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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第134話 残しておきたいと思ったものまで、同じ形のまま残せるわけではない



 翌朝、生活観測区画の窓から見えていた最後の水溜まりは、まだ消えていなかった。


 昨日よりさらに小さくなり、庭の中央寄りにある石畳の窪みへ、薄い膜のような水だけが残っている。空を映せるほどの広さはもうなく、朝日が差すと、水そのものより濡れた石の表面が淡く光って見えた。


 風は昨日より少し強い。


 植え込みの葉が絶えず揺れ、枝の間から差し込む光も細かく動いている。雨が続いていた頃には部屋の中まで湿った土の匂いが届いていたが、今朝は乾いた草と温まり始めた石の匂いの方が強かった。


 棚の上に置かれた白い花も、また少し形を変えていた。


 茎についた花弁は残りわずか。


 小皿の中に置かれている花弁も、昨日より端が反り返っている。その一枚には、細い亀裂が走っていた。


 昨夜まではなかったように見える。


 木箱は棚の前。


 留め具は昨日、子供が一度大きく動かし、怖くなって少し戻した位置のまま残されていた。


 寝台では、子供も顔のない存在もまだ眠っている。


 アリシアは窓際の椅子へ腰を下ろし、机に置かれた朝の報告書を開いた。


 西側。


 石室候補内で確認された周期反応は再開していない。石室下部から旧制御区画方向へ伸びていた微弱な魔力の流れも、夜間を通してほぼ測定限界以下だった。


 旧制御区画へつながる可能性がある既存通路については、水没区画の手前まで安全確認を行う予定。ただし、排水操作はしない。


 古い扉も開けない。


 名前のない光は石壁から離れた位置のまま、大きな移動なし。


 東側。


 旧配線区画への分岐を通過した光は、その先の通路で一晩を過ごしている。昨日夕方から位置変化はなく、危険反応も確認されていない。


『今日は何を予想したの?』


 床からノアの声が聞こえた。


「何も予想してない」


『報告書を見ながら眉が動いたわよ』


「眉くらい動くよ」


『何を考えたの?』


 アリシアは少しだけ黙った。


「東の光、このまま先へ進むのかなって」


『予想してるじゃない』


「考えただけ」


『昨日のサーラの話、聞いてなかったの? 予想するのは構わないけど事実にするな、でしょう』


「してないよ」


『ならいいけど』


「ノアだって何か思わないの?」


『思うわよ』


「何を?」


『あなたが毎朝こうやって自分から怒られに来てるなって』


「怒られてない」


『似たようなものよ』


 アリシアが小さくむくれて報告書を閉じたところで、寝台の方から布の擦れる音がした。


 子供が目を覚ました。


 今朝は、しばらく動かなかった。


 天井を見ている。


 そのあと窓へ目を向けた。


「水、まだある」


「うん。少しだけ」


 子供は寝台の上から、庭の最後の水溜まりを眺めた。


「昨日より小さい」


「そうだね」


「今日なくなる?」


「この天気なら、なくなるかもしれない」


「触りに行く?」


 言ったあと、自分で少し考える。


 アリシアは答えを急がなかった。


「どうしたい?」


「……前に、なくなるからって急がないってした」


「うん」


「でも今日、本当に最後かもしれない」


「そうだね」


「行きたい気持ち、昨日よりある」


「うん」


「なくなるの怖いから?」


「それも子供にしか分からないかな」


 子供は窓を見たまま、布団の上へ手を置いた。


「触りたいもある。なくなってほしくないもある。でも、触ったらなくならないわけじゃない」


「うん」


「行くかは、あとで決める」


「分かった」


 そこでようやく隣の寝台を見る。


 顔のない存在は、今朝もそこにいる。


「おはよう」


 十一の光はすぐには反応しなかった。


 子供は待つ。


 一つ。


 少しして二つ目。


 今日はそれだけだった。


「今は二つ」


 昨日は朝に三つ。


 けれど、それ以上は比べない。


