第138話 近づけるようになったからといって、近くにい続けなければならないわけではない
翌朝、東側地下区画では、狭窄部の向こう側へ通じる補強箇所を、もう一度最初から確認する作業が行われていた。
昨日、人間が初めて身体を横へ向けて通過した場所。
崩れかけた壁へ二本の支柱を追加し、天井の亀裂にも最低限の固定を入れたことで、一人ずつなら向こう側へ移れる状態になっている。
けれど、一晩経ったからといって、昨日安全だったものを今日も同じように扱うことはしなかった。
地下の石は動く。
湿度も変わる。
わずかな振動で荷重のかかり方が変わることもある。
昨日できたことが、今日もできるとは限らない。
「支柱一、変位なし」
「二も問題ありません」
「天井亀裂?」
「昨日との差は測定誤差内です」
土属性術師が床へ手を当てる。
弱い感知。
短く区切り、一度離す。
さらに別の角度からもう一度。
「向こう側の床も安定しています」
サーラは記録板へ一つずつ書き込んでいった。
狭窄部のさらに先。
左側通路へ入った名前のない光は、昨夜の微小移動以降、大きな位置変化をしていない。
ただし今朝の遠隔感知は、昨日よりわずかに弱かった。
「距離のせい?」
若い観測員が測定盤を見る。
「昨日より奥へ少し動いた分はあると思います」
別の観測員が答える。
「ただ、湿度も上がっています。壁の含水率が少し変わっているので、減衰量が増えた可能性も」
「じゃあ、光そのものが弱くなった?」
「そこまでは分かりません」
「ですよね」
最近は、答えを聞く前から少しだけ予想できるようになっている。
若い観測員は苦笑した。
「向こう側の中継位置を使いますか?」
サーラはすぐには答えなかった。
昨日、人間側が五歩だけ入った場所。
そこへ小型の中継感知具を一時設置すれば、今より光の位置を拾いやすくなる可能性がある。
設置そのものは難しくない。
人が通れることも確認済み。
道具も準備されている。
「使えるから使う、ではないんですよね」
若い観測員が先に言った。
サーラが少しだけ笑う。
「はい」
「じゃあ、今の感知で足りてる?」
「位置は取れています。輪郭精度は低いですが、危険値も接続値も大きな変化なし」
「なら、まだここから」
「そうします」
若い観測員は狭窄部を見る。
「昨日、通れるって分かったから、今日は向こうに観測員を置くんだと思ってました」
「置く案はあります」
「でも今は置かない」
「はい」
「せっかく近づけるようになったのに」
その言葉に、サーラは少し考える。
「近づけることと、近くにい続けることも同じではありません」
若い観測員が顔を上げた。
「また増えましたね」
「何がです?」
「似てるけど違うやつ」
「地下には多いですね」
「生活観測区画にも多そうですけど」
「たぶん、そちらの方が多いでしょう」
サーラは左側通路の反応をもう一度確認した。
光は、まだそこにいると感知できる。
今のところは。
◇
同じ頃。
西側旧排水坑では、昨日より四歩だけ先へ進む準備が始まっていた。
入口は昨日のうちに補強されている。
十歩地点までは一度人間が往復済み。
泥の状態も、水の流れも、夜間に大きく変化していない。
今日は、その先。
泥へ半分埋もれた金属板まで。
距離にしておよそ十四歩。
ただし、目的は金属板を持ち帰ることではない。
近くで見る。
読めるものがあるか確認する。
必要なら記録する。
触れるかどうかは、そのあと。
「確認するぞ」
副学院長が入口前で若い観測員を見る。
「十四歩まで」
「はい」
「十五歩目は?」
「行きません」
「板は?」
「触りません」
「泥を払う?」
「今はしません」
「持ち上げる?」
「しません」
「裏返す?」
「しません」
「拾って帰る?」
「しません!」
最後だけ声が少し大きくなった。
近くにいた魔導具教師が笑う。
「かなり信用されてませんね」
「昨日より確認増えてません?」
「昨日より板が近いからな」
「理由がちゃんとしてて言い返せない」
年長の観測員も口元を緩める。
「十四歩まで行って、目の前にあるものに触らないのは結構難しいぞ」
