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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第137話 見えないあいだに変わっていても、置いていかれたとは限らない



 翌朝、東側地下区画では、まだ地上の鐘が一度も鳴らないうちから補強作業が始まっていた。


 昨日まで人間側の観測を阻んでいた狭窄部は、夜のあいだも形を変えていない。古い壁の一部が崩れ、通路幅の半分近くまで石材がせり出している。人ひとりなら身体を横へ向ければ通れなくはないが、工具や大きな測定具を持ったまま進むには狭く、天井にも細かな亀裂が走っていた。


 その向こう。


 名前のない光は、昨日入った左側の通路で今も止まっている。


 少なくとも、遠隔感知では。


 夜中に手の幅ほど奥へ動いたあと、大きな位置変化は確認されていない。ただし、距離と幾重にも重なる古い壁の影響で反応は弱くなっており、以前のように輪郭の細かな変化までは拾えなくなっていた。


「支柱、一つ目固定」


 低い声が狭窄部へ響く。


「亀裂側への圧は?」


「基準内です」


「二つ目は急ぐな。先に上を取る」


 サーラは作業位置から十分に距離を取り、臨時の記録台で数値を確認していた。


 今日は補強担当二名、土属性術師一名、観測員二名。それから狭窄部を実際に越える候補として、身軽な観測員が一人待機している。


 誰も、まだ向こう側へ入ってはいない。


「光の反応は?」


「変化ありません」


 若い観測員が測定盤を確認する。


「昨日の夜から同じ位置です」


 言ってから、少し考えて付け足した。


「……少なくとも、今の感知ではそう見えます」


 サーラがほんの少し口元を緩めた。


「その言い方でいいと思います」


「もう、前みたいに『絶対ここです』って言うの怖くなってきました」


「怖がる必要はありません。確認できる範囲を明確にすればいいだけです」


「でも、感知が弱くなってくると、どこまで信用していいか分からなくなります」


「だから観測位置を前へ移すんです」


 若い観測員は狭窄部を見る。


「見失わないために」


「はい」


「追いつくためじゃない」


「昨日も話しましたね」


「頭では分かるんですけど、こうやって準備してると、どうしても追いかけてる感じがするんですよ」


 サーラはすぐに否定しなかった。


 狭窄部の向こうへ人間側が入る。


 光が先へ進み、人間がその後を追う。


 外から見れば、確かにそう見える。


「動きだけ見れば、追っているように見えるでしょうね」


「ですよね」


「でも、目的まで同じとは限りません」


「光に追いつきたいんじゃなくて、観測できる位置へ移る」


「そうです」


「もし向こうへ行ったあと、光がさらに遠くへ行ったら?」


「そのとき考えます」


「また」


「またです」


 若い観測員は少し笑った。


「最近、全部最後はそれになりますね」


「今決められないことを、今決めないだけです」


「簡単そうに言いますね」


「簡単ではないから、毎日同じことを確認しているんでしょう」


 支柱の固定音が小さく響いた。


 補強担当が手を上げる。


「二本目、安定しました」


「天井は?」


「大きな変化なし」


 土属性術師も床へ手を当て、短い感知を行う。


「狭窄部そのものは、昨日より安全です。ただし、向こう側の床は未確認部分が残っています」


「最初の観測員は?」


「五歩まで」


 サーラが答える。


「それ以上は進みません」


 待機していた観測員が頷いた。


「光のところまでは?」


「行きません」


「距離が近くても?」


「五歩を越えるなら行きません」


「了解」


 昨日、西側で十歩までと決めたのと同じように。


 東側でも、人間側が自分のための境界を先に決めていた。


 光がどこにいるかとは関係なく。


     ◇


 同じ朝。


 生活観測区画では、子供が目を覚ましてからもしばらく寝台を出なかった。


 窓の外は晴れている。


 庭の石畳は完全に乾き、昨日まで残っていた濃い水染みも少し薄くなっていた。植え込みには小さな鳥が一羽だけいて、枝から枝へ短く移動している。


 白い花は、また少し変わっていた。


 茎に残る花弁は、昨日よりさらに少ない。


 小皿へ入れた乾いた花弁の一枚は、夜のあいだに端が少し欠けている。


 その隣には、子供が描いた絵。


 さらに棚の下には、少し動かしたままの木箱がある。


