第139話 役に立たない時間まで、なくしてしまわなくていい
翌朝、東側地下区画の中継観測点では、夜半に一度だけ確認された微弱な反応について、まだ結論が出ていなかった。
狭窄部の向こう側へ設置された小型感知具は、夜のあいだも低い光を保ちながら稼働している。昨日から一時間ごとに交代していた観測員は、夜明け前から二時間ごとの交代へ変更されていた。中継器の動作が安定していることと、名前のない光が大きく移動していないことを確認できたため、人が頻繁に出入りする方がかえって地下へ余計な振動を与えると判断されたからだ。
左側通路の奥。
名前のない光は、今朝もそこにいる。
少なくとも、中継感知具が拾っている値の上では。
そして、そのさらに奥。
昨夜一度だけ現れた別の反応は、その後一度も再確認されていなかった。
「夜間分、全部見ました」
若い観測員が記録紙の束を机へ置いた。
夜勤明けで少し目の下に疲れが出ているものの、声はまだしっかりしている。
「類似反応なし。光側の値にも、その時間だけ特別な変化はありませんでした」
サーラは記録を一枚ずつ確認する。
「反応が出た時刻の人間側作業は?」
「交代の十九分後です。中継点の観測員は座って記録していただけ。狭窄部側にも人の移動なし」
「西側との同期?」
「確認しました。西側では同時刻に目立った反応なしです」
「学院内の大きな魔術使用?」
「訓練場も含め、該当なし」
「では現時点では?」
若い観測員が少し考える。
「一度だけ、光より奥側で微弱な魔力反応を検出した。発生源、用途、光との関係は不明。その後再検出なし」
「はい」
「……慣れましたね、こういう書き方」
「いいことです」
「何も分からないままみたいで、最初は嫌だったんですけど」
若い観測員は椅子へ腰を下ろし、少しだけ肩を回した。
「最近は、分からないなら分からないで残せば、あとで使えるかもしれないって思えるようになりました」
「使えないかもしれませんよ」
「それもありです」
「ずいぶん強くなりましたね」
「褒めてます?」
「七割くらい」
若い観測員が顔を上げる。
「七割?」
「残り三割は、今の返事を少し誇らしそうに言っていたので」
「厳しい」
サーラの口元がわずかに緩む。
部屋の空気も、ほんの少しだけ軽くなった。
「今日は中継点の人員を減らします」
サーラが資料を閉じながら言う。
「減らす?」
「中継器だけで十分な時間帯を作ります。朝から昼までは一時間ごとの有人確認。それ以外は狭窄部こちら側から通信状態だけを見る」
「人が近くにいない時間を作る?」
「はい」
「昨日は、感知が不安定になったから近くに置いたのに?」
「必要だったから置きました。でも、必要だったことが永続するとは限りません」
若い観測員は少し考え、昨日の話を思い出したように頷いた。
「近くにい続けなくていい」
「そうです」
「でも、昨夜別の反応が一回出た」
「だから監視をやめるわけではありません」
「人を置かないだけ」
「はい」
サーラは狭窄部の向こうを直接見ることはできない。
それでも、そこに人がいない時間を作ることを不安とは呼ばなかった。
「人がいることと、観測していることも同じではありません」
若い観測員が苦笑する。
「今日の一個目ですか」
「何が?」
「似てるけど違うやつ」
「朝から数えないでください」
「子供の影響ですかね」
「それは本人に聞いてください」
サーラはそう返し、今朝の最初の交代時刻を記録板へ書き込んだ。
光はまだそこにいる。
人間側は、少しだけ離れたところからそれを確認する。
それで足りる時間もある。
◇
西側旧排水坑では、泥へ半分埋もれた金属板を調べる準備が始まっていた。
昨日十四歩地点まで進み、触れずに戻った。
今朝は、その十四歩地点で金属板の腐食状態を確認し、問題がなければ表面の泥だけを少し取り除く。
持ち上げない。
裏返さない。
持ち帰らない。
決められているのはそこまでだった。
「確認します」
副学院長が若い観測員を見る。
「またですか」
「まただ」
「十四歩まで。板の表面確認。泥は上側だけ。側面へ器具を差し込まない。持ち上げない。裏を見ない。持ち帰らない」
「よし」
「昨日より増えてないですか?」
「今日は触るからな」
「そこは信用じゃなくて手順なんですね」
「最初からそう言ってる」
魔導具教師が横から笑う。
「でも昨日触らず帰ってきたんですから、少し信用は増えたんじゃないですか?」
副学院長は若い観測員を見る。
「一日分」
「少ない!」
「積み重ねろ」
「何日必要なんですか」
「お前次第だ」
「終わりが見えない」
周囲に小さな笑いが広がる。
その空気が少し落ち着いてから、二人が旧排水坑へ入った。
昨日と同じ若い観測員。
同じ土属性術師。
入口から十歩までは、もう二度通っている。
けれど歩き慣れたからといって、確認を省くことはしない。
泥の深さ。
壁際の水量。
天井の亀裂。
昨日と変わっていないかを一つずつ見ながら進む。
「十歩」
『状態は?』
「問題なし」
「十一」