「分かってます」
「本当に?」
「……たぶん」
「今の返事で不安になった」
小さな笑いが起こる。
けれど、若い観測員自身も以前ほどそれを嫌がっていなかった。
信用されていない。
そう受け取ろうと思えば受け取れる。
だが、今は違う。
行動する前に境界を共有しておく。
途中で気持ちが変わっても、その場で判断をやり直せるようにする。
それは、自分だけを疑っているからではない。
「じゃあ入ります」
「土術師と二人。通信は常時」
「了解」
二人が旧排水坑へ入る。
昨日通った十歩までは、足元の感覚にも少し慣れていた。
一歩。
二歩。
壁際の水は今朝も弱く流れている。
三歩。
泥の匂い。
湿った石。
四歩。
昨日は投影盤でしか見えなかったものを、自分の目で見た。
今日はさらにその先へ行く。
五。
六。
七。
八。
九。
十。
「十歩地点」
『状態は?』
「昨日と大きな変化なしです」
土属性術師が一度感知する。
「十一から十四まで床安定。右壁上部の亀裂も拡大なし」
『進め』
「はい」
十一。
昨日より一歩先。
十二。
金属板が近づく。
十三。
泥へ埋もれた表面の刻印が、少し読めそうになる。
そして十四歩目。
「十四」
若い観測員は止まった。
金属板は、もう手を伸ばせば届きそうな距離だった。
ほんの少し前へ身体を傾ければ、泥のついていない端まで見える。
「……近い」
『触るなよ』
通信具から即座に副学院長の声が飛んできた。
「分かってます」
「見えるものは?」
魔導具教師の声。
若い観測員はしゃがまず、その位置から目を凝らす。
「細長い板です。長さは腕一本より少し長い。幅は手のひら二つ分くらい。片側に穴が二つ……固定用かもしれません」
『かもしれない、でいい』
「はい」
表面へ魔導灯を向ける。
泥の隙間から、刻印が見える。
「文字あります」
『読める?』
「最初……『第……排水』?」
若い観測員が目を細める。
「違う。『第二排……』」
魔導具教師が通信越しに言う。
『無理に読まないでください。見える形をそのまま記録できますか?』
「はい」
携帯記録板へ線を写す。
文字らしきもの。
数字らしきもの。
泥に隠れた部分。
全部を推測で補わない。
「もう一つ、矢印みたいな刻印があります。水の流れと同じ方向」
『それは重要かもしれません』
「排水方向?」
『まだ決めません』
「分かってますって」
自分から少し笑った。
そのとき、土属性術師が右壁へ視線を向ける。
「水音、少し変わりました」
若い観測員も耳を澄ます。
壁際の細い溝。
昨日までは一定に近かった小さな流れが、今は少しだけ強く聞こえる。
「増えた?」
「ここ数呼吸だけ」
『上流側の変化は?』
入口側で測定していた魔導具教師が答える。
『水没区画側観測値に大きな変化なし』
「じゃあ、この辺だけ?」
「分かりません」
土属性術師が床へ手を触れる。
短い感知。
「下流側で一時的に流れやすくなった可能性があります」
「詰まりが取れた?」
「可能性はあります。ただし確定できません」
若い観測員は金属板を見た。
そして、ほんの少しだけ身体を動かしかける。
板の向こうを見たい。
あと一歩行けば、曲がり角も少し見える。
けれど。
「十四歩」
自分で言った。
足を止める。
通信具の向こうから、副学院長が返す。
『そうだ』
「戻ります」
『板は?』
「置いていきます」
『よし』
「近くまで来たのに」
『だから何だ』
少し笑いを含んだ声。
若い観測員も苦笑する。
「ですよね」
近づけた。
手も届きそうだった。
だからといって、触れなければならないわけではない。
二人は十四歩目から引き返した。
◇
生活観測区画では、子供が朝食のあとも白い花の絵へ触れずにいた。
昨日サーラへ見せた。
学院長にも。
セレナにも。
今日は、見せたい相手はいない。
それでも絵は棚の上にある。
誰かへ見せる予定がなくても。
見せるためだけに描いたものではないから。
子供は窓辺へ行き、庭を見る。
今朝も鳥は一羽いた。
昨日と同じ鳥かは分からない。
石畳へ下りず、今日は植え込みの上の枝に止まっている。
「近い?」
