第133話 途中に置いてきたものは、戻ったとき同じ顔をしているとは限らない
翌朝、生活観測区画の窓から見える水溜まりは、とうとう一つだけになっていた。
庭の中央寄り、石畳がわずかに沈んでいる場所にだけ、小さな水面が残っている。昨日までは離れた窪みにも幾つかの水溜まりがあり、朝の光が差すたび薄い空の色を返していたが、夜のあいだに乾いたらしい。今朝は最後の一つだけが、雲の少ない青空を揺らしながら映していた。
風は弱く、植え込みの葉もほとんど揺れていない。雨上がりの数日間、窓のすぐ近くまで聞こえていた鳥の声も、今朝は庭の奥か、その向こうの木立から届くように少し遠かった。
生活観測区画の中では、昨夜から動かなかったものが幾つか、その状態のまま朝を迎えている。
棚の前には木箱が置かれ、留め具は昨日、子供が自分の手で動かした位置のまま止まっていた。完全に閉じた最初の位置でもなく、昨日一番大きく開く側へ動かした位置でもない。怖くなって少しだけ戻し、「今日はここ」と決めた、その途中の位置だった。
白い花の棚には小皿があり、中には拾い集めた乾いた花弁が幾つか残っている。茎についたままの花弁も、さらに縮れ、茶色を深くしていた。
隣の寝台には、昨日ほとんどそこから動かなかった顔のない存在が横たわっている。胸にある十一の光もすべて消えず、薄暗い部屋の中でごく弱く灯っていた。
アリシアが目を覚ましたとき、最初に視界へ入ったのは木箱だった。
昨日の位置のまま。
誰も戻していない。
誰も先へ進めてもいない。
子供が「ここまで」と決めた状態が、本人の見ていない夜のあいだにも尊重され、そのまま朝へつながっている。
『今日は何から見るの?』
まだ目を閉じたまま、ノアが床の布の上から尋ねた。
「まだ何も見てないよ」
『今、箱を見てたでしょう』
「視界に入っただけ」
『便利ね、その言い方』
「本当に入っただけだもん」
『じゃあ、机の上は?』
言われて、アリシアはそちらへ視線を移した。
いつものように、夜間報告が二枚置かれている。
「……読む」
『でしょうね』
「必要なんだから」
『誰も止めてないでしょう』
少しだけ口を尖らせながら、アリシアは最初に西側の報告書を開いた。
西側石室候補では、昨日昼前に停止した周期的な魔力反応が、その後も再開していなかった。石室下部へ流れていた弱い魔力も、夜の途中からさらに低下し、今朝には測定限界へ近い値まで落ちている。
ただし、記録には「消失」とは書かれていない。
今使っている測定器では拾えないほど弱くなった可能性と、本当に流れ自体が止まりつつある可能性を分け、どちらとも決めずに記録している。
古い扉は閉じたまま。
石壁から離れた位置にいる名前のない光も、大きく場所を変えていなかった。
次に東側。
旧配線区画へ続く分岐の手前で止まっていた名前のない光は、夜半を過ぎた頃に少しだけ動いている。ただし、枝通路へ入ったわけではない。分岐の手前を横切るように反対側の壁へ近づき、その場所で再び止まっていた。
「入らなかったんだ」
『何に?』
「東側の枝」
『入ると思ってたの?』
ノアにそう尋ねられ、アリシアは報告書を持ったまま一度黙った。
「……少しだけ」
『でしょうね』
「でも、入らなかったからって残念とかじゃないよ」
『本当に?』
「ちょっと、あれって思っただけ」
『十分予想してたじゃない』
「予想と違っただけだよ」
『それを言ってるのよ』
ノアはようやく片目を開き、眠そうにアリシアを見た。
『途中まで行ったものを見ると、その先まで勝手に想像する癖、まだ残ってるわね』
「分かってる」
『ならいいわ』
「今日は採点しないの?」
『しない』
「なんで?」
『採点される前提で聞くようになったから』
「理不尽が続いてる」
アリシアが小さく抗議しながら報告書を閉じたところで、寝台から布が擦れる音がした。
子供が目を覚ました。
今朝はすぐに周囲を確かめなかった。しばらく天井を見つめ、何度かゆっくり瞬きをしている。窓も、木箱も、顔のない存在も、目覚めた直後には探さなかった。
数呼吸ほどしてから、ようやく頭を横へ向ける。
最初に見たのは、隣の寝台だった。
「いる」
声は小さい。
けれど、以前のように「いなくなっていなかった」と必死に安心する響きは薄くなっていた。
「おはよう」
子供が声をかける。
