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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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128/178

第128話 自分から越えた境界なら、その先で立ち止まっても戻されたことにはならないし



 翌朝、雨はほとんど上がっていた。


 窓硝子には夜の名残である水滴が幾つも残っているものの、新しい雨粒が増える様子はない。庭の石畳はまだ濡れたままで、雲の向こうから届く朝の薄い光を鈍く返している。植え込みの葉先からは、ときおり溜まった雫が落ち、そのたびに浅い水溜まりへ小さな波紋が広がった。


 空にはまだ灰色の雲が残っていたが、西の端にはわずかに明るい筋が見え始めている。昨日まで降り続いていた雨がこのまま終わるのか、それとも昼頃にはまた戻ってくるのか。それはまだ誰にも分からなかった。


 生活観測区画の中では、暖房用の魔導具が昨夜より少し弱く設定されていた。湿った朝特有の冷気は残っているが、寝台から出た途端に身体が震えるほどではない。窓の外から聞こえてくるのも雨音ではなく、軒先から落ちる最後の雫と、遠くで濡れた枝が風に揺れる小さな音だけだった。


 アリシアは今朝も窓際の椅子に座っていた。


 机の端には、夜明け前に届いた報告書が伏せて置かれている。


 もう読んだ。


 一度だけ。


 何度も読み返さなくても、そこに書かれていた二つの変化は頭の中へはっきり残っていた。


 東側地下空室の入口に長く留まっていた名前のない光は、夜明け前、自分からさらに室内側へ移動していた。


 そして、ついに全体が空室の中へ入った。


 人間側からの誘導はない。床振動も、香りも、呼びかけも、新しい照明も使っていない。結界の状態も変えておらず、第四の声との接続値も低いままだった。


 ただ長い時間をかけて、昨日まで室内と通路の境界へ残していた細い部分まで、自分から少しずつ内側へ移した。


 それでも、サーラの記録には「戻った」とは書かれていない。


 東側地下空室内へ全体が移動。現在、入口から少し離れた位置で停止。


 それだけだった。


 もう一つの変化は、西側外周で起きている。


 安全確認済みの範囲と、まだ十分に調査できていない区画との境界へ一部を出していた別の光も、夜明け前に動いた。こちらは東側とは反対に、未確認側へさらに進み、全体が境界の向こうへ移っている。


