第126話 半分だけ進んだなら、残り半分まで急いで埋めなくていい
朝の鐘が鳴る少し前、生活観測区画の窓には細かな雨粒がつき始めていた。
強い雨ではない。灰色の雲から落ちてきた細い雨が、窓硝子へ一つ、また一つと小さな跡を作っている。庭の石畳もまだ完全には濡れておらず、乾いた灰色と雨を吸った濃い灰色が、まだらに混じっていた。
風は昨日より弱かった。葉の擦れる音はほとんど聞こえず、その代わりに窓へ触れる雨粒の小さな音が、静かな部屋の中へ不規則な間隔で届いている。
アリシアは今朝も窓際の椅子へ座っていた。
ただし、報告書は膝の上ではなく、少し離れた机の端へ伏せて置いてある。もう読んだ。一度だけだ。
東側地下空室の入口にいた名前のない光は、昨夜遅く、空室へ半分ほど入った。
そこから動いていない。
見た目では、半分が室内側にあり、残り半分が通路側へ残っている。人間側が設定している結界そのものには触れておらず、危険反応もなく、第四の声との接続も低いままだった。
だから、誰も動かしていない。
空室側へ押し込まず、通路側へ引き戻さず、結界を狭めることもしない。照明も変えず、声もかけない。ただ、その場所に留まれる状態だけを保っている。
一方、西側貯水槽の外周では、北側排水路の正面出口を使わず、結界沿いへ横へ進んでいた別の光も、夜のあいだは止まったままだった。
ただ、その先には問題があった。
人間側がまだ十分に安全確認できていない区画。そのさらに奥で、地下水路から弱い魔力反応が見つかっている。
第四の声と同質かどうかは、まだ分からない。
今すぐ危険ではない。
それでも今日は、西側についても慎重に見なければならない。
『読まないの?』
床の無地の布の上で身体を丸めていたノアが、片目だけを開いた。
「読んだ」
『一回?』
「一回」
『本当に?』
「本当」
ノアは疑わしそうにアリシアを見上げた。
『昨日、報告書の文字が薄くなるほど見つめていたあなたとは思えないわね』
「薄くなってない」
『比喩よ』
「分かってる」
『なら少しは成長したのね』
アリシアはわずかに眉を寄せる。
「褒めてる?」
『今日は七割』
「増えた」
『残り三割は警戒』
「何を?」
『午後になって二回目を読むあなたを』
「読まないかもしれない」
その返事を聞いて、ノアの尾が一度だけ床を叩いた。
『その言い方を覚えたのは誰の影響かしらね』
「誰だろうね」
アリシアが何か続けようとしたところで、寝台から小さく布の擦れる音がした。
二人とも自然に声を止める。
子供が目を覚ました。
しばらく天井を見てから、ゆっくり隣の寝台へ顔を向ける。
顔のない存在はまだ横になっていた。胸には十一の光が浮かび、一つも消えていない。
昨日より明るいか、暗いか。
子供は少しだけ見ていたものの、今日はそこを比べようとはしなかった。
「いる」
いつものように、小さく確認する。
十一の光のうち一つが、ゆっくりと強くなった。
「朝」
今度は二つが淡く揺れた。
子供は少し笑う。
「今日も、聞いたように見える」
「おはよう」
アリシアが声をかける。
「おはよう」
「雨だよ」
子供はすぐに窓へ顔を向けた。
「音」
「うん」
ぽつ。
少し間を置いて、また二つほど雨粒が硝子を叩く。
「昨日、風」
「うん」
「今日は雨」
「うん」
「空、違う」
「うん」
「朝も違う」
「そうだね」
子供は布団を持ち上げて身体を起こし、寝台の端へ座った。
いつものように足裏を見る。赤みや傷がないかを確かめ、指先で軽く押す。
「痛くない」
「今日も?」
「うん」
「自分で分かった?」
「うん」
「あとでセレナにも?」
「見るだけ」
「分かった」
子供は片足ずつ床へ下ろし、少し立ってみる。
「大丈夫」
その声には、誰かへ報告するというより、自分で自分の身体を確かめる響きがあった。
