第130話 近くにあるからといって、それが自分を呼んでいるとは限らない
夜明け前、西側地下区画の空気には、地上よりもずっと深い冷たさが残っていた。
昨日まで続いていた雨の影響なのか、古い石壁には薄く湿り気が浮かび、所々に残る細かな亀裂の奥からは土の匂いが滲んでいる。設置された観測灯は一定の光を保っていたが、長いあいだ誰にも使われてこなかった地下空間は、明かりが増えた程度では人の場所には見えなかった。
安全確認済みの境界を越えた、そのさらに奥。
名前のない光は、昨夜から古い石壁の前に留まっている。
そして、その壁の向こうには、人間側がまだ直接見たことのない空洞があった。
「反応値、変化ありません」
夜勤の観測員が、静けさを乱さない程度の声で報告する。
「光側は?」
「こちらも大きな変化なし。輪郭は安定、接続値も低いままです」
副学院長は腕を組み、壁へ向けられた測定盤を見つめた。
壁の向こうから拾われた微弱な魔力反応は、第四の声とも中央の声とも異なっている。地下施設内でこれまで見つかってきた命令系統とも一致せず、昨夜の時点では、古い魔導具か、その残骸ではないかという推測までしか出ていなかった。
「反応源は動いていないな?」
「はい。ほぼ固定です」
「光との同期は?」
「確認できる範囲ではありません」
「確認できる範囲では、か」
副学院長が言い直すと、若い観測員の肩がわずかに強張った。
「……はい。断言はできません」
「それでいい。分からないことを、分かっているように報告される方が困る」
叱責を覚悟していたらしい観測員が、ほんの少しだけ目を上げた。
その横では、土の神器継承者が石壁から距離を取り、片膝をついている。掌を床へ触れさせ、そこから広げる感知を、何度も弱く重ねていた。
一度に深く探れば、地中へ余計な刺激を与える可能性がある。だからこそ、薄く、短く、必要な範囲だけを少しずつ確かめていく。
「南側へ回り込める可能性があります」
しばらくして、土の神器継承者が顔を上げた。
「距離は?」
「直線では短いですが、人間が通れる既存通路を使うなら遠回りになります。途中に埋まっている区画が二つあります」
「掘る必要は?」
「今のところありません。古い保守通路らしき空間が残っています。ただ、人が通れる状態かまでは分かりません」
副学院長は短く頷いた。
「朝になってから人員を増やす。ただし、目的を間違えるな」
その言葉で、周囲にいた者たちの視線が集まる。
「光のいる壁の向こうへ行くためではない。壁の向こうにある反応源を、人間側が安全な方向から確認するためだ。その結果として石室候補へ近づける可能性はあるが、光のために道を作るわけじゃない」
「……光が壁の前にいることと、向こうに魔力反応があることは、今の時点では別の事実ということですか」
若い術師の問いに、副学院長は頷いた。
「そうだ」
「たまたま近いだけかもしれない。でも、関係がある可能性も残っている」
「だから、今はどちらにも決めない」
副学院長の視線の先で、名前のない光が静かに揺れている。
「近くにあるもの全部が、互いを呼び合っているとは限らない」
それ以上の結論を、誰も付け足さなかった。
◇
同じ頃、生活観測区画では、アリシアがいつもより少し早く目を覚ましていた。
窓の向こうには朝焼けが広がり始めている。昨日まで空に残っていた厚い雲は夜のうちにさらに東へ流れ、まだ薄い灰色を帯びた空の端へ、淡い橙色が滲んでいた。
庭の水溜まりも少し減っている。石畳は場所によって乾き始め、昨日まで雫をまとっていた植え込みも、今朝は葉の先にわずかな水を残す程度だった。
アリシアは寝台から身体を起こし、まず子供の方を見る。
まだ眠っている。
隣の寝台では、顔のない存在も横になったままだ。胸の十一の光は弱いものの、一つも消えてはいない。
机には、朝一番の簡易報告が置かれていた。
東側の光は、夜中に入口付近を壁沿いへ少し横移動したあと、その位置で止まっている。外へ出たわけでも、空室の奥へ戻ったわけでもなかった。
西側の光にも大きな位置変化はない。ただし、石壁の向こうにある魔力反応について、朝から別経路で確認を始める予定だと追記されている。
『その紙、また難しい顔になるやつ?』
床からノアの声がした。
「まだ読んだだけ」
『つまり、これから難しい顔になる』
「ならないよ。今日は違うから」
『何が?』
「すぐ意味を付けない。東の光は入口付近にいる。西の光は壁の前にいる。壁の向こうに魔力反応がある。今分かってるのは、それだけ」
黒猫が片目だけ開けた。
『かなり上達したじゃない』
「また褒めてる?」
『今日は九割くらい』
「残り一割は?」
『その報告書を三回くらい読み返しそうな顔』
アリシアは手元の紙へ目を落とし、少しだけ考えた。
「……二回までにする」
『やっぱり読むのね』
報告書を閉じたところで、寝台から布の擦れる小さな音が聞こえた。
子供が目を覚ました。
最初に天井を見て、次に窓へ視線を向け、最後に隣の寝台を確かめる。昨日と同じ順番だった。
顔のない存在がいることを確認すると、子供の肩からわずかに力が抜けた。
「いる」
今朝も、その確認から一日が始まる。
「おはよう」
呼びかけても、十一の光はすぐには反応しなかった。
子供は急かさない。
昨日より少し長く待ったあと、一つの光が淡く明るくなり、少し遅れてもう一つが続いた。