 危険箇所だけを局所的に補強した場所を越え、手の幅幾つか分ほど進んだところで止まった。


 東側の光は、以前いた空室の中へ。


 西側の光は、人間がまだ十分には知らない場所へ。


 どちらも自分から境界を越えたように見えるが、その先にあるものはまったく違っている。


 アリシアは報告書を閉じたとき、自分の胸の中にも、まるで反対向きの二つの感情が同時にあったことを認めざるを得なかった。


 東側については、安心した。


 正直に言えば、かなり。


 一度は危険な反応もなく留まれていた空室へ、光全体が入った。その事実だけで、知らず知らずのうちに入っていた肩の力が抜けた。


 一方、西側については怖かった。


 人間側がまだ十分に把握していない区画へ、光が自分から進んだ。地下水路へ直接通じる危険な亀裂は塞いである。床の一部も補強した。それでも、その先には未知が多い。


 安心できるように見える場所へ入った光。


 不安が残る場所へ進んだ光。


 どちらについても、人間側が決めたわけではない。


『その顔を見る限り、一回しか読んでいなくても、考える方は止まっていないようね』


 無地の布の上で前脚を伸ばしていたノアが、眠そうに片目を開いた。


「顔に出てる?」


『かなり』


「東側は、ちょっと安心した」


『でしょうね』


「西側は怖い」


『それもでしょうね』


「でも、止めなかった」


『あなたが直接止める立場ではないでしょう』


「そうだけど……」


 アリシアが曖昧に言葉を濁すと、ノアは尻尾の先だけをゆっくり動かした。


『止めてほしいと思った?』


 その問いには、すぐ答えられなかった。


 西側の報告を読んだ瞬間、人間側が用意した安全な出口へ戻してしまえばいいのに、という考えが胸をよぎったのは事実だった。


「少し」


『なら、その気持ちまで消す必要はないでしょう』


「ノアがそんなこと言うの、珍しい」


『失礼ね。私はいつだって非常に優しいわ』


「どこが?」


『そこを説明してもらわなければ分からない時点で、あなたにはまだ早いわね』


「何それ」


 アリシアが小声で言い返したところで、寝台の方から布の擦れる音がした。


 二人とも自然に声を止める。


 子供が目を覚ました。


 まだ眠気の残る目でしばらく天井を見たあと、いつものように隣の寝台へ視線を向ける。


 顔のない存在は、今日もそこにいた。


 胸には十一の光が浮かび、一つも消えていない。


「いる」


 子供が小さく言う。


 すぐには反応がなかったが、もう子供は焦らない。布団へ手を置いたまま数呼吸ほど待つと、十一の光のうち一つがゆっくり明るくなった。


「朝」


 今度はもう一つが揺れ、少し遅れて三つ目も明るさを変える。


 子供が目を細めた。


「今日は三つ」


「うん」


「昨日は?」


「覚えてる?」


「二つだった気がする」


「うん」


「でも、今日は三つ」


「うん」


「増えた?」


「朝に反応したように見えた数はね」


「十一は?」


「十一のまま」


「うん」


 子供はそれ以上、数字へ意味を付けようとはしなかった。


「おはよう」


「おはよう」


 アリシアが声をかけると、子供も少し身体をこちらへ向ける。


「雨」


 窓へ目をやった。


「止まった?」


「今は降ってないみたい」


「でも濡れてる」


「うん」


「昨日の雨?」


「たぶんね」


 子供は窓硝子に残る水滴や、庭の水溜まりをしばらく見ていた。


「雨、終わっても残る」


「うん」


 少し考えてから、棚の方へ視線を移す。


「白い花みたい」


「どこが?」


「前にあったものが、あとに残る」


「うん」


 そして、自分で小さく付け足す。


「でも、同じじゃない」


「うん」


 似ているところを見つけても、全部を一つへしない。


 それも子供の中では、かなり自然になってきていた。


 身体を起こした子供は、寝台から降りる前に今日も足裏を確認する。赤みがないかを見る。指先で軽く押し、痛みを確かめ、足首をゆっくり動かした。


「大丈夫」


「今日も?」


「うん」


「あとでセレナにも?」


「見るだけ」


「分かった」


 床へ降りた足取りは安定していた。


 それでも誰も「もう治った」とは言わない。


 昨日まで大丈夫だったことと、今日も大丈夫であることは別だからだ。


 子供はそのまま棚へ向かった。


 白い花の前で、今日は少し長く足を止める。


「白」


 まだ残っている。


 だが昨日より、さらに少ない。


 中心の奥に残っていた白は、今では細い筋のように見える程度だった。隣の木皿へ置かれている欠けた花弁も、乾燥が進んだのか、さらに細かな破片へ分かれている。


「まだある」


「うん」


「昨日、取らなかった」


「うん」


「今日もある」


「うん」


「でも少ない」


「うん」


 子供は花へ顔を近づける。