 ただし、子供が今見ていたのは、そのどれでもなかった。


 隣の寝台。


 顔のない存在。


 昨日は四歩だけ歩いたあと床へ座り、夜にはまた自分で寝台へ戻っている。


 今朝はまだ動かない。


「いる」


 子供が小さく言った。


 アリシアは椅子に座ったまま頷く。


「うん」


「昨日、四歩」


「うん」


「夜、戻った」


「そうだね」


「私、見てなかった」


「戻る途中?」


「うん」


 子供は顔のない存在を見る。


「寝てた?」


「その時間は子供も寝てたよ」


「じゃあ、見てないあいだに戻った」


「うん」


「前もあった」


「そうだね」


 子供は少し考え込む。


「見てないときも、この人、動く」


「うん」


「私が見てなくても?」


「うん」


「私が知らなくても?」


「そうだね」


 そこに、少しだけ複雑な顔が浮かんだ。


「嫌?」


 アリシアが尋ねる。


「……少し」


「どうして?」


「知らない間に変わる」


「うん」


「見てたら分かった」


「うん」


「でも寝てた」


「うん」


 子供は布団の端を少し握る。


「私が寝たら、何かなくなるかもしれない」


 白い花。


 水溜まり。


 小さな欠片。


 これまで、見ていない時間に変わったものが幾つもある。


 アリシアはすぐに安心させる言葉を返さなかった。


「そういうことはあるね」


「じゃあ、寝ない方がいい?」


「子供はどう思う?」


 子供はすぐには答えなかった。


 窓。


 棚。


 顔のない存在。


 少しずつ視線を動かす。


「……寝ないの、無理」


「うん」


「ずっと見てるのも無理」


「うん」


「でも見てない間に変わる」


「そうだね」


「嫌だ」


「うん」


 嫌だという気持ちは、そのまま残された。


 それでも、子供はしばらくして布団を押し下げた。


「でも寝た」


「うん」


「朝になった」


「うん」


「この人、いる」


「うん」


「花もある。少なくなったけど」


「うん」


「絵もある」


「うん」


「箱もある」


「そうだね」


 子供は少しだけ息を吐いた。


「全部同じじゃない。でも、全部なくなったでもない」


「うん」


 そこで、顔のない存在の胸にある十一の光のうち、一つが淡く明るさを増した。


 子供がすぐに気づく。


「一つ」


 少し待つ。


 二つ目は明るくならない。


「今は一つ」


「うん」


 それだけ確認して、子供は寝台から降りた。


 足の状態を自分で確かめる。


 赤みなし。


 痛みなし。


 足首を回す。


 二歩歩く。


「大丈夫」


「あとでセレナ?」


「見るだけ」


「うん」


 いつもの確認を終えたあと、子供は棚へ向かった。


 白い花の前で止まる。


「欠けた」


「小皿の?」


「うん」


 昨日拾った花弁の端が、細かく崩れている。


「誰も触ってない?」


「記録では触ってないよ」


「夜に?」


「たぶん乾いて崩れたんだと思う」


「見てないあいだに」


「うん」


 子供はしばらく黙った。


「昨日、拾ってよかったって思った」


「うん」


「今日、欠けた」


「うん」


「じゃあ、拾わなかった方がよかった?」


 アリシアはすぐには答えず、子供の表情を見る。


「今、そう思う?」


「少し。でも拾わなくても欠けたかも」


「うん」


「分からない」


「そうだね」


 子供は花弁へ指を伸ばさなかった。


「昨日のよかったと、今日の少し嫌、両方ある」


「うん」


「昨日のよかった、なくならない?」


「子供はどう?」


 少し考える。


「……まだある」


「じゃあ、あるんだと思う」


 子供は小さく頷いた。


「昨日は拾ってよかった。今日は欠けて悲しい」


「うん」


「同じ花弁」


「うん」


「でも気持ち変わる」


「そうだね」


 紙の絵へ視線を移す。


「サーラに見せたのは、まだよかった」


「うん」


「今日、見せなきゃよかったってなるかもしれない?」


「なる可能性はあるね」


 子供は少し驚いた顔をした。


「なるの?」


「あとで気持ちが変わることはあるよ」


「じゃあ、昨日の私、困る?」


「どういうこと?」


「昨日は見せたかった。でも今日嫌になったら」


「昨日見せたことは戻せないね」


「サーラ、もう見た」


「うん」


「記録にも少し残った」


「うん」