それから棚へ向かう。
白い花は、昨日よりさらに乾いていた。
白は中心の奥にほんの少しだけ残り、ほとんどの花弁は薄い茶色へ変わっている。一部は、乾いた木の皮を思わせる色になり始めていた。
小皿には、以前欠けた花弁が残っている。
その欠片も少し崩れ、昨日より細かなものが増えていた。
「あ」
子供が気づく。
「触ってないのに」
「うん」
アリシアも棚へ近づいた。
「小さくなってる」
「うん」
「誰か触った?」
「昨夜の確認では、誰も触ってない」
子供は小皿をじっと見る。
「じゃあ……勝手に?」
「乾いて、崩れたのかもしれない」
「触ってなくても」
「うん」
「変わる」
「うん」
子供は少し困ったような顔をした。
「昨日、触らなかった」
「うん」
「でも変わった」
「うん」
「触らなければ、変わらないじゃない」
「そうだね」
子供は小瓶の中の花へ目を移した。
「じゃあ、触らないのも、止めるじゃない」
「うん」
「変わるの、止められない?」
アリシアはすぐには答えなかった。
「全部は、たぶん止められない」
「白い花」
「うん」
「私が触っても、触らなくても」
「うん」
「変わる」
「うん」
子供は少し黙った。
昨日までなら、その事実を強く怖がったかもしれない。
今日は、小皿の欠片をしばらく見たあと、わずかに肩を落としただけだった。それでも、その場から逃げるように離れはしない。
「嫌」
「うん」
「でも」
花へ目を戻す。
「まだある」
「うん」
「欠けたのも」
「うん」
「昨日より小さいけど」
「うん」
「ある」
「うん」
子供は指を伸ばさず、ただ少し近くから花を見る。
「今日は触る?」
アリシアが尋ねると、子供は少し考えた。
「分からない」
「今決める?」
「まだ」
「うん」
「朝ごはんのあと、変わるかも」
「それなら、今は決めなくていいね」
「うん」
そのあと、子供は棚の下へ視線を落とした。
戻りたい気持ちを置いたことにしている空の木箱は、今日も立ったままでは見えない。
「箱」
「あるよ」
「開けない」
「うん」
「戻りたい気持ちは?」
子供は少し考え、自分の胸へ手を置いた。
「少し」
「うん」
「でも今日は」
扉を見る。
「向こうの光」
「うん」
「昨日、入口に半分?」
アリシアは少し驚いた。
「もう知ってる?」
「夜、聞いてない」
「うん」
「でも、今アリシアの顔」
「私の顔?」
「何かある顔」
『分かりやすいのよ』
ノアが小さく言う。
「ノア、うるさい」
「何て?」
「内緒」
「また」
子供が少し笑った。
アリシアはごまかすのをやめ、改めて尋ねる。
「今、東側の光の話を聞きたい?」
「危ない?」
「今のところ危険じゃない」
「なら……」
子供は少し考えた。
「朝ごはんの前に聞く?」
「聞きたい?」
「少し」
「朝ごはんも?」
「お腹空いた」
「どっちを先にする?」
子供は一度扉を見てから、準備途中の食卓を見る。
「短い?」
「一つだけなら」
「じゃあ、光」
「分かった」
アリシアは昨夜の出来事を、必要以上に大きく見せないよう簡潔に伝えた。
「東側地下空室の入口にいた光が、夜に少し中へ進んだ」
「入った?」
「半分くらい」
子供の目が少し大きくなる。
「半分?」
「うん。見た目では半分くらいが空室側で、残りが通路側」
「止まった?」
「そのまま朝まで」
「人、何かした?」
「何もしてない」
「声?」
「なし」
「床?」
「揺らしてない」
「香り?」
「なし」
「第四の声?」
「呼んでるけど、接続は低いまま」
子供は長く扉を見た。
「戻った?」
「どう思う?」
すぐには答えない。
「半分なら……半分戻った?」
「そう言いたい?」
「分からない」
「うん」
「でも」
子供は棚の下へ視線を移す。
