↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
130/178

第130話 近くにあるからといって、それが自分を呼んでいるとは限らない



 夜明け前、西側地下区画の空気には、地上よりもずっと深い冷たさが残っていた。


 昨日まで続いていた雨の影響なのか、古い石壁には薄く湿り気が浮かび、所々に残る細かな亀裂の奥からは土の匂いが滲んでいる。設置された観測灯は一定の光を保っていたが、長いあいだ誰にも使われてこなかった地下空間は、明かりが増えた程度では人の場所には見えなかった。


 安全確認済みの境界を越えた、そのさらに奥。


 名前のない光は、昨夜から古い石壁の前に留まっている。


 そして、その壁の向こうには、人間側がまだ直接見たことのない空洞があった。


「反応値、変化ありません」


 夜勤の観測員が、静けさを乱さない程度の声で報告する。


「光側は?」


「こちらも大きな変化なし。輪郭は安定、接続値も低いままです」


 副学院長は腕を組み、壁へ向けられた測定盤を見つめた。


 壁の向こうから拾われた微弱な魔力反応は、第四の声とも中央の声とも異なっている。地下施設内でこれまで見つかってきた命令系統とも一致せず、昨夜の時点では、古い魔導具か、その残骸ではないかという推測までしか出ていなかった。


「反応源は動いていないな?」


「はい。ほぼ固定です」


「光との同期は?」


「確認できる範囲ではありません」


「確認できる範囲では、か」


 副学院長が言い直すと、若い観測員の肩がわずかに強張った。


「……はい。断言はできません」


「それでいい。分からないことを、分かっているように報告される方が困る」


 叱責を覚悟していたらしい観測員が、ほんの少しだけ目を上げた。


 その横では、土の神器継承者が石壁から距離を取り、片膝をついている。掌を床へ触れさせ、そこから広げる感知を、何度も弱く重ねていた。


 一度に深く探れば、地中へ余計な刺激を与える可能性がある。だからこそ、薄く、短く、必要な範囲だけを少しずつ確かめていく。


「南側へ回り込める可能性があります」


 しばらくして、土の神器継承者が顔を上げた。


「距離は?」


「直線では短いですが、人間が通れる既存通路を使うなら遠回りになります。途中に埋まっている区画が二つあります」


「掘る必要は?」


「今のところありません。古い保守通路らしき空間が残っています。ただ、人が通れる状態かまでは分かりません」


 副学院長は短く頷いた。


「朝になってから人員を増やす。ただし、目的を間違えるな」


 その言葉で、周囲にいた者たちの視線が集まる。


「光のいる壁の向こうへ行くためではない。壁の向こうにある反応源を、人間側が安全な方向から確認するためだ。その結果として石室候補へ近づける可能性はあるが、光のために道を作るわけじゃない」