子供が聞く。
「昨日より窓からは近いかも」
「鳥、私の近くに来た?」
「距離は近くなったね」
「私に?」
アリシアは少し考える。
「それは分からないな」
「うん」
子供もすぐ頷いた。
鳥は窓を見ているようにも見える。
けれど、その小さな頭がどこを正確に見ているのかまでは分からない。
「窓開けたら、もっと近くなる?」
「物理的にはね」
「開ける?」
「子供は開けたい?」
子供は鳥を見る。
そして窓の留め具を見る。
「少し」
「鳥に近づきたい?」
「見たい」
「うん」
「でも飛んでくかも」
「そうだね」
「窓開けた音で?」
「可能性はあるよ」
子供は少し考える。
「じゃあ開けない」
「飛んでいってほしくないから?」
「それもある。でも、今ここから見える」
「うん」
「近くにしたいけど、近くにしなくても見える」
「うん」
鳥は枝の上で羽を一度膨らませる。
そのまま動かない。
「近い方がいい?」
子供が今度は自分へ尋ねる。
少し時間を置く。
「……いつもじゃない」
「どうして?」
「近いと見やすい。でも、近すぎたら鳥、嫌かもしれない」
「そうだね」
「私も、人が近いの嫌なときある」
「うん」
「サーラは、昨日近づかなかった」
「うん」
「見える距離で見た」
「そうだね」
「学院長も入口」
「うん」
「セレナも三歩」
「うん」
子供は窓の外と室内を交互に見る。
「近づけるけど、近づかないことある」
「あるね」
「近くにいたいけど、少し離れてることも?」
「あると思うよ」
「アリシアは?」
「私と子供?」
「うん」
突然向けられた問いに、アリシアは少し目を瞬いた。
「今は、このくらいがいいかな」
二歩ほど離れた位置。
子供が普段受け入れている距離。
「もっと近く行ける?」
「子供がいいって言ったらね」
「来たい?」
アリシアはすぐに「行きたい」と答えなかった。
「近くにいたいとは思うよ。でも、近づきたいかは、そのときによるかな」
「違う?」
「隣の部屋にいても近くにいるって感じることはあるし、同じ部屋にいても少し距離がほしいこともあるから」
「……近くって、距離だけじゃない?」
「そうかもしれないね」
子供は少し考え込んだ。
窓の外の鳥が、枝からもう一つ外側の枝へ移る。
窓からは少し遠くなった。
「あ」
「離れたね」
「でもまだ見える」
「うん」
子供は追うように窓へ顔を近づけなかった。
「今は、これでいい」
◇
朝の確認を終えたあとも、顔のない存在は寝台から起き上がらなかった。
胸の十一の光は、最初に二つ。
少し時間が経って三つ。
そして朝食が終わる頃にはまた二つへ戻っている。
子供はそのたびに見ていた。
けれど、もう毎回口には出さない。
しばらくしてから、まとめるように言った。
「朝、二つ。途中三つ。今二つ」
「うん」
「全部言わなくても、見てた」
「うん」
「記録しなきゃだめ?」
「子供自身の記録?」
「うん」
「したいならしていいし、全部しなくてもいいと思う」
「学院の人はする?」
「必要な値はね」
「私も必要?」
「子供は何のために数えてる?」
子供は顔のない存在を見る。
「前は……怖かったから」
「うん」
「消えたら嫌だった」
「うん」
「今も嫌」
「うん」
「でも、ずっと見てるの疲れる」
「そうだね」
「じゃあ、見たいときだけ?」
「そうしてもいいよ」
「見逃したら?」
「変わってることはあるかもしれない」
子供の表情が少し曇る。
昨日から続いている話。
見ていない間にも、物や人は変わる。
「でも、全部見なくていい?」
「全部を見るのは難しいと思う」
「……うん」
子供は胸の十一の光をもう一度見る。
「今日は、ずっと見ない」
「決めた?」
「ううん。今は見ない」
「うん」
子供は顔のない存在から視線を外し、木箱の方へ向かった。
◇
木箱の留め具は、数日前から中途半端な位置にある。
完全に閉じているわけではない。
外れてもいない。
子供が一度大きく動かし、怖くなったところで少し戻した位置。
それ以来、誰も触れていない。
子供は箱の前へ座る。
「今日は触る?」
自分へ尋ねるように呟く。
