第131話 開けられるからといって、今すぐ開けなければならないわけではない
朝になっても、木箱は棚の下へ戻されていなかった。
生活観測区画の窓から差し込む光は、昨日よりさらに明るい。雨雲はほとんど東の空へ流れ去り、濡れていた庭の石畳にも乾いた色が広がり始めていた。まだ深い窪みには小さな水溜まりが残っているものの、その表面を渡る風は昨日までより軽く、植え込みの葉から落ちる雫もほとんどなくなっている。
室内には、朝特有の静けさが残っていた。暖房用の魔導具はすでに止められ、換気用の術式も弱く動いているだけだが、窓を閉じたままでも夜のあいだに籠もった空気は重くない。寝台の周囲には、まだ眠りの気配だけが薄く漂っていた。
アリシアが最初に目を覚ましたとき、子供はまだ眠っていた。隣の寝台には顔のない存在も横たわっており、胸にある十一の光が、朝の明るさに負けそうなほど弱く灯っている。
昨夜、窓の一歩手前にあたる九歩目まで自分で進んだ人影は、夜になると再び自力で寝台へ戻っていた。子供はその瞬間を見ていなかったが、観測記録には、眠り始めてしばらくした頃に人影が立ち上がり、途中で一度止まりながら寝台まで戻ったことが記されている。
九歩進んだあと、寝台へ戻った。
けれど、それを後退と記録した者はいなかった。窓へ近づくことだけがこの存在の目的だと、まだ誰にも決められないからだ。
一方、棚の前には昨日の夕方に子供が自分で引き出した木箱が残っていた。蓋は閉じたままで、位置もほとんど変わっていない。夜中に子供が起きて戻した様子はなく、アリシアが眠ってから朝までの観測記録にも接触は記されていなかった。
見える場所に箱がある。それだけの状態で一晩を越えられたという事実は、昨日までの子供にとって決して小さなことではなかった。
『起きたなら、また紙を見るんでしょう』
床から聞こえた声に、アリシアは振り返った。ノアは無地の布の上で丸くなったまま、眠たそうに尻尾の先だけを一度動かしている。
「まだ見てないよ」
『でも見る』
「見るけど、朝の報告だから必要なの」
『誰も駄目とは言ってないわ。読んだあと、勝手に物語を作るなって言ってるだけ』
「作らない」
『昨日もその台詞を聞いた気がするわね』
アリシアは少しだけ口を尖らせたものの、反論はしなかった。机の上に置かれていた報告書を手に取り、まず東側の記録へ目を落とす。
昨夜、地下空室を完全に退出した名前のない光は、通路へ出たあと大きな移動をしていなかった。以前長く留まっていた場所とも違い、空室入口の真正面でもない。通路の途中、片側の壁から少し距離を取った位置で止まっており、接続値は低く、危険反応も確認されていなかった。
もちろん、人間側から何かを置いたり、移動を促したりもしていない。
西側では、古い石壁から二歩ほど離れたあと横方向へ移動した光が、夜間もほぼ同じ場所に留まっている。石室候補側の古い魔力反応も固定されたままで、昨夜見つかった古い扉については、早朝から術式専門の教師二名を加え、扉を開けずに外側の文字と術式だけを追加解析する予定となっていた。
報告書の最後には、短い追記がある。
『開扉判断は保留。開ける必要性そのものを再検討する』
そこでアリシアの視線が止まった。
『何?』
「扉」
『開けるの?』
「まだ。むしろ、開けなくてもいいかを考えるみたい」
ノアがようやく片目を開いた。
『まともね』
「褒めてる?」
『学院側を』
「私じゃないんだ」
『あなたはまだ何もしてないでしょう』
「そうだけど……」
小さく言い返したところで、寝台の方から布の擦れる音が聞こえた。アリシアは報告書を閉じ、そちらへ身体を向ける。
子供が目を覚ましていた。
今朝も最初に天井を見て、それから窓へ視線を向ける。けれど、いつもならそのあと隣の寝台を確かめるところで、今日は途中で目が止まった。
棚の前に置かれた木箱だった。
「……ある」
「うん」
「戻してない」
「うん。昨日の場所のままだよ」
子供は少し目を大きくし、しばらく箱を見つめていた。不安がなくなったわけではないらしい。それでも昨夜のように胸元を握ることも、すぐに視線を逸らすこともなかった。
「夜、私、起きた?」
「少なくとも私は気づかなかったよ。観測記録にも、箱を触ったとは書いてなかった」
「寝られた」
「そうだね」
「途中、少し夢見た」
「箱の夢?」
子供はすぐには答えず、記憶を探すように目を伏せた。それから小さく首を横へ振る。
「水の夢。前の水。でも箱は出なかった」
「怖かった?」
「少し。でも起きなかった」
「そっか」
もう一度、木箱を見る。
「見えるところにあっても、寝られた」
その言葉には、昨日できなかったことができたという喜びより、自分の状態を確かめようとする慎重さがあった。
「じゃあ、もう怖くない?」
自分で口にした問いに、子供自身が少し迷った。
アリシアは答えを先に与えず、隣で待った。
「子供はどう感じる?」
「今も少し怖い」
「じゃあ、怖くなくなったわけじゃないね」
「うん。でも、昨日より……小さいかも」
「怖いのが?」
「うん。たぶん。でも夜だったからかもしれないし、今は朝だからかもしれない」
「そうかもね」
子供はもう一度考え、それから少し笑った。
「じゃあ、昨日より怖くないって決めない。今は、少し怖い。それだけ」
「うん。それでいいと思う」
そこでようやく、子供は隣の寝台へ目を向けた。
顔のない存在は、今朝もそこにいる。
「いる」
昨日まで何度も繰り返してきた確認だったが、声の中に含まれる緊張は少しずつ薄くなっていた。
「おはよう」
子供が人影の胸へ向けて声をかける。
十一の光は、すぐには変わらなかった。
子供も急かさない。返事があるはずだと決めつけることなく、そのまま待っていると、一つ目の光が淡く明るさを増した。少し遅れて二つ目、さらに間を置いて三つ目が続く。
「今日は三」
「昨日の朝は二つだったね」
「うん。でも昨日の夜も三つだった」
子供は胸の光をじっと眺める。
「同じ?」
「数はね」
「でも今日の三つ」
「そうだね」
「昨日の三つと同じ光?」
アリシアも人影の胸へ目を凝らした。位置だけなら、昨日明るくなった三つと似ているようにも見える。しかし、完全に一致していると断言できるほどの情報はない。
「私には似た位置に見える。でも、同じかは分からない」
「じゃあ、今日の三つ」
子供はそう納得し、もう一度「おはよう」と言った。
三つの光は、そのまましばらく淡い明るさを保っていた。
子供は布団から出ると、昨日まで誰かに言われてから行っていた足の確認を、自分から始めた。左右の足裏を見て、指で軽く押し、足首をゆっくり回していく。
