第140話 何も起きなかった時間にも、あとから意味が見つかることがある
朝一番の東側中継観測室には、いつもより多くの記録紙が並べられていた。
夜間に三度目の反応が確認されたからといって、人員が倍になったわけではない。狭窄部の向こうへ誰かが急いで入ったわけでもない。
増えたのは、人ではなく紙だった。
一度目。
二度目。
三度目。
それぞれの発生時刻、継続時間、最大値、波形の広がり、名前のない光側の数値、周囲の生命反応、狭窄部周辺に人間がいたかどうか。
それらを同じ大きさの紙へ並べ、比較できるよう机一面に広げている。
朝の地下はまだ冷えていた。
中継観測室自体は地上側にあるものの、東側地下区画から引かれた感知線や通信具が室内の壁へ何本も伸びており、魔導具の発する微かな振動音が絶えず床を伝っている。窓は小さく、外の朝日は細い帯になって机の端へ届くだけだった。
サーラは三枚の記録を順番に見た。
「三度とも、位置はほぼ同じ」
「はい」
若い観測員が答える。
「ただし、昨夜の三度目だけ反応範囲が少し広がっています。中心位置は同じですが、周辺へ薄く出ました」
「強度は?」
「二度目よりわずかに高い。ただ危険域には遠いです」
「継続は?」
「一度目は一瞬。二度目は約八呼吸。三度目は十五呼吸ほど」
サーラの指が紙の上で止まる。
「長くなっていますね」
「はい」
「では、強くなっている?」
若い観測員はすぐに頷かなかった。
少し考える。
「強度も少し上がってます。でも、継続時間が伸びたことと同じ意味とは限らない」
「はい」
「起動が進んでる、ともまだ書かない」
「その通りです」
「……かなり慣れましたよね、俺」
「自分で言わなければ九割でした」
「今ので下がった?」
「七割です」
「また七割」
記録係の一人が小さく笑った。
若い観測員は不満そうな顔をしたものの、すぐ測定盤へ戻る。
「名前のない光は?」
「位置変化なし。接続値も低いです」
「三度目の反応中も?」
「変化なしです。少なくとも測定できる範囲では」
「同期は?」
「確認できません」
サーラはそこで少し椅子へ背を預けた。
同じ場所から、三回。
一回目より二回目。
二回目より三回目。
反応している時間が長くなっている。
人間の頭は、それだけで順序を作りたくなる。
何かが少しずつ起きている。
起動に近づいている。
目覚めようとしている。
あるいは反対に、壊れかけている。
けれど、そのどれも今はまだ名前を付けられない。
「夜間、人を送らなかった判断については?」
サーラが尋ねると、当直責任者が記録を差し出した。
「緊急基準未満。中継感知具で位置・強度・生命反応・光側の値を取得可能。有人確認で追加できる情報が少ないと判断しました」
「結果として何か見逃した可能性は?」
「あります」
当直責任者は迷わず答える。
「近接観測なら、より細かな波形や音、振動を拾えた可能性はあります」
「では、送るべきだった?」
「現時点ではそう思っていません」
「理由は?」
「人を送れば狭窄部を通過し、現場へ振動を加えます。別反応の発生中に新しい刺激を足せば、次の比較が難しくなる。緊急性がないなら、昨夜は送らない方が観測上の利点が大きかったと考えます」
サーラは頷いた。
「記録に残してください」
「はい」
若い観測員が三枚目の紙を見た。
「何もしなかった時間が、比較に使える」
「どういう意味です?」
「一度目も二度目も三度目も、少なくとも反応中は現地に人がいなかった。だから、人が近づいたせいで続いたとは今のところ言いにくい」
「はい」
「昨日、人を置かない時間作ったの、こういうところでも使えるんですね」
「結果としては」
「結果として」
若い観測員が、自分でそこを強調する。
「人を置かなかったのは、この反応を調べるためじゃなかった」
「そうです」