アリシアは少し離れた場所で見ている。
「近づいた」
「箱に?」
「うん」
「どう?」
「……前より怖くないかも」
「うん」
「でも、開けたいは?」
自分の胸へ手を当てる。
「少し」
「うん」
「今、近くにいる」
「うん」
「ずっとここにいなきゃ?」
「どうして?」
「開けるまで」
アリシアは少し考える。
「開けるまで箱の前にいなくてもいいよ」
「途中なのに?」
「うん」
「近くに来たのに?」
「うん」
子供は箱を見る。
「じゃあ、触らないで離れてもいい?」
「もちろん」
「近づいたのに?」
「近づいたことは消えないよ」
子供はしばらく黙った。
「昨日、サーラに近づいた」
「うん」
「見せて、帰った」
「うん」
「ずっと近くにいなかった」
「そうだね」
「それでも見せた」
「うん」
少し考えたあと、子供は箱へ手を伸ばさなかった。
「今日は見るだけ」
「うん」
「でも近くで見た」
「うん」
「もう離れる」
立ち上がる。
本当に、そのまま離れた。
箱は開かない。
留め具も動かない。
けれど、近づいて見たという時間だけは残った。
◇
昼前。
東側で、遠隔感知の値が一度大きく揺れた。
「低下」
若い観測員の声が変わる。
サーラが測定盤へ近づく。
「位置は?」
「左通路内。昨日の位置付近……ただ、精度が急に落ちました」
「接続値?」
「読み取り不安定」
「危険値?」
「判定不能に近いです」
観測室の空気が一気に張り詰める。
「光が消えた?」
誰かが言う。
サーラがすぐに否定も肯定もしない。
「今分かるのは、感知精度が落ちたことです」
「観測中継点を使いますか?」
若い観測員が尋ねる。
今朝は使わないと決めた場所。
けれど状況は変わった。
サーラは数値をもう一度確認する。
「使います」
返事は早かった。
若い観測員が一瞬だけ目を見開く。
「今は理由がある?」
「はい。現在位置を十分に確認できません」
「了解」
補強済みの狭窄部へ、昨日と同じ観測員が向かう。
小型感知具。
中継器。
通信具。
最低限だけ。
「向こう側へ入ります」
「五歩地点まで」
「はい」
身体を横へ向ける。
補強材の間を抜ける。
向こう側。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
五歩。
「停止。中継器起動」
小型結晶が淡く明るくなる。
観測室側の測定盤に、新しい値が入る。
「反応回復」
若い観測員が息を吐く。
「位置?」
「左通路内。昨日より少し奥」
「光そのものの光量は?」
「大きく低下していません。こちら側の感知環境の問題だった可能性が高いです」
「壁?」
「湿度変化と、途中の古い導線に微弱なノイズが出ています」
サーラはゆっくり息を吐いた。
「なら、この位置でしばらく中継を維持」
「常駐?」
「今は必要です」
朝とは違う判断。
若い観測員が小さく頷く。
「朝は置かなかった。でも今は置く」
「状況が変わりましたから」
「できるから置くじゃない。必要になったから置く」
「はい」
向こう側の観測員が通信越しに笑った。
『俺、今日は五歩地点に住むんですか?』
「住みません」
サーラが即答する。
『そこまで強く言わなくても』
「交代制です。一時間ごと」
『了解』
若い観測員が笑う。
「近くにい続けるわけじゃないんですね」
「人間にも休憩は必要です」
「光が動いたら?」
「中継点から取れる範囲で記録します」
「さらに遠くへ行ったら?」
「また考えます」
「やっぱり最後はそれ」
「それ以外に何があります?」
張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
光は、そこにいた。
朝より少し遠く。
それでも今は、位置を確認できている。
◇
昼食時。
学院長から東側の感知が一度不安定になった話を聞いた子供は、箸を持ったまましばらく黙っていた。
「見えなくなった?」
「正確には、遠くから調べる道具で分かりにくくなった」
「今は?」
「狭いところの向こうへ人が一人入って、近い場所から測ったら、また位置が分かった」
「追った?」
子供がすぐ尋ねる。
