第127話 あと少しに見えても、その少しを誰かが埋めていい理由にはならない
朝の鐘が鳴る頃には、夜から続いていた雨が少しだけ弱くなっていた。
窓硝子を流れていた太い水筋は細くなり、今は屋根の縁や枝先から落ちる雫の方が目立っている。庭の石畳は一面濃い灰色へ変わり、ところどころにできた浅い水溜まりでは、時折落ちてくる雨粒が小さな輪を重ねていた。空を覆う雲はまだ厚いものの、夜明け直後に比べれば全体がわずかに明るくなっている。
生活観測区画の中にも、湿った朝特有の冷たさが少し残っていた。
暖房用の魔導具は弱く動いている。ただ、室温を常に同じところへ固定するのではなく、季節や天候に応じたわずかな違いを残す方針になっているため、昨日よりほんの少し涼しかった。
アリシアは窓際の椅子へ座っていたが、今日は机の上にある報告書へ手を伸ばしていなかった。
夜明け前に一度だけ読んだ。
それで終わりにした。
東側地下空室の名前のない光は、昨夜の時点よりさらにごくわずかに室内側へ移動していた。
観測担当者は、それを「七割」などとは記録していない。
室内側へごく小さく移動。
それだけだった。
見た目では、入口の外側に残っている部分は昨日より細くなっている。しかし、それが「あと少し」であるかどうかを決めるのは人間側だ。光自身が、そこを最後の距離だと考えているかどうかなど誰にも分からない。
一方、西側外周では、安全確認済みの範囲の端で止まっていた別の光が、夜明け前から再びわずかに動き始めている。
昨日、土の神器継承者たちが局所的に床を補強した場所からは少し離れた。その先は、まだ十分に調べ切れていない区画だった。
危険があるかもしれない。
しかし、今すぐ止める基準には達していない。
今日、西側では何らかの判断が必要になる可能性がある。
『今日は報告書を睨まないのね』
無地の布の上で前足を伸ばしていたノアが、眠そうに片目を開いた。
「一回読んだから」
『本当に一回で済んだの?』
「済んだ」
『あなたが?』
アリシアは思わずノアを見る。
「どういう意味?」
『そのままの意味よ』
「信用ない」
『最近は少しあるわ』
「少し?」
『昨日よりは』
アリシアは唇を少し尖らせた。
「昨日の私も私なんだけど」
その返しに、ノアの片耳がぴくりと動いた。
『ずいぶん言うようになったじゃない』
「誰のせいだと思ってるの」
『あの子でしょう』
ノアの視線が寝台へ向かう。
アリシアもつられるようにそちらを見た。
まだ眠っている子供。
その隣の寝台には、顔のない存在が横になっている。
胸の十一の光は一つも消えていない。
「……そうかも」
『以前のあなたは、自分が教える側だと思っていたでしょう』
「思ってない」
『顔に出ていたわ』
「そんなことない」
『ある』
言い返そうとしたところで、寝台の上の布がわずかに動いた。
アリシアは自然に口を閉じる。
子供が目を覚ました。
昨日までと同じように、すぐには起き上がらない。
しばらく天井を見てから、ゆっくり顔を横へ向ける。
隣には、今日も顔のない存在がいる。
「いる」
小さな声だった。
今朝は、十一の光のうち一つが比較的早く明るくなった。
子供はその変化をじっと見る。
「朝」
もう一つが、少しだけ揺れた。
「今日は早い」
そう言ってから、子供は少し考える。
「……昨日より、朝って言ってから早く変わったように見える」
「うん」
アリシアが答える。
「でも、比べてもいい?」
「比べること自体は悪くないと思うよ」
「人間に近い?」
「そこへつなげなければ」
「うん」
子供は少し笑った。
「じゃあ、今日は朝って言ったあと、昨日より早く光が変わったように見える」
「うん」
それだけ。
意味は足さない。
「おはよう」
「おはよう」
「雨、まだあるよ」
子供が窓へ目を向けた。
ぽつ。
少し間を置いて、また一粒。