「でもあとから意味が出た」
「意味というより、使える条件が一つ増えた、でしょうか」
「細かい」
「記録する人間なので」
サーラは少しだけ笑った。
「今日は、反応地点の手前まで遠隔感知を延ばせるか試します。ただし、現地の中継器は今の位置のまま」
「人を前へ?」
「まだ送りません」
若い観測員が測定盤を見る。
「三回出たのに?」
「三回出たから、前へ行く理由が増えたのは確かです」
「でも?」
「今使っている感知器の調整で、もう少し奥を見られる可能性があります」
「ああ」
「人を動かす前に、道具側でできることを試します」
「それで足りなかったら?」
「そのとき、人を入れる理由がもう一つ増えます」
若い観測員は少し考え、頷いた。
「今日も、いきなり走らない」
「走る必要がある日も来るかもしれませんよ」
「分かってます」
「本当に?」
「そこまで信用ないですか」
「一日分ずつです」
「西側の副学院長と同じこと言ってる……」
室内にまた小さな笑いが起きた。
◇
生活観測区画では、子供が名前のない絵を捨てずに朝を迎えていた。
三つの丸。
途中から曲がった一本の線。
何を描いたのか、今も本人には分からない。
昨日、何の役にも立たない絵として机の端へ置いた紙は、夜のあいだ誰にも触れられず、そのまま残っている。
窓の外には朝の庭が見えた。
水溜まりはもうない。
乾いた石畳の上を、今日は鳥が一羽だけ歩いている。
昨日まで二羽だった日もあった。
けれど、もう「減った」とは言わない。
「今日は一羽」
子供が窓を見ながら呟く。
「うん」
「もう一羽は?」
「見える範囲にはいないね」
「どこ?」
「分からない」
「飛んでった?」
「かもしれない」
「別のところ歩いてる?」
「それもあるかも」
子供はそれ以上鳥を探そうとはしなかった。
「今は一羽」
短く言い、視線を室内へ戻す。
白い花。
木箱。
名前のない絵。
隣の寝台にいる顔のない存在。
昨日まで何度も確認してきたものが、それぞれ同じ部屋に残っている。
ただし、まったく同じではない。
白い花はさらに乾いた。
木箱の留め具は途中の位置。
顔のない存在の胸では、今朝は十一のうち二つが淡く明るい。
子供は最後に机の端の紙を見た。
「まだある」
「名前のない絵?」
「うん」
「捨てなかったね」
「昨日は」
「今日は?」
子供は少し考えた。
「今も、まだ捨てたくない」
「じゃあ置いておく?」
「うん」
紙へ近づく。
手に取る。
昨日描いた三つの丸をじっと見る。
「これ、昨日何でもなかった」
「うん」
「今も?」
「子供は?」
「……ちょっと昨日のこと思い出す」
「昨日の何?」
「暇だったこと」
アリシアは少しだけ目を細める。
「じゃあ、何でもない絵じゃなくなった?」
子供は紙を見る。
「分からない」
「うん」
「昨日は何のためでもなかった。でも今日見ると、昨日暇だったって思い出す」
「そうだね」
「じゃあ、役できた?」
「そう言ってもいいかもしれないし、思い出すものになっただけかもしれないね」
「同じじゃない?」
「どうだろう」
子供は少し笑う。
「また分からない」
「うん」
「でも、昨日描いたときは役なかった」
「うん」
「今日、あとからできても、昨日から役あったことにはならない?」
「私はそう思う」
「そっか」
子供は紙を机へ戻した。
「あとから意味できることある」
「あるね」
「じゃあ、何でも残しとけば?」
その問いに、アリシアは少し考える。
「そうすると、今度は残すものだらけになっちゃうかも」
「いっぱい?」
「うん」
「部屋埋まる?」
「紙だけでも、何百枚何千枚ってなったらね」
子供は少し想像したらしく、周囲を見る。
「嫌」
「うん」
「じゃあ、意味できるかもしれないから全部残す、じゃない」
「そうだね」
「今残したいから残す?」
「それでいいと思う」
