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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第136話 見えなくなった相手を追うことと、見失わないことは同じではない



 朝の西側地下区画には、地上よりも少し遅れて一日が始まる。


 学院の建物から地下へ続く石段を下りていくほど朝日の気配は薄れ、代わりに壁へ一定間隔で取り付けられた魔導灯の白い光が、古い石床を淡く照らしていた。夜のあいだに冷えた壁面には薄い湿り気が浮かび、奥へ進むにつれて土と古い水路、それから長く閉じ込められていた空気が混ざったような匂いが強くなっていく。


 昨日まで調査の中心だった水没区画からは、かなり離れていた。


 西側外縁。


 現行の学院図面にはほとんど記載がなく、百年以上前の古い図面の端へ書き添えるように残されていた「旧排水坑」。その周辺には朝から副学院長、魔導具教師、土属性の術師、それから二人の観測員が集まっていた。


 その中には、ここ数日の調査で何度も推測を先走らせ、そのたびに自分で言い直すことを覚え始めた若い観測員の姿もある。


「……これですか?」


 彼が見上げた先にあるのは、一見すればただの石壁だった。


 周囲と同じ灰色の石材が積まれており、薄い苔と、長い年月をかけて染み込んだ水分による黒ずみが下部へ広がっている。扉らしい取っ手もなければ、当然ながら「旧排水坑」と書かれた親切な札も存在しない。


 副学院長は古い図面を片手に、壁の継ぎ目と周囲の距離を何度か見比べた。


「記録が正しければ、ここだ」


「入口が埋まってるんですか?」


「埋まっているというより、後から塞がれた可能性が高いですね」


 魔導具教師が壁際へしゃがみ込み、石材の継ぎ目へ細い測定具を当てる。淡い光が先端から滲み、周囲の石へ薄い線を描くように走った。


「周囲より、この部分だけ石材の年代が少し新しいです。新しいといっても百年以上前でしょうが」


 若い観測員が何とも言えない顔になる。


「最近、新しいの基準がおかしくなってきた気がします」


 隣にいた年長の観測員が鼻で笑った。


「三百年前と二百年前を毎日比べてればそうなる」


「昨日なんて、百二十年前の記録を『比較的新しい』って言ってましたよ」


「間違ってはいないだろ」


「地上へ戻ったときまでその感覚だったら嫌なんですけど」


「仕事が終わったら戻せ」


「どうやってですか」


 地下特有の張り詰めた空気の中へ、小さな笑いが混じった。


 けれど、その緩みは長く続かなかった。


 魔導具教師が測定盤を壁へ近づけると、皆の視線が自然とそちらへ戻る。


「向こう側に空間があります」


 副学院長の表情が引き締まった。


「広さは?」


「まだ正確には取れません。ただ、壁のすぐ裏まで全部土砂で埋まっているわけではありません」


「水は?」


「湿度反応があります。少量の滞水もありそうですが、この位置で水没しているほどではないと思います」


 副学院長は壁へ触れないまま、少し距離を取って全体を見る。


「開けられるか?」


「塞いでいる石材を外すだけなら可能です。ただ、先に周囲の補強状態を確認した方がいいでしょう。なぜこの入口を塞いだのか、まだ理由が分かりません」


「単に使わなくなったからじゃないですか?」


 若い観測員が口にする。


 副学院長が、何も言わずに彼を見る。


 その視線だけで何を言われるか察したらしく、若い観測員はわずかに口元を引き締めた。


「……使わなくなったから塞いだ可能性もある、ですね」


「速くなったな」


「毎日鍛えられてますから」


「なら、ほかは?」


 副学院長に促され、若い観測員は改めて壁を見る。


「崩落防止。水の逆流防止。古い設備を使わなくなったから……あとは、向こうに危険なものがあった可能性」


「最後だけ根拠がない」


「はい」


「分からない場所を見ると、怖い理由まで作りたくなる。それも推測として持つこと自体は悪くないが、今の時点で並べる優先順位は低い」


 若い観測員は少し真面目な顔で頷いた。


「分からないなら、分からないままにする」


「そうだ」


 知らない場所を前にすると、人間は空白を埋めたくなる。


 期待できる理由。


 怖がる理由。


 進みたくなる理由。


 引き返したくなる理由。


 何も知らない状態は落ち着かない。


 だからこそ、何か一つでも理由を置けば安心できる。


 けれど、その安心のために置いた言葉が、次の判断を引っ張ることもある。


「補強確認を先に」


「はい」


 土属性の術師が壁際へ進み、片膝をつく。


 手のひらを石床へ当てたあと、すぐには魔力を流さず、一度呼吸を整えた。強い感知を使えば古い地盤へ余計な負荷をかける可能性があるため、ここ数日の調査では短く弱い感知を何度も重ねる方法が取られている。


 一度目。


 入口周辺の石材。


 二度目。


 壁の向こうの空洞。


 三度目。


 天井と側壁。


 術師はゆっくり手を離した。


「入口周辺は安定しています。ただし、向こう側の天井は一部崩落しています」


「入口を開けたら崩れるか?」


「すぐ崩れるほどではありません。ただ、人が入るなら支柱を入れた方がいい」


「今日は入口確認までの予定だったな」


「はい」


 副学院長の確認に、術師が頷いた。


 その横で、若い観測員がほんの少しだけ残念そうな顔をする。


 副学院長は見逃さなかった。


「何だ」


「いえ」


「顔に書いてある」


「……せっかく入口まで見つけたから、中も見たいなと」


 少し言いにくそうに答えると、副学院長は意外にもすぐ頷いた。


「気持ちは分かる」


「分かるんですか?」


「俺だって見たい」


 若い観測員の表情が明るくなる。


「じゃあ――」


「見たいから入るのか?」


 そこで言葉が止まった。


「あ」


「気になることを悪いものにする必要はない。好奇心がなければ調査なんて続かない。ただし、気になるという感情と、今入るべき理由は別だ」


 若い観測員は苦笑した。


「また分けるんですね」


「何を?」


「気持ちと、行動する理由」


「混ぜたら危ないからな」


 魔導具教師も壁を見上げながら頷く。


「では、塞いでいる石を一枚だけ外して、内部の空気と入口付近の状態を確認するところまではどうでしょう。中央の一枚だけなら、人が通れる穴にはなりません」


「内部へ手は入れない?」


「測定具だけです」


 副学院長はすぐには答えなかった。


 石壁。


 古い図面。


 周囲の補強状況。


 今朝までに得られた情報を頭の中で重ねているのだろう。


 やがて、一度だけ頷いた。


「そこまでだ」


 誰もその先を要求しなかった。


 作業が始まる。


     ◇


 同じ朝。


 生活観測区画では、子供が白い花の置かれた棚の前に立っていた。


 窓から差し込む朝の光は昨日より少し白く、庭にはもう水溜まりが一つも残っていない。乾いた石畳の上には二羽の鳥がいて、一羽が地面を忙しなく突き、もう一羽は少し離れた場所で時折首を傾けていた。