学院長は少し考える。
「観測のために近づいた」
「光まで?」
「光のところまでは行っていない」
「どのくらい?」
「人間側は狭窄部の向こうへ五歩。光はそこからさらに十歩以上先だ」
「近くなった?」
「昨日よりはな」
「でも一緒じゃない」
「うん」
子供は麦粥を一口食べる。
「人、そこにずっといる?」
「交代しながら、今は観測員を置いている」
「ずっと?」
「必要なあいだだけ」
「朝はいなかった?」
「いなかった」
「今はいる」
「ああ」
「朝は近くにいなくてよかった。でも今は近くにいる方がいい?」
「今は、観測するためにはその方がいいと判断した」
子供は少し考える。
「近づけるようになったから近くにいる、じゃない」
「そうだ」
「必要になったから」
「うん」
「必要なくなったら?」
「戻る」
子供は顔のない存在を見る。
今日はまだ寝台にいる。
「この人も?」
「何が?」
「私、近くにいた方がいいときある?」
アリシアが少し姿勢を変える。
「子供が?」
「うん。この人の近くに」
「必要なときはあるかもしれないね。危ないときとか、何かお願いされたときとか」
「お願い言わない」
「そうだね」
「じゃあ分からない」
「うん」
子供は少し眉を寄せる。
「でも、私が近くにいたいときは?」
「その気持ちも大事だよ」
「近くに行っていい?」
「この人が嫌がる反応がなく、安全な距離ならね」
「ずっと?」
「子供がずっといたい?」
子供はすぐ首を横へ振った。
「疲れる」
「うん」
「じゃあ、近くに行って、離れてもいい」
「うん」
「近づいたら、そこにい続けなきゃじゃない」
「そうだね」
子供は少しだけ笑った。
「箱と同じ」
「少し似てるね」
「でも箱は嫌って言わない」
「うん」
「同じじゃない」
「そうだね」
◇
午後になって、顔のない存在がようやく身体を起こした。
子供はすぐに気づいた。
けれど、今日は最初から数えなかった。
人影が寝台の端へ足を下ろす。
少し止まる。
立つ。
一歩。
二歩。
三歩。
昨日と同じ位置。
そこから、さらに一歩。
四歩目。
子供は黙って見ている。
五歩目。
少しだけ目が大きくなる。
顔のない存在は、五歩目で止まった。
窓までにはまだ距離がある。
木片の場所でもない。
棚の方でもない。
ただ、部屋の途中。
人影はその場に立ったまましばらく動かず、それからゆっくり床へ座った。
「今日は五」
座ってから、子供が言う。
「うん」
「昨日三だった」
「うん」
「一昨日四」
「そうだね」
「数字ばらばら」
「うん」
「でも、私、今ちょっと近く行きたい」
アリシアは子供を見る。
「人影の近くへ?」
「うん」
「どのくらい?」
子供は床を見る。
自分と人影の間。
「三歩くらい離れる」
「うん」
子供はゆっくり歩いた。
一歩。
二歩。
三歩。
人影から三歩ほど離れたところで止まる。
「ここ」
顔のない存在は動かない。
胸の十一の光は二つだけ淡く明るい。
子供はその場へ座った。
何も渡さない。
木片も持っていない。
絵もない。
ただ、近くへ来ただけ。
「何する?」
アリシアが静かに尋ねる。
「何もしない」
「うん」
「近くにいたかった」
「うん」
それから数分。
誰も話さない。
午後の光が床へ伸びている。
換気術式の低い音。
庭の鳥の声。
人影の胸で、光が一つ増え、三つになる。
子供は気づいた。
けれど原因を結び付けない。
「今は三つ」
それだけ。
さらに少しして、子供が立ち上がった。
「戻る」
「もう?」
「うん」
「どうして?」
「近くにいたかったの終わった」
アリシアは少し笑った。
「そっか」
「嫌になったじゃない」
「うん」
「もう十分」
「うん」
子供は自分の席へ戻る。
顔のない存在は、そのまま五歩目に座っている。
「近くに行った。でも、ずっといなかった」
「うん」
「この人、置いてきた?」
「どう思う?」
子供は人影を見る。
「……違う。私は自分の席に戻った」
「うん」
「この人はここにいる」
「うん」
「離れたけど、置いてったじゃない」
「そうだね」
子供は少し安心したように息を吐いた。