昨日より雨音の間隔は長い。
「少ない」
「昨日より?」
「うん」
「止みそう?」
「どうかな」
「分からない?」
「うん」
「じゃあ、見る」
子供は布団を外して身体を起こした。
寝台の端へ腰を掛け、今日も自分の足裏を見る。赤みがないか、傷がないか。指で軽く押し、足首も動かしてみる。
「大丈夫」
「痛くない?」
「うん」
「セレナにも?」
「あとで見るだけ」
「分かった」
床へ降りる。
今日は一歩目からほとんど迷いがなかった。
それでも、誰も「もう完全に大丈夫」とは言わない。
子供自身も、昨日まで問題がなかったから今日も絶対に問題がないとは決めていなかった。
棚へ向かう。
白い花の前で、子供の足が止まった。
「……増えた」
小さな木皿。
以前欠けた花弁の破片。
昨日よりさらに細かな欠片が増えている。
夜の間、誰も触れていない。
それでも乾燥が進み、小さく崩れたらしい。
「夜も?」
「たぶん」
アリシアが隣へ立つ。
「昨夜確認したときは、今より少なかった」
「じゃあ、寝てる間」
「うん」
「誰も見てないとき?」
「見回りの人はいたけど、ずっと見ていたわけじゃない」
「いつ崩れたか」
「分からない」
「音?」
「誰も聞いてないと思う」
子供はしばらく小皿を見つめた。
「じゃあ、誰も分からない」
「うん」
以前なら、そのことだけで不安が大きくなったかもしれない。
いつ。
なぜ。
どうして。
記録。
原因。
答え。
けれど、今日は少し違った。
「崩れた」
「うん」
「時間は分からない」
「うん」
「誰も触ってない」
「確認できる範囲ではね」
「うん」
子供は小瓶の中に残っている白い花へ目を移す。
乾いて、縮み、白はほとんど失われている。
それでも、まだ花の形は残っている。
「白い花」
「うん」
「少なくなってる」
「うん」
「全部崩れる?」
アリシアは少し考えた。
「いつかは、もっと崩れるかもしれない」
「全部?」
「分からない」
「残るかも?」
「うん」
「どれくらい?」
「それも分からない」
子供は花の中心をじっと見つめた。
「あと少し」
「何が?」
「白」
中心の奥。
本当にわずかな部分だけ、以前の色が残っている。
「ここ」
「うん」
「これ、取ったら」
アリシアは子供を見る。
「取る?」
「分からない」
「どうして取ろうと思ったの?」
「残したい」
子供は、最後に残っている白へ視線を固定した。
「全部茶色になる前に」
「うん」
「白いところだけ別にしたら、白、残る?」
アリシアはすぐには答えられなかった。
今のうちに切り離せば、その瞬間の色は少し長く残るかもしれない。
けれど、切り取ることそのものが花をさらに変える。
「別にしても、その白いところも乾いて変わるかもしれないよ」
「でも、今は白」
「うん」
「取らなかったら、茶色になるかも」
「うん」
「取ったら、花から離れる」
「うん」
子供の顔が少し苦しそうになる。
「どうする?」
「決めてほしい?」
しばらく考えたあと、子供は首を横へ振った。
「まだ」
「うん」
「あと少し白い」
「うん」
「全部茶色になる前にって思うと、急ぐ」
「うん」
「でも」
子供はそこで言葉を止めた。
小皿を見る。
欠けた花弁。
自分が触った日。
触らなかった日。
その全部を思い出すように。
「あと少しだからって、触っていい理由じゃない?」
アリシアは胸の奥が少し動くのを感じた。
「うん。私は、そう思う」
「残したいって気持ちはある」
「うん」
「でも、あと少しだから今やらなきゃって」
「うん」
「それだけで触らなくてもいい」
「うん」
子供は白い花を見る。
指は伸ばさない。
「じゃあ、今は見てる」
「うん」
「白がなくなったら嫌」
「うん」
「でも、今は取らない」
「うん」
子供は少し寂しそうに笑った。
「白、あと少し」
