第135話 残したものを誰かと分けたからといって、自分の分まで減るわけではない
翌朝、生活観測区画の窓の向こうから、水溜まりは完全に消えていた。
昨日まで最後まで水を残していた石畳の窪みも、今朝は周囲よりわずかに色が濃いだけで、水面らしい光を返していない。夜のあいだにも風が吹いていたらしく、庭の隅には乾いた葉が幾つか寄り集まり、植え込みの枝先も昨日とは少し違う方向へ傾いていた。
空はよく晴れていた。
薄い雲が高いところをゆっくり流れ、窓から入り込む朝日が室内の奥まで届いている。その光は棚の上にも伸び、そこへ置かれた一枚の紙を淡く照らしていた。
昨日、子供が描いた白い花の絵だった。
本物とは少し違う形をした花弁。均等ではない輪郭。白い紙の中でも白い花だと分かるように、周囲へ薄く付けられた灰色の影。その下には、まだ書き慣れていない手で、一文字ずつ慎重に真似した「白い花」という文字が並んでいる。
本物の花も、その絵の隣に今もあった。
ただし、昨日よりまた少しだけ形を失っている。
残っていた花弁の一枚は夜のあいだに落ち、小皿の縁へ半分だけ引っかかっていた。細い亀裂が入っていた別の花弁も、線が少し深くなったように見える。誰も触れてはいない。それでも変化は止まっていなかった。
アリシアは目を覚ましてからしばらく、本物の花と絵を見比べていた。
昨日までなら、どちらの方が長く残るのかを考えたかもしれない。
けれど今朝は、どちらも昨日とまったく同じではないことの方が先に目に入った。
本物の花はさらに乾いている。
絵の方は形そのものこそ変わっていないが、朝日の当たり方が違うだけで、昨日の夕方に見たときとは少し印象が変わって見えた。
『朝から難しい顔してるわね』
床に敷いた無地の布から、ノアの眠たそうな声が飛んできた。
「難しくないよ」
『じゃあ、その眉間の線は何?』
「考えてただけ」
『それを難しい顔って言うのよ』
「今日は何割?」
『今日は採点してないわ』
「昨日もそう言ってた」
『採点を欲しがる癖が直ったら再開してあげる』
「別に欲しがってない」
『今、自分から聞いたでしょう』
返す言葉がなくなり、アリシアは少しむっとしたまま机へ視線を移した。
そこには今朝も、夜間の報告書が二枚置かれている。
「読む」
『宣言しなくていいわよ』
アリシアはノアを一度だけ睨んでから、まず西側の記録を開いた。
昨日見つかった古い記録によって、これまで「旧制御区画」と仮称していた場所が、ある時期には正式に「西側水量補助制御室」と呼ばれていたことが判明している。そこでは貯水槽群の水量調整だけでなく、「不要導線の魔力抜き」と呼ばれる処理も行われていた可能性が高い。
水没区画にはまだ手を付けていない。
排水操作も行われていなかった。
昨夜、新しい微弱な魔力反応が一度だけ確認されたものの、継続はしていない。古い扉も閉じたままで、石壁から離れた名前のない光にも大きな位置変化はなかった。
次に東側。
安全確認済み範囲を越え、未確認区画へ入った名前のない光は、一晩のあいだ大きく移動していない。
ただし、昨夜遅く、その近くにある小さな設備空間らしき空洞から、微弱な魔力反応が一度だけ拾われていた。
西側旧制御区画側の反応とは波形が異なる。
これまで確認されている第四の声とも一致しない。
生命反応はなく、危険値も低い。
「また反応……」
『どこ?』
「東。壁の向こうの小さい空間」
『また「つながった」とか思ってないでしょうね』
「思ってないよ」
『本当に?』
「西にも細い導線があって、東にも設備空間があるから、ちょっと似てる気がしただけ」
『十分危険な始まりね』
「似てるって思うくらいはいいでしょ」
『いいわよ。似ていると感じることと、同じものだと決めることを混ぜなければ』
「分かってる」
アリシアは報告書を閉じた。
そのとき、寝台から小さな布擦れの音がした。
子供が目を覚ました。
今朝は最初に窓へ顔を向けた。
そこに昨日まであったものを探すように目を細め、しばらく庭の同じ場所を見つめている。
「水、ない」
「うん」
「全部?」
「少なくとも、ここから見える範囲にはもう水面はないね」
子供はしばらく窓の外を見つめていた。
「昨日、ほとんどなくなってた」
「そうだね」
「今日、ない」
「うん」
「……触らなかった」
最後の言葉には、まだ小さな寂しさが残っていた。
アリシアはそこで「でも昨日は絵を描いたでしょう」とは言わなかった。
別のことを選んだ事実は、触れなかった後悔を消すための道具ではない。
「今は、どんな感じ?」
「……触りたかった」
「そっか」
「でも昨日も言った。絵描いてよかったもある」
「うん」
子供は布団の上へ視線を落とし、少し考えるように指先を動かした。
「まだ両方ある」
「そうだね」
「後悔、朝になっても残った」
「残ることもあるよ」
「ずっと?」
「ずっと残るものもあるかもしれないし、時間が経つうちに少し形が変わっていくものもあると思う」
「後悔も変わる?」
「うん。変わることはあると思う」
子供は布団を押し下げながら、少し首を傾げた。
「今日の後悔と昨日の後悔、同じ?」