「箱」
「うん」
「戻りたい気持ち、箱にある」
「うん」
「私もここにいる」
「うん」
「半分?」
「子供が?」
「戻りたいが箱。私はここ」
「うん」
アリシアは少し考える。
「完全に同じではないけど、似ているところはあるかもね」
「光も、半分中。半分外」
「うん」
「どっち?」
「今は、どっちにもいる」
「それでいい?」
「危険がなければ、人間側は動かさない予定だよ」
「全部入れない?」
「うん」
「全部出さない?」
「うん」
子供は少し安心したように息を吐いた。
「なら、今はそれ」
「うん」
「半分のまま」
「うん」
そのとき、顔のない存在が寝台の上でゆっくり身体を起こした。
「おはよう」
子供が振り返る。
人影の頭が少し動く。
「雨」
窓を指す。
十一の光が一つだけ強くなった。
雨粒が硝子へ当たり、顔のない存在の頭がゆっくりそちらへ向く。
「昨日、風。今日は雨」
反応の意味までは分からない。
「同じ窓」
十一の光が小さく揺れた。
「でも違う」
子供は少し笑った。
顔のない存在も寝台から足を下ろし、自分で立ち上がる。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
そこで止まり、自分から床へ腰を下ろした。
昨日よりさらに一歩少ない。
子供は最初だけ少し眉を上げたが、すぐに人影を見る。
「今日は四歩」
「昨日より少ないね」
アリシアがあえて口にする。
「うん」
「どう思う?」
「今日は四歩」
「悪い?」
「分からない」
「うん」
「この人、座る?」
顔のない存在はすでに床へ腰を下ろしている。
「座った」
「うん」
「じゃあ、今日はここ」
「うん」
昨日までの子供なら、歩ける距離が増えたか減ったかを、すぐ何かの意味へ結びつけたかもしれない。
今日は違う。
四歩。
それだけだった。
窓まで届かなくても、昨日より短くても、顔のない存在はそこにいる。
子供は自分だけ窓の近くへ向かった。
雨。
鳥はいない。
空は暗い。
「今日は見えない」
「何が?」
「鳥」
「うん」
「でも雨ある」
「うん」
「雨、いっぱい」
「うん」
「数えない」
「うん」
子供は少し笑ってから食卓へ向かった。
朝食には、粥と根菜、小さい白。それから昨日の「噛む薄い」とは違う、柔らかな白い塊が小皿へ一つだけ置かれていた。
「何?」
座るなり尋ねる。
治療教師は、先に説明しすぎないよう穏やかに微笑んだ。
「触ってみますか?」
「食べ物?」
「はい」
「触っていい?」
「手を清潔にしてからなら」
子供は手を拭いてもらい、指先で少しだけ触れる。
「柔らかい」
「うん」
「白い花と違う」
「かなり違うね」
アリシアが答える。
「押したら?」
「食べ物だから、少し形は変わります」
「戻る?」
「完全には戻らないかもしれません」
子供は恐る恐る少し押した。
白い表面へ、小さなくぼみができる。
「あ」
「変わったね」
「私が触った」
「うん」
子供は昨日の白い花を思い出したのか、少しだけ手を止めた。
「壊れた?」
アリシアが尋ね返す。
「食べられなくなった?」
子供は白い塊を見る。
「なってない」
「じゃあ?」
「形、変わった」
「うん」
少し考えたあと、子供は困ったように笑った。
「触ったら変わる。でも、だめじゃない?」
「食べ物は、食べるともっと変わるね」
「なくなる」
「身体の中に入る」
「じゃあ、白い花と違う」
「うん」
「触って変わる意味も違う」
「うん」
「全部、触ったら壊すじゃない」
「そうだね」
子供は柔らかな白いものを匙へ少し取った。
「食べる」
一口。
ほとんど噛む必要がない。
「やわらかい」
「味は?」
「少し、甘い?」
「嫌?」
「嫌じゃない」
もう一口食べてから、子供は治療教師を見る。