顔のない存在の胸にある十一の光は、すぐには変わらない。
子供は待った。
少しして、一つの光が淡く明るさを増した。さらにもう一つ。そこから少し間を置き、離れた位置にある三つ目も弱く明るくなる。
「今日は三つ」
「そうだね」
「昨日の朝は二つだった」
「うん」
子供はしばらく三つの光を見つめた。
「増えた?」
自分で言ったあと、すぐに少し眉を寄せる。
「数は増えた。でも前にも三つだったことある」
「そうだね」
「じゃあ、増えたって言ってもいい。でも、良くなったって決めない」
「うん」
「今は三つ」
それだけ確かめると、子供は視線を外した。
次に見たのは木箱だった。
昨日少し動かした留め具が、そのまま残っている。
「そのまま」
「誰も触ってないよ」
「夜も?」
「うん」
「戻ってない」
「そうだね」
子供は少しだけ笑った。
「途中が、そのまま残ってる」
昨日、自分で止めた状態を誰かが勝手に終わらせることなく、そのまま残してくれた。それを確認すること自体が、少し嬉しいらしい。
「昨日、途中にした」
「うん」
「今日、続き?」
アリシアはすぐに「そうだね」とは答えなかった。
「どうしたい?」
「まだ分からない」
「じゃあ、今は決めなくていいね」
子供は頷き、布団から出た。
いつものように足の裏を見る。赤みはなく、指で押しても痛みはない。足首をゆっくり回してから床へ立ち、二歩歩いて一度止まる。少し待って、さらに二歩。
「大丈夫」
「あとでセレナにも見てもらう?」
「見るだけ」
「分かった」
足の確認を終えた子供は、木箱へは向かわなかった。
白い花の棚へ歩いていく。
茎に残った花弁は昨日よりさらに縮れ、小皿には拾った花弁が幾つか収められている。その一枚は、昨日、床から薄い板ですくい上げた大きな花弁だった。
子供は小皿を見たあと、その外側へ視線を落とした。
昨日。
大きな花弁を移したとき、細かな欠片が一つだけ皿の外へ残った。
子供は「今日は大きいのだけでいい。小さいのはあとで考える」と決めた。
けれど、その欠片がない。
子供の足が止まった。
「……ない」
「何が?」
「昨日の小さいの」
アリシアも床へ視線を落とした。
確かに、昨日は小さな欠片があった。
夜のあいだ、その周囲を誰かが歩いた記録も、触れた記録もない。それでも、今朝は見当たらなかった。
「誰か取った?」
「観測記録には、触ったとは書いてないよ」
「じゃあ、どこ?」
子供はしゃがみ込んだ。
まず小皿のすぐ下。
次に棚の脚の周囲。
少し離れた床。
顔を近づけながら、ゆっくり探していく。
「ない」
「換気の空気で動いたのかもしれないし、もっと細かく崩れたのかもしれないね」
「窓、閉まってた」
「うん。でも、部屋の中にも少し空気の流れはあるから」
「なくなった?」
その言葉に、アリシアは少し考えた。
「今は、見えなくなったところまでかな。本当になくなったかまでは分からない」
子供は唇を少し結んだ。
「昨日、あとで考えるってした」
「うん」
「今日、やろうって思ったかもしれない」
「うん」
「でも、ない」
声が少し沈んでいく。
子供は小皿の中に残っている花弁と、何もない床を見比べた。
「昨日やらなかったから?」
「どういうこと?」
「昨日拾わなかったから、なくなった?」
アリシアはすぐに「違うよ」と否定しなかった。
「昨日拾っていたら、今、小皿の中にあった可能性はあると思う」
「じゃあ、昨日やればよかった?」
「今、そう思う?」
「……少し」
子供は床へ視線を落としたまま、指先を握った。
「昨日は、大きい花弁を小皿に入れた。小さいのはあとでってした。でも今日になったらない」
「うん」
「今日、拾いたかったのに」
その言葉には、白い花から最後の白色が失われた夕方と似た寂しさがあった。
あとでやりたくなった。
でも、もう同じものはそこにない。
「昨日、拾っとけばよかった」
「そう思うんだね」
「うん」
「それって、後悔かもしれないね」
「後悔?」
「あとになって、『違う方を選べばよかった』って思うこと」
子供は少し考えた。
「昨日を変えたい?」
「そう思うときもある」
「変えられる?」
「普通は変えられない」
子供の目が少し潤んだ。
「じゃあ、どうする?」
アリシアは答える前に、床に残る小皿を見た。
「今日からどうするかを考えるしかないこともあるよ」
「でも、小さいの、もうない」
「うん」