「子供はどう感じる?」
しばらく窓を見つめたあと、子供はゆっくり言葉を探した。
「昨日は、水がなくなる前に触ればよかったって思った。今日は、もうないから……触れなかったんだって思う」
「うん」
「昨日の方が、まだ間に合った?」
「夕方にはもうほとんど水面はなかったけど、濡れた石には触れられたかもしれないね」
「今日は乾いてる」
「そうだね」
「だから、同じじゃない」
「うん」
子供は少し息を吐いた。
「後悔も、今日の後悔」
昨日の気持ちを、そのまま今日へ運んだのではない。
同じ出来事を思い出していても、今日の自分が感じているものは少し違う。子供は自分の言葉で、その違いを拾い始めていた。
それから隣の寝台へ視線を移す。
顔のない存在は、今朝も横になっている。
「おはよう」
胸に並ぶ十一の光へ声をかける。
子供は急かさず待った。
しばらくして一つ。
少し遅れて、もう一つ。
今朝は二つだけが淡く明るさを増した。
「今は二つ」
昨日はどうだったかを口にせず、子供はそのまま視線を外した。
布団から出ると、足裏を自分で見て、赤みや傷がないことを確かめる。指で軽く押し、足首を回し、床へ立って数歩歩いた。
「痛くない」
「あとでセレナにも見てもらう?」
「見るだけなら」
「分かった」
足の確認を終えた子供は、棚へ向かった。
最初に見るのは、昨日描いた絵だった。
「残ってる」
「うん」
次に本物の花を見る。
「また落ちた」
「夜のあいだみたいだね」
小皿の縁へ半分だけ引っかかった花弁を、子供はじっと眺めた。
「拾う?」
自分自身へ尋ねるような声だった。
しばらく考えたあと、首を横へ振る。
「今はしない。落ちたままでも、半分は小皿に入ってる」
「そうだね」
「あとで落ちるかも」
「あると思う」
「なくなるかも」
「そうなる可能性もあるね」
子供の表情が少しだけ苦くなる。
昨日までなら、「なくなるかもしれない」と聞いた瞬間、急いで何かをしなければならない気持ちに引っ張られていたかもしれない。
けれど今朝は、少し黙ったあとで絵の方へ目を向けた。
「でも今は、絵見たい」
「うん」
子供は紙を両手で持ち上げた。
昨日描いた白い花。
「これ、誰かに見せてもいい?」
「もちろん」
「誰に?」
「子供が見せたい人に」
「治療教師?」
「いいと思うよ」
子供は少し考える。
「昨日、描くの見てた」
「うん」
「じゃあ、もう見てる」
「そうだね」
「学院長は?」
「絵そのものは、まだ見てないと思う」
「見せる?」
「見せたい?」
子供は紙へ目を落とした。
歪んだ文字。
形の揃っていない花弁。
途中で消さず、そのまま残した線。
「……少し恥ずかしい」
「うん」
「でも、見せたいもある」
「どっちが今は大きい?」
子供は少し迷ったあと、絵を胸の前へ持ち直した。
「見せたい方が、少し大きい」
「じゃあ、聞いてみる?」
「うん」
子供は扉へ向いた。
「学院長?」
「いるぞ」
「絵、見せてもいい?」
扉の外で、ほんの一拍だけ間があった。
「もちろんだ」
「入る?」
「子供がいいなら」
子供は少し考えた。
学院長が室内へ入ることには以前より慣れてきた。
けれど、慣れたからといって毎回同じ距離でいいわけではない。
「……今日は入口まで」
「分かった」
扉がゆっくり開く。
学院長は敷居を越えず、その外側で止まった。
子供は絵を持ったまま少し近づく。
それでも扉のすぐそばまでは行かない。
自分が安心できるだけの距離を残した場所で紙を掲げた。
「見える?」
「見える」
「白い花」
「ああ」
「昨日描いた」
「聞いている」
「本物と違う」
「そうだな」
子供の表情が少し曇った。
学院長はその変化に気づいたらしく、すぐに続ける。
「でも、俺にはちゃんと白い花だと分かる」
「どうして?」
「名前が書いてあるからだけじゃない。花の周りに影を付けて、白いところが見えるようにしたんだろう?」
子供の目が少し大きくなった。
「分かった?」
「うん」
「昨日、考えた」
「いい方法だな」
嬉しそうに笑いかけた子供は、すぐに少し照れたように紙を下げた。
「でも花弁の数、合ってるか分からない」
「それでもいいんじゃないか」
「記録なのに?」
「学院の正式な観測記録じゃないんだろう?」
「私の」
「なら、子供が覚えている白い花でいい」
子供は少し笑った。
「アリシアも同じ言った」
「そうか」
それから、ふと気づいたように学院長を見る。
「見せたら、私の絵じゃなくなる?」
学院長が少し目を瞬いた。
「どうしてそう思った?」
「学院長も見たから」
「見ただけなら、絵の持ち主は変わらないと思うぞ」
「でも、学院長の中にも残る?」
「たぶんな」
「じゃあ、増える?」
「何が?」
「白い花の絵を知ってる人」
学院長は少し考えてから頷いた。
「増えるな」
「でも、私の分は減らない?」
「減らない」
子供は紙を見た。
「人に分けたら減るものもある?」
「あるな」
「食べ物?」
「食べ物は分けたら、自分の分は減る」
「紙は?」
「渡せば手元からなくなる」
「見せるだけなら?」
「絵は子供のところに残る」