「今日は二つ」
「昨日の朝は三つだったね」
「でも今日は二つ。数は少ない」
そこで子供は少しだけ眉を寄せたものの、不安をそのまま結論にはしなかった。
「……少し気になる。でも、昨日より悪いって決めない。眠いだけかもしれないし、違うかもしれない」
「そうだね」
「じゃあ、今日の二つ」
もう一度だけ「おはよう」と告げる。
三つ目は明るくならなかった。
それでも子供は待ち続けず、布団をめくって足の裏を確かめ始めた。赤みがないことを見て、片足ずつ床へ下ろし、体重をかける。
「こっち、大丈夫。もう片方も……痛くない」
「あとでセレナにも見てもらう?」
「見るだけなら」
「分かった」
立ち上がった子供が次に向かったのは、白い花を置いた棚だった。
昨日、最後に残っていた白らしい部分までほとんど茶色へ変わった花は、一晩を越えてさらに形を崩している。一枚の花弁が茎にはついたまま下へ折れ、小皿の中に置いていた欠片も、昨日より細かく崩れていた。
「……曲がった」
子供が顔を近づける。
「昨日は、もう少し上だった」
「そうだったと思う」
「夜、誰も触ってない?」
「触ってないよ」
「じゃあ、自分で?」
「乾いたりして形が変わったのかもしれないね」
子供は花と小皿を交互に眺めた。
「全部なくなる?」
「時間が経てば、かなり崩れると思う。でも、今日全部なくなるかは分からない」
「明日は?」
「それも分からないな」
子供は少し唇を尖らせる。
「また分からない」
「分からないこと、いっぱいあるね」
「うん」
しばらく花を見つめたあと、子供の指がゆっくり伸びた。
昨日は触らなかった。そのまま白はほとんど消えてしまった。
今日はどうしたいのか。
アリシアは何も言わずに待つ。
指先は、折れた花弁の少し手前で止まった。
「触ったら、欠けるかもしれない」
「そうだね」
「でも触らなくても、欠けるかもしれない」
子供はそこで長く迷った。
やがて、息を小さく吐く。
「今日は少しだけ触る」
指先が、ごく軽く花弁の端へ触れた。
撫でるほどでもない。ただ、そこにあることを確かめるような触れ方だった。
花弁は欠けなかった。
「……大丈夫」
少し安心した声が漏れる。
けれど、二度目は触らない。
「もういい?」
「もっと触りたいも少しある。でも、壊したくないもある。今は、もう触らない方が大きい」
「じゃあ、今日はここまでだね」
「うん」
子供は自分の指先をしばらく眺めてから、静かに手を下ろした。
「箱は?」
アリシアが尋ねると、子供は棚の下へ目を向ける。
昨夜、自分自身で戻した木箱は、そのままそこにあった。
「今日はまだ出さない」
「見たくない?」
「見てもいい。でも今は白い花を見たい。一緒にいっぱい見ると、またいっぱいになるから」
昨日、子供自身が見つけた感覚だった。
胸の中がいっぱいになる前に、何を見るか、何を後へ回すかを自分で選ぶ。
そんな話をしているうちに、背後で寝具の軋む音がした。
顔のない存在が身体を起こしている。
「おはよう」
子供が振り返る。
返事はない。
けれど、人影は寝台の端へ足を下ろし、自分で立ち上がった。
「今日も歩く?」
一歩目。
二歩目。
三歩目。
子供は声に出さず数え始めた。
四、五、六。
昨日は六を越え、八歩目まで進んだ。
七。
八。
そこで一度、顔のない存在の動きが止まる。
子供も息を潜めた。
「八」
数呼吸。
さらに長い間が過ぎたあと、人影の足がもう一度前へ出た。
九歩目。
子供の目が大きくなる。
窓までは、あと一歩ほど。
「九……」
顔のない存在は、そこから進まなかった。
頭だけがほんの少し窓へ向く。
「見る?」
子供は尋ねたが、手を伸ばすことはしなかった。
返事もない。
「ここからでも見える?」
アリシアも九歩目の位置から窓を確かめる。
「庭の上の方なら見えると思う。水溜まりまでは少し見えにくいかな」
「全部じゃない。でも、少しは見える」
その言葉を聞いたわけではないだろう。
それでも顔のない存在は、その場でゆっくり床へ座った。
子供はしばらくその姿を見つめたあと、小さく笑った。
「今日は九」
「そうだね」
「明日は……分からない」
アリシアが答える前に、子供自身が続けた。
「知ってる」
◇
朝食前、セレナがいつもの三歩の距離から子供の足を確認した。
「赤みも腫れもありません。痛みは?」
「ない。私も見た」
「では今日はそれで終わりです」
確認が終わると、子供はすぐ食卓へ向かわず、扉の方を見た。
「学院長?」
「いるぞ」
「光の話、聞いていい?」
「ああ」
「東から」
「予想していた」
扉の外から少し笑いを含んだ声が返り、子供の口元も緩む。
「東側の光は、昨夜入口付近を横へ少し移動して、その後は止まっている」
「外には出てない?」
「出ていない。奥へも戻っていない」
「じゃあ入口の近くで夜を過ごした?」
「そうだ」
子供は少し考えた。
「前の夜は奥にいた。昨日は入口の近く。場所は変わったけど、まだ空室の中」
「ああ」
「人間は何かした?」
「何もしていない」
「扉も閉めてない?」
「閉めていない」
「光が外へ出てもいい?」
「危険がない範囲なら、人間側は止めない。奥へ行く場合も同じだ」
「どっちでも?」
「光が自分で動くならな」
それを聞くと、子供は満足そうに頷いた。
「西は?」
