第141話 近づいたからといって、その先にあるものが答えとは限らない
夜半に一度だけ動いた東側の光は、朝になっても、その位置を大きく変えていなかった。
左側通路のさらに奥。直接目視できる範囲からはすでにかなり離れており、中継観測室に並ぶ複数の測定盤へ表示される淡い点だけが、そこに何らかの反応源が存在していることを人間側へ伝えている。昨夜までとの違いは、その点が数歩分だけ通路の奥へ移り、壁を隔てた先にある小さな空洞との直線距離が縮まったことだった。
その小空洞では、これまで三度、弱い周期的な魔力反応が確認されている。
生命反応はない。危険値も低い。発生する間隔にも多少の揺れがあり、名前のない光との関連性を示す明確な変化も、今のところ確認されていなかった。
近くなった。
今分かっているのは、それだけだ。
それでも夜明け前から観測を引き継いでいる者たちの視線は、どうしても測定盤に示された二つの位置を行き来していた。
「……近いですね」
若い観測員が、椅子の背へ少し身を預けながら呟いた。
夜勤明けに近い時間帯で、声にはわずかな疲れが混じっている。それでも目だけは冴えており、左側通路にある光の位置と、小空洞側の印を何度も見比べていた。
少し離れた机で夜間記録を整理していたサーラが、筆を止めずに尋ねる。
「何と何がですか?」
「名前のない光と、小空洞の反応源です。昨日より、かなり……いや、かなりと言うほどではないか。少し近くなりました」
「距離は縮まっていますね」
「ここまで来たなら、やっぱり……」
言いかけたところで、若い観測員の口が閉じた。
以前ならそのまま最後まで言っていただろう。光が小空洞を探しているのではないか。何かに呼ばれているのではないか。近づいた先に目的地があるのではないか。
ここ数日の観測を通じ、彼自身も自分の思考が事実を追い越す瞬間に気づけるようになっていた。
サーラは急かさなかった。
しばらくして、若い観測員が自分から苦笑する。
「また、勝手に話を作りそうになりました」
「どんな話ですか?」
「光が、あの小空洞を探しているのかもしれないって」
「そう思ったんですね」
「少しだけ」
「思うこと自体は禁止していません」
サーラはようやく筆を置き、椅子を測定盤の方へ少し回した。
「予想も仮説も、調査には必要です。ただし、それを事実欄へ書かないことです」
「はい。今書けるのは、光と小空洞の距離が縮まったことだけ」
「昨夜、小空洞側に新しい反応はありません。光が移動した時刻との対応もなし。接続値、危険値ともに大きな変化なし」
「だから、近づいたから小空洞が反応した、とは言えない」
「はい」
「逆に、反応しなかったから関係ない、とも言えない」
「はい」
自分でそこまで言った若い観測員は、肩を少し落とした。
「一番すっきりしないやつですね」
「観測は、だいたいすっきりしません」
「昨日、魔導具教師にも同じことを言われました」
「なら、おそらくかなり正しいのでしょう」
若い観測員が顔を上げる。
「そこは断言するんですね」
「今のは観測対象ではなく、会話の内容ですから」
サーラの口元がわずかに緩み、記録係の一人も小さく笑った。
張り詰め切ってはいない。
けれど、気を抜いてもいない。
そんな朝だった。
地下から送られてくる値は静かで、名前のない光も、小空洞も、夜と朝の境目をそれぞれの場所で迎えていた。
◇
生活観測区画では、子供が目を覚ますより先に、白い花の花弁が一枚、小皿の外へ落ちていた。
窓から差し込む朝日は、ここ数日の中では最も強かった。雨の名残は庭からほとんど消え、以前いくつもあった水溜まりも、今は乾いた石畳の濃淡としてわずかに痕跡を残しているだけだ。
窓の向こうには、小さな鳥が一羽いた。
昨日まで水面のあった窪みを何度か歩き、地面をつつく。そのたびに朝日に照らされた羽毛が小さく揺れていた。
室内では、換気術式の低い音が続いている。
机の上には、いつものように東側と西側の朝報告が置かれていた。
アリシアは東側の一枚を読み終えると、そのまま紙を机へ戻した。
『一回で終わり?』
床へ敷かれた布の上で丸くなっていたノアが、目を閉じたまま聞いてきた。
「一回で終わり」
『珍しいわね』
「昨日、何もしなかった時間が、あとで比較する材料になったって話があったでしょう?」
『あったわね』
「だから、今何も起きてないっていうのも、そのまま覚えておけばいいかなって。同じところを何度も読んでも、情報は増えないし」
『理屈としては悪くないわ』
「褒めてる?」
『七割くらい』
「低くない?」
『残り三割は、紙を閉じてからずっと頭の中で内容を繰り返してるから』
「頭の中まで採点するの、やめてくれない?」
『顔に出てるのよ』
アリシアが眉を寄せたところで、寝台から布の擦れる音がした。
すぐにそちらへ視線を向ける。
子供が目を覚ましていた。
今朝は、起きてすぐ何かを確かめようとはしなかった。
天井を見たまま何度か瞬きをし、それからゆっくり窓へ顔を向ける。
「一羽」
「うん」
「昨日は二羽いた」
「そうだね」
「もう一羽、いない?」
「少なくとも、この窓からは見えないね」
子供は庭を少し眺めた。
けれど、窓の端から端まで探したり、姿のないもう一羽をどこかにいるはずだと決めたりはしなかった。
「今は、一羽見える」
「うん」
次に、隣の寝台へ目を向ける。
顔のない存在は横になったままだった。
胸にある十一の光も、強い朝日の中ではかなり弱く見える。
「おはよう」
子供が声をかける。
すぐに変化はない。
以前なら、返事のない数呼吸が長く感じられ、そのあいだに不安が膨らんでいた。
