第129話 そこに長くいたからといって、そこを居場所と決めなくてもいい
翌朝、生活観測区画の窓の向こうには、久しぶりに薄い青空が見えていた。
雲がすべて消えたわけではない。昨夜まで雨を抱えていた灰色の雲は学院の東側へ長く残り、遠くの森の上にはまだ薄暗い影を落としている。それでも、西から差し込む朝の光には昨日までとは違う明るさがあり、濡れた庭の石畳を淡く照らしていた。
水溜まりはまだ幾つも残っている。植え込みの葉にも透明な雫が連なり、風が通るたびに細かな光を散らしていたが、雨そのものはもう降っていなかった。軒先から落ちる雫の間隔も夜明け前よりずっと長くなり、昨日まで絶え間なく部屋の外を満たしていた雨音の代わりに、時折どこかで鳥の声が聞こえる。
生活観測区画の中にも、少しだけ違う朝の空気が流れていた。
窓は閉じたままだが、昨夜まで湿気を逃がすために動かしていた換気用の魔導具は弱められている。暖房もほとんど必要なく、部屋にはわずかな冷たさだけが残っていた。布団から出ることを嫌がるほどではない、朝らしい冷気だった。
アリシアは今朝も窓際の椅子へ座っていた。
机の上には二枚の報告書が並んでいる。東側と西側、それぞれの地下区画から届いた夜間観測記録だった。
どちらも一度だけ読んだ。
それ以上は開いていない。
東側地下空室へ全体を移した名前のない光は、昨夜から朝までほとんど位置を変えなかった。
入口から少し離れた場所で、壁際でも部屋の中央でもない。何か目印になるものが置かれているわけでもなく、以前、人間側がそこへ一時的に留まらせたときとも微妙に位置が違っていた。
香りは置いていない。家具も、文字も、名前もない。
それでも、光はそこにいた。
一晩を越えて、今朝まで。
ただし学院側は、その空室を「光の部屋」とは呼ばないことにしていた。
保護室でも、居室でも、帰還場所でも、待機場所でもない。記録上の名称は今までと変わらず、「東側地下空室」。それだけだった。
一方、西側の光も境界を越えた先で夜を過ごしている。
人間側が安全確認済みと呼んでいた範囲から出て、まだ十分に調べ切れていない古い地下区画へ入った光だった。
危険な亀裂は閉じられ、床も必要な部分だけ補強されている。けれど、その空間そのものは長いあいだ人が使っていない。壁には年代の分からない古い補修跡が残り、天井は低く、一方の奥には崩落によって塞がった細い横穴が口を閉ざしている。
何のために造られた区画なのかは、まだ判明していなかった。
そこへ光は入り、進み、自分から止まった。
そして、一晩を越えた今朝も同じ場所にいる。
東側も、西側も、長く一つの場所へ留まっているように見えた。
だからこそ、人間側には次の衝動が生まれ始めていた。
ここが、この光の居場所なのではないか。
そろそろそう呼んでもいいのではないか。名称を付けた方が管理もしやすく、記録も整理しやすいのではないか。
けれど、昨日まで「戻った」と書くことさえ避けてきたのなら、一晩そこにいただけで「居場所」と書くのも早い。
サーラの朝の報告書には、そんな一文が追記されていた。
『またその顔ね』
不意に声がして、アリシアは視線を落とした。
床へ敷かれた無地の布の上で、ノアが前脚へ顎を乗せている。黒い尻尾の先だけが、退屈そうに一度揺れた。
「どの顔?」
『考えている顔』
「普通じゃない?」
『あなたの場合、普通より少し深刻そうに見えるのよ』
「失礼」
『事実よ』
アリシアは反論しかけたものの、結局は机の上の二枚へ視線を戻した。
「東も西も、一晩同じ場所にいた」
『そうね』
「人間なら、そこを寝る場所とか、泊まった場所とか言えるかもしれない」
『言えるでしょうね』
「光は?」
『知らないわ』
あまりにも即答だったので、アリシアは一瞬だけノアを見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……うん。そうだよね」
『あなた、最近ちゃんと自分で答えられるようになったじゃない』
「何が?」
『分からない、って』
褒められているのか判断できず、アリシアは眉を寄せた。
「それ、褒めてる?」
『かなり』
「何割?」
『八割くらい』
「増えた」
『残り二割は、分からないと言いながら顔では答えを欲しがってるところね』
思わずアリシアは自分の頬へ手を当てた。
「そんなに出てる?」
『出てる』
「子供にもばれるかな」
『確実に』
「嫌だな」
『なら直しなさい』
「無理」
『開き直るのが早くなったわね』
そんな小声のやり取りをしている途中、寝台の方から布の擦れる音が聞こえた。
アリシアとノアはほとんど同時に会話を止める。
子供が目を覚ました。
すぐには起き上がらず、しばらく天井を眺めている。次に窓から入ってくる朝の明るさを確かめ、最後に隣の寝台へ目を向けた。
顔のない存在は、今日もそこにいた。
胸に宿る十一の光も、一つとして消えていない。
「……いる」
子供が小さく呟いた。
けれど今日は、その声にすぐ反応する光はなかった。
子供はもう一度呼ばなかった。
以前なら、反応がないことを不安に思い、すぐに二度目の声をかけたかもしれない。けれど今朝は布団の中に身体を残したまま、顔のない存在の胸を静かに見つめている。
数呼吸が過ぎた。
さらに少し待ったあと、十一のうち一つが弱く明るくなる。
「朝」
子供が言うと、今度は二つ目が淡く揺れた。さらに少し遅れて三つ目も明るくなる。
