第137話 見えないあいだに変わっていても、置いていかれたとは限らない
翌朝、東側地下区画では、まだ地上の鐘が一度も鳴らないうちから補強作業が始まっていた。
昨日まで人間側の観測を阻んでいた狭窄部は、夜のあいだも形を変えていない。古い壁の一部が崩れ、通路幅の半分近くまで石材がせり出している。人ひとりなら身体を横へ向ければ通れなくはないが、工具や大きな測定具を持ったまま進むには狭く、天井にも細かな亀裂が走っていた。
その向こう。
名前のない光は、昨日入った左側の通路で今も止まっている。
少なくとも、遠隔感知では。
夜中に手の幅ほど奥へ動いたあと、大きな位置変化は確認されていない。ただし、距離と幾重にも重なる古い壁の影響で反応は弱くなっており、以前のように輪郭の細かな変化までは拾えなくなっていた。
「支柱、一つ目固定」
低い声が狭窄部へ響く。
「亀裂側への圧は?」
「基準内です」
「二つ目は急ぐな。先に上を取る」
サーラは作業位置から十分に距離を取り、臨時の記録台で数値を確認していた。
今日は補強担当二名、土属性術師一名、観測員二名。それから狭窄部を実際に越える候補として、身軽な観測員が一人待機している。
誰も、まだ向こう側へ入ってはいない。
「光の反応は?」
「変化ありません」
若い観測員が測定盤を確認する。
「昨日の夜から同じ位置です」
言ってから、少し考えて付け足した。
「……少なくとも、今の感知ではそう見えます」
サーラがほんの少し口元を緩めた。
「その言い方でいいと思います」
「もう、前みたいに『絶対ここです』って言うの怖くなってきました」
「怖がる必要はありません。確認できる範囲を明確にすればいいだけです」
「でも、感知が弱くなってくると、どこまで信用していいか分からなくなります」
「だから観測位置を前へ移すんです」
若い観測員は狭窄部を見る。
「見失わないために」
「はい」
「追いつくためじゃない」
「昨日も話しましたね」
「頭では分かるんですけど、こうやって準備してると、どうしても追いかけてる感じがするんですよ」
サーラはすぐに否定しなかった。
狭窄部の向こうへ人間側が入る。
光が先へ進み、人間がその後を追う。
外から見れば、確かにそう見える。
「動きだけ見れば、追っているように見えるでしょうね」
「ですよね」
「でも、目的まで同じとは限りません」
「光に追いつきたいんじゃなくて、観測できる位置へ移る」
「そうです」
「もし向こうへ行ったあと、光がさらに遠くへ行ったら?」
「そのとき考えます」
「また」
「またです」
若い観測員は少し笑った。
「最近、全部最後はそれになりますね」
「今決められないことを、今決めないだけです」
「簡単そうに言いますね」
「簡単ではないから、毎日同じことを確認しているんでしょう」
支柱の固定音が小さく響いた。
補強担当が手を上げる。
「二本目、安定しました」
「天井は?」
「大きな変化なし」
土属性術師も床へ手を当て、短い感知を行う。
「狭窄部そのものは、昨日より安全です。ただし、向こう側の床は未確認部分が残っています」
「最初の観測員は?」
「五歩まで」
サーラが答える。
「それ以上は進みません」
待機していた観測員が頷いた。
「光のところまでは?」
「行きません」
「距離が近くても?」
「五歩を越えるなら行きません」
「了解」
昨日、西側で十歩までと決めたのと同じように。
東側でも、人間側が自分のための境界を先に決めていた。
光がどこにいるかとは関係なく。
◇
同じ朝。
生活観測区画では、子供が目を覚ましてからもしばらく寝台を出なかった。
窓の外は晴れている。
庭の石畳は完全に乾き、昨日まで残っていた濃い水染みも少し薄くなっていた。植え込みには小さな鳥が一羽だけいて、枝から枝へ短く移動している。
白い花は、また少し変わっていた。
茎に残る花弁は、昨日よりさらに少ない。
小皿へ入れた乾いた花弁の一枚は、夜のあいだに端が少し欠けている。
その隣には、子供が描いた絵。
