第142話 知りたい理由が増えたからといって、今すぐ確かめる理由になるとは限らない
朝になっても、東側の小空洞では五度目の反応は起きていなかった。
夜のあいだ、中継観測室では二人の観測員が交代で測定盤を見続けていた。名前のない光は左側通路の奥で位置をほとんど変えず、小空洞側の魔力値も基準付近を静かに保っている。
昨日の昼。
四度目の反応は、これまでで最も長い二十七呼吸続いた。
その終了からおよそ三十呼吸後、名前のない光の輪郭光量が短時間だけ増えた。
距離は以前より近い。
時間も近い。
並べれば、何かがつながっているように見える。
だからこそ学院側は、その夜、何も追加しなかった。
小空洞へ向けて刺激を送らない。
光へ近づかない。
壁を叩かない。
新しい魔力感知を強く流し込むこともしない。
五度目が自然に起こるのか。
起こらないのか。
まずは、それをそのまま見ることになっていた。
「……来ませんでしたね」
夜間担当の若い観測員が、朝の引き継ぎを前に測定盤を見つめた。
窓のない中継観測室では外が明るくなったかどうか分からない。それでも交代要員の足音が廊下へ増え始め、机の上へ置かれた温かい飲み物の湯気が、長かった夜の終わりを知らせていた。
サーラは昨夜より少し遅れて室内へ入ってくると、最初に測定盤ではなく、夜間記録を受け取った。
「五度目が?」
「はい。一度もありません」
「光側は?」
「輪郭光量、接続値、位置ともに大きな変化なしです。深夜に一度だけ輪郭が少し揺れましたが、測定誤差内です」
「人間側の作業は?」
「なし」
「通信出力変更も?」
「ありません」
サーラは記録へ目を通し、最後の欄まで確認してから紙を机へ置いた。
「では、『夜間は新規反応なし』で引き継ぎます」
若い観測員は少し物足りなそうな顔をした。
「五度目、来ると思ってました」
「そうですか?」
「昨日の四回目が長かったし、そのあと光側にも変化があったから。次も近いうちに来るんじゃないかって」
「外れましたね」
「はい」
「嫌ですか?」
「ちょっと」
正直な答えだった。
若い観測員は椅子から立ち上がったものの、すぐには帰ろうとしない。測定盤の二つの印を見ながら、眠気よりも考えたい気持ちが勝っているようだった。
「でも、来なかったのも記録ですよね」
「もちろんです」
「もし昨日の反応が、光が近づいたことで起きたなら、ずっと反応し続けてもよさそうなのに」
言い終わったところで、自分から眉を寄せる。
「……いや、それも勝手か。近づいたら一回だけ反応する仕組みかもしれないし」
「そうですね」
「一定時間空けるのかもしれない」
「はい」
「別の条件が必要かもしれない」
「ありますね」
「そもそも光と関係ないかもしれない」
「それも残っています」
若い観測員は苦笑した。
「一つ来なかっただけで、また増えました」
「可能性が?」
「はい」
「減ることもありますよ」
「いつです?」
「同じ条件で何度も比較できたときです」
「じゃあ、まだ先だ」
「たぶん」
サーラは自分の席へ座った。
「ただし、可能性を減らすことだけが観測の目的ではありません」
「え?」
「分からないまま残すべきものを、分からないまま残すことも必要です」
「……分かってきたと思ったら、また難しいの来ましたね」
「朝ですから」
「朝だから?」
「頭を起こしてください」
「夜勤明けなんですけど」
周囲の記録係が笑う。
若い観測員も少し遅れて笑い、ようやく荷物をまとめ始めた。
五度目は来なかった。
それだけだった。
けれど、その「来なかった」は、昨日の四度目とは違う新しい記録として残った。
◇
生活観測区画では、子供が目を覚ます前から、窓辺に二羽の鳥が戻っていた。
一羽は庭の石畳を歩き、もう一羽は低い植え込みの枝へ止まっている。