「……光が壁の前にいることと、向こうに魔力反応があることは、今の時点では別の事実ということですか」


 若い術師の問いに、副学院長は頷いた。


「そうだ」


「たまたま近いだけかもしれない。でも、関係がある可能性も残っている」


「だから、今はどちらにも決めない」


 副学院長の視線の先で、名前のない光が静かに揺れている。


「近くにあるもの全部が、互いを呼び合っているとは限らない」


 それ以上の結論を、誰も付け足さなかった。


     ◇


 同じ頃、生活観測区画では、アリシアがいつもより少し早く目を覚ましていた。


 窓の向こうには朝焼けが広がり始めている。昨日まで空に残っていた厚い雲は夜のうちにさらに東へ流れ、まだ薄い灰色を帯びた空の端へ、淡い橙色が滲んでいた。


 庭の水溜まりも少し減っている。石畳は場所によって乾き始め、昨日まで雫をまとっていた植え込みも、今朝は葉の先にわずかな水を残す程度だった。


 アリシアは寝台から身体を起こし、まず子供の方を見る。


 まだ眠っている。


 隣の寝台では、顔のない存在も横になったままだ。胸の十一の光は弱いものの、一つも消えてはいない。


 机には、朝一番の簡易報告が置かれていた。


 東側の光は、夜中に入口付近を壁沿いへ少し横移動したあと、その位置で止まっている。外へ出たわけでも、空室の奥へ戻ったわけでもなかった。


 西側の光にも大きな位置変化はない。ただし、石壁の向こうにある魔力反応について、朝から別経路で確認を始める予定だと追記されている。


『その紙、また難しい顔になるやつ?』


 床からノアの声がした。


「まだ読んだだけ」


『つまり、これから難しい顔になる』


「ならないよ。今日は違うから」


『何が?』


「すぐ意味を付けない。東の光は入口付近にいる。西の光は壁の前にいる。壁の向こうに魔力反応がある。今分かってるのは、それだけ」


 黒猫が片目だけ開けた。


『かなり上達したじゃない』


「また褒めてる?」


『今日は九割くらい』


「残り一割は?」


『その報告書を三回くらい読み返しそうな顔』


 アリシアは手元の紙へ目を落とし、少しだけ考えた。


「……二回までにする」


『やっぱり読むのね』


 報告書を閉じたところで、寝台から布の擦れる小さな音が聞こえた。


 子供が目を覚ました。


 最初に天井を見て、次に窓へ視線を向け、最後に隣の寝台を確かめる。昨日と同じ順番だった。


 顔のない存在がいることを確認すると、子供の肩からわずかに力が抜けた。


「いる」


 今朝も、その確認から一日が始まる。


「おはよう」


 呼びかけても、十一の光はすぐには反応しなかった。


 子供は急かさない。


 昨日より少し長く待ったあと、一つの光が淡く明るくなり、少し遅れてもう一つが続いた。


「今日は二つ」


「昨日の朝は三つだったね」


「でも今日は二つ。数は少ない」


 そこで子供は少しだけ眉を寄せたものの、不安をそのまま結論にはしなかった。


「……少し気になる。でも、昨日より悪いって決めない。眠いだけかもしれないし、違うかもしれない」


「そうだね」


「じゃあ、今日の二つ」


 もう一度だけ「おはよう」と告げる。


 三つ目は明るくならなかった。


 それでも子供は待ち続けず、布団をめくって足の裏を確かめ始めた。赤みがないことを見て、片足ずつ床へ下ろし、体重をかける。


「こっち、大丈夫。もう片方も……痛くない」


「あとでセレナにも見てもらう?」


「見るだけなら」


「分かった」


 立ち上がった子供が次に向かったのは、白い花を置いた棚だった。


 昨日、最後に残っていた白らしい部分までほとんど茶色へ変わった花は、一晩を越えてさらに形を崩している。一枚の花弁が茎にはついたまま下へ折れ、小皿の中に置いていた欠片も、昨日より細かく崩れていた。