◇
夕方、西側旧排水坑で記録した金属板の刻印について、魔導具教師から第一報が出た。
「『第二排水支路』の可能性があります」
仮設観測室へ戻った若い観測員が顔を上げる。
「読めたんですか?」
「全部ではありません。見える部分を過去記録と照合しただけです」
「じゃあ第二排水支路って決まった?」
「まだ」
「ですよね」
副学院長が地図へ目を落とす。
「もし第二排水支路なら?」
「古い西側水量補助制御室から出た余剰水を、主排水路へ合流させる枝水路だった可能性があります」
「水没区画とは?」
「位置関係は合います」
「なら、水没区画の水を抜ける?」
若い観測員が尋ねる。
少しして、自分から付け足す。
「可能性が上がる?」
「上がる」
魔導具教師が答える。
「ただし、今の水没区画が当時と同じ排水接続を保っているかは分かりません」
「金属板を泥から出せば、もっと読める?」
「可能性はあります」
若い観測員の顔に期待が出る。
副学院長がすぐ見る。
「明日取りに行く?」
「聞こうと思いました」
「正直でよろしい」
「じゃあ?」
副学院長は即答しなかった。
「泥から出すだけなら、板そのものを壊す危険は低いか?」
「腐食状態を近くで確認してからです」
「裏面に術式がある可能性は?」
「あります」
「魔力反応?」
「今のところなし」
「なら明日、十四歩地点で状態確認。問題なければ泥を表面だけ除去する。持ち上げない」
「触れるところまで進んだ」
若い観測員が少し嬉しそうに言う。
「進んだ、でいいんですか?」
「何に対して?」
副学院長の問いに、観測員は少し考える。
「金属板の調査」
「それなら進んだと言っていいだろう」
「おお」
「ただし、排水作業が進んだとはまだ言うな」
「はい」
同じ「進む」でも、何について話しているかで意味が違う。
若い観測員は、もうそれを理解し始めていた。
◇
夕食。
子供の皿には、小さな焼き野菜と麦粥、それから薄く切られた甘い根菜が乗っていた。
今日は誰かと分けるものはない。
子供は焼き野菜を一つ食べ、二つ目を少し迷ってから口へ運ぶ。
「おいしい?」
「うん。今日は好き」
「名前つける?」
「焼き橙」
「色で?」
「うん」
「昨日の橙と同じ名前に近いね」
「でも違う」
「うん」
三つ目。
そこで手を止める。
「もういい」
「まだあるけど?」
「うん」
「近くにあるね」
アリシアが少し笑いながら言う。
子供も今日の話を思い出したらしく笑う。
「近くにあるから食べ続けなくていい」
「そうだね」
「食べられるけど」
「うん」
「おいしいけど」
「うん」
「もういらない」
「分かりました」
治療教師が皿を下げる。
子供はそれを見送る。
「食べられると、食べたい、違う」
「うん」
「近づけると、近づきたいも違う」
「うん」
「近くにいたいと、近くにい続けるも違う」
「うん」
子供は少し眉を寄せた。
「いっぱい増えた」
「違うもの?」
「うん」
「嫌?」
「ちょっと」
「そっか」
「でも、前より分けられる」
その言葉だけで終わった。
誰も褒めない。
けれど、治療教師の表情がわずかに柔らかくなっているのを、アリシアは見ていた。
◇
夜。
東側の中継観測点では、三人目の交代観測員が五歩地点に入っていた。
人間一人。
一時間。
それが終われば戻る。
次の者へ交代する。
光はさらに奥へ進んでいない。
「反応安定」
『了解』
通信越しの若い観測員が記録する。
「今、そこに一人いるんですよね」
『いるよ』
「寂しくないですか?」
『狭いし暗いし、寂しいというより早く交代したい』
「正直」
『ここを居場所にする気はない』
観測室に小さな笑いが起きる。
サーラも少しだけ笑った。
「一時間経過。交代してください」
『了解』
観測員が中継器の状態を確認する。
「中継器は置いたまま?」
「はい。人だけ交代します」
「人がいなくても動く?」
「一定時間は」
「じゃあ次の人、少し遅れても?」
「通信精度は保てます」
若い観測員が頷く。
「近くに人がい続けなくてもいい」
「そうですね」
「光の近くに道具はある」