昨日の朝に見えたのは一羽だけだった。
今朝は二羽。
同じ二羽なのかどうかは分からない。
アリシアは、それを報告書より先に見つけた。
『朝から鳥を数えるようになったの?』
ノアが布の上で伸びをしながら言う。
「見えたから」
『昨日は一羽だったわね』
「うん」
『今日は二羽』
「うん」
『増えた?』
アリシアが一瞬黙る。
ノアの尻尾が楽しそうに揺れた。
「……今は二羽見える」
『よくできました』
「絶対わざとでしょ」
『何のこと?』
「私を試した」
『人聞きが悪いわね。会話よ』
アリシアが小さく口を尖らせたところで、寝台から布の擦れる音が聞こえた。
子供が目を覚ます。
今朝は目を開けたあと、すぐに起き上がらず、枕へ頬をつけたまま窓を見た。
「二羽」
「うん」
「昨日は一羽見えた」
「そうだね」
「昨日のもう一羽、戻った?」
アリシアは一拍考えた。
「同じ鳥かは分からないな」
「そっか」
子供は枝の上の鳥と、地面を歩く鳥を見比べる。
「じゃあ今は二羽」
「うん」
それから隣の寝台へ視線を向けた。
顔のない存在は横になっている。
「おはよう」
子供が声をかける。
今朝は一つ目の光が、昨日より少し早く明るくなった。
続いて二つ目。
少し間を置き、三つ目。
「今は三つ」
子供はそれだけ言った。
昨日の朝は一つだった。
夜はまた別の数だった。
比較したくないわけではないのだろう。
一瞬だけ胸の十一の光を長く眺めていた。
それでも、「増えたから良い」とは言わなかった。
「三つで嬉しい?」
アリシアが尋ねる。
「少し」
「そっか」
「昨日、一つだったのも嫌じゃなかった。でも今日は三つが少し嬉しい」
「うん」
「良くなったじゃない」
「うん」
「でも嬉しいはある」
「あるね」
子供は少し笑い、布団を出た。
足の確認をする。
痛みなし。
赤みなし。
足首の動きにも問題はない。
自分で四歩ほど歩いたあと、子供は棚の前へ行った。
白い花。
昨夜から、新しく落ちた花弁はない。
茎に残っている花弁は、もうごく少ない。
昨日棚へ残した針先ほどの小さな粉は――まだあった。
「あ」
子供が顔を近づける。
「残ってる」
「昨日の小さいの?」
「うん」
「今朝はあるね」
子供はしばらく見つめた。
「昨日、なくなるかもって思った」
「うん」
「でもある」
「うん」
「じゃあ、拾う?」
自分へ聞く。
少し迷う。
手は伸びない。
「……今はまだいい」
「うん」
「なくなるかも。でも、まだいい」
その言葉を言ったあと、子供は少しだけ不思議そうな顔をした。
「前より怖くない?」
「どう?」
「なくなるかもって思ってる。でも、今すぐしなきゃが少ない」
「そっか」
「なくなったら後悔するかも」
「うん」
「でも今は拾いたくない」
「うん」
子供は自分で頷く。
「じゃあ、そのまま」
次に、木箱へ目を向けた。
昨日、留め具はこれまでで最も開く側へ動かされている。
あとほんの少し。
少し持ち上げれば外れそうな位置。
子供は箱の前へ座った。
「近い」
「昨日も言ってたね」
「うん」
「今日はどうする?」
アリシアが尋ねると、子供はすぐには手を伸ばさなかった。
「分からない」
「うん」
「昨日、ここまでにした」
「うん」
「今日、開ける理由増えた?」
思いがけない言い方だった。
アリシアは子供を見る。
「どういうこと?」
「昨日、答えほしいって思った。でも、開けても全部分からないって聞いた」
「うん」
「それで急がなくていいって思った」
「うん」
「でも朝になったら、またちょっと見たい」
「うん」
「見たいが増えたら、開ける理由?」
アリシアはすぐには答えなかった。
「見たいっていうのは、理由の一つにはなると思うよ」
「じゃあ開ける?」
