなく、ただ尋ねた。


 子供は花と自分の指を見比べる。


「今は、触らない」


「昨日、欠けたから?」


「それもある」


「ほかには?」


 少し時間を置いてから、子供が答えた。


「昨日、触ったから」


「触ったから、今日は触らない?」


「うん」


「どうして?」


 子供は小皿の欠けた花弁へ目を落とした。


「昨日は、触ったら硬いって分かった」


「うん」


「前は柔らかかった」


「うん」


「今日は」


 花を眺める。


「見ればいい」


「うん」


「触りたいも、少しある」


「うん」


「でも昨日みたいに、いっぱいじゃない」


「そっか」


 昨日触れたから、今日も同じように触れなければならないわけではない。


 昨日触って欠けたから、二度と触ってはいけないわけでもない。


 今日の子供は、昨日の決定をそのまま繰り返すのではなく、今日の自分の気持ちをもう一度見ている。


「まだ悲しい?」


 アリシアが尋ねる。


 子供は小皿を見た。


「少し」


「昨日より?」


「分からない」


「うん」


「でも、昨日より見られる」


「どういうこと?」


 子供は自分の胸へ手を置いた。


「昨日は、欠けたところ見たら、ここが痛かった」


「うん」


「今日は、まだ少しある。でも昨日ほどじゃない」


「うん」


「時間?」


「何が?」


「時間が進んだから?」


 アリシアは少し考えた。


「そういうこともあると思う」


「悲しいの、消える?」


「全部消えるかは分からない。でも、少し薄くなることはあるよ」


「忘れる?」


「少しずつ忘れることもある」


 子供は再び白い花を見る。


「忘れたら、昨日の花なくなる?」


「なくならないよ」


「私が覚えてなくても?」


「うん。昨日あったことそのものは変わらない」


「記録してなくても?」


「うん」


 子供は長く黙った。


 窓の外で風が吹き、枝の先が大きく揺れた。雲が少しだけ薄くなったらしく、棚の上へ淡い光が落ち、乾いた花弁の細い影が木皿の縁へ伸びる。


「昨日、私、触った」


「うん」


「いつか忘れても?」


「触ったよ」


「花、欠けた」


「うん」


「それもあった?」


「うん」


「じゃあ」


 子供は少しだけ笑った。


「覚えてることと、あったことは違う」


「そうだね」


 水の中では、記録されないものは消えるものとして扱われていた。


 名前を与えられないもの。


 中央へ集められないもの。


 残されていないもの。


 第四の声は、それらを空白と呼んだ。


 けれど白い花には、もう記録へ残していない匂いがある。


 以前の柔らかさがある。


 子供が最初に見た白さがある。


 完全には思い出せなくなったとしても、なかったことにはならない。


「箱」


 子供が棚の下へ視線を落とした。


 普段は見えない場所。


 戻りたい気持ちを置いたことにしている空の木箱が、今もそこにある。


「今日は開ける?」


「開けない」


「戻りたい気持ちは?」


 子供は胸へ手を当て、しばらく自分の内側を確かめるように黙った。


「少しある」


「うん」


「でも今日は」


 今度は扉を見る。


「向こうの光の方が気になる」


「うん」


「戻った?」


 アリシアは一度だけ膝の上に置いた報告書へ目を向けた。


「東側地下空室の入口まで戻った」


 子供の表情が変わる。


「中?」


「まだ入ってない」


「入口?」


「うん」


「ここからは遠い?」


「昨日より遠い」


「戻る場所、目の前?」


 アリシアは少し迷った。


「前にいた場所なら、目の前」


「でも入ってない」


「うん」


 子供はすぐには何も言わなかった。


 棚の下にある木箱を見る。


 次に扉。


 白い花。


 最後に自分の胸。


「戻りたいなら、入ればいい?」


「子供はそう思う?」


「分からない」


 小さく眉を寄せる。


「私も、水へ戻りたいって少し思う」


「うん」


「でも戻らない」


「うん」


「箱も開けない」


「うん」


「戻れる場所があっても、戻らない」


「うん」


「光も?」


「それは分からない」


 子供は少し考えたあと、自分で言葉を足した。


「同じかもしれない」


「うん」


「でも同じって決めない」


「うん」


 その返事を聞き、子供は小さく息を吐いた。


「じゃあ、入口にいてもいい」


「うん」


「入らなくても」


「うん」


「こっちへ来なくても」


 最後だけ、声が少し小さくなる。


 アリシアはその寂しさまで消そうとはしなかった。


「うん」


「嫌だけど」


「うん」


「それでも」


「うん」


 子供はしばらく閉じた扉を見つめていた。


 その後ろで、隣の寝台から布の擦れる音がした。


「起きる?」


 子供が振り返る。


 顔のない存在はゆっくり上体を起こした。


「おはよう」


 顔のない頭が、わずかに子供の方へ向く。


「今日は風」


 子供が窓を指した。


 ちょうどその瞬間、外の枝が大きく揺れ、葉の重なる音がざあっと室内へ届いた。


 顔のない存在の頭が、ゆっくり窓の方向へ向く。


「聞いた?」


 子供は尋ねたあと、自分から少し考えた。


「音の方、見たように見える」


「うん」


「風、見えない」


「うん」


「でも木が動く」


「うん」


「音もする」


「うん」


「なら、風はいる?」


 アリシアは少し笑う。


「あると思う」


「見えないのに?」


「うん」


「東側の光みたい」


「見えないけど、観測ではいるね」


「うん。でも」


 子供は首を傾げる。


「風と光は違う」


「うん」


「全部同じにしない」


「うん」


 顔のない存在も寝台から足を下ろした。


 今日も自分で立ち上がる。


 歩き方は昨日と大きく変わらないが、子供は前ほど毎朝その変化を探さなくなっている。何歩歩けたか、身体がどれだけ揺れたか、光が増えたか。それだけで今日という朝を決めなくなった。