今度は学院長の返事が少し遅れた。
「昨日話した石壁の向こうから、別の魔力反応が見つかった」
「声?」
「今まで確認した声とは違う」
「第四でも、中央でもない?」
「ああ。古い魔導具かもしれないが、まだ分からない」
「光の近くにある?」
「ある」
子供の眉が少し寄った。
「光がそこにいるから動いた? それとも、光を呼んでる? 光が探してた?」
「全部、まだ分からない」
三つの問いにまとめて返された答えを聞き、子供は少し笑った。
「いっぱい分からない」
「そうだな」
「人間、壁壊す?」
「壊さない」
「穴も作らない?」
「作らない。壁の向こうへ別の古い通路から回り込めないか確認する」
子供の笑顔が少し消えた。
「それは、光のため?」
「違う」
学院長はそこだけは明確に答えた。
「人間側が、壁の向こうにある魔力反応が危険かどうか確かめるためだ。光が向こうへ行きたいかどうかは、まだ分からない」
「でも、すぐ近くにある」
「そうだ」
子供は朝食の湯気を眺めながら、しばらく考えた。
「近いと、関係ある?」
「ある場合もあるし、ない場合もある」
「例えば?」
今度はアリシアへ視線が向く。
突然振られ、アリシアは少し迷った。
「えっと……窓の近くに椅子があるよね。でも、椅子が窓を見たいからそこにいるわけじゃない」
「椅子は見ない」
「そうだね……」
『あなたの例、今のところ三十点くらいね』
床で欠伸をしていたノアが容赦なく口を挟んだ。
「聞こえてる」
「何て?」
「例が下手だって」
『正確には三十点』
「点数まで付けられた」
子供がくすくす笑う。
少し空気が緩んだところで、アリシアは改めて考え直した。
「じゃあ、人で考えようか。食卓で私と子供が隣に座ることがあるでしょう?」
「ある」
「私が子供に話しかけたいから隣に座ることもある。でも、たまたまそこが空いていて隣になることもある。近くにいるっていう事実だけでは、どうして近いのかまでは分からない」
子供は食卓の椅子を見比べた。
「でも、話したら?」
「少なくとも、話したっていう関わりはできるね」
「光と壁は?」
「今は、近くにいることしか分からない」
「壁の向こうの魔力は?」
「そこにあることは分かってる。でも、それが光へ何かしているかまでは分からない」
子供はゆっくり頷いた。
「じゃあ、近くにあるから呼んでるって決めない。でも、人間は調べる」
「危ないものかもしれないからね」
「光がいなくても調べる?」
扉の外から学院長が答える。
「調べる」
「ならいい」
「何が?」
「光がいるから、光のために勝手に穴を作るんじゃないなら。人間の危ないを調べるなら、それは人間のこと」
「そうだな」
ようやく子供は椅子へ座った。
朝食には、少し固めの粥と根菜、それから昨日の甘赤とは違う黄色い果実が並んでいた。
「黄色」
「この種類は初めてですね」
治療教師が答える。
「甘い?」
「甘いですが、少し酸味もあります。皮に近いところは、人によっては少し苦く感じるかもしれません」
「皮ある?」
「今日はむいてあります」
「じゃあ食べる」
一口。
子供はじっくり噛み、味を確かめる。
「甘い。酸っぱいも少し。でも甘赤と違う」
「どんな違い?」
「そこは分からない」
「名前はどうする?」
アリシアが聞くと、子供は少し考えた。
「黄甘」
「また短いね」
「でも、もう少し酸っぱい」
「黄甘酸?」
「長い」
「じゃあ?」
「……今日は黄色でいい」
「戻ったね」
子供は二口目を食べ、治療教師から正式な名前も教えてもらった。
けれど、その名前をすぐ使うことはしなかった。
「覚える?」
「今日は黄色」
「分かりました」
三口目を食べたところで、子供は果実を置く。
「今日は三」
「昨日の朝も甘赤を三つ食べたね」
アリシアが何気なく言うと、子供はすぐに首を横へ振った。
「同じ三じゃないよ。昨日は甘赤で、今日は黄色。大きさも違うし、お腹も今日のお腹。数だけ同じ」
「あ……そうだね」
アリシアは思わず笑った。
「教えられた」
「私が?」
「うん」
少し得意そうに笑った子供の前で、朝食の湯気がゆっくり薄れていった。
◇
午前。
西側では、石室候補へ回り込むための経路確認が始まっていた。
光のいる石壁から十分に離れた別区画から、三名の調査員と土の神器継承者が、保守通路らしき空間へ入る。
副学院長は光の側へ残った。
両側で同時に作業を重ねれば、何か変化が起きたとき、どちらが影響したのか分からなくなる。そのため、光の近くでは何もしないことになっていた。
『第一閉塞部へ到達』
通信魔導具から声が届く。
「状態は?」
『土砂が流れ込んでいますが、完全閉塞ではありません。上部に空間があります』
「壊すな。既存の隙間から感知だけ行え」
『了解』
しばらくして、再び声が届く。
『向こうに通路の継続を確認。ただし、現状では人間が通れる幅ではありません』
「別経路は?」
『北へ伸びる枝があります。そちらを確認します』
「無理はするな」
『了解』
光は動かない。
壁の向こうの魔力反応も変化なし。
それでも観測室の空気は張り詰めていた。
「光の輪郭光量、少し上がりました」
若い術師の報告に、副学院長が測定盤を見る。
「接続値は?」
「変化なし。調査開始からも数分ずれています」
「なら、関連ありとは記録するな」
「はい」
人間が遠くで古い通路を調べている。