 手は伸ばさない。


「昨日、あと少しって思った」


「うん」


「今日、もっとあと少し」


「うん」


 その言葉を口にしてから、子供は少し眉を寄せた。


「昨日、取らなくてよかった?」


 アリシアはすぐには答えず、子供を見る。


「子供はどう思う?」


「分からない。まだ白があるから、少しよかった。でも昨日取ってたら、もっと白いままだったかも」


「うん」


「じゃあ、どっちがよかった?」


「決めなくてもいいと思う」


「また」


 子供が少し不満そうに言う。


「昨日の子供は、白を残したい気持ちがあった。でも花から切り離すのも嫌だったでしょう」


「うん」


「だから取らなかった」


「うん」


「今日まだ白が残っているから、昨日が正解になったわけじゃないし、もし今日全部茶色になっていたとしても、昨日が間違いになるわけじゃない」


 子供はその言葉をゆっくり聞き、少し長く息を吐いた。


「今日の結果で、昨日決めた理由を変えない」


「うん」


「でも、今日また決める?」


「触りたいなら」


「うん」


「今はどう?」


 子供は花を見たまま、しばらく考えた。


 やがて右手が少し上がる。


 指先が、残っている白へ近づいていく。


 だが、途中で止まった。


「触りたい」


「うん」


「でも、取るじゃない」


「うん」


「触るだけ?」


「それも選べる」


「触ったら欠けるかも」


「うん」


「見るだけもある」


「うん」


 迷いは消えない。


 子供はしばらくそのまま花を見たあと、やがて手を下ろした。


「朝は、見てる」


「うん」


「あとで変わってもいい」


「うん」


 決めたことを一日の終わりまで固定しなくてもいい。


 朝は見ている。


 昼になれば、また違うかもしれない。


 そのあと子供は棚の下へ視線を向けた。


「箱」


「あるよ」


「戻りたい気持ち」


「うん」


 自分の胸へ手を置く。


「今日も少し」


「うん」


 けれど、すぐに扉へ目を向けた。


「東側」


 アリシアの胸が少し強く鳴る。


「聞きたい?」


「危ない?」


「東側は、今のところ危険じゃない」


「じゃあ」


 少し考えて。


「朝ごはんの前に、一つだけ」


「分かった」


 アリシアは必要以上の意味を付けないよう、簡潔に伝える。


「東側の光は、夜のあいだに全部、空室の中へ入った」


 子供の目が大きくなった。


「全部?」


「位置としては」


「入口の外に、残ってない?」


「うん」


「人が押した?」


「何もしてない」


「呼んだ?」


「呼んでない」


「床?」


「揺らしてない」


「新しい光?」


「置いてない」


「第四の声は?」


「呼びかけは続いてる。でも接続は低いまま」


 子供は扉を見た。


 すぐには何も言わない。


「戻った?」


「記録には、空室内へ全体が移動したって書いてある」


「戻ったって書かない?」


「書いてない」


「どうして?」


「前にいた場所へ入ったからって、それがその光にとって『戻った』ことなのかは分からないから」


「うん」


 子供は胸へ手を置く。


「でも、全部入った」


「うん」


「昨日、あと少しだった」


「うん」


「人、埋めなかった」


「うん」


「夜、自分で?」


「そう見える」


「じゃあ」


 少しだけ笑う。


「光の少しを、光が埋めた?」


 アリシアは言葉を選んだ。


「そう見える動きはした。でも『埋めた』って言うと、空いていた場所を完成させたみたいにも聞こえるかな」


「じゃあ?」


「境界を越えた」


「うん」


 子供は納得したように頷いた。


「自分から越えた」


「そう見える」


「人が押したじゃない」


「うん」


「よかった」


 そこで終わるかと思ったが、子供の表情が少し変わった。


「でも」


「何?」


「西側」


「うん」


「アリシア、何かある顔」


 アリシアが困ったように笑う。


『本当に分かりやすいわね』


「ノア」


「何て?」


「内緒」


「また」


 子供も少し笑った。


「西側も聞く?」


 アリシアが尋ねる。


「危ない?」


「今すぐではないけど、東側より人間側は心配してる」


 子供は少し考え、食卓の方へ視線を移した。


「朝ごはんのあと」


「分かった」


 その判断を待っていたように、顔のない存在が寝台の上でゆっくり身体を起こした。


「おはよう」


 子供が振り返る。


「雨、今はない」


 窓を指すと、十一の光が二つ揺れた。


「見る?」


 返事はない。


「私は見る」


 子供が窓へ向かう。


 顔のない存在も寝台から足を下ろし、ゆっくり立ち上がった。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 四歩。