さらに棚の下には、少し動かしたままの木箱がある。
ただし、子供が今見ていたのは、そのどれでもなかった。
隣の寝台。
顔のない存在。
昨日は四歩だけ歩いたあと床へ座り、夜にはまた自分で寝台へ戻っている。
今朝はまだ動かない。
「いる」
子供が小さく言った。
アリシアは椅子に座ったまま頷く。
「うん」
「昨日、四歩」
「うん」
「夜、戻った」
「そうだね」
「私、見てなかった」
「戻る途中?」
「うん」
子供は顔のない存在を見る。
「寝てた?」
「その時間は子供も寝てたよ」
「じゃあ、見てないあいだに戻った」
「うん」
「前もあった」
「そうだね」
子供は少し考え込む。
「見てないときも、この人、動く」
「うん」
「私が見てなくても?」
「うん」
「私が知らなくても?」
「そうだね」
そこに、少しだけ複雑な顔が浮かんだ。
「嫌?」
アリシアが尋ねる。
「……少し」
「どうして?」
「知らない間に変わる」
「うん」
「見てたら分かった」
「うん」
「でも寝てた」
「うん」
子供は布団の端を少し握る。
「私が寝たら、何かなくなるかもしれない」
白い花。
水溜まり。
小さな欠片。
これまで、見ていない時間に変わったものが幾つもある。
アリシアはすぐに安心させる言葉を返さなかった。
「そういうことはあるね」
「じゃあ、寝ない方がいい?」
「子供はどう思う?」
子供はすぐには答えなかった。
窓。
棚。
顔のない存在。
少しずつ視線を動かす。
「……寝ないの、無理」
「うん」
「ずっと見てるのも無理」
「うん」
「でも見てない間に変わる」
「そうだね」
「嫌だ」
「うん」
嫌だという気持ちは、そのまま残された。
それでも、子供はしばらくして布団を押し下げた。
「でも寝た」
「うん」
「朝になった」
「うん」
「この人、いる」
「うん」
「花もある。少なくなったけど」
「うん」
「絵もある」
「うん」
「箱もある」
「そうだね」
子供は少しだけ息を吐いた。
「全部同じじゃない。でも、全部なくなったでもない」
「うん」
そこで、顔のない存在の胸にある十一の光のうち、一つが淡く明るさを増した。
子供がすぐに気づく。
「一つ」
少し待つ。
二つ目は明るくならない。
「今は一つ」
「うん」
それだけ確認して、子供は寝台から降りた。
足の状態を自分で確かめる。
赤みなし。
痛みなし。
足首を回す。
二歩歩く。
「大丈夫」
「あとでセレナ?」
「見るだけ」
「うん」
いつもの確認を終えたあと、子供は棚へ向かった。
白い花の前で止まる。
「欠けた」
「小皿の?」
「うん」
昨日拾った花弁の端が、細かく崩れている。
「誰も触ってない?」
「記録では触ってないよ」
「夜に?」
「たぶん乾いて崩れたんだと思う」
「見てないあいだに」
「うん」
子供はしばらく黙った。
「昨日、拾ってよかったって思った」
「うん」
「今日、欠けた」
「うん」
「じゃあ、拾わなかった方がよかった?」
アリシアはすぐには答えず、子供の表情を見る。
「今、そう思う?」
「少し。でも拾わなくても欠けたかも」
「うん」
「分からない」
「そうだね」
子供は花弁へ指を伸ばさなかった。
「昨日のよかったと、今日の少し嫌、両方ある」
「うん」
「昨日のよかった、なくならない?」
「子供はどう?」
少し考える。
「……まだある」
「じゃあ、あるんだと思う」
子供は小さく頷いた。
「昨日は拾ってよかった。今日は欠けて悲しい」
「うん」
「同じ花弁」
「うん」
「でも気持ち変わる」
「そうだね」
紙の絵へ視線を移す。
「サーラに見せたのは、まだよかった」
「うん」
「今日、見せなきゃよかったってなるかもしれない?」
「なる可能性はあるね」
子供は少し驚いた顔をした。
「なるの?」
「あとで気持ちが変わることはあるよ」
「じゃあ、昨日の私、困る?」
「どういうこと?」
「昨日は見せたかった。でも今日嫌になったら」
「昨日見せたことは戻せないね」
「サーラ、もう見た」
「うん」
「記録にも少し残った」