今朝の子供は、布団の端へ片手を置いたまま待っている。
やがて、一つだけ淡く明るさを増した。
「一つ」
もう少し待つ。
二つ目は来なかった。
子供の目に、ほんの少しだけ物足りなさが浮かぶ。
「今は一つ」
「一つで嫌?」
アリシアが尋ねると、子供はすぐには答えなかった。
「少し気になる。でも、一つしかないじゃない」
言ってから、自分で眉を寄せる。
「違う。十一は全部ある。明るいのが一つ」
「そうだね」
「じゃあ、今は一つ明るい」
それで確認を終え、子供は布団から出た。
左右の足裏を見て、指で軽く押す。足首もゆっくり回し、床へ立ったあと二歩だけ歩いた。
「痛くない。赤くない」
「あとでセレナにも?」
「見るだけ」
「うん」
今朝、子供が最初に向かったのは木箱だった。
棚の前。
留め具は、これまで何度か動かした途中位置にある。完全に閉じた状態からはずれているが、まだ外れてはいない。
子供は箱の正面へ座り、金具を見つめた。
「昨日、触ってない」
「うん」
「一昨日は動かした」
「うん」
「今日、触る?」
自分自身へ尋ねるように言う。
右手が少し持ち上がった。
けれど、金具へ届く前に止まった。
「……今はいい」
「うん」
「箱はあと」
「分かった」
子供は立ち上がりかけ、もう一度だけ留め具を見る。
「なくならない?」
「箱?」
「うん」
「急に消えるような状態には見えないよ」
「でも、変わるかも?」
「何かが変わる可能性はあるね」
「私も?」
「うん」
「あとで、今と違う気持ちになってもいい?」
「もちろん」
その返事を聞き、子供は今度こそ木箱から離れた。
次に向かったのは、白い花の棚だった。
「あ」
小皿の外側に、一枚の花弁が落ちている。
完全に茶色く乾燥し、縁は強く巻いていた。まだ白かった頃の柔らかな形とはほとんど別物のように見える。
「夜に落ちた?」
「たぶんね」
「誰も拾ってない?」
「うん」
子供は指を伸ばす。
今日は、以前ほど長く迷わなかった。
「拾う」
乾いた花弁をそっとつまみ上げる。
指先へ伝わる薄さに、一瞬だけ肩へ力が入った。それでも手を止めず、小皿の中央へゆっくり運んでいく。
途中で、針先ほどの小さな茶色い粉が棚へ落ちた。
「あ……」
手が止まる。
けれど、持っていた花弁はそのまま小皿へ置いた。
「少し落ちた」
「うん」
「小さい」
「うん」
棚の上には、本当に小さな欠片が一つ残っている。
子供は顔を近づけた。
「拾う?」
しばらく見たあと、首を横へ振る。
「……今日は、そのまま」
「うん」
「前、小さいのがなくなったことあった」
「うん」
「だから、これもあとでなくなるかも」
「あるかもしれないね」
子供の顔が少し曇る。
「嫌」
「うん」
「でも今は、小さいの拾うより、大きい花弁を小皿に入れたかった」
「そっか」
「今は、これでいい」
子供は小皿の中へ増えた花弁を眺めた。
その隣には、自分が描いた白い花の絵がある。
「絵もある」
「うん」
「昨日、サーラが見た」
「うん」
「でも今日も、私のところにある」
「そうだね」
「見せたことも、なくなってない」
「うん」
子供は紙を一度だけ持ち上げ、それから棚へ戻した。
「サーラ、今は東?」
「たぶんね」
「光、見てる?」
「そうだと思う」
「光、どうなった?」
アリシアは一瞬だけ答えかけ、やめた。
「学院長から聞く?」
「うん」
子供は扉へ向き直る。
「学院長?」
「いるぞ」
「東、聞いていい?」
「ああ」
「光、昨日左に行った。そのあと?」
「夜のあいだに、左側通路を数歩だけ奥へ移動した」
「まだ見えない?」
「直接は見えない。遠隔感知では確認できている」
「近くに何かある?」
学院長は少しだけ間を置いた。
「壁の向こうに、これまで三度、弱い魔力反応を出した小さな空間がある」
「昨日もあった?」
「ああ」
「光、そこに近づいた?」
「直線距離だけなら、少し近くなった」
「反応した?」
「昨夜はしていない」
子供は眉を寄せる。
「光が近くなったのに?」
「ああ」
「じゃあ、関係ない?」
「まだ、そこまでは分からない」
「近づいたら反応するって決まってない?」
「決まっていない」
「じゃあ今分かるの、近くなっただけ?」
「そうだ」
子供は少し考え、それから白い花の絵を見る。
「昨日、私、サーラの近くまで行った」
「うん」
「絵を見せるため」
「うん」
「今日はサーラ東。私はここ」
「うん」
「一回近くなったからって、ずっと関係あるってことじゃない?」
「少し違う話だけど、近づくことだけで全部が決まるわけじゃないという意味では、似ているかもしれないね」
子供は頷いた。
「光、小空洞に行きたい?」
「分からない」
「小空洞が光を呼んでる?」
「それも分からない」
「また、いっぱい分からない」
以前なら、そこに苛立ちが強く滲んでいた。
今も不満はあるらしい。
ただ、それをすぐに怖さへ変えることはなかった。
「でも、近くなったのは本当」
「うん」
「そこは分かる」
「そうだね」
少し納得したところで、子供が別のことを思い出す。
「西は?」
「今日は、百年以上前に塞がれていた旧排水坑の中を、入口から十歩だけ調べる予定だ」
「十歩?」
「ああ」
「どうして十?」
「昨日までに安全を確認できている範囲と、今日調べる必要がある内容を合わせて決めた」
「十一じゃ駄目?」
「十一が危険だと決まっているわけではない。十歩までで今日必要な情報が取れると判断したんだ」
「金属の板は?」
子供は昨日の報告を覚えていた。
「それは、もう少し先だ。今日は取りに行かない」
「見えるのに?」
「見える」