子供は少し考えた。
「覚えてることも?」
「話したからって、子供の記憶がその分減るわけじゃないと思う」
「じゃあ、分けても減らないものがある」
「ああ」
「見せたら、学院長も覚えるかもしれない。でも絵は私のところにある」
「そうだな」
子供は満足したように頷いた。
「じゃあ、見せてよかった」
「ありがとう」
「ありがとう?」
「俺に見せてくれたから」
子供は少し戸惑ったように絵を見下ろした。
「私の絵なのに?」
「だからだ。子供のものを、誰に見せるかは子供が決められる。その中で俺に見せるって選んでくれたから、ありがとうだ」
子供はしばらく黙った。
「見せない人がいてもいい?」
「もちろん」
「ノアは?」
『私は昨日から見てるわよ』
アリシアが笑いながら訳す。
「ノアは、昨日から見てるって」
「知ってる」
「どうして?」
「ここにいたから」
『当然でしょう』
子供は小さく笑い、絵を大事そうに胸の前へ戻した。
◇
同じ頃、西側地下区画では、水没区画へ直接人を入れずに確認できる範囲を広げるため、新しい測定具が運び込まれていた。
細長い棒の先へ小型の感知盤を取り付け、水面の上から沈んだ階段の先へ伸ばす。
人間自身が水へ入らなくても、少し奥の様子を確かめるための道具だった。
「届くのは?」
副学院長が尋ねる。
「およそ十歩先までです」
魔導具教師が感知盤の固定を確認しながら答えた。
「階段の底までは?」
「難しいと思います」
「それでいい。見られるところまでで十分だ」
副学院長は水面から少し距離を取り、作業を見守った。
長い棒がゆっくりと水の上へ伸びていく。
先端の感知盤が階段の上空を通過し、少しずつ暗い奥へ近づく。
「水深、増えています」
「どのくらいだ?」
「今の位置で腰程度。さらに先は……階段がもう一段下がっています」
「底は?」
「かなり堆積しています。泥と小さな瓦礫が多い」
「導線は?」
測定具を操作している術師が少し集中し、目を細めた。
「壁沿いに一本あります。昨日推測した方向と一致」
「生きているか?」
「反応はほとんどありません」
「旧制御区画まで続いている?」
「ここからではまだ確認できません」
若い観測員が、少し身を乗り出して水面の向こうを見る。
「もっと棒、伸ばせます?」
「物理的には可能です」
副学院長が彼へ目を向けた。
「必要か?」
「もう少し見たいです」
「理由は?」
若い観測員は一瞬黙り、自分で苦笑した。
「……気になるから」
「却下」
「ですよね」
周囲から小さな笑いが起こった。
「だが、今の測定だけでも既存通路が完全に潰れていない可能性は高くなった」
魔導具教師が地図へ位置を書き込む。
「水を抜ければ、人が通れるかもしれません」
「ただし排水先が未確認」
「はい」
「なら、排水路の出口を先に確認する」
副学院長は古い地図へ視線を落とした。
「記録に残っていないか?」
「引き続き探しています」
「別区画側から出口だけ確認できるなら、その方が先だ」
若い観測員が頷く。
「中に入る前に、外から確認できることをやる」
「そういうことだ」
そのとき、伸ばしていた感知盤がわずかに震えた。
「魔力反応」
術師の声色が変わる。
副学院長の顔から笑みが消えた。
「位置は?」
「水中ではありません。壁側です」
「昨日確認した反応と同じか?」
「波形が……似ています」
魔導具教師が測定板へ顔を寄せる。
「旧制御区画方向で昨日拾ったものに近い。ただし、さらに弱い」
「継続している?」
「一度……今、二度目です」
副学院長はすぐに測定盤へ視線を落とした。
一定ではない。
間隔も揃っていない。
「生命反応は?」
「ありません」
「石室側の名前のない光は?」
通信がつながる。
『位置変化なし。接続値も低いままです』
「なら、水没区画側反応として別に記録しろ」
「はい」
若い観測員が少し慎重に尋ねる。
「先へ進む理由……少し増えました?」
「何の理由だ?」
「旧制御区画へ近づく理由です」
副学院長は数秒だけ考えた。
「増えた」
若い観測員の顔がわずかに明るくなる。
「じゃあ、排水を?」
「まだそこまでは増えていない」
「あ……」
「理由にも強さがある。一つ増えたから、すぐ次の作業へ移るとは限らない」
「少しずつ、ですね」
「ああ。今はそれでいい」
◇
朝食が始まる頃には、子供は白い花の絵を自分の席の横へ置いていた。
今日の食事は温かな麦粥と煮た根菜、それから小さく切られた白い果実だった。
子供は見慣れない皿へ少し顔を近づける。
「前のやわらか白?」
「似ていますが、別のものですよ」
治療教師が答える。
「甘い?」
「かなり控えめです」
「酸っぱい?」
「ほとんどありません」
「匂いは?」
「弱いですね」
子供は一切れ取って口へ入れた。
しばらくゆっくり噛む。
「味、薄い」
「嫌?」
「嫌じゃない。でも、好きも小さい」
「どのくらい食べる?」
「今は二つ」
二つ目を食べたところで、皿へ手を伸ばすのをやめた。
「名前は?」
アリシアが尋ねる。
子供は果実を見ながら少し考えた。
「白薄」
「味が薄いから?」
「うん」