「うん」
子供の眉が少し下がる。
「やっぱり難しい」
「うん」
「でも今は、見せてよかった」
「そっか」
「今日の私も」
「うん」
それで話は終わった。
未来の気持ちまで、今決めない。
◇
西側旧排水坑では、入口を人ひとりが通れる程度まで広げる作業が進んでいた。
昨日開けた小さな穴の周囲から石材を一つずつ外し、そのたびに支柱を追加する。
内部から流れてくる冷たい空気は昨日と変わらない。
有害反応なし。
酸素量問題なし。
水流も弱く継続している。
「入口幅、確保」
魔導具教師が確認する。
「支柱は?」
「三本固定。荷重変化なし」
土属性術師が床と天井を感知し、頷く。
「入れます」
副学院長が若い観測員を見る。
「行きたいか?」
「聞くんですか?」
「昨日から顔に出てる」
「……行きたいです」
「十歩までだ」
「はい」
「金属板は?」
「取りません」
「触る?」
「触りません」
「見える位置まで行っても?」
「触りません」
「よし」
若い観測員が少し笑う。
「信用、少し増えました?」
「確認が増えただけだ」
「厳しい」
同行するのは、若い観測員と土属性術師の二人だけ。
魔導具教師と副学院長は入口側に残る。
観測員は腰へ小型の測定具と通信具を付け、支柱の間を慎重に抜けた。
昨日は投影盤でしか見えなかった通路が、今日は目の前にある。
中へ入った瞬間、匂いが変わった。
「……泥の匂い、強いですね」
『足元は?』
通信具から副学院長の声。
「乾いてるところと湿ってるところがあります。滑るほどじゃない」
土属性術師が一歩先で床を感知する。
「最初の五歩、問題なし」
「進む」
一歩。
二歩。
泥が靴底へわずかに付く。
三歩。
右壁の細い溝には、黒い水がゆっくり流れている。
「水、見えます」
『方向は?』
「昨日の感知通り。水没区画から離れる方向」
四歩。
五歩。
ここで一度止まる。
土属性術師が再感知。
「六から十も安定。ただし右壁上部に細い亀裂あり」
「近づくな」
「了解」
六歩。
七歩。
八歩。
昨日映像で見えた金属板が、少しずつ近づく。
泥の中へ半分埋まり、斜めに傾いている。
九歩。
十歩。
「十」
若い観測員が止まった。
金属板までは、あと四歩ほど。
届かない。
手を伸ばしても無理だ。
「板、見えます」
『刻印は?』
「昨日よりはっきり……でも泥がついてて読めません」
『近づくな』
「分かってます」
若い観測員は少し悔しそうに息を吐く。
それでも動かなかった。
「十歩で止まりました」
『当たり前だ』
「自分から報告したのに」
『偉い偉い』
「雑!」
入口側から小さな笑いが聞こえる。
土属性術師はそんなやり取りの横で、壁と水路を確認していた。
「流れ、少し強くなってます」
「ここで?」
「入口より。勾配があります」
若い観測員も壁際を見る。
細い溝の水面へ、魔導灯の光が細く揺れている。
「下流側?」
「はい。さらに奥へ流れている」
「排水路は生きてる?」
口にしてから、自分で続けた。
「……少なくともここでは流れてる」
土属性術師が頷く。
「その言い方がいい」
若い観測員は苦笑する。
「みんな同じこと言うようになってきた」
「必要だからでしょう」
十歩の位置から、二人はさらに先を目視する。
金属板。
その向こうの緩い曲がり。
右壁の一部崩落。
けれど通路は完全には塞がれていない。
「戻ります」
『了解』
若い観測員は最後に金属板を一度だけ見た。
気になる。
読みたい。
拾いたい。
けれど、今日は触れない。
その気持ちを消す必要はない。
ただ、持ったまま戻る。
◇
朝食後。
子供は窓辺で鳥を見ていた。
一羽だけ。
昨日は二羽いた。
「今日は一羽」
「うん」
「昨日の二羽のどっち?」
「分からないな」
「同じ鳥?」
「見分けられない」
「じゃあ、一羽いる」
「うん」
鳥は石畳を二度突いたあと、植え込みへ飛び移った。
枝の奥へ入り、姿が見えなくなる。
「あ」
「見えなくなったね」
子供は植え込みを見つめる。