「気になる?」
「かなり」
学院長が迷わず答えたため、子供が笑った。
「でも取らない」
「今日はな」
「明日は?」
「今日何が分かるかによる」
「そっか」
そこで、食卓から朝食の匂いが漂ってきた。
子供の視線が自然にそちらへ移る。
「食べる」
「うん」
◇
西側旧排水坑の入口では、朝から支柱の設置作業が続いていた。
昨日外した石材の周囲をさらに広げる前に、天井と側壁へ負荷が偏らないよう、木材と金属を組み合わせた仮設支柱を左右へ一本ずつ入れていく。
土属性の術師は何度も弱い感知を重ね、そのたびに作業員へ位置を伝えていた。
「左側、もう少し外です」
「ここか?」
「あと指一本分」
「細かいな」
「崩れてから後悔するよりはいいでしょう」
「それはそうだ」
石と金属が擦れる音が古い通路へ響く。
副学院長は入口の少し外側で腕を組み、その作業を見守っていた。
若い観測員は安全縄へ歩数の目印を付けている。
「十歩」
自分で確認するように呟く。
「まだ言ってるのか」
「違いますよ。目で分かるように印をつけてるだけです」
「ならいい」
「十一歩目に足が出たら?」
「戻せ」
「うっかり?」
「戻せ」
「金属板が十一歩目にあったら?」
「今日は触るな」
「徹底してますね」
「昨日から同じことを言ってるだろ」
年長の観測員が横から笑った。
「お前がいるから、余計に徹底してるんだよ」
「信用ないなあ」
「好奇心の強さなら信用されてるぞ」
「それ、絶対褒めてないですよね」
「分かるようになったじゃないか」
地下の冷たい空気に、小さな笑いが混じった。
やがて仮設支柱が固定され、入口の石材も、人一人が無理なく通れる程度まで慎重に外された。
内部から冷えた空気が流れ出してくる。
昨日と同じ方向。
有害反応なし。
酸素量も問題ない。
内部の弱い風も続いていた。
「入る前に確認する」
副学院長の声で、笑いが消える。
「今日の調査範囲は入口から十歩まで。泥に埋まっている金属板は対象外。確認するのは、床、排水溝、水流、天井と側壁の状態。異常があれば十歩へ届かなくても中止する」
「了解」
「気になるものを見つけても、勝手に触らない」
若い観測員が手を挙げた。
「今、俺だけ見ませんでした?」
「半分はお前だ」
「半分なんだ」
「残り半分は全員に言ってる」
魔導具教師が吹き出した。
「では、気をつけます」
「行け」
三人が入口を越えた。
先頭は土属性術師。
その後ろへ魔導具教師。
最後に若い観測員。
全員の腰へ安全縄が付けられ、入口側に残った者が長さを管理している。
一歩目。
乾いて見えた泥は、踏むと少し沈んだ。
「表面だけ乾燥しています」
「深さは?」
「指一本ほど」
二歩。
三歩。
右壁沿いに掘られた排水溝では、今も少量の水が流れている。
魔導具教師が小型の測定具を近づけた。
「流量はかなり少ないです。ただ、止まってはいません」
「方向は?」
「水没区画から離れる側です」
「昨日の遠隔観測と一致」
四歩目。
天井が少し低くなる。
石材の一部には補修跡があった。
「この辺り、後から石を差し替えていますね」
「入口封鎖より新しい?」
「いえ、こちらの方が古いと思います」
「記録」
五歩。
若い観測員が右壁を見た。
「排水溝、分かれてませんか?」
三人が止まる。
一本だった溝が途中から細く枝分かれし、壁の中へ入っている。
「昨日の映像では見えていませんでした」
「角度が足りなかったんでしょう」
「どこまで続いてる?」
土属性術師が壁際へ手を近づけ、ごく短い感知を使う。
「すぐ先で終わっています。通路そのものの排水というより、壁内の水分を逃がすためのものかもしれません」
「主路とは別?」
「少なくとも長くは続いていません」
「記録します」
六歩。
七歩。
床には小さな石片が落ちている。
誰も触れず、その位置だけを記録した。
八歩。
壁の下側に、今より高い位置まで黒ずみが残っていた。
「水位跡?」
若い観測員が聞く。
魔導具教師は近づきすぎない範囲から確認した。
「過去に、現在より高いところまで水があった可能性は高いですね」
「逆流した?」
言った直後、若い観測員が自分で首を振る。
「違う。水位が上がったことがある、まで」
「そうです。大雨、下流閉塞、逆流、別区画からの流入。原因候補はいくつもあります」
「はい」
九歩。
遠くに金属板が見えた。
昨日、細い観測具越しに確認したものだ。
実際に人間の目で見ると、予想していたより大きい。泥へ半分近く埋まり、表面に刻印らしき線が残っている。
「あれ……」
若い観測員の声が少し上ずる。
「金属板」
『見えてるな』
入口の外から副学院長の声が届いた。
『十歩までだ』
「分かってます」
十歩目。
三人は止まった。
金属板までは、あと三歩ほど。
たった三歩。
けれど、今日の調査では越えない三歩だった。
「……近くで見ると余計に気になります」
『昨日から分かってただろ』
「映像で見る三歩と、自分の足で見える三歩は違います」
『感想は戻ってから聞く。観測具は使えるか?』
魔導具教師が長い棒の先へ小型鏡と感知盤を付けた。
「ここからなら刻印の一部を拡大できます。接触はさせません」
『やれ』
棒がゆっくりと先へ伸びる。
泥へ触れない高さで金属板の上へ出し、映像を拡大する。
腐食した文字が投影盤へ浮かんだ。
「文字……」
若い観測員が息を呑む。
魔導具教師が目を細める。
「上側は……『第二』と読めそうです」
「第二排水支路?」
「続きが泥の下です。今は断言できません」
「ほかは?」
「下側に……これは『点検』でしょうか」
入口の外から副学院長が聞く。
『点検板か?』