「あとで意味できても?」
「うん」
「できなくても?」
「うん」
子供は納得したように頷いた。
◇
朝食前。
顔のない存在はまだ寝台から動いていなかった。
子供は一度だけそちらを見た。
「今日は歩くかな」
「どうだろうね」
「歩いてほしい?」
今度はアリシアが聞かれた。
「私?」
「うん」
少し考える。
「元気に動ける状態なら嬉しいとは思う」
「歩数は?」
「何歩っていうのはないかな」
「窓まで行ってほしい?」
「見られたらいいなって思うことはある」
「お願いする?」
「今はしない」
「なんで?」
「本人が行きたいか分からないから」
子供は少し考える。
「私と同じ」
「何が?」
「歩いてほしいって思う。でも言わない日ある」
「そうだね」
「アリシアもある」
「あるよ」
子供は少し嬉しそうだった。
自分だけが、相手へ何かを求めながら口に出さないわけではないと分かったからかもしれない。
「思うのはいい」
「うん」
「言うのもいい日ある」
「うん」
「言わないのも」
「うん」
「全部、自分で選ぶ?」
「できる範囲ではね」
「命令のときは?」
「安全のために必要なら、選べない言い方をすることもある」
「危ないとき」
「そう」
子供は頷いた。
そのあと、自分で足裏を確認し、痛みがないことを確かめる。
セレナにも少し離れた位置から状態を見てもらい、朝の確認が終わった。
「今日は何する?」
アリシアが何気なく聞きかけたところで、自分で少し止まる。
昨日の朝。
何もしない時間。
役がないことへの不安。
その話を思い出した。
「……何したい?」
言い直す。
子供はその違いに気づいたらしく、アリシアを見る。
「今、言い直した?」
「うん」
「なんで?」
「今日は何をする予定か、じゃなくて、子供が何したいかなって」
「同じじゃない?」
「少し違うかなって」
子供は考える。
「今日は何する、だと、何かする?」
「そう聞こえることもあるね」
「何したい、は、ないって言える?」
「うん」
「じゃあ今は、まだない」
「分かった」
子供は椅子へ座った。
昨日ほど緊張はしていない。
「暇になる?」
「なるかも」
「昨日みたいに?」
「うん」
子供は少し笑った。
「じゃあ、暇になったら暇って言う」
「うん」
◇
西側旧排水坑では、今朝から新しい区画へ人を送ることはしなかった。
代わりに、地上側の古い学院記録庫から大量の図面が運ばれている。
昨日、泥の中の金属板から読み取った「第二排水支路」という情報。
その下流がどこへ接続しているのか。
現在も使われている主排水路へ繋がっているのか。
現地へ入る前に、まず記録で追えるだけ追う。
「これ、全部ですか?」
若い観測員が机の上へ積まれた図面を見て顔を引きつらせる。
「全部ではない」
魔導具教師が答える。
「まだ来る」
「地下入るより大変じゃないですか?」
「知りません」
「昨日まで、現場に行きたいって言ってた自分を殴りたい」
副学院長が少し笑う。
「役に立つ経験だろ」
「昨日は役に立つ時間で埋めるなって言ったじゃないですか」
「今日は仕事中だ」
「ずるい」
「休みたくなったら言え」
「まだ大丈夫です」
「ならやれ」
「はい……」
机へ広げられた記録は、年代ごとに少しずつ形式が違う。
古いものは手描き。
中期のものは色分け。
比較的新しい記録には魔力導線まで細かく書かれている。
けれど、第二排水支路という名前が全ての時代に残っているわけではない。
「ここ」
若い観測員が一枚を指差した。
「百八十年前。第二排水支路、あります」
「出口は?」
「主排水路へ合流」
「次」
百五十年前。
「あります」
「変更?」
「なし」
百二十年前。
ここで名称が消える。
「第二支路、書いてない」
「水量補助制御室は?」
「残ってます」
「主排水路は?」
「ある」