「……曲がった」


 子供が顔を近づける。


「昨日は、もう少し上だった」


「そうだったと思う」


「夜、誰も触ってない?」


「触ってないよ」


「じゃあ、自分で?」


「乾いたりして形が変わったのかもしれないね」


 子供は花と小皿を交互に眺めた。


「全部なくなる?」


「時間が経てば、かなり崩れると思う。でも、今日全部なくなるかは分からない」


「明日は?」


「それも分からないな」


 子供は少し唇を尖らせる。


「また分からない」


「分からないこと、いっぱいあるね」


「うん」


 しばらく花を見つめたあと、子供の指がゆっくり伸びた。


 昨日は触らなかった。そのまま白はほとんど消えてしまった。


 今日はどうしたいのか。


 アリシアは何も言わずに待つ。


 指先は、折れた花弁の少し手前で止まった。


「触ったら、欠けるかもしれない」


「そうだね」


「でも触らなくても、欠けるかもしれない」


 子供はそこで長く迷った。


 やがて、息を小さく吐く。


「今日は少しだけ触る」


 指先が、ごく軽く花弁の端へ触れた。


 撫でるほどでもない。ただ、そこにあることを確かめるような触れ方だった。


 花弁は欠けなかった。


「……大丈夫」


 少し安心した声が漏れる。


 けれど、二度目は触らない。


「もういい?」


「もっと触りたいも少しある。でも、壊したくないもある。今は、もう触らない方が大きい」


「じゃあ、今日はここまでだね」


「うん」


 子供は自分の指先をしばらく眺めてから、静かに手を下ろした。


「箱は?」


 アリシアが尋ねると、子供は棚の下へ目を向ける。


 昨夜、自分自身で戻した木箱は、そのままそこにあった。


「今日はまだ出さない」


「見たくない?」


「見てもいい。でも今は白い花を見たい。一緒にいっぱい見ると、またいっぱいになるから」


 昨日、子供自身が見つけた感覚だった。


 胸の中がいっぱいになる前に、何を見るか、何を後へ回すかを自分で選ぶ。


 そんな話をしているうちに、背後で寝具の軋む音がした。


 顔のない存在が身体を起こしている。


「おはよう」


 子供が振り返る。


 返事はない。


 けれど、人影は寝台の端へ足を下ろし、自分で立ち上がった。


「今日も歩く?」


 一歩目。


 二歩目。


 三歩目。


 子供は声に出さず数え始めた。


 四、五、六。


 昨日は六を越え、八歩目まで進んだ。


 七。


 八。


 そこで一度、顔のない存在の動きが止まる。


 子供も息を潜めた。


「八」


 数呼吸。


 さらに長い間が過ぎたあと、人影の足がもう一度前へ出た。


 九歩目。


 子供の目が大きくなる。


 窓までは、あと一歩ほど。


「九……」


 顔のない存在は、そこから進まなかった。


 頭だけがほんの少し窓へ向く。


「見る?」


 子供は尋ねたが、手を伸ばすことはしなかった。


 返事もない。


「ここからでも見える?」


 アリシアも九歩目の位置から窓を確かめる。


「庭の上の方なら見えると思う。水溜まりまでは少し見えにくいかな」


「全部じゃない。でも、少しは見える」


 その言葉を聞いたわけではないだろう。


 それでも顔のない存在は、その場でゆっくり床へ座った。


 子供はしばらくその姿を見つめたあと、小さく笑った。


「今日は九」


「そうだね」


「明日は……分からない」


 アリシアが答える前に、子供自身が続けた。


「知ってる」


     ◇


 朝食前、セレナがいつもの三歩の距離から子供の足を確認した。


「赤みも腫れもありません。痛みは?」


「ない。私も見た」


「では今日はそれで終わりです」


 確認が終わると、子供はすぐ食卓へ向かわず、扉の方を見た。


「学院長?」


「いるぞ」


「光の話、聞いていい?」


「ああ」


「東から」


「予想していた」


 扉の外から少し笑いを含んだ声が返り、子供の口元も緩む。


「東側の光は、昨夜入口付近を横へ少し移動して、その後は止まっている」


「外には出てない?」


「出ていない。奥へも戻っていない」


「じゃあ入口の近くで夜を過ごした?」


「そうだ」


 子供は少し考えた。


「前の夜は奥にいた。昨日は入口の近く。場所は変わったけど、まだ空室の中」


「ああ」


「人間は何かした?」


「何もしていない」


「扉も閉めてない?」


「閉めていない」


「光が外へ出てもいい?」


「危険がない範囲なら、人間側は止めない。奥へ行く場合も同じだ」


「どっちでも?」


「光が自分で動くならな」


 それを聞くと、子供は満足そうに頷いた。


「西は?」


 今度は学院長の返事が少し遅れた。


「昨日話した石壁の向こうから、別の魔力反応が見つかった」


「声?」


「今まで確認した声とは違う」


「第四でも、中央でもない?」


「ああ。古い魔導具かもしれないが、まだ分からない」


「光の近くにある?」


「ある」


 子供の眉が少し寄った。


「光がそこにいるから動いた? それとも、光を呼んでる? 光が探してた?」


「全部、まだ分からない」


 三つの問いにまとめて返された答えを聞き、子供は少し笑った。


「いっぱい分からない」


「そうだな」


「人間、壁壊す?」


「壊さない」


「穴も作らない?」


「作らない。壁の向こうへ別の古い通路から回り込めないか確認する」


 子供の笑顔が少し消えた。


「それは、光のため?」


「違う」


 学院長はそこだけは明確に答えた。


「人間側が、壁の向こうにある魔力反応が危険かどうか確かめるためだ。光が向こうへ行きたいかどうかは、まだ分からない」


「でも、すぐ近くにある」


「そうだ」


 子供は朝食の湯気を眺めながら、しばらく考えた。


「近いと、関係ある?」


「ある場合もあるし、ない場合もある」


「例えば?」


 今度はアリシアへ視線が向く。


 突然振られ、アリシアは少し迷った。


「えっと……窓の近くに椅子があるよね。でも、椅子が窓を見たいからそこにいるわけじゃない」


「椅子は見ない」


「そうだね……」


『あなたの例、今のところ三十点くらいね』


 床で欠伸をしていたノアが容赦なく口を挟んだ。


「聞こえてる」


「何て?」


「例が下手だって」


『正確には三十点』


「点数まで付けられた」


 子供がくすくす笑う。


 少し空気が緩んだところで、アリシアは改めて考え直した。


「じゃあ、人で考えようか。食卓で私と子供が隣に座ることがあるでしょう?」


「ある」


「私が子供に話しかけたいから隣に座ることもある。でも、たまたまそこが空いていて隣になることもある。近くにいるっていう事実だけでは、どうして近いのかまでは分からない」