「痛くない。赤くもない」
「あとでセレナにも見てもらう?」
「うん。でも見るだけ」
「分かった」
床へ立って二歩ほど歩き、違和感がないことも確かめる。そのあと子供が向かったのは白い花ではなく、棚の前に置かれた木箱だった。
アリシアは少し意外に思ったものの、声をかけずに見守った。
子供は箱の正面を避け、少し斜めの位置へしゃがむ。
「朝」
「うん」
「昨日の夜、ここにあった」
「うん」
「今もある」
「そうだね」
蓋を見つめながら、子供は自分自身へ確かめるように尋ねた。
「開ける?」
手は伸びない。
しばらく木目や金具を眺めたあと、子供はゆっくり首を横へ振った。
「まだ」
「どうして?」
「昨日寝られたから、開けられるかもって少し思った。でも、寝られたのと開けるのは違う」
「うん」
「見えるところに置けたからって、次は開けるじゃない」
アリシアは静かに頷いた。
子供は蓋の縁や擦れた木目を目で追ったが、今日は触れることもしなかった。
「開けられるかもしれない。でも、今開けたいかは別。今は……開けたくない」
「分かった」
「でも戻さない。今日はここに置く」
昨日なら、怖いものは見えない場所へ戻すか、それとも克服するために触れるか、その二つしかないように感じていたのかもしれない。
今日は違う。
怖いまま、見える場所に置いておく。
開けないまま、存在を許しておく。
子供はそれだけを自分で決め、立ち上がった。
今度こそ白い花の置かれた棚へ向かう。
花は昨日よりさらに乾いていた。下へ曲がっていた一枚の花弁は、茎から半分ほど外れ、わずかな部分だけで繋がっている。
「もう少しで落ちる」
「そうだね」
「触らなくても?」
「たぶん」
子供は近づいたが、今日は手を出さなかった。昨日触れたことへの後悔があるからなのか、それとも今はただ見ていたいだけなのか、アリシアには分からないし、決める必要もない。
「落ちたら、拾う?」
子供はしばらく考える。
「小皿に置くかも。でも、落ちたら考える。まだ落ちてないから」
「うん」
まだ起きていないことを、先に決めない。
それも以前の子供には難しかったことだった。
花の前から離れた頃、隣の寝台で顔のない存在が身体を起こした。子供はすぐに気づいたが、駆け寄らず、その場から様子を見る。
「歩く?」
返事はない。
それでも人影は自分で足を床へ下ろし、立ち上がった。
一歩、二歩、三歩。
昨日と同じく、窓へ向かっているように見える。
子供は声に出して数え続けた。四歩、五歩、六歩。そして七歩目で、人影は動きを止めた。
「七」
昨日は九歩だった。
ほんの少し、子供の顔に残念そうな色が浮かぶ。それでもすぐに「減った」とは言わなかった。
人影は七歩目でしばらく立ち尽くし、それ以上進むことなく、ゆっくりその場へ座った。
「今日は七。昨日は九だった」
「うん」
「戻った?」
自分で尋ねてから、子供は眉を寄せた。
「……違うかな」
「どうして?」
「寝台から数えたから。今日は七で止まっただけ。昨日の九から二戻ったんじゃない」
アリシアは少し目を細めた。
「なるほど」
「昨日は昨日の九。今日は今日の七」
「うん」
「悪くない?」
「子供はどう思う?」
今度はすぐに綺麗な答えを探そうとせず、子供は少し唇を尖らせた。
「……本当は、九まで行ってほしかった。窓まであと一歩だったから」
「そっか。もっと行ってほしかったんだね」
「うん。でも、この人は七で止まった」
残念そうな気持ちは消えていない。それでも子供は人影を見つめながら、少し時間をかけて言葉を続けた。
「私が見たいからって、この人が進まなくていい。連れていかない」
アリシアは褒めなかった。
今の言葉を「正解」にしてしまえば、今度はそれを守ることが新しい役割になってしまうかもしれない。
だから、ただ隣へ立った。
二人で同じように、七歩目に座った人影を眺めた。
◇
西側地下区画では、朝から二人の術式教師が古い扉の調査へ入っていた。
地下には朝も夜もほとんどない。天井近くに設置された仮設灯の白い光が古い石壁を照らし、湿った岩と金属の匂いが細い通路に残っている。遠くでは排水用の術式が低い音を立てており、人が言葉を止めると、その一定の響きだけが耳に残った。
二人は昨日と同じように扉へ直接触れず、床へ敷いた観測用の薄い布の外側から、刻まれた文字列と術式の流れを読み取っていた。
扉は灰色がかった石と黒い金属を組み合わせた造りで、金属部分には長い年月を示す腐食が浮いている。それでも全体が崩れていないのは、内部に残る魔力が最低限の保存状態を保っているからではないかと考えられていた。
「この線、封印ではありませんね」
一人の教師が低い声で言った。
通信具を通じ、その声は少し離れた位置で観測を続ける副学院長にも届く。
「昨日は封印術式と報告されていた」
『外から確認した段階では、その可能性が高いと思われました。ただ、今朝あらためて術式の流れを追うと、開けさせないためというより、何かの状態を固定する構造に近いです』
「中身を?」
『それもまだ断言できません。扉そのものを閉鎖状態に保つ術式かもしれない』
もう一人の教師は、欠けた文字列へ拡大用の観測板をかざしていた。
『こちらにも保持系の語があります。ただ、“一時保持”と読める部分の前が欠損しています』
「対象語か?」
『可能性はあります』
「復元できるか?」
『無理に補えば、いくらでも意味を作れてしまいます』
「なら補うな。読めないものは読めないまま残せ」
『はい』
副学院長は短く答えたあと、こちら側に残っている名前のない光へ視線を移した。
昨日よりさらに壁から離れた場所にいる。およそ二歩と少し。横方向へもずれたため、すでに石壁の真正面からは外れていた。
朝の調査開始後も、光に目立った変化はない。
「追加解析を始めてから、光側の変化は?」
「ありません。接続値、輪郭光量、位置ともに大きな変化なしです」
「石室側の魔力反応源は?」
「固定されたままです」
観測員の報告を聞き、副学院長は腕を組んだ。
「扉を開けられる状態だとしても、開ける必要があるかは別だな」
近くにいた若い観測員が、少し戸惑ったように測定板と扉を見比べる。
「でも、中には反応源があります。危険なものかもしれません」
「現時点で危険値は低い」
「今後上がる可能性もありますよね」
「ある」
「なら、早く確認した方が安全なんじゃ……」
副学院長は途中で遮らなかった。若い観測員が最後まで言い終えるのを待ってから、古い扉へ目を向ける。