昨日と同じ三つだった。
「昨日と同じ三つ?」
そこまで言ってから、子供は自分の言葉に引っかかったように首を傾げた。
「……でも、同じ三つじゃない」
「どうして?」
アリシアが尋ねる。
「今日の三つだから。昨日の三つは、昨日」
「そうだね」
「場所も同じ?」
「光の位置?」
「うん」
アリシアも人影の胸へ目を向けた。昨日の記憶と重ねてみるものの、肉眼で断言できるほどの違いは見つけられない。
「私にはかなり似て見える。でも、完全に同じかまでは分からない」
「じゃあ」
子供は少しだけ笑った。
「今日の十一」
その呼び方が妙に気に入ったのか、もう一度胸の光を眺めてから、「おはよう」と告げる。
「おはよう」
アリシアが返すと、子供は今度は窓へ目を向けた。
「明るい。雨ない?」
「今は降ってないよ」
「でも、水はある」
「水溜まり?」
「うん」
「昨日の雨が残ってるんだね」
子供はしばらく庭を眺めていた。
雨そのものはもうない。それでも石畳の窪みには水が残り、植え込みの葉にも雫がある。
「雨が止まっても、水ある。でも、雨が今降ってるんじゃない」
「うん」
「前が残る」
そこで子供は一度言葉を切り、少し考えてから付け加えた。
「今日にも、前がある」
「そうだね」
それ以上の意味をアリシアは付け足さなかった。
子供は布団を持ち上げ、身体を起こした。寝台の端へ座ると、今日も最初に自分の足裏を確認する。
赤みがないか、傷がないか。指で軽く押してから足首をゆっくり回し、まず片足を床へ置いた。
「痛くない」
「もう片方は?」
反対の足も自分で確かめる。両足を床につけ、少し慎重に立ち上がった。
「大丈夫」
「あとでセレナにも見てもらう?」
「見るだけなら」
「分かった」
子供が最初に向かったのは、白い花を置いた棚だった。
そこで足が止まる。
「……白」
もう、ほとんど残っていなかった。
昨日まで中心へ細く残っていた白い部分も、今朝にはその大半が淡い茶色へ変わっている。それでも角度を変えて覗き込めば、中心の一番奥に針先ほどの、ごく小さな白に近い色が残っていた。
「ある?」
「私は少し白っぽく見えるよ。中心の奥」
「どこ?」
子供は顔を近づけ、角度を変える。
「あ」
「見えた?」
「少し」
その声には、見つけた嬉しさよりも、もうそれだけしか残っていないことへの寂しさが混じっていた。
花の隣には小皿がある。
以前欠けた花弁を置いたものだったが、こちらはさらに崩れていた。大きな一片だったものが幾つかの小さな破片へ分かれ、皿の端には粉のようなものまで残っている。
「こっち、もっと小さくなった」
「うん」
「触ってないのに」
「うん」
「でも崩れた」
子供は小皿と花を交互に見た。
「白い花も、白がほとんどなくなった」
寂しさは顔にはっきり出ている。
けれど今日は、すぐに「嫌」とは言わなかった。
長いあいだ花を見つめ、それから昨日のことを思い出すように指先を動かした。
「昨日、触った」
「茶色い花弁に?」
「うん。でも欠けなかった」
今日も触れようとしたのか、指が少しだけ上がる。
けれど、そのまま近づけることはなかった。
「どうする?」
アリシアが尋ねる。
「白、もう少ししかない。昨日は触らなかった」
そこで子供は迷った。
「今日も……取らない」
「うん」
「触る?」
「どうしたい?」
答えはすぐには返ってこなかった。
子供は指を下ろし、もう一度花を見る。白が残っているから触りたいのか、最後だから触らなければならないと思っているのか、それとも別の気持ちなのか。自分でも確かめているようだった。
「今日は、触らない」
「分かった」
アリシアは少し待ってから尋ねた。
「どうして?」
「白が少ないからじゃない。昨日触ったからでもない」
子供は花から目を離さない。
「今は……見たい」
「うん」
「触りたいより、見たい。だから今日は見てる」
「分かった」
白がほとんどなくなったから。最後だから。今しかないから。
そんな理由で急ぐ必要はない。
昨日よりさらに少なくなっていても、子供は「なくなる前に何かをしなければ」ではなく、今の自分がどうしたいのかを選ぼうとしていた。
「でも、白がなくなったら」
「うん」
「白い花って呼ぶ?」
「子供は?」
「呼ぶ」
今度は迷わなかった。
「前、白かった。今が茶色でも、白い花」
「うん」
「名前に、前も入ってる」
その言葉に、アリシアは少しだけ目を細めた。
「そうかもしれないね」
子供もほんの少し笑った。
次に視線を落としたのは、棚の下ではなかった。
昨日、木箱は元の場所へ戻されなかった。
棚の前。白い花の下。子供から見える場所に置かれたまま、朝を迎えている。
「箱」
「うん」
「夜、怖くならなかった」
「見えてたのに?」
「うん。でも開けなかった」
子供は木箱の蓋を見つめた。
「今も開けたい?」
アリシアが尋ねると、今度は少し時間がかかった。
「少し」
「戻りたい?」
「それも、少し」
「箱を開けることと、戻ることは同じ?」
子供は考え込み、やがて首を横へ振った。
「同じじゃない。でも、近い気がするから怖い」
「うん」
それでも子供は蓋へ手を伸ばした。
指先が木へ触れる。
昨日と同じように、ほんの少しだけ力が入った。
けれど蓋は開かなかった。
「今日は、ここまで」
「蓋に触るところまで?」
「うん。開けない」
「昨日と同じ?」
子供はすぐには頷かなかった。
「やったことは似てる。でも昨日は、見えるところに置くのが大きかった」
