第132話 昨日やめたことを、今日もう一度始めてもいい
夜が明ける少し前、西側石室候補の奥では、弱い魔力反応がまだ続いていた。
仮設観測室の灯りは夜間用の低い明るさへ落とされていたが、測定盤の針だけは一定の間隔でゆっくりと動いている。上がり、少し留まり、それから下がる。しばらくすると、ほぼ同じ時間を置いて再び針が持ち上がった。
昨夜初めて確認された周期だった。
危険値は低く、生命反応もない。古い扉に刻まれた術式にも目立った変化はなく、石壁から少し離れた場所に留まっている名前のない光にも、大きな反応は出ていなかった。
「十三回目」
夜勤の観測員が記録板へ時刻を書き込む。
「間隔は?」
「前回とほぼ同じです。誤差は一呼吸分ほど。波形は……少しだけ、上がり方が緩くなっています」
副学院長は椅子に座ったまま測定盤を見つめていた。夜のあいだ何度か休むよう勧められたものの、短時間だけ目を閉じては、また観測室へ戻っている。
「危険値が上がっているわけではないんだな?」
「はい。むしろ反応量そのものは、最初よりわずかに下がっています」
「じゃあ、停止に向かっている?」
若い観測員が少し期待を含んだ声で尋ねる。
副学院長はすぐには頷かなかった。
「そう見える、までだ。周期が弱くなったから、そのまま停止するとは限らない。別の安定状態へ移る可能性だってある」
「でも、少なくとも暴走ではなさそうですね」
「今のところはな」
若い観測員は、そこでようやく少しだけ息を吐いた。
以前なら、規則的な反応が見えた時点で「起動した」「何かが目覚めた」と考えていたかもしれない。今は、その言葉を使う前に一度止まることができる。
「光側は?」
「変化ありません。位置も同じです」
「石室内の反応との同期は?」
「今のところ確認できません」
「なら、別々に記録しろ」
「はい」
測定盤の針が再び動いた。
十四回目。
弱く、静かで、それでも確かに繰り返している。
「扉は?」
「閉じたままです」
「そのままでいい。朝の術式班が来るまで、開けるな」
「了解です」
その判断に、もう誰も驚かなかった。
◇
生活観測区画では、子供が目を覚ますより先に、朝の光が部屋へ入り込んでいた。
雨上がりから二日が経ち、庭の石畳はかなり乾いている。昨日まで幾つも残っていた水溜まりもさらに小さくなり、窓際の床には細長い陽射しが伸びて、棚や寝台の脚へ淡い影を落としていた。
アリシアが最初に確認したのは、棚の前にある木箱だった。
昨夜と同じ場所。
蓋は閉じたまま。
その少し離れた床には、昨日、子供が途中で拾うことをやめた白い花の花弁が残っている。周囲には細い目印が置かれたままで、誰もそこを踏んだ形跡はない。
花弁は昨日より少し反っていた。乾燥がさらに進んだのだろう。端の欠けた部分も、そのままだった。
『朝からそっちを見るの?』
無地の布の上で丸くなっていたノアが声を出す。
「だって気になるから」
『箱? 花弁?』
「両方」
『欲張りね』
「観測」
『便利な言葉を覚えたわね』
アリシアは少しだけむっとしたものの、反論せずに机へ向かった。
そこには夜間報告が置かれている。
西側石室候補内部の魔力反応は、夜を通して周期を維持。危険値の上昇なし。生命反応なし。名前のない光にも位置変化なし。
東側の光は昨夜、通路奥側へ少し移動したあと、その位置で停止している。
アリシアは一度だけ読んで、報告書を閉じた。
『二回目は?』
「今は読まない」
『成長したじゃない』
「何割?」
『八割』
「昨日より下がってる」
『採点を期待したから減点』
「理不尽」
小声で言い返したところで、寝台から布の擦れる音がした。
子供が目を覚ました。
今朝は、最初に窓を見る。
次に顔のない存在。
それから木箱へ視線を移し、最後に床の花弁を見つけたところで目が止まった。
「あった」
「うん」
「昨日のまま?」
「誰も触ってないよ」
子供は布団の中から、しばらく花弁を見つめていた。
「夜、誰も拾わなかった?」
「子供が昨日、『今日はそのままでいい』って決めたからね」
「本当に、そのまま?」
「うん」
子供は少し驚いた顔をした。
「誰かがあとでやってくれると思ってた?」