「理由が一つあるから、必ずやるわけじゃないでしょう?」
「……そっか」
子供は箱を見る。
「怖いもある」
「うん」
「見たいもある」
「うん」
「今日は触りたい?」
自分で考える。
右手を上げる。
留め具へ指を置く。
昨日より、触れるまでが早かった。
「冷たい」
「うん」
「昨日と同じ?」
「金具はたぶん大きく変わってないね」
「私は?」
「どう?」
子供は少し笑った。
「昨日より見たい。でも、昨日より怖いも少しある」
「両方増えた?」
「たぶん」
その言葉のあと、指が留め具へ力をかけることはなかった。
「今日は、まず触るだけ」
「うん」
「あとで動かすかもしれない」
「分かった」
子供は手を離した。
木箱は、昨日の途中のままだった。
◇
西側旧排水坑では、朝の会議がいつもより少し長くなっていた。
昨日、入口から十歩までの現地確認を終えた。
水流。
排水溝。
壁内水抜きと思われる短い枝。
過去の高水位跡。
そして十歩地点から約三歩先にある、泥へ半分埋もれた金属板。
遠隔観測で読めた文字は、「第二」と「点検」に見える部分。
今日の議題は、その金属板を正式な調査対象へ含めるかどうかだった。
仮設机の上には、昨日の映像を写した紙が置かれている。
若い観測員は、会議開始から何度もその金属板を見ていた。
副学院長が気づく。
「穴が開くぞ」
「何がです?」
「紙に」
「そんなに見てます?」
「見てる」
年長の観測員も頷いた。
「朝から四回は見てる」
「数えてたんですか?」
「暇だったから」
「仕事してくださいよ」
「お前を見るのも仕事の一部になってきた」
「嫌な仕事増やさないでください」
小さな笑いが起こる。
副学院長はそれが収まってから、金属板の映像へ指を置いた。
「今日はこれを調べる理由があるかを決める」
魔導具教師が資料をめくる。
「私はあります」
「聞こう」
「第一に、旧排水坑の系統を特定する手掛かりになる可能性があります。『第二』『点検』が本当に読めているなら、排水支路や点検区画の番号表記かもしれません」
「可能性」
「はい。第二に、金属板が固定設備の一部なのか、落下した表示板なのかで、通路構造の判断が変わります」
「それも分かる?」
「近づけば、少なくとも取り付け痕の有無は確認できます」
「第三は?」
「排水の判断です。もし第二支路や点検経路を示す表示なら、古い図面にない分岐が存在する可能性があります。水没区画の排水先を考えるうえで重要です」
副学院長が頷いた。
「昨日より、板そのものを調べる理由は増えたな」
若い観測員の顔が少し明るくなる。
「じゃあ取ります?」
「近づいて確認する理由は増えた」
「あ」
「取る理由はまだ別だ」
「また分ける……」
「板が床へ固定されているかもしれない。泥の下に別の構造がつながっているかもしれない。腐食して崩れるかもしれない。まず触らずに近距離確認だ」
「なるほど」
年長の観測員が若い方を見る。
「残念そうだな」
「ちょっと」
「正直でよろしい」
「でも、近づけるんですよね?」
副学院長が答える。
「昨日の十歩地点から三歩先。地盤と天井を再確認して問題がなければ、十三歩地点まで調査範囲を広げる」
「十三」
「そうだ」
「十四は?」
「まだ言うのか」
「確認です」
「今日は金属板の手前まで。越えない」
「了解」
若い観測員は、今度はすぐ頷いた。
昨日は対象外だったものが、今日は調査対象になる。
昨日近かったからではない。
一晩整理し、現在の目的と結び付く可能性が見つかったからだ。
「準備を始めろ」
副学院長の声で、会議が終わった。
◇
朝食の席では、子供が初めて見る淡い青色の果実を前にしていた。
「青」
「青ですね」
治療教師が答える。
「甘い?」
「かなり甘いですよ」
「酸っぱい?」
「少しだけ」
「苦い?」