 顔のない存在は五歩進んだところで止まり、自分から床へ座った。


 昨日より一歩少ない。


 子供は少しだけ目を丸くした。


「昨日より短い」


「歩いた距離?」


「うん」


「悪い?」


 アリシアが尋ねると、子供は人影を見たまま考えた。


「前なら、悪いって思ったかも」


「今は?」


「今日はここまでなんだと思う」


「うん」


「疲れたかは分からない」


「うん」


「戻ったでもない」


「うん」


「ただ、今日はここ」


「うん」


 子供も少し離れた場所へ座る。


 窓の外に鳥はいない。


 風だけが枝を揺らしている。


「鳥、いない」


「うん」


「待つ?」


「子供は?」


 食卓の方から、朝食の温かな匂いが漂い始めていた。


 子供は窓と食卓を見比べる。


「今日は待たない」


「どうして?」


「お腹空いた」


「うん」


「鳥、来るかもしれない」


「うん」


「でも今日は、ごはん」


「分かった」


 顔のない存在へ振り返る。


「私は食べる」


 それだけを知らせる。


 一緒に来てとも、早く起きてとも言わない。


 自分は自分の朝食へ向かう。


 今日の食卓には、粥と根菜、それから子供が「小さい白」と呼んでいる塩が並んでいた。


 果実の代わりに、小さな皿へ薄く焼かれた柔らかな穀物が一片だけ置かれている。


「何?」


 椅子へ座った子供が、すぐに気づいた。


 治療教師が微笑む。


「先に名前を知りたいですか?」


「見てから」


「どうぞ」


 表面には淡い焼き色がつき、縁は少し乾いている。子供は匂いを確かめ、それから指ではなく匙の先で少し持ち上げた。


「甘い?」


「ほんの少しです」


「甘い黄色より?」


「かなり弱いと思います」


「食べる」


 一口。


 これまで食べてきた粥よりも噛む回数が多くなる。


「硬い」


「嫌ですか?」


 治療教師が尋ねる。


 子供は少し考えてから、棚の白い花を見る。


「白い花より?」


 アリシアが思わず聞くと、子供が一瞬ぽかんとしたあと笑った。


「食べ物と花、比べる?」


「硬さだけ」


「花の方が、かさかさ」


「うん」


「これは噛める」


「うん」


「少し甘い」


「好き?」


「今は」


 もう一口食べる。


「嫌じゃない」


「好きではない?」


「まだ分からない」


 噛む。


 飲み込む。


 もう一度見る。


「名前、聞く」


 治療教師が正式な名前をゆっくり伝える。


 子供は一度聞いただけで、予想通りの顔をした。


「長い」


「いつものことですね」


 扉の外からセレナが少し笑う。


「私は……」


 子供は薄い穀物を見つめる。


「噛む薄い」


 アリシアが思わず口元を押さえた。


「何?」


「そのままだなって」


「分かりやすい」


「うん」


「噛む薄い」


「いいと思う」


「正式な名前、ある」


「うん」


「でも私はこれ」


「うん」


 朝食はゆっくり続いた。


 子供は「噛む薄い」を三口ほど食べ、途中で根菜へ戻り、最後に粥を一口だけ飲み込む。それから自分で匙を置いた。


「いっぱい」


「苦しくありませんか?」


 セレナが外から尋ねる。


「ない」


「気持ち悪さは?」


「ない」


「では、ここで終わりにしましょう」


「うん」


 食事が終わったあと、セレナは約束どおり区画内へ三歩だけ入り、子供の足を目で確認した。


「赤みはありません」


「朝、自分でも見た」


「一致しています」


「毎日同じ?」


「今のところ、痛みがない日が続いています。でも毎日確認します」


「どうして?」


「昨日痛くなかったからといって、今日も必ず同じとは決まっていないからです」


 子供は少し考えた。


「昨日近づいた光が、今日も近づくって決めないのと同じ?」


 セレナの目元が少し柔らかくなる。


「似ていますね」


「私も」


「はい」


「昨日、白い花触った。でも今日は触らない」


「はい」


「毎日違う」


「うん」


 今日はアリシアではなく、セレナがそう返した。


 子供は少し嬉しそうに笑った。


 その直後、生活観測区画の外で短い鐘が一度鳴った。


 内部連絡の合図。


 子供はすぐに扉を見る。


「光?」


 学院長の声が外から届いた。


「光についての報告だ。ただし急ぎではない」


「今、聞く」


 朝食は終わっている。


 体調確認も済んだ。


 アリシアは一度だけ子供の顔色を見る。


「疲れてない?」


「今は大丈夫」


「分かった」


 学院長は扉の外へ立ったまま話し始めた。


「東側地下空室の入口にいる光は、朝からほとんど位置を変えていない」


「中へ入ってない?」


「はい」


「こっちにも戻ってない?」


「はい」


「入口で止まってる」


「そうだ」


 子供は少し考え、胸へ手を置いた。


「第四の声は?」


「呼びかけを続けている」


「何て?」


「戻れ。名を受けよ。帰属せよ」


 子供の肩がわずかに硬くなった。


「でも入らない」


「うん」


「第四の声のところへも?」


「西側まで戻る動きはない」


「じゃあ、どこへ戻るの?」


「分からない」


「東側地下空室は?」


「一度、その光が留まっていた場所だ」


「戻る場所?」


「そう呼ぶかどうかは、まだ決めていない」


「でも前にいた」


「うん」


「入らない」


「うん」


 子供はしばらく黙った。


 それから自分の胸へ手を置いたまま、少し低い声で言う。


「私も前、水にいた」


「うん」


 アリシアが返す。


「戻りたいって、少し思う」


「うん」


「でも、もし今、水の前まで行っても」


 子供は目を伏せる。


「入らないかも」


「うん」


「怖いから?」


「それもあるかもしれない」


「でも戻りたい」


「うん」


 子供はゆっくり扉を見る。


「戻りたいって、戻ると同じじゃない」


「うん」


「戻れるって、戻ると同じでもない」


「そうだ」


 学院長が答える。


「戻る場所があるからって、そこへ戻らないといけないわけじゃない?」


「ない」


「東側地下空室、入口は開いてる?」


「開いている」


「光、入れる?」


「はい」


「でも入らない」


「はい」


 子供はほんの少し息を吐いた。


「なら、そのままでもいい」