アリシアが尋ねると、子供は少し考えてから頷いた。
「少し。途中でやめたから、最後までやる人がいるかもって」
「昨日は、やめたいって言ったあとに『今日はそのままにする』って決めたでしょう?」
「うん」
「だから、そのままにしたんだよ」
子供は布団の端を指先で摘んだ。
「途中でやめても、誰かが勝手に終わらせない?」
「急いで終わらせる必要があることなら相談するけど、昨日の花弁はそうじゃなかったからね」
「そっか」
ほんの少し、子供の肩から力が抜けた。
それから隣の寝台へ顔を向ける。
顔のない存在は、今朝もそこにいる。
「おはよう」
胸の十一の光へ声をかける。
すぐには変化しない。
子供も急かさずに待った。
やがて一つが淡く明るくなり、少し遅れて二つ目が続く。今日は、そこで止まった。
「今は二つ」
昨日の朝は三つ。
夕方は二つ。
けれど子供は、数の変化へそれ以上の意味を足さなかった。
アリシアも静かに頷くだけにする。
子供は布団から出ると、いつものように自分の足裏を確認した。赤みがないことを見て、指で軽く押し、足首を回し、床へ立ってからも違和感がないか確かめる。
「今日も痛くない」
「あとでセレナにも見てもらう?」
「見るだけなら」
「分かった」
確認を終えたあと、子供は木箱ではなく、昨日床へ残した花弁の方へ向かった。
目印の外側でしゃがむ。
「昨日、やめた」
「うん」
「今日、またやっていい?」
その問いに、アリシアは少しだけ目を見開いた。
「拾うのを?」
「うん」
「もちろん。昨日やめたからって、今日もうやっちゃいけないわけじゃないよ」
「やめたのに?」
「昨日は昨日だよ」
「失敗したからじゃない?」
「子供は昨日のことを、失敗だと思ってる?」
子供はすぐには答えず、床の花弁を見た。
「欠けた。怖くなった。最後までできなかった。でも……やめたいって言えた」
「そうだね」
「じゃあ、昨日は途中までやった日?」
「そう言ってもいいと思う」
「今日、続きをしてもいい?」
「いいよ」
「最初からやり直しても?」
「いい」
「今日はやらないってしても?」
「それもいいよ」
子供は少し笑った。
「いっぱいある」
「選べることが?」
「うん」
「今日はどうする?」
すぐには答えなかった。
昨日の花弁の近くには、同じ用途の木板が置かれている。ただし、昨日使ったものより少し薄い。
治療教師が、子供から見えるところへ置いただけで、まだ誰も手渡してはいなかった。
「板、昨日と違う?」
「少し薄いですよ」
三歩ほど離れた位置から、治療教師が答える。
「昨日は花弁の下へ入りにくそうだったので、別のものも用意してみました」
「昨日の板、悪かった?」
「悪かったわけではありません。ただ、床に落ちた花弁には少し厚かったかもしれません」
「じゃあ、私が下手だっただけじゃない?」
治療教師は、その言葉をすぐ否定して安心させようとはしなかった。
「昨日、あなたが動かしたときに花弁が欠けたのは事実です。でも、あなたの手の動かし方だけが原因だったとは言えません。板の厚さや花弁の乾き方も関係していたと思います」
「私だけじゃない?」
「原因を一つに決められるほど、単純ではないと思います」
子供はしばらく黙った。
「昨日、私が壊したって思った」
「そう感じたんですね」
「うん」
治療教師はそれ以上何も付け足さなかった。
子供は再び花弁を見て、それから薄い板へ目を移す。
「今日は、こっち使う」
「自分で?」
「うん。でも、また怖くなったらやめる」
「分かりました」
治療教師は近づかず、子供が自分で板を取るのを待った。
昨日より薄い。
手に持つと、少しだけしなる。
子供は両手で持ち、花弁の手前へ置いた。
すぐには差し込まない。
「昨日と同じところから?」
アリシアが尋ねる。
子供は花弁をよく見てから首を横へ振った。
「反対からやる。昨日、こっちから入らなかったから」
昨日欠けた側とは反対から、板をできるだけ床へ沿わせる。
ほんの少しずつ。
先端が花弁の下へ入った。
子供の呼吸が止まりかける。
「入った」
「うん」
「まだ持ち上げない」
「分かった」
さらに少しだけ奥へ入れる。