 子供の眉が少し下がる。


「やっぱり難しい」


「うん」


「でも今は、見せてよかった」


「そっか」


「今日の私も」


「うん」


 それで話は終わった。


 未来の気持ちまで、今決めない。


     ◇


 西側旧排水坑では、入口を人ひとりが通れる程度まで広げる作業が進んでいた。


 昨日開けた小さな穴の周囲から石材を一つずつ外し、そのたびに支柱を追加する。


 内部から流れてくる冷たい空気は昨日と変わらない。


 有害反応なし。


 酸素量問題なし。


 水流も弱く継続している。


「入口幅、確保」


 魔導具教師が確認する。


「支柱は?」


「三本固定。荷重変化なし」


 土属性術師が床と天井を感知し、頷く。


「入れます」


 副学院長が若い観測員を見る。


「行きたいか?」


「聞くんですか?」


「昨日から顔に出てる」


「……行きたいです」


「十歩までだ」


「はい」


「金属板は?」


「取りません」


「触る?」


「触りません」


「見える位置まで行っても?」


「触りません」


「よし」


 若い観測員が少し笑う。


「信用、少し増えました?」


「確認が増えただけだ」


「厳しい」


 同行するのは、若い観測員と土属性術師の二人だけ。


 魔導具教師と副学院長は入口側に残る。


 観測員は腰へ小型の測定具と通信具を付け、支柱の間を慎重に抜けた。


 昨日は投影盤でしか見えなかった通路が、今日は目の前にある。


 中へ入った瞬間、匂いが変わった。


「……泥の匂い、強いですね」


『足元は?』


 通信具から副学院長の声。


「乾いてるところと湿ってるところがあります。滑るほどじゃない」


 土属性術師が一歩先で床を感知する。


「最初の五歩、問題なし」


「進む」


 一歩。


 二歩。


 泥が靴底へわずかに付く。


 三歩。


 右壁の細い溝には、黒い水がゆっくり流れている。


「水、見えます」


『方向は?』


「昨日の感知通り。水没区画から離れる方向」


 四歩。


 五歩。


 ここで一度止まる。


 土属性術師が再感知。


「六から十も安定。ただし右壁上部に細い亀裂あり」


「近づくな」


「了解」


 六歩。


 七歩。


 八歩。


 昨日映像で見えた金属板が、少しずつ近づく。


 泥の中へ半分埋まり、斜めに傾いている。


 九歩。


 十歩。


「十」


 若い観測員が止まった。


 金属板までは、あと四歩ほど。


 届かない。


 手を伸ばしても無理だ。


「板、見えます」


『刻印は?』


「昨日よりはっきり……でも泥がついてて読めません」


『近づくな』


「分かってます」


 若い観測員は少し悔しそうに息を吐く。


 それでも動かなかった。


「十歩で止まりました」


『当たり前だ』


「自分から報告したのに」


『偉い偉い』


「雑!」


 入口側から小さな笑いが聞こえる。


 土属性術師はそんなやり取りの横で、壁と水路を確認していた。


「流れ、少し強くなってます」


「ここで?」


「入口より。勾配があります」


 若い観測員も壁際を見る。


 細い溝の水面へ、魔導灯の光が細く揺れている。


「下流側?」


「はい。さらに奥へ流れている」


「排水路は生きてる?」


 口にしてから、自分で続けた。


「……少なくともここでは流れてる」


 土属性術師が頷く。


「その言い方がいい」


 若い観測員は苦笑する。


「みんな同じこと言うようになってきた」


「必要だからでしょう」


 十歩の位置から、二人はさらに先を目視する。


 金属板。


 その向こうの緩い曲がり。


 右壁の一部崩落。


 けれど通路は完全には塞がれていない。


「戻ります」


『了解』


 若い観測員は最後に金属板を一度だけ見た。


 気になる。


 読みたい。


 拾いたい。


 けれど、今日は触れない。


 その気持ちを消す必要はない。


 ただ、持ったまま戻る。


     ◇


 朝食後。


 子供は窓辺で鳥を見ていた。


 一羽だけ。


 昨日は二羽いた。


「今日は一羽」


「うん」


「昨日の二羽のどっち?」


「分からないな」


「同じ鳥?」


「見分けられない」


「じゃあ、一羽いる」


「うん」


 鳥は石畳を二度突いたあと、植え込みへ飛び移った。


 枝の奥へ入り、姿が見えなくなる。


「あ」


「見えなくなったね」


 子供は植え込みを見つめる。