「飛んでいった?」
「枝の中に入ったように見えたよ」
「まだいる?」
「声がするかもしれない」
二人で少し待つ。
数秒。
葉が揺れる。
けれど鳥の姿は出てこない。
「分からない」
「うん」
「探しに行く?」
「庭へ?」
「うん」
「子供は行きたい?」
子供は少し考えた。
「……行きたくない」
「じゃあ行かない?」
「でも、鳥どこか気になる」
「うん」
「気になるけど、行かない」
「うん」
子供は植え込みを見たまま続けた。
「鳥、私が見たいから出てこなくていい」
「そうだね」
「見えなくなったら、追わなきゃじゃない」
「うん」
「でも、危なかったら?」
「助けが必要そうなら考えるね」
「今は?」
「普通に植え込みへ入っただけに見える」
「じゃあ、追わない」
「うん」
子供は少し寂しそうにしながらも、窓から離れた。
見たい。
でも追わない。
知りたい。
でも確かめに行かない。
その両方を同時に持つことも、少しずつできるようになっていた。
◇
昼前、東側の狭窄部補強が完了した。
「最初の観測員、入ります」
サーラが頷く。
「五歩まで。床、壁、通信、感知精度の確認だけです」
「了解」
選ばれた観測員は大型装備をすべて置き、小型の測定具だけを身体へ固定している。
身体を横へ向ける。
肩が古い壁へ触れないよう注意しながら、一歩ずつ狭窄部を抜ける。
途中、服の端が石へ擦れる音がした。
室内にいる者たちの呼吸が少し止まる。
「通過」
通信が入る。
「向こう側、立てます」
「床は?」
「安定しています」
「五歩まで」
「はい」
一歩。
二歩。
これまで遠隔でしか見えていなかった通路。
三歩。
四歩。
五歩。
「停止」
観測員が言う。
「光の位置は?」
小型感知盤を確認する。
「……精度、上がりました」
サーラが少し身を乗り出す。
「どのくらい?」
「輪郭までは無理ですが、位置は昨日よりかなり明確です。左通路内。ここからさらに十数歩以上先」
「人間側からは見える?」
「直接は見えません」
「移動は?」
「今はなし」
若い観測員がほっとしたように息を吐いた。
「いた」
サーラが彼を見る。
言葉を直させるためではない。
ただ、確認するように。
若い観測員は少し考える。
「今の感知では、いるって確認できた」
「はい」
五歩先へ進んだ観測員が、通信越しに言う。
「ここからなら、遠隔感知の中継点として使えそうです」
「常駐できる?」
「一人なら。ただし長時間はきついです。狭窄部を何度も出入りする必要があるので」
「休憩交代が必要ですね」
「はい」
サーラは少し考えた。
「今日のところは常駐しません」
若い観測員が顔を上げる。
「せっかく入れたのに?」
「入れることが分かっただけでも十分です」
「でも、ここなら光を見失いにくい」
「必要になったら使えます」
「今は必要じゃない?」
「今の光は止まっています。感知も回復しました。だから、今この瞬間から人を置き続ける必要はありません」
若い観測員は少し考え、頷いた。
「使える場所ができた。でも使い続けなきゃじゃない」
「そうです」
向こう側へ入った観測員も、五歩の位置から戻る。
狭窄部を抜ける。
人間側は、また元の観測位置へ戻った。
それでも、昨日までとは違う。
必要なら、一歩前へ出られる場所がある。
それが分かった。
◇
昼食後。
生活観測区画では、顔のない存在がまだ寝台から動いていなかった。
子供は何度か見た。
けれど、声はかけない。
昼食は麦粥と根菜、それから薄い紫色の果実だった。
「紫」
「以前食べたものとは違う種類ですよ」
治療教師が答える。
「酸っぱい?」
「少し」
「甘い?」
「甘さもあります」
「食べる」
一口。
子供は少し目を細める。
「前の紫より甘い」
「好き?」
「今は好き」
二口目。
三口目。
そこで止める。
「今日は三」
「残す?」
「うん」
治療教師が皿を下げようとすると、子供は少し迷ってから声をかけた。
「あとで残る?」
「この果実なら、夕方までは保存できます」