「探す?」
「子供は探したい?」
子供は床を見る。
それから、部屋の広さを確かめるように視線を動かした。
「少し。でも、ずっと探したら疲れる」
「うん」
「見つからないかもしれない」
「そうだね」
「……少しだけ探す」
「どこまで?」
「棚の周りだけ」
「分かった」
子供は、自分で範囲を決めた。
棚の脚の周囲。
小皿の下。
すぐ近くの床。
木箱のところまでは行かない。
寝台の下にも潜らない。
部屋全部を探すこともしない。
アリシアも、治療教師も、セレナも手を出さずに待った。
数分間。
子供は床へ顔を近づけ、角度を変えながら探した。
けれど、細かな欠片は見つからない。
「ない」
寂しそうな声が落ちる。
それでもアリシアは「もう少し探す?」とは聞かなかった。
子供は自分で棚の下をもう一度だけ見て、それから身体を起こした。
「今日はここまで」
「うん」
「また見つけたら?」
「そのとき考えればいいよ」
「うん」
目元にはまだ涙が残っていた。
「後悔、なくならない」
「すぐにはなくならないこともあると思う」
「でも、探すのやめる」
「うん」
子供は少し迷った。
「後悔してても、やめていい?」
「いいよ」
「後悔がなくなってからじゃなくて?」
「なくならなくても、今はここで止めていい」
その言葉を聞くと、子供はしばらく何も言わなかった。
後悔している。
まだ探したい気持ちも少しある。
見つからなかったことが悲しい。
それでも、疲れる前に探すことをやめる。
どれか一つの気持ちが全部なくならなければ止められないわけではない。
「……昨日の続き、できないこともある」
「あるね」
「昨日やめたこと、今日またできるって思った。でも、できないのもある」
「そうだね」
「大きいのは、昨日やめて今日できた。小さいのは、昨日あとでにして、今日できない」
「うん」
「いつでもまたできる、じゃない」
「うん。そうだね」
アリシアはごまかさなかった。
いつでもやり直せる。
何度でも始められる。
そう言う方が優しく聞こえることはある。
けれど、本当に同じものが、いつまでも同じ状態で待っているとは限らない。
時間が経てば、物は変わる。
人も変わる。
昨日途中に置いたものへ今日戻っても、まったく同じ続きをできないこともある。
子供は今、それを白い花の小さな欠片から知り始めていた。
◇
西側地下区画では、朝から石室下部の細い導線を追う作業が続いていた。
昨日より人員は少ない。
古い扉を開ける予定がないため、術式教師も一名だけを残し、土の神器継承者と魔導具教師を中心に、床下に残る反応を弱く追っている。
「昨夜の流れは?」
副学院長が尋ねる。
「今はほとんど測れません」
魔導具教師が測定盤を見ながら答えた。
「完全に止まった?」
若い観測員が聞く。
「測定限界以下です。止まった可能性もありますし、まだ残っているけれど今の道具では拾えない可能性もあります」
「また分からない」
「地下調査なんて、大体そんなものですよ」
魔導具教師が少し笑った。
副学院長は簡易地図へ視線を落とす。
「昨日、横へ曲がるところまでは追えたな」
「はい」
「その先は?」
土の神器継承者が床へ掌を触れた。
一度で深く探らない。
短い感知を、間を置きながら何度か重ねる。
やがて顔を上げた。
「……途中で分かれています」
「枝分かれか?」
「おそらく二方向です。ただ、片方はすぐに感知できなくなります。崩れているのか、元々短い導線なのかまでは分かりません」
「もう片方は?」
「さらに横へ続いています。方向だけなら……」
土の神器継承者が地図の端を指で追う。
「西側の旧制御区画へ近づいています」
周囲にいた観測員たちの視線が集まった。
「中央じゃない?」
「中央施設とは逆方向です」
「旧制御区画って、何がある場所なんですか?」
副学院長が古い図面の文字を確認する。
「記録上は、水量調整と配線管理に使われていた区画だ。ただし、現在も空間が残っているかは未確認」
「そこに接続具の先がある?」
「まだそう決めるな」
「……はい」
若い観測員は、言い終わるより早いほど素直に口を閉じた。
副学院長が少しだけ口元を緩める。
「速くなったな」
「何がです?」
「言い直すのが」
「毎日言われてますから」
周囲に小さな笑いが起きる。
しかし、その空気が消えないうちに魔導具教師が測定板へ顔を近づけた。