 五歩。


 そして今日は、六歩目まで進んだ。


 子供が少し目を丸くする。


「六」


「うん」


「昨日は五」


「うん」


 それから、自分で続けた。


「でも、明日七じゃない」


「うん」


 顔のない存在は六歩進んだところで立ち止まり、そのまま自分から床へ座った。


「今日はここ」


「うん」


「窓、少し近い」


「うん」


 子供も完全に隣へ並ばず、少し前の位置へ座る。


 窓の外では、昨日地面を歩いていた鳥とは別の小さな鳥が、濡れた枝へ止まっていた。


「今日は木」


「うん」


「昨日、地面」


「うん」


「同じ鳥?」


「分からない」


「じゃあ、鳥」


「うん」


「今、枝」


「うん」


 子供は少しだけ笑った。


「全部、今日」


「うん」


 朝食には粥、根菜、小さい白。それから、小さく切られた淡い紫色の果実が添えられていた。


「紫」


「はい」


 治療教師が答える。


「甘い?」


「少し酸味があります」


「苦い緑より?」


「苦さはほとんどありません」


「食べる」


 子供は一口だけ口へ入れ、ゆっくり噛んだ。


 すぐに目が少し細くなる。


「酸っぱい」


「嫌?」


「少し」


「やめる?」


「もう一口」


 二口目。


「どう?」


「酸っぱい。でも、甘いもある」


「好き?」


「まだ分からない」


「名前は知りたいですか?」


「うん」


 正式名称は、これまでの果実ほど長くなかった。


 子供は少し考える。


「酸っぱい紫」


 アリシアが笑った。


「そのまま」


「分かる」


「うん」


「でも次、甘いかも?」


「同じ種類でも違うことはあるよ」


「じゃあ、今は酸っぱい紫」


「うん」


 三口目を食べたところで、子供は匙を止めた。


「もういい」


「お腹?」


「少し。でも、酸っぱいのももういい」


「分かりました」


 無理をしない理由も、毎回同じではない。


 身体がいっぱいだから止めることもあれば、味をもう十分だと感じて止めることもある。


 朝食を終え、セレナの足の確認も済んだ。


「赤みなし」


「私も朝見た」


「一致しています」


「終わり」


「はい」


 子供はすぐ扉を見る。


「西側」


 学院長はすでに外へ来ていた。


「今、聞けるか?」


「うん」


「昨日、安全確認済みの場所と、その先の境界へ一部だけ出ていた光が、夜明け前にさらに進んだ」


「全部?」


「全体が境界の向こうへ移動した」


 子供の顔が少し硬くなる。


「未確認?」


「まだ十分には調べられていない区画だ」


「危ない?」


「今いる位置では、すぐ危険とは判断していない」


「床は?」


「光が進む前に、危険な場所だけ補強してある」


「水?」


「地下水路へ直接つながる亀裂は閉じた」


「じゃあ」


 少し考える。


「全部越えた」


「うん」


「人が押した?」


「押していない」


「止めなかった」


「うん」


「学院長、怖い?」


「怖い」


 学院長は昨日と同じように、迷わず認めた。


「でも、進んだ」


「うん」


「今は?」


「境界を越えて少し進んだところで止まっている」


「止まった」


「うん」


「人間の道じゃない」


「うん」


「安全な出口でもない」


「うん」


「でも、自分から?」


「そう見える」


 子供はしばらく黙り込んだ。


「戻す?」


「今のところ、その予定はない」


「危なくなったら?」


「止めるか、周囲をさらに安全にする」


「光を戻す?」


「必要なら選択肢には入る」


 子供の表情が少し曇る。


「でも、全部?」


「危険の程度による」


「うん」


 学院長は、そこで少し声を和らげた。


「前に子供が言った、『人間の出口を使わないからって全部戻さないで』という意見は、そのまま判断へ残してある」


 子供の肩から少し力が抜けた。


「越えたあと」


「うん」


「止まってる」


「うん」


「じゃあ、境界越えたからって、もっと進まなきゃじゃない」


「うん」


「一回向こうへ行ったからって、そのまま遠くまで行かなくていい」


「うん」


「戻るのも?」


「できる」


「境界まで?」


「安全なら」


「うん」


 子供は少し笑った。


「東側も」


「うん」


「全部空室に入った」


「うん」


「でも、そのあともっと奥まで行ってない?」


「入口から少し離れたところで止まってる」


「中へ入ったから、もっと奥まで行かなきゃじゃない」


「うん」


「西側も、境界越えたからもっと行かなきゃじゃない」