土属性術師が小さく頷く。
「十二」
金属板が見えてくる。
「十三」
昨日より緊張は少ない。
それでも、手を伸ばしたくなる感覚はまだ残っている。
「十四」
止まる。
「到達」
『まず目視』
「はい」
若い観測員は板の表面を見る。
昨夜のあいだに位置が変わった形跡はない。
泥も大きく崩れていない。
「腐食、昨日と同じように見えます」
『測定具』
魔導具教師の指示で、小型感知器を板へ近づける。
直接触れない距離。
「魔力反応なし」
「残留?」
「ほぼなし」
「温度差?」
「周囲の泥とほぼ同じ」
「なら、表面泥除去を許可する。ただし上面だけ」
副学院長の声が通信から届く。
「了解」
若い観測員は、薄い木製のへらを取り出した。
金属より柔らかい素材。
板そのものを傷つけにくくするためだ。
「触ります」
『どうぞ』
へらの先が泥へ入る。
昨日までは見るだけだった距離。
今日は、初めてその周囲へ手を加える。
表面をほんの少し。
薄く。
一度に広く取らない。
泥が剥がれ、下から黒ずんだ金属面が現れる。
「文字、増えました」
『読まずに形を取って』
「はい」
若い観測員は自分で笑った。
「先に言われる前に分かりました」
『成長したな』
「今のは褒めてます?」
『三割』
「少ない!」
副学院長の笑い声が通信越しに聞こえる。
若い観測員は記録紙へ刻印の形を写す。
一文字目。
二文字目。
欠けた部分。
泥に隠れている部分は、空白のまま。
「矢印、昨日よりはっきりしました」
『向きは?』
「下流側。たぶん」
『たぶん?』
「矢印に見える形、です」
『よし』
「厳しいなあ」
さらに泥を少し取る。
板の中央付近に、別の列が現れた。
「数字?」
『見える形を』
「縦線二本。その横に……三?」
魔導具教師が通信越しに答える。
『あとで照合します』
「はい」
若い観測員は、そこでへらを止めた。
「まだ取れます」
『予定量は?』
「表面の三分の一くらい」
『今どこまで?』
「三分の一弱」
「では止めろ」
「はい」
即答だった。
以前なら、あとほんの少しだからと続けたくなったかもしれない。
今も、気にならないわけではない。
むしろ、文字が見え始めたからこそ気になる。
「……ちょうど読めそうなところで止まるの、すごく嫌ですね」
『分かる』
副学院長も同意した。
「でも止める?」
『止める』
「ですよね」
へらをしまう。
金属板は泥の中に残ったまま。
持ち上げない。
裏返さない。
その場から離れる。
「役に立つ情報、少し増えました」
『そうだな』
「でも板は持って帰らない」
『そうだ』
「触ったのに」
『だから何だ』
「最近それ多いですね」
『お前が毎回同じところで引っかかるからだ』
若い観測員は苦笑しながら、十四歩地点を離れた。
◇
生活観測区画では、朝食を終えた子供が何もしていなかった。
正確には。
椅子へ座っていた。
窓の外を見ているわけでもない。
白い花を見ているわけでもない。
木箱にも触れていない。
顔のない存在も見ていない。
ただ、椅子へ座り、両足を床につけ、膝の上に手を置いている。
アリシアは最初、それを休んでいるのだと思っていた。
けれど十分ほど経っても、子供は何も始めない。
ノアは窓辺で前脚を伸ばしながら一度欠伸をした。
『今日は暇なの?』
「ノアが?」
『あの子が』
「たぶん」
『いいじゃない』
「うん」
アリシアもそう思う。
生活観測区画は、何かを進めるためだけの場所ではない。
食べる。
眠る。
遊ぶ。
休む。
何もしない。
そういう時間を持つために、ここまで運用を変えてきた。
それでも、子供自身が「何もしない時間」をどう感じているかまでは、まだ十分に分かっていなかった。
しばらくして、子供が口を開く。
「アリシア」
「うん」
「今、私何してる?」
少し不思議な問いだった。
「椅子に座ってる」
「それだけ?」
「私から見れば」
「何もしてない?」
アリシアは少し考える。
「特別なことはしてないね」
「……うん」
子供は自分の手を見る。
「何かした方がいい?」
「どうして?」
「朝ごはん終わった」
「うん」
「足も見た」
「うん」
「花も見てない。箱も見てない。この人も今見てない」
「うん」
「じゃあ、何する?」
「子供は何かしたい?」
長い沈黙。
「……分からない」
「じゃあ、分かるまで座っててもいいよ」
「何もしないで?」
「うん」
子供の眉が少し寄る。
「役ない」
その言葉に、アリシアは昨日の夜を思い出した。
必要。
役。
いらない。
それらは子供の中で、まだ簡単には切り離せない。
「今はね」
「役ない時間?」
「うん」
「それでいい?」
「いいよ」
「誰か困らない?」
「今は困らないと思う」
「治療教師も?」
少し離れた場所にいる治療教師が答える。
「今すぐしてほしいことはありません」
「学院長は?」
扉の外から声が返る。
「今はないぞ」
「セレナ?」
「確認は終わっています」
少し遠い位置から答えが届く。
子供は部屋の中を見回した。
「本当にない」
「うん」