「待ってください」
副学院長の表情が戻る。
「どうした?」
「石室側ではありません。導線の先……旧制御区画方向から、微弱な反応があります」
「種類は?」
「昨日、石室内で確認した周期反応とは違います」
「強さは?」
「かなり低いです。ただ、完全な残留魔力だけにしては、少し規則性がある」
「生命反応は?」
「ありません」
「光側は?」
別の観測員がすぐに測定盤を確認する。
「変化なしです。位置も、接続値も大きく変わっていません」
副学院長はすぐに「つながった」とは言わなかった。
「昨日の石室内反応とは、別項目で記録しろ」
「はい」
「導線が物理的につながっている可能性があるからといって、同じ機能だと決めるな」
「了解です」
「旧制御区画へ人を送りますか?」
「まだだ」
副学院長は簡易図面へ目を落とした。
「既存通路が残っているかを先に確認する。安全な経路がないなら、今は追わない」
「その間に反応が消えたら?」
「消えたという記録が残る」
「確認できなくなるかもしれないですよ」
「ああ。その可能性はある」
「それでも急がない?」
副学院長は若い観測員を見た。
「今、急いだ方がいい理由があるか?」
問われた観測員は、測定値へ視線を戻した。
「危険値は低い。生命反応なし。名前のない光にも変化なし」
「なら?」
「……まず既存経路の確認」
「そうだ」
古い扉は、今日も閉じたままだった。
◇
朝食の時間になっても、子供は少し静かだった。
白い花の欠片を見つけられなかったことが、まだ胸の奥に残っているらしい。
今日の食事は麦粥と根菜、それから淡い橙色をした小さな果実だった。
「初めて?」
「この種類は初めてですね」
治療教師が答える。
「甘い?」
「甘い方です」
「酸っぱい?」
「少しあります」
「苦い?」
「ほとんどありません」
子供は少し迷ったあと、一つ取って口へ入れた。
ゆっくり噛む。
目が少しだけ大きくなる。
「甘い」
「好き?」
「今は好き」
「名前つける?」
アリシアが尋ねると、子供は手に残った果実を見た。
「橙甘」
「分かりやすいね」
「でも、少し酸っぱい」
「じゃあ橙甘酸?」
「長い」
子供は考えた末、首を傾げる。
「……橙」
「そこまで戻る?」
「今日は橙でいい」
「分かった」
二つ目を食べる。
そこで三つ目へ伸ばしかけた手が止まった。
「もっと食べたい。でも……」
「どうしたの?」
アリシアが尋ねる。
子供は、白い花の小皿へ視線を向けた。
「あとで食べようってしたら、なくなる?」
その問いに、アリシアは少しだけ胸が痛んだ。
「この果実は、急に消えることはたぶんないよ。残しておきたいなら、治療教師に取っておいてもらうこともできる」
「本当に?」
治療教師が頷く。
「はい。昼までなら問題なく保存できます。必要なら別の小皿に取っておきましょう」
「じゃあ、あとで食べる」
「今は?」
「二つでいい。残りは昼に食べたいかもしれない」
「昼になったら、食べたくなくなってるかもしれないよ?」
アリシアが聞くと、子供は少し考えた。
「それでも取っておく?」
「取っておいて、あとで食べなかったらどうしたい?」
「別の人が食べてもいい?」
「もちろんです」
治療教師が答える。
「もし誰も食べなくて、状態が悪くなれば処分することもあります。でも昼までなら大丈夫ですよ」
子供は頷いた。
「じゃあ、二つ取っておく」
治療教師が小さな器へ果実を分ける。
子供は、その作業をじっと見ていた。
「花の欠片と違う」
「どう違う?」
「あとでにする前に、なくならないようにできる」
「そうだね」
「全部はできない?」
「全部は難しいね」
「白い花は?」
「乾いたり崩れたりするのを遅くする方法はあると思う。でも、ずっと同じにはできない」
「水溜まりは?」
「晴れたら、いつか乾くね」
「橙は?」
「少しの間なら取っておける」
子供は考えながら麦粥を口へ運んだ。
「あとでにするなら、あとでできるようにしておくこともある」
「うん」
「でも、できないものもある」
「そうだね」
「難しい」
「うん」
子供は少しだけ表情を緩めた。
「でも、昨日より少し分かった」
それ以上は言わず、食事を続けた。
◇
食後。
顔のない存在が、ゆっくりと身体を起こした。
昨日は一日、ほとんど寝台から動かなかった。