 けれど、今朝の子供は鳥より先に棚を見ている。


「……落ちた」


 白い花。


 昨日まで茎に残っていた花弁が、また一枚落ちていた。


 小皿には乾いた花弁が少しずつ増え、茎に残っているものは、もう片手でも数えられそうなほどしかない。


 その隣には、子供自身が描いた白い花の絵があった。


 本物の花は日に日に形を変えていく。


 一方、紙に描かれた花は昨日から大きく変わっていない。


 少なくとも、目で見える範囲では。


「本物、少なくなった」


「うん」


 アリシアは子供から少し離れた場所に立っていた。


 ノアは今日は肩の上ではなく窓辺で丸くなっており、目を閉じたまま耳だけこちらへ向けている。寝ているふりをしながら聞いているのは、もう分かりきっていた。


 子供は落ちた花弁へ手を伸ばした。


 あと少し。


 触れる直前で指が止まる。


「拾う?」


 自分へ尋ねるような声だった。


 昨日までにも何度か同じような選択をした。


 拾う日。


 拾わない日。


 途中でやめた日。


 翌日にもう一度始めた日。


 けれど昨日と今日が同じではないことを、子供自身がもう知っている。


 少し長い沈黙のあと、指が再び動いた。


「……今日は拾う」


「うん」


「今、拾いたい」


 子供は乾いた花弁を、指先で慎重につまみ上げた。


 触れただけで崩れそうな薄さだった。


 その脆さが伝わった瞬間、子供の肩へ少し力が入る。


 以前なら、そのまま動けなくなったかもしれない。


 今朝も怖さがなくなったわけではない。


 子供は花弁を持ったまま呼吸を一つ置いた。


 急がず、小皿の中央へ移す。


 指を開く。


 乾いた花弁が、ほかの欠片の隣へ静かに落ちた。


「入った」


「うん」


「壊れなかった」


「うん」


 子供は少しだけ肩の力を抜く。


「昨日は拾わなかった」


「うん」


「今日は拾った」


「そうだね」


「昨日拾わなかったから、今日は拾わなきゃ、じゃない」


「うん」


 それを誰かへ説明するためではなく、自分の中で確かめるように続ける。


「今日は、拾いたかった」


「うん」


 それでよかったらしい。


 子供は小皿から手を離し、隣に置かれた絵へ視線を移した。


「サーラ、今日いる?」


「東側にいると思うよ」


「まだ光、向こう?」


「朝の報告ではね」


「見えないところ?」


「直接は見えにくいみたい」


 子供の眉が少し下がる。


「いなくなった?」


「遠くから調べる道具では、まだ位置が分かってるよ」


「そっか」


 短く息を吐いてから、絵を持ち上げる。


「今日、サーラに見せられる?」


「聞いてみようか」


「忙しかったら?」


「またあとで」


「うん」


 その「あとで」は、数日前までよりずっと自然に口から出た。


 もちろん、完全に怖くなくなったわけではない。


 子供は絵を胸の前で持ったまま、少し考えてから笑う。


「待ってくれるって言った」


「うん」


「だから今日じゃなくてもいい」


『ずいぶん「あとで」と仲良くなったじゃない』


 窓辺からノアの声が飛んできた。


 アリシアがそのまま訳すと、子供は首を傾げたあと、小さく横へ振った。


「仲良くはない」


『あら』


「怖いあとでもある」


『なるほど』


「白い花の小さいの、あとでってしたらなくなった」


『そうだったわね』


「でも、サーラは待ってくれる。だから全部怖いあとじゃない」


 ノアが閉じていた片目を開いた。


『それなら十分よ』


「ノア、今日は優しい?」


『失礼ね。私はいつだって必要な程度には優しいわ』


「必要な程度」


 子供がその言葉を少し面白そうに繰り返す。


 アリシアも笑いかけたところで、机の上へ目を向けた。


「あ」


『何よ』


「朝の報告、まだ読んでなかった」


『珍しいわね』


「子供が先に起きたから」


『言い訳?』


「事実」


『はいはい』


 アリシアは少しむっとしながら報告書を開いた。


 東側。


 狭窄部の向こうへ進んだ名前のない光は、夜間も位置を大きく変えていなかった。


 遠隔感知値は安定。


 危険反応なし。


 接続値にも大きな変化はない。


 ただし、光がいる位置よりさらに奥で、通路が二方向へ分かれている可能性が確認されていた。


 まだ構造を遠隔で調べている段階。


 人間側が狭窄部を越えるかどうかも決まっていない。


「分かれ道」


『また、どっちへ入るか予想するの?』


「まだしてない」


『まだ?』


「言い方」


『自白したわね』


「してないってば」


 二人のやり取りを聞いていた子供が、絵を抱えたまま首を傾げる。


「アリシア、どっち行くと思う?」


「え」


『ほら、聞かれたわよ』


「……分からない」


「思うのもだめ?」


 子供の問いに、アリシアは少し考えた。


「だめじゃないよ。予想するのはいいと思う」


「じゃあ、どっち?」


「右へ行くかもしれないし、左へ行くかもしれないし、分かれ道の前で止まるかもしれないし、戻るかもしれない」


「いっぱい」


「外したくないだけじゃない?」


 思いがけない指摘だった。


 アリシアが口を開けたまま止まり、ノアの尻尾が窓辺で楽しそうに一度揺れる。


『子供の方が鋭いわね』


「ノア笑ってる?」


「笑ってる」


「やっぱり」


 子供は小さく笑ったあと、少し考えた。


「私は右」


「どうして?」


「なんとなく」


「そっか」


「外れたら?」


「外れたね、でいいんじゃない?」


「怒られない?」


「予想でしょ?」


「うん」


「なら、外れても誰も困らないよ」


 子供は頷く。


「右って思っても、右行ってって言ってない」


「そうだね」


「右に行ってほしいとも、今は思ってない」


「うん」


「どっち行くかなって思っただけ」


 予想。


 願い。


 お願い。


 命令。


 似た言葉の近くにあるものを、子供は少しずつ分けられるようになっていた。


 アリシアはその変化に気づいたものの、あえて褒めなかった。


 それを新しい「正しい答え」にしないために。


     ◇


 西側旧排水坑の入口では、中央の石材がゆっくり外されていた。


 周囲を傷つけないよう、古い固定材を一つずつ除去していく。工具が石へ触れるたび、乾いた小さな音が地下へ響き、作業を見守る者たちの呼吸まで少し慎重になった。


 やがて、最後の固定部分が外れる。


 石材を手前へ数寸引いた瞬間だった。


 細い隙間から、冷たい空気が流れ出した。


「止めろ」


 副学院長の声が低く響く。


 作業員の手が止まり、全員が一歩下がった。


 開いた穴はまだ小さい。


 拳二つ分ほど。


 その向こうは暗闇だった。