「飛んでいった?」


「枝の中に入ったように見えたよ」


「まだいる?」


「声がするかもしれない」


 二人で少し待つ。


 数秒。


 葉が揺れる。


 けれど鳥の姿は出てこない。


「分からない」


「うん」


「探しに行く?」


「庭へ?」


「うん」


「子供は行きたい?」


 子供は少し考えた。


「……行きたくない」


「じゃあ行かない?」


「でも、鳥どこか気になる」


「うん」


「気になるけど、行かない」


「うん」


 子供は植え込みを見たまま続けた。


「鳥、私が見たいから出てこなくていい」


「そうだね」


「見えなくなったら、追わなきゃじゃない」


「うん」


「でも、危なかったら?」


「助けが必要そうなら考えるね」


「今は?」


「普通に植え込みへ入っただけに見える」


「じゃあ、追わない」


「うん」


 子供は少し寂しそうにしながらも、窓から離れた。


 見たい。


 でも追わない。


 知りたい。


 でも確かめに行かない。


 その両方を同時に持つことも、少しずつできるようになっていた。


     ◇


 昼前、東側の狭窄部補強が完了した。


「最初の観測員、入ります」


 サーラが頷く。


「五歩まで。床、壁、通信、感知精度の確認だけです」


「了解」


 選ばれた観測員は大型装備をすべて置き、小型の測定具だけを身体へ固定している。


 身体を横へ向ける。


 肩が古い壁へ触れないよう注意しながら、一歩ずつ狭窄部を抜ける。


 途中、服の端が石へ擦れる音がした。


 室内にいる者たちの呼吸が少し止まる。


「通過」


 通信が入る。


「向こう側、立てます」


「床は?」


「安定しています」


「五歩まで」


「はい」


 一歩。


 二歩。


 これまで遠隔でしか見えていなかった通路。


 三歩。


 四歩。


 五歩。


「停止」


 観測員が言う。


「光の位置は?」


 小型感知盤を確認する。


「……精度、上がりました」


 サーラが少し身を乗り出す。


「どのくらい?」


「輪郭までは無理ですが、位置は昨日よりかなり明確です。左通路内。ここからさらに十数歩以上先」


「人間側からは見える?」


「直接は見えません」


「移動は?」


「今はなし」


 若い観測員がほっとしたように息を吐いた。


「いた」


 サーラが彼を見る。


 言葉を直させるためではない。


 ただ、確認するように。


 若い観測員は少し考える。


「今の感知では、いるって確認できた」


「はい」


 五歩先へ進んだ観測員が、通信越しに言う。


「ここからなら、遠隔感知の中継点として使えそうです」


「常駐できる?」


「一人なら。ただし長時間はきついです。狭窄部を何度も出入りする必要があるので」


「休憩交代が必要ですね」


「はい」


 サーラは少し考えた。


「今日のところは常駐しません」


 若い観測員が顔を上げる。


「せっかく入れたのに?」


「入れることが分かっただけでも十分です」


「でも、ここなら光を見失いにくい」


「必要になったら使えます」


「今は必要じゃない?」


「今の光は止まっています。感知も回復しました。だから、今この瞬間から人を置き続ける必要はありません」


 若い観測員は少し考え、頷いた。


「使える場所ができた。でも使い続けなきゃじゃない」


「そうです」


 向こう側へ入った観測員も、五歩の位置から戻る。


 狭窄部を抜ける。


 人間側は、また元の観測位置へ戻った。


 それでも、昨日までとは違う。


 必要なら、一歩前へ出られる場所がある。


 それが分かった。


     ◇


 昼食後。


 生活観測区画では、顔のない存在がまだ寝台から動いていなかった。


 子供は何度か見た。


 けれど、声はかけない。


 昼食は麦粥と根菜、それから薄い紫色の果実だった。


「紫」


「以前食べたものとは違う種類ですよ」


 治療教師が答える。


「酸っぱい?」


「少し」


「甘い?」


「甘さもあります」


「食べる」


 一口。


 子供は少し目を細める。


「前の紫より甘い」


「好き?」


「今は好き」


 二口目。


 三口目。


 そこで止める。


「今日は三」


「残す?」


「うん」


 治療教師が皿を下げようとすると、子供は少し迷ってから声をかけた。


「あとで残る?」


「この果実なら、夕方までは保存できます」