 子供は食卓の椅子を見比べた。


「でも、話したら?」


「少なくとも、話したっていう関わりはできるね」


「光と壁は?」


「今は、近くにいることしか分からない」


「壁の向こうの魔力は?」


「そこにあることは分かってる。でも、それが光へ何かしているかまでは分からない」


 子供はゆっくり頷いた。


「じゃあ、近くにあるから呼んでるって決めない。でも、人間は調べる」


「危ないものかもしれないからね」


「光がいなくても調べる?」


 扉の外から学院長が答える。


「調べる」


「ならいい」


「何が?」


「光がいるから、光のために勝手に穴を作るんじゃないなら。人間の危ないを調べるなら、それは人間のこと」


「そうだな」


 ようやく子供は椅子へ座った。


 朝食には、少し固めの粥と根菜、それから昨日の甘赤とは違う黄色い果実が並んでいた。


「黄色」


「この種類は初めてですね」


 治療教師が答える。


「甘い?」


「甘いですが、少し酸味もあります。皮に近いところは、人によっては少し苦く感じるかもしれません」


「皮ある?」


「今日はむいてあります」


「じゃあ食べる」


 一口。


 子供はじっくり噛み、味を確かめる。


「甘い。酸っぱいも少し。でも甘赤と違う」


「どんな違い?」


「そこは分からない」


「名前はどうする?」


 アリシアが聞くと、子供は少し考えた。


「黄甘」


「また短いね」


「でも、もう少し酸っぱい」


「黄甘酸?」


「長い」


「じゃあ?」


「……今日は黄色でいい」


「戻ったね」


 子供は二口目を食べ、治療教師から正式な名前も教えてもらった。


 けれど、その名前をすぐ使うことはしなかった。


「覚える?」


「今日は黄色」


「分かりました」


 三口目を食べたところで、子供は果実を置く。


「今日は三」


「昨日の朝も甘赤を三つ食べたね」


 アリシアが何気なく言うと、子供はすぐに首を横へ振った。


「同じ三じゃないよ。昨日は甘赤で、今日は黄色。大きさも違うし、お腹も今日のお腹。数だけ同じ」


「あ……そうだね」


 アリシアは思わず笑った。


「教えられた」


「私が?」


「うん」


 少し得意そうに笑った子供の前で、朝食の湯気がゆっくり薄れていった。


     ◇


 午前。


 西側では、石室候補へ回り込むための経路確認が始まっていた。


 光のいる石壁から十分に離れた別区画から、三名の調査員と土の神器継承者が、保守通路らしき空間へ入る。


 副学院長は光の側へ残った。


 両側で同時に作業を重ねれば、何か変化が起きたとき、どちらが影響したのか分からなくなる。そのため、光の近くでは何もしないことになっていた。


『第一閉塞部へ到達』


 通信魔導具から声が届く。


「状態は?」


『土砂が流れ込んでいますが、完全閉塞ではありません。上部に空間があります』


「壊すな。既存の隙間から感知だけ行え」


『了解』


 しばらくして、再び声が届く。


『向こうに通路の継続を確認。ただし、現状では人間が通れる幅ではありません』


「別経路は?」


『北へ伸びる枝があります。そちらを確認します』


「無理はするな」


『了解』


 光は動かない。


 壁の向こうの魔力反応も変化なし。


 それでも観測室の空気は張り詰めていた。


「光の輪郭光量、少し上がりました」


 若い術師の報告に、副学院長が測定盤を見る。


「接続値は?」


「変化なし。調査開始からも数分ずれています」


「なら、関連ありとは記録するな」


「はい」


 人間が遠くで古い通路を調べている。


 同じ頃に光が少し明るくなった。


 それは事実だった。


 けれど、時間が近いというだけで、二つを原因と結果に結び付けることはできない。


 数分後、光量は自然に元へ戻った。


「……関係なかったんでしょうか」


 観測員が小さく呟く。


「それもまだ決めるな」


 副学院長は測定盤から目を離さない。


「関係があると決めないことと、関係がないと決めることは同じじゃない」


「はい」


 さらに時間が過ぎたところで、通信が入った。


『北側枝通路、通行可能です』


「石室候補までの距離は?」


『およそ四十歩。途中に扉が一枚あります』


「開いているか?」


『閉じています』


「触るな」


 通信の向こうで、一瞬だけ間があった。


『了解』


「まず扉の向こうを感知しろ」


『はい』


 土の神器継承者も、壁のこちら側から弱い感知を重ねていく。


 石室候補。


 古い扉。


 魔力反応。


 そして、名前のない光。


 複数のものが同じ地下の中で近づきつつあった。


 けれど、まだ一つの物語にはしない。


     ◇


 その頃、生活観測区画では、子供が今日も丸い木片を転がしていた。


「遊ぶ?」


 木片は床を進み、九歩目の位置へ座っている顔のない存在の前で止まった。


 少し遅れて指が伸びる。


 触れる。


 さらに少し待ってから、こちらへ返ってくる。


「一」


 子供が笑う。


 二度目も返ってきた。


「二」


 三度目。


 今度は人影の指が木片の横へ触れたまま、動かなくなった。


 子供はすぐには手を伸ばさない。


「今日はここで終わり?」


 返事はない。


 しばらく待っても、指は動かなかった。


「昨日は三回返った。でも今日は二回」


「もっとやりたい?」


「やりたい。でも、この人がどうしたいかは分からない」


 少し寂しそうに木片を見ていた子供だったが、やがて白い花へ視線を移した。


「今日は待たない。私、白い花も見たい」


 木片はそのまま、人影の指の近くへ残した。


「あとで離してたら取る。ずっとそこにあったら……そのとき考える」


 今すぐ決める必要はない。


 子供は立ち上がり、白い花のところへ向かった。


 今朝一度だけ触れた花弁は、さらに下を向いていた。


「あ……」


「変わったね」


「私が触ったから?」


 子供の顔が強張る。


 アリシアは、安心させるためだけの答えを急がなかった。


「分からない」


「……私が壊した?」


「今朝触ったときには欠けなかったよ。でも、触った影響が少しあった可能性もあるし、触らなくても変わったかもしれない」


 子供は黙って花を見つめる。


 自分が触れた。


 そのあとで、形が変わった。


 関係があるかどうかは分からない。


 だからこそ、胸の中へ小さな後悔が入り込んでくる。


「触らなければよかった?」