「うん」
「でも、その少しは今、花のところにある」
「うん」
「私が残したいからって、取るじゃない」
「うん」
そのとき、顔のない存在が寝台の上で身体を起こした。
「おはよう」
子供が振り返る。
人影の頭が、ほんの少し動く。
「雨、少なくなった」
窓を示す。
十一の光が一つ揺れた。
「見る?」
返事はない。
「私は見る」
子供は窓へ向かった。
顔のない存在も寝台から足を下ろし、ゆっくり立ち上がる。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
五歩。
そこで止まった。
「五」
子供が少し笑う。
「昨日は四」
「うん」
「今日は五」
「うん」
「増えた」
「うん」
「でも、明日六じゃない」
「うん」
「四かも」
「うん」
「二かも」
「うん」
「ゼロ?」
「立たない日もあるかもしれない」
「うん」
子供は満足したようにうなずく。
「今日は五」
「うん」
顔のない存在は自分から床へ座った。
窓までは届かない。
子供は一人で窓の近くへ行く。
雨粒。
水溜まり。
濡れた庭。
「あ」
「何?」
「鳥」
石畳の端に、小さな鳥が一羽降りていた。
「飛んでない」
「うん」
「歩いてる」
「うん」
「鳥、飛ぶものじゃない?」
「飛ぶことも、歩くこともあるね」
「昨日まで、飛んでるところ見た」
「うん」
「今日は歩く」
「うん」
子供は少し笑った。
「鳥も同じことしない」
「うん」
「濡れてる?」
「少し」
「嫌?」
「鳥が?」
「うん」
「分からない」
「でも歩いてる」
「うん」
「雨だから飛べない?」
「飛べると思う」
「じゃあ、今は歩いてる」
「うん」
「それでいい」
朝食には粥、根菜、小さい白。
それから、小さな皿へ淡い緑色の柔らかな野菜が少量だけ盛られていた。
「何?」
「新しいものです」
治療教師が答える。
「名前?」
「先に見ますか?」
「見る」
子供は皿を近くから覗く。
「緑」
「はい」
「甘い?」
「少しだけ」
「苦い?」
「わずかに」
子供の表情が少し警戒する。
「苦い」
「食べてみないと、どのくらいかは分かりません」
「嫌だったら?」
「やめて構いません」
「一口?」
「一口でも」
子供は少しだけ匙へ取った。
口へ運び、慎重に噛む。
すぐに眉が寄った。
「苦い」
「うん」
アリシアが答える。
「嫌?」
「……少し」
「出したい?」
「飲み込める」
「無理しなくていいよ」
「でも」
子供は少しだけ噛み、飲み込む。
水を一口。
「苦い」
「はい」
治療教師が穏やかに尋ねる。
「もうやめますか?」
「うん」
迷いは短かった。
「一口で?」
「うん」
「分かりました」
子供は残った緑の皿を見る。
「食べ物」
「はい」
「身体にいい?」
「栄養はあります」
「じゃあ、食べた方がいい?」
「食べられるものは他にもあります」
「これじゃなくても?」
「はい」
子供の肩から少し力が抜ける。
「じゃあ、今日はやめる」
「うん」
「名前は?」
「知りたい?」
「うん」
治療教師が正式名称を伝える。
子供は一度聞いただけで答えた。
「私は、苦い緑」
アリシアが笑う。
「珍しく迷わなかったね」
「苦いから」
「うん」
「でも、次食べたら苦くないかも?」
「調理方法でも変わります」
「じゃあ」
子供は少し考えた。
「今日の苦い緑」
「そこまで付ける?」
「だって次は違うかも」
「うん」
「でも長い」
「うん」
子供はもう一度考える。
「苦い緑でいい」
「変わったら?」
「そのとき変える」
「うん」
食事はそのまま続いた。
苦い緑は皿へ残る。
子供はもう食べない。
それでも時々、残った皿へ視線を向けている。
「嫌い?」
アリシアが尋ねた。
「今は食べたくない」
「嫌いとは違う?」
「分からない」
「うん」
「一口だけで全部決めなくてもいい」