 けれど、空気が動いていることだけは肌でも分かる。


「風……」


 若い観測員が声を落とした。


「空気が動いてますね」


 魔導具教師が細い検査管を穴の手前へ近づける。


 先端の小さな結晶が数度明滅した。


「有害反応なし。酸素量も問題ありません」


「風向きは?」


「内部からこちらへ流れています」


「どこかにつながっている?」


 若い観測員が口にし、途中で自分から言い直す。


「……つながっている可能性がある」


 副学院長が小さく頷く。


「よし」


「そこ褒められるんですか」


「褒めてない」


「ひどい」


 年長の観測員が横で笑い、魔導具教師も口元を緩めた。


 緊張していた空気がほんの少しだけほぐれる。


 そのあと、誰も穴へ顔を近づけなかった。


 測定具だけが進められる。


 先端へ取り付けた小型魔導灯を点灯させ、細い棒をゆっくり穴へ差し込む。


 投影盤へ、暗かった向こう側の映像が浮かんだ。


「内部、見えます」


 古い通路だった。


 幅は人が二人並べる程度。


 天井は低い。


 床には乾いた泥が厚く積もり、窪みごとに黒い水が残っている。右側の壁際には、人為的に掘られたような細い溝が通路の奥へ伸びていた。


「排水路?」


「その可能性が高いですね」


 魔導具教師が映像を拡大する。


「床中央ではなく壁側へ水を逃がす構造です」


「水没区画方向?」


「片側は一致します」


「逆は?」


 測定具を少し回す。


 入口から反対側。


 通路は十数歩先で緩く曲がっていた。


 そして、その曲がり角の少し手前。


 泥の中から、細長い何かが半分だけ露出している。


「止めて」


 年長の観測員が言った。


 映像が固定される。


「板?」


「金属ですね」


 表面には泥がこびりついている。


 それでも一部に、文字か記号のような刻印が見えた。


 若い観測員が思わず身を乗り出す。


「取りに行きます?」


 副学院長はすぐ答えなかった。


 ただ、若い観測員を見る。


 視線が合う。


 数秒。


 観測員は自分から苦笑した。


「……今日は入口確認まで」


「そうだ」


「でも気になります」


「俺も気になる」


「やっぱり気になるんじゃないですか」


「最初からそう言ってる」


 副学院長も少しだけ笑う。


「だから位置を記録する。取りに行くかどうかは別だ」


「はい」


「崩落位置は?」


 土属性の術師が再び床へ掌を当てた。


 短い感知。


 少し間を置き、顔を上げる。


「入口から十五歩ほど先。右壁側が一部崩れています。ただ、通路全体を塞ぐほどではありません」


「水の流れは?」


「弱いですが残っています」


「どちらへ?」


 術師はもう一度目を閉じた。


 湿った地下の空気の中、誰も声を出さない。


「……水没区画から離れる方向です」


 魔導具教師が地図へ視線を落とす。


「記録通りなら、その先で地下水路へ合流するはずです」


「完全には詰まってない?」


 若い観測員の声に期待が混じる。


「少なくとも入口周辺では」


「じゃあ、排水できる可能性は上がった?」


 副学院長は否定しなかった。


「上がった」


 若い観測員の顔が明るくなる。


「かなり?」


「少しだ」


「また少しですか」


「入口一つ見ただけで全部分かった顔をするな」


「してませんよ」


「してたぞ」


 年長の観測員が即座に口を挟む。


「ものすごく出てた」


「そんなに分かりやすいですか、俺」


「かなり」


 今度は少し大きめの笑いが起こった。


 けれど、誰も穴を広げなかった。


 誰も通路へ入らなかった。


 今日は入口確認まで。


 その判断は、内部が見えたことで変わるものではなかった。


 ただ、昨日より確かなことが一つ増えた。


 旧排水坑は残っている。


 そして、少なくとも入口付近では、今も弱い水の流れがある。


     ◇


 昼前。


 生活観測区画へ、サーラから返事が届いた。


「午後なら少し時間を作れるそうだ」


 扉の外から学院長が伝える。


 子供は朝食を終えたあと、机の前で白い花の絵を眺めていた。


「サーラ、来る?」


「東側を長く離れられない。途中の中継観測室までなら出てこられるらしい」


「私が行く?」


「子供が行きたいならな」


 子供はすぐには答えなかった。


 絵を見る。


 扉を見る。


 まだ目には見えていない廊下の先を考えているように、しばらく動かない。


「遠い?」


「ここからなら、それほど遠くない。東側地下区画そのものへ行くわけじゃないぞ」


「知らない場所?」


「前を通ったことはある。ただ、中へ入ったことはないと思う」


「人いる?」


「何人かいる」


 その答えで、紙の端を持っていた子供の指へ少し力が入った。


 アリシアは何も言わない。


 学院長も続きを促さない。


「サーラだけじゃない?」


「そうだな」


「何人?」


「今の予定なら、サーラと記録係が二人。入口の外に警備が一人だ」


「四人」


「そうなる」


 子供は少し唇を結んだ。


「アリシア行く?」


「一緒に来てほしいなら行くよ」


「ノアは?」


『面白そうなら行くわ』


「ノアも行くって」


『そこまで素直に訳さなくていいのよ』


「違うの?」


『……行くわよ』


「行くって」


 子供は少し笑った。


 けれど、その笑いだけで怖さが消えたわけではない。


「絵、見せたい」


「うん」


「でも人いるの、少し嫌」


「うん」


「サーラにここへ来てもらう?」


「聞くことはできるよ」


「東、離れられない?」


「長くは難しいみたい」


 子供は絵へ視線を戻す。


「じゃあ……途中まで行く」


「途中?」


「観測室の前まで」


「うん」


「そこで嫌だったら戻る」


「いいよ」


「サーラ、外まで来られる?」


 学院長が答える。


「聞いてみよう」


 少しして返事が届く。


「来られるそうだ」


「じゃあ、それにする」


「分かった」


 子供は紙を胸へ抱えた。


「見せるって決めても、途中でやめていい?」


「もちろん」


「サーラ、待ってたのに?」


「それでもだ」


「困る?」


「予定は少し変わるかもしれない。でも、それと子供が無理して見せることは別だ」


 数日前までなら、その「困る」という言葉だけで表情が固まっていたかもしれない。


 今日は少し考えたあと、自分から頷いた。


「じゃあ、行く」


     ◇


 昼過ぎの廊下は静かだった。


 授業時間と重なっているため、生徒の姿はほとんどない。遠くの教室から教師の声が微かに届き、開けられた高窓の向こうでは、初夏へ向かう風が木々の葉をさらさらと揺らしている。