花弁が板の上へ乗った。
昨日ほど大きく欠けることはなかったが、端から細かな粉が少し落ちる。
「あ……」
子供の手が止まった。
「落ちた」
「少しね」
子供は、昨日のようにすぐアリシアを見なかった。
花弁を見る。
板を見る。
小皿までの距離を見る。
「やめる?」
今度は、自分自身へ問いかけるように呟いた。
長い迷いのあと、子供は小さく首を横へ振る。
「……続ける。でも、ゆっくり」
「うん」
板を持ち上げる。
花弁は乗ったままだ。
小皿までゆっくり運ぶ途中、子供の手は少し震えた。それでも、自分から止めることはしなかった。
小皿の縁へ到着する。
板を少し傾ける。
花弁が滑り、そのまま皿の中へ落ちた。
細かな欠片が一つだけ、小皿の外側に残る。
子供はそれを見つめた。
「全部じゃない」
「うん」
「少し残った」
「どうする?」
子供はしばらく考えた。
「今日は、この大きいのだけでいい」
「残った欠片は?」
「あとで考える」
「分かった」
子供は木板を下ろした。
肩から、目に見えて力が抜ける。
「できた」
「うん」
「昨日やめた。でも、今日できた」
「そうだね」
「昨日やめなかったら、今日の薄い板使わなかった?」
「そうかもしれないね」
「じゃあ、昨日やめたから今日できた?」
アリシアは少し考えた。
「そういう部分もあるかもしれない。でも、昨日やめたことが今日のために必要だったって、決めなくてもいいと思うよ」
「どうして?」
「昨日は昨日で、子供が怖くなってやめた。それだけでもいいでしょう?」
子供は小皿の中の花弁を見た。
「今日うまくいったから、昨日が正しかったことにしなくていい?」
「うん」
「昨日は、やめたかったからやめた。今日は、やりたかったからやった」
「そうだね」
「両方ある」
子供は小さく笑った。
「うん。両方あるよ」
◇
その頃、西側には朝の術式班が到着していた。
昨夜から続いている周期的な魔力反応を確認するため、術式教師二名に加えて、魔導具構造を専門とする教師が一人増えている。
古い扉は閉じたまま。
誰も触れていない。
魔力反応の周期は、夜より少しずつ長くなっていた。
「間隔が伸びていますね」
新しく来た教師が、夜間の測定記録を並べながら言った。
「量は下がってる?」
副学院長が尋ねる。
「はい。最大値も少しずつ低下しています」
「停止に向かっている?」
「そう見えます。ただ、完全に減衰しているというより、周期のたびに一部だけ別の流れへ移っているようにも見えます」
教師は複数の波形を重ねた紙を指でなぞる。
「別の流れ?」
「扉側ではありません。床側です」
副学院長の表情が少し変わった。
「床?」
「正確には石室内部の下部です。昨日まで固定反応源と思っていたものから、弱い魔力が下方向へ抜けているように見えます」
「地下へ?」
「その可能性があります」
副学院長は土の神器継承者へ視線を向けた。
「弱く地中感知を頼む」
「分かりました」
土の神器継承者が床へ掌を置く。
一度だけ。
短く。
必要な範囲だけを探る。
やがて目を開いた。
「……石室のさらに下に、細い空間があります」
「通路か?」
「分かりません。人が通れるほどの大きさではない。管路か、魔力導線を通すための空間かもしれません」
「昨日は分からなかった?」
「石室そのものの空洞を優先していたので、そこまで細く見ていませんでした」
「魔力はそこへ?」
「ごく弱く流れています」
若い観測員が、閉じた古い扉を見た。
「じゃあ、中のものがどこかへ送っている?」
「『送っている』は早い」
副学院長が静かに言う。
「流れがある。それだけだ」
「はい」
魔導具教師も測定記録を見ながら考え込む。
「“接続具”“一時保持”、それから外部との接続を弱める構造。もし、使用していない間に何らかの接続を一時的に切っておく設備なら、残った魔力を下の導線へ逃がす仕組みがあっても不自然ではありません」
「可能性は?」
「かなりあります。ただし、まだ推測です」
「名前のない光との関係は?」
「今のところ反応なしです」
壁から離れた光は、今朝も同じ位置にいる。
石室側の周期が変化しても、輪郭光量にも接続値にも、目立った変化は出ていなかった。