今朝も、子供が花弁を探しているあいだは横になったままだったため、身体を起こしただけでも子供はすぐに気づいた。
「起きた」
けれど駆け寄らない。
人影は寝台の端へ足を下ろした。
少し待つ。
それから自分で立ち上がる。
子供が、声に出して数え始めた。
「一、二、三……」
四歩。
五歩。
昨日は歩かなかった。
一昨日は七歩。
その前には九歩まで進んでいた。
六歩目。
そこで、人影の動きが止まった。
「六」
子供も少しだけ息を止めた。
人影は立ったまま、次の動きを見せない。
七へ進むのか。
以前のように九まで行くのか。
今度こそ窓まで行くのか。
子供は、その先を期待している自分に気づいたようだった。
「……行ってほしい」
小さく呟く。
「窓まで?」
アリシアが尋ねる。
「うん。少し」
「そっか」
子供はしばらく迷った。
「でも、言わない方がいい?」
「言いたい?」
「行ってほしいって言ったら、この人、行かなきゃってなる?」
「そう感じるかどうかは、私たちには分からない」
「じゃあ……」
子供は人影を見つめた。
少し迷ってから、ゆっくり声を出す。
「私は、窓まで行ったらいいなって思ってる」
アリシアは、ほんの少し目を見開いた。
子供は続ける。
「でも、行かなくてもいい。私が見たいだけ」
人影は動かない。
数呼吸。
さらに少し時間が過ぎる。
それから、右足がわずかに動いた。
七歩目。
子供の目が大きくなる。
さらに一歩。
八歩目。
「八」
声が少しだけ明るくなった。
人影は、そこで止まる。
窓まではまだ一、二歩ある。
以前九歩目まで進んだ日より、窓からは遠い。
それでも子供は、それ以上を求めなかった。
「今日は八」
「そうだね」
「私、行ってほしいって言った」
「うん」
「でも、この人が進んだの、私が言ったから?」
「分からない」
「うん」
子供は少しだけ笑った。
「分からない。でも、私は言えた」
「何を?」
「行ってほしい。でも、行かなくてもいいって」
少し考えてから、続ける。
「自分がしてほしいこと、言ってもいい?」
「もちろん」
「言ったら、相手がやらなきゃになる?」
「お願いと命令は違うよ」
「どう違う?」
アリシアは少し考えた。
「断れるかどうか、とか。相手に選ぶ余地があるかどうか、とかかな」
子供は人影を見る。
「この人、断るって言わない」
「うん」
「じゃあ難しい」
「そうだね」
「だから、『やらなくてもいい』って言う?」
「それも一つの伝え方だと思う」
「アリシアも?」
「お願いするとき?」
「うん」
「できるだけ。でも本当に必要なことなら、『してほしい』じゃなくて『して』って言う場合もあるよ」
「危ないとき?」
「うん。避難して、とか。止まって、とか」
子供はゆっくり頷いた。
「全部お願いじゃない」
「そうだね」
「でも、お願いを命令にしないこともできる」
「うん」
顔のない存在は八歩目でゆっくり床へ座った。
子供はその姿を眺めながら、少し嬉しそうに笑う。
「今日は八。昨日はゼロ……」
そこまで言って、すぐ首を横へ振った。
「違う。昨日は寝台にいた。ゼロって言うと、何もしてなかったみたい」
「うん」
「昨日は昨日」
「そうだね」
昨日歩かなかったことを、空白にしない。
何も起こらなかった日として消さない。
子供は少しずつ、数字で比べることとは別に、その日の時間をそのまま残せるようになっていた。
◇
昼頃。
東側の分岐では、夜から止まっていた名前のない光が再び動いた。
「移動を確認」
観測員の声に、サーラが記録板を取る。
「方向は?」
「枝通路ではありません。……元の通路側です」
若い観測員が少し驚いた。
「入らないんですね」
サーラが彼を見る。
「今は、ですね」
「あ……はい」
光は旧配線区画への枝には入らず、元から続いている通路へ沿って少し先へ進んでいく。
「危険確認済み範囲?」
「少し先までは。その先は未確認です」
「追加確認は?」
「光の進行方向へ人を先回りさせない。遠隔感知だけで確認します」
「はい」
若い観測員が地図へ位置を書き込む。
「昨日、分岐の前に長くいたから、ここへ入ると思ってました」
「私も少し思いましたよ」
サーラが答えると、観測員が驚いて顔を上げた。
「サーラさんも?」
「思うことと、記録へ書くことは別です」
「なるほど」
「予想してはいけないわけではありません。ただ、自分の予想を事実として扱わないことです」