同じ頃に光が少し明るくなった。
それは事実だった。
けれど、時間が近いというだけで、二つを原因と結果に結び付けることはできない。
数分後、光量は自然に元へ戻った。
「……関係なかったんでしょうか」
観測員が小さく呟く。
「それもまだ決めるな」
副学院長は測定盤から目を離さない。
「関係があると決めないことと、関係がないと決めることは同じじゃない」
「はい」
さらに時間が過ぎたところで、通信が入った。
『北側枝通路、通行可能です』
「石室候補までの距離は?」
『およそ四十歩。途中に扉が一枚あります』
「開いているか?」
『閉じています』
「触るな」
通信の向こうで、一瞬だけ間があった。
『了解』
「まず扉の向こうを感知しろ」
『はい』
土の神器継承者も、壁のこちら側から弱い感知を重ねていく。
石室候補。
古い扉。
魔力反応。
そして、名前のない光。
複数のものが同じ地下の中で近づきつつあった。
けれど、まだ一つの物語にはしない。
◇
その頃、生活観測区画では、子供が今日も丸い木片を転がしていた。
「遊ぶ?」
木片は床を進み、九歩目の位置へ座っている顔のない存在の前で止まった。
少し遅れて指が伸びる。
触れる。
さらに少し待ってから、こちらへ返ってくる。
「一」
子供が笑う。
二度目も返ってきた。
「二」
三度目。
今度は人影の指が木片の横へ触れたまま、動かなくなった。
子供はすぐには手を伸ばさない。
「今日はここで終わり?」
返事はない。
しばらく待っても、指は動かなかった。
「昨日は三回返った。でも今日は二回」
「もっとやりたい?」
「やりたい。でも、この人がどうしたいかは分からない」
少し寂しそうに木片を見ていた子供だったが、やがて白い花へ視線を移した。
「今日は待たない。私、白い花も見たい」
木片はそのまま、人影の指の近くへ残した。
「あとで離してたら取る。ずっとそこにあったら……そのとき考える」
今すぐ決める必要はない。
子供は立ち上がり、白い花のところへ向かった。
今朝一度だけ触れた花弁は、さらに下を向いていた。
「あ……」
「変わったね」
「私が触ったから?」
子供の顔が強張る。
アリシアは、安心させるためだけの答えを急がなかった。
「分からない」
「……私が壊した?」
「今朝触ったときには欠けなかったよ。でも、触った影響が少しあった可能性もあるし、触らなくても変わったかもしれない」
子供は黙って花を見つめる。
自分が触れた。
そのあとで、形が変わった。
関係があるかどうかは分からない。
だからこそ、胸の中へ小さな後悔が入り込んでくる。
「触らなければよかった?」
アリシアが静かに尋ねる。
「今は、少し思う。でも朝は触りたかった。壊したくないもあったから、一回だけにした」
「そうだったね」
「もし私が触ったから曲がったとしても、朝に触りたかったのは嘘じゃない?」
「嘘じゃないよ」
「壊したくなかったのも?」
「それも本当」
子供の目元が少し赤くなる。
「両方本当なの、難しい」
「うん」
「選んでも、嫌なこと起きる?」
「あるよ」
「正しく選んでも?」
アリシアは少し考えた。
「何が正しかったのか、あとになっても簡単には決められないことがあると思う」
「また分からない」
「まただね」
子供はしばらく黙っていたが、もう一度花へ顔を近づけた。
今度は手を出さない。
「今日はもう触らない」
「怖いから?」
「それもある。でも今は、触るより見たい。朝とは変わった」
「変わっていいよ」
「同じ日でも?」
「もちろん」
子供は少しだけ息を吐いた。
「じゃあ、朝は触った。今は触らない。それでいい」
◇
昼前。
西側調査隊から、新しい報告が入った。
『古い扉の向こうに空間を確認しました』
「石室候補とつながっている?」
『地形上は、ほぼ間違いありません。魔力反応源は扉の向こう、右奥に固定されています』
「大きさは?」
『人の胴体より小さい。生命反応はありません。危険反応も現状では低いです』
副学院長は、壁のこちら側にいる光へ視線を向ける。
まだ同じ場所にいる。
「扉は開けられる状態か?」
『外見上は。ただし、封印術式らしき刻印があります』
「触るな。術式を読むだけにしろ」
『了解』
通信が切れる。
若い観測員が古い壁を見た。
「向こうまで行けましたね。これなら壁へ穴を開けなくて済む」
「ああ」
「もし光が向こうへ行きたかったとしても……」
言いかけたところで、観測員自身が口を閉じる。
「すみません。また先に決めました」
「気づいたならいい」
副学院長は測定値を確認した。
「人間側には扉がある。光側には壁しかない。今は、同じ空間へ人間と光が別の場所から近づいているように見える」
「ように見える、まで」
「そうだ」
そのときだった。
「光、移動!」
観測員の声で、全員の視線が集まる。
名前のない光が、石壁から離れる方向へゆっくり動き始めていた。
「壁面から半歩……一歩分離れます。接続値、変化なし」
「魔力反応源は?」
「こちらも変化ありません」
光はさらに少しだけ離れる。
壁の向こうには魔力反応がある。
人間側は別経路から石室候補へ近づいた。
そして、その頃に光は壁から離れた。
「避けた……?」
誰かが思わず呟く。
副学院長が振り返った。
「何を?」
「……分かりません」
「なら記録は?」