「今日は?」
「蓋に触るのが大きい」
「じゃあ、同じじゃない?」
「うん。違う」
外から見れば似た動作でも、その日に本人が感じている意味まで同じとは限らない。
そのとき、背後で寝具の軋む小さな音がした。
顔のない存在が、寝台の上で身体を起こしている。
「おはよう」
子供が振り返ると、人影の頭がわずかに動いた。
「今日は明るいよ」
子供が窓を指す。
胸にある十一の光のうち、二つが少し強くなった。
「見る?」
返事はない。
それでも子供は急かさず、「私は見る」とだけ告げて窓へ歩いていった。
少し遅れて、顔のない存在も寝台から足を下ろした。
自分で立つ。
一歩、二歩と進み、昨日と同じ六歩目へ届く。
そこで止まるのだろうと、アリシアも子供も無意識に思っていた。
けれど今日は、止まらなかった。
七歩目。
子供の目が少し大きくなる。
さらに八歩目。
窓まであと一、二歩というところで、ようやく顔のない存在は動きを止めた。
誰もすぐには声を出さなかった。
昨日より明らかに遠くまで来た。
子供はそれを見ていたが、大きな意味を与えようとはしなかった。
「八」
「うん」
「昨日は六。今日は八」
「そうだね」
「増えた」
「うん」
そこで子供は自分から続けた。
「でも、明日十じゃない」
「うん」
「今日は八」
「そうだね」
顔のない存在は、その場でゆっくり床へ座った。
窓までは、本当にあと少しだった。
「近い。窓まであと少し」
子供はそこまで言ってから、口を閉じた。
昨日の話を思い出したのだろう。
あと少し。
それは誰かが残りを埋めていい理由にはならない。
「でも、行かない」
「うん」
「この人、自分で止まった」
「うん」
「窓まで連れてかない」
子供は人影をしばらく見つめた。
「見たかったら、自分で行く?」
「そうかもしれない」
「行かないかも?」
「うん」
「じゃあ、今日はここ」
「うん」
子供はそれ以上気にせず、窓へ戻った。
外では二羽の鳥が水溜まりの近くにいた。一羽は濡れた地面を嘴で突き、もう一羽は少し離れたところでじっと立っている。
「二羽いる」
「うん」
「片方は動く。片方は止まってる」
「そうだね」
「一緒じゃない。でも近くにいる」
子供は少し考えた。
「仲間?」
「分からない」
「夫婦?」
「分からない」
「家族?」
「それも分からない」
何度聞いても同じ答えが返ってきたことが可笑しかったのか、子供が小さく笑った。
「じゃあ、鳥が二羽」
「うん」
「それだけ」
「今分かるのはね」
朝食は粥と根菜、小さな白い食べ物、それから昨日の酸っぱい紫とは違う淡い赤色の果実だった。
席へ着いた子供は、最初に赤い果実へ目を留める。
「赤。甘い?」
「少し甘いですよ」
治療教師が答える。
「酸っぱい?」
「少しだけ」
「苦い?」
「ほとんどありません」
「じゃあ、食べる」
一口。
子供は慎重に噛み、少しだけ目を細めた。
「甘い。でも酸っぱい」
「昨日の紫より?」
アリシアが聞く。
「昨日の方が酸っぱい。今日の赤は、甘い方が多い」
「好き?」
「今は好き」
治療教師から正式な名前を教えてもらったものの、子供はしばらく考えた末に首を傾げた。
「甘酸っぱい赤」
「長くなったね」
「でも分かる。赤だけじゃ、甘いか分からない」
「確かに」
「でも次の赤は違うかも」
「そうだね」
「じゃあ、今日の甘酸っぱい赤」
「さらに長くなった」
子供は困ったように眉を寄せたあと、何かを思いついた。
「……甘赤」
「急に短くなったね」
「うん。甘赤」
気に入ったらしい。
二口目、三口目と食べたところで、子供は手を止めた。
「今日は三つでいい」
「お腹いっぱい?」
「まだ少し食べられる。でも、他の食べたい」
視線は粥と根菜へ向いている。
「じゃあ果実は終わり?」
「うん」
「分かりました」
治療教師は何も勧め足さなかった。
好きなものでも、まだ食べられるとしても、そこでやめて別のものを選べる。
それもまた、子供自身が決めていいことだった。
食後、セレナがいつもの距離まで近づく。
三歩。
それ以上は来ない。
「赤みはありません」
「私も見た」
「では一致しています。痛みは?」
「ない」
「それなら今日は終わりです」
「うん」
確認が終わっても、子供はすぐに扉の外へ注意を向けなかった。
昨日までなら、東と西の光が夜のあいだにどうなったのか、早く知りたがったかもしれない。
けれど今日は、甘赤の皿が下げられ、粥の器と水が片づけられるまで待った。
それからようやく扉を見る。
「学院長」
「いるぞ」
外から声が返ってくる。
「光の話、聞いていい?」
「もちろんだ。どちらから聞く?」
子供は少し考えた。
「東」
「分かった」
学院長は扉の外、いつもの位置に立ったまま報告を始める。
「東側地下空室へ入った光は、朝からほとんど位置を変えていない。わずかな輪郭変化はあるが、場所はほぼ同じだ」
「昨日、全部入った」
「ああ」
「今も中?」
「中にいる」
「人間、何か置いた?」
「何も置いていない」
「名前は?」
「付けていない」
「部屋の名前も?」
「東側地下空室のままだ」
子供はしばらく考えた。
「光の部屋じゃない?」
「そうは呼んでいない」
「どうして?」
「その光が今そこにいるからといって、そこがその光の居場所だとはまだ分からないからだ」
「でも、一晩いた。今朝もいる」
「ああ」
「長い」
「そうだな」
「じゃあ、住んでる?」