「支路だけない」
魔導具教師が隣の改修記録を見る。
「この頃に図面簡略化が始まっています。使われなくなったのか、単に省略されたのかはまだ分かりません」
「次」
百年前。
水量補助制御室が廃止扱いになっている。
排水系統の一部が更新。
しかし第二支路への明確な記載なし。
「ここから、昨日見つけた入口が塞がれた時期に近いですね」
若い観測員が言う。
「そうだな」
副学院長が別の記録を開く。
「補修履歴を探せ」
「はい」
さらに紙が増える。
十数分。
誰も口を開かない。
紙をめくる音。
筆記具の先が擦れる音。
遠くで古い換気術式が低く鳴っている。
やがて年長の観測員が一枚を持ち上げた。
「ありました」
皆が顔を上げる。
「旧排水坑封鎖。理由――」
そこで声が止まった。
「何だ?」
「……『運用停止に伴い閉鎖』だけです」
若い観測員が拍子抜けした顔になる。
「それだけ?」
「それだけです」
「崩落とか逆流とかじゃない?」
「書いてない」
「危険だったとかも?」
「書いてない」
副学院長が記録を受け取る。
紙は古く、端が少し黄ばんでいる。
そこに残されていた理由は簡素だった。
『西側水量補助制御室運用停止に伴い、第二排水支路点検坑を閉鎖』
それ以上はない。
「……本当に、使わなくなったからだった」
若い観測員が言う。
副学院長が彼を見る。
「可能性として最初に言ってたな」
「はい」
「当たったぞ」
若い観測員の目が少し明るくなる。
「じゃあ、俺――」
「だから何だ」
「そこは褒めてくださいよ!」
笑いが起きた。
「予想が当たっただけだ」
「当たるときもあるじゃないですか」
「ある」
「嬉しい」
「それはいい」
「でも、これで危険じゃない?」
言った瞬間、若い観測員自身が顔を止める。
「……当時の閉鎖理由が危険ではなかった可能性が上がっただけ」
「そうだ」
「今の安全性は別」
「その通り」
「せっかく当たったのに」
「当たったことと、全部分かったことは別だ」
「分かってますよ……」
それでも若い観測員は少し嬉しそうだった。
当たった予想を喜ぶことまで禁止されているわけではない。
◇
昼前。
生活観測区画では、本当に暇な時間が訪れていた。
子供は椅子へ座り、しばらく窓を見ている。
鳥もいない。
庭に動くものは、風に揺れる葉くらい。
アリシアは机で自分の記録を整理している。
ノアは床で寝ている。
治療教師も、必要な確認を終えて少し離れた席で本を読んでいた。
誰も子供へ何かを求めない。
十五分ほど経った頃。
「暇」
子供が言った。
「うん」
「昨日より、ちょっと平気」
「そうなんだ」
「でも暇」
「うん」
「何かする?」
自分で尋ねる。
答えは出ない。
名前のない絵を見る。
白い花を見る。
木箱を見る。
どれも今は触りたくない。
「何もしたくない。でも暇」
「両方あるんだ」
「うん」
「困る?」
「ちょっと」
子供は椅子から立ち上がる。
部屋を二歩だけ歩く。
また座る。
「これ何?」
「歩いた?」
「何のため?」
「子供は?」
「分からない」
「じゃあ、何となく歩いた?」
「うん」
もう一度立つ。
今度は三歩。
窓の近くまでは行かない。
戻る。
「意味ない歩き?」
「そういうのもあるよ」
「顔のない人も?」
寝台を見る。
「この人も、何のために歩いてるか分からない」
「うん」
「窓へ行くって決めたの、人間だった?」
「最初はそう見えたことが多かっただけだね」
「木片行った日もあった」
「うん」
「じゃあ、意味ないかもしれない歩きもある?」
「あるかもしれない」
子供は少し考えた。
「意味分からない歩き」
「その方が正確かも」
「うん」
また二歩。
戻る。
今度は少し笑った。
「暇だから歩いた」
「それは理由になったね」
「あとから?」
「そうだね」
「最初は分からなかった」