「じゃあ、一つだけ残したい」
「分かりました」
小さな器へ一切れだけ移される。
子供はそれを見る。
「あとで見たら、違うかも」
「味が少し変わるかもしれないね」
「なくなるかも?」
「誰も食べず、保存しておけば急にはなくならないと思います」
「絶対?」
「絶対ではありません」
子供は少し考えた。
「でも、残す」
「うん」
「あとで違ってても、置いてかれたじゃない?」
アリシアが少し目を瞬いた。
「どういうこと?」
「私がここ離れて、夕方戻ってきたら、紫の味変わってるかもしれない」
「うん」
「私が見てない間に」
「うん」
「でも紫が私を置いていったわけじゃない」
ノアの耳がぴくりと動いた。
アリシアも少し考える。
「そうだね」
「変わっただけ」
「うん」
「この人も?」
顔のない存在を見る。
「私が寝てるとき戻った。でも、私を置いていった?」
「子供はどう思う?」
「……寝台に戻っただけ」
「うん」
「私に何も言わなかった」
「うん」
「でも言えない」
「そうだね」
「じゃあ、置いてったって決めない」
「うん」
子供は少しだけ表情を緩めた。
「見てないあいだに変わったら、私から離れたって思うことある」
「うん」
「でも、違うこともある」
「そうだね」
◇
午後。
西側旧排水坑から戻った調査班は、十歩までの情報を地図へ反映していた。
「水路の勾配はこれくらい」
土属性術師が指で線を示す。
「入口から十歩の範囲では、確実に下流側へ流れています」
「崩落位置は?」
「十歩より先。金属板のさらに向こう」
「板は?」
副学院長が若い観測員を見る。
「触ってません」
「聞いただけだ」
「先に言っとこうと思って」
「写真記録は?」
「取ってあります」
投影板に、泥へ埋もれた金属板の画像が映る。
昨日より近い。
刻印も少し見える。
「文字、読めそうですか?」
魔導具教師が目を細める。
「泥を落とさないと難しい。ただ……」
「何か見える?」
「端に数字か、区画記号のようなものがあります」
若い観測員が身を乗り出す。
「旧排水坑の番号?」
「分からない」
「水量?」
「分からない」
「制御室?」
「だから分からない」
副学院長が横から言う。
「三連続」
「すみません」
「でも聞きたくなる気持ちは分かる」
「今日は優しいですね」
「明日、板まで行くか検討する」
若い観測員の顔が明るくなる。
「本当ですか?」
「条件付きだ。十歩地点まで今日問題なし。崩落も安定。水流も低い。板までは追加四歩程度」
「じゃあ十四歩?」
「距離だけなら」
「行ける?」
「明日の朝、もう一度状態を見てからだ」
「はい」
魔導具教師が資料を見ながら言う。
「排水判断より先に、板が何の記録なのか確認できれば、水路の用途が分かる可能性があります」
「だから取りに行く?」
若い観測員が聞く。
「読むために近づく理由は増えた」
副学院長が答える。
「取り外すかは別だ」
「また別」
「当然だ」
調査は少しずつ進んでいる。
けれど、一つ分かったからといって、次の全部が自動的に決まるわけではない。
◇
夕方。
生活観測区画で、子供が取り置いてもらった紫色の果実を食べようとしていた。
「まだある」
「うん」
小さな器の中。
一切れ。
昼より表面が少し乾いている。
子供は持ち上げる。
「匂い、少し弱い」
「時間が経ったからかもね」
一口。
ゆっくり噛む。
「昼より甘くない」
「違う?」
「うん」
「嫌?」
「嫌じゃない。でも昼の方が好き」
子供は飲み込む。
「同じ紫なのに」
「うん」
「私が見てない間に変わった」
「うん」
「でも、怒ってない」
「紫に?」
「うん」
アリシアが少し笑った。
「紫は怒られてると思ってないと思う」
「紫、思わない」
「たぶんね」
子供も少し笑う。
「でも、人だったら?」
「見てない間に変わったら?」
「うん」
少し考える。
「サーラ、昨日と今日で違う?」
「何かは違うと思うよ」
「髪?」
「それも少しは」
「気持ちも?」
「たぶん」
「じゃあ、会わない間に変わる」