学院長は答えを渡す代わりに、静かに尋ね返した。
「子供はどう思う?」
「分からない」
「俺も、まだ分からない」
子供はそこで生活観測区画を見回した。
白い花。木箱。顔のない存在の寝台。食卓。窓。
「ここ、私、何日いる?」
「ある程度は経ったな」
「ここ、戻る場所になり始めたって言った」
「ああ」
「でも、居場所?」
今度はアリシアへ視線が向く。
「子供はどう感じてる?」
「……少し」
その答えには迷いがあった。
「でも、ここだけじゃない。治療の部屋も行く。庭も行く。それから……前にいた水も」
最後の言葉を口にしたときだけ、子供の顔が少し硬くなった。
「水は居場所?」
「子供はどう感じる?」
「前は、いた場所」
「うん」
「今も戻りたい気持ちは少しある。でも、あそこが私の居場所って言われたら……嫌」
「うん」
子供は扉の方へ顔を向けた。
「じゃあ光も、前にいた空室だから居場所って決めたら嫌かもしれない」
「そうかもしれないね」
「今いるからって決めるのも?」
「それも、まだ早いかもしれない」
「じゃあ何?」
アリシアは少し考えた。
「今いる場所」
子供は瞬きをした。
「それだけ?」
「今は、それだけでもいいと思う」
「……便利」
学院長が扉の外で小さく笑った。
「東側については、今のところその扱いだ」
「西は?」
「西側の光も、昨夜から境界の先で位置を大きく変えていない」
「一晩?」
「ああ」
「新しい場所に?」
「そうだ」
「そこも居場所?」
「決めていない」
「人間は使ってない場所なんだよね」
「そうだ」
「でも光はいる」
「ああ」
子供の表情に少し興味が浮かんだ。
「人間が場所じゃないって思ってても、光がいる」
「そうだな」
「光がいるから、場所になる?」
学院長は少し考え込んだ。
「人間側から見れば、観測する意味のある場所にはなる」
「長い」
すかさず子供が言う。
アリシアが笑いを堪えながら言い換えた。
「光がいるから、人間がそこを気にするようになったってこと」
「ああ。それでいい」
「でも、光の居場所かは分からない?」
「うん」
子供はしばらく黙った。
そして、ぽつりと尋ねる。
「居場所って、誰が決める?」
部屋の空気が少しだけ静かになった。
学院長はすぐには答えない。アリシアも、その問いを簡単な言葉で終わらせたくはなかった。
「自分?」
先に答えを探したのは子供自身だった。
「自分が決める部分は大きいと思う」
アリシアはそう答え、それから続けた。
「でも、自分だけでは決められないこともあるかな」
「どうして?」
「安全にいられるかどうかとか、ほかの人と一緒に使う場所なら、その人たちとの関係もあるから」
「ここは?」
「生活観測区画?」
「うん。私だけの?」
「違うね」
「アリシアいる。この人もいる。ノアも」
『いるわよ』
もちろん子供には聞こえない。
「セレナは三歩」
「はい」
外からセレナの声が返り、子供は少し笑った。
「学院長は外」
「そうだな」
「じゃあ、私がここを居場所って決めても、全部が私のものになるわけじゃない」
「うん」
「でも、私の居場所でもある?」
「子供がそう思うなら、そういう場所にはなれると思う」
子供はゆっくり室内を見回した。
「誰か一人のものじゃないけど、私の居場所でもある」
「うん」
「光も?」
「そういう場所を持つ可能性はあると思う」
「でも今は分からない」
「うん」
「じゃあ、決めない」
それで納得したらしい。
「長くいても、居場所にしなくていい。でも、あとから居場所になってもいい」
「うん」
「今じゃなくても」
「うん」
学院長は少し間を置き、それから西側についてもう一つ報告があると告げた。
「危ない?」
「現時点では急ぎではない。未確認区画の先を、土の神器継承者が地中感知した」
「道を作った?」
「作っていない。古い石室らしい空間が見つかっただけだ」
「部屋?」
「崩れている部分が多く、何に使われていたのかは分からない」
「光、そこへ行く?」
「今いる位置からはまだ距離がある。直接つながる通路もないように見える」
「じゃあ行けない?」
「光の移動の仕方が、人間と同じとは限らない」
子供はすぐに頷いた。
「だから今は?」
「危険なところだけ確認している」
「その部屋、名前つける?」
「まだだ。調査上は『西側旧石室候補』としている」
「長い」
「記録だからな」
今度は学院長も笑った。
「光の部屋じゃない」
「そうだ」
「もし光がそこへ行って、一晩いたら?」
「それだけでは光の部屋とは呼ばない」
「うん」
子供はそこで木箱へ目を向けた。
「これも昨日からここにいる」
「箱が?」
「うん。でも前は棚の下だった。今日また変えるかもしれない」
「うん」
「じゃあ、ここが箱の居場所じゃない」
「そう思う?」
「たぶん。でも今はここ」
「うん」
「それでいい」
午前中、生活観測区画では特別な訓練を行わなかった。
接触試験も、扉の開放もない。
何かを進めるための日ではなく、今ある生活を続ける日だった。
子供は丸い木片を手に取った。
昨日、顔のない存在は四度ほどそれを返し、最後は木片へ触れたまま遊びを終えている。
「遊ぶ?」
子供が床を転がすと、木片は顔のない存在の足元で止まった。
少し遅れて指が伸びる。
触れる。
そして返す。
「一」
子供が嬉しそうに数えた。
二度目も返ってきた。
三度目。
今度は返ってこない。
顔のない存在は木片へ指を置いたまま、動かなくなった。