「うん」


「自分で越えたら、その先で止まっていい」


「うん」


 学院長も静かに頷く。


「止まったことを、『戻された』とは呼ばない」


 子供が少し目を大きくした。


「戻された?」


「誰かに止められて戻されたわけではない。今は自分から進んで、自分から止まっているように見える」


「うん」


「だから、止まることも動きの一つとして見る」


 子供はその言葉をしばらく胸の中で転がすように黙っていた。


「止まるのも、進むの反対だけじゃない」


「うん」


「自分で止まる」


「うん」


「その場所にいる」


「うん」


 午前中、生活観測区画では特別な接触を行わなかった。


 東側の光が空室へ全体を移したからといって、すぐに内扉を開く話を再開することもない。


 子供自身が、それを求めなかった。


 少し前まで、東側の光が生活観測区画へ近づいていたときには、何度も扉を気にしていた。


 会いたい。


 見たい。


 でも怖い。


 その気持ちは消えていない。


 けれど今日は、光が別の場所へ自分から移動したように見える。


 だから子供も、その距離を急いで縮めようとはしなかった。


 丸い木片を手に取る。


「遊ぶ?」


 顔のない存在へ向け、ゆっくり転がす。


 ころころと進んだ木片は人影の足元で止まった。


 昨日は、そこから手が伸びなかった。


 今日も最初は反応がない。


 子供は少し待った。


「今日も一人?」


 それでも動かない。


 子供が自分で木片を取りに行こうと立ち上がりかけた、その瞬間。


 顔のない存在の指が動いた。


 木片へ触れる。


「触った」


 子供はその場で止まった。


 人影の指が、ゆっくり木片を押す。


 ころ、と小さな音を立てながら、木片が子供の方へ戻ってきた。


「返した」


 子供の顔が明るくなる。


「今日は返す」


「うん」


 アリシアも少し笑った。


「昨日は?」


「返さなかった」


「うん」


「でも今日は返した」


「うん」


 子供は木片を拾う。


「じゃあ、今日は遊ぶ?」


 もう一度転がした。


 二度目も返ってくる。


 三度目も。


 四度目は、少し時間がかかった。


 そして五度目。


 顔のない存在は木片へ触れたものの、そのまま押さなくなった。


「終わり?」


 子供が尋ねる。


 返事はない。


 子供はしばらく待った。


「今は終わりに見える」


「うん」


 木片を取りに行かない。


 相手が触れているものを、自分が続きをしたいからといってすぐ引き戻さない。


「今日は途中まで返した」


「うん」


「最後は返さない」


「うん」


「遊び、終わった?」


「今はね」


「うん」


 子供は少し満足そうだった。


「全部続けなくていい」


「うん」


 遊び始めたからといって、最後まで続ける義務はない。


 途中で止めることも、遊びの中に残されている。


 午前の後半になると、子供は再び白い花の前へ戻った。


「白」


「うん」


 まだ残っている。


 朝から大きく変わったようには見えない。


 ただ、見る角度によってはもう茶色にしか見えないほど細い。


「触る?」


 アリシアが尋ねる。


 子供はしばらく考えたあと、右手を上げた。


 今度は中心の白ではなく、すでに茶色く乾いた外側の花弁へ指を近づける。


「ここ」


「触る?」


「うん」


「取らない?」


「触るだけ」


「分かった」


 子供は慎重に指先を近づけた。


 かさ、と小さな感触。


 乾いた花弁へほんの少し触れる。


 今回は欠けなかった。


 子供はすぐ指を離す。


「触った」


「うん」


「壊れない」


「今回はね」


「硬い」


「うん」


「前より」


「うん」


「白いところは触らなかった」


「うん」


「どうして?」


 アリシアが尋ねる。


「残したいから。でも、触りたいもあった」


「うん」


「だから、茶色いところだけ」


「うん」


 子供は少し笑った。


「全部我慢しなくていい?」


「うん」


「全部やるでもない」


「うん」


「少しだけ触る」


「うん」


「これも途中?」


「子供はそう思う?」


「うん」


「なら、途中」


 昼。


 東側地下空室では、全体が室内へ移った名前のない光が、朝からほとんど位置を変えていなかった。


「入口からの距離、朝とほぼ同じです」


「第四の声との接続は?」


「低値を維持」


「輪郭」


「安定」


「魔力値」


「大きな変化なし」


 若い観測員が少し離れた場所から光を見る。