 子供は布団を出ると、自分の足を確認した。足裏、指、足首。痛みはなく、赤みもない。


「大丈夫」


「あとでセレナにも?」


「見るだけなら」


「うん」


 確認を終えたあと、子供は棚へ向かった。


 最初に目を留めたのは、昨夜まで大きな変化がなかったと思っていた小皿の中の花弁だった。


「……線」


 子供の指が止まる。


「割れてる?」


 アリシアも近づいた。


 一枚の花弁に細い亀裂が入っている。


 まだ完全には二つに分かれていない。


 けれど、少し動かせば割れそうだった。


「昨日、なかった?」


「私の記憶では、ここまで大きな線はなかったと思う」


「誰も触ってない?」


「触ってないよ」


「小皿に置いたのに」


 声が少し沈んだ。


 昨日、子供は白い花の小さな欠片を見失った。


 そのあと、果実については「あとで食べられるように残す」という方法があることを知った。


 今日。


 小皿にきちんと置いた花弁まで変わっている。


「残したのに」


「うん」


「拾った。小皿に入れた。誰も触らなかった」


「うん」


「でも割れてる」


 子供は少し困ったように眉を寄せた。


「残したら、残るんじゃないの?」


 アリシアは、すぐに答えを返さなかった。


「何が残るって思ってた?」


 逆に尋ねる。


 子供は小皿を見る。


「花弁」


「花弁は今もあるね」


「でも形が違う」


「うん」


「昨日の形を残したかった」


 その言葉には、少し悔しさが混じった。


「できない?」


「できるだけ変わりにくくする方法はあると思う。でも、ずっとまったく同じ形にしておくのは難しいものもあるよ」


「これも?」


「たぶん」


「じゃあ、小皿に入れた意味ない?」


 アリシアは首を横へ振った。


「子供はどう思う?」


「……床よりは安全」


「うん」


「踏まれない。風で飛びにくい」


「うん」


「でも、割れる」


「そうだね」


「守ったのに、変わる」


 子供はしばらく何も言わなかった。


 小皿へ手を伸ばしかけて、止める。


「触ったらもっと割れるかも」


「うん」


「触らなくても割れるかも」


「そうかもしれない」


「どうしたら残る?」


「何を残したい?」


 子供の指先が止まった。


「形」


 すぐに答える。


 けれど、少しすると自分から続けた。


「……でも、形だけ?」


「どうだろう」


 子供は花弁を見つめる。


「白かったこと」


「うん」


「匂いあったこと。柔らかかったこと。私が触ったこと。触らなかった日もあったこと。落ちたこと。拾ったこと」


 言葉を一つずつ重ねる。


「それも残したい」


「うん」


「でも小皿には入らない」


「記憶なら、今は子供の中にあるね」


「忘れたら?」


 以前にも似た問いがあった。


 アリシアは少し考えた。


「全部覚えていられるとは限らないね」


「じゃあ、なくなる?」


「忘れることはある。でも、あったこと自体がなくなるわけじゃない」


「前にも言った」


「うん」


「でも覚えてないと、私から見えなくなる」


「そうだね」


 子供はそこで少し考え込んだ。


「書く?」


「何を?」


「白い花のこと」


 アリシアは目を瞬いた。


「記録に?」


「うん。人間、光のこと書く」


「書いてるね」


「花も書ける?」


「もちろん」


「絵も?」


「描けるよ」


 子供の目が少し明るくなる。


「今の花を?」


「今のでもいいし、覚えている前の花でもいい」


「前の白いとき」


「描きたい?」


 子供はすぐには頷かなかった。


「絵、同じにならない」


「本物と?」


「うん」


「同じじゃなくても、子供が覚えているものを残すことはできるよ」


「間違うかも」


「間違ってもいいと思う」


「記録なのに?」


「学院の正式な観測記録とは違うから。子供が覚えている白い花を残すものなら、子供が覚えている通りでいいんじゃないかな」


 子供は小皿を見る。


「自分の記録?」


「うん」


「人間に見せなくても?」


「見せなくてもいいよ」


「隠しても?」