「ほとんどありません」
子供は一切れ取った。
口へ入れる。
しばらく噛む。
目が少し大きくなった。
「甘い」
「好き?」
「今は好き」
「名前は?」
アリシアが尋ねる。
「青甘」
『迷いがないわね』
ノアの言葉を伝えると、子供が少し笑った。
「分かりやすいから」
「二つ目は?」
「食べる」
二つ目も食べる。
三つ目へ手を伸ばしたところで、扉へ顔を向けた。
「学院長?」
「いるぞ」
「東、五回目来た?」
アリシアが少し驚く。
昨日の夜の話を、子供は覚えていたらしい。
「来ていない」
「夜ずっと?」
「ああ。新しい小空洞反応は確認されていない」
「光は?」
「ほとんど同じ場所」
「明るくなった?」
「大きな変化はない」
子供は果実を持ったまま考える。
「昨日、関係ありそうって思ったのに」
「うん」
「今日は何もない」
「今のところはな」
「じゃあ関係ない?」
「まだ決めない」
「やっぱり?」
「昨日一度起きたことも事実だし、昨夜起きなかったことも事実だ」
「両方ある」
「そうだ」
「五回目、来てほしい?」
子供の問いに、学院長は少し考えた。
「調査する側としては、比較できる反応が増えれば助かる」
「じゃあ来てほしい?」
「情報としてはな」
「でも危ないかも?」
「危険値は今まで低い。ただ、何の反応か分からない以上、強くなってほしいとは思わない」
「来てほしいけど、強くなってほしいじゃない」
「そうだな」
「難しい」
「俺もそう思う」
子供は青甘をもう一口食べる。
「西は?」
「今日は金属板の近くまで進む予定だ」
「取る?」
「まだ取らない」
「昨日より理由増えた?」
学院長が少し黙る。
「その言い方、どこで覚えた?」
「箱」
「箱?」
「朝、開ける理由増えたかなって考えた」
アリシアが少し照れたように笑う。
「なるほど」
「西は増えた?」
「増えた。金属板を調べれば、排水路の系統が分かるかもしれない。だから近くで確認する理由は増えた」
「でも取る理由は?」
「まだ足りない」
子供は少し嬉しそうに頷いた。
「同じ」
「箱と?」
「うん。見たい理由増えた。でも今日は触るだけにした」
「そうか」
「あとで動かすかも」
「それもいいだろう」
「学院長も、板あとで取るかも?」
「調べた結果、必要ならな」
子供は食事へ戻った。
「理由増えても、すぐ全部やるじゃない」
「そうだな」
「でも理由なかったら、ずっとやらない?」
「新しい理由が出ることもある」
「昨日の板みたい」
「ああ」
子供は少し考えた。
「昨日の『しない』が、今日の『する』を禁止しない」
「そうだ」
「箱も」
「うん」
その確認だけで満足したのか、子供は青甘の三切れ目を食べた。
◇
西側旧排水坑。
昨日と同じ三人が内部へ入った。
土属性術師。
魔導具教師。
若い観測員。
入口の外には副学院長と年長の観測員が残る。
昨日確認済みの十歩地点までは、それでも急がなかった。
一歩。
二歩。
泥の沈み方は昨日とほぼ同じ。
排水溝の水流も継続。
五歩地点の短い枝も変化なし。
八歩付近の高水位跡もそのまま。
九。
十。
「十歩到達」
若い観測員が報告する。
『ここから新規範囲だ』
副学院長の声が通信具から届く。
「はい」
土属性術師が、昨日より先の床へ感知を伸ばす。
十一歩目。
「床下空洞なし。泥深さ、少し増えています」
「天井?」
「安定。ただし右壁の一部に古い亀裂」
「進める?」
「一人ずつなら」
十一歩。
靴が昨日より深く沈む。
「泥、指二本くらい」
「排水溝は?」
「流れてます」
十二歩。
金属板が近い。
腐食した表面が肉眼でも見える。
泥の下へ斜めに入っている。
若い観測員の呼吸が少し変わった。
「近い」
『感想はあとだ』
「はい」
十三歩。
三人が止まる。
金属板は目の前。