 子供はアリシアの半歩後ろを歩いていた。


 白い花の絵は両手で直接持たず、薄い板へ挟んで胸の前へ抱えている。


 ノアはアリシアの肩。


 学院長は少し前。


 セレナは同行していない。


 子供が会う人数を増やしすぎないため、必要最低限の同行にしていた。


 最初の角を曲がる。


 子供の歩幅は変わらない。


 二つ目。


 少し遅くなる。


 アリシアは振り返らない。


 ただ、自分の歩幅だけをほんの少し落とした。


 やがて後ろの足音が近づく。


「アリシア」


「うん」


「今、少し怖い」


「うん」


「戻るほどじゃない」


「分かった」


「言うだけでもいい?」


「いいよ」


 子供は少し息を吐いた。


「言ったら、少し分かった」


「何が?」


「どのくらい怖いか」


「そっか」


「言う前は、怖いだけだった」


 廊下の窓から差し込む陽射しが、床へ四角い明るさを作っている。


 その中を子供の影が通り、再び石床の薄暗い色へ戻った。


「まだ行く」


「うん」


 観測室が近づく。


 そこは東側地下区画そのものではない。


 地下から送られてくる測定値や記録を整理し、各区画へ指示を出すために地上側へ設けられた中継観測室だった。


 入口の外には警備員が一人立っている。


 子供の姿が見えた瞬間、姿勢を正した。


 それだけだった。


 挨拶をしない。


 近づかない。


 じっと見つめない。


 子供は警備員を一度見てから、その場で足を止めた。


「ここ?」


「うん」


「サーラいる?」


 学院長が声をかけるより先に、扉がゆっくり開いた。


 サーラが出てくる。


 手には何も持っていなかった。


 いつもなら抱えている記録板も、今日は室内へ置いてきたらしい。


「こんにちは」


 その声を聞いた瞬間、子供の肩が少しだけ硬くなる。


「……こんにちは」


「来てくれてありがとうございます」


「ありがとう?」


「はい。私が見たいと言った絵を、持ってきてくれたので」


 昨日まで学院長やセレナから同じように言われたことを思い出したのか、子供の表情が少しだけ緩む。


「見たい?」


「見たいです」


「今も?」


「はい」


「忙しくない?」


 サーラは少し考えた。


「今は大丈夫です。ただ、長い時間は難しいです」


「じゃあ急ぐ?」


「急いで見なければならないほどではありません。五分くらいなら、ゆっくりできます」


「どっち?」


 一瞬、サーラが目を瞬く。


 アリシアは笑いそうになり、唇を少し噛んで堪えた。


「五分の中なら、ゆっくりで大丈夫という意味です」


「分かった」


 子供は絵を挟んだ板へ手をかける。


 しかし、外す前に止まった。


 観測室の中から、人の気配がある。


 記録係が二人。


 姿は見えていない。


 それでも、そこにいると分かる。


「中の人も見る?」


「見える位置には来ないよう、お願いしています」


「でも、見たいかもしれない?」


「それは聞いていません」


「私、サーラだけに見せたい」


「分かりました」


 サーラはすぐに振り返った。


「扉を閉めます。通信はそのままでお願いします」


『了解です』


 中から短い返事があり、扉が閉じる。


 廊下にはサーラ、子供、アリシア、ノア、学院長。それから少し離れた場所に警備員だけが残った。


 子供の視線が警備員へ向く。


「この人は?」


「勤務中だから、ここを離れることはできない」


 学院長が答える。


「絵、見える?」


 警備員自身が、必要以上に子供へ視線を向けないまま答えた。


「見ないようにすることはできます」


「どうやって?」


「反対を向きます」


 子供は少し考える。


「そこまでしなくていい」


「分かりました」


「でも、見ようとしないで」


「はい」


 警備員はそれ以上何も言わず、廊下の先へ視線を固定した。


 子供はようやく板から紙を外す。


「これ」


 サーラへ向けて掲げる。


 白い紙の中へ、周囲の薄い影で浮かび上がらせた白い花。


 花弁の数は正確か分からない。


 形も本物とは違う。


 けれど、子供が覚えている白い花だった。


 サーラは近づかなかった。


 今いる位置から静かに見る。


「白い花ですね」


「分かる?」


「はい」


「本物と違う」


「聞いています」


「花弁の数、合ってないかもしれない」


「それも聞きました」


「学院長から?」


「はい」


 子供の視線が学院長へ動く。


「話した?」


「絵を持ってくることになったから、必要なことだけな」


「全部?」


「全部ではない」


「何話した?」


「子供が白い花の絵を描いたこと。それをサーラへ見せたいと言っていたこと。その二つだけだ」


 子供は少し考えた。


「それはいい」


「分かった」


 サーラは再び絵へ視線を戻した。


「周りに影を描いたんですね」


 子供の目が少し大きくなる。


「学院長もそこ言った」


「白い紙に白い花を描くためですか?」


「うん」


「とても分かりやすいです」


「サーラ、記録する人だから?」


「どうでしょう」


 サーラは少し笑った。


「記録する仕事をしているので、残し方が気になるのかもしれません」


「これも記録?」


「子供にとっては?」


「私の記録」


「なら、記録ですね」


「学院のじゃない」


「はい」


 そこで子供が少し考え込む。


「サーラ、書く?」


「この絵を見たことを、ですか?」


「うん」


 サーラはすぐには答えなかった。


 子供の表情を見てから、少し言葉を選ぶ。


「業務記録には、『子供が希望して個人記録を見せに来た』ということは残す可能性があります」


 子供の指が紙の端を少し強く持った。


「絵も?」


「絵の形や内容を詳しく書く必要はないと思います」


「白い花って書く?」


「それも、子供が嫌なら書かない形にできます」


「でも、それだと何見せたか分からない?」


「『個人記録を共有した』くらいでも、業務上は足ります」


 子供は絵を見る。


 少し長く考える。


「白い花って書いていい」


「いいんですか?」


「うん」


「絵の形は?」


「書かなくていい」


「分かりました」


「私の名前は?」


 サーラは一度だけ学院長を見た。


 学院長は何も答えず、子供へ判断を戻した。


「どう残したい?」


「……子供、でいい」


「分かりました」


「サーラが見たって書く?」


「担当者として、私の名前は残ります」


「そっか」


 子供は少し考えたあと、絵を胸へ戻した。


「見せたら、記録も増える」


「そうですね」


「私の絵は減らない」


「はい」


「でも、見せたことは別のところにも残る」


「そうなります」


「……少し変」


「嫌ですか?」


 子供はすぐに首を振らなかった。


 胸元の絵を見下ろし、自分の感覚を確かめている。


「今は、嫌じゃない」