「名前」
正式名称を伝えられる。
今日は珍しく短い名だった。
「長くない」
「珍しいですね」
セレナが扉の外から言った。
「でも」
子供は皿を見る。
「私は、やわらか白」
アリシアが少し笑った。
「正式な名前が短くても?」
「うん」
「どうして?」
「やわらかい。白い」
「そのままだね」
「分かる」
「うん」
朝食は穏やかに進んだ。
子供は「やわらか白」を半分ほど食べ、粥へ戻り、根菜を一口食べたところで手を止めた。
「いっぱい」
「苦しくない?」
セレナが尋ねる。
「ない」
「気持ち悪さは?」
「ない」
「なら、ここで終わりにしましょう」
「うん」
食後の体調確認にも大きな変化はなかった。
セレナが約束通り区画へ三歩だけ入り、足を目で確認する。
「赤みなし」
「私も朝に見た」
「一致しています」
「今日は押さない?」
「必要ありません」
「終わり」
「はい」
子供が少し嬉しそうに笑った。
その頃、外で内部連絡の鐘が一度だけ鳴った。
子供が扉を見る。
「今度は?」
学院長の声が届く。
「西側の光について、少し状況が変わった」
「危ない?」
「まだ危険とは言えない。ただし確認しておきたい」
「聞く」
アリシアが子供の顔を見る。
「疲れてない?」
「今は大丈夫」
学院長は扉の外から説明を始めた。
「北側排水路の正面出口を使わず、外周結界沿いへ進んでいた光が、今朝また動き始めた」
「横?」
「はい」
「危ないところ?」
「このまま進めば、安全確認が十分ではない区画へ近づく」
「止める?」
「まだ距離がある。今は止めていない」
「道作る?」
「作っていない」
「どうして?」
「こちらが先に道を作れば、その方向へ進むことを勧める形になる可能性があるからだ」
子供は少し考える。
「でも危ない」
「うん」
「じゃあ?」
「危険な場所だけ先に確認した」
「何あった?」
「地下水路へつながる亀裂が一つ」
水。
その言葉だけで、子供の肩が少し固くなる。
アリシアはその変化を見たが、話そのものを止めなかった。
「第四の声?」
「つながる可能性は否定できない」
「じゃあ閉じた?」
「亀裂だけ」
「光の道は?」
「塞いでいない」
「どうして?」
「光が横へ進むこと自体は、今のところ危険とは確認できていないからだ」
「でも、その先」
「危険が近づけば、また判断する」
子供は少し口を尖らせる。
「後から?」
「そうなる」
「遅いかも」
「うん」
けれど、子供は自分で続けた。
「でも早くやったら、人間の道になる」
「そうだ」
「面倒」
「そうだな」
学院長も否定しなかった。
「東側の光は?」
「朝から変化なし。見た目では半分ほどが空室内、残りが通路側だ」
「そのまま?」
「そのまま」
「人、何もしてない?」
「していない」
「じゃあ……」
子供は少し考えた。
「片方は動いてる。片方は半分で止まる。顔のない存在は四歩」
「うん」
アリシアが答える。
「私は朝ごはん食べた」
「うん」
「全部違う」
「うん」
「なのに同じ朝」
「うん」
子供は少し笑った。
「変」
「うん」
午前中、生活観測区画では特別な予定を入れなかった。
昨日は木片が長いあいだ顔のない存在の指先に置かれていた。
今日は、子供が自分から木片を取り出す。
「遊ぶ?」
人影の方へ転がす。
木片は近くまで届いたが、今日は手が伸びない。
「返さない?」
反応なし。
子供は少し待った。
「昨日は、ずっと触ってた」
「うん」
「今日は触らない」
「うん」
「嫌」
「子供が?」
「うん」
「どう?」
少し考える。
「少し」
「うん」
「でも昨日と今日違う」
「うん」
「昨日触ったから、今日もじゃない」
「うん」
子供は自分で木片を取りに行った。
「一人でやる」
ころころと壁へ転がし、小さな音を立てて止まる。