 アリシアが静かに尋ねる。


「今は、少し思う。でも朝は触りたかった。壊したくないもあったから、一回だけにした」


「そうだったね」


「もし私が触ったから曲がったとしても、朝に触りたかったのは嘘じゃない?」


「嘘じゃないよ」


「壊したくなかったのも?」


「それも本当」


 子供の目元が少し赤くなる。


「両方本当なの、難しい」


「うん」


「選んでも、嫌なこと起きる?」


「あるよ」


「正しく選んでも?」


 アリシアは少し考えた。


「何が正しかったのか、あとになっても簡単には決められないことがあると思う」


「また分からない」


「まただね」


 子供はしばらく黙っていたが、もう一度花へ顔を近づけた。


 今度は手を出さない。


「今日はもう触らない」


「怖いから?」


「それもある。でも今は、触るより見たい。朝とは変わった」


「変わっていいよ」


「同じ日でも?」


「もちろん」


 子供は少しだけ息を吐いた。


「じゃあ、朝は触った。今は触らない。それでいい」


     ◇


 昼前。


 西側調査隊から、新しい報告が入った。


『古い扉の向こうに空間を確認しました』


「石室候補とつながっている?」


『地形上は、ほぼ間違いありません。魔力反応源は扉の向こう、右奥に固定されています』


「大きさは?」


『人の胴体より小さい。生命反応はありません。危険反応も現状では低いです』


 副学院長は、壁のこちら側にいる光へ視線を向ける。


 まだ同じ場所にいる。


「扉は開けられる状態か?」


『外見上は。ただし、封印術式らしき刻印があります』


「触るな。術式を読むだけにしろ」


『了解』


 通信が切れる。


 若い観測員が古い壁を見た。


「向こうまで行けましたね。これなら壁へ穴を開けなくて済む」


「ああ」


「もし光が向こうへ行きたかったとしても……」


 言いかけたところで、観測員自身が口を閉じる。


「すみません。また先に決めました」


「気づいたならいい」


 副学院長は測定値を確認した。


「人間側には扉がある。光側には壁しかない。今は、同じ空間へ人間と光が別の場所から近づいているように見える」


「ように見える、まで」


「そうだ」


 そのときだった。


「光、移動!」


 観測員の声で、全員の視線が集まる。


 名前のない光が、石壁から離れる方向へゆっくり動き始めていた。


「壁面から半歩……一歩分離れます。接続値、変化なし」


「魔力反応源は?」


「こちらも変化ありません」


 光はさらに少しだけ離れる。


 壁の向こうには魔力反応がある。


 人間側は別経路から石室候補へ近づいた。


 そして、その頃に光は壁から離れた。


「避けた……?」


 誰かが思わず呟く。


 副学院長が振り返った。


「何を?」


「……分かりません」


「なら記録は?」


「壁面から距離を取る方向へ移動。それだけです」


「そうしろ」


 光は石壁から二歩ほど離れた位置で止まった。


 何も起きない。


 壁の向こうの反応も変わらない。


 調査隊は古い扉の前にいるが、まだ触れてはいなかった。


「人間が近づいたから離れた可能性は?」


 若い術師が、今度は断定せずに尋ねる。


「可能性はある」


「では、調査を止めますか?」


 副学院長は少し考えた。


「一度止める」


「関連があると判断するんですか?」


「違う。関連がないとも確認できていないからだ。調査を一度止めても危険が増えないなら、今は動きを重ねない方がいい」


 すぐに通信が送られる。


「調査隊、その場で停止。扉には触れるな。五分待機」


『了解』


 地下での五分は、地上より長く感じられた。


 誰も光へ近づかない。


 壁へも触れない。


 調査隊も動かない。


 一分。


 二分。


 三分。


 光に変化はない。


 四分を過ぎた頃、光が再びゆっくり動いた。


「移動」


「壁からさらに離れる?」


「いえ。距離はほぼ同じです。横へ動いています」


「調査隊は?」


「静止中」


 若い術師が何かを言いかけたものの、今度は自分で飲み込んだ。


「何だ?」


「人間側の動きとは関係なかったのかと思いました。でも、それもまだ分かりません」


「その通りだ」


 副学院長は、それ以上何も足さなかった。


     ◇


 昼食時、学院長から報告を聞いた子供は、思っていたより長く黙っていた。


「壁から離れたんだ」


「そうだ」


「人間は向こう側まで行った。でも壁は壊してないし、扉も開けてない」


「ああ」


「光が人間から離れたのか、魔力のものが嫌だったのか、ただ動きたかったのか……まだ分からない?」


「分からない」


 子供は黄色い果実を指先で少し転がした。


「近くにいたから、好きだったわけじゃないかもしれない」


「そうだね」


「嫌だったわけでもない。呼ばれてたかも分からない。……近くにあっただけかもしれない」


 少し考えたあと、子供は棚の上の白い花を見た。


「私、白い花の近くにいること多い」


「好きだから?」


「うん。でも箱の近くにも行く」


「箱も好き?」


 質問が自分へ返ってきて、子供は困ったように眉を寄せた。


「分からない。嫌いとも違う。気になるから行く。怖いもあるし、戻りたいもあるし、見たいもある。でも、近くにいるとき全部同じじゃない」


「そうだね」


「じゃあ、近くにいる気持ちも一つじゃない」


 自分で口にした言葉に、子供は少し驚いたようだった。


「光も?」


「光に気持ちがあるとしても、私たちにはまだ分からない。でも、最初から一つに決めない方がいいと思う」


「近いから好き。近いから行きたい。近いから呼ばれてる。全部、まだ決めない」


 そう言ってから、子供は黄色い果実を一口食べた。


「黄色、今日は二つでいい」


「朝は三つだったね」


「今は二つ。でも嫌いになったんじゃないよ。近くに置いてあるけど、今は食べないだけ」


「なるほど」


「黄色が私を呼んでるわけでもないし」


「それは確かに」


 アリシアが笑うと、子供も笑った。


     ◇


 午後になっても、顔のない存在は九歩目の位置から動かなかった。


 窓には近い。


 けれど、窓際ではない。


 子供は一人で窓辺へ立ち、庭の水溜まりを見ていた。


「減った」


「昨日より?」


「大きかったのが小さくなってる」


「晴れたからね」


「このままなくなる?」


「たぶん。でもまた雨が降れば増えるかもしれない」