「じゃあ、一つだけ残したい」


「分かりました」


 小さな器へ一切れだけ移される。


 子供はそれを見る。


「あとで見たら、違うかも」


「味が少し変わるかもしれないね」


「なくなるかも?」


「誰も食べず、保存しておけば急にはなくならないと思います」


「絶対?」


「絶対ではありません」


 子供は少し考えた。


「でも、残す」


「うん」


「あとで違ってても、置いてかれたじゃない?」


 アリシアが少し目を瞬いた。


「どういうこと?」


「私がここ離れて、夕方戻ってきたら、紫の味変わってるかもしれない」


「うん」


「私が見てない間に」


「うん」


「でも紫が私を置いていったわけじゃない」


 ノアの耳がぴくりと動いた。


 アリシアも少し考える。


「そうだね」


「変わっただけ」


「うん」


「この人も?」


 顔のない存在を見る。


「私が寝てるとき戻った。でも、私を置いていった?」


「子供はどう思う?」


「……寝台に戻っただけ」


「うん」


「私に何も言わなかった」


「うん」


「でも言えない」


「そうだね」


「じゃあ、置いてったって決めない」


「うん」


 子供は少しだけ表情を緩めた。


「見てないあいだに変わったら、私から離れたって思うことある」


「うん」


「でも、違うこともある」


「そうだね」


     ◇


 午後。


 西側旧排水坑から戻った調査班は、十歩までの情報を地図へ反映していた。


「水路の勾配はこれくらい」


 土属性術師が指で線を示す。


「入口から十歩の範囲では、確実に下流側へ流れています」


「崩落位置は?」


「十歩より先。金属板のさらに向こう」


「板は?」


 副学院長が若い観測員を見る。


「触ってません」


「聞いただけだ」


「先に言っとこうと思って」


「写真記録は?」


「取ってあります」


 投影板に、泥へ埋もれた金属板の画像が映る。


 昨日より近い。


 刻印も少し見える。


「文字、読めそうですか?」


 魔導具教師が目を細める。


「泥を落とさないと難しい。ただ……」


「何か見える?」


「端に数字か、区画記号のようなものがあります」


 若い観測員が身を乗り出す。


「旧排水坑の番号?」


「分からない」


「水量?」


「分からない」


「制御室?」


「だから分からない」


 副学院長が横から言う。


「三連続」


「すみません」


「でも聞きたくなる気持ちは分かる」


「今日は優しいですね」


「明日、板まで行くか検討する」


 若い観測員の顔が明るくなる。


「本当ですか?」


「条件付きだ。十歩地点まで今日問題なし。崩落も安定。水流も低い。板までは追加四歩程度」


「じゃあ十四歩?」


「距離だけなら」


「行ける?」


「明日の朝、もう一度状態を見てからだ」


「はい」


 魔導具教師が資料を見ながら言う。


「排水判断より先に、板が何の記録なのか確認できれば、水路の用途が分かる可能性があります」


「だから取りに行く?」


 若い観測員が聞く。


「読むために近づく理由は増えた」


 副学院長が答える。


「取り外すかは別だ」


「また別」


「当然だ」


 調査は少しずつ進んでいる。


 けれど、一つ分かったからといって、次の全部が自動的に決まるわけではない。


     ◇


 夕方。


 生活観測区画で、子供が取り置いてもらった紫色の果実を食べようとしていた。


「まだある」


「うん」


 小さな器の中。


 一切れ。


 昼より表面が少し乾いている。


 子供は持ち上げる。


「匂い、少し弱い」


「時間が経ったからかもね」


 一口。


 ゆっくり噛む。


「昼より甘くない」


「違う?」


「うん」


「嫌?」


「嫌じゃない。でも昼の方が好き」


 子供は飲み込む。


「同じ紫なのに」


「うん」


「私が見てない間に変わった」


「うん」


「でも、怒ってない」


「紫に?」


「うん」


 アリシアが少し笑った。


「紫は怒られてると思ってないと思う」


「紫、思わない」


「たぶんね」


 子供も少し笑う。


「でも、人だったら?」


「見てない間に変わったら?」


「うん」


 少し考える。


「サーラ、昨日と今日で違う?」


「何かは違うと思うよ」


「髪?」


「それも少しは」


「気持ちも?」


「たぶん」


「じゃあ、会わない間に変わる」


「うん」


「私も?」