自分で取りに行く。
もう一度。
しばらく一人で遊んだあと、今度は顔のない存在の近くではなく、無地の布の上へ木片を置いた。
「終わり?」
「今は」
「あとでまたやるかも?」
「うん」
そのあと、子供は白い花の前へ戻った。
朝は触るかどうか決めなかった。
今も花弁は乾いたままで、小皿の欠片も朝よりほんの少し細かく見える。
「触る?」
アリシアが尋ねる。
子供はしばらく考えた。
「今日は、触らない」
「朝は決めなかったね」
「うん」
「今決めた?」
「うん」
「どうして?」
「朝、やわらか白触った」
「うん」
「触ったら形変わった。でも食べられた」
「うん」
「白い花は」
少し寂しそうに花を見る。
「触ったら戻らないし、食べない」
「うん」
「だから今日は、見たいだけ」
「分かった」
「明日は?」
「決めない」
「うん」
子供は少し満足そうだった。
昨日触れたこと。
今日触れないこと。
どちらかを訂正しない。
午後。
東側地下空室では、半分ほど空室へ入った光へ小さな変化が起きていた。
「輪郭変化」
観測員の低い声に、サーラがすぐ視線を向ける。
「崩れていますか?」
「いいえ。形が少し……細くなっています」
「どこが?」
「境界部分です」
空室側と通路側、そのちょうど間。
入口の境界へ重なっている部分だけが、わずかに細く見えた。
「切れそうですか?」
「まだそこまでは」
「魔力値は?」
「全体として安定」
「第四の声との接続」
「低値」
「介入条件には?」
「達していません」
若い観測員が眉を寄せた。
「半分の位置にいるから、負荷がかかっているんでしょうか」
「可能性はあります」
サーラが答える。
「なら、中へ入れた方が――」
そこまで言って、若い観測員は自分で口を閉じた。
「……人間側が押すことになりますね」
「はい」
「でも、このまま輪郭が細くなったら?」
「介入条件へ近づいた時点で考えます」
「今は?」
「観測です」
光は動かない。
入口の境界へ重なった部分が、わずかに細い。
ただし、消えかけているとは断定できない。
しばらくしても、それ以上細くはならなかった。
「変化停止?」
「今のところ」
「戻った?」
サーラが静かに首を横へ振る。
「形状変化が止まっただけです」
「はい」
若い観測員が少し息を吐いた。
「見てる方が、動かしたくなりますね」
「うん」
今日はサーラも否定しなかった。
「これを少し中へ押せば、楽になるんじゃないかって思います」
「私も思います」
「でも」
「それが光にとって楽かは分からない」
「はい」
「半分にいるから苦しいとも」
「分かりません」
「だから、まだ触らない」
「はい」
人間側は待った。
同じ頃、西側外周では、横へ進んでいた光が午前よりさらに先へ移動していた。
「安全確認範囲の端まで、あと手の幅五つ」
土の神器継承者が告げる。
「その先は?」
「浅い亀裂までは問題ない。水路へ通じる亀裂は埋めた。ただ、その先の石床が脆い」
「光なら落ちないかもしれない」
「可能性はある」
「でも?」
「崩落したとき、周囲の魔力がどう動くか分からない」
副学院長は結界沿いへ進む光を見た。
人間が作った出口ではない方向。
自分たちが予定しなかった先。
「介入条件を追加する」
「何を?」
「石床の魔力反応が一定以上乱れた場合、光が到達する前に局所補強」
「道にはしない?」
「床が崩れないようにするだけだ」
「進む方向は変えない」
「そうだ」
土の神器継承者がうなずいた。
「光を囲うんじゃなく、周囲を安全にする」
「できる範囲でな」
若い術師が少し迷ってから尋ねる。
「でも、そこまでして行かせる意味があるんですか」
副学院長が彼を見る。
「意味?」
「人間側が用意した出口は安全です。そこへ戻せば早い」