「分かりました」


 その答えを聞いたあと、サーラはそれ以上記録の話を広げなかった。


 子供の方から、また口を開く。


「見て、どうだった?」


 サーラの目元が少し柔らかくなる。


「見せてもらえて嬉しかったです」


「また嬉しい増えた?」


「私の中では」


 子供は小さく笑った。


「じゃあ、よかった」


「ありがとうございます」


「またありがとう」


「言いたかったので」


「そっか」


 五分もかからなかった。


 子供は自分から絵を板へ戻し、胸元へ抱え直した。


「帰る」


「はい」


「サーラ、仕事戻る?」


「戻ります」


「光、まだ向こう?」


「はい」


「見えない?」


「直接は見えません。でも、今は測定で位置を確認できています」


 子供の足が少しだけ止まる。


「見えないけど、いるって分かる?」


「今は」


「今は?」


「測定できなくなることもありますから」


「そっか」


「見えないことと、いないことは同じではありません。ただし、測定できなくなったときに『見えないけれど必ずいる』と決めることもできません」


「難しい」


「難しいですね」


 子供はアリシアを見る。


「白い花の小さい欠片みたい?」


 アリシアは少し驚いた。


「どこが似てる?」


「見えなくなった。でも、なくなったって決めなかった」


「うん。少し似てるね」


「でも光は、今は道具でいるって分かる」


「うん」


「欠片は分からなかった」


「そうだね」


「同じじゃない」


「うん」


 サーラは、そのやり取りを何も挟まずに聞いていた。


 子供はもう一度彼女へ顔を向ける。


「じゃあ、また」


「はい。また」


 今度の言葉は、「あとで」ではなかった。


 いつ会うのかも決めていない。


 それでも、次があるかもしれない状態のまま離れられる言葉だった。


     ◇


 午後。


 東側未確認区画で、名前のない光が再び動き始めた。


 子供と別れたあと中継観測室へ戻っていたサーラが、報告を受けてすぐ測定盤へ向かう。


「位置変化。奥側へ移動しています」


「分岐までは?」


「もうすぐです」


 遠隔感知盤には、小さな光点が表示されている。


 実際の光を映しているわけではない。


 複数の魔力感知値と位置情報を組み合わせ、観測用の印として表示したものだ。


 直接見えないからこそ、その点だけを本人そのもののように扱わないよう注意されている。


 若い観測員が盤面を見ながら呟いた。


「右かな」


 隣の記録係が彼を見る。


「何が?」


「いや、子供が右だと思うって言ってたらしくて」


「聞いたの?」


「学院長からです」


 サーラが顔を上げる。


「私は話していませんよ」


「はい。学院長が、予想の話が面白かったって」


「なるほど」


「右へ行ったら当たりですね」


「賭け事にしないでください」


「してませんって」


 光点が分岐手前へ近づく。


 室内の空気が自然と静かになった。


 右。


 左。


 あるいは、また途中で止まる。


 光は一度だけ右側へ寄った。


「右?」


 若い観測員の声が少し上ずる。


 しかし次の瞬間、点は中央付近へ戻った。


「あ」


「まだです」


 サーラは静かに言う。


 光点はしばらく分岐中央付近に留まっていた。


 何かを迷っている。


 そう言いたくなるほどの間だった。


 けれど、誰も記録にはそう書かない。


 やがて、光が再び動く。


 今度は左側へ。


「左です」


 若い観測員が少し笑った。


「外れた」


「予想が、ですね」


「子供に報告します?」


「通常報告の中で必要なら伝わるでしょう。予想が外れたことを知らせるためだけに報告する必要はありません」


「本人が聞いたら?」


「事実を答えます」


「左へ行った」


「はい」


「それだけ」


「それだけです」


 光は左側の通路へ入った。


 数歩分に相当する距離を進み、そこで止まる。


「奥は?」


「まだ通路が続いています」


「設備反応?」


「今のところ新しいものはありません」


「危険値?」


「変化なし」


 サーラは記録板へ時刻と移動方向を書き込んだ。


 光は左へ進んだ。


 だからといって、右側に意味がなかったとは言えない。


 右側に何があるのかも分からない。


 そもそも光が左を「選んだ」のか、人間には判断できない。


 ただ、位置が左側へ変わった。


 今分かるのはそこまでだった。


「人間側の狭窄部は?」


 サーラが別の資料へ視線を移す。


「補強案が出ています。通路自体は広げず、身体を横へ向ければ通れる幅を維持したまま、崩落防止用の支えだけを追加する案です」


「装備は?」


「大型は無理です。最低限の観測具なら持ち込めます」


「人を入れる理由は?」


「遠隔感知の精度が落ち始めています」


 観測員が別の測定値を示す。


「距離と壁の影響です。このままさらに奥へ進まれると、位置確認が不安定になる可能性があります」


 サーラはしばらく数値を見る。


「それは理由になりますね」


 若い観測員が少し身を乗り出した。


「じゃあ、追います?」


 サーラは彼を見る。


 以前なら、その視線だけで慌てて言い直していたかもしれない。


 今日は観測員自身も、自分の言葉を考え直すように少し眉を寄せた。


「……観測点を前へ移す?」


「その検討をします」


「追う、ではない」


「少なくとも目的は違います。光を捕まえに行くわけでも、追いつくこと自体が目的でもありません」


「見失わないために、観測できる位置を変える」


「はい」


 若い観測員は左側通路へ進んだ点を見る。


「でも、もし見失ったら追いかけます?」


「状況によります」


「危険反応がなかったら?」


「人間側がどこまで観測を続ける必要があるのか、改めて考えます」


「ずっと追うわけじゃない」


「そうです」


 光は左側の通路で止まったままだった。


 人間側は、その日のうちに狭窄部を広げ始めることはしなかった。


 まず補強方法。


 必要人員。


 持ち込む観測具。


 退路。


 通信が届くかどうか。


 そして何より、人間が向こう側へ入る必要が本当にあるのか。


 一つずつ確認していく。


     ◇


 夕方、西側旧排水坑では、朝に開けた小さな穴が仮封鎖されていた。


 完全に元の状態へ戻したわけではない。


 内部の空気や湿度、水の流れを定期的に確認できるよう、細い観測管だけを残している。


 副学院長は仮設机の上へ地図と記録を広げ、午後までの調査結果を整理していた。


「水流は?」


「弱いまま継続しています」


「魔力反応は?」


「入口付近では確認できません」


「泥の中の金属板は?」


「位置変化なしです」


 若い観測員が報告したあと、自分で少し首を傾げる。


「……まあ、当たり前ですけど」


「地下で金属板が勝手に歩いたら困る」