「全部入ったのに、何も起きませんね」


 サーラが視線だけを向けた。


「何か起きてほしいんですか?」


「いや、そうじゃないんですけど」


 若い観測員は少し困ったように頭を掻く。


「前だったら、全部入った時点で『戻った』とか『安定した』とか、何か結果が出ると思ってた気がします」


「今は?」


「位置が変わっただけ」


「はい」


「でも」


 少し笑う。


「俺、安心はしてます」


「私もです」


「それは記録しない」


「観測記録には書きません。ただし、人間側の感情としてなら別紙に残して構いませんよ」


「別紙?」


「観測担当者の心理負荷記録です」


「そんなの作ったんですか?」


「最近」


「誰が?」


「学院長です」


 若い観測員は目を丸くした。


「絶対、第四の声の件が原因ですよね」


「人間側の不安や期待が判断へどの程度影響しているか、あとから確認できるようにするためです」


「面倒ですね」


「ええ」


 サーラも小さく笑った。


「でも必要です」


 若い観測員は再び光を見る。


「中へ入った」


「はい」


「でも、さらに進まない」


「はい」


「それでいい」


「今は」


「また『今は』」


「便利でしょう」


「最近、学院中で増えてません?」


「増えましたね」


 そこにあったのは、以前のような張り詰めた静けさだけではなかった。


 分からないものを分からないまま置いておくことに、人間側も少しずつ慣れ始めている。


 同じ頃。


 西側外周。


 境界を越えた光も、新しい場所で止まったままだった。


「周辺魔力、安定」


「床は?」


「補強範囲外も現在崩落兆候なし」


「地下水路との距離」


「十分あります」


「第四の声」


「接続値変化なし」


 副学院長は古い地図へ視線を落とす。


 人間側が用意した安全な出口は、すでにかなり後ろになっていた。


「進みませんね」


 若い術師が言う。


「今は」


「戻りもしない」


「今は」


「ここでずっと止まったら?」


「観測する」


「道は作らない?」


「必要がなければ」


 若い術師は少し先の暗い空間を見る。


「でも、ここって何もないですよ」


「何もない?」


「少なくとも、学院側が使う部屋でも正式な通路でもありません」


「だから、留まってはいけない理由になるか?」


 若い術師は少し黙った。


「……ならないですね」


「そうだ」


「でも」


 彼は改めて周囲を見る。


 暗い石壁。


 古い補強跡。


 今では何に使われていたのかも分からない空間。


「ここを『場所じゃない』って思ってるの、俺たちだけかもしれない?」


 副学院長が少しだけ目を細めた。


「そうかもしれない」


「じゃあ、この光にとっては――」


「決めるな」


「はい」


 若い術師はすぐ言い直す。


「ただ、ここで止まっている」


「そうだ」


 少し間を置いて、若い術師が笑う。


「最近、言い直すの上手くなりました」


「褒めてほしいか」


「少し」


「なら後でサーラに言え」


「怖いです」


「私よりか?」


「別方向で」


 周囲の術師たちが小さく笑った。


 緊張は消えていない。


 それでも、学院地下には少しずつ人間側の日常も戻り始めていた。


 午後。


 生活観測区画では、子供が久しぶりに棚の下へしまっていた木箱を自分で取り出した。


 アリシアは驚きを表に出さないようにする。


「開ける?」


「まだ」


「じゃあ、どうする?」


「見る」


「うん」


 子供は箱を床へ置いた。


 蓋は閉じたまま。


「戻りたい気持ち」


「うん」


「ここ」


 箱へ手を置く。


「うん」


「私」


 今度は自分の胸へ手を置いた。


「ここ」


「うん」


 それから扉を見る。


「東側の光は空室」


「うん」


「西側は新しい場所」


「うん」


「みんな、場所変わった?」


「子供は?」


「箱、棚の下からここ」


「うん」


「でも中は開けてない」


「うん」


「私、戻らない」


「うん」


「ただ、近くで見る」


「うん」


 子供は木箱の蓋へ手を乗せた。


 開けない。


 ただ触れている。


「怖い?」


「少し」


「戻りたい気持ちが?」


「箱にあるって思うと」


「うん」


「前は、見えない方がよかった」


「うん」


「でも今日は、見えるところに置きたい」


「どうして?」


 子供は少し考えた。


「東側の光、空室に全部入った」


「うん」


「でも、戻ったって決めてない」


「うん」


「私も」


 木箱を見つめる。