「可能性はあります」
『設備番号の表示板?』
「それもあります」
『なら今日はそこまでだ』
若い観測員が反射的に振り返った。
「もう戻るんですか?」
『十歩だ』
「でも、もう少し文字が読めそうです」
『今日の目的は何だった?』
若い観測員は口を閉じた。
目の前には、あと三歩で届きそうな金属板がある。
その距離が、先へ進みたい気持ちを強くしていた。
「通路状態、排水溝、水流、それから天井と側壁の確認」
『達成したか?』
「……はい」
『金属板は?』
「今日の対象外」
『なら戻れ』
若い観測員は、もう一度だけ板を見た。
悔しさは隠せていない。
それでも一歩も前には出なかった。
「了解」
三人が戻り始める。
十歩目から九歩目。
八歩。
七歩。
帰路でも、新しく目についたものへ勝手に触れない。
入口を出たところで、若い観測員が大きく息を吐いた。
「近いのに」
副学院長が横目で見る。
「板か」
「あと三歩」
「近いな」
「ですよね?」
「物理的にはな」
「でも今日は遠い?」
「今日の目的の外だからな」
若い観測員は少し考え、頷いた。
「明日なら近くなるかもしれない」
「調べる理由ができればな」
「理由が先」
「そうだ」
悔しさは残っていた。
けれど、近いから触るという衝動とは切り離せていた。
◇
朝食を終えた頃、生活観測区画では顔のない存在がゆっくり上体を起こした。
子供は麦粥を食べ終え、今日初めて出された淡い紫色の小さな果実を一つ口へ入れたところだった。
「甘い?」
アリシアが尋ねる。
「少し。前の紫より酸っぱくない」
「名前は?」
「薄紫」
「今日は味じゃなくて色なんだ」
「今日はそれでいい」
「うん」
二つ目へ手を伸ばしかけたとき、隣の寝台が小さく軋んだ。
「あ」
子供の手が止まる。
果実を皿へ戻し、顔のない存在を見る。
「起きた」
人影が足を床へ下ろす。
少し間を置き、立ち上がった。
子供は口を閉じて見守る。
一歩。
二歩。
三歩。
以前のように途中で声には出さない。
四歩。
五歩。
顔のない存在が止まる。
子供の唇が一度動いた。
けれど声は出なかった。
数呼吸のあと、もう一歩進む。
六歩。
七歩。
そこで人影は動きを止め、ゆっくり床へ座った。
「今日は七」
座ったことを確認してから、子供が言った。
「うん」
「途中で言わなかった」
「うん」
「今日は覚えてた」
少し嬉しそうだった。
「昨日は途中で言った」
「うん」
「今日はできた」
「うん」
そこで表情が少し変わる。
「昨日できなかったから、今日はできなきゃ?」
「そう思ってる?」
子供は少し考え、首を横へ振った。
「違う。今日は、途中で言わない方がいいって思ったから言わなかった」
「うん」
「数えてはいた」
「うん」
「七」
「うん」
子供は人影のいる位置と窓を見比べる。
「窓まで、まだある」
「うん」
「行ってほしい?」
アリシアが聞く。
子供は少し迷った。
「少し」
「言う?」
「今日は言わない」
「どうして?」
「今は、行ってほしいって言いたいより、ここで見てたい方が大きい」
「そっか」
顔のない存在は七歩目の位置に座ったままだ。
胸の十一の光は、朝に一つだけ淡く明るかった。
今は二つ。
「二つ」
子供が静かに言う。
「うん」
「歩いたから?」
口にしたところで、自分から眉を寄せた。
「……分からない」
「うん」
「歩いたあと二つになった。でも、歩いたから二つって決めない」
「そうだね」
子供は少し嬉しそうに笑った。
「言ってからじゃなくて、言う途中で分かった」
『随分早くなったわね』
ノアが床から口を挟む。
アリシアが訳すと、子供が振り向いた。
「ノア、褒めてる?」
『半分ね』
「半分?」
『残り半分は、もうアリシアより気づくのが早いんじゃないかと思っただけ』
「なんで私が比較されるの」
子供がアリシアを見る。
「アリシア、負けた?」
「負けてない」
『だから何の勝負なのよ』
子供の笑い声が部屋へ広がった。
◇
昼前。
東側の小空洞で、四度目の反応が出た。
「反応確認!」
観測員の声で、中継観測室に残っていた穏やかな空気が一瞬で変わった。
サーラが測定盤へ寄る。
「時刻」
「十一時十四分」
「継続時間、計測開始」
反応は弱い。
過去三回と同じく危険値は低く、生命反応もない。
ただし今回は、一度上がった魔力値がすぐには落ちず、一定の強さでしばらく維持されていた。
「名前のない光側は?」
「変化なし」
「位置は?」
「同じです」
「接続値?」
「低いまま」
若い観測員が二つの盤面を見比べる。
「距離は近くなった」
「はい」
「それから、小空洞が反応した」
「はい」
「でも今、光側は変わらない」
「そうです」
小空洞の反応は続いた。
十呼吸。
十二。
十五。
過去より明らかに長い。
「継続時間、これまでの記録を超えました」
「そのまま取ってください」
やがて値が緩やかに低下し、基準値近くまで戻った。
「終了。二十七呼吸」
観測室に静かな緊張が残った。
若い観測員が、今度は慎重に言葉を選ぶ。
「これ、光が今の位置まで近づいてから初めての反応ですよね」
「そうです」
「前より長かった」
「はい」
「……関連している可能性を考える材料は、増えました?」
サーラはすぐに答えず、過去の記録を並べた。
光の移動時刻。
三回目までの反応発生時刻。
昨夜の無反応時間。
現在の距離。
「材料は増えました」
「関連が強くなった、とはまだ言わない?」
「言いません」
「昨日よりは?」
「昨日は、光が近づいたあとにも反応が起きなかった時間があります。今日は反応した。条件が違うので、その差を比べます」