 年長の観測員が言う。


「最近、光が動くのばっかり見てるから、感覚麻痺してません?」


「光と金属板を一緒にするな」


「はい」


 副学院長は地図へ一本の線を引いた。


 旧排水坑。


 水没区画。


 その間にあると推測される古い排水路。


「明日は?」


 魔導具教師が尋ねる。


「入口を、人が通れる程度まで開く。ただし、その前に支柱を入れる」


「内部調査は?」


「入口から十歩まで」


 若い観測員が顔を上げた。


「十歩」


「何だ」


「いや、具体的だなって」


「距離を決めなければ、お前は金属板まで行くだろう」


「……たぶん」


「認めるな」


「でも気になるんですよ」


「だから十歩だ。板はもっと先にある」


 魔導具教師が笑う。


「完全に対策されていますね」


「信用されてないだけでは?」


「自覚してるなら直せ」


「努力します」


 笑いが収まったあと、副学院長は表情を戻した。


「排水の判断はまだ先だ」


「はい」


「水が流れているから抜ける、ではない。排水先が今も安全か分からない」


「古い記録では地下水路へ合流する」


「記録上はな」


「今も同じとは限らない」


「そういうことだ」


 百年以上前の水路が、百年以上前と同じ形で待っている保証はない。


 入口は残っていた。


 水も流れていた。


 けれど、そこから先まで古い図面の通りとは限らなかった。


     ◇


 生活観測区画へ戻った子供は、目に見えて少し疲れていた。


 歩いた距離だけなら大したことはない。


 けれど、自分の絵を持って普段とは違う場所まで行き、知らない警備員がいる廊下で立ち止まり、サーラへ「誰に見せるか」「何を記録に残していいか」を一つずつ自分で決めた。


 身体よりも、心の方が疲れているのかもしれなかった。


 子供は寝台の端へ腰を下ろし、しばらく何もしなかった。


 アリシアも話しかけない。


 ノアも、珍しく何も言わなかった。


 隣の寝台では、朝からほとんど動いていなかった顔のない存在が横たわっている。


 子供が戻ってしばらくした頃、その上体がゆっくり持ち上がった。


「あ」


 子供が気づく。


「起きた」


 人影は寝台の端へ足を下ろす。


 少し待ってから立ち上がる。


 子供はいつものように数えようとして、口を開きかけた。


 けれど、声にはしなかった。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 胸の十一の光のうち、一つが淡く明るい。


 四歩目。


 そこで人影は止まった。


 子供は黙っている。


 数えていないわけではない。


 視線が一歩ごとに動いていた。


 ただ、途中では口にしなかった。


 顔のない存在は四歩目でしばらく立ち、それからゆっくり床へ座った。


「今日は四」


 座ってから、子供が言う。


「うん」


「言うの待った」


「どうして?」


 子供は人影を見る。


「歩いてる途中で私が数えたら、数えてるから次も歩かなきゃってなるかもしれないって思った」


「そっか」


「本当になるか分からないけど」


「うん」


「だから、終わってから言った」


「うん」


 少し間を置き、子供が続ける。


「でも、数えたいのは数えたい」


「いいんじゃない?」


「数えたらだめじゃない?」


「数えることと、もっと増やしてほしいって求めることは同じじゃないよ」


「記録?」


「そういう数え方もあると思う」


「昨日は歩かなかった」


「うん」


「今日は四」


「うん」


「四だから昨日よりいい?」


 今度はアリシアが答えない。


 子供は自分で考える。


「……違う」


「うん」


「昨日は寝台にいた。今日は四歩歩いた」


「うん」


「今日は、四歩歩いた日」


「そうだね」


「でも私、歩いたの少し嬉しい」


「それもいいと思う」


「嬉しいって思ったら、もっと歩いてほしいってなる?」


「なることもあるかもね」


 子供は少しだけ視線を落とした。


「今、少しある」


「うん」


「でも今日は言わない」


「言っちゃだめだから?」


「違う」


 子供はすぐ首を横へ振った。


「今日は、言わなくていいって思う」


「そっか」


 人影の胸で、もう一つ光が淡く明るさを増した。


 子供は少し眺める。


「今は二つ」


 それ以上の意味は加えなかった。


     ◇


 夕食後。


 子供はサーラへ見せた白い花の絵を、棚の上へ戻した。


 本物の白い花は、朝よりさらに乾いて見える。


 今朝拾った花弁は、小皿の中に残っていた。


「今日、なくならなかった」


「朝拾った花弁?」


「うん」


「今はあるね」


「拾ってよかった」


「うん」


 子供はしばらく花弁を見たあと、少し眉を寄せる。


「もし拾ったとき壊れてたら?」


「悲しかったかもしれないね」


「うん」


「でも、今日は壊れなかった」


「うん」


 今度は絵へ目を移す。


「サーラにも見せられた」


「うん」


「途中で怖くなった」


「うん」


「でも戻らなかった」


「うん」


「戻ってもよかった?」


「もちろん」


「でも今日は行った」


「そうだね」


 子供は少し満足そうに頷いた。


「今日、いっぱいできた?」


 アリシアは、その数を代わりに数えなかった。


「子供はどう思う?」


「花弁拾った。絵見せた。歩いた。話した」


 指を使って数えそうになり、途中で止める。


「でも、いっぱいできたから、いい日?」


「どう?」


 子供はすぐには答えなかった。


 自分の身体の重さでも確かめるように、肩を少し動かす。


「……疲れた」


「うん」


「でも嫌じゃない」


「うん」


「じゃあ、いっぱいできた日じゃなくて、疲れたけど嫌じゃない日」


「いいね」


『妙に正確な日記ね』


 ノアの言葉を伝えると、子供が笑う。


「ノアは今日何した?」


『寝て、食べて、アリシアの余計な思考を止めたわ』


「最後いらないでしょ」


『一番大事よ』


「ノア、いっぱいした?」


『私の価値を行動量で測るなんて百年早いわ』


「何歳?」


『そこは聞かなくていいの』


 子供の笑いが少し大きくなる。


 朝から緊張することの多かった一日の最後に、その笑い声はいつもより長く部屋へ残った。


     ◇


 夜。


 東側の名前のない光は、左側の通路へ入った位置から大きく動いていなかった。


 遠隔感知は昼より少し弱くなっている。


 消えたわけではない。


 ただし、距離と複数の壁を挟んだことで位置の精度が落ちていた。


 学院側は明朝、狭窄部周辺の補強を始める方針を決めた。


 通路そのものを光のために広げるのではない。


 崩落しないよう最低限の支えを追加し、人間一人が身体を横へ向ければ通過できる現在の幅を維持する。その上で、観測を続ける必要があると判断された場合に限り、最低限の観測員と装備を向こう側へ移す。