「今は観測を続ける」


「入るまで待つ?」


「入ると決めて待つわけではない」


「じゃあ?」


「動けば動いたことを見る。動かなければ、そのままいることを見る」


「期限は?」


「危険がなければ、少なくとも今日中は人間側から位置を変える働きかけをしない」


「香りも?」


「なし」


「床も揺らさない?」


「揺らさない」


「扉も?」


「生活観測区画側は開けない」


 子供はうなずいた。


「それでいい」


「向こうの光へ来てほしい気持ちは?」


 アリシアが尋ねる。


 子供は一瞬黙った。


「ある」


「うん」


「でも昨日より、少し待てる」


「どうして?」


「戻る場所かもしれないところの前で止まってるから」


「うん」


「そこも今の光の場所かもしれない」


「うん」


 学院長が静かにその言葉を聞き、少し間を置いてから続けた。


「西側の光にも動きがある」


「北?」


「そうだ」


「外へ出た?」


「まだだ」


「作った出口は?」


「使わず、外周結界に沿って横へ移動している」


 子供が目を丸くする。


「道じゃないところ?」


「人間側が道として整えた場所ではない」


「危ない?」


「今いる範囲は安全確認済みだ」


「止める?」


「今は止めない」


「新しい道作る?」


「まだ作らない」


「どうして?」


「どこへ向かうか、まだ分からないからだ」


「でも、出口目の前だった」


「うん」


「使わなかった」


「そうだ」


 子供の表情に少しだけ可笑しそうな色が混じった。


「人間、頑張って作ったのに」


 学院長が一瞬だけ黙った。


「……そうだな」


「使わなかった」


「そうだ」


「嫌?」


 学院長は少し考える。


「少しは」


「学院長も?」


「特に土の神器継承者たちは、かなり時間を使った」


 すると廊下の奥から、低い声が飛んできた。


「聞こえてるぞ」


 子供が笑う。


「嫌?」


「少しな」


「でも止めない?」


「止めない」


「どうして?」


 土の神器継承者は少し間を置き、落ち着いた声で答えた。


「道を作ったのは、使わせるためじゃない。使えるようにするためだ」


 子供の笑いが消え、代わりに考える顔になる。


「使えると、使うは違う」


「そうだ」


「扉も?」


 生活観測区画の扉を見る。


「開けられる。でも今日は開けない」


「うん」


 アリシアが答える。


「東側地下空室も、入れる。でも入らない」


「今はね」


「北の光も、出口がある。でも使わない」


「うん」


 子供は少し呆れたように息を吐いた。


「全部、準備したのに使わない」


 その言葉に、遠くからカイルの声がした。


「そういうの普通にあるぞ。俺なんか新しい技を必死で覚えたのに、実戦で一回も使う機会なかったからな」


「聞いていません」


 セレナがすぐに切り捨てる。


「たとえ話だよ!」


「今必要ありません」


「最近、俺の扱い酷くない?」


「最近?」


 アリシアが思わず口を挟んだ。


 廊下が一瞬静かになる。


 子供が吹き出した。


「前から?」


「アリシアまで!?」


 廊下にいた何人かが、堪えきれず肩を揺らした。


 張りつめていた空気が少しだけほどける。


 その笑い声から少し遅れて、顔のない存在の十一の光も三つほど淡く揺れた。


「この人、笑ってる?」


「そこまでは分からない」


「でも声で光が動くことある」


「そう見えるね」


「東側の光は?」


「今の報告では変化なし」


「じゃあ、違う」


「うん」


「同じ時間でも、この人は動く。向こうは動かない」


「うん」


「分ける」


「うん」


 午前中、生活観測区画では接触の準備を一切しなかった。


 内扉は閉じたまま。


 昨日使用した薄い布も、壁際の低い台へ折り畳んで置いてあるだけだった。


 子供は今日は、その布へ近づかなかった。


 代わりに丸い木片を手に取り、顔のない存在へゆっくり転がす。


 ころころと進んだ木片が人影の足元で止まった。


 少し遅れて指が伸びる。


 軽く押す。


 木片が戻ってきた。


「遊ぶ」


 子供が嬉しそうに言う。


 二度目。


 返す。


 三度目も、顔のない存在から木片が戻ってくる。


 四度目。


 人影の指は木片へ触れた。


 しかし今度は、押さなかった。


 木片は指先の下で止まったままだ。


「返さない?」


 子供が尋ねる。


 反応はない。


「今は持ってたい?」


 それも分からない。


 子供は少し待つ。


 顔のない存在の手は動かない。


「取らない?」


 アリシアが尋ねた。


「うん」


「どうして?」


「この人、今触ってる」


「うん」


「私が遊びたいから取ったら、この人の時間を取るかも」


「うん」


「でも、ずっとだったら?」


「どうしたい?」


「待つ」


「どのくらい?」


 子供は窓へ目を向ける。


 今日は雲が多く、いつものように床の光を目印にはしづらい。


「分からない」


「なら?」


「私が、ほかのことしたくなるまで」


「それも時間?」


「うん」


 木片を諦めたわけではない。


 顔のない存在の物になったとも決めていない。


 ただ、相手が今触れているから、自分の遊びたい気持ちだけですぐ引き戻さない。


 子供は棚の前へ移動した。


 今日は触れないと決めた白い花。


 その横の小皿。


 欠けた花弁。


「木片、この人」


「うん」


「白い花、私」


「うん」


「向こうの光、入口」


「うん」


 子供はそこで少し考え、アリシアを見る。


「みんな、途中?」


「何の途中?」


「決める途中」


「そう見える?」


「うん」


「子供も?」


「私?」


「うん」


 胸へ手を置く。


「扉は、今日は開けないって決めた」


「うん」


「じゃあ、それは終わってる」


「今日の分はね」


「でも明日は?」


「まだ決めてない」


「じゃあ」


 子供が少し笑う。


「途中」


「うん」


 昼前になっても、東側地下空室の入口前にいる光は動かなかった。


 学院長が決めた通り、人間側から新しい刺激は一切送られていない。


 音もない。


 香りもない。


 床振動もない。


 照明の変更もない。