「それって、戻る?」


 アリシアは少し考えた。


「同じ場所にまた水溜まりができるなら、『戻った』って言うことはできるかもしれない。でも、中の水まで全部同じではないと思う」


「同じ場所。でも同じ水じゃない」


「そうだね」


「白い花とは違う?」


「違うところもあるし、似てるところもあるかもしれない」


 子供は窓へ顔を近づけた。


「昨日の水がなくなって、また雨で水ができる。水溜まりが戻ったって言っても、前の水全部が帰ってきたわけじゃない」


「うん」


「戻るって、難しい」


 少し考えてから、顔のない存在へ目を向ける。


「この人も戻ることあるかな。九から八とか、六とか。寝台までとか」


「あるかもしれないね」


「戻ったら悪い?」


「悪くないよ」


 もう、その答えを子供自身も知っている。


 それでも、確認するように一度頷いた。


 やがて、午前中から顔のない存在のそばに残っていた木片へ目が向く。


「まだある」


 人影の指は、もう木片へ触れていなかった。


「離してる。取っていいかな」


「どう思う?」


「もう触ってない。でも近くにある」


 子供は一度近づこうとし、足を止めた。


「近くにあるから、この人がまだ使ってるって決めない。でも、使ってないって決めるのも違う?」


「そうだね」


「じゃあ聞く」


 子供は九歩目より少し手前で止まった。


「これ、取っていい?」


 返事はない。


 胸の十一の光にも目立った変化はなかった。


 子供はしばらく待ち、木片と人影を交互に見る。


「今日は取らない」


「どうして?」


「急がないから。別の木片もあるし、明日でもいい」


 そう決めると、子供は本当に引き返した。


 木片を一つ、その場に残したまま。


 今すぐ自分が使う必要がないのなら、分からないものへ無理に答えを付けなくてもいい。


     ◇


 夕方前。


 西側で止めていた調査は、さらに一時間以上の間を置いてから再開された。


 光は壁から少し離れた位置を保っている。


 魔力反応にも変化はない。


 副学院長は通信魔導具へ向けて指示を出した。


「封印術式を外側から読む。扉は開けるな。光側に変化が出たら、すぐ中止」


『了解』


 数分後。


『術式の一部を確認しました』


「用途は?」


『……保管用と思われます』


 観測員たちの間に、小さなざわめきが起きた。


「何を保管する?」


『そこまでは分かりません。ただ、人や生命体を閉じ込める拘束術式ではないようです』


「確実か?」


『確認できる範囲では』


「続けろ」


 古い文字を読む作業には時間がかかった。


 やがて、通信の向こうから慎重な声が届く。


『文字列の一部に、“接続具”……あるいは“中継具”に近い語があります』


 副学院長の表情がわずかに険しくなった。


 第四の声。


 中央。


 観測。


 接続。


 これまで何度も問題になってきた言葉が、嫌でも頭をよぎる。


「光の値は?」


「変化ありません」


「……同じ言葉が出たからといって、同じ用途とは限らない。まだ決めるな」


 その言葉は周囲へ向けたものでもあり、自分自身へ言い聞かせたものでもあった。


『もう一つ、読めます』


「何だ?」


『“一時保持”』


 地下に沈黙が落ちた。


 若い観測員が何かを言いかけたが、副学院長が手で制する。


「最後まで聞く」


『その後の文字は欠損しています。“一時保持”の対象は不明です』


「扉を開けなければ、それ以上は?」


『難しいと思われます』


 副学院長はすぐに判断を下さなかった。


 壁のこちら側には、名前のない光。


 少し離れた場所で静かに止まっている。


 別経路の先には、古い扉。


 その向こうに石室候補があり、何か小さな魔導具らしきものが残されている可能性がある。


 魔力反応は低い。


 危険値も上がっていない。


 急ぐ理由はなかった。


「今日は開けない」


「ですが、重要なものかもしれません」


「重要だから急いで触る理由にはならない。むしろ古い接続具の可能性があるなら、なおさらだ」


 調査隊にも指示が伝えられる。


『了解。現状保存して引き上げます』


 その日の西側調査は、そこで止まった。


     ◇


 夕方。


 子供はようやく木箱を棚の下から出した。


 朝は出さなかった。


 昼も、午後も。


 白い花を見て、顔のない存在と遊び、窓の外の水溜まりを眺め、それから夕方になって初めて、自分で箱を持ち出した。


「今日は遅かったね」


「朝は白い花が先だった。でも今は、箱も見たい」


 棚の前へ置く。


 けれど蓋には触れず、少し離れたところへ座った。


「近くにいるだけ?」


「今は」


「怖い?」


「少し。戻りたいも少しある。でも今日は、見たいが一番大きい」


「分けられるんだね」


「今日はね。明日は分からない」


 子供は木箱を見つめた。


「前は、箱に呼ばれてるみたいに思ったことがある」


「開けなきゃって?」


「うん。でも今は違う。箱はここにあるだけで、私が見に来た」


 指が蓋へ近づく。


 けれど触れる前に止まった。


「箱が近づいてきたんじゃない。私が来た。だから、近くにいても開けなくていい」


 手を引く。


「離れてもいい」


「今日はどうする?」


「もう離れる。見たから」


 子供は立ち上がった。


 けれど、箱は棚の下へ戻さない。


 見える場所へ置いたまま、自分だけがそこから離れた。


「箱はここに置いておく?」


「うん。夜も……たぶん」


 昨日とは違う選択だった。


 昨日は夜になって、自分の手で箱を棚の下へ戻した。


 今日は箱を残し、自分が離れた。


 怖さが同じように残っていたとしても、その日に選ぶ距離まで同じである必要はなかった。


     ◇


 夕食前、学院長は西側で見つかった古い文字について子供へ伝えた。


「接続?」


「ああ。古い扉の術式に、接続具か中継具に近い言葉があった」


「第四の声と関係ある?」


「まだ分からない。それとは別に、“一時保持”に近い言葉も確認された」


 子供の表情が少し強張った。


「保持って、置いておく?」


「そういう意味で使われている可能性はある」


「光を?」


「対象は分からない」


「人? 声?」


「どちらも分からない」


 子供は膝の上で手を握った。


「……怖い。接続って聞くと、ちょっと怖い」


「そうだな」


「でも、前の接続と同じじゃないかもしれない」