「比較するんですね」
「はい。昨夜の無反応時間帯、光が現在位置へ入った時刻、今回の反応開始時刻、過去三回の反応間隔を並べてください」
「了解」
「小空洞周辺で人間側の作業は?」
「ありません」
「狭窄部の補強?」
「開始前です」
「通信魔導具の出力変更は?」
「なし」
「それも記録へ」
若い観測員が小さく息を吐く。
「何もしなかった時間が、また比較に使える」
「そうですね」
「最初から比較材料を作るために放っておいたわけじゃないのに」
「はい」
「あとから意味が出た」
サーラが彼を見る。
若い観測員は数秒考え、自分から続けた。
「でも、『何もしない時間を作れば必ず情報が増える』とは決めない」
「そうです」
「今のはかなり良かったですよね?」
「少し」
「また少しですか」
記録係が笑いを堪える。
その空気が緩みかけた瞬間、別の観測員が声を上げた。
「待ってください」
サーラの表情が戻る。
「何です?」
「光側の輪郭光量が……上がっています」
全員の視線が測定盤へ集まる。
名前のない光そのものの位置は変わっていない。
接続値も変化なし。
けれど輪郭に相当する光量だけが、ほんのわずかに上がっていた。
「開始時刻は?」
「今です。小空洞の反応終了から……およそ三十呼吸後」
「接続値?」
「低いまま」
「移動なし?」
「ありません」
「小空洞側は?」
「反応終了状態です」
若い観測員が息を飲む。
「同期……?」
「同時ではありません」
サーラがすぐに答える。
「三十呼吸遅れてる」
「はい」
「時差反応?」
「可能性の一つです」
「偶然?」
「それもあります」
「別の原因?」
「あります」
サーラは盤面から目を離さなかった。
「原因は書きません。観測事実だけを残します」
「記録文は?」
「小空洞反応終了後、約三十呼吸で名前のない光の輪郭光量が微増。接続値変化なし。位置変化なし」
「了解」
光量の変化は長く続かなかった。
十数呼吸ほどで、以前の値へ戻る。
それ以上は何も起きなかった。
しかし観測室の空気は、反応前とは明らかに違っていた。
「……並べると、すごく関係ありそうですね」
若い観測員が測定盤を見たまま呟く。
「光が近づいた。そのあと小空洞が反応した。反応が終わって少しして、光が明るくなった」
「そうですね」
サーラは否定しなかった。
「だからこそ、慎重に扱います」
「関係あるんじゃないかって思うのは?」
「構いません」
「でも事実じゃない」
「はい」
「仮説にするなら?」
「検証できる形にします」
サーラは三つの記録を指した。
「次回の小空洞反応でも同程度の遅れが出るか。光と小空洞の距離がさらに変わったとき、反応間隔や強度が変わるか。人間側の作業がない状態で再現するか。少なくとも今日一度だけでは判断できません」
「一回じゃ足りない」
「はい」
若い観測員は記録板へ目を落とす。
「近くなったから答えが出た、じゃない」
「まだ出たのは新しい材料です」
「材料が増えた」
「その言い方が一番近いですね」
◇
昼食の時間。
学院長から東側の新しい報告を聞いた子供は、麦粥の匙を手にしたまましばらく止まっていた。
「反応した」
「ああ」
「光が近くなったあと?」
「そうだ」
「前より長かった?」
「今までで一番長かった」
「そのあと、光も少し明るくなった?」
「輪郭に相当する値だけな。小空洞の反応が終わってから三十呼吸ほど後だ」
子供の眉間へ小さな皺が寄る。
「じゃあ、関係ある?」
「まだ分からない」
「でも、昨日より近い」
「ああ」
「小空洞、反応した」
「ああ」
「光も明るくなった」
「ああ」
「いっぱい、つながりそうなのある」
「そうだな」
子供は匙を器へ戻した。
食べることを忘れたわけではない。
ただ、考える方へ気持ちが寄っている。
「近くなったから、答え出た?」
「何の答えだ?」
「光と空洞が関係あるか」
「まだだ」
「どうして?」
「光が近くなったあとに小空洞が反応したのは、確認できた範囲では今回が初めてだからだ。それに、光が明るくなったのも同時じゃない」
「三十呼吸あと」
「そうだ」
「遅れて反応することある?」
「あるかもしれない」
「たまたまも?」
「ある」
「違う理由も?」
「ある」
子供の頬が少し膨らんだ。
「また、いっぱい」
「うん」
「答え出そうだったのに」
期待していたのだろう。
アリシアはその気持ちを否定せずに聞く。
「関係あってほしい?」
「分からない」
「怖い?」
「少し」
「知りたい?」
「それは、かなりある」
「そっか」
子供は昼食に添えられた淡い黄色の果実を一つ手に取った。
噛みながら、まだ考えている。
「近いから答えって思いたい」
「どうして?」
「分かりやすいから」
果実を飲み込んでから、指を折るように順番を並べた。
「光が近づいた。空洞が反応した。そのあと光が明るくなった。だから二つは関係ある。ってしたら簡単」
「うん」
「でも違うかもしれない」
「うん」
「……嫌」
「何が?」
「簡単じゃない」
アリシアは笑いそうになったが、そのまま頷いた。
「簡単な方が楽だよね」
「うん」
「でも、簡単じゃないこともある」
「うん」
子供はもう一口果実を食べる。
「西は?」
「予定通り、旧排水坑へ十歩だけ入った」
学院長が答える。
「金属板、取った?」
「取っていない」
「近くまで行った?」
「あと三歩ほど」
「三歩?」
子供の目が大きくなる。
「すぐじゃん」
「近かったな」
「でも取らなかった?」
「取らなかった」
「どうして?」
「今日の調査対象ではなかった。それから、十歩までと先に決めていた」
「板、危ない?」