「うん」


 子供は顔のない存在を見る。


「この人も?」


「たぶんね」


「じゃあ、久しぶりに会ったら、前と同じじゃないことある」


「あるよ」


「嫌になる?」


「なることもあるかもしれない」


「でも、置いてかれたじゃない?」


 アリシアは少し考えた。


「変わったことと、置いていくことは別だと思う」


「置いていくって?」


「相手を残して、自分だけ先へ行く感じかな。でも、それも状況で意味は変わると思う」


「難しい」


「うん」


「見てない間に変わったら、勝手に行ったって思うことある」


「あるかもね」


「でも、ただその人の時間が進んだだけかも?」


「うん」


 子供はしばらく黙る。


「私も、サーラ見てない間に変わる」


「うん」


「でもサーラを置いてってない」


「そうだね」


 そのとき。


 隣の寝台で、顔のない存在がゆっくり身体を起こした。


 子供がすぐに気づく。


「起きた」


 人影は足を床へ下ろす。


 立つ。


 一歩。


 子供は数えない。


 二歩。


 三歩。


 昨日は四歩だった。


 今日は、三歩目で止まる。


 しばらく立ったあと、少し身体の向きを変えた。


 窓ではない。


 木箱の方向でもない。


 棚。


 白い花の絵がある方。


 子供の目が少し大きくなる。


「こっち見る?」


 アリシアは答えない。


 顔のない存在は三歩目の位置から、棚の方へ頭を向けたまま動かない。


 胸の十一の光のうち、二つが淡く明るくなる。


「絵?」


 子供が言いかける。


 すぐに止まる。


「……分からない」


「うん」


「花かもしれない。箱かもしれない。違うかも」


「うん」


 子供は絵を持ち上げようとしなかった。


「見せる?」


 自分へ小さく聞く。


 少し考える。


「今日は見せない」


「どうして?」


「この人が見たいって分からない」


「うん」


「私も、今は見せたいが小さい」


「うん」


「サーラには見せた。でも、この人にはまだ」


「そうだね」


 顔のない存在はそのまま三歩目で座った。


 子供は少し離れたところから見ている。


「昨日は四。今日は三」


 そこで少し笑う。


「でも今日は、向き違う」


「うん」


「数だけじゃない」


「そうだね」


「昨日より少ない。でも違うことした」


「うん」


「どっちがいい、ない」


「うん」


 子供は少しだけ満足そうだった。


     ◇


 夜。


 東側の名前のない光は、左側通路で再び少し動いた。


 ただし、人間側が補強を終えた狭窄部へ観測員を入れた時間とは、大きくずれていた。


「移動確認」


 夜勤の観測員が測定盤を見る。


「方向は?」


「奥側。手の幅二つほど」


「観測中継点、使います?」


 若い観測員が尋ねる。


 サーラは数値を見る。


 遠隔感知は、昨日より安定している。


 昼に向こう側へ入って測定環境を調整したことで、現在位置をまだ十分に拾えていた。


「今は使いません」


「まだ見えるから?」


「感知できているからです」


「じゃあ、もっと弱くなったら?」


「必要なら使います」


「観測点があるから、使わなきゃじゃない」


「はい」


 若い観測員は少し笑う。


「何でも同じですね」


「何がです?」


「できるからやる、じゃない」


 サーラも少しだけ笑った。


「最近よく出てくる話ですね」


「扉も。排水坑も。観測点も」


「生活観測区画でも、きっと似た話をしているでしょう」


「子供、今日は何してるんですかね」


「分かりません」


「見に行きます?」


「行きません」


「即答」


「用事がありませんから」


 若い観測員は笑いながら記録板へ視線を落とした。


「でも、いるのは知ってる」


「はい」


「見てないけど」


「はい」


「昨日、本人も似た話してましたね」


 サーラは一瞬だけ、白い花の絵を思い出した。


「そうですね」


     ◇


 生活観測区画では、子供が寝台へ入る前に、棚を一度だけ見ていた。


 白い花。


 絵。


 木箱。


 小皿。


 どれも朝から少しずつ変わっている。


 花弁は欠けた。


 絵は同じように見える。


 箱の留め具はそのまま。


 小皿の中には、今朝拾った花弁がある。


「アリシア」


「うん」


「今日、見てない間に紫変わった」


「うん」


「この人も、昨日見てない間に寝台戻った」