手を伸ばせば届きそうな距離だった。
けれど、誰も触れない。
「現地確認開始」
魔導具教師がしゃがむ。
泥へ膝をつけないよう、小さな支持板を置き、その上から金属板の周囲を見る。
「固定されて……いないように見えます」
『見えるだけか?』
「はい。泥に埋もれていて、下部は確認できません」
「壁との接続?」
「なし」
「魔力反応?」
感知盤を近づける。
「ほぼありません。残留もかなり低い」
「文字は?」
表面へ弱い光を斜めから当てる。
腐食した刻印の凹凸が浮かび上がった。
「『第二』は確実そうです。その下……」
全員が息を潜める。
「『第二排水支路』」
若い観測員の声が少し大きくなる。
「読める?」
「最後の『路』は一部欠損しています。でも文字列としては、その可能性が高い」
「点検は?」
「下側です。泥に半分埋まっています」
『触るなよ』
副学院長の声が飛ぶ。
「まだ触ってません」
『まだ、を付けるな』
年長の観測員の笑い声が通信の向こうで聞こえた。
魔導具教師が別角度から観測する。
「『点検……口』」
「点検口?」
「その可能性があります」
若い観測員の表情が変わる。
「板じゃなくて、蓋?」
「まだ分かりません」
金属板の縁。
泥の下。
角の一部に、周囲とは違う金属製の枠らしきものが見える。
「固定設備かもしれません」
「昨日は落ちた板に見えた」
「遠隔映像では枠が泥に隠れていました」
「じゃあ取っちゃ駄目だった」
若い観測員が呟く。
魔導具教師が顔を上げた。
「少なくとも、確認せず引き抜くべきものではなかったですね」
「近かったのに取らなくてよかった」
言ったあと、若い観測員はすぐに眉を寄せる。
「……結果がこうだったから、昨日の判断が正しかったって決めすぎない」
『自分で言うようになったな』
副学院長の声に、少し笑いが混じる。
「かなり鍛えられたので」
『なら次。今日、泥を除ける理由はあるか?』
若い観測員はすぐに答えず、魔導具教師を見る。
教師が考える。
「点検口かどうか確認するには、下側の刻印と枠をもう少し見る必要があります」
『泥を除ける必要は?』
「表面だけなら、吸引具で周囲を数寸除去できます。板そのものには触れずに」
「水流への影響は?」
土属性術師が床を感知する。
「この位置の泥は主排水溝とは離れています。少量なら影響は低いと思います」
『やる価値は?』
「あります」
少し間があった。
『表面だけだ。枠が見えた時点で止めろ。開閉はしない』
「了解」
若い観測員が小さく息を吐く。
「また一段だけ」
魔導具教師が聞く。
「不満ですか?」
「いや」
若い観測員は金属板を見る。
「今日は、それが調べる理由に合ってる」
その言葉に、魔導具教師は少しだけ笑った。
◇
生活観測区画では、昼前になって顔のない存在が寝台から起き上がった。
子供は白い花の絵を机へ移し、紙の余白へ何かを描こうとしていたところだった。
まだ線は一本だけ。
何を描くつもりか、アリシアにも分からない。
寝台が軋む。
子供の顔が上がる。
「起きた」
人影が足を下ろす。
立ち上がる。
今日は子供は声に出して数えなかった。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
五歩。
昨日は七。
今日は五歩目で止まった。
その場で、顔のない存在はしばらく立っている。
子供は黙って見ていた。
六歩目へ行くかもしれない。
戻るかもしれない。
その場へ座るかもしれない。
少しして、人影は方向を変えた。
窓ではない。
横。
木片の置かれている側でもない。
子供が絵を描いている机の方向だった。
「あ」
人影が一歩進む。
子供の身体が少しだけ強張る。
「こっち?」
アリシアも人影を見る。
さらに一歩。