「ああ」


「人間、開ける?」


「今日は開けない。明日になって、もう一度相談する」


「光はまだ壁の近く?」


「少し離れた場所にいる」


「なら、光をそこへ連れていかない?」


「しない。もし扉を開けることになっても、光のために開けるわけじゃない」


 子供の握っていた手から、少し力が抜ける。


「魔力のものを調べるため?」


「そうだ」


「光が近くにいるからって、その光のものじゃない。でも、あとで関係あるって分かるかもしれない」


「その可能性はある」


 子供は指を一本ずつ折りながら数え始めた。


「光。壁。向こうの魔力。人間の扉。今は四つ」


「ああ」


「あとで関係が分かったら、一つになる?」


「一つの仕組みとして説明できるようになる可能性はある」


「ならないかもしれない?」


「もちろんだ」


「じゃあ、今は四つ」


 その分け方が気に入ったらしい。


 子供は何度か頷き、それ以上無理に結び付けなかった。


 夕食には温かい粥と根菜、それから細く切った肉が出された。


「今日は肉もあります。食べられそうですか?」


「少し」


「では、最初は二切れにしましょう」


 一切れ目をゆっくり噛む。


 二切れ目も飲み込んだところで、子供は箸を置いた。


「肉はもういい」


「お腹いっぱい?」


「まだ。でも今は粥が食べたい」


 肉は目の前に残っている。


 嫌いになったわけではない。


 まだ食べようと思えば食べられる。


 それでも子供は粥へ手を伸ばした。


「近くにあるから、食べなくていい」


「今日の話?」


「うん」


「肉が呼んでないから?」


「呼んでたら怖い」


 あまりにも真顔だったので、アリシアが思わず吹き出した。


「もし肉が『食べて』って言ったら?」


「ノアが先に食べる?」


『冗談じゃないわ。喋る肉なんて絶対嫌よ』


「ノア、嫌だって」


「なんで?」


「喋る肉は嫌らしい」


「私も嫌」


「じゃあ二人とも同じだね」


『そこを同じにしないで』


 治療教師まで口元を押さえ、生活観測区画の中へ久しぶりに長めの笑いが広がった。


 その声に反応したのかどうかは分からない。


 ただ、顔のない存在の胸では、十一のうち三つの光がわずかに明るくなった。


「三つ」


 子供がすぐに気づく。


「朝は二つだった」


「増えたね」


「笑ったから?」


「それは分からないな」


 子供は少しだけ考え、すぐに笑った。


「でも、今は三つ。それでいい」


     ◇


 夜。


 寝台へ入る前、子供は見える場所に残した木箱をもう一度確かめた。


「今日は棚の下へ戻さない」


「大丈夫?」


「少し気になるし、少し怖い。でも、ここにあっても寝られるか見たい」


「試してみる?」


「うん。無理だったら、そのとき戻す」


「夜中でも、私を起こしていいよ」


「自分で戻せる。灯りもあるから」


 子供は寝台へ入り、布団を胸元まで引き上げた。


 そこからでも木箱は見える。


 ほとんど茶色になった白い花も。


 隣の寝台には顔のない存在がいて、床ではノアが身体を丸めている。


「アリシア」


「うん」


「今日、壁の光は近くから離れた。箱も、私が近くまで行って離れた。この人も窓の近くまで行ったけど、窓までは行かなかった」


「そうだね」


「近くって、途中のこともある?」


「あると思う」


「終わりのことも?」


「あると思うよ」


「居場所になることも?」


「それもある」


 子供は少し黙った。


「でも、近いだけじゃ分からない」


「うん」


「……誰かの近くも?」


 アリシアはわずかに表情を変えた。


「人の近く?」


「私、今アリシアの近くにいる」


「そうだね」


「アリシアが呼んだから?」


「今は呼んでないよ」


「じゃあ、私がいる?」


「うん」


「私が近くにいたいから?」


「それは、子供にしか分からないかな」


 子供は布団の中で少し身体を丸めた。


「今は、いたい」


「うん」


「でも明日、離れたいかもしれない」


「それもいいよ」


「離れたら、アリシアは嫌?」


 声が少し小さくなった。


 アリシアは反射的に「嫌じゃない」と返すことをしなかった。


 少しだけ考える。


「寂しいとは思うかもしれない」


 子供の目が動いた。


「でも止めない?」


「安全なら、止めない」


「寂しいのに?」


「子供が私の近くにいるのは、私が寂しくならないためじゃないから」


 部屋の中へ、静かな間が落ちた。


「私がいたいから、いる?」


「そうなら嬉しい」


「離れたいから離れる日もある?」


「あるかもしれないね」


「戻りたくなったら?」


「戻ってきてもいい」


「アリシアが嫌だったら?」


「そのときは、嫌だって気持ちも含めて話すと思う。でも、『ここがお前の場所だからいろ』とは言わないよ」


 子供は天井を見つめた。


「難しい」


「うん」


「近くにいたい。でも、近くにいなきゃってなるのは嫌」


 しばらく考えたあと、子供は小さな声で続けた。


「離れてもいいって分かってる方が、近くにいられることってある?」


 アリシアは少し驚いた。


 その言葉を、自分の中でもゆっくり確かめる。


「……あると思う」


「私は今、そうかも」


 子供は見える場所に置かれた木箱へ一度だけ目を向けた。


「ここから出てもいいって分かってるから、ここにいるの、少し好き」


 胸の奥に、静かな温かさが広がる。


 けれどアリシアは、その言葉へ「なら、ここがあなたの居場所だね」とは続けなかった。


「それなら、今日はそれでいいと思う」


「うん」


 子供は目を閉じた。


 数分後、もう一度だけ目を開ける。


「箱、まだ大丈夫」


「うん」


「今は戻さない」


「分かった」


「おやすみ」


「おやすみ」


 木箱は見える場所に残った。


 それでも子供の呼吸は、少しずつ眠りの深さへ落ちていった。


     ◇


 夜が深まる頃。


 東側地下空室で、名前のない光が再び動いた。


「移動を確認」


 サーラが記録板から顔を上げる。


「方向は?」


「入口側です。……外へ出ます」


 観測員の声に少し緊張が混じった。


 光の輪郭の一部が、空室と通路の境界を越える。


 誰も動かない。


「接続値は?」


「低いままです。危険値にも変化ありません」


 光はゆっくり進み、やがて輪郭の半分ほどが通路側へ出た。


 昨日、全体が空室へ入った。