 観測者の交代さえ、なるべく光の正面へ人影を出さない位置で静かに行われていた。


「長いですね」


 若い観測員が、少し離れた場所で呟いた。


「何がです?」


 サーラは記録板へ視線を落としたまま尋ねる。


「止まっている時間です。目の前に空室があるのに」


「入ってほしいですか?」


 問い返され、若い観測員は少し困った。


「……入ってくれた方が安心はします」


「なぜ?」


「一度そこに留まっていましたし、危険反応もなかった。生活観測区画へ進んでいたときより、こちらも状態を把握しやすかったです」


「戻ってくれた方が、人間側は安心できる」


「はい」


「光は?」


 若い観測員が黙る。


「分かりません」


「なら、今分かるのはそれだけです」


 入口前の淡い光は揺れない。


「でも、通路の途中にいるより、部屋の方が落ち着くんじゃないかって」


「それも人間側の感覚です」


「……そうですね」


「通路が嫌いだとも、空室が好きだとも確認できていません」


 サーラは少しだけ息を吐き、記録板を閉じた。


「何も起こっていないように見える時間ほど、意味を付けたくなるんですよ」


「暇だから?」


「不安だからです」


 若い観測員が驚いた顔をする。


「不安?」


「動けば、前へ進んだ、戻った、止まったと書けます。でも動かないと、こちらの判断が正しいのか確かめられない」


「だから、どこかへ動いてほしくなる」


「はい。空室へ入れば『戻った』と呼びたくなる。生活観測区画へ向かえば『会いたい』と呼びたくなる。でも、止まっていると」


「何も分からない」


「それを、そのまま置いておくしかない」


 光が何を聞いているのかは分からない。


 そもそも会話を認識しているかどうかも不明だ。


 それでも人間側は距離を保ち、自分たちの不安を埋めるためだけに光を動かすことはしなかった。


「今日中は刺激なし」


 サーラが確認する。


「はい」


「介入条件は?」


「第四の声との接続急上昇。輪郭の急速な崩壊。周辺への危険な魔力反応。この三つです」


「現在は?」


「すべて未到達」


「なら、待ちましょう」


 同じ頃。


 西側貯水槽外周では、北側排水路から正面出口を使わず横へ移動した光の進路を巡って、別の緊張が生まれていた。


「このまま行けば、未確認の亀裂区画へ近づく」


 土の神器継承者が古い地下図と地中感知の結果を見比べながら言った。


 副学院長がその横から地図を覗く。


「危険か?」


「まだ距離はある。ただし正面出口ほど詳しく安全確認できていない」


「介入条件には?」


「現時点では達していない」


「道を作るか?」


 土の神器継承者はすぐには答えなかった。


 少し離れた位置に浮かぶ光を見る。


「今こちらが道を作れば、その方向を正解として示すことになるかもしれない」


「ならどうする」


「先の危険だけ確認する。光から見えない位置で」


「地中感知か」


「ああ」


 土の神器継承者は通路へ入らず、離れた石床へ片手を当てた。


 魔力が地面の奥へ薄く広がっていく。


 古い石組み。


 崩れかけた継ぎ目。


 空洞。


 湿り気。


 忘れられていた学院地下の形が、少しずつ感覚として返ってくる。


「亀裂が二つ」


「深さは?」


「一つは浅い。問題ない。もう一つは……地下水路に通じている可能性がある」


 水。


 その一言で、周囲の結界術師たちの表情が引き締まった。


「第四の声の接続経路になる可能性は?」


「否定できない」


「なら光を止めるか?」


「まだそこまで到達していない」


「先を塞ぐ?」


 副学院長は少し考えた。


「地下水路へ直接落ちる危険箇所だけ閉じる」


「道そのものは?」


「残す」


「横へ進み続けても?」


「安全な範囲までは観測する」


 学院側が作った出口を使わない。


 だから周囲を全部塞ぎ、結局その出口へ追い戻す。


 それでは「選べる道を作った」という最初の意味が消えてしまう。


 土の神器継承者は光から見えない位置で、地下水路へ直接通じる亀裂だけを埋めた。


「回り道は作らないんですか?」


 若い結界術師が尋ねる。


「作らない」


「危険区画へ本当に進んだら?」


「そのとき、もう一度判断する」


「少し後手に思えます」


「そうかもしれん」


 副学院長が答える。


「だが、先回りしすぎれば、こちらがその光の進路を完成させてしまう」


「難しいですね」


「だから全部を今決めない」


 午後。


 昼食を終えた子供は、朝に置いたままの木片を見に行った。


 顔のない存在の指は、まだ木片に触れている。


「まだ」


 子供が少し驚いた。


「ずっと?」


 区画外のミレイが答える。


「途中で手の位置は何度か少し変わりました。ただ、木片そのものはほぼ同じ位置です」


「私、触りたい」


「うん」


 アリシアが答える。


「取りたい」


「うん」


「でも、この人も触ってる」


「うん」


 子供は人影の前へ近づく。


 木片。


 その上へ軽く置かれた指。


「これ、私も使いたい」


 十一の光の一つが揺れる。


「取っていい?」


 返事はない。


 子供は少し待った。


 顔のない存在の指も動かない。


「分からない」


「うん」


「どうする?」


 アリシアが尋ねる。


 子供は考えてから、小さく息を吐いた。


「一つ、決めてほしい」


「私が?」


「うん」


「木片を取るかどうか?」


「うん」


 アリシアも木片を見る。


 顔のない存在が何を意図して木片へ触れているのかは分からない。子供がそれを使いたい気持ちは分かるが、相手の意思は確認できない。


「今は取らない」


「どうして?」


「顔のない存在がまだ触れているから。それと、子供は木片以外にもできることがあるから」


「この人がずっとだったら?」


「夕方まで同じなら、そのときもう一度考える」


「期限」


「うん」


「分かった」


 子供は少し不満そうだった。


 それでも、木片を奪うようには引かなかった。


「これ、私のだった?」


「最初に子供が選んだものではあるね」


「なら取っていい?」


「自分の物でも、誰かが今使っているなら、少し待つことはあるよ」


「貸したって言ってない」


「うん。顔のない存在も借りるとは言ってない」


「じゃあ、何?」


 アリシアは困ったように笑う。