「今日は三で止まった」
「昨日より少ないね」
「うん」
「嫌?」
「少し」
正直な答えだった。
「でも、今日は三」
「うん」
子供は待った。
けれど人影の指は木片から離れない。
「終わりに見える」
「うん」
「じゃあ取らない」
そう言うと、子供は本当に別のことを探し始めた。
窓の外を見る。
先ほど二羽いた鳥は、今は一羽だけになっていた。
「さっき二羽いた」
「うん」
「今、一羽。もう一羽どこ?」
「ここからは見えないね」
「いなくなった?」
「この窓からは」
子供はそこで一度止まり、自分から言い直した。
「見えないだけかもしれない」
「うん」
「いないって決めない」
それから子供は木箱のところへ行った。
「箱、ここにある」
「うん」
「今日も開ける?」
「まだ」
子供は蓋へ指を置く。
けれど今度は開ける代わりに、箱そのものを少しだけ窓側へ引いた。
「動かすの?」
「うん。ここ」
「どうして?」
「朝の光」
窓から差し込んだ淡い日差しが、ちょうど木箱へ届き始めていた。
「箱に当たる」
「嫌?」
「分からない。でも見たい」
子供は少し位置を調整した。
木箱の蓋の半分ほどが朝の光に照らされ、残り半分には影が落ちる。
「半分……くらい」
「うん」
「前に見た光と違う」
「そうだね」
「箱も、明るいところと暗いところがある」
子供は左右を見比べる。
「どっちが箱?」
「両方」
「全部?」
「全部箱」
子供はしばらく考えた。
「戻りたい気持ちも、明るいとか暗いとかある?」
「それは私には分からないな」
「うん。でも、箱は箱」
「うん」
子供はそれ以上動かさなかった。
昼前。
東側地下空室で、新しい変化が起きた。
「移動を確認」
観測員の声に、サーラが記録板から顔を上げる。
「方向は?」
「……入口側です」
昨夜からほとんど同じ位置に留まっていた光が、ゆっくりと入口へ近づいていた。
「外へ出ますか?」
「まだです。移動距離は手の幅一つほど。接続値は低いまま、輪郭も安定しています」
「人間側からの刺激は?」
「ありません」
若い観測員が思わず呟いた。
「せっかく全部入ったのに……」
言い終える前に、自分で気づいたらしい。
口を閉じる。
サーラは責めるのではなく、静かに尋ねた。
「何を言いかけました?」
「……戻るのかなって」
「どこへ?」
「通路へ」
「位置としては入口へ近づいていますね」
「はい。でも……全部入ったから、もう中にいるんだと思ってました」
「実際、中にはいます」
「そういう意味じゃなくて」
若い観測員は言葉を探した。
「ここを選んだんだって、どこかで思ってたんです」
「一晩いたから?」
「はい」
「全部入ったから?」
「……はい」
サーラはしばらく光を見つめた。
「私も少し思いました」
「サーラさんも?」
「ええ。だからこそ、記録には書きません」
若い観測員が目を瞬かせる。
「全部入ったから、ここに決めた。長くいたから、ここが居場所になった。それは、私たちが安心したくて作る物語です」
「……はい」
「そして、光が今入口へ近づいたからといって、昨日の移動が間違いだったことにもなりません」
「はい」
「今の移動を『外へ出たい』と決めるのも早い」
「分かりました」
光は入口へ少し近づいたところで、また止まった。
「部屋の中だけど、入口に近い」
若い観測員が呟く。
「はい」
「じゃあ……今いる場所」
「それだけです」
「便利ですね、その言葉」
「最近よく聞きます」
サーラが少し笑った。
同じ頃、西側の未確認区画でも、夜から止まっていた光が動いた。
「移動」
土の神器継承者が告げる。
「方向は?」
「横です。奥でも、戻る方向でもありません」
光は古い石壁に沿うように移動していた。
「石室候補へ近づいている?」
「直線距離では」
「誘導は?」
「一切していません」
「床の状態は?」
「安定。危険値も基準以下です」
副学院長は短く頷いた。
「なら待つ」
光はさらに少し横へ動き、古いひびの入った石壁の近くで止まった。
「壁?」
「正確には壁の近くです」
「向こうに何かあるのか?」
土の神器継承者がもう一度感知を行う。
「内部に空洞があります。先ほど確認した石室候補である可能性が高い」
「入口は?」
「人間が通れる穴はありません」
「光なら?」
「分かりません」
若い術師が壁を見た。
「入口を作りますか?」
「作らない」
副学院長は即答した。
「でも、光が向こうへ行きたい可能性も」
「分からない」
「……はい」
「分からないから、作らない。危険反応がないなら、壁の前で止まっているものを人間側の都合で先へ進める必要はない」
誰も壁へ触れなかった。
古い石室らしき空間は、すぐ向こうにある。
けれど、人間側はそこへ穴を開けなかった。
午後。
生活観測区画では昼食が始まっていた。
子供には少し疲れが見えていたものの、食欲は残っている。粥と根菜、それから朝と同じ種類の甘赤が並んだ。
「同じ?」
「同じ種類ですよ。ただし朝とは別の実です」
「食べる」
一口齧った子供の顔が、少し変わった。
「朝より甘い」
「じゃあ、これは甘赤?」
アリシアが聞く。
「うん」
「酸っぱくない?」
「少しある。だから甘赤」
「朝のも?」
「甘赤」
「でも味は違う?」
「うん。同じ名前で、同じ種類。でも全部同じじゃない」
子供は二口食べたところで果実を置いた。
「もういい。今はこっち食べたい」
今度は根菜へ手を伸ばす。
同じ名前でも同じではない。