「うん」
子供は椅子へ座る。
「あとから理由分かることある」
「あるね」
「でも、本当は最初から暇だったから歩いた?」
「それは子供にしか分からないかな」
「私も分からない」
「じゃあ、分からないでいいね」
「うん」
昨日描いた名前のない絵。
今日の意味のないように見えた二歩。
後から何かへつながることがある。
けれど、つながったからといって、最初からそれが目的だったことにしなくてもいい。
◇
昼食後。
東側で調整していた遠隔感知器が、これまでより少し奥まで反応を拾えるようになった。
「延長成功」
記録係が声を上げる。
サーラが測定盤へ近づく。
「光の位置は?」
「変化なし。左通路内」
「別反応地点は?」
「……取れます」
若い観測員も立ち上がる。
「何があります?」
「形としては、点ではありません」
「空間?」
「待って」
複数の感知線を重ねる。
反応が発生した場所。
壁。
床。
天井。
時間をかけて形を取っていく。
「小さな空洞があります」
室内の空気が少し変わる。
「以前の設備空間みたいな?」
「まだ分かりません。ただ、人が入れるほど大きくはない」
「管路?」
「高さは膝より少し上くらい。横幅も狭い」
「横穴?」
「可能性はあります」
サーラが図へ目を落とす。
「光との距離は?」
「直線で、およそ十数歩相当。壁を一枚以上挟んでいます」
「同じ通路上ではない?」
「違います。左通路のさらに外側」
「つまり、光がその穴の前にいるわけじゃない」
「はい」
若い観測員が少し考える。
「また近いけど、直接つながってるか分からない」
「そうですね」
「三回反応した場所が小さい空洞」
「今分かるのはそこまで」
「中に魔導具?」
「分かりません」
「接続?」
「分かりません」
「一時保持?」
「それも分かりません」
若い観測員は少し笑った。
「西側で覚えた言葉、全部使いたくなりますね」
「使わないでください」
「はい」
遠隔感知で得られる情報はまだある。
空洞の外壁。
周囲の導線。
そのどれかが反応源とつながっているのか。
だから、人間はまだ前へ出なかった。
◇
午後の生活観測区画。
顔のない存在が起き上がったのは、子供が二度目の暇を口にした頃だった。
「あ」
子供が寝台を見る。
人影が身体を起こす。
足を床へ下ろす。
立つ。
一歩。
二歩。
三歩。
子供は声に出さない。
四歩。
五歩。
昨日は七歩。
今日は五歩目で止まった。
人影はその場に立っている。
子供はしばらく見ていた。
「今日は五」
まだ座っていない。
口にしたあと、子供自身が少し「あ」とした顔になる。
「途中で言った」
「うん」
「待とうと思ってたのに」
「うん」
「悪い?」
「子供はどう思う?」
人影を見る。
六歩目は出ない。
五歩目でゆっくり座る。
「……分からない」
「うん」
「言ったから止まった?」
「分からないね」
「言わなくても止まった?」
「それも」
子供は少し不安そうな顔をする。
「前、途中で数えないってした」
「うん」
「今日、忘れた」
「うん」
「じゃあ失敗?」
「忘れたことを、失敗って感じてる?」
「少し」
「どうして?」
「この人が、数えられたから歩かなきゃって思ったかもしれない」
「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない」
「うん」
「次はどうしたい?」
子供は少し考えた。
「……また終わってから言いたい」
「じゃあ次、そうしてみる?」
「うん」
「今日言ったことは?」
「戻せない」
「うん」
「でも、次変えられる」
「うん」
子供は少し息を吐いた。
「前できたこと、毎回できるじゃない」
「そうだね」
「忘れることある」
「あるよ」
「それでもいい?」
「私はいいと思う」
「練習したのに?」