「今、一緒に遊んでいた途中の物を、そのまま相手が触っている……くらいかな」


「難しい」


「うん」


「でも、私のでも」


「うん」


「今は取らない」


「うん」


 子供は無地の布へ戻って座った。


「何する?」


 アリシアが尋ねる。


「何もしない」


「木片なし?」


「うん」


「白い花も触らない」


「うん」


「箱も開けない」


「うん」


「扉も開けない」


「うん」


「じゃあ何もない」


「うん」


 少し考えたあと、子供はそのまま布の上へ仰向けに寝転がった。


 天井を見る。


「これも生活?」


「うん」


「役に立つ?」


「直接は、たぶん」


「じゃあやる」


 アリシアは思わず笑った。


 子供はしばらく何もせず天井を眺めた。


 顔のない存在は木片へ触れたまま。


 白い花も動かない。


 扉も閉じている。


 誰も話さない。


 窓の外では雲がゆっくり流れ、朝より弱くなった風が、ときどき枝を小さく揺らすだけだった。


 何も起こらない時間。


 何かを決めるためではない時間。


 ただ、その場所にいる時間。


 しばらくして、子供が突然口を開いた。


「アリシア」


「うん」


「戻る場所って、何?」


 予想していなかった問いに、アリシアは少し目を瞬く。


「どうして?」


「東側地下空室」


「うん」


「前にいたから、戻る場所みたいに言った」


「うん」


「でも」


 子供は天井を見たまま続ける。


「ここも?」


「生活観測区画?」


「うん。ここ、戻る場所?」


「子供にとって?」


「うん」


 アリシアはすぐには答えられなかった。


 子供が生活観測区画へ移ってきてから、まだそれほど長い時間は経っていない。


 けれど。


 ここで眠った。


 食べた。


 白い花を見た。


 木片で遊んだ。


 泣いた。


 笑った。


 怖くなった。


 扉を閉じてほしいと言った。


 戻りたい気持ちを木箱へ置いた。


 アリシアが別室へ出たときには、「行ってらっしゃい」と言い、戻ったときには「戻った」と確認した。


「ここへ戻りたいって思うことある?」


「どこから?」


「治療で別の部屋へ行ったあととか」


「ここ、戻りたい」


「なら」


 アリシアは少し笑った。


「子供にとっては、少しずつ戻る場所になってきてるのかも」


「前、なかった」


「うん」


「戻る場所って、作る?」


「作ろうと思って作ることもあると思う」


「うん」


「でも、あとから気づくこともあるんじゃないかな」


「ここ、いつ?」


「いつ戻る場所になったか?」


「うん」


「分からない」


「また」


「でもね」


 アリシアは布の上へ寝転がる子供を見る。


「朝起きて、白い花を見て、木片があって、顔のない存在がいて」


「うん」


「一度ここを出て、戻ったときに安心したり、『ただいま』って言ったり」


「うん」


「そういう時間が増えて」


「うん」


「あとから、ここは戻ってくる場所なんだって分かるのかもしれない」


「名前つけてない」


「うん」


「戻る場所にするって決めてない」


「うん」


「でも、なった?」


「かもしれない」


 子供はゆっくり目を閉じた。


「じゃあ、東側地下空室も」


「うん」


「光が戻る場所かもしれない」


「うん」


「ただ、前にいた部屋かもしれない」


「うん」


「入口にいるだけかもしれない」


「うん」


「分からない」


「うん」


 子供は目を閉じたまま少し笑った。


「でも、入らなくてもいい」


「うん」


「戻れる場所があっても」


「うん」


「今日は戻らないってできる」


「うん」


 その日の午後遅く。


 朝から東側地下空室入口でほとんど動かなかった光が、初めて位置を変えた。


「移動確認」


 観測員が声を抑える。


 サーラはすぐに光へ視線を移した。


「方向は?」


「空室側です」


 光はゆっくり入口へ近づく。


 距離にして、手の幅ほど。


「接続値」


「低いまま」


「第四の声は?」


「呼びかけ継続」


「人間側からの刺激」


「ありません」


 もう少し。


 光は空室との境目へ近づいた。


「入る?」


 若い観測員が思わず呟く。


「まだです」


 光は入口のすぐ外で止まった。


 人間側も動かない。


 少しの時間。


 もう少し。


 長い沈黙。


 やがて光は、空室へ入るのではなく、ほんのわずかに横へ動いた。


「入らない」


「今は、です」


 サーラが答える。


 光は入口の壁際へ位置をずらし、そこでまた止まった。


「記録します。東側地下空室入口前の光。午後、空室方向へ短距離移動。その後、入口外側で横方向へ移動。現在停止」


「戻ろうとして、やめた……は?」


「書きません」


「はい」


 若い観測員は少し苦笑した。


「本当に、入口の前って落ち着かないですね」


「あなたが?」


「見ている方がです」


「本人は?」


「分かりません」


「それでいいです」


 西側でも、北側排水路から外周結界沿いへ移動していた別の光が、午後遅くに再び止まった。


 人間側が塞いだ危険な亀裂までは、まだ距離がある。


 正面出口へ戻る動きもない。


 さらに横へ進む様子もない。


「停止を確認」


「第四の声への反応は?」


「ありません」


「接続値も変化なし」


 副学院長は一度だけ周囲を見た。


「なら、そのまま」


「何もしませんか?」


「今は」


 その言葉が。


 学院の地下で、以前より自然に使われるようになっていた。


 何もしない。


 けれど、見ていないわけではない。


 危険は確認している。


 必要なら介入できる人員もいる。


 戻れる道も残している。


 ただ、相手が動かないからといって、人間側の不安を消すために何かをさせない。


 夕方。


 東側地下空室入口の光が少しだけ動いたことが、生活観測区画にも伝えられた。


「中?」


 子供がすぐ尋ねる。


「まだ外」


「入口へ近づいた?」


「うん」


「でも横に行った」


「うん」


「入らなかった」


「うん」


 子供は閉じた扉を見る。


「戻りたい?」


「分からない」


「でも入口にいる」


「うん」


「私だったら」


 子供は胸へ手を置く。