 光を捕まえるためではない。


 追いつくためでもない。


 観測を続けるなら、そのための場所を一つ前へ動かす。


 それでも光がさらに奥へ進めば、その時点でまた考える。


 どこまでも追うと決めた者はいなかった。


 西側では、百年以上閉ざされていた旧排水坑の向こうへ通路が残っていることが確認された。


 弱い水流もある。


 明日は入口を広げ、支柱を設置した上で十歩だけ進む。


 十歩より先には、泥へ半分埋まった金属板がある。


 けれど、その板を取りに行くことまでは決めていない。


 生活観測区画では、子供が寝台へ入る前に白い花の絵をもう一度確認していた。


「アリシア」


「うん」


「今日、サーラに見せた」


「うん」


「今、もう見せたい人いない」


「そっか」


「明日、出てくるかもしれないけど。今はいない」


「うん」


「じゃあ、見せるの終わり?」


「今日の分はね」


「また見せたくなったら?」


「そのとき考えればいいよ」


 子供は頷き、絵から視線を外す。


「光、左だった?」


 アリシアは少し驚いた。


「聞いたの?」


「学院長が夕方の報告で言ってた」


「うん。左へ進んだみたい」


「外れた」


「外れたね」


「ちょっと悔しい」


「そうなの?」


「右だと思ったから」


「うん」


「でも、右行ってって言ってない」


「そうだね」


「光が左へ行ったから、私が右って思ったの悪かった?」


「予想が外れただけじゃない?」


「うん」


 子供は布団を胸元まで引き上げる。


「右って思ってもいい。光は左へ行ってもいい」


「うん」


「私が見せたいって思っても、相手は見たくないって言っていい」


「うん」


「私が歩いてほしいって思っても、この人が歩かない日あっていい」


「うん」


 そこで、子供の声が少し小さくなった。


「でも、見えなくなったら?」


「光みたいに?」


「うん」


「追う?」


 アリシアはすぐには答えなかった。


 追う。


 探す。


 確認する。


 見守る。


 どれも似ているようで、理由によって意味が変わる。


「追うこともあると思う」


「いつ?」


「危ないかもしれないとき。助けが必要かもしれないとき。約束していて、探す必要があるとき」


「今の光は?」


「学院側は、観測を続ける必要があるから、少し近くまで行けるようにするみたい」


「追いかける?」


「光そのものに追いつくことが目的じゃないって」


「じゃあ何?」


「見失わないために、観測できる場所を少し前へ移す感じかな」


 子供は天井を見る。


「見失わないと、追う、違う?」


「似てることもあるけど、同じではないと思う」


「見失ったら?」


「見つけようとすることもある」


「ずっと?」


「ずっととは限らない」


「途中でやめる?」


「やめなきゃいけないこともあるかもしれない」


 子供の表情が少し曇る。


「見えないまま?」


「うん」


「嫌だ」


「うん」


 アリシアは、その嫌だという気持ちを薄めようとしなかった。


「白い花の小さい欠片も見つからなかった」


「うん」


「水溜まりもなくなった」


「うん」


「見えなくなるの、嫌」


「そうだね」


 見えなくても大丈夫。


 離れても平気。


 そんな言葉で急いで包めば、今感じている寂しさまで「なくした方がいい感情」に変わってしまう。


 だからアリシアは、ただそこに残る。


「でもサーラは、光が見えなくても今いるって分かってた」


「道具でね」


「私がここにいて、サーラが東にいても、サーラは私がいるって知ってる?」


「うん」


「見てないのに?」


「知ってるよ」


「学院長も?」


「うん」


「セレナも?」


「うん」


「私も、サーラが東にいるって知ってた」


「そうだね」


 子供は少し考える。


「見えてなくても、分かることある」


「あるね」


「でも、分からなくなることもある」


「うん」


「そのとき、すぐ追わなくてもいい?」


「状況によるかな」


「また」


 子供が少し笑う。


「まただね」


「何でも同じ答えない」


「困る?」


「前はすごく困った」


「今は?」


「ちょっと困る」


「ちょっとなんだ」


「うん。でも、全部同じじゃないって分かったから」


 隣の寝台では、顔のない存在の胸に一つだけ淡い光が残っている。


 子供はそちらを見る。


「この人、寝たら目閉じたか分からない」


「顔がないからね」


「でも寝てる?」


「たぶん」


「見えないことある」


「うん」


「でも、呼吸みたいなのは分かる」


「そうだね」


 子供は自分の布団へ視線を戻す。


「見えなくなったら、全部なくなったじゃない」


「うん」


「でも、いるって勝手に決めてもだめ」


「うん」


「分かるもの探す?」


「必要ならね」


「それでも分からなかったら?」


 少し長い沈黙が落ちた。


 窓の外では、夜風が木の葉を擦らせている。


 アリシア自身にも、簡単な答えはなかった。


「分からないままになることも、あると思う」


「嫌だ」


「うん」


「でも、ある?」


「あると思う」


 子供は布団の端を強く握った。


 しばらく、そのまま。


 けれど、やがて指の力が少しずつ緩んでいく。


「……そっか」


 寂しそうだった。


 納得したわけでもない。


 ただ、嫌だと思ったまま、その言葉を聞いた。


「今日、サーラ見えなくなった」


「ここから帰ったからね」


「でも、東に戻ったって知ってる」


「うん」


「明日また会える?」


「会えるかもしれない」


「会えないかも?」


「忙しかったらね」


「でも、会わなくてもサーラはいる」


「うん」


「今は、分かる」


「そうだね」


 子供は目を閉じた。


「じゃあ今日は、それでいい」


「うん」


「おやすみ」


「おやすみ」


 部屋に静けさが戻る。


 棚の上には、子供が描いた白い花の絵が 本物の花の隣に置かれている。


 本物の白い花は、今日も少しずつ形を失った。


 けれど、朝に子供が自分で拾った花弁は小皿の中へ残った。


 水溜まりは、もうない。


 昨日までそこに水があった場所だけが、乾いた石の色の違いとして庭へ残っている。


 西側では、百年以上閉ざされていた旧排水坑の向こうに、通路がまだ続いていた。


 弱い水の流れも確認された。


 明日は入口を広げ、支柱を入れたうえで、十歩だけ進む。


 泥へ半分埋まった金属板は、その先にある。


 けれど、それを取りに行くことはまだ決まっていない。


 東側では、名前のない光が狭窄部の向こう側へ進み、さらに分岐の左側へ入った。


 人間側から直接見ることはできない。


 遠隔感知も、距離が伸びるほど少しずつ弱くなっている。


 だから人間側は、明日から狭窄部を補強し、必要なら観測点を一つ前へ移せるよう準備を始める。


 光に追いつくためではない。


 先へ行った光を連れ戻すためでもない。


 ただ、まだ観測を続ける必要があるなら、そのために人間側の位置を少しだけ変える。


 それでも追えなくなれば、そのときまた考える。


 見えなくなった相手を追うことと。


 見失わないように確かめることは。


 動きだけを見れば、似ている。


 相手が先へ行き、自分もその方向へ進む。


 距離を縮めようとする。


 位置を確認しようとする。


 けれど、その二つは同じとは限らなかった。