「子供のものなら」


 少し長い沈黙のあと、子供は小さく頷いた。


「あとで描く」


「うん」


「今すぐじゃない」


「分かった」


 白い花は変わっている。


 小皿に入れても。


 触れなくても。


 それでも、残し方は一つではなかった。


     ◇


 西側地下区画では、旧制御区画へ続く可能性のある既存通路について、朝から安全確認が行われていた。


 水没区画の手前までは、人が使える。


 そこから先は、古い階段がゆっくり下り、薄暗い水面へ沈んでいる。


「水深、測れますか?」


 副学院長が尋ねる。


「入口付近だけなら」


 土の神器継承者が感知を広げる。


「浅いところで膝程度。その先は……階段がまだ下がっています」


「底は?」


「ここからでは取りにくい」


「水の流れは?」


 別の術師が測定具を下ろす。


「ほとんどありません。滞留しているように見えます」


「汚染?」


「現時点で強い毒性反応はなし。ただし長期滞留水なので、直接入るのは勧めません」


 若い観測員が水面を見た。


「排水すれば行けますか?」


「排水路が生きていればな」


 魔導具教師が古い壁へ残った配線を確認する。


「でも、この区画の排水装置を動かすと、どこへ水が流れるか分からない」


「別の区画へ?」


「可能性があります。地下水路へ抜けるかもしれないし、崩落部分へ流れ込むかもしれない」


 副学院長が頷いた。


「なら動かさない」


 若い観測員が少しだけ笑った。


「今日は『止まるのが正解だから』じゃないですよね」


 副学院長が彼を見る。


「昨日の話を覚えていたか」


「かなり」


「なら理由は?」


「排水の影響範囲が分からない。旧制御区画側の反応は低い。生命反応なし。急ぐ理由も今のところない」


「その通りだ」


「ちょっと嬉しいです」


「何が?」


「今、止まる理由を自分で言えました」


「そこで満足するな」


「厳しい」


 周囲に小さな笑いが起こる。


 けれど、その空気はすぐに消えた。


 水面の向こう。


 沈んだ階段のさらに先で、ごく弱い魔力反応が一度だけ拾われたからだ。


「反応」


 魔導具教師が測定板を見る。


「旧制御区画方向?」


「おそらく。ただし一回だけです」


「強さは?」


「昨日より弱い」


「周期?」


「今のところなし」


「光側は?」


 石室候補側に残っている観測員から通信が返る。


『変化なし。位置、接続値ともに安定』


「なら記録だけ」


 副学院長は水没した階段の先を見た。


「今日はここまでだ」


「反応、もう一回出るかもしれませんよ」


「出たら記録する」


「消えたら?」


「消えたと記録する」


「追わない?」


「今はな」


 若い観測員は今度こそ素直に頷いた。


     ◇


 朝食後、子供は白い花の絵を描くための紙を受け取った。


 学院側で使う正式な記録用紙ではない。


 何も線の引かれていない白い紙。


 鉛筆も数本。


 色を付けるための簡単な顔料も用意された。


「全部使っていい?」


「もちろん。でも使わなくてもいいよ」


「白い花だから白?」


「そうだね」


「白い紙に白、見えない」


 子供は少し困った顔をした。


「輪郭を描く?」


 アリシアが言う。


「本当の花に線なかった」


「そうだね」


「じゃあ違う」


「うん」


 子供は紙を見た。


 そして白い花を見る。


「どうしたら同じになる?」


「完全に同じにはならないと思う」


「やっぱり」


「でも、子供が覚えているところを描くことはできるよ」


 子供は鉛筆を持った。


 最初の線を引くまで、かなり時間がかかった。


 丸く描こうとして止める。


 花弁の形を思い出す。


「五枚?」


「最初はもう少しあったような気もする」


「アリシアも分からない?」


「正確には覚えてない」


 子供は少し驚いた。


「見てたのに?」


「うん」


「忘れた?」


「一部はね」


「大人も?」


「もちろん」


 子供は少し考えた。


「じゃあ、私の方が覚えてるかも」


「そうかもね」