「じゃあ、私、役立ってない?」
アリシアは、その言葉へすぐ「そんなことない」と被せなかった。
「今、誰かを助けることはしてないね」
子供の表情が少しだけ固くなる。
それでもアリシアは続けた。
「でも、それでいい時間だよ」
「いいの?」
「うん」
「何もしてないのに?」
「うん」
「役立ってないのに?」
「うん」
子供は困ったように唇を結ぶ。
「変」
「そう感じる?」
「うん。何かしないと、時間なくなる」
「時間が?」
「うん。朝が終わる」
「終わるね」
「何もしてないまま?」
「そういう朝もあるよ」
「もったいない?」
「子供は?」
子供は窓を見る。
鳥はいない。
庭は静か。
風で枝だけが揺れている。
「……少し、もったいない気がする」
「うん」
「でも、何したいか分からない」
「うん」
「じゃあ、無理に探す?」
「探したい?」
「それも分からない」
子供は少し悩んだあと、椅子の背へ身体を預けた。
「じゃあ、もう少し何もしない」
「うん」
その決断は、小さかった。
けれど子供の顔には、木箱の留め具へ触れたときとは別の種類の緊張があった。
何もしない。
誰かの役に立たない。
何も進めない。
それを自分で選ぶことが、子供にはまだ少し怖い。
◇
十分。
さらに十分。
子供は時々窓を見た。
それは何かを観測するためではなく、ただ目が向いただけだった。
白い花の方へ視線が行く。
けれど立たない。
木箱を見る。
それでも近づかない。
隣の寝台にいる顔のない存在が、今朝はまだ起き上がらないことにも気づいていた。
それでも数えない。
やがて、子供が小さく息を吐いた。
「……暇」
アリシアが少し笑う。
「暇なんだ」
「うん」
「嫌?」
「少し」
「何かしたい?」
「少し」
「何する?」
「分からない」
「まだ分からないんだ」
「うん」
子供自身も可笑しくなったらしく、少し笑った。
「暇なのに、何したいか分からない」
「あるよ、そういうこと」
「アリシアも?」
「ある」
「ノアは?」
『いつでも寝られるから暇とは無縁ね』
「ノアは寝るって」
「ずるい」
『何がよ』
「私も寝る?」
「眠い?」
「眠くない」
『なら無理に寝る必要ないでしょう』
訳してもらった子供が頷く。
「寝るも、したいとき」
「そうだね」
また少し沈黙が落ちる。
今度の沈黙は、先ほどより重くない。
「アリシア」
「うん」
「何もしないの、慣れる?」
「どうだろう。私は割と苦手かも」
『知ってる』
「ノアうるさい」
「アリシアも苦手?」
「考え始めちゃうからね」
「何を?」
「いろいろ」
「いっぱい考えるの、何かしてる?」
予想外の角度だった。
アリシアは少し考える。
「頭の中では、してるのかも」
「じゃあ、本当に何もしないってできる?」
「難しいかもしれないね」
「座ってても、考えてる」
「うん」
「呼吸もしてる」
「うん」
「見ることもある」
「うん」
子供は自分の手を見る。
「じゃあ、何もしないって、何?」
「誰かから求められた役割をしなくていい時間、とか?」
アリシアが答えると、子供は少し目を見開いた。
「役割がない時間」
「そういう意味なら近いかな」
「でも私、自分で何かしてもいい?」
「もちろん」
「しなくても?」
「うん」
「途中で始めても?」
「うん」
「またやめても?」
「うん」
子供は少しだけ肩を落とした。
緊張が抜けたようにも見える。
「じゃあ、暇でいい」
「うん」
「今は」
「うん」
そのまま子供は、もうしばらく椅子へ座っていた。
◇
昼前。
東側中継観測点で、人がいない時間が初めて設定された。
観測員が狭窄部の向こう側から戻ってくる。
中継器だけが五歩地点に残る。
通信は継続。
感知値も届いている。
「退出確認」
「中継器正常」
「光側?」
「位置変化なし」
若い観測員が測定盤を見る。
「人、向こうにゼロ」
「はい」
「ちょっと不安ですね」
「何が?」
「誰もいないのが」
サーラが彼を見る。
「昨日まで交代でずっといたから」
「一日で慣れたんですか?」
「人間って怖いですね」
「自分で言わないでください」
若い観測員は苦笑する。
「でも、道具は動いてる」
「はい」
「何かあれば?」
「異常値が出れば知らせます」
「そのとき人が行く」
「必要なら」
「今はいかない」
「はい」
狭窄部の向こう側。
人はいない。
小型中継器だけが淡い光を出している。
そのさらに奥に、名前のない光。
もっと奥には、昨夜一度だけ反応が出た場所。
誰もそこへ近づかない。
「人がいないと、何もしてない感じがしますね」
若い観測員が言う。
サーラが記録板から目を上げる。
「中継器は動いています」
「そうですけど」
「こちらでも記録しています」
「はい」
「地下の状態は変わっていません」
「はい」
「それでも何もしていない?」
若い観測員は少し考える。
「……積極的な作業はしてない」
「そうですね」
「でも、待ってる」
「それも仕事です」
「待つだけで給料もらえる?」
「今さら何を言ってるんです?」