 そこで一晩を過ごした。


 今日は入口へ近づき、そして今、再び外へ出ようとしている。


「止めませんよね」


 若い観測員が確認する。


「止めません。扉も動かさない。誘導灯も追加しないでください」


「はい」


 光はさらに進んだ。


 やがて、最後の輪郭まで境界を越える。


「完全退出を確認」


「記録してください」


 若い観測員が筆を動かす。


『東側地下空室より全体退出。人間側介入なし』


 そこで、筆先が止まった。


「……『戻った』は書かないんですよね」


「書きません」


「ですよね」


 観測員は少しだけ苦笑した。


「昨日、全部入ったときは、何か大きなことが決まった気がしたんです。ここを選んだんだって」


「私も少し思いました」


「でも、出た」


「はい」


「だからって、昨日入ったことが間違いだったわけじゃない」


「そうですね」


「今日出た方が正しいわけでもない」


「はい」


 光は通路へ少し進んだ。


 以前留まっていた位置とも違う。


 最初の境界付近とも違う。


 そこで止まる。


 若い観測員はしばらく眺めてから、今度は自分から言った。


「今いる場所」


「はい」


「空室は、また空になりましたね」


「そうですね」


「光の部屋じゃなくなった?」


「最初から光の部屋とは呼んでいません」


「あ、そうでした」


 サーラは少しだけ笑い、それから空になった部屋を見る。


「ただ、光が一晩そこにいた事実は残ります」


「今はいないことも?」


「もちろん。どちらも同時に記録します」


 空室は静かだった。


 一晩だけそこにあった淡い光は、もうない。


 けれど、何もなかった場所へ戻ったわけでもなかった。


 そこに光がいた時間は、確かにあった。


     ◇


 西側では、名前のない光にそれ以上大きな移動はなかった。


 古い石壁から少し離れた位置。


 壁の向こうにある魔力反応にも変化はない。


 今夜は、それ以上調べない。


 人間側も引き上げ、光も追わなかった。


 生活観測区画では、子供が眠っている。


 木箱は見える場所へ置かれたまま。


 白い花は、もうほとんど完全に茶色だった。


 顔のない存在は隣の寝台へ戻り、胸には十一の光がある。


 アリシアも寝台へ横になっていたが、まだ少しだけ眠れずにいた。


『寝ないの?』


「もう寝る」


『東が出たわよ』


「聞こえてた?」


『あなたの耳元の通信、少し音漏れしてるもの』


「そっか」


『気になる?』


「少し」


『空室に入ったのにね』


「うん」


『それで、出た』


「……うん」


『残念?』


 アリシアは薄暗い天井を見上げた。


「少しだけ」


『へえ』


「全部入ったとき、やっぱり嬉しかったから。落ち着ける場所を見つけたのかもしれないって、少し思った」


『今は?』


「分からない」


『九割』


「まだ採点してるの?」


『残り一割は?』


 アリシアは少し笑った。


「出たからって、失敗したわけじゃないって思いたい」


『それは光のため? それとも自分のため?』


「……私が安心したいだけかもしれない」


 ノアの尻尾が、床の布を一度だけ叩いた。


『でも、入ったのも出たのも、その光がしたことでしょう』


「うん」


『なら少なくとも、あなたが失敗した話ではないわ』


「……うん」


『それに、光が失敗したかどうかも、あなたには決められない』


 アリシアはしばらく黙り、それから目を閉じた。


「そうだね」


『じゃあ寝なさい』


「はい」


 東側地下空室は、今夜また空になった。


 一晩だけ、名前のない光がそこにいた。


 昨日そこへ全体を移したことも、今日になって入口へ近づいたことも、今夜その外へ出たことも、どれか一つが別の一つを間違いにはしない。


 西側では、別の名前のない光が古い石壁から少し離れた場所にいる。


 壁の向こうには、接続具あるいは中継具を示す古い文字と、「一時保持」という欠けた言葉が残されていた。


 何を保持していたのか。


 何へ接続するためのものだったのか。


 今そこにいる光と関係があるのか。


 まだ、何一つ決まってはいない。


 光が壁の近くにいたからといって、その魔導具が光を呼んだとは限らない。光がそれを求めたとも、嫌って離れたとも限らなかった。


 ただ、近くにあった。


 そして今は、少し離れている。


 生活観測区画では、木箱が子供から見える場所へ残されている。


 子供は夕方、自分からその近くへ行った。


 蓋を開けることはしなかった。


 棚の下へ戻すこともしなかった。


 ただ見て、自分から離れた。


 誰かが何かの近くにいること。


 何度もそこへ足を運ぶこと。


 長く隣に留まること。


 それらには、確かな意味があることもある。


 好きだから近づくこともあれば、怖いから目を離せずにいることもある。気になっているだけかもしれないし、まだ離れる準備ができていないのかもしれない。


 あるいは、本当に何の理由もなく、ただそこにいるだけなのかもしれない。


 距離だけを見て、その理由まで先に決めることはできない。


 近くにあるものが、いつも自分を呼んでいるわけではない。


 自分が近づいたからといって、必ずそこへ辿り着かなければならないわけでもない。


 途中で止まってもいい。


 少し離れてもいい。


 一度離れたあとで、また近づいてもいい。


 見ただけで帰ってもいい。


 そして、離れてもいいと知っているからこそ、自分から誰かの近くにいられることもある。


 今夜。


 東側の光は、自分から空室を出た。


 西側の光は、自分から石壁を少し離れた。


 子供は、自分から木箱の近くへ行き、自分からそこを離れた。


 顔のない存在は、自分から九歩目まで進み、そこで止まった。


 誰も、その先を代わりに決めなかった。


 誰も、「そこまで来たなら、あと少しだ」と最後の距離を埋めなかった。


 近くにある。


 近くまで来た。


 それは、終点を意味しない。


 何かに呼ばれた証明にもならない。


 今はただ、それぞれが自分で選んだ距離にいる。


 明日になれば、さらに近づくかもしれない。


 離れるかもしれない。


 同じ場所に留まるかもしれない。


 あるいは、まったく別の方向へ進むかもしれない。


 そのどれになるのかを、今夜のうちに決める必要はなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。