「戻す理由は?」
「危険を減らせる」
「その光が、そこへ戻りたいか?」
若い術師は答えられない。
「分かりません」
「なら、人間側の都合で安全を一つにしない」
「でも、事故が起きたら」
「その責任は取る」
少し重い沈黙が落ちた。
若い術師は光を見たまま、低く言った。
「自由にさせるって……楽じゃないんですね」
「楽なわけがない」
副学院長の返事は短かった。
「止める方が、ずっと簡単だ」
夕方。
東側の光へ起きた輪郭変化と、西側の光が安全確認範囲の端へ近づいていることが、生活観測区画へまとめて届いた。
ただし、子供へ話す前に学院長は状態を確認した。
「今、聞けるか?」
子供は無地の布の上へ座り、昼から少し眠そうな顔をしている。
「少し疲れた」
「なら、今日は聞かなくてもいい」
「危ない?」
「今すぐではない」
「じゃあ……一つだけ」
「どちらを?」
「東側」
「分かった」
西側の情報まで今背負わせる必要はない。
学院長は東側の変化だけを簡潔に説明した。
「半分ほど空室へ入っている光のうち、入口に重なっている部分が、一度だけ少し細くなった」
子供の表情がすぐに変わる。
「消える?」
「今は消えていない」
「危ない?」
「介入条件には達していない」
「何かした?」
「していない」
「細いまま?」
「今は変化が止まっている」
子供は胸へ手を置いた。
「半分だから?」
「分からない」
「中と外で引っ張られる?」
「それも分からない」
「でも……全部中へ入れたら?」
「人間側が?」
「うん」
「安全になるかもしれない」
「うん」
子供はそこまで言って、自分で止まった。
「でも、光がそこにいたいかも」
「うん」
「全部外へ出しても同じ」
「うん」
「じゃあ……何もしない?」
「今は」
「怖い」
「うん」
「でも、光も怖いか分からない」
「うん」
子供は自分の身体を見下ろし、片足を布の外へ出した。
もう片方は布の上に残す。
「これ」
「何?」
「半分」
「足?」
「うん」
一方は冷たい石床。
一方は柔らかな布。
「違う」
「うん」
「でも、私、今どっちも」
「うん」
「苦しくない」
「うん」
「光も?」
「分からない」
「でも、半分だから苦しいって決めない」
「うん」
その言葉を口にしたことで、子供自身の表情も少しだけ緩んだ。
「細くなったら見る」
「うん」
「もっと細くなったら?」
「介入を考える」
「そのとき何する?」
「まだ決めてない」
「うん」
「たぶん、光そのものを押さずにできる方法から考える」
「周り?」
「うん。できるなら」
「西側と同じ?」
アリシアが少し驚いた。
「西側の話、今日は聞いてないよ」
「前に言った」
子供が答える。
「光を囲わない。周りを守る」
「うん」
「東側も?」
「できるなら」
「なら」
子供は足を両方とも布の上へ戻した。
「今は待つ」
「うん」
「私、半分やめた」
「足?」
「うん」
「苦しかった?」
「冷たかった」
「それで戻した?」
「うん」
「光は?」
「分からない」
「うん」
「だから私と同じにしない」
「うん」
その判断のあと。
顔のない存在が、無地の布の端へゆっくり手を置いた。
子供が気づく。
「この人」
指先が布へ触れている。
手のひらの一部は布の上。
残りは石床。
見た目では、半分ほどが境目へかかっているように見えた。
「半分」
アリシアも見る。
「そう見えるね」
「同じ?」
「何と?」
「光」
子供は一度言ってから、すぐ首を横へ振った。
「違う」
「うん」
「でも、半分」
「うん」
「この人、苦しい?」
「分からない」
「じゃあ、動かさない?」
「今は危険ないから」
「うん」
顔のない存在はそのまましばらく手を置いていた。
十一の光のうち一つだけが、ゆっくり明るくなる。
「この人の半分」