ただし、子供の机へ真っ直ぐ来るのではなく、少し斜め。
七歩。
八歩。
人影は、机から三歩ほど離れた位置で止まった。
子供は椅子から立たなかった。
絵を隠さない。
見せようとも持ち上げない。
「近い」
「うん」
「絵に?」
「どうだろう」
「私に?」
「それも分からない」
「机?」
「位置だけなら、机には近くなったね」
子供は少し考える。
「近づいたから、見たいってことじゃない」
「うん」
「でも、見たいかもしれない?」
「可能性はあるね」
「私、見せたい?」
自分の気持ちへ問いかける。
白い花の絵を見る。
顔のない存在を見る。
「……少し見せたい」
「うん」
「でも、この人が見たいか分からない」
「うん」
「お願いする?」
少し迷う。
子供は絵を手に取らず、そのまま人影へ向けて言った。
「これ、私の絵」
顔のない存在は動かない。
「白い花」
胸の十一の光のうち、一つが淡く明るい。
「見たいなら、ここにある」
子供はそこで止めた。
持っていかない。
近づかない。
相手へ取らせようともしない。
「見てって言わない?」
アリシアが尋ねる。
「今日は、ここにあるって言いたかった」
「そっか」
「見たいなら近く来るかもしれない」
「うん」
「来ないかもしれない」
「うん」
「それでいい」
人影は三歩離れた位置で、静かに立っていた。
しばらくして、その場へ座る。
絵へ近づくことはなかった。
子供は少しだけ残念そうな顔をした。
「来なかった」
「うん」
「少し、見てほしかった」
「うん」
「でも、見てって言わなかった」
「言えばよかったって思う?」
子供は考える。
「少し」
「今から言う?」
「……今日はいい」
「うん」
「次、言いたくなったら言う」
「分かった」
子供は白い花の絵を机へ戻した。
顔のない存在は、三歩離れた場所に座っている。
近くなった。
けれど、何のために近づいたかは分からない。
子供も、それを無理に答えへしなかった。
◇
西側旧排水坑では、金属板の周囲から泥が少しずつ取り除かれていた。
吸引具の先端を直接金属へ触れさせず、数寸外側から表面の柔らかい泥だけを吸い取る。
黒い泥が少しずつ減る。
金属の縁が見えてくる。
「枠あります」
魔導具教師が声を落とした。
「四方?」
「左と上は確認。右はまだ泥の下です」
さらに少し。
「右もあります」
「下は?」
「……あります」
長方形の金属板。
その周囲を囲む枠。
壁ではなく、床へ埋め込まれている。
「点検口の蓋?」
若い観測員が聞く。
「かなり可能性は高くなりました」
「文字は?」
下部に残る泥を、あと少しだけ取り除く。
腐食した刻印。
「『点検口 二』……いや」
魔導具教師が角度を変える。
「『第二排水支路 点検口』。これで一続きかもしれません」
「じゃあ、下に何かある?」
「点検口なら、配管か水路の点検用空間がある可能性があります」
『生命反応は?』
「なし」
『魔力反応?』
「ほぼなし」
『水流との関係は?』
土属性術師が感知する。
少し長い沈黙。
「……主排水溝の下へつながっている可能性があります」
「開けたら水出る?」
若い観測員の声が少し低くなる。
「可能性はあります」
「圧は?」
「分かりません」
『なら開けない』
副学院長の判断は早かった。
「ですよね」
今度、若い観測員は残念そうな顔をしなかった。
「今日分かったこと、かなり増えました」
『ああ』
「板じゃなかった」
『点検口の蓋らしい、までだ』
「排水支路の名前も分かった」
『文字が正しく読めていればな』
「下に水路があるかもしれない」
『可能性だ』
若い観測員は少し笑った。
「全部、最後に何か付く」
『調査だからな』
「でも、昨日よりはだいぶ分かった」
『それで十分だ』