近くの記録係が吹き出した。
「夜勤観測、ほぼ待つ仕事でしょう」
「いや、そうなんですけど、言葉にすると」
「異常がない時間に異常を作らないのも仕事ですよ」
年長の記録係が言う。
若い観測員はその言葉をしばらく考えた。
「役に立ってない時間じゃない」
「何の話です?」
「いえ、ちょっと」
サーラは深く追及しなかった。
ただ、少しだけ生活観測区画の子供を思い出した。
◇
西側旧排水坑から持ち帰られたのは、金属板そのものではなかった。
刻印の写し。
泥を除去した範囲の図。
腐食状態の測定値。
それだけ。
魔導具教師は古い記録と照合しながら、午後までかけて一つずつ候補を消していった。
「『第二排水支路』でほぼ間違いないと思います」
副学院長が資料を見る。
「ほぼ?」
「完全ではありません。欠損部分があるので。ただ、同年代の水路標識と文字配置が一致します」
「数字は?」
「支路番号です。二十三ではなく、第二支路を示す古い記法の可能性が高い」
「矢印は?」
「排水方向表示。これも別区画の標識と一致しました」
若い観測員の顔が明るくなる。
「じゃあ、あの水路は水没区画から外へ流すためのもの?」
魔導具教師は少し考える。
「水没区画そのもの、というより、西側水量補助制御室周辺から余剰水を逃がす第二支路だった可能性が高いです」
「水没区画とつながってる?」
「地形上はかなり可能性が高い」
「なら排水――」
若い観測員はそこで止まった。
「……できるか確認する理由が増えた」
副学院長が少しだけ口元を上げた。
「よし」
「今のは褒めました?」
「一割」
「低すぎる!」
周囲に笑いが起きる。
副学院長も少し笑ったあと、地図へ視線を戻した。
「次は何を確認する?」
若い観測員は自分で考える。
「下流側が本当に地下水路へつながっているか」
「ほかは?」
「今の地下水路が水を受けられる状態か。逆流しないか。下流に別区画がないか」
「上流側は?」
「水没区画と本当に接続しているか」
「そうだ」
「じゃあ、板を持ち帰る必要は?」
若い観測員が自分で尋ね、自分で少し考える。
「……今のところない?」
「ないな」
「文字読めたのに」
「それで目的を満たした」
「板、役目終わり?」
魔導具教師が少し笑った。
「私たちにとって今必要だった情報を出してくれた、という意味なら」
「じゃあ、持って帰らない」
「はい」
若い観測員は少し惜しそうに地図を見る。
「記念に欲しいとか言ったら?」
「却下」
「ですよね」
◇
生活観測区画では、昼食前になって子供がようやく椅子から立った。
「何する?」
アリシアは聞かない。
子供自身が棚へ向かう。
白い花。
絵。
木箱。
三つが近くにある。
子供はまず白い花の前で止まった。
「また一枚、落ちそう」
「うん」
「触らない」
「うん」
次に絵。
「見せない」
「うん」
最後に木箱。
「開けない」
「うん」
子供は少し不思議そうに三つを見る。
「全部、しない」
「そうだね」
「じゃあ何しに来た?」
「子供は?」
少し考える。
「見に来た」
「うん」
「それだけ」
「うん」
子供はしばらく棚の前にいた。
それから、白い花の絵だけを手に取る。
アリシアは少し身構えた。
誰かへ見せるのだろうか。
けれど子供は絵を持って、窓際の椅子へ戻った。
紙を膝の上へ置く。
「描く?」
「何を?」
「分からない」
子供は机に置かれていた炭筆を見る。
「何か描きたい?」
「少し」
「白い花?」
「もうある」
「別のもの?」
「分からない」
炭筆を一本取る。
紙は新しいもの。
白い。
子供はしばらく何も描かなかった。
「描けない」
「何を描くか決まらない?」
「うん」
「やめる?」
アリシアが尋ねると、子供は炭筆を見た。
「まだ持ってる」
「うん」
「持ってるだけでもいい?」
「いいよ」
また数分。
やがて、子供は紙の端へ小さな丸を一つ描いた。
「何?」
「分からない」
「丸?」
「うん」
その横へ、もう一つ。
今度は少し小さい。
少し離れた位置に、三つ目。
「何描いてる?」
子供自身が言った。
「私も分からない」
「そっか」
「絵って、分からないまま描いていい?」
「いいんじゃない?」
「記録じゃない?」
「そういう絵もあるよ」
「誰にも見せない?」
「子供が見せたくなければ」
「名前つけない?」
「つけなくてもいい」
子供の手が止まる。
「役ない絵?」
アリシアは少しだけ胸を突かれた。
「そういうのがあってもいいと思うよ」
「何のためでもない?」
「描きたかったから描く、とか」
「でも、今、描きたいかもよく分からない」
「じゃあ、手が動いたから描いたでもいいんじゃない?」
子供は紙を見た。
三つの丸。
何かを表しているようにも見える。
けれど、無理に意味を付ければ何にでもできる。
「これ、残す?」
「どうしたい?」
子供は少し迷う。
「……今は残す」
「うん」
「あとで捨てても?」
「いいよ」
「誰にも見せなくても?」
「うん」
「名前なくても?」
「うん」
子供は紙を白い花の絵とは別の場所へ置いた。