「白い花も白だね」
その言葉で、子供は棚へ目を向けた。
「白い花は今、白くない」
「そうだね」
「でも白い花」
「うん」
「白薄は、白いから白薄?」
「子供がそう決めたなら」
「あとで黄色くなったら?」
アリシアは笑いそうになり、少しだけ口元を押さえた。
「食べ物だから、その前に食べると思うけど」
「もし残したら?」
「時間が経って色が変わることはあるかもしれないね」
「じゃあ、そのときも白薄?」
「子供はどうしたい?」
「……分からない」
「なら、今決めなくてもいいね」
「うん」
子供は麦粥を食べながら、何度か絵へ視線を向けていた。
少しして、また扉へ顔を向ける。
「学院長」
「どうした?」
「絵、誰かに話してもいい?」
「誰に?」
「サーラ」
アリシアは少し意外に思って、子供を見る。
「どうしてサーラ?」
「光のこと書く人」
「うん」
「いっぱい記録してる」
「そうだね」
「私の絵も、見たいかな」
学院長はすぐに答えなかった。
「それはサーラ本人に聞かないと分からないな」
「聞ける?」
「聞けるぞ」
「今?」
「東側の観測が落ち着いていればな」
子供は少し考えた。
「忙しかったら、あとででいい」
「分かった。まず聞いてみる」
「見たくないって言ってもいい?」
「もちろんだ」
それを聞くと、子供は少し安心したようだった。
「私が見せたい。でも、サーラが見たいかは別」
「そうだな」
「お願い?」
「ああ。お願いだ」
昨日、顔のない存在へ「窓まで行ってほしい」と伝えたときと少し似ている。
自分はしてほしい。
けれど、相手が同じように望んでいるとは限らない。
してほしいと言うことと、しなければならないことにするのは違う。
子供はその区別を、少しずつ別の関係の中にも持ち込み始めていた。
◇
昼前。
東側未確認区画では、一晩ほとんど位置を変えなかった名前のない光が、再びゆっくりと動き始めた。
「移動確認」
観測員の声に、サーラが椅子から立ち上がる。
「方向は?」
「奥側です。ただし、昨夜反応を拾った小設備空間の方向ではありません。通路沿いです」
「遠隔感知を先行」
「はい」
人間側の安全確認が十分ではない区画を、光はゆっくり進んでいく。
壁越しに弱い感知が広げられる。
「床は安定しています」
「天井は?」
「大きな崩落危険なし」
「魔力反応は?」
「残留反応が少し。ただし、昨日の小空洞側とは別です」
サーラは短く頷いた。
「追跡距離を保ってください。近づきすぎないように」
「はい」
若い観測員が地図へ新しい位置を書き込む。
「最近、光の方が人間より先へ行くこと増えましたね」
「そうですね」
「前は、人間側の安全確認済み範囲で待ってた感じだったのに」
サーラの視線が上がる。
「待っていた?」
「あ」
自分で気づいたらしい。
若い観測員は少し頭を掻いた。
「……人間側から見れば、そこで止まっていた。待っていたかどうかは分からない」
「はい」
「もう口癖みたいになってきました」
「悪い口癖ではないでしょう」
光はさらに少し進む。
やがて、古い壁の一部が崩れて通路幅が狭くなっている場所の手前で止まった。
「人間は通れる?」
「横向きなら、ぎりぎり。ただし装備を持った状態ではかなり厳しいです。向こう側の空間は感知できます」
「光は?」
「今、狭窄部の手前です」
若い観測員が、反射的に言った。
「広げます?」
直後、自分で口を閉じる。
サーラは答えを急がず、彼が続きを言うのを待った。
「……光が通りたいのか、まだ分からない」
「はい」
「人間側が観測のために通る必要があるなら、補強や拡張を検討する。でも、光のためにはしない」
「その通りです」
狭い部分の向こうには通路が続いている。
人間側はまだ入らない。
光も、今は手前で止まっている。
「また途中ですね」
若い観測員が小さく言う。
サーラは地図へ印を付けた。
「今いる場所です」
「はい」
◇
昼食前、サーラから返事が届いた。
学院長が扉の外から伝える。
「サーラが、絵を見たいそうだ」
子供の顔が少し明るくなった。
「本当?」
「ああ。ただ、今は東側から長く離れにくいから、複写でよければ先に見せてほしいと言っている」
「複写?」
「同じように写した紙を作ることだ」
子供の表情が少し変わった。
「これを渡すんじゃない?」
「渡さなくていい」
「同じ絵が増える?」
「かなり似たものを、別の紙へ写すことができる」
「コピー?」
「そういうものだな」
子供は自分の絵を見た。
「私のは残る?」
「残る」
「サーラにも一枚できる?」
「ああ」
「同じ?」
「形はかなり近くなる。でも、紙そのものは別だ」
子供はしばらく考えた。
「……増える」
「そうだな」
「私の分、減らない。でもサーラも見られる」
「ああ」
少し嬉しそうに絵を胸の前へ持った。
「やる」
「分かった」
そこで急に表情が真面目になる。
「でも、勝手にいっぱい作らない?」
学院長の声も少しだけ硬くなった。
「作らない。サーラへ見せる一枚だけだ」
「他の人が欲しいって言ったら?」
「その都度、子供に聞く」
「私が嫌って言ったら?」
「作らない」