「早く開けることが、安全確認とは限らない。扉が閉じているから危険値が低い可能性もあるし、中にあるものが劣化していて、外気へ触れた瞬間に状態が変わる可能性もある。逆に閉じたままの方が危険な可能性だって残っている」
「……はい」
「だから、まず開けずに取れる情報を取る。『開けられる。だから開ける』では、理由として足りない」
通信の向こうでも、術式教師たちは黙って聞いていた。
少しして、一人が声を上げる。
『もう一つ、読めそうな語があります。ただ……“返送”ではないですね。“返却”でもない』
「近い語は?」
『“移送後解除”……いや、違います。すみません、文字の欠損が大きすぎます。意味を決めるには足りません』
「なら保留だ」
『はい』
もう一人の教師が別の術式へ視線を移す。
『ただ、“一時保持”が恒久保管を意味していない可能性は高いと思います。保持術式の循環構造が閉じていません。何かを長期間固定し続ける構造ではない』
「時間制限がある?」
『時間かもしれませんし、条件かもしれません。外部からの信号で解除される可能性もあります』
「解除条件が別にあるということか」
『その可能性はあります』
副学院長の表情が少し険しくなった。
その横で、若い観測員が反射的に口を開く。
「中央からの命令、とか?」
術式教師の一人が、通信越しにすぐ否定した。
『中央という文字はありません』
「でも、外部信号なら……」
『中央とは限りません。隣室の魔導具、別の設備、術者本人、時間経過、魔力低下。候補はいくらでもあります』
「あ……すみません」
『いえ。私も最初に同じことを考えました』
教師の声は責めるものではなかった。
『だから今、それだけに引っ張られないようにしているところです』
副学院長が小さく息を吐いた。
「全員同じだな」
「何がです?」
「知っている言葉に近いものを見つけると、そこへ話を寄せたくなる」
第四の声、中央、第三の器、接続、保持、観測。
これまで見つかった言葉が多くなったからこそ、新しく見つけたものまで既知の枠へ押し込みたくなる。点と点が増えれば、まだ線がない場所にまで線を引きたくなるのは、人間の悪い癖なのかもしれなかった。
「午前中は術式だけ読む。開扉判断は昼以降だ。それまでに、扉を開けず反応源をさらに詳しく測れ」
「了解」
命令が出ても、誰も扉には触れなかった。
白い仮設灯の下で、古い扉は昨日と変わらない姿のまま閉じ続けていた。
◇
生活観測区画では、その頃になって朝食が始まっていた。
今日の食事は柔らかい麦粥と煮た根菜、それから皮を取り除いた薄緑色の果実だった。温かな湯気には穀物の柔らかな匂いが混じり、朝の明るさが戻った部屋へ、昨日までとは少し違う日常の空気を作っている。
子供は緑色の果実をしばらく眺めた。
「昨日の黄色じゃない」
「違う種類です」
治療教師が少し離れた場所から答える。
「甘い?」
「少し甘くて、香りが強めです」
「酸っぱい?」
「ほとんどありません」
「苦い?」
「皮に近いところに少しあります。ただ、今日は皮を取ってありますよ」
子供は一通り聞いたあと、自分で一切れ取った。
「食べる」
口へ入れると、すぐには噛まず、少し目を閉じる。それからゆっくり歯を動かし、飲み込んでから首を傾げた。
「匂いが先にくる」
「味より?」
「うん。口に入れる前から少し分かる」
「名前はどうする?」
「緑香」
「今日は二文字増えたね」
「昨日は黄色だったから」
「正式な名前も聞く?」
「あとで」
二切れ食べたところで、子供は三つ目へ伸ばしかけた手を止めた。
「今日は二でいい」
「嫌いだった?」
「違う。今は粥が食べたい」
そう言って、今度は自分から麦粥の器を引き寄せる。
もう、この選び方に長い説明はいらなかった。
食事が半分ほど進んだ頃、子供は扉の方へ顔を向けた。
「学院長?」
「いるぞ」
「聞いていい?」
「ああ」
「東から」
「今日も東からか」
扉の向こうから返った学院長の声には、わずかな笑いが混じっていた。
「東側の光は、昨夜空室を出てから通路の途中で止まっている。今朝も大きく動いていない」
「前にいた場所?」
「違う」
「じゃあ、新しいところ?」
「少なくとも、これまで長く記録していた位置とは違うな」
「そこ、名前ある?」
「人間側では通路第三観測点付近と記録している」
「光の場所の名前じゃない?」
「ああ。場所を記録するための名前だ」
「うん」
子供はそれで納得したらしく、麦粥を一口食べる。
「人間、何か置いた?」
「何も置いていない」
「なら今はそこ」
「そうだ」
「西は?」
学院長は少し間を置いてから答えた。
「古い扉を、開けずに調べている」
「開けない?」
「まだな」
「昨日、今日になったら開けるか相談するって言った」
「ああ。相談した結果、まずは開けないまま分かることを調べることになった」
子供の目が少し大きくなった。
「開けられるの?」
「おそらくは」
「じゃあ、なんで開けない?」
「開けられることと、今開ける必要があることは別だからだ」
子供の箸が止まった。
何かを思いついたように棚の前へ視線を動かし、朝から置かれたままの木箱を見る。
「……箱みたい」
アリシアも同じことを考えていた。
「どういうところが?」
「私も、たぶん箱を開けられる。でも今、開けたいわけじゃない」
「うん」
「扉も?」
今度は学院長が答えた。
「人間側には開ける力があるかもしれない。でも、安全を確かめるために今すぐ開ける必要があるかは、まだ分からない」
「中に危ないものがあったら?」
「だから調べている」
「開けないで?」
「ああ。外から取れる情報もあるからな」
「全部分かる?」
「全部は無理だろう」
「じゃあ最後は開ける?」
「必要なら」
「必要じゃなかったら?」
「開けない可能性もある」
子供は意外そうに瞬きをした。
「ずっと?」
「少なくとも、開ける理由がないならな」
「中に何かあるのに?」
「あるからといって、全部見なければならないわけじゃない。自分たちに関係があるなら、いつか確認した方がいい場合もある。危険なら放っておけない場合もある。でも、『あるから見たい』だけなら待つこともできる」
「人間、見たい?」
「かなり」
学院長があまりにも迷いなく答えたので、アリシアは思わず口元を押さえた。子供も一瞬きょとんとしてから、小さく笑う。
「でも待つ?」
「待つ」
「大人でも?」
「むしろ大人が待てないと困る」
「学院長、待つの得意?」
扉の向こうで、ほんの少し沈黙があった。
「……昔よりは」
子供が笑い、アリシアも堪えきれず笑った。
『絶対、昔は苦手だったわね』
「ノアもそう思う?」
『あの間で分かるでしょう』