 少しだけ、自信が戻ったようだった。


 子供は線を引く。


 一枚目の花弁。


 少し長い。


 二枚目は丸い。


 三枚目は途中で線が歪んだ。


「あ」


「どうしたの?」


「違う」


「描き直す?」


 子供は消しゴムを見る。


「消したらなくなる」


「紙の線が?」


「うん」


「残したい?」


 少し迷う。


「……この間違いも、今描いた」


「うん」


「じゃあ残す」


「分かった」


 四枚目。


 五枚目。


 六枚目も描く。


「本当は六?」


「子供がそう覚えてるなら」


「分からない。でも今は六にしたい」


「うん」


 中心へ小さな丸を描く。


「ここ、白が最後まで残った」


「そうだったね」


「最初は全部白」


「うん」


「今は茶色」


 子供は色を塗ろうとして止まる。


「白を塗れない」


「紙が白いからね」


「じゃあ、周りを少し暗くする」


 考えて、自分なりの方法を見つける。


 花の周囲へ薄い影を描く。


 白い部分そのものではなく、周りを少し灰色にすることで形を見せる。


「白く見える?」


「うん。私はそう見えるよ」


「本当と同じ?」


「同じではない。でも、白い花だって分かる」


 子供はしばらく絵を見た。


「名前書く?」


「書けるよ」


「白い花」


 まだ文字を書くことには慣れていない。


 アリシアが見本を書き、子供がその下へ一文字ずつ真似する。


 少し歪んだ。


 大きさも揃わない。


 けれど読める。


「白い花」


 子供が声に出す。


「うん」


「これ、残る?」


「紙が壊れたり濡れたりしなければ、しばらくは」


「ずっと?」


「ずっととは言えない」


「やっぱり」


 子供は苦笑した。


「でも、花より長い?」


「たぶんね」


「じゃあ、これも変わる」


「うん」


「紙、黄色くなる?」


「時間が経てばなるかも」


「線、薄くなる?」


「なることもある」


「じゃあ、何もずっと同じじゃない」


「そうだね」


 子供は絵を両手で持つ。


「でも、今はある」


「うん」


「今は残せた」


「そうだね」


 子供は少し嬉しそうに笑った。


     ◇


 その頃、東側では、昨日分岐を通り過ぎた名前のない光が再び移動していた。


「前方へ移動」


 サーラが記録板を取る。


「速度は?」


「これまでと同じくらい。ゆっくりです」


「安全確認済み範囲は?」


「あと三歩ほど」


「その先は?」


「旧配線主路へ続いている可能性がありますが、未確認です」


「遠隔感知だけ先行」


「はい」


 術師が壁越しに弱い感知を広げる。


「床は安定。大きな崩落なし。魔力残留は……あります」


「種類は?」


「古い配線由来と思われます。ただし、一か所だけ少し強い」


 サーラが顔を上げた。


「位置は?」


「光の進行方向より少し右。壁の向こうです」


「空洞?」


「小さいものがあります」


「部屋?」


「人が入れるほどではありません。細い設備空間かもしれません」


 若い観測員が地図を見る。


「西側の導線みたいな?」


 サーラは少しだけ彼を見る。


「似て見えますか?」


「少し」


「同じだと思います?」


「……まだ」


「なら記録は別です」


「はい」


 光は進む。


 安全確認済み範囲の端へ近づく。


「止めますか?」


 誰かが尋ねる。


 サーラは首を横へ振った。


「危険反応は?」


「なし」


「光が自分で進んでいる?」


「はい」


「なら止めません。人間側の確認が追いつかないからといって、光まで止める理由にはならない」


「でも未確認区画へ入ります」


「入る前に遠隔で取れる範囲を確認する。それでも危険が見つからないなら、追わずに観測します」


 光は、確認済みの境界を越えた。


 人間側が「ここまで」と決めていた線を、自分から越える。


 観測員たちの間に緊張が走った。


 けれど誰も呼び戻さない。


「境界越え」


「記録」


「はい」


 光はさらに少し進み、そこで止まった。


 未確認区画。