「分かった」
子供の肩から少し力が抜けた。
しばらくして、複写用の小さな魔導具が室内へ運ばれてくる。
治療教師が床へ置き、少し離れたまま説明した。
「この板の上へ絵を置きます。その上から弱い光を当てると、隣に置いた別の紙へ形を写せます」
「絵、壊れない?」
「普通に使えば大丈夫です。ただ、絶対とは言えません」
子供の表情が少し強張った。
「失敗したら?」
「紙が少し曲がったり、端が傷む可能性はあります。でも、強く押さえたりする道具ではありません」
アリシアは子供の顔を見る。
「やめてもいいよ」
「……少し怖い」
「うん」
「でもサーラに見せたい」
「うん」
「壊れるかもしれない」
「可能性は低いと思う。でも、ゼロだとは言えないね」
子供は絵を胸の前へ引き寄せた。
「じゃあ、複写しないで、あとで私が持って見せに行く?」
「それもできるよ」
「東側、遠い」
「今すぐじゃなくてもいい」
子供は長く迷った。
今すぐ見せたい。
でも、絵が傷む可能性は怖い。
昨日までなら、どちらか一方を正しい選択として決めようとしたかもしれない。
「今すぐ見せたい?」
アリシアが聞く。
「少し」
「待てる?」
「……待てる」
「じゃあ、どうしたい?」
子供は絵を胸元へ戻した。
「今日は複写しない」
「分かった」
「あとで、私がこの絵をサーラに見せる」
「うん」
「本物の絵」
自分で言ってから眉を寄せる。
「花の本物じゃない」
「子供が描いた、この一枚ってことだね」
「うん。これを見せたい」
「分かった」
子供は少しだけ笑った。
「減らない方法あった。でも、今日は使わない」
「どうして?」
「壊れるの少し怖い。それより、あとで私が持って見せたい」
「そっか」
「サーラ、待ってくれる?」
学院長が答える。
「聞いてみる」
少しして、通信の返事が届いたらしい。
「『もちろん』だそうだ」
子供は嬉しそうに絵を抱えた。
「じゃあ、あとで」
あとで。
少し前までは、子供にとってその言葉には怖さがあった。
あとでにしたものが、同じ状態で残っているとは限らない。
なくなることもある。
変わることもある。
けれど全部の「あとで」が同じではない。
相手と約束して待ってもらえる「あとで」もある。
それを子供は、今日また一つ知った。
◇
午後、西側では古い学院記録の中から、排水路について新しい記述が見つかった。
「出口の記録、ありました」
魔導具教師が資料を持って仮設観測室へ入る。
副学院長が顔を上げた。
「どこだ?」
「西側外縁の旧排水坑です。現在は地上へ直接つながっていませんが、途中で別の地下水路へ合流しているらしい」
「現存確認は?」
「まだです」
「旧排水坑側から調べられるか?」
「可能性はあります。水没区画へ入らずに、排水路の状態を確認できるかもしれません」
副学院長は地図を広げた。
「距離は?」
「かなり遠回りです。ただし、安全確認済み区画を長く使えます」
「必要人員は?」
「三人で十分です」
若い観測員が少し嬉しそうに言った。
「進む理由、増えましたね」
「排水する理由ではなく、排水路を調べる理由だ」
「はい」
「混ぜるなよ」
「分かってます」
副学院長も少し笑った。
「なら旧排水坑側を確認する。ただし今日は入口までだ」
「そこでも止まるんですか?」
「時間が遅い」
「ああ……」
「止まる理由は一つじゃない」
「本当に難しいですね」
若い観測員が頭を掻く。
隣で魔導具教師が笑った。
「全部同じなら楽なんですがね」
「楽なら、ここまで問題になってない」
副学院長は資料を閉じた。
「準備だけ進める。明日の朝、旧排水坑側から確認する」
西側でも、人間側は少しずつ次の場所へ向かう準備を始めていた。
◇
午後の生活観測区画では、顔のない存在が朝からまだ寝台を出ていなかった。
子供は何度か様子を見たものの、起こそうとはしない。
「今日は歩かないかも」
「そうかもね」
「昨日は八」
「うん」
「今日は今、寝台」
「そうだね」
「お願いしない」
「窓へ行ってほしいって?」
「うん。昨日は言った」
「今日は言っちゃ駄目?」
子供は少し考えた。
「違う。今日は今、言いたくない」
「そっか」
「昨日言えたからって、毎日言わなくていい」
「うん」
「言いたい日だけ?」
「そうしてもいいと思う」
子供は白い花の絵を見る。
「見せたいも毎日じゃない?」
「うん」
「今日は学院長に見せた。サーラにもあとで見せる」
「そうだね」
「セレナは?」
少し離れたところにいるセレナへ目を向けた。
セレナは視線を合わせるだけで、先に「見たい」とは言わない。
子供の方から尋ねた。
「見たい?」
セレナはすぐには答えず、少し考えてから口を開いた。
「見せていただけるなら、見たいです」
「見なくてもいい?」
「もちろんです」
子供は少し笑った。
「じゃあ見せる」
セレナはいつもの距離を守った。
子供が絵を持って少し前へ出る。
「ここから見える?」
「はい」
「白い花」
「よく分かります」
「本物と違う」
「それでも、あなたが見ていた白い花なんですね」
「うん」