「何て?」
子供に尋ねられ、アリシアは素直に答えた。
「学院長、昔は待つの苦手だったんじゃないって」
「本当?」
「ノア」
扉の外から学院長の低い声が飛んでくる。
それが余計におかしかったらしく、子供の笑い声は少しだけ大きくなった。
◇
午前中、生活観測区画では特別な接触試験を行わなかった。
子供は白い花を眺めたり、木箱を見たり、時々窓の外を確認したりして過ごした。顔のない存在は七歩目の場所へ座ったままで、昨日より窓から遠いものの、ときどき頭の向きだけを窓側へ変えている。
「見えてるかな」
「上の方は見えると思う」
「水溜まりは?」
「七歩目だと、昨日より見えにくいかも」
「じゃあ、行きたかったら行く」
「うん」
子供はそれ以上誘わなかった。
代わりに自分だけ窓際へ向かい、庭を覗き込む。雨上がりの水溜まりはさらに小さくなっており、昨日まで水面だった場所の端には、乾き始めた石の色が広がっていた。
「昨日より減った」
「うん」
「明日なくなるかも」
「そうだね」
「なくなる前に触りに行く?」
「外へ?」
「うん」
アリシアはすぐに賛成も反対もせず、子供の足元を見る。
「足の状態と、外へ出る練習の予定を確認してからなら」
「今日行ける?」
「聞いてみようか?」
子供はしばらく水溜まりを見つめた。やがて、少し惜しそうな顔をしながら首を横へ振る。
「……今日はいい」
「どうして?」
「なくなる前にって思った。でも、それで急いでる」
「うん」
「明日なくなったら、もう触れない」
「そうだね」
「でも、今日行きたいより、今はここにいたい」
「そっか」
子供は窓枠へ手を置いたまま、少し寂しそうに庭を見る。
「なくなったら嫌かも。でも、だから今日行く、じゃない」
「うん」
白い花のことが、少し重なっているのかもしれない。
触れないまま白色が失われ、あとになって「触っておけば」と思った。それでも、その経験を「なくなる前に全部やらなければならない」という新しい義務にしてしまえば、以前とは違う形の命令を自分へ与えるだけになる。
子供は自分で窓から離れた。
そのとき、棚の方からごく小さな音がした。
乾いたものが、軽い板の上へ落ちたような音だった。
子供が振り返る。
白い花の花弁が一枚、棚の上へ落ちていた。
「あ……」
足が止まる。
アリシアも何も言わず、同じ場所を見る。
落ちた花弁は完全に茶色く乾き、端が少し丸まっていた。昨日まで茎に半分だけ繋がっていた一枚だ。
「落ちた」
「うん」
「触ってない」
「うん」
昨日、自分が触れたから白い色が失われ、花弁まで落ちるのではないかと不安になっていた。
今、誰も触れていない時間にも花は変わった。
それで昨日の行動にまったく影響がなかったと証明されたわけではない。それでも、自分が触れていなくても変化は続くということを、子供は目の前で見ることができた。
子供はゆっくり花弁へ近づいた。
指を伸ばしかける。
けれど、触れる寸前で止まった。
「拾ったら、壊れる?」
「かなり乾いてるから、割れやすいと思う」
「でも、ここに置いたままでも?」
「誰かが棚を動かしたら落ちるかもしれないし、風が当たれば動くかもしれないね」
「じゃあ、どっちが正しい?」
「分からない」
アリシアがそう答えると、子供は少し困った顔になった。
以前なら、正しい方を教えてほしいとさらに聞いたかもしれない。
今日はしばらく黙って考え、小皿へ目を向けた。
「小皿に置きたい。でも、手で持つの怖い」
「道具を使う方法もありますよ」
少し離れたところから治療教師が声をかける。
子供はすぐに頷かなかった。
「どんな?」
「薄い木の板を花弁の下へ入れて、そっとすくうことはできます」
「私が?」
「あなたがやってもいいですし、私がやってもいいですよ。どうしたいかは、あなたが決めてください」
子供は落ちた花弁を見つめたあと、ゆっくり答えた。
「私がやる。でも、手伝ってほしい」
「どこを手伝えばいいですか?」
「板を持ってきて」
「分かりました」
治療教師はすぐには近づかず、これまで守ってきた三歩の距離を保ったまま別の職員へ声をかけた。用意された薄い木板を子供が自分で受け取り、両手で持つ。
指先が少し震えていた。
「割れたら?」
不安そうにアリシアを見る。
「悲しいと思う」
「私も」
「でも、割れたら昨日拾わなかったのが正しかったことになる?」
子供は自分で問いかけたあと、しばらく考えて首を横へ振った。
「ならない」
「うん」
「今日拾うのが間違いにも?」
「それも、割れたことだけでは決められないと思う」
子供は一度深く息を吐いた。
木板を花弁の下へゆっくり差し込む。
最初は少し引っかかり、手が止まった。
「怖い」
「やめてもいいよ」
「……でも、今はやる」
今度は角度を少し変えた。
花弁が板の上へ乗る。
「乗った」
「うん」
そこから小皿まではほんのわずかな距離だったが、子供は急がなかった。誰も動かず、風も起こさないようにして見守る中、板をゆっくり傾ける。
乾いた花弁が、小皿へ滑り落ちた。
割れなかった。
子供の肩から、目に見えて力が抜ける。
「できた。壊れなかった」
「よかったね」
「でも、次は分からない」
「そうだね」
子供は小皿に置かれた花弁をしばらく眺めた。
「今日、拾いたかったから拾った。それでいい」
自分へ言い聞かせるというより、今の気持ちを確かめるような声だった。
木板を治療教師へ返したあとも、子供は何度か小皿を振り返った。
◇
西側では、昼前まで続いた解析によって、古い扉についてもう一つ重要なことが判明していた。
「開閉術式が死んでいます」
術式教師からの報告に、副学院長が眉を寄せる。
「壊れているのか?」
『一部だけです。扉そのものは物理的に開けられる可能性があります。ただ、本来は術式によって開閉状態を管理していたらしい』
「今は?」
『閉じた状態で固定されています。ただし完全な封印ではありません。外から力をかければ開く可能性があります』
「可能性?」
『内部の金具が生きているか分からないので、確実とは言えません』
「開けるなら、破壊が必要になるか?」
『場合によっては』
副学院長はほとんど迷わず首を横へ振った。
「なら今日は開けない」
近くで聞いていた若い観測員が、思わず顔を上げる。
「即決ですか?」
「壊さず開けられるか分からないものを、今の段階で壊してまで開ける理由がない。内部の反応源は?」
「変化なしです」
「危険値は?」
「低いまま」
「なら現状維持だ」
術式教師が通信越しに続ける。