「戻る場所の前まで行ったら、もっと怖いかも」


「どうして?」


「入ったら」


 しばらく考える。


「戻ったことになる気がする」


「うん」


「入らなかったら」


「うん」


「まだ決めてない」


「うん」


「光も?」


「それは分からない」


「でも」


 子供は少しだけ笑った。


「入口で止まるの、分かる気がする」


「子供だったら?」


「うん」


「水の前に行ったとき?」


 その言葉で、子供の表情が少し硬くなる。


 アリシアはすぐに付け足した。


「今、本当に行かなくていいよ」


「うん」


「考えるだけでも嫌なら止める」


 子供は少し黙り、やがて小さく首を横へ振った。


「少しなら」


「うん」


「水の前まで行って」


「うん」


「戻りたい気持ちがあって」


「うん」


「でも入るのは怖い」


「うん」


「だから、入口にいる」


「うん」


「戻るでも、戻らないでもない」


「うん」


「それ、できる?」


「安全なら」


「学院、止めない?」


「今すぐ本当に西側貯水槽へ行くって言ったら止めるけどね」


「面倒」


「うん」


「でも」


 子供は少し笑う。


「気持ちは、入口にいていい?」


 アリシアは迷わなかった。


「いいよ」


「戻りたいけど、戻らないの途中?」


「うん」


「決めなくても?」


「うん」


 子供は棚の下を見る。


 見えない木箱。


「箱、入口みたい」


「どういうこと?」


「戻りたいの、そこに置いた」


「うん」


「でも私、開けない」


「うん」


「戻らないって決めて捨てたわけじゃない」


「うん」


「戻るって決めたでもない」


「うん」


「途中」


「うん」


 その言葉を口にしたあと、子供の表情が少しだけ穏やかになる。


 そのときだった。


 顔のない存在が、朝からずっと木片へ置いていた指をゆっくり離した。


 子供がすぐに気づく。


「離した」


「うん」


「木片」


「うん」


「取る?」


 アリシアが尋ねる。


 子供は少し考えてから立ち上がった。


「今は取る」


 顔のない存在のそばへ近づく。


 反応はない。


「私、使うね」


 木片を自分で拾う。


「朝、取りたかった」


「うん」


「待った」


「うん」


「今、取った」


「うん」


「朝からずっと欲しかった?」


 アリシアが尋ねると、子供は少し考えて首を横へ振った。


「途中、忘れてた」


「うん」


「でも今、また欲しい」


「うん」


「じゃあ」


 子供は笑った。


「待ったら、欲しいが絶対消えるわけじゃない」


「うん」


「消えることもある?」


「あると思う」


「面倒」


「うん」


「でも、今は遊ぶ」


 子供は木片を床へ転がした。


 今日は顔のない存在へではなく、壁へ向けて。


 ころころと進んだ木片が石壁へ軽く当たり、こつ、と小さな音を立てて止まる。


 子供は自分で取りに行く。


 戻る。


 もう一度転がす。


 一人で遊んでいる。


 けれど、一人きりではない。


 顔のない存在は、少し離れた場所にそのまま座っていた。


 夕食の時間になると、子供は朝に食べた「噛む薄い」をもう少し欲しいと言った。


「朝の残り?」


「保存状態は確認しています」


 治療教師が答える。


「味、変わる?」


「少し変わっているかもしれません」


「食べる」


 一口噛む。


 子供は少し眉を寄せた。


「朝より、柔らかい」


「湿気を少し吸ったのかもしれません」


「硬い名前じゃない」


「噛む薄い、でしょう?」


「うん」


 アリシアが笑う。


「柔らかくなっても、噛む薄い?」


 子供は食べ物を見た。


「まだ噛める」


「うん」


「だから、噛む薄い」


「もっと柔らかくなったら?」


「そのとき考える」


「分かった」


 白い花。


 甘い黄色。


 甘い橙。


 噛む薄い。


 子供にとって、名前はもう「今の姿を動かなくするもの」ではなくなってきている。


 変わっても。


 昨日と違っても。


 名前を使い続けることもできる。


 変えたくなったら変えてもいい。


 夕食を終えると、子供はまた白い花の前へ立った。


 今日は朝に決めた通り、最後まで触れなかった。


 欠けた花弁も、小皿にそのまま残っている。


「今日、触らなかった」


「うん」


「昨日は触った」


「うん」


「どっちが正しい?」


 アリシアは問いを返す。


「子供はどう思う?」


 少し考える。


「昨日は、触る日だった」


「うん」


「今日は、触らない日」


「うん」


「正しいじゃなくて?」


「うん」


「ただ違う」


「うん」


 子供は満足そうに小さくうなずいた。


「東側の光も」


「うん」


「昨日は待機空間にいた」


「うん」


「今日は入口」


「うん」


「どっちが正しいじゃない」


「うん」


「今日の場所」


「うん」


 夜。


 生活観測区画が静かになる。


 顔のない存在は、その日一度も扉まで歩いていかなかった。


 何度か顔のない頭を扉へ向けることはあった。


 それだけ。


 子供も内扉の前へは行かなかった。


 昨日使った薄い布は、壁際へ折り畳まれたまま残っている。


 使わない。


 でも、捨てない。


 必要になるかもしれない。


 もう使わないかもしれない。


 それも、今夜決める必要はない。


「アリシア」


「うん」


 寝台へ入った子供が天井を見たまま言う。


「明日、扉開ける?」


「子供は?」


「分からない」


「うん」


「向こうの光、空室に入るかも」


「うん」


「入口にいるかも」


「うん」


「またこっち来るかも」


「うん」


「もっと戻るかも」


「うん」


「北の光も、出口使わないかも」


「うん」


「別のところ行くかも」


「うん」


「人間が作った道」


「うん」


「使ってほしい?」


 アリシアは少し考えた。


「安全だから、使ってくれたら安心はする」


「でも使わない」


「うん」


「嫌?」


「少しは」


「学院長と同じ」


「たぶんね」


 子供は少し笑った。


「でも止めない?」


「危険じゃなければ」


「うん」


 少しだけ沈黙が流れる。


「私も」


「何?」