「まだ分からない」
「文字は?」
「遠くから読めた範囲では、『第二』と『点検』らしき文字がある」
「第二排水?」
「その可能性はある」
「答え?」
「まだだ」
子供が露骨に不満そうな顔をした。
「西も答え出ない」
「そうだな」
「三歩なのに」
「近づけば、分かることは増える」
「でも全部分かるじゃない」
「ああ」
しばらく考えていた子供が、棚の前の木箱を見る。
「箱も?」
「どういうこと?」
「箱の近くにはいられる。触った。留め具も動かした。でも中身は分からない」
「うん」
「開けたら答え?」
「中に何が入っているかは、かなり分かると思う」
「全部?」
アリシアは少し考えた。
「箱を開けて中身が分かっても、どうしてそれが入っているのか、誰が入れたのか、いつ入れたのかまでは分からないかもしれない」
子供の目が見開かれる。
「……ずるい」
「何が?」
「開けたら、答え全部出ると思ってた」
「出る答えもあるよ」
「でも全部じゃない」
「うん」
子供は木箱を長く見た。
「じゃあ、開けるの急がなくていい」
「どうして?」
「開けたら全部終わるんじゃないなら、今開けなくてもいい」
「そっか」
「でも見たいのはある」
「うん」
「あとで触るかもしれない」
「うん」
子供はそこでようやく麦粥の匙を取り直した。
◇
午後。
東側では、狭窄部の補強作業が始まった。
光が先へ進んだからといって、その通路を光のために広げるわけではない。
既存の狭い幅を維持したまま、これ以上崩落が進まないよう、手前側へ支柱を追加する。将来的に人間側が観測点を移す必要が出た場合、安全に一人ずつ通過できる状態へ整えておくためだった。
作業員は、名前のない光がいる側へは入らない。
サーラは中継観測室から、光側と小空洞側の二つを同時に監視している。
『支柱一本目、固定に入ります』
「了解。小空洞側?」
「反応なし」
「光側?」
「変化ありません」
地下から金属音が伝わり、遠隔感知盤に少しだけ雑音が走った。
「作業由来のノイズとして記録」
「はい」
『二本目、入れます』
木材が石へ当たる鈍い音。
少し大きい。
「光量変化なし」
「接続値も変わりません」
「小空洞側、反応なし」
若い観測員が二つの記録を見比べた。
「今、人間側が動いている時間の値も取れる」
「そうですね」
「何もしなかった時間と比較できる」
「はい」
「じゃあ、人間側の音や振動で反応するかどうかの材料にもなる」
言い切ったあと、自分から続ける。
「……今日の作業だけで決めなければ」
「そうです」
作業は一時間ほど続いた。
三本の支柱。
補強板。
接合部分の固定。
すべて狭窄部の手前側から行われる。
そのあいだ、小空洞側に新しい反応はなかった。
名前のない光も移動しない。
光量も変化しない。
『予定範囲、補強終了です』
「了解。作業員は撤収してください」
『分かりました』
通信が切れたあと、若い観測員が記録を見直す。
「作業中は反応なし」
「はい」
「じゃあ、人間が音を出したから小空洞が反応するわけじゃない」
そこまで言い、すぐに自分で眉を寄せた。
「少なくとも、今日の補強作業では反応しなかった」
「その方が正確です」
「今度こそ、かなり良かったですよね」
「少し」
「結局少しなんですね」
サーラが笑った。
◇
夕方。
生活観測区画では、子供が木箱の前へ座っていた。
朝は触らなかった。
昼食のときは見るだけだった。
午後も何度か近くを通ったが、手を伸ばさなかった。
今になって、ようやく留め具へ指を置く。
「触る?」
アリシアが尋ねる。
「うん」
金属は少し冷たい。
初めて触れた日のような驚きはない。
それでも、指先へ少し力が入っている。
「開ける?」
「まだ分からない」
「うん」
子供が留め具を少し動かす。
かすかな金属音。
以前より、さらに開く側へ。
あとわずかに動かせば、留め具そのものが外れそうだった。
子供の呼吸が少し浅くなる。
「近い」
「何に?」
「開くのに」
「うん」
「あと少し」
「そうだね」
子供は金具へ指をかけたまま黙った。
「……近いから、開けなきゃ?」
アリシアは答えなかった。
子供自身が、少しして笑う。
「違う」
「うん」
「東の光も、空洞に近くなった。でも、まだ答えじゃない」
「うん」
「西の人も、板まで三歩。でも取らなかった」
「うん」
「箱も、あと少し。でも開けなくていい」
「うん」
指は留め具から離れない。
「でも、開けてもいい」
「うん」
「どっち?」
「子供はどうしたい?」
長い沈黙が落ちた。
子供は木箱を見つめる。
木目。
擦れた角。
何度も触れた蓋。
少しずつ動かしてきた留め具。
以前、この箱そのものが怖くて、棚の下の見えない場所へ戻したいと思っていた頃とは違う。
今は、近くに座れる。
触れる。
留め具も動かせる。
けれど、そこまで来たからといって最後の一動作までしなければならないわけではない。
「今日は……」
子供の指へ少し力が入る。
留め具がさらに動いた。
外れる直前。
そこで止まる。
肩が小さく上下する。
「ここまで」
「うん」
「前より近い」
「うん」
「でも、答えじゃない」
「うん」
「開けなかったから失敗でもない」
「そうだね」
子供は少しだけ笑った。
「西の人と同じ」
「どこが?」
「板まで近いのに、取らなかった」
「そうだね」
「学院長、気になるって言った」
「かなり気になってるみたいだね」
「私もかなり」
「箱?」
「うん」
子供は留め具から指を離した。
「でも今日は終わり」
「分かった」
木箱から少し離れる。
蓋はまだ閉じている。
留め具だけが、これまでで最も開く側へ寄った位置に残った。