『もう一つあります。扉に組み込まれた保持術式ですが、内側のものを閉じ込めるというより、外部との接続を弱めるための構造に近い可能性があります』
「切る?」
『完全遮断ではありません。今も微弱な魔力は漏れています。ただ、内部にある何かと外部の何かを、一時的に切り離す目的だった可能性はあります』
「根拠は?」
『術式の流れが内側へ魔力を押し込む形ではなく、境界面で流れそのものを弱める構造になっているからです』
副学院長は図面を見ながら眉間へ皺を寄せた。
「接続具を保持して、その接続を弱める……?」
『矛盾しているようにも見えます』
「だからまだ意味が分からない、か」
『はい』
別の教師が補足する。
『接続具そのものを使わない間、一時的に保管して外部との接触を弱める場所だった可能性もあります』
「道具置き場?」
『ものすごく乱暴に言えば、そうなります』
若い観測員が小さく息を吐いた。
「じゃあ、光とは関係ない可能性もあるんですね」
「ある」
副学院長は即答した。
「昔の施設職員が使っていた道具の保管庫。それだけという可能性も残っている」
「でも、接続って言葉が……」
「接続という言葉だけで、光や第四の声へ結び付けるな。逆も同じだ。関係ない可能性が出たからといって、安心するのも早い」
「はい」
観測員は素直に頷いた。
扉の向こうに何があるのかは、まだ分からない。
分からないという事実を、無理に既知の何かへ変換しない。
そのために時間を使うことも、今の学院にとっては調査の一部になっていた。
「昼の会議で、開扉の必要性をもう一度検討する。それまでは現状維持だ」
◇
昼食後。
学院長から西側の新しい報告を聞いた子供は、しばらく棚の前の木箱を見ていた。
「扉、壊さないと開かないかもしれない?」
「そうだ」
「じゃあ開けない?」
「今日はな」
「中のもの、危なくない?」
「今のところ危険値は低い」
「あとで危なくなったら?」
「そのときは判断を変える」
子供は少し考えた。
「昨日と今日で変えていい?」
「必要ならな」
「一回、開けないって決めたら、ずっと開けないじゃない?」
「違う。状況が変われば、決めたことを変えていい」
「じゃあ、開けるって決めても、あとでやめていい?」
「実際に開ける前なら、もちろんだ」
その答えを聞いた瞬間、子供の視線が木箱へ向いた。
「私も?」
「もちろん」
「開けるって言ってから、やっぱりやめるってしていい?」
「いいよ」
アリシアも答える。
「蓋に手をかけたあとでも?」
「いいよ」
「少し開けてから閉じるのは?」
アリシアは少し考えた。
「安全にできるものなら、それも選べると思う。ただ、中身によっては一度開けただけで状態が変わることもあるから、そこは先に確認した方がいいかな」
「この箱は?」
「少なくとも今のところ、危険な魔力反応はないよ」
「じゃあ、少し開けて閉じてもいい?」
「子供がそうしたいなら。でも、今すぐやらなくてもいい」
子供は木箱を見たまま、長く黙った。
指先が一度だけ動く。
けれど立ち上がることはなかった。
「……今日はやらない」
「うん」
「でも、開けるって言ってからやめてもいいって分かった。それ、ちょっと安心する」
「どうして?」
「開けるって決めたら、最後までやらないとって思ってた」
その言葉を聞いた瞬間、アリシアの胸の奥に小さな痛みが走った。
中央の声。
役割。
命令。
一度決められたことは最後まで。
一度始めたことは途中で止めない。
それが子供にとって、あまりにも長く当たり前だったのだろう。
「途中でやめてもいいよ」
アリシアは静かに言った。
「気が変わってもいいし、怖くなってもいい。思ってたのと違うって分かって、やめることだってできる」
「誰か困っても?」
「困ることはあると思う」
子供の表情が少し曇った。
だからアリシアは、都合のいいことだけを言わない。
「でも、誰かが困ることと、子供がやめちゃいけないことは同じじゃないよ。困ったら、そのあとどうするかを一緒に考えればいい」
「怒られる?」
「場合によるかな」
「アリシアも怒る?」
「危ないことを黙ってやったら、私は怒るかも」
子供の目が少し大きくなる。
「でも、途中で怖くなってやめたこと自体では怒らないよ。むしろ、やめたいなら言ってほしい」
子供はまた木箱を見た。
「やめたいって言っていい」
「うん」
「始める前でも、途中でも?」
「うん」
返ってきた言葉を、自分の中へ馴染ませようとしているようだった。
子供はそれからしばらく何も言わず、木箱の閉じた蓋を見つめ続けた。
◇
午後の西側会議は、古い地下区画に設けられた仮設観測室で行われた。
学院長、副学院長、術式教師二名、土の神器継承者、安全管理担当が参加し、東側の観測を続けているサーラは通信で加わっている。全員を一か所へ集めず、各観測地点を維持したまま判断を共有する形だった。
「結論から言えば、今日の開扉は見送る」
副学院長が告げても、すぐに反対意見は出なかった。
机上には扉周辺の術式を書き写した紙、魔力反応の推移、古い区画の簡易図面が並んでいる。誰もが気になっているからこそ、開けない理由を曖昧にしてはいけなかった。
「理由を整理する。第一、内部魔力反応は現時点で低く固定されている。第二、生命反応はない。第三、開閉術式が一部機能しておらず、破壊なしで開けられる保証がない。第四、扉を開けることで内部の状態そのものが変化する可能性がある」
「第五」
学院長が言葉を継ぐ。
「開けなくても、まだ取れる情報が残っている」
術式教師が頷いた。
「扉周辺の文字列は、まだ解析を続けられます。壁越しの魔力波形についても、時間をかければもう少し詳しく取れるでしょう」
安全管理担当が資料を確認する。
「緊急性がないなら、現時点では開ける理由が弱いですね」
そのとき、若い術師が少し迷いながら手を上げた。
「でも、いつかは開けるんですよね?」
副学院長が視線を向ける。
「なぜそう思う?」
「中に何があるか分からないからです」
「分からないものは、全部開けるのか?」
「……違います」
「なら、開ける必要が生まれたときに開ければいい」
若い術師は資料へ視線を落としたものの、まだ納得しきれていない顔をしていた。
「でも、気になります」
「俺もだ」
副学院長が即答したため、張り詰めていた室内に小さな笑いが起こった。
「だからこそ、気になることだけを理由に作業を進めない」
学院長も少し笑いながら続ける。
「好奇心は調査を始める理由にはなる。だが、危険性の分からない扉を壊す理由には足りない」
通信具の向こうから、サーラの声が届いた。