「なら、なおさら今開ける理由はない」
副学院長は測定盤から視線を外した。
「まず下の流れを調べる。扉は閉じたままだ」
誰も異論を口にしなかった。
◇
生活観測区画では、顔のない存在が今朝まだ寝台を出ていなかった。
昨日は朝から七歩。
一昨日は九歩。
けれど今日は、子供が花弁を小皿へ移し終えても、人影は横になったままだ。
子供も、もちろん気づいている。
「今日は歩かない?」
少し離れた場所から、小さく尋ねる。
返事はない。
「眠い?」
それも分からない。
子供は少し待った。
胸の十一の光は、二つだけ淡く明るいまま。
「起こす?」
自分で口にしてから、すぐに首を横へ振った。
「起こさない」
「どうして?」
「寝てるか分からない。でも今、立ってない。立たせなくていい」
「うん」
子供は寝台へ近づかず、その場から顔のない存在を見る。
「昨日は木片に行った」
「そうだね」
「今日は行かないかも」
「うん」
「歩かない日もある?」
「あるかもしれないね」
「それでも大丈夫?」
「危険な状態じゃないかは確認するけど、歩かないこと自体が悪いわけじゃないよ」
子供は少し考え、それからセレナへ目を向けた。
「見てもらっていい?」
「顔のない存在の状態?」
「うん」
「分かりました」
セレナは三歩よりさらに遠い位置から、魔力感知だけを行った。
必要以上に近づかない。
少し時間を置いてから、静かに答える。
「急激な変化はありません。胸部の十一の光も、今のところ安定しています」
「苦しい?」
「それは分かりません」
「痛い?」
「それも断言できません」
「じゃあ、今分かるのは?」
「大きな危険反応がないことです」
子供はしばらく考え、それから頷いた。
「なら、今日はそのまま」
それ以上、人影へ何も求めなかった。
◇
朝食には、昨日と同じ種類の緑香が少しだけ出された。
子供は一口食べ、しばらく噛んでから首を傾げる。
「昨日より匂い弱い」
「同じ種類でも、実によって違いますね」
治療教師が答える。
「昨日は朝に二つ。夜は一つ食べた」
「そうだったね」
「今日は?」
アリシアが尋ねると、子供は残った果実と麦粥を見比べる。
「一つでいい。今日は粥が先」
もう誰も、その選択を特別なものとして扱わなかった。
食事の途中で、子供は扉へ顔を向ける。
「学院長?」
「いるぞ」
「西、どうなった?」
「扉はまだ開けていない」
「中の魔力は?」
「夜から朝にかけて、一定の間隔で強くなったり弱くなったりしていた」
「呼吸?」
子供がすぐに尋ねた。
学院長は少し間を置く。
「そう見える人もいる。でも生命反応は確認されていない。だから、今は呼吸とは呼んでいない」
「じゃあ何?」
「周期的な魔力反応」
「長い」
「記録だからな」
子供が少し笑った。
「今も続いてる?」
「夜より間隔が長くなって、反応そのものも少し弱くなっている」
「止まる?」
「まだ分からない」
「危ない?」
「現時点では低い」
「光は?」
「変化なしだ」
子供は麦粥を一口食べ、少し考えた。
「じゃあ、扉は開けない?」
「今は開けない。それより、石室の下へ弱い魔力が流れているらしいことが分かった」
「下?」
「ああ。人が通れる道ではない。細い空間だ」
「何か送ってる?」
「そこまでは分からない」
「接続?」
「関係している可能性はある。でも、まだ決めていない」
子供は少し目を細めた。
「開けないで分かること、まだあった」
「そうだな」
「昨日開けてたら?」
学院長は少し考えてから答える。
「今の情報は、違う形で取ることになっていたかもしれない」
「分からなかったかも?」
「その可能性もある」
「じゃあ、開けなかったの正しかった?」
扉の向こうで、学院長が少し笑った気配がした。
「今日こうなったからといって、昨日の判断を正解にしすぎない方がいいな」
子供の目が少し大きくなる。
「アリシアと同じ」
「何が?」
「昨日、花弁やめた。今日できた。でも、昨日が今日のために必要だったって決めないって」
学院長は少し黙った。
「似ているな」
「昨日は昨日の理由?」
「ああ」
「今日も、今日の理由」
「そうだ」