 ただし現時点で危険値は低い。


「新しい場所?」


 若い観測員が言いかける。


 自分ですぐ苦笑した。


「……今いる場所ですね」


「はい」


 サーラも少し笑った。


     ◇


 昼食前、顔のない存在は今朝の八歩目から動いていなかった。


 子供は絵を描き終えたあと、その紙を棚の上へ置こうとして止まる。


「白い花の近く?」


「置きたい?」


「うん。でも、花が崩れたら紙に乗る?」


「可能性はあるね」


「汚れる?」


「色が付くかも」


「嫌?」


 自分に問いかける。


「……少し嫌。でも、近くに置きたい」


「じゃあ何か間に置く?」


 治療教師が提案する。


「薄い板を一枚挟めば、直接花の欠片が紙へ乗りにくくできます」


「それなら近く?」


「棚の同じ段には置けますよ」


 子供は少し考えた。


「そうする」


 薄い板を白い花と絵の間へ置く。


 絵は花から手の幅二つほど離れた場所。


「残すものを守る?」


「うん」


「でも絶対じゃない?」


「絶対ではありません」


「水かかったら?」


「濡れる可能性があります」


「火なら?」


「燃えます」


「破れたら?」


「壊れます」


 子供は少し嫌そうな顔をした。


「いっぱいある」


「壊れる理由?」


「うん」


「でも、できる範囲で守ることはできるよ」


「絶対に残すじゃなくて?」


「うん」


 子供は絵を見た。


「じゃあ、今できる守る」


「うん」


「それでいい」


 絵はそこに置かれた。


 白い花そのものではない。


 同じ形でもない。


 けれど、子供が白い花について今覚えているものを、自分で残そうとして作った最初の記録だった。


     ◇


 昼食には、昨日とは違う淡い紫色の果実が出された。


 子供は一口食べて、すぐ少し顔をしかめる。


「酸っぱい」


「昨日の橙より?」


「ずっと」


「嫌?」


「今はちょっと嫌」


「やめる?」


「一つは食べた。もういらない」


 子供は迷わず皿を少し遠ざけた。


「あとで食べる?」


「いらない」


「取っておかない?」


「うん」


 アリシアが少し意外そうに見ると、子供が気づいた。


「何?」


「昨日は、あとで食べるかもしれないって橙を残したでしょう?」


「今日は、あとで食べたいと思ってない」


「そっか」


「なくなっても?」


「この紫?」


「うん」


 子供は一瞬だけ考えた。


「なくなってもいい」


 言ったあと、少し不安そうに付け足す。


「あとで食べたくなるかもしれないけど」


「うん」


「でも今は、残したくない」


「分かった」


 治療教師が皿を下げる。


 子供はその動きを目で追った。


「あとで後悔するかも」


「するかもしれないね」


「でも、全部取っておかなくていい」


「うん」


「残したいものだけ?」


「そうしてもいいと思う」


「白い花は残したい」


「うん」


「箱は?」


 子供は少し考えた。


「……まだ分からない」


「うん」


「でも今は、捨てたくない」


「それでいいよ」


     ◇


 午後、西側の水没区画では追加の調査を行わず、代わりに過去の学院記録が洗い直されていた。


 古い帳簿。


 修繕記録。


 使われなくなった配線図。


 その中から、旧制御区画について一つの記述が見つかった。


「『西側水量補助制御室』」


 魔導具教師が古い紙を広げる。


「旧制御区画の正式名称?」


 副学院長が尋ねる。


「少なくとも、この記録が書かれた時期にはそう呼ばれていたようです」


「用途は?」


「貯水槽群の水量調整と、補助導線の切り替え」


「接続具は?」


「直接の記述はありません」


「一時保持?」


「それもなし」


 若い観測員が少し残念そうにする。


「じゃあ関係ない?」


「早い」


 自分で言った。


 副学院長が笑う。


「もう俺が言う必要ないな」


「今のは分かりました」


「なら続けろ」


 魔導具教師が別の行を読む。


「ただし、『不要導線の魔力抜き』という記述があります」