『東側も似ています。昨夜空室を出た光は、今朝からほとんど動いていません。以前なら“次へ進まないのか”と考えたかもしれませんが、今は止まっているという事実だけを記録しています』
「止まっているから刺激してみよう、とはならない?」
『なりません。少なくとも今は』
「こっちも同じだな」
副学院長は古い扉の図面へ視線を落とした。
「閉じている。だから開けよう。それだけでは人間側の都合だ」
会議は、開扉を見送るという結論だけでは終わらなかった。
次に何を確認するのか。どの値が変化したら判断をやり直すのか。どの条件なら緊急開扉を検討するのか。
内部魔力反応が一定値以上へ上昇した場合。生命反応が新たに検出された場合。名前のない光側に大きな接続値変化が起きた場合。周囲の古い術式が自動的に再起動した場合。
そうした条件を一つずつ書き出し、再検討の基準として共有していく。
逆に言えば、それらが起きない間は開けずに観測を続ける。
「何もしない、というのも判断です」
術式教師の一人が言った。
副学院長は資料を閉じながら頷いた。
「最近、それを何度も教えられるな」
◇
夕方。
西へ傾いた陽射しが生活観測区画の床へ細長く伸び始めた頃、顔のない存在に小さな変化があった。
七歩目の位置で長く座っていた人影が、自分から立ち上がったのだ。
「あ」
子供がすぐに気づいた。
「動く」
昨日なら、そのまま窓へ向かうことを期待したかもしれない。
けれど今日、人影が身体を向けたのは窓ではなかった。
少し横。
午前中から床に残されていた木片の方向だった。
一歩進む。
子供が息を止める。
さらにもう一歩。
朝に寝台から窓まで数えた歩数とは方向が違うためか、子供は途中から数えるのをやめた。
「こっち行く」
人影は木片の手前まで近づくと、そこで立ち止まった。
しばらく何もしない。
やがてゆっくり腰を下ろし、指を伸ばした。
木片へ触れる。
「まだ使う?」
子供が小さく尋ねた。
もちろん返事はない。
それでも、今朝まで触れていなかった木片へ、顔のない存在が自分から手を伸ばしたという事実は残った。
「朝、取らなくてよかった?」
子供がアリシアを見る。
アリシアはすぐには頷かなかった。
「どうだろう」
「でも、取ってたら今ここになかった」
「そうだね」
「じゃあ、取らなかったの正しかった?」
「今日こうなったから、そう思う?」
「少し」
「もし、この人が今日は触らなかったら?」
子供は木片を見ながら考える。
「……分からない」
「うん」
「私は、朝は急がないから取らなかった。それで今、この人が触った」
「そうだね」
「結果がよかったから、朝が正しかったって決めない?」
「子供はどう思う?」
しばらく考えたあと、子供は首を横へ振った。
「朝は、朝の理由で取らなかった。それでいい。でも、今触ってくれたのは嬉しい」
「うん。それも本当だね」
子供は少し笑った。
顔のない存在は木片へ触れたまま動かない。
それでも今日は、子供は「返して」と言わなかった。
少し離れた場所へ自分も腰を下ろし、人影と一緒に、ただ同じ木片を見ていた。
◇
夕食前、白い花からもう一枚の花弁が落ちた。
今度は子供がすぐ近くにいるときだった。
乾いた小さな音がして、花弁が棚の縁へ当たり、そのまま床へ落ちる。突然のことに子供の肩が跳ねた。
「あ……」
すぐには拾おうとしなかった。
床に落ちた花弁を覗き込む。
「割れた?」
アリシアも少し近づいた。
「端が少し欠けたね」
花弁の端には、小さく砕けた跡があった。
子供の顔が目に見えて沈む。
「小皿に置く?」
今度は自分から呟き、少し迷ったあと治療教師を見る。
「また板、借りていい?」
「もちろんです」
「今度は床だから……」
「やりにくければ、私が手伝えますよ」
「私がやる。でも、近くで見てて」
「分かりました」
これまで保っていた三歩の距離を、治療教師は二歩半ほどまで縮めた。
子供自身が「近くで」と望んだからだ。
それ以上は近づかない。
子供は木板を受け取り、床と花弁のわずかな隙間へ差し込もうとした。
「入らない」
「板を少し寝かせてみますか?」
治療教師は手を出さず、声だけで助言する。
子供は角度を変えた。
その瞬間、花弁の端がさらに小さく欠けた。
「あっ」
手が止まった。
目に涙が浮かぶ。
「壊れた」
「少し欠けたね」
アリシアは「大丈夫」とも「壊れていない」とも言わなかった。
「私がやった」
「うん」
「……どうしよう」
「どうしたい?」
子供は板を持ったまま、花弁と自分の手を何度も見比べた。
続けたい気持ちもある。
拾いたい気持ちもある。
けれど、怖い。
昼に聞いた言葉が、すぐ使えるほど簡単なものではないらしい。
唇が何度か動いた。
やがて、震える声が出た。
「……やめたい」
アリシアは静かに頷く。
「うん」
子供自身が驚いたように顔を上げた。
「やめていい?」
「もちろん」
「でも、床にある」
「あるね」
「このままになる」
「今はそのままでもいいよ。あとで別の方法を考えられる」
子供はしばらく動かなかった。
それから、握っていた木板をゆっくり下ろし、治療教師へ返す。
頬を一筋、涙が流れた。
「途中でやめた」
「うん」
「取ろうって決めたのに」
「うん」
「でも、やめた」
「うん」
子供は床に残った花弁を見る。
「嫌な感じする」
「どんな感じ?」
「最後までやらなかった。ちゃんとできなかった感じ」
「うん」
「でも、続けたらもっと壊しそうだった」
「そうだね」
「だから……やめた」
最後の言葉は、泣き声に少しだけ混ざった。
子供はしばらく泣いた。
大きな泣き声ではない。途中でやめたことへの罪悪感、欠けてしまった花弁への悲しさ、もう少し上手にできたかもしれないという悔しさ。それらが一つにまとまらないまま、静かに涙になって落ちている。
アリシアはそばに座った。
すぐに慰めの言葉を重ねない。
やめられて偉いとも言わない。
今の子供に必要なのは、また新しい「正しい行動」を与えられることではなく、途中で止まった状態のままでも誰も急かさない時間なのだと思った。
呼吸が少し落ち着いてから、子供が顔を上げる。
「アリシア」
「うん」
「怒ってない?」
「怒ってないよ」
「途中でやめたのに?」
「うん」
「治療教師も?」
治療教師が静かに答えた。
「怒っていません」
「困った?」
「少しだけ」
正直な答えに、子供が瞬きをする。
「床の花弁をどうするか、次に考えることが増えました」
「……困った」
「はい。でも、あなたがやめたことを悪いとは思っていません。困ったら、そのあとどうするかを考えればいいです」
昼にアリシアから聞いたことと、ほとんど同じだった。