子供は少し満足そうに頷いた。
◇
昼前、西側石室候補の周期反応に、さらに変化が出た。
「止まりました」
観測員の声で、副学院長が測定盤を見る。
針は低い位置へ落ちたまま、ほとんど動いていない。
「何回目のあとだ?」
「二十一回目です。そのあと、次の上昇が来ていません」
「下部への流れは?」
「……残っています。量はごく僅かです」
魔導具教師が複数の記録を見比べた。
「反応源そのものの周期は止まりました。でも、下へ抜ける流れだけは続いています」
「自然放出?」
「可能性はあります」
「扉側の変化は?」
「なし」
「光側は?」
「こちらも変化なしです」
副学院長はしばらく測定値を眺め、それから短く息を吐いた。
「なら、開けない」
若い観測員が少し笑った。
「もう、聞かなくても分かるようになってきました」
「何が?」
「危険値が低くて、まだ別に取れる情報があるなら開けない」
「覚えたな」
「かなり」
「なら次から、俺がいなくても判断できるか?」
若い観測員の笑顔が固まった。
「それは……もう少しお願いします」
周囲に小さな笑いが起こる。
地下の冷たい空気は変わらない。それでも、数日前までの張り詰めた緊張一色ではなくなりつつあった。
「下の導線を追う。ただし、扉へ近づく必要はない。外側から取れる範囲だけだ」
「はい」
◇
午後。
生活観測区画では、子供が木箱の前へ座っていた。
朝は花弁を優先し、昼までは箱へほとんど触れていない。
今は、閉じた蓋の縁へ指を置いている。
「今日は触る?」
「うん」
「開ける?」
「まだ分からない」
子供は木の感触を確かめた。
最初は金具へ触れず、蓋の端だけをなぞる。
「昨日は、開けないって決めた」
「うん」
「今日は変えていい?」
「もちろん」
「開けるに変えても?」
「そうしたいなら」
「でも、やっぱりやめても?」
「いいよ」
子供は少し笑った。
「いっぱい戻れる」
「選び直せるってこと?」
「うん」
指先が、ゆっくり金具へ近づく。
ほんの少し。
そこで止まった。
呼吸が浅くなる。
「怖い」
「うん」
「でも、見たい」
「うん」
「昨日より見たい」
「そうなんだね」
子供は金具を見つめたまま、自分へ問いかける。
「開ける?」
アリシアは何も言わずに待った。
やがて、子供の指先が初めて金具へ触れる。
以前、蓋の木には触れたことがある。
けれど留め具へ直接触れたのは、これが初めてだった。
「冷たい」
「うん」
指はすぐには離れなかった。
少しだけ力が入る。
最初は動かなかった。
「これ、動かすと開く?」
「たぶん、留め具を外してから蓋を持ち上げる形だと思う」
「留め具……」
子供は金具と蓋を交互に見る。
「今、外す?」
長い迷いがあった。
顔が少し強張っている。
それでも、手は引かなかった。
「……少しだけ動かす」
「うん」
金具へ力をかける。
かすかな金属音がした。
留め具が、本当に僅かだけ動いた。
子供の肩が跳ねる。
「動いた」
「うん」
「開いてない?」
「まだ蓋は閉じてるよ」
子供はずれた留め具をじっと見つめた。
完全には外れていない。
元の位置から、ほんの少し変わっただけ。
アリシアは「戻す?」とは尋ねなかった。
子供が、自分で考える。
しばらくして、指から力を抜いた。
「……今日はここまで」
「分かった」
「戻さない」
「留め具を?」
「うん。少し動いたままにする」
「大丈夫そう?」
「分からない。でも今は、戻したくない。開けたくもない」
「うん」
子供は手を離した。
留め具は、ほんの少しずれた位置に残った。
箱そのものは閉じている。
けれど昨日までとは、確かに違う。
子供は少し離れた場所へ座る。
「途中?」
「そう見えるね」
「昨日はやめた。今日またやった。今またやめた」
「うん」
「いっぱい止まる」
「そうだね」
「悪くない?」
「子供はどう思う?」
子供は少し考え、箱を見た。
「今は、これでいい」
「うん」
◇
その頃、東側の名前のない光にも新しい変化が起きていた。
「分岐へ近づいています」
観測員の報告に、サーラが地図へ視線を落とす。
「どの分岐?」
「通路第三観測点より奥、旧配線区画へ続く枝です」