セレナはしばらく絵を見てから、静かに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「またありがとう」
「見せてもらったので」
「学院長も言った」
「そうですか」
子供は少し照れたように絵を胸元へ戻した。
「見せたら、みんなありがとうって言う?」
「必ずではありませんよ。私は、見せてもらえて嬉しかったので言いました」
「嬉しい?」
「はい」
子供は紙へ視線を落とす。
「私も、見てもらって少し嬉しい」
「それなら、よかったです」
少しして、子供が首を傾げた。
「嬉しい、分けた?」
セレナが目を瞬く。
「そうかもしれませんね」
「私の嬉しい、減った?」
「どう感じますか?」
子供は胸の中を確かめるように少し黙った。
「……減ってない」
「私の嬉しいは増えました」
子供の表情が、少し明るくなった。
「じゃあ、増えた」
「そうですね」
アリシアは少し離れたところで、そのやり取りを静かに聞いていた。
物を分ければ減ることがある。
果実を渡せば、自分の手元からなくなる。
焼き菓子を割れば、一人分は小さくなる。
けれど、見せること。
話すこと。
同じものを覚えること。
嬉しいと感じたことを誰かと共有すること。
そういうものは、渡した分だけ自分から削られていくとは限らない。
◇
夕方前。
東側の名前のない光が、狭くなった通路の手前から再び動いた。
「移動」
観測員の声に、サーラがすぐ立ち上がった。
「方向は?」
「狭窄部へ近づいています」
壁の一部が崩れ、人間なら横向きにならなければ通れないほど狭くなっている区間。
人間側はまだそこを広げていない。
光はゆっくりと隙間へ近づいた。
「接続値は?」
「低いままです」
「危険反応?」
「ありません」
光の輪郭の一部が、壁の狭い隙間へ重なる。
若い観測員が思わず身体を前へ傾けた。
「通れる?」
「分かりません」
サーラは距離を保ったまま見守る。
光の輪郭が、少しだけ細くなる。
「一部が入りました」
「壁側の反応は?」
「ありません」
さらに少し。
名前のない光は、人間なら身体を横へしなければ進めない隙間へ、自分の輪郭をわずかに変えながら入っていく。
「輪郭変化を記録」
「接続値は上がっていません」
「人間側はそのまま」
「はい」
光の半分ほどが向こう側へ移ったところで、一度止まった。
若い観測員が息を潜める。
「引っかかった?」
サーラは隙間の向こうを見たまま答えた。
「そう見えるだけかもしれません」
「あ、はい」
数呼吸。
光はその状態を保った。
それから再び、ゆっくり動く。
細い隙間を抜け、輪郭の残りも向こう側へ移っていく。
やがて全体が狭窄部を通過した。
「完全通過」
観測室の中に、小さなざわめきが広がった。
人間側も物理的には通れなくはない。
しかし、安全装備や測定器を持って抜けるには狭すぎる。
「追いますか?」
「今は追いません」
サーラは迷わず答えた。
「向こう側は遠隔感知できますか?」
「ある程度は」
「ならまず、それで観測を続けます」
若い観測員が地図へ新しい印を書き込む。
「光だけ先に行った」
「そうですね」
「人間、置いていかれた?」
サーラが彼を見る。
「追いかける約束をしていましたか?」
「……してません」
「なら、置いていかれたとは言えません」
「なるほど」
若い観測員は少し苦笑した。
「でも、人間側からは見えにくくなりました」
「はい。それは事実です」
直接目視はできなくなった。
けれど遠隔感知には反応が残っている。
光は狭窄部の向こう側へ少し進み、そこでまた止まった。
「視認できない。でも感知ではいる」
若い観測員が口の中で確認するように言う。
少し考えてから続けた。
「見えなくても、いなくなったわけじゃない」
サーラが静かに頷いた。
「その通りです」
◇
夕食には根菜の煮込みと麦粥、それから薄い焼き菓子が一枚だけ用意された。
子供は焼き菓子を見た。
「甘い?」
「少し甘いですよ」
治療教師が答える。
「一枚?」
「はい」
「分けられる?」
「もちろんです」
子供は少し考えたあと、アリシアを見る。
「アリシア、食べる?」
「私?」
「うん」
「子供が全部食べたいなら、全部食べていいんだよ」
「全部も食べたい。でも、分けてもみたい」
「どうして?」
子供は棚にある白い花の絵を見た。
「食べ物は分けると減るって、学院長が言った」
「うん」
「どんな感じか見たい」
「実験みたいなもの?」
「少し」
『食べ物で実験するのね』
「ノアも?」
『いらないわ。私は別のものがあるもの』
アリシアが訳す。
「ノアはいらないって」
「じゃあアリシア」
子供は焼き菓子を両手で持ち、半分に割ろうとした。
けれど、きれいな半分にはならなかった。
一方は大きく、もう一方は少し小さい。
「あ」
「同じじゃないね」
「うん」
子供は二つを見比べた。
「どっち欲しい?」
「子供が選んでいいよ」
「……大きいの欲しい」
「じゃあ、大きい方を食べればいい」
子供は少し迷った。
それから、小さい方をアリシアへ差し出す。
「はい」
「ありがとう」
アリシアが受け取る。