棚ではなく、自分の机の端。
「これは、何でもない絵」
「それが名前?」
子供は少し考えたあと、首を横へ振る。
「名前じゃない。説明」
「そっか」
「名前はない」
「うん」
子供は少し笑った。
「役もない」
「うん」
「でもある」
「うん」
その言葉を言ったあと、子供は自分でも少し驚いたような顔をした。
◇
午後。
顔のない存在は、昼を過ぎても寝台から動かなかった。
十一の光は二つ。
一度だけ四つ。
また二つ。
子供は朝ほど頻繁に見ていない。
絵を描いているあいだに変化していた時間もあった。
気づいたときには四つだった。
「あ、四つ」
「いつからだろうね」
「見てなかった」
「うん」
「見逃した」
「うん」
子供の顔に一瞬だけ後悔のようなものが浮かぶ。
「いつ四つになったか分からない」
「うん」
「三つ通った?」
「分からない」
「急に二から四?」
「それも分からないね」
子供は人影の胸を見る。
「……見てれば分かったかも」
「そうだね」
「見なかった」
「うん」
「悪かった?」
アリシアは答えを急がない。
「誰に?」
「この人に」
「子供が見ていなかったことで、この人に危険が起きた?」
「今はない」
「学院側の観測は?」
「ある?」
「あるよ」
「じゃあ、私が見てなくても誰か見てた」
「必要な状態確認はね」
子供は少し安心した顔をした。
けれど、すぐ別の問いが出る。
「誰も見てなかったら?」
「全部の瞬間を誰かが見ている必要はないと思う」
「でも変わる」
「うん」
「見逃す」
「うん」
「それでいい?」
「大事な危険を見逃さないための仕組みは必要だけど、変化の全部を記録しなくてもいいこともあるよ」
子供は自分の名前のない絵を見る。
「これ描いてるとき、見なかった」
「うん」
「役ない絵描いて、光見逃した」
「うん」
声が少し沈む。
「役ある方見た方がよかった?」
アリシアは、今度は少し長く考えた。
「顔のない存在の状態は、学院側でも見てた。急いで子供が確認しなきゃいけない状況じゃなかった」
「うん」
「その時間に、子供が名前のない絵を描いてたことを悪いとは思わないよ」
「役ないのに?」
「うん」
「でも、四つになるところ見れなかった」
「それは残念だった?」
「少し」
「なら、残念でいいと思う」
「絵描いたの後悔する?」
「子供は?」
子供は紙と人影を交互に見る。
「……少しだけ、見ればよかったもある。でも絵描いたの嫌じゃない」
「じゃあ両方あるね」
「また」
「うん」
子供は少し笑った。
「何でも両方になる」
「何でもじゃないと思うけど、多いね」
「難しい」
「うん」
顔のない存在の胸では、四つの光のうち一つが弱まり、三つになった。
子供は今度はその変化を見た。
「あ。今三つ」
「うん」
「一個減るところ見た」
「うん」
「さっき見れなかった分、戻った?」
「何が?」
「見れたから」
子供は自分で言ってから首を横へ振る。
「違う。さっきのは見てないまま」
「うん」
「今は今」
「そうだね」
子供は少し満足したように頷いた。
◇
午後遅く。
東側で、昨夜一度だけ確認された別反応が再び現れた。
「反応!」
若い観測員が測定盤へ顔を寄せる。
「位置は?」
サーラがすぐに近づく。
「前回とほぼ同じです。光より奥側。左通路さらに先」
「強度?」
「前回より少し高い。でも低いです」
「継続?」
「……三呼吸。四。五」
前回は一度だけ。
今回は続いている。
中継観測点には、今は人がいない。
器具だけ。
「有人に切り替えますか?」
若い観測員が尋ねる。
サーラは測定値を見る。
「光側の変化は?」
「輪郭安定。接続値も低い」
「危険値?」
「別反応側も低い」
「生命反応?」
「なし」
反応は八呼吸ほど続いた。
その後、弱くなる。
「まだあります」
「周期?」
「分かりません」
「中継点へ人は?」
サーラは少し考える。
「今は送らない」
若い観測員が少し驚く。
「続いてるのに?」
「中継器で十分取れています」
「でも近くで見た方が精度上がる」
「上がります」
「じゃあ……」
「近くで見る必要が、今ありますか?」
若い観測員は黙った。
測定盤を見る。
「危険値低い。光側も変化なし。中継器で位置も反応も取れてる」
「はい」
「……ない」
「今は」
「はい」
反応はゆっくり下がった。
消える。
「終了」
「記録」
「はい」
若い観測員は書き込む。
『同位置付近にて二度目の微弱魔力反応。約八呼吸継続。生命反応なし。光側同期変化確認できず。有人接近なし』
筆を止める。
「人を行かせなかったのも書く?」
「判断記録には残してください」
「理由も?」
「はい。現行中継値で必要情報取得可能、危険値低、追加接近の必要性なし」
「役に立つことが増えても、全部使わない」
「どういう意味です?」
「近くへ行ける。人も置ける。でも、必要じゃなければ使わない」
「そうですね」
若い観測員は少し考える。
「できることが増えるほど、使わない判断も増えるんですね」
「そうかもしれません」