「危険確認は?」
「入口付近までは済んでいます。奥は未確認です」
「人間側の追加作業は?」
「していません」
光は、ゆっくりと分岐の近くへ進んでいく。
一気に枝通路へ入るわけではない。
入口の少し手前で止まった。
「枝へ入る?」
「まだです」
若い観測員が、無意識に息を潜める。
光は分岐の手前で淡く揺れている。
「誘導は?」
「しません」
「安全確認は?」
「必要な範囲だけ。光の前へ人を入れないように」
サーラの判断で、遠隔感知だけが行われた。
枝通路の入口周辺に危険反応なし。
床の大きな崩落なし。
ただし、壁際には古い配線らしき残骸が複数残っている。
「名前、変えます?」
若い観測員が尋ねた。
「何を?」
「光のいる場所です」
サーラは彼を見る。
「まだ、通路第三観測点付近から分岐手前へ移動しただけです」
「ですよね」
「もし光が枝へ入っても、枝がその光の場所になるわけではありません」
「はい」
若い観測員は少し照れたように笑った。
以前なら何度も指摘されなければ止まれなかった考え方が、少しずつ自分の中でも定着し始めているらしい。
◇
夕方になっても、顔のない存在はほとんど寝台から動かなかった。
子供は途中で何度か様子を見ている。
胸の十一の光は、二つから三つへ増えたり、また二つへ戻ったりした。けれど人影自身は立ち上がらず、寝台の上で同じ姿勢を保っている。
「今日は歩かない日?」
子供が小さく呟く。
アリシアは答えを決めなかった。
「分からない。でも今は歩いてない」
「うん」
「昨日は木片に行った」
「そうだね」
「今日は寝台」
「うん」
「それでも、昨日がなくならない」
「そうだね」
子供は少し考えた。
「今日歩かなかったからって、昨日木片に行ったのが嘘にならない」
「うん」
「私も昨日やめた。でも今日はやった。今日また止まった」
「うん」
「全部ある」
アリシアは少し笑った。
「いっぱいあるね」
「うん」
子供も笑う。
その声に反応したのかどうかは分からない。
顔のない存在の胸で、三つの光が淡く明るくなった。
子供はそれを見ても、今日は「笑ったから?」とは尋ねなかった。
今三つ光っている。
それだけを見ていた。
◇
夕食前、西側から新しい報告が入った。
石室候補の下へ続く細い空間。
そこを流れていた弱い魔力が、さらに下へ向かうのではなく、途中から横方向へ曲がっていることが分かった。
ただし、人が通れるような空間ではない。
古い配線路。
あるいは魔力導管。
その可能性が高い。
「行き先は?」
学院長が通信越しに尋ねる。
『まだ追えていません』
「既存図面に記載は?」
『ありません』
「中央施設側へ向いている?」
若い観測員が聞いた。
副学院長の返答は早かった。
『方向だけなら中央施設側ではない』
「じゃあ、中央とは関係ない?」
『それもまだ決めるな』
「はい」
そのやり取りに、以前ほどの硬さはなかった。
若い観測員もすぐに言い直せるようになっている。
『今夜はここまでだ。細い導線を無理に追う必要はない』
「了解」
古い扉は、今日も開かなかった。
◇
夕食後。
子供は小皿へ移した花弁をしばらく見てから、棚の前に残した木箱へ目を向けた。
留め具は、昼にほんの少し動かした位置のままだ。
「戻ってない」
「うん」
「誰も触ってない?」
「触ってないよ」
「夜、これで寝る?」
「子供はどうしたい?」
少し迷う。
「……今日は、このまま」
「怖い?」
「少し」
「戻したい?」
「それも少し」
「開けたい?」
「少し」
子供は自分で胸へ手を当て、少し考えたあと笑った。
「全部少しある。でも、一番は寝たい」
「それは大事だね」
「うん」
箱へ近づかず、そのまま寝台へ向かった。
隣には、今日ほとんどそこから動かなかった顔のない存在がいる。
子供は布団を胸元まで引き上げたあと、天井を見た。
「アリシア」
「うん」
「昨日やめたこと、今日やっていいって分かった」
「うん」
「今日やめたこと、明日またやっていい?」
「もちろん」
「何回でも?」
「必要なら」
「途中からでも?」
「うん」
「最初からやり直しても?」
「うん」
「やっぱりやらないってしても?」