「うん」
子供は粥と根菜を食べる。
その途中、生活観測区画の外で短い鐘が一度鳴った。
内部連絡の合図。
子供は扉を見る。
「どっち?」
学院長の声がした。
「西側についてだ」
「危ない?」
「判断が必要になる可能性がある」
子供の匙が止まる。
「今、聞く?」
アリシアが尋ねる。
すると学院長が先に言った。
「食べ終わるまで待てる。今すぐ介入が必要な状況ではない」
子供は皿を見る。
粥が少し残っている。
「食べる」
「分かった」
学院長は待った。
子供は粥を一口、根菜をもう一口食べてから、自分で匙を置いた。
「いっぱい」
「苦しくない?」
セレナが尋ねる。
「うん」
「では終わりにしましょう」
「うん」
食器が片づけられる。
セレナは三歩だけ区画へ入り、子供の足を確認した。
「赤みなし」
「私も朝見た」
「一致しています」
「終わり」
「はい」
子供はすぐ扉を見る。
「聞く」
学院長は外から説明した。
「西側外周の光が、安全確認済みの範囲の端を越える方向へ動いた」
「越えた?」
「まだ完全には」
「どのくらい?」
「光の前側が、境界へ触れる程度だ」
子供の表情が少し硬くなる。
「その先、危ない?」
「分からない部分がある」
「水?」
「地下水路へ直接つながる亀裂は昨日塞いだ」
「じゃあ安全?」
「それ以外に、石床の不安定な場所がある」
「昨日、補強した」
「一部は」
「もっと必要?」
「その可能性がある」
子供は少し考える。
「光、昨日、補強したら離れた」
「補強後、反対方向へ少し動いた」
「嫌だった?」
「分からない」
「でも、また補強したら」
「また動くかもしれない」
「しなかったら?」
「床が崩れる可能性がある」
子供は眉を寄せる。
「嫌」
「うん」
「どっちも」
「うん」
胸へ手を置く。
「止める?」
学院長は少し間を置いた。
「人間側は今、その判断をしている」
「光を?」
「光そのものを止めるか、周囲だけ補強するか、今のまま観測するか」
「三つ」
「はい」
子供の表情に、少し疲れが見えた。
アリシアが気づく。
「子供が決めなくてもいいよ」
「でも」
「西側の安全判断は、学院側の役割でもある」
「うん」
「聞きたい?」
「少し」
「決めたい?」
子供は長く考えた。
「一つだけ言う」
「うん」
「何?」
「光を全部戻さないで」
廊下の向こうで、学院長が一度だけ息を止めたような間があった。
「聞いた」
「危ないなら止めてもいい」
「うん」
「でも」
子供の声が少し強くなる。
「人間の出口を使ってないからって、それだけで戻さないで」
「分かった」
「それだけ」
「それ以上は?」
「学院長たちが決めて」
「分かった」
その返事を聞いて、子供の肩が少し下がった。
全部を自分で背負わない。
自分の意見は一つ残す。
残りの判断は、役割を持つ人たちへ預ける。
西側では、その言葉もそのまま共有された。
「全部戻さないで、か」
若い術師が小さく呟く。
副学院長は短く答えた。
「それだけだ。判断はこちらでする」
土の神器継承者が地面へ手を置いた。
「石床の揺らぎ、上昇しています」
「崩落可能性は?」
「少し高い」
「光までの距離」
「まだ余裕があります」
「止めずに補強できる?」
「光の真下ではなく、進行先の床だけなら」
「昨日と同じ反応が出る可能性は?」
「あります」
副学院長は少し考えた。
「補強範囲を狭くする」
「どの程度です?」
「崩落の起点になる箇所だけ」
「道にはならないように?」
「そうだ。進行方向全部には触るな」
「了解」
土の神器の力が、床下へ細く流れていく。
広く固めない。
危険な一点と、その周囲だけ。
「補強開始」
「光は?」
「停止」
「反応」
「揺れあり」
「接続」
「なし」
「位置変化」
「ありません」
補強が終わる。
光はそのまま、しばらく動かなかった。