「うん」


「東の光も、私が寝てる間に動く」


「うん」


「サーラも、会ってない間に仕事してる」


「うん」


「私が見てなくても、みんな時間ある」


「そうだね」


 子供は少し考えた。


「前は、見てないと怖かった」


「うん」


「今も怖い」


「うん」


「でも、全部見てなくていい?」


「子供はどう思う?」


「……全部は無理」


「うん」


「寝るし。食べるし。別のことする」


「うん」


「見てない間に変わる」


「うん」


「でも、それだけで置いてかれたって決めない」


「うん」


 声はまだ少し不安そうだった。


「本当に置いてかれることもある?」


 アリシアは誤魔化さなかった。


「あると思う」


「嫌だ」


「うん」


「何も言わないで?」


「そういうこともあるかもしれない」


「じゃあ、どうやって分かる?」


「すぐには分からないこともあるね」


 子供は布団の端を握る。


「また分からない」


「うん」


「嫌」


「うん」


 アリシアは、それでも「大丈夫」とは言わなかった。


 少し長い沈黙のあと、子供が自分から口を開く。


「でも、見てない間に変わっただけなら?」


「うん」


「戻ったとき話せる人なら、聞ける?」


「うん」


「どこ行ってたのって?」


「聞いていいと思う」


「答えたくないって言われる?」


「あるかもしれない」


「またお願い」


「そうだね」


 子供は少しだけ笑った。


「全部つながる」


「何が?」


「お願い。見る。追う。待つ。あとで」


「うん」


「見てない時間も」


「うん」


 隣の寝台では、顔のない存在の胸に一つだけ淡い光が残っている。


 子供はそちらを見た。


「この人、今日三歩だった」


「うん」


「棚の方見た」


「うん」


「絵見たかは分からない」


「うん」


「見せなかった」


「うん」


「明日見せたいかもしれない」


「そうかもね」


「この人も明日、違うかもしれない」


「うん」


「私も」


「うん」


 子供は目を閉じる前に、もう一度棚を見る。


「見てない間に変わっても、昨日がなくなるわけじゃない」


「そうだね」


「でも今日と同じでもない」


「うん」


「じゃあ、明日見たとき、また見る」


「うん」


「前と同じだって決めない」


「うん」


 少しだけ呼吸が緩む。


「おやすみ」


「おやすみ」


 部屋が静かになる。


 窓の外では、夜風が乾いた庭を通り抜けていた。


 水溜まりはもうない。


 けれど、水溜まりがあった場所は残っている。


 白い花は少しずつ崩れている。


 それでも、昨日描いた絵がある。


 顔のない存在は、子供が見ていない時間にも自分で寝台へ戻る。


 名前のない光も、人間が見ていない時間に動く。


 サーラも。


 学院長も。


 セレナも。


 誰も、子供が見ていないからといって止まるわけではない。


 それは少し怖いことだった。


 自分の視界の外でも、世界は続く。


 誰かの時間は進む。


 物は変わる。


 人も変わる。


 戻ったとき、同じ形で待っているとは限らない。


 けれど、変わっていたからといって。


 それだけで、自分を置いていったことにはならない。


 西側の旧排水坑では、人間側が今日十歩進んだ。


 昨日、遠くから見ていた金属板は、今日少し近くから見えた。


 それでも触れなかった。


 東側では、狭窄部の向こうへ人間が五歩だけ入った。


 光はさらに遠くにいた。


 追いつかなかった。


 それでも、今どこにいるのかは昨日より分かりやすくなった。


 近づくことと、追いつくことは同じではない。


 見ていない時間があることと、見捨てられることも同じではない。


 そして。


 見えなくなった相手が、自分の知らないところで少し変わっていたとしても。


 その変化のすべてが、自分から離れるために起きたとは限らなかった。


 夜半。


 西側旧排水坑の観測管が、弱い水音を拾っていた。


 一定ではない。


 ときどき少し強くなり、また弱くなる。


 誰も排水は始めていない。


 誰も内部へ触れていない。


 それでも、水は流れている。


 人間が見ていないところでも。


 誰かに命じられなくても。


 古い地下の奥で、それぞれの時間は静かに進み続けていた。

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