「うん」
「私も?」
「うん」
子供は顔のない存在を見る。
「この人も?」
「たぶんね」
「じゃあ、久しぶりに会ったら、前と同じじゃないことある」
「あるよ」
「嫌になる?」
「なることもあるかもしれない」
「でも、置いてかれたじゃない?」
アリシアは少し考えた。
「変わったことと、置いていくことは別だと思う」
「置いていくって?」
「相手を残して、自分だけ先へ行く感じかな。でも、それも状況で意味は変わると思う」
「難しい」
「うん」
「見てない間に変わったら、勝手に行ったって思うことある」
「あるかもね」
「でも、ただその人の時間が進んだだけかも?」
「うん」
子供はしばらく黙る。
「私も、サーラ見てない間に変わる」
「うん」
「でもサーラを置いてってない」
「そうだね」
そのとき。
隣の寝台で、顔のない存在がゆっくり身体を起こした。
子供がすぐに気づく。
「起きた」
人影は足を床へ下ろす。
立つ。
一歩。
子供は数えない。
二歩。
三歩。
昨日は四歩だった。
今日は、三歩目で止まる。
しばらく立ったあと、少し身体の向きを変えた。
窓ではない。
木箱の方向でもない。
棚。
白い花の絵がある方。
子供の目が少し大きくなる。
「こっち見る?」
アリシアは答えない。
顔のない存在は三歩目の位置から、棚の方へ頭を向けたまま動かない。
胸の十一の光のうち、二つが淡く明るくなる。
「絵?」
子供が言いかける。
すぐに止まる。
「……分からない」
「うん」
「花かもしれない。箱かもしれない。違うかも」
「うん」
子供は絵を持ち上げようとしなかった。
「見せる?」
自分へ小さく聞く。
少し考える。
「今日は見せない」
「どうして?」
「この人が見たいって分からない」
「うん」
「私も、今は見せたいが小さい」
「うん」
「サーラには見せた。でも、この人にはまだ」
「そうだね」
顔のない存在はそのまま三歩目で座った。
子供は少し離れたところから見ている。
「昨日は四。今日は三」
そこで少し笑う。
「でも今日は、向き違う」
「うん」
「数だけじゃない」
「そうだね」
「昨日より少ない。でも違うことした」
「うん」
「どっちがいい、ない」
「うん」
子供は少しだけ満足そうだった。
◇
夜。
東側の名前のない光は、左側通路で再び少し動いた。
ただし、人間側が補強を終えた狭窄部へ観測員を入れた時間とは、大きくずれていた。
「移動確認」
夜勤の観測員が測定盤を見る。
「方向は?」
「奥側。手の幅二つほど」
「観測中継点、使います?」
若い観測員が尋ねる。
サーラは数値を見る。
遠隔感知は、昨日より安定している。
昼に向こう側へ入って測定環境を調整したことで、現在位置をまだ十分に拾えていた。
「今は使いません」
「まだ見えるから?」
「感知できているからです」
「じゃあ、もっと弱くなったら?」
「必要なら使います」
「観測点があるから、使わなきゃじゃない」
「はい」
若い観測員は少し笑う。
「何でも同じですね」
「何がです?」
「できるからやる、じゃない」
サーラも少しだけ笑った。
「最近よく出てくる話ですね」
「扉も。排水坑も。観測点も」
「生活観測区画でも、きっと似た話をしているでしょう」
「子供、今日は何してるんですかね」
「分かりません」
「見に行きます?」
「行きません」
「即答」
「用事がありませんから」
若い観測員は笑いながら記録板へ視線を落とした。
「でも、いるのは知ってる」
「はい」
「見てないけど」
「はい」
「昨日、本人も似た話してましたね」
サーラは一瞬だけ、白い花の絵を思い出した。
「そうですね」
◇
生活観測区画では、子供が寝台へ入る前に、棚を一度だけ見ていた。
白い花。
絵。
木箱。
小皿。
どれも朝から少しずつ変わっている。
花弁は欠けた。
絵は同じように見える。
箱の留め具はそのまま。
小皿の中には、今朝拾った花弁がある。
「アリシア」
「うん」
「今日、見てない間に紫変わった」
「うん」