「向こうの光、こっち来てほしい」


「うん」


「でも来ない」


「うん」


「嫌」


「うん」


「寂しい」


「うん」


「でも止めない」


「うん」


「似てる」


「うん」


 子供は布団の中で少し身体を丸めた。


 隣では顔のない存在も、自分の寝台へ横になっている。


「戻る場所」


「うん」


「ここ」


「うん」


「私の?」


「子供は、そう思う?」


「少し」


「うん」


「東側地下空室」


「うん」


「光の戻る場所?」


「それは分からない」


「うん」


「でも」


 子供は目を閉じる。


「戻れる場所があるって、少し安心する」


「うん」


「戻らなくても?」


「うん」


「戻りたいって思っても?」


「うん」


「入口で止まっても?」


「うん」


 子供は小さく息を吐いた。


「なら、箱もそのまま」


「うん」


「戻りたい気持ち、今夜もそこ」


「うん」


「でも、私はここ」


「うん」


「おやすみ」


「おやすみ」


 顔のない存在の胸で、十一の光の一つがゆっくり揺れた。


 その夜。


 東側地下空室の入口前にいた名前のない光は、長いあいだ位置を変えなかった。


 空室の入口は開いている。


 入ろうと思えば入れる。


 人間側は塞いでいない。


 香りも置かない。


 声もかけない。


 床も揺らさない。


 そこに、以前その光が留まった空間があるだけだった。


 夜半を過ぎた頃。


 光が、ゆっくり動いた。


「移動」


 観測員が声を抑える。


 サーラが視線を上げる。


「方向は?」


「空室側です」


 光が入口へ近づく。


 境界へ触れる。


 そして、ほんの一部が内側へ入った。


「入ります」


「呼びかけないでください」


「はい」


 さらに少し。


 光は空室へ進む。


 やがて全体の半分ほどが室内側へ入り、そこで止まった。


 残り半分は通路側。


 中と外。


 どちらにも完全には属さない位置。


「半分です」


「位置だけ記録してください」


「はい」


 観測者たちは静かに待つ。


 一分。


 さらに長い時間。


 それでも光は残り半分を中へ入れなかった。


 外へ戻りもしない。


「全部は入らないですね」


 若い観測員が小さく言う。


「今は」


 サーラが答える。


「戻るんでしょうか」


「分かりません」


「進む?」


「それも分かりません」


 若い観測員は、半分だけ空室へ入った光を見つめた。


「半分でも……いいんですね」


 サーラも光を見る。


「いいかどうかを決めるのは、たぶん私たちではありません」


「はい」


 そのまま光は境界へ留まった。


 戻ったと呼ぶには、まだ半分が外にある。


 戻らなかったと呼ぶには、半分はすでに中へ入っている。


 どちらか一つへ決めるための位置ではなかった。


 同じ頃、西側貯水槽では、外周結界沿いへ横へ進んだ光が、安全確認済みの範囲の端より少し手前で止まっていた。


 正面の出口へ戻らない。


 さらに横へも進まない。


 文字環の方向へも戻らない。


 ただ、そこで止まっている。


 人間側も、その夜は新しい道を作らなかった。


 生活観測区画では、子供が眠っている。


 棚には乾いた白い花。


 その隣には欠けた花弁。


 棚の下には空の木箱。


 壁際には昨日使った薄い布。


 床のそばには丸い木片。


 どれも今夜は使われていない。


 それでも、そこにある。


 戻る場所があること。


 戻る道があること。


 戻りたい気持ちが残っていること。


 そのどれもが、今すぐ戻ると決めることとは違っていた。


 戻れるから戻る。


 入口まで来たから入る。


 道があるから使う。


 誰かが待っているから会いに行く。


 以前そこにいたから、そこを自分の場所と呼ぶ。


 そうしなければならない理由は、どこにもない。


 東側地下空室の入口では、名前のない光が半分だけ境界を越えたまま動かずにいる。


 空室側へ入った部分も消えない。


 通路側へ残った部分も戻らない。


 どちらかへ引かれているようにも見えず、かといって完全に静止した物体のようでもなかった。淡い輪郭は呼吸の代わりのように、ごく弱く明滅を繰り返している。


「変化なし」


 観測員が小さな声で告げる。


「接続値は?」


「低値のままです。第四の声からの呼びかけにも、大きな反応はありません」


「輪郭は?」


「安定しています」


 サーラは記録板へ短く書き込んだ。


 東側地下空室入口。


 境界上。


 約半分が室内側。


 残りは通路側。


 停止継続。


 それ以上は書かない。


 迷っている。


 戻ろうとしている。


 決めかねている。


 中へ入りたい。


 外へ残りたい。


 どれも、人間側から見れば当てはまりそうな言葉だった。


 だからこそ、書かなかった。


「交代しますか?」


 若い観測員が尋ねる。


「あなた、何時間目です?」


「三時間ほどです」


「なら交代してください」


「でも、動くかもしれません」


「交代したあとに動くかもしれませんね」


「……見逃したくないです」


 サーラは少しだけ彼を見る。


「光は、あなたに見てもらうために動くわけではありませんよ」


 若い観測員が黙った。


「私たちが見ていない瞬間にも、あれはそこにいます」


「はい」


「記録できなかった一瞬があっても、その一瞬まで存在しなかったことにはならない」


「……生活観測区画の子供が言っていたことみたいですね」


「白い花の話ですか?」


「覚えていなくても、あったことはなくならないって」


 サーラは少しだけ目を細めた。


「そうですね」


 観測すること。


 記録すること。


 残すこと。


 それらは大切だ。


 だが。


 記録されなければ存在しない。


 観測されなければ意味がない。


 名前がつかなければ残らない。


 そう考え始めれば、第四の声が作っていた世界と、ほんの少しだけ似てしまう。


「交代してきます」


「はい」


「戻ってきたとき、全部中に入ってたら少し悔しいですけど」


「それは我慢してください」


「はい」


 若い観測員は苦笑し、静かにその場を離れた。


 光は追わない。


 呼び止めない。