「それもいいよ」
子供は少し黙った。
「やめるって、終わりじゃない?」
「いつも終わりとは限らないよ」
「終わりのときもある?」
「ある」
「またやるときも?」
「ある」
「じゃあ、やめるって何?」
アリシアはすぐに答えず、自分の中でも言葉を探した。
「そのとき、そこで止まることかな」
「ずっとじゃなくて?」
「ずっと止めると決める場合もある。でも、『今はここで止まる』って意味でもいいと思う」
子供は長く黙った。
外では風が庭の植え込みを揺らし、小さな葉擦れの音が窓越しに聞こえてくる。
「水の中で、止まれなかった」
子供が不意に言った。
「うん」
「止まりたいって思ったこと、あった」
アリシアは息を潜めた。
子供は天井を見つめたまま続ける。
「でも、止まったら駄目だった」
「誰に?」
尋ねた瞬間、アリシアは少しだけ早かったかもしれないと思った。
けれど子供は怯えず、すぐに顔を背けることもしなかった。
長い沈黙があった。
「……声」
「中央の?」
また少し間がある。
「たぶん」
曖昧な答えだった。
それ以上を今ここで確かめる必要はない。
アリシアは続きを急がなかった。
「今日は止まれたね」
「うん」
「昨日も」
「うん」
「誰も、止まるなって言わなかった」
「うん」
子供の目が少し潤む。
「もし明日、箱を開ける途中で止まっても?」
「止まっていい」
「そのままずっと開けなくても?」
「それも子供が決めていいよ」
「……そっか」
子供は目を閉じる。
「今日は寝る」
「うん」
「箱は途中」
「うん」
「花も途中」
「うん」
「西の扉も途中?」
「そうかもしれないね」
「東の光も?」
「今は、分岐の手前で止まってるらしいよ」
子供は少しだけ笑った。
「じゃあ、いっぱい途中」
「そうだね」
「でも、今日は寝る」
「おやすみ」
「おやすみ」
子供の呼吸は、しばらくするとゆっくりと寝息へ変わっていった。
◇
夜。
西側石室候補の周期反応は、昼前に止まったままだった。
石室下部へ流れる魔力だけが、ごく弱く続いている。名前のない光は石壁から離れた位置に留まり、古い扉も閉じたままだ。
東側の光は、旧配線区画へ続く分岐の手前で止まっている。
枝へ入ってはいない。
引き返してもいない。
人間側は、その位置を変えようとはしなかった。
生活観測区画では、子供の木箱の留め具がほんの少しだけ動いた状態で残っている。蓋はまだ閉じたままで、白い花の小皿には、今日拾った花弁が一枚増えていた。
昨日、子供は花弁を拾う途中でやめた。
今日は、もう一度自分から始めた。
そして午後には、木箱の留め具を少しだけ動かし、そこでまた止まった。
昨日できなかったことを今日やったからといって、昨日が失敗だったことにはならない。
昨日の判断が今日のために必要だったと、美しい意味を後から与える必要もない。
昨日は、怖くなったからやめた。
今日は、やりたいと思ったからやった。
そして今日も、途中で止まった。
それぞれが、そのときの選択としてそこにある。
一度やめたら、二度と始めてはいけないわけではない。
一度始めたら、最後まで続けなければならないわけでもない。
途中で止まることもできる。
次の日に同じ場所へ戻ることもできる。
別の方法を試すこともできる。
そのまま二度とやらないと決めることだってできる。
人間側も、古い扉を開けなかった。
今日開けなかったからといって、永遠に閉じたままにすると決めたわけではない。
今は、開けない。
ただそれだけだった。
東側の光も、分岐の手前で止まっている。
次に枝へ入るかもしれない。
そこで長く留まるかもしれない。
引き返すかもしれない。
人間にはまだ分からない。
だから、今はその途中を途中のまま見ている。
途中という状態は、失敗でも、欠けた完成でもない。
まだ次を選べる場所。
今までとは違う方を選び直すこともできる場所。
そして、何も選ばず、しばらくそこにいることもできる場所だった。
その夜。
西側の古い扉は閉じたまま。
東側の光は分岐の手前。
生活観測区画では、少しだけずれた木箱の留め具が、朝までその位置に残された。
誰も、その続きを勝手には決めなかった。