「壁面から距離を取る方向へ移動。それだけです」
「そうしろ」
光は石壁から二歩ほど離れた位置で止まった。
何も起きない。
壁の向こうの反応も変わらない。
調査隊は古い扉の前にいるが、まだ触れてはいなかった。
「人間が近づいたから離れた可能性は?」
若い術師が、今度は断定せずに尋ねる。
「可能性はある」
「では、調査を止めますか?」
副学院長は少し考えた。
「一度止める」
「関連があると判断するんですか?」
「違う。関連がないとも確認できていないからだ。調査を一度止めても危険が増えないなら、今は動きを重ねない方がいい」
すぐに通信が送られる。
「調査隊、その場で停止。扉には触れるな。五分待機」
『了解』
地下での五分は、地上より長く感じられた。
誰も光へ近づかない。
壁へも触れない。
調査隊も動かない。
一分。
二分。
三分。
光に変化はない。
四分を過ぎた頃、光が再びゆっくり動いた。
「移動」
「壁からさらに離れる?」
「いえ。距離はほぼ同じです。横へ動いています」
「調査隊は?」
「静止中」
若い術師が何かを言いかけたものの、今度は自分で飲み込んだ。
「何だ?」
「人間側の動きとは関係なかったのかと思いました。でも、それもまだ分かりません」
「その通りだ」
副学院長は、それ以上何も足さなかった。
◇
昼食時、学院長から報告を聞いた子供は、思っていたより長く黙っていた。
「壁から離れたんだ」
「そうだ」
「人間は向こう側まで行った。でも壁は壊してないし、扉も開けてない」
「ああ」
「光が人間から離れたのか、魔力のものが嫌だったのか、ただ動きたかったのか……まだ分からない?」
「分からない」
子供は黄色い果実を指先で少し転がした。
「近くにいたから、好きだったわけじゃないかもしれない」
「そうだね」
「嫌だったわけでもない。呼ばれてたかも分からない。……近くにあっただけかもしれない」
少し考えたあと、子供は棚の上の白い花を見た。
「私、白い花の近くにいること多い」
「好きだから?」
「うん。でも箱の近くにも行く」
「箱も好き?」
質問が自分へ返ってきて、子供は困ったように眉を寄せた。
「分からない。嫌いとも違う。気になるから行く。怖いもあるし、戻りたいもあるし、見たいもある。でも、近くにいるとき全部同じじゃない」
「そうだね」
「じゃあ、近くにいる気持ちも一つじゃない」
自分で口にした言葉に、子供は少し驚いたようだった。
「光も?」
「光に気持ちがあるとしても、私たちにはまだ分からない。でも、最初から一つに決めない方がいいと思う」
「近いから好き。近いから行きたい。近いから呼ばれてる。全部、まだ決めない」
そう言ってから、子供は黄色い果実を一口食べた。
「黄色、今日は二つでいい」
「朝は三つだったね」
「今は二つ。でも嫌いになったんじゃないよ。近くに置いてあるけど、今は食べないだけ」
「なるほど」
「黄色が私を呼んでるわけでもないし」
「それは確かに」
アリシアが笑うと、子供も笑った。
◇
午後になっても、顔のない存在は九歩目の位置から動かなかった。
窓には近い。
けれど、窓際ではない。
子供は一人で窓辺へ立ち、庭の水溜まりを見ていた。
「減った」
「昨日より?」
「大きかったのが小さくなってる」
「晴れたからね」
「このままなくなる?」
「たぶん。でもまた雨が降れば増えるかもしれない」
「それって、戻る?」
アリシアは少し考えた。
「同じ場所にまた水溜まりができるなら、『戻った』って言うことはできるかもしれない。でも、中の水まで全部同じではないと思う」
「同じ場所。でも同じ水じゃない」
「そうだね」
「白い花とは違う?」
「違うところもあるし、似てるところもあるかもしれない」
子供は窓へ顔を近づけた。
「昨日の水がなくなって、また雨で水ができる。水溜まりが戻ったって言っても、前の水全部が帰ってきたわけじゃない」
「うん」
「戻るって、難しい」
少し考えてから、顔のない存在へ目を向ける。
「この人も戻ることあるかな。九から八とか、六とか。寝台までとか」
「あるかもしれないね」
「戻ったら悪い?」
「悪くないよ」
もう、その答えを子供自身も知っている。
それでも、確認するように一度頷いた。
やがて、午前中から顔のない存在のそばに残っていた木片へ目が向く。
「まだある」
人影の指は、もう木片へ触れていなかった。
「離してる。取っていいかな」
「どう思う?」
「もう触ってない。でも近くにある」
子供は一度近づこうとし、足を止めた。
「近くにあるから、この人がまだ使ってるって決めない。でも、使ってないって決めるのも違う?」
「そうだね」
「じゃあ聞く」
子供は九歩目より少し手前で止まった。
「これ、取っていい?」
返事はない。
胸の十一の光にも目立った変化はなかった。
子供はしばらく待ち、木片と人影を交互に見る。
「今日は取らない」
「どうして?」
「急がないから。別の木片もあるし、明日でもいい」
そう決めると、子供は本当に引き返した。
木片を一つ、その場に残したまま。
今すぐ自分が使う必要がないのなら、分からないものへ無理に答えを付けなくてもいい。
◇
夕方前。
西側で止めていた調査は、さらに一時間以上の間を置いてから再開された。
光は壁から少し離れた位置を保っている。
魔力反応にも変化はない。
副学院長は通信魔導具へ向けて指示を出した。