 追いつきたいから進むこともある。


 助けたいから進むこともある。


 危険を確かめるために進むこともある。


 約束があるから探すこともある。


 そして、ただ「見えなくなったのが不安だから」という理由だけで、どこまでも追い続けてしまうこともある。


 子供は、見えなくなることがまだ怖い。


 白い花の小さな欠片は見つからなかった。


 庭の水溜まりも消えた。


 サーラも、今はこの部屋にはいない。


 東側の光も、直接は見えない場所にいる。


 けれど。


 サーラは東側へ戻ったと分かっている。


 光も今は遠隔感知で位置が取れている。


 顔のない存在は、目を閉じたかどうかさえ分からなくても、隣の寝台に横たわっている。


 見えないことと、失ったことは同じではない。


 けれど、見えないからといって「きっといる」と勝手に決めてもいけない。


 確かめられるものを確かめる。


 必要なら一歩近づく。


 それでも分からなければ、分からないまま止まることもある。


 その曖昧さは、子供にとってまだ心地のよいものではなかった。


 たぶん、人間側にとっても同じだった。


 だからこそ、全部を安心できる言葉へ変えてしまわない。


 見えない。


 でも、今はここにいると確認できている。


 それだけを、そのとき分かる範囲で持っておく。


 夜が深くなる。


 生活観測区画の照明が少し落とされ、棚の上に置かれた白い花の絵も薄暗がりの中へ沈んでいく。


 アリシアは、子供の呼吸が眠りの深さへ変わったことを確かめてから、自分も寝台へ身体を横たえた。


『まだ考えてる?』


 床の無地の布から、ノアの小さな声がした。


「少しだけ」


『何を?』


「追うのと、見失わないのの違い」


『答え出た?』


「出ない」


『なら寝なさい』


「雑」


『今考えても増えない答えに夜更かしする方が雑よ』


「それは……そうかも」


『珍しく素直ね』


「眠いから」


『ならなおさら寝なさい』


 アリシアは小さく笑った。


 目を閉じる。


 部屋の中には、子供と、顔のない存在と、ノアと、自分がいる。


 見える。


 今は。


 けれど、眠ればそのあいだ何が起きるのかを、全部見ることはできない。


 それでも、人は眠る。


 見ていない時間があることを受け入れなければ、生活そのものが続かないからだ。


     ◇


 同じ頃。


 東側未確認区画では、夜勤の観測員が弱くなった遠隔感知を見守っていた。


 左側の通路へ入った光は、大きく位置を変えていない。


「まだ取れます」


 若い観測員が感知盤へ顔を寄せる。


「精度は?」


「昼より少し落ちてます。でも位置は取れています」


 サーラは記録板へ時刻を書き込んだ。


「狭窄部の補強は朝からですね」


「はい」


「向こう側へ観測員を置くのは?」


「補強後に再判断です」


「もし朝までに光がもっと奥へ行ったら?」


「そのときの位置と感知精度を見ます」


「またそのとき」


「はい」


 若い観測員は少し笑った。


「今日、子供にも似た話をしました?」


「しましたね」


「見えないけどいるって分かるとか?」


「それも」


「なんか、こっちも同じことやってますね」


 サーラは感知盤を見る。


「似ています。でも同じではありません」


「あ、そこまでセットなんですね」


「大事ですから」


「はいはい」


「返事が軽いですよ」


「分かってますって」


 そのとき、感知盤の光点がわずかに揺れた。


 全員の視線が集まる。


「移動?」


「……はい。少しだけ」


「方向は?」


「左通路の奥側。距離は小さいです」


「接続値?」


「変化なし」


「危険値?」


「なし」


 サーラは記録へ書き込む。


『夜半、左側通路内で微小移動。奥側。人間側介入なし』


 それだけ。


 誰も立ち上がらない。


 誰も狭窄部へ向かわない。


 光が動いた。


 だからといって、今すぐ追わなければならない理由にはならなかった。


「まだ見える?」


 若い観測員が尋ねる。


「感知では」


「なら今夜は?」


「ここから見ます」


「見失わないために、進まない?」


 サーラは少し考える。


「今は、進まなくても見失っていませんから」


「ああ」


「必要な一歩を、必要になる前に使うことはありません」


 若い観測員はゆっくり頷いた。


     ◇


 西側旧排水坑では、朝に開けた小さな観測穴から、今も弱い水音が拾われていた。


 一定ではない。


 強くなるときもある。


 弱くなるときもある。


 けれど、水は止まっていない。


 副学院長は夜間記録を確認し、入口の仮封鎖へ視線を向けた。


「変化は?」


「有害反応なし。天井荷重も変わりません」


「水流?」


「継続」


「魔力反応?」


「なし」


「なら朝までそのまま」


「はい」


 若い観測員はもう地上へ戻っている。


 明日、十歩まで入れると聞いてから、妙に張り切っていた。


 それを思い出した年長の観測員が、小さく笑う。


「明日、十歩で止まれますかね」


「止める」


「本人は?」


「止まるだろ」


「信用してるんですか?」


 副学院長は少し考えた。


「……前よりは」


「おお」


「ただし、金属板まで行こうとしたら戻す」


「やっぱり完全ではない」


「信用と確認は別だ」


「それも最近よく聞きますね」


「覚えろ」


 副学院長はそれだけ言い、記録へ目を戻した。


     ◇


 夜はさらに深くなった。


 生活観測区画では、誰も起きていない。


 白い花の絵。


 本物の花。


 小皿の花弁。


 木箱。


 どれも、その場所にある。


 けれど、朝になったとき同じ形である保証はない。


 東側の光も。


 西側の水も。


 顔のない存在も。


 子供も。


 アリシアも。


 眠っているあいだにも、少しずつ時間が進んでいる。


 見えなくなった相手を追うこと。


 見失わないように確かめること。


 離れた相手を気にすること。


 近くへ行くこと。


 待つこと。


 やめること。


 どれも、その理由によって意味が変わる。


 だから、一つの動きだけを見て「これは追っている」「これは待っている」と決めなくてもいい。


 人間側は明日、東側で一歩だけ観測位置を前へ出すかもしれない。


 西側では十歩だけ旧排水坑へ入る。


 子供は、また誰かへ絵を見せたくなるかもしれないし、もう誰にも見せたくないと思うかもしれない。


 顔のない存在は歩くかもしれない。


 歩かないかもしれない。


 白い花はさらに崩れるかもしれない。


 何も変わらないように見えるかもしれない。


 そのどれも、まだ朝になっていない今は決まっていない。


 ただ今夜は。


 見えなくなったものすべてを、急いで追いに行く必要はなかった。


 分かる範囲で位置を確かめ。


 分からないものは分からないまま残し。


 必要になったときに、一歩だけ近づけるよう準備しておく。


 それでも十分な夜がある。


 東側の観測盤には、左側通路の奥へ少しだけ移った光点が残っている。


 西側の観測管には、古い排水坑の水音が届いている。


 生活観測区画では、子供の寝息が静かに続いていた。


 見えなくなった相手を追うことと。


 見失わないことは。


 たしかに、同じではなかった。

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