「うん」
「向こうの光の半分」
「うん」
「私の足の半分」
「うん」
「全部、半分。でも違う」
「うん」
子供は少し笑った。
「面倒」
「うん」
「でも、面白い」
「うん」
夕食前、子供は白い花へもう一度近づいた。
朝は触るかどうか決めなかった。
昼前になって、今日は触らないと決めた。
その決定はまだ変わっていない。
花へも、小皿へも手を伸ばさない。
「今日、触らなかった」
「うん」
「でも、欠けたの少し増えた」
「うん」
「私が触らなくても変わる」
「うん」
「じゃあ」
子供は少し考えた。
「私が全部決めるじゃない」
「何を?」
「白い花が変わること」
「うん」
「光も?」
「うん」
「私が扉開けなくても戻る。開けても来ないことある」
「うん」
「この人も、木片返す日。返さない日」
「うん」
「私、全部できない」
「うん」
短い沈黙が落ちた。
「嫌?」
アリシアが尋ねる。
子供は素直にうなずいた。
「少し」
「うん」
「全部分かったら、安心」
「うん」
「全部決められたら……」
そこで言葉が止まる。
第四の声。
子供の表情へ、一瞬だけその記憶が影を落とした。
「第四の声」
「うん」
「全部決めた」
「うん」
「安心も、少しあった」
「うん」
「でも嫌だった」
「うん」
子供は乾いた花を見る。
「じゃあ、分からない方が怖い。でも……」
「うん」
「分からない方が、私のも残る?」
アリシアは少し考えた。
「選べる場所は増えるかもしれない」
「うん」
「間違えることも?」
「ある」
「怖い」
「うん」
「でも」
子供は小さく息を吐いた。
「今は、こっち」
「分からない方?」
「うん」
夕食には粥と根菜、それから朝の「やわらか白」が少し残っていた。
「朝と同じ?」
「保存状態に問題はありません。ただ、食感は少し変わっているかもしれません」
治療教師が答える。
「食べる」
一口。
朝より少し水分が抜けている。
「少し硬い」
「名前変える?」
アリシアが尋ねる。
子供はしばらく噛んでから首を横へ振った。
「やわらか白」
「硬くなったのに?」
「朝より硬い。でも、まだやわらかい」
「うん」
「半分硬い?」
「どれくらい?」
「分からない」
子供は笑った。
「半分って便利?」
「便利なときもある」
「でも正確じゃない」
「うん」
「東側の光も、本当に半分?」
「見た目では」
「じゃあ、半分くらい」
「うん」
「それでいい」
食事を終える頃には、雨は少し強くなっていた。
窓硝子を伝う水滴が増え、庭の石畳もほとんど濃い色へ変わっている。
夜。
子供は寝台へ入る前、棚の下にある箱の方を一度だけ見た。
見えない。
でも、そこにある。
「アリシア」
「うん」
「戻りたい気持ち」
「うん」
「今日もある」
「うん」
「でも箱から出してない」
「うん」
「半分戻りたい?」
「そう感じる?」
子供は少し考えた。
「半分じゃない」
「うん」
「少し」
「うん」
「半分って言ったら、違う」
「うん」
子供は小さく笑った。
「じゃあ、半分も全部に使わない」
「うん」
顔のない存在も寝台へ横になる。
今日は扉へ近づかなかった。
木片を返さなかった。
無地の布へ、手を一部だけ置いた。
ただ、それだけの一日だった。
「この人」
「うん」
「今日は四歩」
「うん」
「布、半分くらい」
「うん」
「木片、返さない」
「うん」
「昨日と違う」
「うん」
「明日も違う」
「たぶん」
「東側の光も」
「うん」
「明日、全部入るかも」
「うん」
「全部出るかも」
「うん」
「半分くらいのままかも」
「うん」
「西側も」
「うん」
「どこ行くか分からない」
「うん」
子供は布団へ身体を沈める。
「全部、途中」
「うん」
「アリシアも?」
突然言われ、アリシアが少し目を瞬いた。