違う人間から同じように言われたことで、子供の中に少しだけ現実味が生まれたらしい。
「本当に?」
「本当です」
「じゃあ、困らせてもやめていい?」
「危険なことなら特に。そうでなくても、自分が続けられないと感じたら、そう言ってください」
子供は鼻を少しすすった。
「……やめたいって言えた」
「うん」
「言ったら、止まった」
「うん」
「誰も続けろって言わなかった」
その事実を確かめるように、子供は部屋の中をゆっくり見回した。
アリシア。
治療教師。
少し離れたところにいるセレナ。
床に座ったノア。
そして扉の外にいる学院長。
誰も「最後までやりなさい」と言わなかった。
「じゃあ、花弁は?」
「あとで考えよう」
「今日じゃなくても?」
「うん」
「夜まで床にある?」
「風が当たらないようにして、周りを誰も通らないようにすることはできるよ」
「触らないで?」
「できる」
子供はようやく少し肩の力を抜いた。
「じゃあ、今日はそれでいい」
床の花弁は、そのまま残された。
途中で止めたことを、誰かが勝手に完成させることもしなかった。
◇
夕食は、いつもより少し静かに始まった。
子供はまだ床の花弁を気にしており、何度かそちらへ視線を向ける。それでも食事を拒むことはなく、麦粥を一口食べ、根菜を一つ噛み、しばらくして朝に「緑香」と名付けた果実を一切れ口へ運んだ。
「朝より甘い」
「同じ種類ですけど、実によって少し違いますね」
治療教師が答える。
「朝は二つでやめた。今は一つ食べた」
「うん」
「途中でやめたのと同じ?」
アリシアはすぐには答えず、子供の顔を見る。
「少し似てるかもしれない。でも、花弁のときの方が怖さとか悲しさが大きかったんじゃない?」
「うん」
「なら、同じ『やめる』でも全部同じじゃないね」
「また同じじゃない」
子供は小さく笑った。
「いっぱいある」
「何が?」
「同じ言葉なのに、違うやつ」
「そうだね」
そのとき、少し離れたところにいる顔のない存在の胸で、二つの光が明るさを増した。
子供はすぐに気づいた。
「今は二つ」
朝は三つだった。
夕食時は二つ。
以前なら「減った」と言い、何か悪いことが起きたのではないかと不安になっていたかもしれない。
今日は少し眺めただけで、それ以上の意味を足さなかった。
「今は二つ」
もう一度だけ確認し、子供は食事へ戻った。
◇
夜。
木箱はまだ棚の前に置かれている。
白い花はさらに寂しい形になり、茎についている花弁は残り少ない。小皿には朝拾った一枚があり、床には夕方落ちて少し欠けた一枚がそのまま残されていた。
花弁の周囲には細い目印だけが置かれ、誰も踏まないようにしてある。
子供は寝台へ入る前、床の花弁を見た。
「明日、またやる?」
「拾うの?」
「うん」
「明日になってから決めてもいいよ」
「そっか」
その答えに少し安心したように頷き、次は木箱を見る。
「今日も戻さない。でも開けない」
「うん」
「開けられるかもしれない。でも、今日は開けない」
「うん」
子供は少し笑った。
「西の扉も?」
「今日は開けなかったよ」
「明日も?」
「まだ分からない」
「でも、開けられるから開ける、じゃない」
「そうだね」
それから子供は寝台へ入り、自分で布団を胸元まで引き上げた。
顔のない存在も、すでに隣の寝台へ戻っている。
今日は七歩目で止まり、そのあと横方向へ動いて木片に触れ、夜にはまた自分で寝台へ戻った。
「この人、今日は九まで行かなかった。でも木片には行った」
「うん」
「昨日より進んでない?」
「何を『進む』って言うかによるね」
「窓なら昨日の方が近い。でも木片なら、今日は自分から行った」
「そうだね」
「じゃあ、どっちが進んだ?」
「分からないな」
子供は少し考え、それから笑った。
「また分からない」
「まただね」
「でも、今日は今日」
「うん」
部屋が静かになる。
夜の生活観測区画では、昼間には気にならなかった小さな音まで聞こえる。寝具が擦れる音、換気術式の低い振動、外の木々を抜ける風の音。その中で、子供はしばらく天井を見つめていた。
「アリシア」
「うん」
「途中でやめるの、怖かった」
「花弁のこと?」
「うん」
「何が一番怖かった?」
子供はすぐには答えなかった。
布団の端を指で摘み、何度か折る。
「怒られるのも。でも……やめたら、私が駄目になる気がした」
アリシアは思わず息を止めかけた。
「駄目になる?」
「最後までできないから。前は、途中で止まれなかった」
声が少しずつ小さくなる。
アリシアは迷ったあと、一つだけ尋ねた。
「水の中でも?」
長い沈黙が落ちた。
子供は天井を見たまま、しばらく動かなかった。
「……うん」
それだけだった。
アリシアは続きを聞かなかった。
今ここで過去を全部話す必要はない。
子供自身が、今日言えるところまで言った。それで十分だった。
「今日は止まれたね」
「うん」
「自分で」
「うん」
「怖かったけど、自分で『やめたい』って言えた」
子供の目から、また少し涙がこぼれた。
「言ったら、本当に止まった。誰も怒らなかった」
「うん」
「治療教師、困ったって言った」
「うん」
「でも怒らなかった」
「そうだね」
子供は布団の端を握ったまま、少し眉を寄せた。
「困るのと、怒るのも違う?」
「違うことも多いよ」
「困らせたら、悪い?」
「誰かが困ること自体はある。でも、それだけで子供が悪いとは限らない」
「難しい」
「難しいね」
アリシアは簡単だとは言わなかった。
子供にとっては、きっとこれから何度も迷うことだからだ。
「でも、やめたいって言っていい」
「うん」
「明日も?」
「もちろん」
「箱も?」
「うん」
「外に行く練習も?」
「うん」
「光の話を聞くのも?」
「聞きたくなくなったら、途中でやめていいよ」
子供は驚いたようにアリシアを見る。
「聞かなくても?」
「うん」
「気になるのに?」
「気になっても、『今は聞かない』って選べるよ」
それには、子供も長い時間をかけて考えた。
聞きたい。
でも、聞くのが怖い。
気になる。
けれど、今は知りたくない。
今までなら、気になるものは確認しなければならないと思っていたのかもしれない。知らないままにしておくことそのものが、許されない状態だった可能性もある。
やがて子供は、小さく息を吐いた。
「……それ、まだ難しい」
「すぐできなくてもいいよ」
「うん」
ようやく目を閉じる。
「おやすみ」
「おやすみ」
しばらくすると、子供の呼吸が少しずつゆっくりになった。
アリシアはまだ眠らず、子供の寝顔を見ていた。
『今日は、かなり大きかったわね』