「嫌がってない?」
若い術師が尋ねる。
「分からない」
土の神器継承者が答える。
「前回は動いた」
「今回は動かない」
「違う」
「うん」
副学院長が二人を見る。
「同じ介入でも、同じ反応になるとは限らない」
「はい」
「前回だけで全部を決めるな」
「分かりました」
しばらくすると、光の前側がほんの少し未確認側へ出た。
「越えた」
観測員が声を低くする。
「どの程度?」
「輪郭の一部だけです」
土の神器継承者は動かない。
副学院長も何も指示しない。
残りはまだ安全確認済みの側へある。
「止めますか?」
「危険値は?」
「未到達」
「床は?」
「補強箇所、安定しています」
「なら、待つ」
光はその位置で止まった。
一部が向こう側。
残りはこちら側。
東側とはまったく違う場所。
違う光。
違う経緯。
それでも、人間の目から見れば「境界に一部だけ跨がっている」という似た形に見える。
「半分?」
若い術師が思わず口にする。
副学院長がすぐに返した。
「割合を固定するな」
「はい」
「東側と同じとも言うな」
「はい」
西側の光は、その位置で静かに止まった。
午前中、生活観測区画では子供はそれ以上西側について尋ねなかった。
「結果、教えて?」
「今?」
アリシアが尋ねる。
「あとで」
「分かった」
「危なくなったら?」
「そのときは伝える」
「うん」
子供は白い花の前へ戻る。
中心にはまだ少しだけ白が残っている。
「あと少し」
「うん」
「取らない」
「うん」
「でも見たい」
「うん」
子供は顔を少しだけ近づける。
「白」
「うん」
「これがなくなったら、白い花って呼んでいい?」
「子供がそう呼びたいなら」
「前、白かった」
「うん」
「なら」
子供は少し笑った。
「全部茶色でも、白い花かも」
「うん」
「名前に前も入る」
「うん」
顔のない存在は、今日はまだ木片へ触れていなかった。
子供は丸い木片を手に取る。
「遊ぶ?」
床へ転がす。
ころころと進んだ木片が、人影の足元で止まった。
反応はない。
「今日も返さない?」
少し待つ。
人影の指は動かない。
「じゃあ」
子供は少しだけ寂しそうな顔をした。
「一人」
自分で木片を拾い、壁へ向けて転がす。
ころ。
こつ。
取りに行く。
二度。
三度。
「一人でもできる」
「うん」
「でも、この人いる」
「うん」
「昨日は返さなかった」
「うん」
「今日も今は返さない」
「うん」
「ずっと?」
「分からない」
子供は木片を手に持ったままうなずいた。
「なら、今は一人」
「うん」
しばらく一人で遊んでいると、顔のない存在の手がゆっくり床へ伸びた。
ただし、木片ではない。
無地の布の端。
昨日と似たように、手のひらの一部が布へ乗り、残りが石床へある。
「また半分」
子供は言ってから、すぐに言い直した。
「半分くらい」
「うん」
アリシアが答える。
「昨日も?」
「似てる」
「同じ?」
「分からない」
「うん」
「でも」
子供は少し面白そうに人影を見る。
「昨日も今日も、布と床」
「うん」
「好き?」
「分からない」
「何してる?」
「分からない」
「でも、この人はここ」
「うん」
人影の手は、布と床の境目へ置かれたままだった。
東側では、名前のない光が空室と通路の境目にいる。
西側では、別の光が安全確認済みの場所と未確認側の境界に一部だけ跨がっている。
もちろん全部違う。
それでも子供には、その日の三つの景色がどこか似て見えたらしい。
「みんな境目」
「そう見えるね」
「でも、同じ境目じゃない」
「うん」
「この人は布」
「うん」
「東は部屋」
「うん」
「西は、安全と分からないところ」
「うん」
「私」
「うん」
「白い花、触ると触らない」
「うん」
「箱も、戻ると戻らない」
「うん」
子供は小さく息を吐いた。
「いっぱい境目」