同じものを好きでも、毎回同じだけ欲しいわけではない。
その小さな違いを、子供は少しずつ自分の言葉で拾うようになっていた。
昼食後、子供は木箱の横へ座った。
朝には箱の半分を照らしていた日差しが、太陽の位置が変わったことで今は別の場所へ移っている。木箱は動いていないのに、ほとんど全体が影の中にあった。
「アリシア」
「うん」
「箱、朝ここに動かした」
「うん」
「朝は明るかった。でも今は影」
「そうだね」
「箱、動いてない」
「太陽が動いて、窓から入る光の場所が変わったんだよ」
「箱は同じ。でも見え方違う」
「うん」
子供は蓋へ手を置いた。
「居場所も?」
「どういうこと?」
「同じ場所にいても、気持ち変わる?」
「あると思うよ」
「朝はここ好き。でも夜になったら嫌になる?」
「そういうこともあると思う」
「場所は同じなのに?」
「うん」
「私が違うから?」
「それもあるかもしれない」
子供は木箱を見つめたまま、ゆっくり言葉を組み立てた。
「じゃあ、長くいても、ずっと好きじゃなくていい」
「うん」
「あとで嫌になっても、前に好きだったのが嘘になるわけじゃない?」
「ならないよ」
その答えを聞いて、子供は少しだけ表情を緩めた。
「じゃあ、ここは今日の箱の場所」
「うん」
「明日は違うかも」
「そうだね」
「箱は嫌って言わないけど」
「箱だからね」
子供が少し笑った。
「光は分からない。この人も分からない。でも人間は言う?」
「何を?」
「居場所、変えたいって」
「言うことはあるよ」
「家も?」
「うん」
「学校も?」
「うん」
「部屋も?」
「うん」
「全部変える人もいる?」
「いると思う」
「どうして?」
「理由はいろいろあるけど……一つだけなら、前は落ち着けた場所が、あとから自分に合わなくなることもあるから」
「逆も?」
「あるよ」
「最初は嫌でも、あとで好きになる?」
「うん」
子供は納得したように頷いた。
「じゃあ、居場所も変わる。名前が同じでも、変わる」
「そうだね」
そのとき、午前中から木片へ触れたままだった顔のない存在の手が、ようやく離れた。
「あ」
子供はすぐに気づいた。
「離した」
「うん」
「今?」
「今だね」
子供は立ち上がり、木片を取りに行く。
「じゃあ、私が使う」
顔のない存在から反応はない。
子供は木片を拾い、自分で壁へ転がした。
ころころと床を進み、壁へ小さく当たって止まる。
「戻った?」
アリシアが聞く。
「木片が?」
「子供のところへ」
「戻ったんじゃない」
子供は少し考えてから答えた。
「私が取った。自分で転がした。だから今は私が使ってる」
「じゃあ、『戻った』って言わない?」
「言ってもいいかもしれない。でも木片は歩いてない」
「うん」
「私が動かした」
「うん」
子供は少し笑った。
「だから、私のところへ戻した」
「なるほど」
「光とは違う」
「うん」
午後遅く。
東側の光が入口へ少し近づいたことも、西側の光が壁際へ横移動したことも、学院長はすぐには子供へ伝えなかった。
子供には少し眠気がある。
今は一人で木片を転がし、時折木箱を見て、白い花を眺めている。
光に変化があったからといって、生活まで止める必要はない。
けれど、しばらくすると子供の方から尋ねた。
「光、何かあった?」
アリシアが顔を上げる。
「どうしてそう思ったの?」
「学院長、二回来た」
扉の外で沈黙が落ちた。
やがて、学院長の少し困った声が聞こえる。
「……ばれたか」
子供が笑った。
「聞いていい?」
「もちろんだ。一つずつ話そう」
「東から」
「東側地下空室の光が、入口の方へ少し近づいた」
子供の表情が変わる。
「外へ出た?」
「まだだ。部屋の中にいる」
「入口の近く?」
「ああ」
「……居場所じゃなかった?」
アリシアはその言葉を聞いて、少し笑った。
「朝の話を思い出した?」
「うん。全部入ったから、ここって決めたわけじゃない」
「うん」
「少し戻った?」
「正確には入口へ近づいた、だね」
「記録に戻るって書く?」
「書かない」
「人間、何かした?」
「何もしていない」
子供は少し安心したように息を吐いた。
「じゃあ、光が動いた」
「うん」
「中に一晩いた。でも今日は入口へ行った」
「そうだね」
少し考えてから、子供が笑う。
「やっぱり居場所って決めなくてよかった」
「もし明日また奥へ行ったら?」
「それでも、そのときいる場所」
「うん」
「西は?」
「境界を越えた場所から横へ少し動いて、古い石壁の近くで止まっている」
「壁の向こうに何かある?」
「地中感知では、空洞らしきものがある」
「部屋?」
「その可能性はある」
「穴は?」
「人が通れる穴はない」
「作った?」
「作っていない」
「どうして?」
「光がそこへ行きたいか分からないから」
子供は石壁の向こうを想像するように黙った。
「でも、壁の前にいる。あと少し……」
そこまで言って、自分ですぐ首を横へ振る。
「違う」
「うん」
「壁の向こうへ行きたいって決めない」
「うん」
「穴を作ったら、人間が先に決める」
「そうなる可能性はあるね」
「じゃあ待つ」
「学院側も今はそうしている」
「危なくない?」
「現時点では低い」
「なら、それでいい」
夕方。
子供は再び白い花の前へ立った。
朝は触らないと自分で決めた。
そして今、中心に残っていたわずかな白も、ほとんど見えなくなっている。
子供は角度を変え、差し込む夕方の光の中で何度も確かめた。