床からノアの声がする。
「花弁?」
『それも。でも、“やめたい”って言えたことでしょう』
「うん」
『あの子にとっては、何かを始めるより、始めたものを自分で止める方が難しいのかもしれないわね』
「……そうかも」
『一度与えられた役割を、途中でやめることを許されなかったなら、なおさら』
アリシアは眠った子供の手を見る。
今は何も握っていない。
「だから、箱も急がない」
『今さら確認すること?』
「ううん。自分に言ってる」
『ならいいわ』
アリシアは少しだけ笑い、棚の前の木箱へ目を向けた。
蓋は閉じている。
今日も開かなかった。
それでよかった。
◇
同じ頃、西側地下区画では夜間観測が続いていた。
術式教師たちは一度地上へ戻り、昼間に集めた解析記録の整理へ移っている。古い扉の前には必要最低限の観測員だけが残り、壁から離れた名前のない光と、石室候補内部の微弱な魔力反応を監視していた。
地下には夜の暗さこそないものの、人が減ったことで昼間とは違う静けさがあった。仮設灯の微かな駆動音と、遠くの排水術式が立てる低い音だけが続き、観測員が紙をめくる音さえ妙に大きく聞こえる。
名前のない光は、石壁から離れた位置にいる。
内部の魔力反応も、昼までは低い値で固定されたままだった。
それが夜半を過ぎた頃、測定盤の針がわずかに動いた。
「……反応、微増」
報告を受けた副学院長が、すぐに測定盤へ近づく。
「どっちだ?」
「石室内の魔力反応です。光側ではありません」
「量は?」
「まだ基準内です。危険域には届いていません」
「生命反応は?」
「ありません」
「周期は?」
観測員はしばらく数値を追い、記録板と見比べた。
「……一定です」
副学院長は黙って測定盤を見る。
微弱な反応が上がる。
しばらくすると下がる。
そして、ほぼ同じ間隔でもう一度上がった。
「今まで、この動きは?」
「少なくとも昨日までは固定値に見えていました」
「扉側の術式は?」
「変化なしです」
「人間側の作業は?」
「夕方までにすべて終了しています。扉にも壁にも触れていません」
副学院長はすぐに「起動した」とは言わなかった。
「記録を始めろ。まず周期を取る」
「開けますか?」
若い観測員が反射的に尋ねる。
副学院長は怒らず、彼へ顔を向けた。
「危険値は?」
「低いです」
「生命反応は?」
「ありません」
「光側は?」
「変化なしです」
「なら、まだ開けない」
「でも、変化しました」
「ああ」
「中で何かが動き始めたかもしれません」
「かもしれない」
副学院長は再び測定盤へ視線を戻した。
「だから見る。『変化したから開ける』では、朝と同じだ。まず何が変わったのかを確認する」
「……はい」
若い観測員も測定盤へ向き直る。
反応はまた上がった。
そして下がる。
さらに、ほぼ同じ時間を置いてもう一度上がった。
規則的だった。
けれど、弱い。
その周期だけを見れば、呼吸のようにも思える。
だからこそ、誰も記録用紙へ「呼吸」とは書かなかった。
生命反応は検出されていない。
古い魔導具の魔力循環かもしれない。長期間停止していた設備の自己点検に似た動作かもしれない。昼間の解析によってごく僅かな魔力変化が起こり、それが時間差で表れているだけかもしれない。
あるいは、そのどれでもない可能性もある。
「光は?」
副学院長がもう一度確認した。
「変化ありません。位置、輪郭光量、接続値、すべてほぼ同じです」
名前のない光は、壁から離れた場所で静かに揺れている。
石室へ近づかない。
そこから逃げもしない。
明るくもならない。
ただ、そこにいる。
副学院長はその光と閉じた扉を交互に見たあと、観測記録へ新しい時刻を書き加えた。
◇
ほぼ同じ頃。
東側地下区画でも、小さな変化が観測されていた。
「移動」
観測員の声に、サーラが記録板を手に取る。
「方向は?」
「空室側ではありません。通路奥側です」
昨夜、地下空室を完全に出た光が、そこからさらに離れる方向へ動き始めていた。
人間側は何も置いていない。
声もかけない。
ただ距離だけを測る。
「どれくらい?」
「手の幅一つ……二つ」
光は急がない。
ほんの少し移動し、また止まった。
「以前の位置へ戻っている?」
「違います。過去に長く留まった地点とも一致しません」
「では、そのまま記録だけ」
「はい」
若い観測員が紙へ書き込み始める。
途中で筆を止め、少し迷ったあとサーラを見た。
「これ、『進んだ』とは書きませんよね」
サーラは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく笑った。
「どこへ進んだの?」
「……分かりません」
「なら、“通路奥側へ移動”で十分です」
「ですよね」
観測員は少し照れたように笑い、筆を動かした。
東側でも、西側でも、生活観測区画でも。
何かは少しずつ変わっていた。
けれど、その変化をすぐに「前進」と呼ぶ必要はない。
顔のない存在が九歩まで進んだ翌日に、七歩で止まることがある。それでも別の方向へ自分から歩き、木片へ触れることもある。
子供が一度拾おうと決めた花弁を、途中で諦めることもある。
見える場所まで出した木箱を、その日のうちに開けないこともある。
東側の光が空室へ入ったあと、自分から外へ出て、さらに別の方向へ移ることもある。
そして西側では、人間が開けられるかもしれない扉をあえて開けずに待っている。その向こうでは、今まで一定だった魔力反応が、誰も触れていないまま弱い周期を持ち始めていた。
変化があったからといって、次の行動を急いで決める必要はない。
開けられるからといって、今すぐ開けなくてもいい。
始めたからといって、最後まで続けなくてもいい。
昨日より近づけなかったからといって、今日が昨日より悪いとも限らない。
途中で止まることもできる。
止まった場所から、もう一度考えることもできる。
そして、考えたあとで以前とは違う方を選んでもいい。
誰かに与えられた一つの役割だけを最後まで遂行するのではなく、自分の状態を確かめ、そのたびに選び直していく。
それは、まだ名前を持たない小さな変化だった。
けれど生活観測区画の寝台では、今日初めて「やめたい」と口にした子供が眠っている。
その隣には、九歩まで進まなかった代わりに、自分から別の方向へ歩いた顔のない存在がいる。
東側では、空室を出た光が以前とは違う場所で止まっている。
そして西側の古い石室候補では、人間側が扉へ触れないまま、内側の魔力反応だけが一定の間隔で静かに上下し続けていた。
まだ誰も、その意味を知らない。
だから今夜も、扉は閉じたままだった。