 空気が少し変わった。


「魔力抜き?」


「使用していない補助導線に残った魔力を、補助制御室側へ逃がす仕組みがあったようです」


「昨日の下部導線と一致する可能性は?」


「高いと思います」


「接続具を一時保持して、外部との接続を弱め、残った魔力を旧制御区画へ逃がす?」


 副学院長が図面を見ながら言う。


「一つの説明にはなるな」


「はい。ただし、古い扉の向こうにあるものが本当に接続具なら、ですが」


「そこはまだ未確認」


「はい」


 若い観測員が慎重に尋ねた。


「じゃあ、水没区画の先は、その魔力を逃がすための設備があった場所かもしれない?」


「可能性は上がった」


「行く理由も?」


 副学院長はすぐには答えなかった。


 数秒考える。


「昨日よりは強くなった」


「でも今すぐ?」


「そこまではない」


「反応が弱いから?」


「それもある。記録だけでもさらに調べられる可能性があるからだ」


「じゃあ、まだ待つ」


「今はな」


 少しずつ。


 人間側にも、進む理由が積み上がり始めていた。


 止まっていることそのものを守るのではない。


 必要性が高まれば、動く。


 ただ、その線を急いで越えない。


     ◇


 夕方。


 最後の水溜まりは、ほとんど消えていた。


 窓から見える石畳の窪みは濡れているものの、もう水面と呼べるほどの厚みはない。


 子供は窓の前に立っていた。


「なくなった?」


「水面は、ほとんど見えないね」


「触りに行かなかった」


「うん」


「後悔する?」


「今は?」


 子供はしばらく窓の外を見た。


「……少し」


「触りたかった?」


「うん。今見たら、触ってみたかったって思う」


「そっか」


「でも朝は、あとで決めるってした」


「うん」


「昼は絵描いてた」


「うん」


「今はもうない」


 子供の顔に寂しさが浮かぶ。


 白い花の欠片と似ている。


 あとから、やりたかったと思う。


 でも、そのときの状態には戻れない。


「昨日も後悔した」


「うん」


「今日も」


「うん」


「後悔、いっぱい増える?」


「生きてたら増えることはあると思う」


 子供は嫌そうな顔をした。


「嫌」


「うん」


「減らせない?」


「全部は難しいと思う。でも、できることはあるかもしれない」


「例えば?」


「本当に今やりたいことを、自分で確かめるとか。あとでやりたいなら、残せるものは残しておくとか」


「でも残せないのもある」


「あるね」


「じゃあ、絶対後悔しないは無理?」


「私は無理だと思う」


 子供は少し黙った。


「アリシアも後悔する?」


「するよ」


「いっぱい?」


「それなりに」


『それなりどころじゃないでしょう』


 ノアが床から口を挟む。


「余計なこと言わないで」


「何て?」


 子供が振り返る。


「アリシアは結構後悔するって」


『正しく訳したわね』


「ノアも?」


『するわよ』


「ノアもするって」


 子供は少し驚いた。


「猫も?」


『猫を何だと思ってるのよ』


「ノア怒ってる?」


「ちょっと」


 子供が少し笑う。


 その笑いが落ち着いたあと、もう一度庭を見る。


「水溜まり、なくなったの悲しい」


「うん」


「でも、今日触らなかった私が悪い?」


「子供はどう思う?」


 しばらく考える。


「……悪いじゃないと思う。でも、後悔はする」


「うん」


「悪くなくても後悔する?」


「あるよ」


「難しい」


「うん」


「後悔したら、悪いことしたって思ってた」


 その言葉に、アリシアは子供を見る。


「今は?」


「違うかも」


「どう違う?」


「選んだあとに、違う方も欲しくなることある」


「うん」


「でも、両方できないときある」


「そうだね」


「橙、治療教師にあげたあと私が食べるはできない」


「うん」


「水溜まり触りに行ったら、ここで絵描いてなかったかもしれない」


「そうだね」


「全部は選べない」


「うん」


 子供は窓へ額がつかないくらいまで顔を近づけた。