「封印術式を外側から読む。扉は開けるな。光側に変化が出たら、すぐ中止」
『了解』
数分後。
『術式の一部を確認しました』
「用途は?」
『……保管用と思われます』
観測員たちの間に、小さなざわめきが起きた。
「何を保管する?」
『そこまでは分かりません。ただ、人や生命体を閉じ込める拘束術式ではないようです』
「確実か?」
『確認できる範囲では』
「続けろ」
古い文字を読む作業には時間がかかった。
やがて、通信の向こうから慎重な声が届く。
『文字列の一部に、“接続具”……あるいは“中継具”に近い語があります』
副学院長の表情がわずかに険しくなった。
第四の声。
中央。
観測。
接続。
これまで何度も問題になってきた言葉が、嫌でも頭をよぎる。
「光の値は?」
「変化ありません」
「……同じ言葉が出たからといって、同じ用途とは限らない。まだ決めるな」
その言葉は周囲へ向けたものでもあり、自分自身へ言い聞かせたものでもあった。
『もう一つ、読めます』
「何だ?」
『“一時保持”』
地下に沈黙が落ちた。
若い観測員が何かを言いかけたが、副学院長が手で制する。
「最後まで聞く」
『その後の文字は欠損しています。“一時保持”の対象は不明です』
「扉を開けなければ、それ以上は?」
『難しいと思われます』
副学院長はすぐに判断を下さなかった。
壁のこちら側には、名前のない光。
少し離れた場所で静かに止まっている。
別経路の先には、古い扉。
その向こうに石室候補があり、何か小さな魔導具らしきものが残されている可能性がある。
魔力反応は低い。
危険値も上がっていない。
急ぐ理由はなかった。
「今日は開けない」
「ですが、重要なものかもしれません」
「重要だから急いで触る理由にはならない。むしろ古い接続具の可能性があるなら、なおさらだ」
調査隊にも指示が伝えられる。
『了解。現状保存して引き上げます』
その日の西側調査は、そこで止まった。
◇
夕方。
子供はようやく木箱を棚の下から出した。
朝は出さなかった。
昼も、午後も。
白い花を見て、顔のない存在と遊び、窓の外の水溜まりを眺め、それから夕方になって初めて、自分で箱を持ち出した。
「今日は遅かったね」
「朝は白い花が先だった。でも今は、箱も見たい」
棚の前へ置く。
けれど蓋には触れず、少し離れたところへ座った。
「近くにいるだけ?」
「今は」
「怖い?」
「少し。戻りたいも少しある。でも今日は、見たいが一番大きい」
「分けられるんだね」
「今日はね。明日は分からない」
子供は木箱を見つめた。
「前は、箱に呼ばれてるみたいに思ったことがある」
「開けなきゃって?」
「うん。でも今は違う。箱はここにあるだけで、私が見に来た」
指が蓋へ近づく。
けれど触れる前に止まった。
「箱が近づいてきたんじゃない。私が来た。だから、近くにいても開けなくていい」
手を引く。
「離れてもいい」
「今日はどうする?」
「もう離れる。見たから」
子供は立ち上がった。
けれど、箱は棚の下へ戻さない。
見える場所へ置いたまま、自分だけがそこから離れた。
「箱はここに置いておく?」
「うん。夜も……たぶん」
昨日とは違う選択だった。
昨日は夜になって、自分の手で箱を棚の下へ戻した。
今日は箱を残し、自分が離れた。
怖さが同じように残っていたとしても、その日に選ぶ距離まで同じである必要はなかった。
◇
夕食前、学院長は西側で見つかった古い文字について子供へ伝えた。
「接続?」
「ああ。古い扉の術式に、接続具か中継具に近い言葉があった」
「第四の声と関係ある?」
「まだ分からない。それとは別に、“一時保持”に近い言葉も確認された」
子供の表情が少し強張った。
「保持って、置いておく?」
「そういう意味で使われている可能性はある」
「光を?」
「対象は分からない」
「人? 声?」
「どちらも分からない」
子供は膝の上で手を握った。
「……怖い。接続って聞くと、ちょっと怖い」
「そうだな」
「でも、前の接続と同じじゃないかもしれない」
「ああ」
「人間、開ける?」
「今日は開けない。明日になって、もう一度相談する」
「光はまだ壁の近く?」
「少し離れた場所にいる」
「なら、光をそこへ連れていかない?」
「しない。もし扉を開けることになっても、光のために開けるわけじゃない」
子供の握っていた手から、少し力が抜ける。
「魔力のものを調べるため?」
「そうだ」
「光が近くにいるからって、その光のものじゃない。でも、あとで関係あるって分かるかもしれない」
「その可能性はある」
子供は指を一本ずつ折りながら数え始めた。
「光。壁。向こうの魔力。人間の扉。今は四つ」
「ああ」
「あとで関係が分かったら、一つになる?」
「一つの仕組みとして説明できるようになる可能性はある」
「ならないかもしれない?」
「もちろんだ」
「じゃあ、今は四つ」
その分け方が気に入ったらしい。
子供は何度か頷き、それ以上無理に結び付けなかった。
夕食には温かい粥と根菜、それから細く切った肉が出された。
「今日は肉もあります。食べられそうですか?」
「少し」
「では、最初は二切れにしましょう」
一切れ目をゆっくり噛む。
二切れ目も飲み込んだところで、子供は箸を置いた。
「肉はもういい」
「お腹いっぱい?」
「まだ。でも今は粥が食べたい」