「まだある?」
アリシアも隣へ立つ。
「私には、もう白というより薄い茶色に見える」
「私も」
声が少し沈んだ。
「白、なくなった?」
「完全に一つもないかまでは分からない。でも、白いってすぐ分かるところは、もうほとんどないね」
「うん」
子供は長く花を見つめた。
「白い花」
「うん」
「白、ない」
「うん」
「でも、白い花」
「うん」
「変?」
「子供は変だと思う?」
「思わない」
子供はゆっくり首を横へ振った。
「前は白かった。私が選んだ。匂いがあって、柔らかくて、触った。欠けた。触らなかった日もあった。今日は茶色」
そこで一度息を吸う。
「全部、白い花」
「うん」
子供の目が少し潤んだ。
「白、なくなったの嫌」
「うん」
「戻したい」
「うん」
「でも戻せない」
「そうだね」
子供は小皿へ視線を移した。
「これも、もう花の形じゃない」
「欠けた花弁?」
「うん。でも白い花のだった」
「うん」
「じゃあ……なくなっても、前はある」
アリシアはその言葉を静かに聞いた。
「形がなくなっても?」
「全部なくなっても、子供がこの花を見た時間はあったよ」
「覚えてる間だけ?」
「忘れることがあっても、あったこと自体がなくなるわけじゃない」
子供の頬を涙が一つ流れた。
それでも、花へ手は伸ばさなかった。
「今日、触らなかった」
「うん」
「その間に白、なくなった」
「うん」
「もし触ってたら?」
「どうなったかは分からない」
「そっか」
子供は涙を拭かず、しばらくそのまま花を見つめていた。
「じゃあ、今日は触らなかったまま」
「うん」
「それでいい」
「うん」
アリシアは慰めるための言葉を急いで探さなかった。
子供には今、自分で花を見送るための時間が必要なのだと思った。
夕食の時間は少し遅らせられた。
誰も急かさない。
少し離れた場所では、顔のない存在も棚の方へ頭を向けていた。胸にある十一の光の一つが、弱く揺れる。
「この人」
子供はようやく涙を拭いた。
「白い花、白なくなった」
返事はない。
けれど十一の光のうち、もう一つがわずかに強くなった。
「分かる?」
やはり返事はない。
子供はしばらく待ったあと、自分から首を横へ振った。
「分からない」
そして、少しだけ胸元を握った。
「でも、私は悲しい」
顔のない存在は動かない。
「それでいい」
その言葉に、アリシアは少し驚いた。
子供は人影へ向けて続ける。
「あなたが悲しいって決めなくていい。私は悲しい」
十一の光が、ゆっくり揺れた。
「うん」
アリシアも静かに頷く。
「それでいいよ」
夕食は粥と根菜、それからやわらか白だった。
最初、子供にはあまり食欲がなかった。
「食べたくない?」
治療教師が尋ねる。
「少しだけ」
「どのくらいなら食べられそう?」
「分からない」
「では、まず粥だけにしますか?」
「うん」
一口。
ゆっくり飲み込む。
「味する?」
アリシアが聞く。
「うん」
「悲しくても?」
「うん。白い花は茶色。でも粥は粥」
二口目、三口目。
少しずつ呼吸が落ち着いてくる。
「やわらか白も食べる?」
「少し」
一口。
子供の眉がわずかに上がった。
「甘い」
「うん」
「悲しいのに、甘い」
「うん」
子供は困ったように、それでも少しだけ笑った。
「変」
「そう?」
「でも嫌じゃない」
もう一口食べる。
悲しいことがあったからといって、食べ物の甘さまで消えるわけではない。
甘いと感じたからといって、悲しさが嘘になるわけでもない。
その二つは、同じ時間の中に一緒にあってよかった。
食後。
子供は木箱の前へ行った。
朝から一日、棚の前の見える場所に置かれていた箱だった。
「戻す?」
アリシアが尋ねる。
「棚の下に?」
「うん」
子供は木箱を見て、それから白い花へ目を向けた。
「今日、箱ずっとここにいた」
「うん」
「朝から」
「うん」
「じゃあ、ここが箱の居場所?」
「子供はどう思う?」
「違う。今いただけ」
その答えは朝より早かった。
「夜は棚の下へ戻す」
「どうして?」
「今日は白い花が見える。箱もずっと見えると……」
子供は胸元へ手を置いた。
「いっぱいになる」
「うん」
「戻りたい気持ちは、今は見なくていい。でも捨てない」
「うん」
「だから棚の下」
子供は自分で木箱を持ち上げた。
昨日より迷いは少ない。
棚の下、以前置かれていた位置へゆっくり戻す。
「戻した」
そう言ってから、子供は少し考えた。
「箱を、私が戻した」
「うん」
「戻されたんじゃない」
「うん」
「自分で戻した」
その違いを確かめるように、子供は何度か頷いた。
「戻るのも、自分でできる」
「うん」
「戻ったら負けじゃない」
「うん」
「昨日ここに出したのも、間違いじゃない」
「うん」
「今日戻すのも、間違いじゃない」
「そうだね」
ようやく子供は満足そうに笑った。
「じゃあ、箱は今日はここ」
「うん」
夜。
寝台へ入ったあとも、子供はしばらく白い花の方を見ていた。
「アリシア」
「うん」
「居場所の話」
「うん」
「ここ、私の居場所?」
「どう思う?」
「少し」
朝と同じ答えだった。
「でも、明日別のところへ行って、ここが嫌になるかもしれない」
「うん」
「それでも?」
「今日、ここを少し居場所だと感じたことは残るよ」
「あとで変えていい?」
「うん」
子供は天井を見た。
「東側の光も一晩いた。でも今日は入口へ近づいた。だから居場所って決めない」
「うん」