「じゃあ、後悔することがあるのは、選んだってこと?」


 アリシアは少し考えた。


「そういう後悔もあると思う」


「全部?」


「全部じゃないよ」


「うん」


「でも、どちらかを選んだことで、もう片方ができなかったときに生まれる後悔はあると思う」


 子供は長く窓の外を見た。


「今日、絵描いた」


「うん」


「水溜まり触らなかった」


「うん」


「今は両方ある。絵描いてよかったも、触りたかったも」


「うん」


「同時にある」


「そうだね」


「じゃあ、それでいい」


 少し寂しそうなまま。


 それでも、子供はそう言った。


     ◇


 夕食前。


 顔のない存在が八歩目の位置から、ゆっくり立ち上がった。


 子供はすぐ気づいた。


「また歩く?」


 人影は窓へは向かわなかった。


 寝台側へ一歩。


 さらに一歩。


 子供は数えない。


 人影は途中で止まり、今度は棚の方へ頭を向けた。


 そこには白い花。


 小皿。


 そして今日、子供が描いた絵が置かれている。


「あ」


 子供が小さく声を出した。


「見てる?」


 返事はない。


 人影の顔には目がない。


 けれど頭の向きは、確かに棚の方だった。


「花?」


 反応なし。


「絵?」


 やはり分からない。


 子供は少し考えた。


「近くに持ってく?」


 アリシアは答えず、子供を見る。


 子供自身もすぐ首を横へ振った。


「違う。この人が見たいか分からない」


「うん」


「でも、私は見てほしい」


 少し驚く。


 昨日、窓へ行ってほしいと初めて自分の希望を伝えた。


 今日もまた、子供は自分が望んでいることを隠さなかった。


「私は、この絵見てほしい」


 顔のない存在へ向けて言う。


「でも、見なくてもいい」


 人影は動かない。


 胸の十一の光のうち、一つがわずかに明るくなる。


 子供はそれを見ても、原因にはしなかった。


「私は言った」


「うん」


「持っていかない」


「うん」


「見たかったら、自分で近づく?」


「そうするかもしれないし、しないかもしれないね」


「うん」


 人影は棚の方を向いたまま、しばらく立っていた。


 やがて寝台へ戻る。


 子供は少し残念そうだった。


「見なかった?」


「分からないね」


「近づかなかった」


「うん」


「でも私は、見てほしかった」


「うん」


「言えた」


「うん」


 それで終わりにした。


     ◇


 夜。


 子供は木箱の前へ行かなかった。


 留め具は昨日と違う位置のまま。


 今日一日、誰も触れていない。


「今日は箱、やらなかった」


 寝台へ入る前に子供が言った。


「そうだね」


「昨日は、今日またやるかもしれないって思ってた」


「うん」


「でも今日は絵描いた。水見た。花見た」


「うん」


「箱はやらなかった」


「うん」


「明日でもいい?」


「もちろん」


「明日、やりたくなくても?」


「いいよ」


「箱が変わったら?」


「変わるかもしれないね」


「金具、錆びる?」


「すぐには大きく変わらないと思う。でも絶対ではないかな」


 子供は少し考えた。


「それでも今日はやらない」


「うん」


 寝台へ入る。


 隣には顔のない存在。


 棚には白い花。


 その隣には、子供が描いた白い花の絵。


 紙の中では、花弁はまだ白かった。


「アリシア」


「うん」


「絵、残したい」


「うん」


「明日破れたら嫌」


「うん」


「ずっと残したい」


「うん」


「でも、ずっとは無理かも」


「そうだね」


「それでも描いた意味ある?」


 アリシアは少し考える。


「子供は、今日描いてどうだった?」


「……嬉しかった」


「花、前の白いとき思い出した?」


「うん」


「なら、少なくとも今日描いた意味はあったんじゃないかな」


「明日なくなっても?」


「今日あったことまではなくならないよ」


 子供は少し黙った。


「何でもそう?」


「何でも、とまでは言えないけど」


「水溜まりも?」


「今日まで見てたね」