「練習しても、ずっと完璧にできるとは限らないよ」
「アリシアも?」
「ある」
『しょっちゅうね』
「ノア」
子供が少し笑う。
「ノア、何て?」
「アリシアはしょっちゅうって」
「本当?」
「そこまでじゃない」
『そこまでよ』
「ノアはそこまでって」
「ひどい」
少しだけ空気が緩む。
子供は五歩目に座る人影を見る。
「今日は五歩」
「うん」
「私、途中で言った」
「うん」
「それも今日」
「そうだね」
「消さなくていい?」
「うん」
「記録に残る?」
「必要ならね」
「私、失敗したって書く?」
「『五歩目付近で子供が歩数を発言』くらいじゃない?」
子供は少し考えた。
「失敗って書かない?」
「それを事実として決める必要はないと思う」
「そっか」
子供の肩から、少し力が抜けた。
◇
夕方。
西側では、古い封鎖記録からもう一枚、関連する文書が見つかった。
補助制御室の運用停止後。
第二排水支路を閉じる前。
点検報告。
「下流接続点、当時は正常」
魔導具教師が読み上げる。
「逆流なし。主排水路への接続を確認。封鎖後は定期点検対象外へ移行」
「最後に確認されたのは?」
「百十一年前」
若い観測員が微妙な顔をする。
「古い」
「十分古いな」
「地下基準でも?」
「古い」
「よかった。感覚戻ってきました」
副学院長が地図を見る。
「これで、閉鎖時点では水路自体に大きな問題がなかった可能性は上がった」
「でも今は分からない」
「そうだ」
「明日、下流接続点?」
「候補の位置までは安全確認を始める」
「旧排水坑から?」
「違う。主排水路側からだ」
若い観測員が少し驚く。
「別方向?」
「今使われている区画から近づける可能性がある」
「じゃあ、旧排水坑の奥を全部歩かなくていい?」
「接続点を確認するだけならな」
「金属板の先も?」
「今は行かない」
「……ちょっと残念」
「目的は冒険じゃない」
「分かってます」
副学院長は若い観測員を見る。
「でも気になる?」
「気になります」
「それはいい」
若い観測員が少し笑う。
「最近、そこはちゃんと許してくれますね」
「最初から許してる」
「言い方が怖かっただけか」
「お前が聞いてなかっただけだ」
「どっちだろう」
「両方じゃないですか」
魔導具教師の一言で、また小さな笑いが起こった。
◇
夕食時。
子供は今日、焼き菓子を頼まなかった。
麦粥。
根菜。
薄く焼いた肉。
それだけ。
「甘いものいらない?」
治療教師が尋ねる。
「今日はいい」
「昨日捨てたから?」
アリシアが聞く。
子供は少し考える。
「少しある」
「後悔してる?」
「昨日の残り、今日あったら食べたかったかも」
「うん」
「でも昨日は捨てたかった」
「うん」
「今日食べたいから、昨日捨てたの間違い?」
子供は自分で問いかける。
少し考える。
「……違う」
「うん」
「昨日は昨日」
「うん」
「でも今日は食べたい」
「じゃあ、新しい焼き菓子頼む?」
治療教師が聞く。
子供は少し驚く。
「ある?」
「ありますよ」
「昨日捨てたのに?」
「昨日の分を捨てたからといって、今日食べてはいけない理由にはなりません」
子供はしばらく治療教師を見る。
「……じゃあ、少し欲しい」
「一枚?」
「半分」
「最初から半分にしますか?」
「うん」
「分かりました」
少しして、半分の焼き菓子が新しい皿へ乗せられてきた。
昨日の残りではない。
今日の新しい半分。
子供は一口食べた。
「おいしい」
「よかった」
「昨日のと同じ?」
「同じ生地です」
「でも昨日の残りじゃない」
「うん」
「昨日捨てたもの、戻ってきたじゃない」
「そうだね」
「でも、今日また食べられる」
「うん」
子供は少し嬉しそうに残りを食べる。
「なくしたら終わりのものもある。新しくできるものもある」
「そうだね」
「白い花は新しく同じのない?」