「面倒」
「仕事です」
「今日何回目ですか、それ」
「数えてません」
◇
夕方。
西側では、金属板の刻印から得られた情報をもとに、排水路の下流側を地図上で追う作業が行われていた。
人は地下へ入っていない。
机上の作業だけ。
古い記録。
現在の地図。
地盤感知記録。
水位。
それらを重ねる。
「この先で主排水路へ合流するはずです」
魔導具教師が線を指す。
「ただし、この主排水路は百年前の改修で一部付け替えられている」
「今の線は?」
副学院長が聞く。
「こちら。問題は、第二支路との接続点が改修対象だったかどうか記録が欠けています」
「つまり?」
若い観測員が尋ねる。
「古い第二支路が、今の主排水路へまだつながっているか分からない」
「じゃあ、現地確認?」
「必要になるでしょう」
若い観測員の顔が少し明るくなる。
「行く場所増えた」
「嬉しそうだな」
「だって調査ですよ」
「休め」
「え?」
副学院長が彼を見る。
「朝から地下入って、戻って記録して、今まで図面見てただろ」
「まだいけます」
「聞いてない」
「ええ」
「今日はもう上がれ」
若い観測員が本気で驚いた顔をする。
「でも、接続点の確認案を――」
「明日でいい」
「今決められますよ」
「お前がいなくても決められる」
言われた瞬間、若い観測員の顔に少し複雑な色が浮かんだ。
「……俺いなくても?」
副学院長はすぐにその変化に気づいた。
「ああ」
「そうですか」
「何だ、その顔」
「いや」
「言え」
少し間。
「最近、色々任せてもらえるようになったから。途中で抜けたら、役に立ってない感じがして」
副学院長は何も言わず、椅子へ身体を預けた。
魔導具教師も資料から顔を上げる。
「お前、今日十四歩地点まで行って板の泥を取ってきただろ」
「はい」
「記録もした」
「はい」
「そのあと照合にも参加した」
「はい」
「で、まだ役に立たないと困るのか?」
「……そう言われると」
「役に立った量で一日を埋めるな」
副学院長は少しだけ表情を緩めた。
「休む時間まで仕事で埋めると、明日使い物にならなくなる」
「それは役に立たない?」
「明日のお前がな」
魔導具教師が吹き出した。
「かなり実務的な慰め方ですね」
「慰めてない」
「ですよね」
若い観測員も少し笑った。
「じゃあ上がります」
「よし」
「でも接続点案、明日見せてください」
「来たらな」
「来ますよ!」
声に少し元気が戻る。
若い観測員は資料を置き、仮設観測室を出ていった。
副学院長はその背を見送ったあと、小さく息を吐く。
「人のこと言えないけどな」
「副学院長も休んでください」
「……あと一枚」
「今の会話、全部返しますよ」
「分かった。帰る」
◇
夕食前。
生活観測区画では、子供が昼に描いた名前のない絵を見ていた。
三つの丸。
少し曲がった線が一つ。
途中で炭筆を持ち替えた跡。
意味はない。
少なくとも、今の子供はそう言っている。
「これ、何の役にも立たない」
「うん」
アリシアが答える。
「本当に?」
「何かに使う予定はないね」
「白い花の絵は、残すため」
「うん」
「学院長にもサーラにも見せた」
「うん」
「これは見せない」
「うん」
「何か覚えるためでもない」
「うん」
子供は紙を持ち上げ、少し傾ける。
「じゃあ、いらない?」
「子供はいらないと思う?」
「分からない」
「捨てたい?」
「今は捨てたくない」
「じゃあ今は持ってていいよ」
「役ないのに?」
「うん」
「場所使う」
「紙一枚分だね」
「いっぱい増えたら?」
「増えて困ったら、そのとき整理すればいい」
「全部残さなくていい?」
「うん」
「でも、役あるもの先に残す?」
「そういう決め方もあるし、好きだから残すものがあってもいい」
「好き?」
子供は絵を見る。
「これ好きか分からない」
「じゃあ、まだ決めなくていいね」
「……またあとで」
「うん」
子供は少しだけ笑った。
「あとでにして、なくなる?」
「この紙は、ここに置いておけば勝手にすぐなくなる可能性は低いと思う」
「白い花と違う」
「うん」
「でも汚れるかも」
「あるかもね」
「変わる」
「うん」
「それでもあとで」
「うん」
子供は紙を机の端へ戻した。
白い花の絵とは重ねない。
木箱にも入れない。
自分の机。
何の役にも立たない絵が、そこに一枚置かれた。
◇
夕食では、少し変わったことがあった。
子供の前に麦粥と根菜、薄い肉、それから小さな焼き菓子が置かれた。
子供は焼き菓子を見た。
「今日は分けない」
「うん」
アリシアは笑う。
「全部食べる?」
「まだ分からない」
一口。
甘い。
二口目。
子供は少し嬉しそうに目を細める。
「おいしい」
「よかった」
三口目。
半分ほど残っている。
子供はそこで手を止めた。
「もういい」
「残す?」
「うん」
「あとで食べる?」
「分からない」
「じゃあ取っておく?」
治療教師が聞く。
子供は少し考えた。
「……今日は捨ててもいい?」
治療教師は驚かなかった。
「食べきれないなら、処分することもできます」