「この人も、昨日見てない間に寝台戻った」
「うん」
「東の光も、私が寝てる間に動く」
「うん」
「サーラも、会ってない間に仕事してる」
「うん」
「私が見てなくても、みんな時間ある」
「そうだね」
子供は少し考えた。
「前は、見てないと怖かった」
「うん」
「今も怖い」
「うん」
「でも、全部見てなくていい?」
「子供はどう思う?」
「……全部は無理」
「うん」
「寝るし。食べるし。別のことする」
「うん」
「見てない間に変わる」
「うん」
「でも、それだけで置いてかれたって決めない」
「うん」
声はまだ少し不安そうだった。
「本当に置いてかれることもある?」
アリシアは誤魔化さなかった。
「あると思う」
「嫌だ」
「うん」
「何も言わないで?」
「そういうこともあるかもしれない」
「じゃあ、どうやって分かる?」
「すぐには分からないこともあるね」
子供は布団の端を握る。
「また分からない」
「うん」
「嫌」
「うん」
アリシアは、それでも「大丈夫」とは言わなかった。
少し長い沈黙のあと、子供が自分から口を開く。
「でも、見てない間に変わっただけなら?」
「うん」
「戻ったとき話せる人なら、聞ける?」
「うん」
「どこ行ってたのって?」
「聞いていいと思う」
「答えたくないって言われる?」
「あるかもしれない」
「またお願い」
「そうだね」
子供は少しだけ笑った。
「全部つながる」
「何が?」
「お願い。見る。追う。待つ。あとで」
「うん」
「見てない時間も」
「うん」
隣の寝台では、顔のない存在の胸に一つだけ淡い光が残っている。
子供はそちらを見た。
「この人、今日三歩だった」
「うん」
「棚の方見た」
「うん」
「絵見たかは分からない」
「うん」
「見せなかった」
「うん」
「明日見せたいかもしれない」
「そうかもね」
「この人も明日、違うかもしれない」
「うん」
「私も」
「うん」
子供は目を閉じる前に、もう一度棚を見る。
「見てない間に変わっても、昨日がなくなるわけじゃない」
「そうだね」
「でも今日と同じでもない」
「うん」
「じゃあ、明日見たとき、また見る」
「うん」
「前と同じだって決めない」
「うん」
少しだけ呼吸が緩む。
「おやすみ」
「おやすみ」
部屋が静かになる。
窓の外では、夜風が乾いた庭を通り抜けていた。
水溜まりはもうない。
けれど、水溜まりがあった場所は残っている。
白い花は少しずつ崩れている。
それでも、昨日描いた絵がある。
顔のない存在は、子供が見ていない時間にも自分で寝台へ戻る。
名前のない光も、人間が見ていない時間に動く。
サーラも。
学院長も。
セレナも。
誰も、子供が見ていないからといって止まるわけではない。
それは少し怖いことだった。
自分の視界の外でも、世界は続く。
誰かの時間は進む。
物は変わる。
人も変わる。
戻ったとき、同じ形で待っているとは限らない。
けれど、変わっていたからといって。
それだけで、自分を置いていったことにはならない。
西側の旧排水坑では、人間側が今日十歩進んだ。
昨日、遠くから見ていた金属板は、今日少し近くから見えた。
それでも触れなかった。
東側では、狭窄部の向こうへ人間が五歩だけ入った。
光はさらに遠くにいた。
追いつかなかった。
それでも、今どこにいるのかは昨日より分かりやすくなった。
近づくことと、追いつくことは同じではない。
見ていない時間があることと、見捨てられることも同じではない。
そして。
見えなくなった相手が、自分の知らないところで少し変わっていたとしても。
その変化のすべてが、自分から離れるために起きたとは限らなかった。
夜半。
西側旧排水坑の観測管が、弱い水音を拾っていた。
一定ではない。
ときどき少し強くなり、また弱くなる。
誰も排水は始めていない。
誰も内部へ触れていない。
それでも、水は流れている。
人間が見ていないところでも。
誰かに命じられなくても。
古い地下の奥で、それぞれの時間は静かに進み続けていた。