「まったく同じ花は難しいと思う」
「焼き菓子は?」
「同じ作り方なら、かなり似たものは作れるね」
「でも昨日のじゃない」
「うん」
「同じじゃない」
「そうだね」
子供は最後の一口を食べた。
「でも、おいしい」
「うん」
以前なら、「同じものではない」という違いを悲しさだけで受け取っていたかもしれない。
今日は、新しいものがあることも同時に見ていた。
◇
夜。
学院長から夕方の報告を聞いた子供は、東側で三度目の反応が確認されていたことを知った。
「三回?」
「ああ」
「光の近く?」
「近いと言えば近いが、同じ場所ではない。壁を挟んだ別の小さな空間らしい」
「光、反応した?」
「今のところ大きな変化はない」
「人、行った?」
「行っていない」
「三回も出たのに?」
子供は少し意外そうだった。
「遠くから調べられたからな」
「見たい人いた?」
学院長が少し笑う。
「かなりいるだろうな」
「でも行かない?」
「今は」
「なんで?」
「急いで近くへ行くより、人がいない状態の反応をそのまま取った方が分かることもある」
「何もしてない時間?」
「人間が近づいていない時間だな」
「それが役立った?」
「あとからな」
子供の目が少し大きくなる。
「名前ない絵みたい」
「どういうところが?」
「昨日、何の役もなかった。今日見たら、昨日暇だったの思い出した」
「うん」
「東も、人いなかった時間、そのときは何もしてないみたいだった。でもあとで比べられた?」
「そうだ」
「じゃあ、何もしない時間、あとで役できることある」
「ある」
「いつも?」
「いや」
「役できないことも?」
「ある」
「それでもいい?」
「いいと思う」
子供は少し笑った。
「昨日と同じ」
「何が?」
「役できるかもしれないから休む、じゃない」
「そうだな」
「休みたいから休む」
「うん」
「あとで使えたら使う」
「そういうことだ」
「何にも使えなくても?」
「休めたなら、それで十分なこともある」
子供は納得したように頷いた。
◇
寝る前。
子供は机の上に残した名前のない絵をもう一度手に取った。
「今日、ちょっと意味できた」
「うん」
「昨日暇だったの思い出す絵」
「うん」
「名前つける?」
自分へ聞く。
少し考える。
「……まだつけない」
「うん」
「意味できても、名前いらないことある?」
「あると思うよ」
「役も?」
「無理につけなくても」
子供は紙を机へ戻した。
「じゃあ、名前ないまま」
「うん」
「昨日より少し違うけど」
「そうだね」
次に顔のない存在を見る。
今日は五歩。
途中で子供自身が数を言ってしまった。
「今日、忘れた」
「歩いてる途中で言ったこと?」
「うん」
「まだ気になる?」
「少し」
「うん」
「でも、次またやる」
「終わってから言う?」
「うん。たぶん」
「たぶん?」
「また忘れるかもしれないから」
アリシアは少し笑った。
「それでいいと思う」
「忘れたら、そのときまた」
「うん」
「前できたからって、ずっとできるじゃない」
「そうだね」
「できなくなった?」
「一回忘れただけかもしれないよ」
「じゃあ、分からない」
「うん」
子供も少し笑った。
「でも、今日途中で言った。それはある」
「うん」
「消さない」
「うん」
布団へ入る。
今日は少し疲れているのか、子供は早めに横になった。
「アリシア」
「うん」
「今日、暇だった」
「うん」
「昨日より平気だった」
「うん」
「でも暇だった」
「うん」
「歩いた」
「うん」
「意味なく歩いた」
「最初はね」
「あとで、暇だから歩いたって思った」
「うん」
「本当か分からない」
「うん」
「名前ない絵も、あとから少し意味できた」
「うん」
「東の何もしなかった時間も、あとで比べるのに使えた」
「うん」
子供は天井を見る。
「じゃあ、今分からない時間も、あとで何かになる?」