「外れたら?」
「外れた、でいいでしょう」
「失敗ですか?」
「何の?」
サーラが聞き返す。
若い観測員は少し笑った。
「予想の」
「予想は外れるものです。毎回当たるなら、こうして観測する必要はありません」
「強いですね」
「単に慣れただけです」
名前のない光は少し進み、また止まった。
枝には入らなかった。
だからといって、昨日分岐の手前へいたことが無意味になるわけではない。
昨日は、そこにいた。
今日は、違う場所にいる。
記録するべきなのは、まずその二つだった。
◇
午後。
西側旧制御区画へつながる可能性のある既存通路が一つ見つかった。
ただし、すぐに使える状態ではない。
学院側に残っていた古い図面と現地の地形を照合したところ、途中に水没区画が存在している可能性が高かった。
「水深は?」
副学院長が尋ねる。
「まだ確認できていません」
「排水できるか?」
「既存排水路が生きていれば可能性はあります。ただし、動かす前に周辺区画への影響確認が必要です」
「今すぐ向こうへ行く必要性は?」
魔導具教師が首を横へ振る。
「反応は低いです。朝に確認したものより、さらに弱くなっています」
「なら保留だな」
「はい」
若い観測員が地図を見ながら、少しだけ笑う。
「また止まるんですね」
「不満か?」
「いえ。もう慣れてきました」
副学院長はその言葉を聞くと、すぐに笑わなかった。
「それはそれで危ないぞ」
「え?」
「『止まることが正しい』と思い始めるな」
若い観測員の顔が固まった。
「……あ」
「開けない。進まない。待つ。今まで何度もそうしてきた。だが、それが毎回正解なわけじゃない。必要なら進むし、必要なら開ける」
「はい」
「今は、進む理由が弱いから進まない。それだけだ」
若い観測員は真剣に頷いた。
「止まることも、正解にしすぎない」
「そうだ」
「難しいですね」
「だから仕事なんだろう」
副学院長は今度こそ少し笑った。
待つことを役割にするのではない。
止まることを正義にもしない。
そのとき必要なことを、そのときの情報で決める。
今の学院側が少しずつ学んでいるのも、結局そこだった。
◇
午後の生活観測区画。
子供は、朝に取り置いてもらった橙色の果実を見ていた。
小さな器に二つ。
朝と同じ果実。
なくなっていない。
「まだある」
「取っておいたからね」
「食べる?」
「どうしたい?」
「一つ食べる」
子供は一つ取って口へ運んだ。
噛んだあと、少し首を傾げる。
「朝と違う」
「どう違う?」
「少し水が少ない」
「時間が経ったからかもね」
「同じ橙?」
「朝に残した同じ実だよ」
「でも、朝の味と違う」
「うん」
子供は残った一つを見る。
「あとでにして、残った。でも同じじゃない」
「そうだね」
「取っておけば、ずっと同じってわけじゃない」
「うん」
「白い花も?」
「変化を遅くする方法はあっても、完全に同じ状態のまま残すのは難しいと思う」
「木箱は?」
子供は棚の前へ視線を移した。
留め具が少しずれたままの木箱。
「昨日と同じ?」
「箱そのものは、大きく変わってないように見えるね」
「でも私が違う?」
「どう?」
子供は少し考えた。
「昨日より、開けたい気持ちある。怖いのもある」
「うん」
「じゃあ、箱が同じでも私が違う」
「そうだね」
子供は残っている橙を見た。
「途中に置いても、そのままじゃない」
「物も?」
「うん。自分も」
「そうかもしれないね」
「じゃあ、続きをするとき、昨日の続きじゃないこともある?」
アリシアは少し考えてから答えた。
「昨日からつながってはいる。でも、続きをするのは今日の子供だね」
「同じところからでも?」
「うん」
「……難しい」
子供は少し笑った。
「でも、分かる気もする」
食べかけの橙を最後まで食べる。
残り一つはまだ器にあった。
「最後の一つは?」
「今はいらない」
「夜まで取っておく?」
子供は少し迷った。
今朝の白い花の欠片のことを思い出しているのかもしれない。
けれど、しばらくすると治療教師へ顔を向けた。
「治療教師、食べる?」
突然声をかけられ、治療教師が少し驚いた。
「私ですか?」
「うん。私は今いらない。でも、捨てるのは嫌」
「では、いただいてもいいですか?」
「いいよ」
治療教師が器から果実を受け取る。
子供は、その動きをしっかり見ていた。