◇
夜。
西側の調査結果が、仮設観測室で整理されていた。
旧排水坑は入口から十歩まで、人間が安全を確認しながら進める状態だった。
弱い水流は継続。
壁沿いの排水溝も残っている。
途中には壁内の水抜き用と思われる短い枝があり、壁面には過去に現在より高い位置まで水が来た可能性を示す跡も確認された。
その先。
十歩目から、およそ三歩。
泥へ半分埋もれた金属板。
現時点で読めた文字は、「第二」と「点検」に見える部分だけだった。
明日、その金属板を正式な調査対象へ含めるかどうかは、まだ決まっていない。
「近いから明日取る、ではない」
副学院長が会議の最後に確認した。
若い観測員が頷く。
「何を知るために必要なのかを決める」
「そうだ」
「でも、かなり気になります」
「俺もだ」
「そこは変わらない」
「変える必要がないからな」
少しだけ笑いが起きた。
気になる。
知りたい。
近づきたい。
そう思うことまで禁じる必要はない。
ただ、その感情と行動の理由を混ぜない。
それだけだった。
一方の東側では、昼に四度目の小空洞反応が確認されている。
継続時間は過去最長の二十七呼吸。
その終了から、およそ三十呼吸後。
名前のない光の輪郭光量だけが短時間、微増した。
接続値の変化なし。
位置変化なし。
その後に行われた狭窄部補強作業中は、小空洞側、光側ともに新しい反応なし。
関連性は未確定。
ただし、昨日より比較できる材料は増えた。
◇
寝台へ入った子供は、いつもより少し長く天井を見つめていた。
隣では顔のない存在が、すでに自分の寝台へ戻っている。
今日は七歩目まで進み、その場へ座った。
その後、夜になるまで大きな移動はなかった。
「アリシア」
「うん」
「近いって、いいこと?」
少し意外な問いだった。
アリシアはすぐに答えず、子供の横顔を見る。
「何に近いかによるかな」
「答え」
「答えに近いってこと?」
「うん」
子供は布団の端を指先でゆっくり撫でる。
「光は空洞に近くなった。西の人は板に近くなった。私は箱を開けるのに近くなった」
「うん」
「全部、答えに近い?」
「そう見えるところはあると思う」
「でも、答えじゃない」
「うん」
「もっと近くなったら?」
「分かることは増えるかもしれない」
「答えも?」
「増えるかもしれないね」
「全部?」
「全部とは限らない」
子供は少し不満そうに眉を寄せた。
「ずっと分からないこと、ある?」
「あると思う」
「近くまで行っても?」
「うん」
「触っても?」
「うん」
「開けても?」
「あると思う」
「嫌だ」
「うん」
「答えほしい」
「うん」
アリシアは否定しなかった。
分からないまま待てるようになることと、答えを欲しがらなくなることは別だ。
知りたい。
見たい。
分かりたい。
その気持ちは、急がないために捨てるものではない。
「アリシアも?」
「答え、ほしいよ」
「何の?」
「いっぱいある」
「六つ目の神器?」
突然出た言葉に、アリシアの目がほんの少し動いた。
「それも」
「私のこと?」
「それも」
「この人?」
「うん」
「十一の光?」
「うん」
「東と西の光?」
「うん」
「いっぱい」
「いっぱいある」
子供は少し笑った。
「じゃあ、アリシアも我慢してる?」
「我慢っていうより……待ってるところはあるかな」
「待つの、嫌?」
「嫌なときもある」
「でも待つ?」
「分からないのに急いで決める方が、私は嫌だから」
「何を決める?」
「相手の気持ちとか、物の意味とか。答えがほしいからって、分からないところへ自分で答えを入れること」
子供は少し考える。
「答えほしいから、答え作る?」
「そういうこともあると思う」
「楽?」
「一瞬は楽かもしれない」
「あとで?」
「違っていたら困るね」
「じゃあ、近くに答えっぽいものがあっても、すぐ取らないことある」
「あるよ」
「西の板みたい」
「うん」
「箱も?」
「子供はどう思う?」
子供は棚の前にある木箱を見る。
薄暗い夜の室内でも、留め具の位置は分かる。
かなり開く側へ寄っている。
「中に答えあるかもしれない」
「うん」
「でも、私が開けたいときに開ける」
「うん」
「答えがほしいからだけで開けない」
「そうだね」
短い沈黙のあと、子供が再び口を開いた。
「東の光、小空洞の近くまで行った」
「うん」
「空洞が答えじゃないかもしれない」
「うん」
「ただの途中かも」
「うん」
「関係あるかも」
「うん」
「ないかも」
子供は少し笑った。
「いっぱい言える」
「増えたね」
「何が?」
「考えられること」
子供は天井を見る。
「前は、一つがよかった」
「今は?」
「今も、一つの方が楽」
「うん」
「でも、違うのもあるって知ってる」
「うん」
「ちょっと嫌」
「うん」
「でも、前よりは怖くないかも」
「そっか」
子供は目を閉じた。
そのまま眠るかと思ったが、少しして再び瞼が上がった。
「アリシア」
「うん」
「答え見つからなくても、探した時間はなくならない?」
アリシアは少し考える。
「なくならないと思う」
「何も分からなかったら?」
「何も分からなかったって分かることもあるよ」
「それだけ?」
「それだけの日もある」
子供はしばらく黙った。
「今日の東、人間いっぱい見た。でも答え出なかった」
「うん」
「西も十歩行った。でも板取らなかった」
「うん」
「私も箱触った。でも開けなかった」
「うん」
「全部、途中?」
「そう見えるね」
「でも、何もなかったじゃない」
「うん。今日あったことは、ちゃんとあった」
子供は布団を少し上まで引き上げた。