「正確には、光から十歩以上離れています」
「でも昨日より近い」
「はい」
「それで十分?」
「今は」
若い観測員が笑う。
「便利ですね、今は」
「かなり」
サーラも否定しなかった。
◇
生活観測区画では、寝る前の子供が白い花の絵ではなく、今日は木箱を見ていた。
留め具は動いていない。
朝、近くまで行った。
見ただけ。
触れずに離れた。
「アリシア」
「うん」
「今日、箱の近く行った」
「うん」
「開けなかった」
「うん」
「それで、今また見てる」
「うん」
「近づいたのに何もしなかった」
「うん」
「無駄?」
アリシアは少し考えた。
「子供はどう思う?」
「……見た」
「うん」
「前より怖くないかもって分かった」
「うん」
「じゃあ、何もしてないじゃない」
「そうだね」
「でも箱は変わってない」
「大きくはね」
「開いてない」
「うん」
「でも私が少し違う」
「うん」
子供は少しだけ笑った。
「じゃあ、近づくだけの日もある」
「あるね」
「近くにいるだけも」
「うん」
「離れるだけも?」
「あるよ」
「何もしない?」
「外から見ればそう見えるかもしれない」
「でも自分は違う?」
「子供が何か感じたり考えたりしてたなら、それもその時間だと思う」
子供は木箱から視線を外し、隣の寝台を見る。
顔のない存在は、夜になると自分で寝台へ戻っていた。
子供はその移動の途中を見ていなかった。
「この人、戻った」
「うん」
「私、近く行ったとき、三歩離れてた」
「うん」
「戻るときは見てない」
「うん」
「でも今、寝台」
「うん」
「私が近くにいなくても戻った」
「そうだね」
「私、いなくてよかった?」
アリシアは少し慎重に答える。
「少なくとも、戻るために子供がそばにいる必要はなかったみたいだね」
「必要ない」
「うん」
子供の顔に、一瞬だけ寂しさが浮かんだ。
アリシアはそこを見逃さなかった。
「寂しい?」
「……少し」
「うん」
「私いなくてもできる」
「うん」
「じゃあ、私はいらない?」
アリシアはすぐには否定しなかった。
その問いの中には、これまで与えられてきた「役割」と、自分が誰かのそばにいる意味とが混ざっている。
「子供がいなくてもできることがあるのと、子供がいらないことは同じじゃないよ」
「違う?」
「うん」
「どう違う?」
「誰かに必要とされる理由が、『その人が一人ではできないことを代わりにする』だけとは限らないから」
子供は少し難しい顔をする。
「例えば?」
「ノアは私がいなくても歩けるし、食べられる」
『当然よ』
「でも一緒にいる」
「どうして?」
アリシアはノアを見る。
『何で私に振るのよ』
「聞かれてる」
『あなたが勝手に答えなさい』
「ノアは答えたくないって」
『そうは言ってない!』
「じゃあ何て?」
『……一緒にいたいからいることだってあるでしょう』
アリシアは少し笑った。
「ノアは、一緒にいたいからいることもあるって」
子供が黒猫を見る。
「必要だからじゃない?」
『必要でもあるわよ。主に私がアリシアを監督するために』
「余計」
「ノアはアリシアいないと困る?」
『多少は』
「多少なんだ」
子供が笑う。
空気が少し緩んだあと、アリシアは続けた。
「役に立つから一緒にいることもある。助けが必要だから近くにいることもある。でも、それだけじゃないよ」
「何もしなくても?」
「うん」
「近くにいて?」
「うん」
「離れてても?」
「関係によっては」
子供は顔のない存在を見る。
「この人、私がいなくても寝台戻れる」
「うん」
「私が木片転がさなくても、いる」
「うん」
「じゃあ、私がこの人を動かす役じゃない」
「うん」
「近くにいたい日は、いていい」
「うん」
「離れたい日は?」
「離れていい」
「この人が困らなかったら?」
「もちろん。困っていても、子供が全部引き受けなきゃいけないとは限らないよ」
子供は長く黙った。
「私、必要じゃなくても近くにいていい?」
「うん」
「必要じゃなくても?」
「うん」
「邪魔じゃなかったら?」
「そうだね」
その答えをすぐ安心として受け取ることはできないらしい。