「私があとで食べる、は終わり?」
「そうだね。この実については」
「あとで食べたくなったら?」
「その実はもうないね」
「後悔するかも?」
「するかもしれない」
子供はしばらく考えた。
「でも今は、あげたい」
「うん」
「じゃあ、あげる」
治療教師は果実を持ったまま、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
子供は少しだけ嬉しそうに笑う。
アリシアが静かに尋ねた。
「あとで後悔しても?」
「そのとき、後悔する」
「うん」
「でも今は、あげたかった」
「うん」
朝の白い花の欠片とは違う。
失う可能性を知らずに「あとで」としたのではない。
今は、もう分かっている。
あとで欲しくなるかもしれない。
一度渡したら同じ実は戻ってこない。
それでも今は、自分が治療教師へ渡したい。
子供は、その気持ちを選んだ。
◇
夕方。
子供は再び木箱の前へ座った。
昨日ずらした留め具はそのままだった。
今日は朝から一度も触れていない。
アリシアは「続きをする?」とは聞かなかった。
少し離れたところに座り、子供がどうするのかを待った。
子供は蓋を見る。
次に金具。
ゆっくり手を伸ばす。
昨日初めて触れた冷たい金属へ、今日は驚かず指を置いた。
「昨日より冷たくない」
「子供の手が温かいのかもしれない」
「箱が温かくなった?」
「それも少しあるかも」
子供は留め具へ指をかけた。
少し力を入れる。
金属がかすかに鳴った。
昨日より大きく動く。
留め具が完全に外れる、その直前。
子供の手が止まった。
「……怖い」
「うん」
「でも、昨日より見たい」
「うん」
子供は自分自身へ問いかける。
「外す?」
アリシアは黙ったまま待つ。
十数秒。
さらに少し。
子供の指は留め具にかかったまま。
外せば、おそらく蓋を開けられるところまで進む。
でも、外さないこともできる。
長い沈黙の末、子供は指の力を少し抜いた。
「今日は……外さない」
「分かった」
「昨日より動いた。でも開けない」
「うん」
そこで子供は留め具を見た。
「戻す?」
今度は、自分でそう呟く。
少し考える。
「少し戻す」
昨日とは違う選択だった。
完全に最初の位置へ戻すのではない。
今日、一番開く側へ動かした位置から少しだけ閉じる側へ戻す。
「どうして?」
アリシアが尋ねた。
「今、この位置はちょっと怖い。でも全部戻すのも嫌」
「うん」
「だから、このくらい」
子供は慎重に金具を動かした。
留め具は昨日の位置よりは開く側にあり、今日一番大きく動かした位置よりは少し閉じる側。
その中間で止まる。
「ここ」
「うん」
「昨日の途中と、今日の途中、違う」
「そうだね」
「戻ったけど、昨日より前……」
言ったあと、子供自身が眉を寄せた。
「前?」
「どっちを前って呼ぶかは分からないね」
「じゃあ、位置が違う」
「うん」
子供は少し笑った。
「それでいい」
昨日より開いたから前進。
少し戻したから後退。
そう呼ばなくてもいい。
今日は、この位置。
それだけで十分だった。
◇
夜。
西側旧制御区画方向から確認されていた微弱な反応は、夕方にはほとんど測定できなくなっていた。
人間側は、水没している可能性のある通路へ進まなかった。古い扉も閉じたままで、石室下部の導線も今夜はほとんど反応を示していない。
東側の名前のない光は、旧配線区画への分岐へ入らず、元の通路をさらに少し進んだ場所で止まっていた。
生活観測区画では、白い花の小さな欠片は結局見つからなかった。
子供は朝、後悔した。
少しだけ探した。
見つからなかった。
それでも、後悔が消えるまで探し続けるのではなく、自分で範囲を決めて「今日はここまで」と止めた。
そのあとも、一日は続いた。
朝食を食べ、顔のない存在が八歩進むのを見た。
自分が窓まで行ってほしいと思っていることを、「やらなくてもいい」と添えて初めて口にした。
あとで食べるつもりで残した橙が、時間とともに少し味を変えていることも知った。
そして最後の一つは、自分があとで後悔する可能性を知った上で、治療教師へ渡した。
夕方には、木箱の留め具を昨日より大きく動かした。
けれど、完全に外れる直前で怖くなり、自分の意思で少しだけ戻した。
寝台へ入ったあと、子供はしばらく棚の前の木箱を眺めていた。
「アリシア」
「うん」