「戻りたい気持ちを近くへ置いても、戻るって決めない」


「うん」


「見てもいい」


「うん」


 子供は箱を少しだけ自分の方へ引いた。


「今日はここ」


「うん」


「夜は?」


「どうしたい?」


「分からない」


「なら、あとで考える?」


「うん」


 そのまま木箱は午後のあいだ、棚の前へ置かれた。


 誰も中身を確かめようとはしない。


 物理的には空の木箱だ。


 それは全員が知っている。


 それでも子供にとっては、戻りたい気持ちを置いた場所として意味を持っている。


 空だから何もない、とは扱わない。


 夕方。


 東側の光が空室内で止まったままであること。


 西側の光も境界を越えた場所から進んでいないこと。


 二つの報告が届いた。


「両方止まった」


 子供が言う。


「うん」


「東は、入ったあと」


「うん」


「西は、越えたあと」


「うん」


「どっちも、もっと行かない」


「今はね」


「うん」


 子供は自分の前にある木箱を見る。


「私も」


「何が?」


「箱、出した」


「うん」


「でも開けない」


「うん」


「少し進んだ?」


「何に向かって?」


「戻りたい気持ち」


「近くへ置いた、という意味では」


「うん」


「でも、開けてないから止まった」


「うん」


「それでいい?」


「子供は?」


 少し長く考えてから、子供は頷いた。


「今日は、ここ」


「うん」


 その答えを聞いて、アリシアは東西二つの光を思う。


 東側の光は、空室へ全体を移した。


 だからといって、さらに奥へ進ませる理由はない。


 西側の光は、境界を越えた。


 だからといって、未知の先へ進み続けさせる理由もない。


 子供は木箱を見える場所へ出した。


 だからといって、その蓋まで開けなければならないわけではない。


 進むこと。


 越えること。


 近づくこと。


 それ自体が、次の一歩まで義務にするわけではない。


 夕食には、昨日一口だけ食べてやめた「苦い緑」が再び少量出された。


 ただし、今日は調理方法が違う。


 柔らかく煮て、苦味を弱めてある。


 子供は皿を見るなり気づいた。


「苦い緑?」


「同じ種類です」


 治療教師が答える。


「昨日の?」


「別のものを調理しています」


「食べ方、違う?」


「はい」


「苦い?」


「昨日より弱いと思います」


 子供は少し警戒した顔で、一口だけ食べた。


 噛む。


 眉が少しだけ寄る。


「苦い」


「昨日より?」


「少ない」


「食べる?」


 子供はもう一口。


「食べる」


「好き?」


「まだ」


「嫌?」


「昨日より嫌じゃない」


「うん」


 三口目を食べたところで、子供は自分から匙を置いた。


「今日はここ」


「うん」


「残す」


「分かりました」


 子供は少し笑った。


「昨日、一口」


「うん」


「今日は三口」


「うん」


「明日四じゃない」


「うん」


「また一口かも」


「うん」


「食べないかも」


「うん」


「でも今日は三口」


「うん」


 少し離れたところにいた顔のない存在の十一の光が、遅れて二つ揺れた。


「この人も?」


 子供が見る。


「何が?」


「今日は木片返した」


「うん」


「明日は分からない」


「うん」


「みんな今日」


「うん」


 夜。


 子供は寝台へ入る前に、木箱の前へもう一度座った。


「棚の下へ戻す?」


 アリシアが尋ねる。


 子供は箱を見た。


 蓋は閉じたまま。


 少し考える。


「今日は、このまま」


「見えるところ?」


「うん」


「怖くない?」


「少し」


「うん」


 子供は蓋へ手を置いた。


「でも、開けないって自分で分かる」


「うん」


「見えてても」


「うん」


「戻らない」


「うん」


「明日は分からない」


「うん」


「夜、怖くなったら?」


「そのとき移す?」


「うん」


「分かった」


 木箱は、今夜初めて棚の下へ戻されなかった。


 白い花の下。


 欠けた花弁を置いた小皿の近く。


 見えるところに置かれる。


 ただし、蓋は閉じたままだ。


 子供は寝台へ入り、少し遅れて顔のない存在も自分の寝台へ横になった。


「アリシア」


「うん」


「東側、全部入った」


「うん」


「戻った、じゃない」


「うん」


「でも空室にはいる」


「うん」


「西側、全部越えた」


「うん」


「危ないところ?」


「まだ分からないところ」


「うん」


「でも止まった」