「うん」
「境目って、どっちかへ行かなきゃだめ?」
「子供はどう思う?」
「今まで、どっちかって思ってた」
「うん」
「中か外」
「うん」
「戻るか戻らない」
「うん」
「触るか触らない」
「うん」
「でも」
顔のない存在の手を見る。
「ここ」
「うん」
「東も」
「うん」
「西も」
「うん」
「境目にいる」
「うん」
子供は少し笑った。
「なら、境目も場所?」
アリシアは少し考えた。
「場所になることもあると思う」
「通り道じゃない?」
「通り道になることもある」
「でも、止まってもいい?」
「安全なら」
「うん」
子供は納得したようにうなずく。
「境目にいるも、一つ」
「うん」
昼。
東側地下空室では、光が朝からもう一度だけごく小さく室内側へ移動した。
「移動確認」
「室内側ですか?」
「はい」
「割合は?」
若い観測員が言いかけたところで、サーラが首を横へ振る。
「数字は不要です」
「はい。室内側へごく小さく移動」
「それで」
「はい」
サーラが記録を残す。
若い観測員は、入口の外側に残る部分を見た。
昨日より確実に細い。
「あと少しに見えますね」
サーラも同じ場所を見る。
「そう見えます」
「全部入ったら……」
若い観測員は、少し嬉しそうな声を出しかけて途中で止まった。
「……すみません」
「何がです?」
「期待しました」
「期待してはいけないとは言っていません」
「でも」
「期待と介入を分ければいいんです」
サーラの声は穏やかだった。
「全部入ってくれたら安心する。そう思うのは人間側の感情です」
「はい」
「だからといって、残っている部分を押し込んではいけない」
「はい」
「あと少しに見える」
「はい」
「その少しが、光にとって何なのか、私たちは知らない」
「怖いのか」
「必要なのか」
「残しておきたいのか」
「ただ今は動きたくないだけなのか」
「はい」
光はまた止まった。
若い観測員はしばらく黙っていたが、やがて小さく言う。
「最後の少しって、人間は埋めたくなるんですね」
「私もです」
「意外です」
「何が?」
「サーラさんは、もっと冷静かと」
「失礼ですね」
「すみません」
サーラは少しだけ笑った。
「だから記録を分けるんですよ」
「自分の気持ちと」
「見たことを」
「はい」
午後。
西側では、境界へ一部を出したままの光が、まだ動かずにいた。
「安全値は?」
「維持」
「床の揺らぎ」
「補強後、低下しています」
「光」
「停止」
「第四の声」
「反応なし」
副学院長は短くうなずいた。
「なら、待つ」
若い術師が、少し遠慮がちに口を開く。
「ここも、あと少しで未確認側へ全部出そうに見えます」
「見えるな」
「止めないんですか?」
「危険値が上がらなければ」
「怖くないですか」
「怖い」
副学院長は即答した。
若い術師が驚く。
「怖いんですか」
「当たり前だ」
「でも止めない」
「怖いから全部戻すのが仕事じゃない」
「事故が起きたら」
「起きないよう周囲を見る」
「それでも」
「失敗するかもしれない」
副学院長の声は少し低くなった。
「それでも、安全だからという理由で全部をこちらが決め続けた先に、第四の声と何が違うのか分からなくなる」
若い術師は黙った。
「安全を理由に、すべての進路を奪うことはしない」
「でも、本当に危険なら」
「止める」
「境目ですね」
「そうだ」
「難しいですね」
「ずっと難しい」
夕方。
生活観測区画では、子供が少し疲れた様子で床へ座っていた。
学院長が扉の外から確認する。
「報告を聞くか?」
「一つずつ」
「東側から?」
「うん」
「室内側へ、また少しだけ移動した」
「全部?」
「まだ」
「あと少し?」
学院長は一瞬だけ言葉を止めた。
「そう見える者はいる」
「でも、あと少しって書かない?」
「書かない」
「どうして?」