子供は自分の手に残った大きい方を見る。
「減った」
「最初の一枚よりはね」
「少し嫌」
「全部食べたい気持ちもあったもんね」
「うん。でも、アリシアにあげたかったもある」
「うん」
二人で焼き菓子を口に運ぶ。
子供は自分の分を一口齧った。
「甘い」
「私のも甘いよ」
「同じ?」
「たぶん同じ生地だから、味は近いと思う」
「私の方が大きい」
「うん」
「アリシア、少ない」
少し申し訳なさそうな顔になる。
「小さいのあげた」
「子供は大きい方が欲しかったんでしょう?」
「うん」
「なら、それでいいよ」
「分けるなら、同じ大きさがいい?」
「必ず同じじゃなくてもいいと思う」
「アリシア嫌?」
「私は嫌じゃないよ。少しでももらえて嬉しい」
「本当?」
「うん」
子供の表情が少し緩んだ。
「食べ物は減った。でも嬉しいは増えた?」
「私は増えた」
「私も、少し嬉しい」
「じゃあ、どうなった?」
子供は手元の焼き菓子を眺めながら考えた。
「焼き菓子は減った。でも嬉しいは増えた」
「うん」
「同じ分けるでも、減るものと増えるもの、一緒にある」
「そうだね」
子供は少し眉を寄せた。
「難しい」
「うん」
それでも、もう一口食べる。
「でも、おいしい」
アリシアが笑った。
「それはよかった」
子供も小さく笑う。
そのとき、隣の寝台に横たわっていた顔のない存在の胸で、十一のうち三つの光が弱く明るくなった。
子供はすぐに気づいた。
けれど原因を探そうとはしなかった。
「今は三つ」
それだけ言って、残りの焼き菓子を食べた。
◇
夜。
子供は白い花の絵を棚へ戻す前に、もう一度ゆっくり眺めた。
「今日、いっぱい見せた」
「学院長とセレナに?」
「うん。サーラはまだ」
「あとで見せる予定だね」
「うん」
アリシアは少し間を置いてから尋ねた。
「見せたこと、後悔してる?」
子供はしばらく考えた。
「今はしてない」
「見せなきゃよかったとは思ってない?」
「思ってない。学院長が白く見えるって言ったの嬉しかった。セレナも見たいって言ってくれた」
「うん」
「私の絵は減ってない」
「うん」
「でも、二人の中に少し増えた?」
「そうかもしれないね」
「絵そのものじゃなくて?」
「見た記憶とか、白い花のこととか」
「じゃあ、残し方が増えた」
「そうだね」
子供は絵を棚へ戻した。
本物の白い花の隣。
薄い板を間に挟んだ、昨日と同じ場所。
「明日も、見せたい人いるかな」
「いるかもしれないね」
「でも、私が見せたくなかったら見せない」
「うん」
「誰かが見たいって言っても?」
「子供が嫌なら断っていいよ」
「見せたら、その人が嬉しいかもしれないのに?」
「それでも」
子供は少し考えた。
「嬉しくしてあげるの、私の役割じゃない?」
「うん。子供の役割じゃないよ」
その言葉を口にしながら、アリシアは胸の奥が少し詰まるような感覚を覚えた。
子供は役割を与えられていた。
誰かのために。
何かを保つために。
自分が苦しくても止まらず、途中でやめないことを求められていた。
だからこそ、自分の絵を人へ見せるという小さなことまで、「相手を喜ばせるためにしなければならないもの」へ変わってほしくなかった。
「見せたいときに見せればいいよ」
「うん」
「見せたくない日は?」
「見せない」
「途中で嫌になったら?」
「やめる」
「うん」
子供は少し笑った。
「いっぱい同じ話につながる」
「どれ?」
「やめる。お願い。あとで。残す。分ける」
「うん」
「別々だけど、少しつながる」
「そうだね」
子供は寝台へ入り、自分で布団を胸元まで引き上げた。
しばらく天井を見ている。
「アリシア」
「うん」
「今日、焼き菓子分けた」
「うん」
「私の分、減った」
「そうだね」
「少し嫌だった。でも、あげてよかったもある」
「うん。どっちもあったね」
「白い花の絵は、見せても減らなかった」
「うん」
「嬉しいは、私もセレナもあった」
「そうだね」
「じゃあ、分けるって、いつも同じじゃない」
「うん」
子供はそこで少し間を置いた。
「人に話したら、悲しいも分けられる?」
アリシアはすぐには答えなかった。
「どういう意味?」
「水溜まり触れなかったの、アリシアに言った」
「うん」
「私の後悔、減った?」
「子供はどう感じる?」
子供は天井を見たまま、自分の胸の内側を確かめるように黙った。
「……少し、話す前より苦しくないかも」
「そっか」
「アリシアに、後悔あげた?」
「そのまま受け取った感じではないかな」
「じゃあ何?」
「子供が後悔してることを、私も知った」
「アリシア、苦しい?」
「少し寂しい気持ちにはなったよ」
「じゃあ、分けた?」
アリシアは少し考えた。
「そういう言い方もできるかもしれない。でも、子供の後悔が半分になって、その半分が私へ移った、みたいな感じではないと思う」
「同じじゃない」
「うん」
「私が話した。アリシアが知った。それで私は少し楽になった」
「そうだね」
子供は長く考えた。
「悲しい話したら、相手も悲しくなる?」
「なることもあるよ」
「じゃあ、話さない方がいい?」