「うん」


「人、戻さない」


「今は」


「うん」


「私」


「うん」


「箱、出した」


「うん」


「でも開けない」


「うん」


 子供は天井を見ながら、少し長く考えた。


「全部、越えたあとに止まってる」


「うん」


「進んだら、続けなきゃじゃない」


「うん」


「自分から行ったなら、自分から止まってもいい」


「うん」


「戻っても?」


「うん」


「違うところへ行っても?」


「うん」


「そのままでも?」


「うん」


 子供が少し笑う。


「いっぱい」


「うん」


 だが、その笑みはすぐに少しだけ薄くなった。


「でも」


「何?」


「自分で越えたのに、止まったら『戻された』って言われるの嫌」


 アリシアは少し驚いた。


「誰かに?」


「第四の声」


 子供は目を閉じたまま続ける。


「前に進まないと、戻れって言う。中央から離れたら、戻れ。戻ったら、帰属。止まってても、名前」


「うん」


「ずっと、どこかにしようとする」


 その言葉に、アリシアの胸が少し痛んだ。


 第四の声が求めていたのは、いつも確定だった。


 どこに属するか。


 誰なのか。


 何の役割なのか。


 戻るのか。


 残るのか。


 曖昧な途中を許さず、一つへ押し込もうとする。


「今は、止まっててもいいよ」


「うん」


「誰かに動かされなくてもいい」


「うん」


「子供が動きたくなったら動けばいい」


「うん」


「危ないときは止めることもあるけど」


「うん」


「そのときも、子供が何をしようとしていたかまで消したりはしない」


「うん」


 子供は長く息を吐いた。


「東側の光も?」


「うん」


「西側も?」


「うん」


「この人も?」


「うん」


「私も?」


「うん」


「ノアも?」


『私は止まりたいときは勝手に止まるわ』


 すぐに返ってきた声に、アリシアが思わず笑った。


「ノアは、自分でできるって」


「何て?」


「今日はそのまま」


 子供が目を開ける。


「内緒じゃない」


「たまには」


 少し笑う。


「おやすみ」


「おやすみ」


 顔のない存在の胸では、十一の光のうち一つが揺れ、それに少し遅れてもう一つが弱く明るくなった。


 その夜。


 東側地下空室では、名前のない光が全体を室内へ入れたまま、入口から少し離れた位置で留まり続けていた。


 学院側は何もしない。


 さらに奥へ移さない。


 壁際へ寄せない。


 寝台も置かない。


 香りも、名前も、役割も与えない。


 空室を「戻った場所」と決める札も付けない。


 ただ、今その光がいる場所として空間を残す。


 西側外周でも、境界を越えた別の光が未確認側へ少し進んだ場所で止まっていた。


 人間側は、その先に危険な亀裂がないか調べる。必要なら局所的な補強ができるよう準備もする。


 けれど、新しい道を光の前へ敷かない。


 安全な出口へ戻す壁も作らない。


 光が止まっているなら、人間側も今はそこで止まる。


 生活観測区画では、棚の前へ木箱が置かれている。


 中には、物としては何も入っていない。


 それでも子供にとっては、戻りたい気持ちを置いている場所だった。


 今夜、その箱は見える。


 だが、開かれない。


 白い花も、まだ中心にごく細い白を残している。


 子供は今日、すでに茶色く乾いた外側の花弁へ一度だけ触れた。


 白いところには触れなかった。


 触れたからといって、全部へ触れる必要はない。


 境界を越えたからといって、そのまま進み続ける必要もない。


 自分から一歩を選んだことと、その次の一歩まで選んだことは、同じではない。


 東側の光は、自分から境界を越えたように見える。


 そして止まった。


 西側の光も、自分から境界を越えたように見える。


 そして止まった。


 それは途中で失敗したということではない。


 誰かに戻されたわけでもない。


 進む力を失ったと、人間側が決める必要もない。


 ただ今は、そこで止まっている。


 進むことを選べるのなら、止まることも、戻ることも、別の方向を見ることも、同じように残されていなければならない。


 学院地下の静かな夜。


 東と西、違う場所にいる二つの光は、どちらも自分から越えたように見える境界の向こう側で立ち止まっていた。


 その先へ続く一歩を、誰にも勝手に足されることなく。


 止まったことを、失敗とも後退とも呼ばれないまま。


 それぞれが今いる場所で、自分の輪郭を静かに保ち続けていた。

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