「どこを『全部』とするかを、人間側が勝手に意味づけることになるからだ」
子供は少し考える。
「空室に全部入ったら?」
「位置としては、全体が空室内にあると書く」
「戻ったは?」
「それとは別だ」
「うん」
「今は?」
「入口の外側に、まだ一部残っている」
「残り」
「うん」
「人、押さない」
「押さない」
「あと少しなのに」
「うん」
子供は白い花を見る。
「白も、あと少し」
「うん」
「取らない」
「うん」
「似てる?」
「少しは」
「でも光は花じゃない」
「うん」
「分ける」
「うん」
「西側は?」
「安全確認済みの範囲と、その先の境界へ一部が出た」
「全部?」
「まだ」
「止めた?」
「止めていない」
「危ない?」
「今の位置では、介入条件に達していない」
「床は?」
「必要な箇所だけ補強した」
「光、動いた?」
「補強後は動いていない」
「昨日は離れた」
「うん」
「今日は動かない」
「うん」
「同じことしても違う」
「うん」
子供は少し目を伏せた。
「学院長」
「何だ」
「怖い?」
廊下に短い静けさが落ちた。
「怖い」
学院長は答えた。
子供が顔を上げる。
「でも止めない?」
「今は」
「どうして?」
「怖いことと、止める理由は同じではないからだ」
「うん」
「危険が基準へ達すれば止める」
「うん」
「私が不安だからという理由だけでは、止めない」
子供は長く考えた。
「私、東側の光」
「うん」
「全部入ってほしい?」
「子供は?」
「少し」
「どうして?」
「中の方が安全って聞いた」
「うん」
「あと少しだから」
「うん」
「でも」
子供は白い花を見た。
「あと少しだからって、私が埋めるじゃない」
「うん」
胸へ手を置く。
「じゃあ、待つ」
「うん」
「嫌だけど」
「うん」
「安心したいけど」
「うん」
「待つ」
アリシアは少し笑った。
「できそう?」
「分からない」
「うん」
「でも今日は、やる」
「うん」
そのとき、子供が顔のない存在の手へ目を向けた。
いつの間にか、布から離れている。
「離した」
「うん」
「いつ?」
「私は見てなかった」
アリシアは区画外を見る。
「ミレイ?」
「正確な時刻は記録していません」
「安全じゃない?」
「安全判断へ必要な変化ではないと判断しました」
「うん」
子供は少し笑った。
「知らない」
「うん」
「でも離した」
「うん」
「ずっと境目じゃない」
「うん」
「東も」
「うん」
「西も」
「うん」
「変わる」
「うん」
夕食には苦い緑はなかった。
子供は食卓へ座ってすぐ、そのことに気づいた。
「今日ない」
「はい」
「昨日、一口でやめたから?」
「身体へ悪い影響があったからではありません。今日は別の食材を用意しました」
「もう出ない?」
「また別の日に出す可能性はあります」
「嫌」
「食べたくない?」
「今は」
「なら、そのときまた決めましょう」
「うん」
今日は新しく用意された「やわらか白」と、粥、根菜が並んでいる。
子供は白いものを一口食べた。
「やわらか白」
「昨日より?」
アリシアが尋ねると、治療教師が先に答えた。
「今日は新しく用意したものです」
「じゃあ、昨日と別」
「はい」
「でも同じ名前」
「正式名称は同じです」
「私の名前も」
子供は食べ物を見る。
「やわらか白」
「うん」
「昨日のと今日の、違う」
「うん」
「でも同じ呼び方」
「うん」
「全部同じじゃない」
「うん」
もう一口。
「今日も好き」
「うん」
夜になり、雨がまた少し強くなった。
子供は寝台へ入る前に、最後に白い花を見た。
中心。
ほんの少しだけ。
白が残っている。
「残ってる」
「うん」
「明日なくなるかも」
「うん」
「今日取らなかった」
「うん」
「明日、後悔するかも」
「うん」
アリシアは子供を見る。
「今は?」
「少し怖い」