「なることもあるかもしれない」
「ならないことも?」
「ある」
「何にもならなかったら?」
アリシアは少し考える。
「その時間があったことまで、なくなるわけじゃないよ」
子供が少し目を動かした。
「何にもならなかった時間、残る?」
「過ごした時間としてはね」
「覚えてなくても?」
「忘れることもあると思う」
「じゃあ、残らない?」
「誰にも覚えられず、記録にも残らない時間はあると思う」
「……いっぱい?」
「たぶん」
子供は少し寂しそうな顔をした。
「もったいない」
「そう思う?」
「うん」
「でも、寝てる時間も全部覚えてないでしょう?」
「夢も忘れる」
「うん」
「でも寝たから朝起きる」
「そうだね」
子供は少し考えた。
「覚えてない時間も、使った?」
「身体は休んだりしてるね」
「役ある」
「結果としては」
「でも寝るとき、朝起きるためだけに寝てる?」
「私は眠いから寝ることが多いかな」
「そっか」
子供の表情が少し緩む。
「あとから意味見つかることある。でも、見つからなくてもいい」
「うん」
「何かのためじゃなくても時間ある」
「うん」
「今日の暇も」
「うん」
「明日の暇も?」
「あるかもしれないね」
「じゃあ明日、暇だったら」
少しだけ笑う。
「また暇って言う」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
◇
夜半。
東側の小空洞では、四度目の反応は起きなかった。
人間側は中継器を動かさない。
名前のない光も左通路内で大きく位置を変えない。
西側では、百年以上前の封鎖理由が「運用停止」であったことが新しく分かった。
昨日までなら、塞がれた入口そのものに危険や秘密の意味を求めた者がいたかもしれない。
実際には、少なくとも当時の記録上は、使わなくなったから閉じた。
それだけだった。
何も特別な理由がなかった場所が、百年以上後になって再び調査の役に立っている。
泥の中に残った金属板も。
誰にも使われなくなった排水坑も。
昨日まで意味を持たなかった子供の絵も。
そのときには必要がなくても、あとから別の意味が見つかることがある。
けれど、それは「いつか役に立つから全部残さなければならない」という話ではなかった。
捨てるものもある。
失われるものもある。
忘れる時間もある。
何にも使われないまま終わることもある。
それでも、その瞬間に役に立たなかったからといって、そこにあった時間まで間違いになるわけではない。
そして、朝が近づき始めた頃。
東側の中継感知器が、ごく小さな変化を拾った。
「……光、移動」
夜勤観測員が測定盤へ顔を近づける。
名前のない光。
左側通路。
昨日まで停止していた位置から、少し奥へ。
「距離は?」
「一歩相当……二歩」
「別反応地点方向?」
観測員は地図と位置情報を重ねる。
「……少し近づいています」
室内の空気がわずかに張り詰めた。
「接続値?」
「変化なし」
「別反応?」
「出ていません」
「危険値?」
「低い」
当直責任者は光点を見た。
昨日まで、名前のない光と小空洞の反応は別々に記録されていた。
今も別々だ。
ただ、距離だけが少し縮まった。
「記録」
「はい」
「関連ありとは書くな」
「分かっています」
光はさらに一歩ほど進み、そこで止まった。
別反応は出ない。
何も起きない。
けれど、昨日までより二つの位置が少し近くなった。
それが何を意味するのかは、朝になってもまだ分からないだろう。
だから今夜は、ただ残す。
何も起きなかったことも。
少しだけ距離が変わったことも。
あとから意味が見つかるかもしれないし。
最後まで、何の意味も見つからないかもしれない。
どちらであっても。
今この時間に分かることだけが、静かな観測室の記録へ書き加えられていった。