子供はしばらく布団の端を触っていた。
「前、必要だからいた」
「水の中?」
小さく頷く。
「役だった」
「うん」
「必要なくなったら?」
声が少しだけ掠れた。
アリシアは続きを聞かずに待つ。
「……分からない」
「うん」
「だから、必要じゃないって怖い」
「そうなんだね」
「いらないになるみたい」
「うん」
アリシアは、その怖さを否定しなかった。
必要とされなくても大丈夫。
そんな一言で済ませるには、子供の中で「必要」という言葉が長く重すぎた。
「でも今日、この人は一人で戻った」
「うん」
「私、いらなかった」
「戻す役としてはね」
「……戻す役」
「うん」
「でも私はここにいた」
「うん」
「昼、近くに行った」
「うん」
「何もしなかった」
「うん」
「それでも、いた」
「そうだね」
子供は少しだけ目を潤ませた。
「何もしなくても、いていい?」
「うん」
「近くにいなくても?」
「うん」
「役なくても?」
アリシアは静かに頷いた。
「うん」
すぐに子供の表情が明るくなることはなかった。
むしろ、難しいことを聞いたような顔だった。
「まだ分からない」
「うん」
「でも、少し覚える」
「うん」
「必要だから近くにいる、だけじゃない」
「そうだね」
子供は隣の寝台へ目を向ける。
「この人も、私が必要だからここにいるって決めない」
「うん」
「私の近くにいたいからとも決めない」
「うん」
「今いる」
「うん」
「それだけ」
「そうだね」
子供はゆっくり横になった。
◇
夜半。
西側旧排水坑では、十四歩地点までの人間側の移動による影響がなかったか、夜間観測が続いていた。
水流。
支柱。
地盤。
魔力反応。
どれにも大きな変化はない。
金属板も、そのまま泥の中へ残されている。
東側では、中継観測点の交代が続いていた。
光は左側通路の奥で停止。
観測員は一時間ごとに入れ替わる。
誰か一人が、ずっと近くに残ることはない。
それでも観測は続いている。
生活観測区画では、子供が眠り始めていた。
今日、子供は顔のない存在の近くへ三歩の距離まで自分から行った。
何もしなかった。
少しのあいだ、ただそこにいた。
そして、自分から離れた。
顔のない存在はそのあともそこに残り、夜には自分で寝台へ戻った。
子供が助けなくても。
子供が見ていなくても。
それは、子供がいらないということではない。
少なくとも、「寝台へ戻す役」は必要なかった。
けれど、役がないことと。
存在する意味がないことも。
同じではなかった。
人間側も、東側の光へ以前より近づけるようになった。
狭窄部を越えられる。
観測中継点を置ける。
人を交代で配置できる。
だからといって、光のそばへ誰かをずっと置く必要はない。
西側でも、金属板まであと手を伸ばせる距離まで近づいた。
けれど今日は触れなかった。
近づけること。
触れられること。
助けられること。
見守れること。
それらができるようになったとしても。
いつでも。
ずっと。
そうし続けなければならないわけではない。
近くへ行く日もある。
離れる日もある。
必要だからそばにいることもある。
何もしなくても、一緒にいたいからいることもある。
そして。
誰かが自分一人でできるようになったからといって。
そこから自分の存在まで消えるわけではない。
深夜。
東側の中継感知具が、左側通路の光のさらに奥に、ごく弱い別の反応を一度だけ拾った。
「反応」
夜勤の観測員が顔を上げる。
「光ですか?」
「違います」
サーラが測定盤へ近づく。
「位置は?」
「光よりさらに奥。かなり弱いです」
「生命反応?」
「ありません」
「設備?」
「分かりません」
反応は一度。
そして消えた。
「追います?」
若い観測員が尋ねる。
少し考えて、自分から首を横へ振る。
「……今は、記録だけですね」
サーラが頷く。
「はい」
近づける場所はできた。
だからこそ。
近づけるという事実そのものを、新しい命令にはしない。
左側通路の奥。
直接見えない場所に、名前のない光がいる。
そのさらに先で、一度だけ別の反応があった。
今夜分かるのは、そこまでだった。