「昨日の続きって、同じじゃないね」
「今日の箱?」
「それも。花も。橙も」
「うん」
「昨日置いたものが今日もあることはある。でも、変わってることもある」
「そうだね」
「なくなることもある」
「うん」
「私も変わる」
「そうだね」
子供は布団の端を指でゆっくり撫でた。
「じゃあ、途中にしたら、いつでも同じ続きをできるわけじゃない」
「うん」
「ちょっと怖い」
「何が?」
「なくなるかもしれないから。変わるかもしれないから」
「うん」
「でも、だから全部今やるってしたら……」
子供は自分で続きを考える。
少しして、首を横へ振った。
「それも嫌」
「どうして?」
「疲れる。怖くても、今やらなきゃってなる」
「うん」
「じゃあ、どうする?」
アリシアは答えを渡さなかった。
「子供はどうしたい?」
長い沈黙が落ちた。
子供は天井を見る。
「……あとでできなくなるかもしれないって分かって、それでもあとでにする」
「うん」
「今やりたいなら今やる。でも、なくなるのが怖いからだけで、全部今やるにはしない」
「うん」
「できなくなったら、後悔するかも」
「するかもしれないね」
「それでも……」
子供は自分へ確かめるように言葉を止めた。
しばらくして、少しだけ頷く。
「それでも選ぶ」
アリシアは胸の奥が温かくなるのを感じた。
けれど、そこで「偉いね」とは言わなかった。
それを新しい正解にしてしまわないために。
「うん」
それだけ返す。
子供は隣の寝台へ視線を移した。
顔のない存在の胸では、十一のうち二つが淡く明るい。
「この人も、昨日歩かなかった。でも今日は歩いた」
「うん」
「昨日歩かなかったから今日歩けた、じゃない」
「そうだね」
「昨日は歩かなかった。今日は歩いた」
「うん」
「東の光も、分岐に入らなかった」
「うん」
「明日、入るかもしれない?」
「そうかもしれない」
「もう入らないかも?」
「それもある」
「西の扉も、まだ閉じてる」
「うん」
「途中、いっぱいある」
子供は少し笑った。
「でも、途中に置いたものが、ずっと待っててくれるとは限らない」
その言葉に、アリシアは少しだけ目を細めた。
「うん」
「だから、選ぶの難しい」
「そうだね」
「でも、今日の私は今日の私で選ぶ」
「うん」
子供は目を閉じた。
「おやすみ」
「おやすみ」
しばらくすると、呼吸がゆっくりと寝息へ変わった。
木箱の留め具は、昨日とも、今日一番開いたときとも違う位置にある。
白い花の小さな欠片は見つからなかった。
小皿の中に残る花弁も、明日にはまた少し形を変えているかもしれない。
東側の光は、分岐へ入るという人間側の予想を外れ、別の位置へ移った。
西側の微弱な反応は、人間側が追いつくより先に、ほとんど測れなくなった。
途中で止めれば、いつでも同じ場所から、同じ状態で再開できるとは限らない。
昨日置いたものが、今日も同じ姿で待っているとは限らないし、続きを始める自分自身も、昨日とまったく同じではない。
それは少し怖い。
選ばなかったことで、失うものもある。
選んだことで、別の何かを失うこともある。
あとから違う方がよかったと思うことだってある。
けれど、失うことが怖いからといって、何もかもを「今すぐやらなければならないもの」に変えてしまえば、今度は時間そのものが新しい命令になる。
だから、そのとき見えているものと、そのとき自分の中にある気持ちで選ぶ。
あとで後悔する可能性があることまで知った上で、それでも止まることもある。
今日の自分にはやりたいと思えたから、昨日の続きを始めることもある。
昨日より進んだところから、怖くなって少し戻ることもある。
それでも、その一つ一つは互いを消さない。
昨日の続きをしているつもりでも、昨日と同じことではない。
変わったものと。
変わった自分と。
今日初めて見えるものの中で、もう一度選び直す。
それは「元の続き」とまったく同じ形ではなくても、昨日から確かにつながっている時間だった。
その夜、生活観測区画では誰も木箱の留め具へ触れなかった。
西側でも、古い扉は閉じたままだった。
東側の光も、新しい位置で静かに止まっている。
明日になれば、どれかはまた変わっているかもしれない。
それでも今夜は、今夜の形のまま。
誰かが続きを勝手に決めることなく、それぞれの時間が静かに朝へつながっていった。