「じゃあ、それでいい」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
少しずつ呼吸が穏やかになる。
隣の寝台では、顔のない存在の胸に十一の淡い光が残っている。
今、少し明るいのは一つだけだった。
朝と同じ数。
けれど、朝と同じ一つなのかは分からない。
アリシアは確認し直さなかった。
◇
夜半。
東側の中継観測室では、昼に発生した四度目の小空洞反応と、その後に確認された名前のない光の光量変化について照合作業が続いていた。
「過去三回は?」
「光側に明確な変化は確認されていません」
「今回だけ?」
「少なくとも、今残っている記録では」
サーラは四回分の記録を机へ並べた。
一回目は短い。
二回目はそれより少し長い。
三回目はさらに長い。
四回目は二十七呼吸。
そして四回目だけ、反応終了からおよそ三十呼吸後に、名前のない光の輪郭光量が短時間上昇している。
「距離との関係は?」
若い観測員が尋ねる。
「まだ四回しかありません」
「四回も、じゃなくて?」
「四回しか、です」
「厳しいなあ」
「そもそも何を測っている反応なのか、その性質すら分かっていません。回数だけ増えても、条件が整理できなければ比較になりません」
「じゃあ次を待つ?」
「待ちます」
「人間側から刺激は?」
「今はしません」
「理由は?」
「こちらから刺激すると、何もしていない状態で自然に発生した反応との比較が難しくなるからです」
若い観測員は少し考えた。
「じゃあ、何もしない時間を作る?」
サーラはすぐには頷かなかった。
「それを目的にする、とは言いません」
「違う?」
「人間側に今すぐ刺激を加える必要性がない。だから、今は行わない。その結果として、何もしていない時間帯の記録が増える可能性はあります」
「何もしないことを正解にしない」
「はい」
「必要なら明日はやるかもしれない」
「そういうことです」
若い観測員は椅子へ少し深く座り直した。
「同じ行動でも、理由が違う」
「かなり慣れてきましたね」
「かなり?」
「今日は少し多めに褒めています」
「そこは言わなくていいです」
記録係から小さな笑いが漏れた。
測定盤では、名前のない光を示す点が同じ位置に留まっている。
小空洞側も静かだった。
五度目の反応は、まだ出ない。
夜がもう少し深くなった頃、若い観測員が欠伸を噛み殺しながら二つの位置を見る。
「……答え、近そうなんですけどね」
サーラが顔を上げた。
「何のです?」
「光と小空洞の関係です。距離は縮まった。今日は反応した。しかも前より長かった。そのあと光も少し明るくなった」
「はい」
「ここまで揃ったら、あと少しで分かりそうな気がする」
「気がする、ですね」
「はい」
サーラは測定盤に示された二つの印を見た。
左側通路にいる名前のない光。
壁を隔てた小空洞。
「近いものは、答えに見えやすいのかもしれませんね」
「近いもの?」
「距離が近い。起きた時間が近い。言葉が似ている。形が似ている。人間はそういうものを見ると、間に線を引きたくなります」
「でも、本当につながっている場合もありますよね」
「もちろんです」
「じゃあ調べる」
「はい」
「でも、近いから答えだとは決めない」
「そういうことです」
若い観測員は、少しだけ笑った。
「子供が聞いたら、また難しいって言いそうですね」
「私も難しいと思っていますよ」
「サーラさんも?」
「当然でしょう」
「何でも分かってそうな顔してるのに」
サーラの眉が上がった。
「失礼ですね」
「褒めてます」
「褒め方を学んだ方がいいと思います」
夜の観測室へ、小さな笑いが残った。
そのあいだにも、光は動かない。
小空洞も反応しない。
今夜の答えは、まだ出なかった。
それでも、人間側が昨日より知っていることは確かに増えている。
名前のない光が小空洞へ近づいたあと、四度目の反応が起きたこと。
その反応が過去より長かったこと。
反応終了から少し遅れて、光の輪郭光量が一時的に変化したこと。
午後の補強作業中には、小空洞も光も新しい反応を示さなかったこと。
そして、それらを並べても、まだ両者の関係を断言するには足りないこと。
近づくことで見えるものはある。
遠くからでは拾えなかった情報もある。
西側では金属板まで、あと三歩。
生活観測区画では、木箱の留め具が外れるまで、あとほんの少し。
東側では、名前のない光と小空洞との距離が、昨日より縮まっている。
どれも、手を伸ばしたくなるほど近い。
だからこそ、その近さ自体を「次へ進む理由」にしてはいけないのかもしれなかった。
近づいたことで、昨日まで見えなかったものが見えることはある。
文字が読めることもある。
反応の変化を比べられることもある。
自分がどれほど知りたいと思っているのかに気づくこともある。
けれど、その先にあるものが、必ず答えとは限らない。
答えに見えるものへ、先に答えという名前を付ければ、そのあとに見えるものまで、その名前に合わせてしまうかもしれない。
まだ分からないものは、まだ分からないままにしておく。
それは諦めることではなかった。
知りたい気持ちを捨てることでもない。
分からないからこそ、次に何を確かめるのかを選び直せるということだった。
その夜も、東側の名前のない光は、小空洞と壁一枚を隔てた位置で静かに留まり続けていた。
五度目の反応は、まだ起きない。
西側の金属板も、泥の中へ半分埋もれたまま。
生活観測区画の木箱も、蓋を閉じたままだ。
どれも、あと少しに見える。
それでも、その「あと少し」が何へ続いているのかは、まだ誰にも分からなかった。