「うん」
「でも、今日触らないって決めた」
「うん」
「明日なくなっても」
「うん」
「今日の私は、白いところ取らなかった」
「うん」
「間違い?」
アリシアはゆっくり首を横へ振った。
「明日どうなっても、今日そう決めた理由は残るよ」
「残したかった」
「うん」
「でも、花から取るの嫌だった」
「うん」
「両方」
「うん」
子供は少し寂しそうに笑った。
「なら、今日はこのまま」
「うん」
寝台へ入る。
顔のない存在も、少し遅れて自分の寝台へ横になった。
胸の十一の光は変わらず残っている。
「アリシア」
「うん」
「東側」
「うん」
「あと少し」
「そう見える」
「でも、その少し」
「うん」
「光の」
「うん」
「西側も」
「うん」
「境目」
「うん」
「その先」
「うん」
「光の」
「うん」
「白い花」
「うん」
「残った白」
「うん」
「花の」
「うん」
「私」
「うん」
「箱」
「うん」
「戻りたい気持ち」
「うん」
「私の」
「うん」
子供は目を閉じた。
「全部、あと少しでも」
「うん」
「誰かが埋めるじゃない」
「うん」
「自分で?」
アリシアは少し考えた。
「自分で埋めることもある」
「うん」
「埋めないこともある」
「うん」
「誰かに手伝ってって頼むこともある」
「うん」
子供は少し目を開いた。
「でも、頼んでないのに?」
「うん」
「あと少しだからって」
「うん」
「勝手にしない」
「うん」
その答えを聞き、子供は安心したように目を閉じた。
「おやすみ」
「おやすみ」
十一の光が、一つだけ少し遅れて揺れた。
その夜。
東側地下空室では、名前のない光の大部分が室内側へ入り、入口の外へは細い一部だけが残っていた。
「本当に、あと少しですね」
若い観測員が小さな声で言った。
サーラも隣で光を見る。
「そう見えます」
「全部入ったら……安心すると思います」
「私も」
「でも」
「触りません」
「はい」
光は動かない。
入口に残っている細い部分も、そのまま保たれている。
遠く西側貯水槽から、第四の声が届く。
「戻れ」
光がわずかに揺れた。
「帰属せよ」
反応は続かない。
「名を受けよ」
室内側と通路側。
その位置は変わらなかった。
西側では、別の光が安全確認済みの場所と、その先のまだ十分に分からない場所との境界に一部だけ出たまま留まっていた。
床の補強は安定している。
光は進まない。
戻らない。
人間側も壁を作らない。
新しい道を延ばさない。
押さない。
引かない。
生活観測区画の棚では、白い花の中心にほんの少しだけ白が残っていた。
夜の湿気。
乾燥。
時間。
触れていなくても、少しずつ形を変えていく。
誰も、その白さを保存するために切り取らない。
あと少し。
あと一歩。
あと一部分。
人間は、そこまで来ると終わらせたくなる。
全部入れたい。
全部出したい。
安全な場所へ。
正しいと思う場所へ。
完成したと呼べる形へ。
残りを埋めたくなる。
けれど、あと少しに見えるからといって、その少しが不要なわけではない。
そこへ留まっている理由を、人間はまだ知らない。
最後の一歩が怖いのかもしれない。
その部分だけは残しておきたいのかもしれない。
ただ今は、動きたくないだけかもしれない。
そもそも「最後」だと思っているのが、人間側だけなのかもしれない。
だから、その夜も誰も残りを埋めなかった。
東側の入口にも。
西側の境界にも。
白い花の中心にも。
まだ埋められていない場所が残っている。
けれど、それらは足りない場所ではない。
誰かが完成させるために勝手に奪ってよい余白でもない。
まだ、その持ち主がどうするか決めていない場所。
あるいは、決めないまま置いておきたい場所。
学院地下の静かな夜の中で、それぞれの「あと少し」は、誰の手にも埋められないまま残されていた。