 ただ半分だけ空室へ入り、半分を通路へ残したまま、夜の地下に浮かび続けていた。


 そして生活観測区画では。


 子供が寝返りを打った。


 目は覚まさない。


 隣の寝台では顔のない存在の十一の光が、ごく弱く揺れている。


 アリシアは少し離れた椅子へ座り、その様子を見ていた。


『まだ寝ないの?』


 ノアの声が頭の中へ届く。


「もう少し」


『何を待っているの』


「別に」


『なら寝なさい』


「分かってる」


『分かっている者の返事ではないわね』


「ノア、お母さんみたい」


『やめなさい。誰がこんな手のかかる娘を産んだのよ』


「娘って言った」


『言葉の綾よ』


 アリシアは声を出さずに少し笑った。


 それから、棚を見る。


 白い花。


 欠けた花弁。


 見えない位置に置かれた木箱。


 薄い布。


 丸い木片。


 どれも今日、違う扱いをされた。


 昨日使ったから今日も使うわけではない。


 昨日触れたから今日も触れるわけではない。


 朝に欲しかったから、夕方までずっと同じ強さで欲しいわけでもない。


 戻りたいと思ったから、戻るわけでもない。


「ノア」


『何?』


「戻れる場所って、ある方がいいのかな」


『随分曖昧な質問ね』


「子供が言ってたから」


『聞いていたわ』


「戻らなくても、戻れる場所があると安心するって」


『そういうことはあるでしょうね』


「でも、戻る場所があると」


 アリシアは少し考える。


「戻らなきゃいけない気もする」


『あなたは?』


「え?」


『どこかへ戻れると言われたら、必ず戻るの?』


「……戻らないかも」


『なら答えは出ているじゃない』


「でも」


『戻れる場所があることと、そこに縛られることは別よ』


 ノアは床の上でゆっくり身体を伸ばした。


『扉があるから通らなければならないわけではない。椅子があるから座らなければならないわけでもない。寝台があるから一日中寝ていなければならないわけでもない』


「最後、ノアのこと?」


『失礼ね。猫は寝るのも仕事よ』


「便利」


『あなたも覚えたら?』


「寝るのが仕事?」


『休むことを、何もしないことだと思わない癖を』


 アリシアは返事をしなかった。


 少しだけ痛いところを突かれた。


『それに』


「うん」


『戻れる場所は、一つでなくてもいいでしょう』


 アリシアが瞬く。


「一つじゃなくても?」


『どうして一つだと思ったの?』


「……分からない」


『子供にとって、水が以前いた場所で、この区画が今戻ってきたい場所になりつつあるなら、二つあってもおかしくない』


「でも、水は」


『危険ね』


「うん」


『だから今すぐ身体を戻す必要はない。でも、心の中で戻りたいと思うことまで禁止する理由はない』


「うん」


『東側の光だって同じかもしれないし、まったく違うかもしれない』


「最後に逃げた」


『断定しないと言いなさい』


「はい」


 ノアは満足そうに目を閉じた。


 アリシアも、もう一度子供を見る。


 眠っている。


 今日は扉を開けなかった。


 白い花にも触れなかった。


 それでも昨日より後退したわけではない。


 何もしなかった時間もある。


 それでも一日はちゃんと進んだ。


 アリシアはようやく椅子から立った。


「私も寝る」


『賢明ね』


「明日、光どうなるかな」


『知らないわ』


「全部入るかな」


『知らない』


「また出るかも」


『ええ』


「こっちへ来るかも」


『ええ』


「ずっと半分かも」


『そうね』


 アリシアは自分の寝台へ向かいながら、小さく息を吐いた。


「分からないことばっかり」


『今さら?』


「前より増えた気がする」


『違うわ』


「何が?」


『前は分からないものへ、急いで答えを貼り付けていただけでしょう』


 足が止まる。


 アリシアは振り返った。


 ノアはもう目を閉じている。


「……毒舌黒猫」


『褒め言葉として受け取っておくわ』


「褒めてない」


『おやすみ』


「逃げた」


『寝るの』


 アリシアは少し笑った。


「おやすみ」


 照明が落とされる。


 完全な暗闇にはならない。


 子供が夜中に目を覚ましたとき、周囲を確認できる程度の淡い灯りだけが残る。


 その光の中。


 棚の白い花は、乾いた姿のままそこにある。


 欠けた部分も戻らない。


 けれど。


 欠けたから捨てられるわけではない。


 変わったから別の物になるわけでもない。


 昨日触れたことも。


 今日触れなかったことも。


 どちらも白い花と子供の間に残っている。


 そして。


 戻りたい気持ちを置いた木箱も。


 今夜は開かれない。


 開かれないからといって、中に置いたことにした気持ちが消えたわけではなかった。


 戻りたい。


 でも戻らない。


 戻れる。


 でも戻ると決めない。


 入口まで行く。


 でも越えない。


 半分だけ越える。


 でも残り半分まで進まない。


 そういう途中の形があってもいい。


 少なくとも今夜。


 学院の誰も、それを完成させようとはしなかった。


 東側地下空室。


 半分だけ境界を越えた光は、夜明けまでその位置に留まり続けた。


 西側貯水槽。


 人間側が用意した出口を使わなかった光も、外周結界沿いの途中で動かなかった。


 生活観測区画。


 子供も、顔のない存在も眠っている。


 誰も目的地へ辿り着いていない。


 誰も答えを出していない。


 それでも。


 それぞれの場所は残されていた。


 戻りたくなったときに戻れる場所。


 進みたくなったときに進める余白。


 止まりたくなったときに、止まっていられる時間。


 そして。


 戻れる場所の前まで来たとしても。


 そこで立ち止まり。


 まだ戻らないと決める自由も。


 戻るかどうかさえ決めずにいる自由も。


 人間側は奪わなかった。


 夜明け前。


 東側地下空室の観測員が、最後の記録を一行だけ加えた。


 ――境界上で停止継続。位置変化なし。


 戻った、とは書かなかった。


 戻らなかった、とも書かなかった。


 それで十分だった。


 光はまだ。


 自分の場所を。


 自分の時間で選んでいる途中なのだから。

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