肉は目の前に残っている。
嫌いになったわけではない。
まだ食べようと思えば食べられる。
それでも子供は粥へ手を伸ばした。
「近くにあるから、食べなくていい」
「今日の話?」
「うん」
「肉が呼んでないから?」
「呼んでたら怖い」
あまりにも真顔だったので、アリシアが思わず吹き出した。
「もし肉が『食べて』って言ったら?」
「ノアが先に食べる?」
『冗談じゃないわ。喋る肉なんて絶対嫌よ』
「ノア、嫌だって」
「なんで?」
「喋る肉は嫌らしい」
「私も嫌」
「じゃあ二人とも同じだね」
『そこを同じにしないで』
治療教師まで口元を押さえ、生活観測区画の中へ久しぶりに長めの笑いが広がった。
その声に反応したのかどうかは分からない。
ただ、顔のない存在の胸では、十一のうち三つの光がわずかに明るくなった。
「三つ」
子供がすぐに気づく。
「朝は二つだった」
「増えたね」
「笑ったから?」
「それは分からないな」
子供は少しだけ考え、すぐに笑った。
「でも、今は三つ。それでいい」
◇
夜。
寝台へ入る前、子供は見える場所に残した木箱をもう一度確かめた。
「今日は棚の下へ戻さない」
「大丈夫?」
「少し気になるし、少し怖い。でも、ここにあっても寝られるか見たい」
「試してみる?」
「うん。無理だったら、そのとき戻す」
「夜中でも、私を起こしていいよ」
「自分で戻せる。灯りもあるから」
子供は寝台へ入り、布団を胸元まで引き上げた。
そこからでも木箱は見える。
ほとんど茶色になった白い花も。
隣の寝台には顔のない存在がいて、床ではノアが身体を丸めている。
「アリシア」
「うん」
「今日、壁の光は近くから離れた。箱も、私が近くまで行って離れた。この人も窓の近くまで行ったけど、窓までは行かなかった」
「そうだね」
「近くって、途中のこともある?」
「あると思う」
「終わりのことも?」
「あると思うよ」
「居場所になることも?」
「それもある」
子供は少し黙った。
「でも、近いだけじゃ分からない」
「うん」
「……誰かの近くも?」
アリシアはわずかに表情を変えた。
「人の近く?」
「私、今アリシアの近くにいる」
「そうだね」
「アリシアが呼んだから?」
「今は呼んでないよ」
「じゃあ、私がいる?」
「うん」
「私が近くにいたいから?」
「それは、子供にしか分からないかな」
子供は布団の中で少し身体を丸めた。
「今は、いたい」
「うん」
「でも明日、離れたいかもしれない」
「それもいいよ」
「離れたら、アリシアは嫌?」
声が少し小さくなった。
アリシアは反射的に「嫌じゃない」と返すことをしなかった。
少しだけ考える。
「寂しいとは思うかもしれない」
子供の目が動いた。
「でも止めない?」
「安全なら、止めない」
「寂しいのに?」
「子供が私の近くにいるのは、私が寂しくならないためじゃないから」
部屋の中へ、静かな間が落ちた。
「私がいたいから、いる?」
「そうなら嬉しい」
「離れたいから離れる日もある?」
「あるかもしれないね」
「戻りたくなったら?」
「戻ってきてもいい」
「アリシアが嫌だったら?」
「そのときは、嫌だって気持ちも含めて話すと思う。でも、『ここがお前の場所だからいろ』とは言わないよ」
子供は天井を見つめた。
「難しい」
「うん」
「近くにいたい。でも、近くにいなきゃってなるのは嫌」
しばらく考えたあと、子供は小さな声で続けた。
「離れてもいいって分かってる方が、近くにいられることってある?」
アリシアは少し驚いた。
その言葉を、自分の中でもゆっくり確かめる。
「……あると思う」
「私は今、そうかも」
子供は見える場所に置かれた木箱へ一度だけ目を向けた。
「ここから出てもいいって分かってるから、ここにいるの、少し好き」
胸の奥に、静かな温かさが広がる。
けれどアリシアは、その言葉へ「なら、ここがあなたの居場所だね」とは続けなかった。
「それなら、今日はそれでいいと思う」
「うん」
子供は目を閉じた。
数分後、もう一度だけ目を開ける。
「箱、まだ大丈夫」
「うん」
「今は戻さない」
「分かった」
「おやすみ」
「おやすみ」
木箱は見える場所に残った。
それでも子供の呼吸は、少しずつ眠りの深さへ落ちていった。
◇
夜が深まる頃。
東側地下空室で、名前のない光が再び動いた。
「移動を確認」
サーラが記録板から顔を上げる。
「方向は?」
「入口側です。……外へ出ます」
観測員の声に少し緊張が混じった。
光の輪郭の一部が、空室と通路の境界を越える。
誰も動かない。
「接続値は?」
「低いままです。危険値にも変化ありません」
光はゆっくり進み、やがて輪郭の半分ほどが通路側へ出た。
昨日、全体が空室へ入った。
そこで一晩を過ごした。
今日は入口へ近づき、そして今、再び外へ出ようとしている。
「止めませんよね」
若い観測員が確認する。
「止めません。扉も動かさない。誘導灯も追加しないでください」
「はい」
光はさらに進んだ。
やがて、最後の輪郭まで境界を越える。
「完全退出を確認」
「記録してください」
若い観測員が筆を動かす。
『東側地下空室より全体退出。人間側介入なし』
そこで、筆先が止まった。
「……『戻った』は書かないんですよね」
「書きません」
「ですよね」
観測員は少しだけ苦笑した。