「もったいない?」
「食べられるものですから、そう感じる人もいます」
「治療教師、食べる?」
「今は必要ありません」
「アリシア?」
「私も今はいらないかな」
「ノア?」
『甘い焼き菓子は別に』
「ノアもいらない」
子供は残った半分を見る。
「誰もいらない」
「うん」
「残したら、あとで食べるかもしれない」
「うん」
「でも今は、取っておきたいって思わない」
「うん」
「じゃあ捨てる」
「分かりました」
治療教師が皿を下げようとすると、子供の顔が少しだけ曇る。
「……ちょっと嫌」
「捨てるのが?」
「うん」
「やめる?」
治療教師が手を止める。
子供は残った焼き菓子を見る。
「でも食べたくない」
「うん」
「取っておくも、今はしたくない」
「うん」
「じゃあ、嫌でも捨てる?」
「そういう選択もあるよ」
アリシアが答える。
「嫌な気持ちなくなってからじゃなくて?」
「なくならなくてもいいと思う」
「白い花の欠片探すのやめたときと似てる」
「少しね」
「後悔するかも」
「するかもしれない」
「明日食べたかったって」
「うん」
子供は少し長く残りを見る。
それから頷いた。
「捨てる」
「分かりました」
今度こそ皿が下げられる。
子供はその背を少し寂しそうに見送った。
「なくなった」
「うん」
「自分で決めた」
「うん」
「でも、いい気持ちだけじゃない」
「うん」
「それでも決めた」
「そうだね」
子供は麦粥へ戻った。
◇
食後。
顔のない存在が、ようやく寝台から身体を起こした。
子供はすぐに気づいたが、椅子から立たなかった。
人影が足を下ろす。
立つ。
一歩。
二歩。
子供は見ている。
三歩。
四歩。
五歩。
昨日と同じ。
けれど止まらない。
六歩。
子供の目が少し大きくなる。
七歩。
人影はそこで止まった。
少しのあいだ立っている。
子供は数を口にしない。
そして、人影はゆっくり床へ座った。
「今日は七」
座ってから言う。
「うん」
「昨日五」
「うん」
「歩いた」
「うん」
「嬉しい」
「うん」
子供は笑った。
以前より素直な笑顔だった。
「もっと行ってほしいも少しある」
「うん」
「でも今日は言わない」
「うん」
「なんでか分からないけど」
「分からなくてもいいんじゃない?」
「うん」
子供は人影の方へ行かなかった。
今日は近くへ行きたいとも言わない。
人影は七歩目。
子供は食卓側。
距離はある。
それでも同じ部屋にいる。
◇
夜。
東側の別反応は、その後三度目を見せなかった。
中継器は稼働している。
名前のない光は左通路の同じ位置。
有人観測は予定通り終了し、夜間は異常時のみ人を入れる体制へ戻された。
西側では、第二排水支路である可能性が高い金属板を現地へ残したまま、次の調査対象が下流接続点へ移ろうとしている。
役目を終えたから捨てたわけではない。
持ち帰らなかったから価値がないわけでもない。
今必要だった情報を得た。
だから今日は、それ以上使わなかった。
生活観測区画では、子供が寝台へ入る前に、名前のない絵を机の上へ残した。
白い花の絵のように誰かへ見せる予定はない。
何かを記録する役割もない。
今のところ、何のために描いたのか本人にも分からない。
「アリシア」
「うん」
「今日、暇だった」
「うん」
「最初、嫌だった」
「うん」
「何かしなきゃって思った」
「うん」
「でも、何もしないで座った」
「うん」
「途中で絵描いた」
「うん」
「役ないやつ」
「うん」
「顔のない人の光、四つになるところ見逃した」
「うん」
「焼き菓子も捨てた」
「うん」
「今日は、役立った?」
アリシアは少し考えた。
「何に対して?」
子供が目を瞬く。
「……分からない」
「誰かを助けた?」
「たぶん、してない」
「何か大事な作業をした?」
「してない」
「じゃあ、そういう意味では役立ってない一日だったかもしれないね」
子供の表情が少し硬くなる。
けれど、アリシアは続ける。
「でも、ご飯食べた。休んだ。暇だって思った。絵描いた。焼き菓子をどうするか決めた。この人が歩くのも見た」
「うん」
「それで一日過ごした」
「うん」
「それじゃだめ?」
子供は長く黙る。
「……前なら、だめ」
「うん」
「役ないと、だめだった」
「うん」
「今は?」
アリシアは答えを子供へ戻さなかった。
今日は、少しだけ自分の言葉を渡すことにした。
「私は、だめじゃないと思う」
子供の目が揺れる。
「本当に?」
「うん」
「何も助けてないのに?」
「毎日誰かを助けなくてもいいよ」
「何も進めてないのに?」
「毎日進めなくてもいい」
「何もできるようになってないかも」
「それでもいい」
「でも時間使った」
「生きてたからね」
子供はその言葉で、少しだけ動きを止めた。
「生きてた」
「うん」
「それだけ?」
「それだけの日があってもいいよ」
子供は天井を見る。
すぐに納得するわけではない。
むしろ、今までの自分の基準と合わなさすぎて、どう受け取ればいいのか分からない顔をしている。