「花も?」


「うん」


「橙も?」


「うん」


「この人が八歩行ったのも?」


「うん」


「東の光も?」


「記録には残ってる」


「西の扉も?」


「まだ閉じてるね」


 子供は少し笑った。


「いっぱい残し方ある」


「そうだね」


「物で残す。紙で残す。覚える。記録する」


「うん」


「人に話すも?」


「それもあるね」


「全部同じ?」


「違う」


 子供は満足そうに頷いた。


「白い花は、花もある。絵もある。私が覚えてるのもある」


「うん」


「花が全部なくなっても?」


「絵と記憶は残るかもしれない」


「絵がなくなっても?」


「記憶が残るかもしれない」


「忘れても?」


 少し難しい問い。


 アリシアは静かに答えた。


「一緒に見ていた人が覚えているかもしれない」


 子供の目が動く。


「アリシア?」


「うん」


「治療教師も?」


「たぶん」


「セレナも?」


「見てたからね」


「ノアも?」


『忘れるわけないでしょう』


 アリシアが笑った。


「ノアは忘れないって」


「じゃあ、私だけじゃない」


「うん」


 子供はしばらく何も言わなかった。


 やがて布団へ頬を少し沈める。


「残すって、物を止めるだけじゃない」


「うん」


「誰かと覚えるもある」


「そうだね」


 胸の奥に、小さな安堵が生まれたようだった。


「じゃあ、白い花が変わっても……嫌だけど、全部なくなるじゃない」


「うん」


「嫌なのは残る?」


「それも残るかもしれない」


「嬉しいも?」


「うん」


「両方?」


「両方」


 子供は目を閉じた。


「おやすみ」


「おやすみ」


     ◇


 その夜、西側地下区画では、新しい作業は行われなかった。


 水没区画の排水も。


 古い扉の開扉も。


 石室下部の導線への追加刺激もない。


 ただし、古い記録から見つかった「不要導線の魔力抜き」という記述によって、石室候補から旧制御区画方向へ続いていた魔力の流れには、初めて一つの具体的な用途候補が生まれていた。


 まだ確定ではない。


 古い扉の向こうにあるものも見ていない。


 それでも、人間側が次に何を調べるべきかは、昨日より少しだけ明確になっている。


 東側では、名前のない光が人間側の安全確認済み範囲を越え、未確認区画へ入った。


 しかし、危険反応はない。


 人間側は光を戻さず、必要な距離を保ちながら観測だけを続けている。


 生活観測区画では、最後の水溜まりから水面が消えた。


 白い花の小皿には、新しい亀裂の入った花弁がある。


 そして棚には、今日初めて子供が描いた白い花の絵が置かれていた。


 残したいと思ったものほど、変わってほしくないと思うことがある。


 触らず。


 守り。


 小皿へ入れ。


 紙へ描き。


 名前を書き。


 できることを増やせば、ずっと同じ形で残せるような気がすることもある。


 けれど、残すことと、止めることは同じではない。


 花は乾く。


 紙も古くなる。


 水は消える。


 味も変わる。


 人の記憶さえ、少しずつ形を変える。


 それでも、何も残せないわけではなかった。


 形が変わる前の姿を絵にすることができる。


 見たことを誰かへ話すことができる。


 誰かと同じ時間を過ごし、それぞれの記憶の中へ少しずつ違う形で残すこともできる。


 残すとは、変化を完全に止めることではないのかもしれない。


 変わっていくものの中から、自分が大事だと思った何かを、別の形へ渡していくことも含まれている。


 子供はまだ、そのすべてを理解したわけではない。


 ただ今夜は、ほとんど茶色になった本物の花と、その横に置かれた白い花の絵が、同じ棚の上にあった。


 どちらが本物だから大切なのでも。


 どちらが長く残るから正しいのでもない。


 今日、子供が残したいと思ったものが、それぞれ違う形でそこにある。


 そしてそのことを、同じ部屋にいる誰かも覚えている。


 今夜は、それで十分だった。

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