「昨日、全部入ったときは、何か大きなことが決まった気がしたんです。ここを選んだんだって」
「私も少し思いました」
「でも、出た」
「はい」
「だからって、昨日入ったことが間違いだったわけじゃない」
「そうですね」
「今日出た方が正しいわけでもない」
「はい」
光は通路へ少し進んだ。
以前留まっていた位置とも違う。
最初の境界付近とも違う。
そこで止まる。
若い観測員はしばらく眺めてから、今度は自分から言った。
「今いる場所」
「はい」
「空室は、また空になりましたね」
「そうですね」
「光の部屋じゃなくなった?」
「最初から光の部屋とは呼んでいません」
「あ、そうでした」
サーラは少しだけ笑い、それから空になった部屋を見る。
「ただ、光が一晩そこにいた事実は残ります」
「今はいないことも?」
「もちろん。どちらも同時に記録します」
空室は静かだった。
一晩だけそこにあった淡い光は、もうない。
けれど、何もなかった場所へ戻ったわけでもなかった。
そこに光がいた時間は、確かにあった。
◇
西側では、名前のない光にそれ以上大きな移動はなかった。
古い石壁から少し離れた位置。
壁の向こうにある魔力反応にも変化はない。
今夜は、それ以上調べない。
人間側も引き上げ、光も追わなかった。
生活観測区画では、子供が眠っている。
木箱は見える場所へ置かれたまま。
白い花は、もうほとんど完全に茶色だった。
顔のない存在は隣の寝台へ戻り、胸には十一の光がある。
アリシアも寝台へ横になっていたが、まだ少しだけ眠れずにいた。
『寝ないの?』
「もう寝る」
『東が出たわよ』
「聞こえてた?」
『あなたの耳元の通信、少し音漏れしてるもの』
「そっか」
『気になる?』
「少し」
『空室に入ったのにね』
「うん」
『それで、出た』
「……うん」
『残念?』
アリシアは薄暗い天井を見上げた。
「少しだけ」
『へえ』
「全部入ったとき、やっぱり嬉しかったから。落ち着ける場所を見つけたのかもしれないって、少し思った」
『今は?』
「分からない」
『九割』
「まだ採点してるの?」
『残り一割は?』
アリシアは少し笑った。
「出たからって、失敗したわけじゃないって思いたい」
『それは光のため? それとも自分のため?』
「……私が安心したいだけかもしれない」
ノアの尻尾が、床の布を一度だけ叩いた。
『でも、入ったのも出たのも、その光がしたことでしょう』
「うん」
『なら少なくとも、あなたが失敗した話ではないわ』
「……うん」
『それに、光が失敗したかどうかも、あなたには決められない』
アリシアはしばらく黙り、それから目を閉じた。
「そうだね」
『じゃあ寝なさい』
「はい」
東側地下空室は、今夜また空になった。
一晩だけ、名前のない光がそこにいた。
昨日そこへ全体を移したことも、今日になって入口へ近づいたことも、今夜その外へ出たことも、どれか一つが別の一つを間違いにはしない。
西側では、別の名前のない光が古い石壁から少し離れた場所にいる。
壁の向こうには、接続具あるいは中継具を示す古い文字と、「一時保持」という欠けた言葉が残されていた。
何を保持していたのか。
何へ接続するためのものだったのか。
今そこにいる光と関係があるのか。
まだ、何一つ決まってはいない。
光が壁の近くにいたからといって、その魔導具が光を呼んだとは限らない。光がそれを求めたとも、嫌って離れたとも限らなかった。
ただ、近くにあった。
そして今は、少し離れている。
生活観測区画では、木箱が子供から見える場所へ残されている。
子供は夕方、自分からその近くへ行った。
蓋を開けることはしなかった。
棚の下へ戻すこともしなかった。
ただ見て、自分から離れた。
誰かが何かの近くにいること。
何度もそこへ足を運ぶこと。
長く隣に留まること。
それらには、確かな意味があることもある。
好きだから近づくこともあれば、怖いから目を離せずにいることもある。気になっているだけかもしれないし、まだ離れる準備ができていないのかもしれない。
あるいは、本当に何の理由もなく、ただそこにいるだけなのかもしれない。
距離だけを見て、その理由まで先に決めることはできない。
近くにあるものが、いつも自分を呼んでいるわけではない。
自分が近づいたからといって、必ずそこへ辿り着かなければならないわけでもない。
途中で止まってもいい。
少し離れてもいい。
一度離れたあとで、また近づいてもいい。
見ただけで帰ってもいい。
そして、離れてもいいと知っているからこそ、自分から誰かの近くにいられることもある。
今夜。
東側の光は、自分から空室を出た。
西側の光は、自分から石壁を少し離れた。
子供は、自分から木箱の近くへ行き、自分からそこを離れた。
顔のない存在は、自分から九歩目まで進み、そこで止まった。
誰も、その先を代わりに決めなかった。
誰も、「そこまで来たなら、あと少しだ」と最後の距離を埋めなかった。
近くにある。
近くまで来た。
それは、終点を意味しない。
何かに呼ばれた証明にもならない。
今はただ、それぞれが自分で選んだ距離にいる。
明日になれば、さらに近づくかもしれない。
離れるかもしれない。
同じ場所に留まるかもしれない。
あるいは、まったく別の方向へ進むかもしれない。
そのどれになるのかを、今夜のうちに決める必要はなかった。