「話したいのに、相手を悲しくさせたくないから全部一人で持たなきゃいけない、とは思わないよ」
「でも困る?」
「困ることはある」
「また」
「うん。まただね」
子供が少し笑った。
「困らせても、話していいことある?」
「あるよ」
「アリシアに?」
「うん」
「ノアに?」
『内容によるわね』
アリシアが苦笑する。
「ノアは内容によるって」
「ずるい」
『現実的と言いなさい』
「現実的だって」
「もっとずるい」
子供の笑い声が小さく部屋へ広がった。
「でもアリシアは?」
「私は聞けるときなら聞くよ。どうしても聞けないときは、今は無理って言うと思う」
「断る?」
「うん」
「聞くのもお願い?」
「そういうこともあるね」
「私は話したい。聞いてほしい。でも、アリシアが聞けないなら断っていい」
「うん」
子供は少し満足したように目を細めた。
「お願い、いっぱいある」
「あるね」
「命令じゃなくていい」
「うん」
しばらくして、子供は隣の寝台を見た。
顔のない存在は今日一日、結局ほとんど歩かなかった。
「今日はこの人、歩かなかった」
「うん」
「昨日は八歩だった」
「そうだね」
「でも今日はゼロじゃない」
「どうして?」
「ここにいた」
「うん」
「胸の光も変わった。私は絵見せたいって今日は言わなかった。でも、それでも一日あった」
アリシアは静かに頷いた。
「そうだね」
何かをした日だけが一日ではない。
歩かなかった。
お願いしなかった。
新しいことを試さなかった。
それでも、その存在はそこにいて、時間を過ごした。
子供も、少しずつそこを数字で空白にしなくなっていた。
「おやすみ」
「おやすみ」
子供が目を閉じる。
やがて、呼吸がゆっくり寝息へ変わっていった。
◇
夜半。
東側未確認区画では、狭窄部の向こう側へ抜けた名前のない光を、遠隔感知だけで追っていた。
人間側から直接見ることはできない。
それでも位置反応は残っている。
「まだいます」
若い観測員が測定盤を見ながら言う。
「位置変化は?」
サーラが尋ねる。
「ほとんどありません」
「輪郭状態は?」
「感知値では安定しています」
サーラは地図へ新しい印を付ける。
「狭窄部の向こう側。未確認区画内。現時点では、それだけ記録してください」
「はい」
若い観測員が筆を動かしたあと、少し迷いながら尋ねる。
「明日、人間側も向こうへ通りますか?」
「必要性を検討します」
「狭いところを広げる?」
「それも含めて」
「光を追うため?」
言ったあと、自分で少し考える。
「……違う。人間側が観測を続ける必要があるなら」
「はい」
「光が先へ行ったから、追いつかなきゃ、ではない」
「その通りです」
若い観測員は小さく頷いた。
同じ頃、西側では、明朝から旧排水坑側の確認へ入る準備が整えられていた。
古い扉は閉じたまま。
水没区画にも手を付けていない。
それでも、昨日より人間側が知っていることは増えている。
止まっているように見える時間の中でも、何もしていないわけではない。
生活観測区画では、子供が描いた白い花の絵が棚の上に置かれていた。
今日は学院長とセレナが、その絵を見た。
サーラにはまだ見せていない。
けれど、いつか子供自身が持っていくという約束ができた。
絵そのものは一枚のまま。
子供の手元からなくなってはいない。
それでも、白い花の絵を知っている誰かの中には、昨日までなかったものが少しずつ増えていた。
分けると減るものはある。
焼き菓子を二つに分ければ、一人で全部食べることはできない。
誰かへ渡した果実は、自分の手元には戻らない。
自分が大きい方を取れば、相手へ渡るのは小さい方になることもある。
分けたあとで、少し惜しかったと思うことだってある。
けれど、見せることや、話すことや、誰かと同じものを覚えることは、必ずしも同じようには減らない。
自分が嬉しかったことを誰かへ見せたら、その嬉しさを相手も感じてくれることがある。
悲しかったことを話せば、悲しさそのものが半分ずつ移るわけではなくても、一人で抱えていたときとは少し違う重さになることもある。
だからといって、何でも分けなければならないわけではない。
見せたくないものは見せなくてもいい。
話したくないことは、話さなくてもいい。
誰かが見たいと言ったからといって、見せることを役割にしなくてもいい。
誰かが聞いてほしいと言ったとき、その人にも聞けない日がある。
分けることは、命令ではない。
見せたいから見せる。
話したいから話す。
受け取ってほしいからお願いする。
そして相手にも、受け取るかどうかを選べる余地を残しておく。
その夜。
棚の上には、本物の白い花と、子供が描いた白い花の絵が並んでいた。
絵は一枚しかない。
けれど、その絵を覚えている人は昨日より増えている。
学院長の中にも。
セレナの中にも。
そしていつか、サーラの中にも増えるかもしれない。
それでも、子供の絵は子供の手元にある。
子供がそこへ込めた記憶も、見せた人数だけ小さく削られたわけではない。
残したものを誰かと分けたからといって。
自分の中にある大切な分まで、同じだけ減るとは限らなかった。