「私?」
「うん」
「何の途中?」
「分からない」
「え」
子供が笑う。
「でも、アリシアも昨日と今日違う」
「うん」
「なら途中」
アリシアは少し考え、やがて笑った。
「そうかも」
「私も?」
「うん」
「名前ないけど」
「うん」
「途中」
「うん」
「この人も」
「うん」
「光も」
「うん」
「全部?」
「全部かは分からない」
「また」
二人とも少し笑った。
「おやすみ」
「おやすみ」
顔のない存在の十一の光が、少し遅れて一つだけ揺れた。
同じ夜。
東側地下空室では、境界を半分ほど越えていた名前のない光へ、再び変化が起きた。
「動きます」
観測員が低く告げる。
サーラは椅子から立ち上がらず、その場で光へ視線を向けた。
「方向は?」
「……空室側です」
光の輪郭が、ほんの少しだけ内側へ移動する。
以前なら。
誰かが「戻る」と口にしたかもしれない。
今は、誰も言わない。
「室内側の割合、増加」
「どの程度?」
「見た目では六割ほど」
「記録は?」
「半分程度から、室内側へわずかに移動」
「それで」
「はい」
光は、見た目で六割ほど入ったところで止まった。
残りはまだ通路側にある。
「全部入らない」
若い観測員が小さく呟く。
「今は」
サーラが答えた。
「少しずつですね」
「そう見えます」
「戻りたいんでしょうか」
サーラが少しだけ若い観測員を見る。
彼はその視線を受けると、自分で首を横へ振った。
「……分かりません」
「はい」
光は、それ以上進まなかった。
一方、西側。
外周結界沿いの光は、ついに安全確認済みの範囲の端へ到達していた。
「停止」
「位置は?」
「境界直前」
土の神器継承者が地面へ手を置く。
「この先の石床、魔力揺らぎ上昇」
「基準値は?」
「補強条件へ達しました」
副学院長はすぐに判断した。
「局所補強」
「光の前へ壁は?」
「作るな」
「道は?」
「作るな」
「床だけ?」
「崩れないようにするだけだ」
土の魔力が、光から少し離れた地下へ静かに流れる。
床そのものの形は変えない。
印も置かない。
進む方向も示さない。
ただ、崩れないようにする。
その補強へ反応したのか。
あるいは、まったく関係ないのか。
光がほんの少しだけ揺れた。
「接続?」
「なし」
「第四の声は?」
「反応変化なし」
「移動」
「ありません」
補強が終わる。
それでも光は、安全確認済みの場所と、まだ十分には分からない場所との境目で止まったままだった。
進まない。
戻らない。
人間側も、そこから先へ新しい道を引かなかった。
東側地下空室。
見た目では六割ほどが中。
残りは外。
西側外周では、安全確認済みの場所と、まだ分からない場所との境目。
生活観測区画では、白い花が触れなくても変わり、木片は今日は返ってこなかった。
顔のない存在は四歩進み、無地の布へ手の一部だけを置いた。
子供の中には、戻りたい気持ちが少し残っている。
それでも箱は開けていない。
どれも途中だった。
けれど、途中だからといって、早く終わらせなければならないわけではない。
半分ほど進んだからといって、残りまで同じ日に進ませる必要はない。六割ほどまで来たからといって、十割まで人間が押して完成させる必要もない。
入口。
境界。
通路。
部屋。
安全な場所。
まだ分からない場所。
その間へ留まる時間も、存在していい。
夜が深くなっても、東側の光はその位置から動かなかった。
西側の光も、境界の手前に留まったままだった。
そして誰も、残りを埋めなかった。
空いている部分も。
進んでいない一歩も。
まだ選ばれていない明日も。
不足として急いで埋めるのではなく、そのまま残しておく。
学院地下には、決めきらないものたちのための夜が、雨音の向こうで静かに続いていた。