「西側も壁の前にいる。でも長くいたからって、壁の前が居場所だって決めない」
「うん」
「この人も」
隣の寝台を見る。
「ここにずっといる」
「うん」
「ここ、この人の居場所?」
「分からない」
「うん」
子供は少し笑った。
「でも、今ここにいる」
「うん」
「私もここにいる。アリシアも」
「うん」
「ノアも」
『私はかなり居心地がいいけれど』
アリシアは思わずノアを見る。
「何て?」
子供が尋ねた。
「ノアは、かなりここが好きだって」
『そこまで言ってないわ』
「でも居心地いいって言ったでしょ」
『勝手に意味を足さない』
「何て言ってる?」
子供が面白そうに身を起こしかける。
「半分内緒」
「半分?」
「居心地はいい。でも好きとまでは言ってないって」
「違う?」
「ノアの中では違うみたい」
子供が笑った。
アリシアも笑う。
少し離れた寝台では、顔のない存在の胸にある十一の光の幾つかが、柔らかく揺れていた。
「おやすみ」
「おやすみ」
子供は目を閉じた。
その夜。
東側地下空室では、名前のない光が再びわずかに動いた。
「移動を確認」
観測員の声に、サーラが顔を上げる。
「方向は?」
「入口と平行です」
外へ向かっているわけではない。
奥へ戻るわけでもない。
入口に近い位置を保ったまま、壁沿いへ少し横に移動していく。
「現在位置は?」
「室内。入口付近です。接続値は低いまま、輪郭も安定」
「なら観測継続」
「はい」
若い観測員が光を見つめた。
「一晩ここにいたのに、今日は入口へ近づいて、今度は横ですか」
「そうですね」
「本当に落ち着かないですね」
サーラが彼を見る。
「誰が?」
若い観測員は一瞬きょとんとし、それから苦笑した。
「……俺がです」
「光は?」
「分かりません」
「なら大丈夫です」
「何がです?」
「今、自分で言い直せたでしょう」
「そこですか」
「そこです」
サーラも少し笑った。
「朝は、あそこが居場所だと思った?」
「少し」
「今は?」
若い観測員は光を見る。
「今いる場所」
「はい。それで十分です」
一方、西側では、光が古い石壁の前へ留まり続けていた。
夜が深くなった頃、新たな変化が確認される。
「壁面に魔力反応」
土の神器継承者が目を細めた。
「光からか?」
「違います」
「壁内部?」
「向こうの空洞側です」
副学院長が地図へ目を落とした。
「第四の声と同質か?」
「いいえ。今まで確認したものとは違います」
「危険度は?」
「現時点では低い。反応源は古い魔導具の可能性があります」
「起動している?」
「していません」
「光との関係は?」
「分かりません」
光は石壁の近くにいる。
壁の向こうには古い空洞があり、そこから新しい魔力反応が出ている。
観測員たちの間に緊張が走ったが、副学院長はすぐに動くことを許さなかった。
「調べますか?」
「光から離れた側からだ」
「壁を壊して?」
「壊さない」
「では、回り込める経路を探します」
「そうしろ」
「今夜中に?」
副学院長は少し考え、首を横へ振った。
「急ぎではない。朝まで待つ」
「その間に光が動いた場合は?」
「追わない。位置と危険値だけ確認する」
「了解」
人間側は、またそこで止まった。
生活観測区画では、ほとんど茶色になった白い花が棚の上にある。
木箱は子供自身の手で棚の下へ戻された。
顔のない存在は寝台に横たわり、その隣では子供が眠っている。アリシアも同じ部屋に残り、ノアは無地の布の上で丸くなっていた。
木箱は今日一日、見える場所にいた。
けれど夜になり、子供は自分の意思で棚の下へ戻した。
だからといって、昨日見えるところへ出したことが間違いになるわけではない。
東側の光は一晩、空室の中に留まった。
けれど今日になって入口へ近づいた。
だからといって、昨日その奥へ進んだことが嘘になるわけでも、間違いだったことになるわけでもない。
西側の光は境界の先へ進み、今は古い石壁の前で長く止まっている。
けれど、そこへ急いで名前を付ける必要はない。
居場所。
帰る場所。
選んだ場所。
避難場所。
どれもまだ、人間側が先に決めていい言葉ではなかった。
長くいるうちに、一つの場所が大切な意味を持つことはある。
何度もそこへ戻り、そこで眠り、食べ、泣き、笑い、誰かと時間を重ねたあとになって、初めて「あそこは自分の居場所だった」と気づくこともあるのだろう。
けれど、一晩いたから。
二日いたから。
何度か戻ってきたから。
ただ長くそこにいるから。
それだけを理由に、誰かが「ここがお前の場所だ」と決めなくてもいい。
居場所は、一度入れば出られなくなる箱ではない。
変わることもある。
増えることも、失うこともある。
一度離れた場所へ、自分の意思で戻ることだってある。
そして、戻ったからといって、それまで歩いてきた時間まで間違いになるわけではない。
今はまだ、名前がなくてもいい。
ただ、ここにいる。
それだけで十分な夜もある。
東側の光は、空室の入口近くにいる。
西側の光は、古い石壁の前にいる。
生活観測区画では、子供と顔のない存在とアリシアとノアが、同じ部屋でそれぞれの夜を過ごしている。
そこを誰の居場所と呼ぶのか。
明日もそう呼べるのか。
それは、今夜決めなくてもいい。
それでも今、この瞬間。
それぞれが自分の位置で止まり、自分の時間を過ごしている。
誰かに決められた場所ではなく。
少なくとも今は、自分からそこにいる。
そのことだけは、確かだった。