「生きるのも役?」
「役にしなくていいと思う」
「生きなきゃ?」
「危ないことは止めたい。でも、生きてることを誰かのための仕事にしなくていい」
「……難しい」
「うん」
「生きてるだけでいいって、怖い」
アリシアは少し驚いた。
「どうして?」
「何したらいいか分からないから」
「そっか」
「役あったら、すること分かる」
「うん」
「役ないと、自分で決める」
「うん」
「暇にもなる」
「うん」
「何もできない日もある」
「うん」
子供の目元が少し潤む。
「それでも、ここにいていい?」
「うん」
「ご飯食べて?」
「うん」
「寝て?」
「うん」
「何もしない日あって?」
「うん」
子供は隣の寝台を見る。
顔のない存在は夜になって自分で寝台へ戻っている。
「この人も?」
「分からないけど、少なくとも今は何かの役をさせるためにここへ置いてるわけじゃないよ」
「十一の光ある」
「うん」
「でも、光らせる役じゃない?」
「そうだね」
「歩く役でもない」
「うん」
「私と遊ぶ役でもない」
「うん」
子供はしばらく人影を見ていた。
「じゃあ、この人も、いてるだけの日ある」
「あるね」
「今日も半分くらいそうだった」
「うん」
「私も」
「うん」
子供は少しだけ笑った。
「同じじゃないけど」
「もちろん」
「でも、少し似てる」
「うん」
布団を胸元まで引き上げる。
「アリシア」
「うん」
「役に立たない時間、なくさなくていい?」
「うん」
「いっぱいあっても?」
「生活できなくて困るほどなら一緒に考えるけど、休んだり何もしなかったりする時間はあっていいよ」
「ずっと何もしなかったら?」
「そのとき困ってるかどうか聞く」
「怒る?」
「まずは聞くかな」
「何で何もしないのって?」
「何もしたくないのか、できないのか、休みたいのか。分からないから」
「また分からない」
「うん」
子供は少し笑った。
「でも、すぐ役つけない」
「うん」
「これしてって、すぐ言わない」
「うん」
「じゃあ、明日も暇だったら?」
「暇でいてもいいよ」
「嫌になったら?」
「何か探してもいい」
「役あること?」
「役がなくても」
「名前ない絵みたいに?」
「うん」
子供の瞼が少しずつ重くなる。
「明日、あの絵いらなくなるかも」
「うん」
「捨ててもいい」
「うん」
「残してもいい」
「うん」
「見せても?」
「子供が見せたくなったら」
「役つけても?」
「あとから意味ができることもあるね」
「でも今は、役ない」
「うん」
「それである」
「うん」
子供は目を閉じた。
「おやすみ」
「おやすみ」
◇
夜半。
生活観測区画の机の上には、名前のない絵が一枚置かれていた。
三つの丸。
意味の分からない線。
誰かに見せるためでもない。
何かを忘れないためでもない。
学院の記録にもならない。
子供自身にも、何のために描いたのか分からない。
それでも、紙はそこにある。
役割がないからといって、捨てられてはいない。
東側では、人がいない中継点が静かに動いていた。
誰かがずっとそこに座っていなくても、必要な観測は続いている。
西側では、金属板が泥の中に残されている。
必要だった刻印は写された。
だからといって、板そのものが不要なものになったわけではない。
ただ、今は持ち帰る必要がない。
使わない。
触らない。
近くに人を置かない。
何もしない。
それらは、すべて同じではない。
けれど共通していることが一つある。
何かをしない時間を、すぐ無駄と決めなくてもいい。
誰かの役に立っていない瞬間を、急いで別の役割で埋めなくてもいい。
休むために休む日がある。
ただ座っている時間がある。
意味のない絵を描くことがある。
途中で食べるのをやめることもある。
誰にも見せないものを残すこともある。
それらは、役割を失った穴ではない。
生活の中に最初からあっていい時間なのかもしれなかった。
そして、夜がさらに深くなった頃。
東側の中継感知具が、左側通路の奥から三度目の反応を拾った。
「反応確認」
夜勤観測員が記録板を取る。
今度は前回より少し長い。
十呼吸。
十一。
十二。
「位置は前回と同じ?」
「ほぼ同じです。ただ……少し広がっています」
「光側?」
「変化なし」
「生命反応?」
「なし」
「危険値?」
「低い」
観測員は通信具へ手を伸ばしかけた。
人を向こうへ送るか。
サーラを起こすか。
けれど、当直責任者が数値を確認して首を横へ振った。
「記録継続。緊急連絡基準には達していない」
「はい」
反応は十五呼吸ほど続いたあと、静かに消えた。
誰もその場へ走らなかった。
だからといって、何もしなかったわけではない。
時刻。
位置。
強度。
継続時間。
光との非同期。
一つずつ記録へ残す。
朝になれば、その記録を見てまた考える。
今夜は今夜の仕事だけをする。
役に立つために、何か大きなことを起こす必要はない。
何も起きない夜を、そのまま何も起こさず終わらせることも。
誰かが安心して朝を迎えるために必要な時間だった。