魔導具教師が金属枠をもう一度確認し、周囲の泥へ目印を付ける。
「今日は閉じたまま記録します」
『そうしろ』
「戻ります」
三人は十三歩地点から引き返した。
近づいた。
見えた。
読めた。
それでも開けなかった。
昨日より知りたい理由は増えた。
同時に、開ける前に調べるべき理由も増えていた。
◇
午後。
東側では、五度目の小空洞反応がまだ起きていなかった。
サーラは昼までの記録を確認しながら、補強済みの狭窄部を越えて観測点を一つ前へ移す案を検討していた。
「遠隔感知精度、さらに低下しています」
観測員が報告する。
「光の位置は?」
「確認できます。ただし誤差が昨日の約一・五倍」
「小空洞側は?」
「そちらは別経路なので安定しています」
「人を一人向こうへ入れれば?」
「位置精度はかなり戻ります」
「必要装備は?」
「携帯感知盤、通信具、安全縄。最低限なら一人で運べます」
若い観測員が資料を見る。
「行く理由、増えました?」
「観測点を前へ移す理由は増えました」
「でも光へ近づくためじゃない」
「はい」
「小空洞の近くへも行く?」
「人間側の通路からは壁を隔てています。直接接触する予定はありません」
「五度目が来る前に行ったら、条件変わりません?」
サーラの手が止まった。
「そうですね」
若い観測員が自分でも少し驚いた顔をする。
「今の、俺かなり良かった?」
「かなり」
「やった」
「ただし、喜ぶのはあとにしてください」
「はい」
サーラは記録を見直す。
昨夜から今まで、人間側は小空洞にも光にも刺激を加えていない。
この状態で五度目が起きるかどうかを見ている。
観測点を前へ移せば、狭窄部の向こうへ人が入る。
直接刺激するつもりがなくても、足音、体温、携帯魔導具の出力、通信波。
条件は確実に変わる。
「遠隔感知が完全に失われそうですか?」
「今すぐではありません」
「光がさらに奥へ動かなければ?」
「今日一日は保てると思います」
「なら、今日の観測点移動は保留します」
「五度目を見るため?」
若い観測員が尋ねる。
サーラは少し考える。
「それだけではありません。今すぐ人を入れる必要性が低いからです。その結果として、現在の条件を保てるという利点もあります」
「また理由を一つにしない」
「はい」
「もし光が急に奥へ動いたら?」
「判断を変えます」
「五度目待ってても?」
「観測位置を失う方が問題だと判断すれば」
若い観測員が頷く。
「待つことも、絶対じゃない」
「絶対にした瞬間、また役割になりますからね」
サーラの言葉に、観測員は少し黙った。
最近、生活観測区画で起きていることが、人間側の判断にも少しずつ染み込んでいる。
止まること。
待つこと。
開けないこと。
何もしないこと。
それらを「新しい正解」にしない。
必要なら変える。
そのたびに、今ある理由を見直す。
◇
夕方。
子供は再び木箱の前へ座った。
朝は留め具へ触れただけだった。
昼も触っていない。
午後は顔のない存在が絵の近くへ来たことで、しばらくそちらを見ていた。
今、木箱の前には子供一人だけがいる。
アリシアは少し後ろ。
ノアは窓辺。
治療教師も、いつもの距離にいる。
「朝、触るだけにした」
「うん」
「今は?」
子供は自分へ問いかけた。
留め具へ手を置く。
「見たい」
「うん」
「朝より?」
「どう?」
「……朝より少し大きい」
「怖いは?」
「ある」
「うん」
「でも、今は動かしたい」
「分かった」
子供の指に力が入る。
金具が小さく鳴る。
昨日、外れる直前まで進めた留め具。
今日は、そこからさらにほんのわずかに持ち上がった。
かちり。
小さな音がした。
留め具が外れた。
子供の肩が大きく跳ねる。
アリシアも息を止めかけた。
蓋はまだ閉じている。
金具だけが外れ、自由に動く状態になっていた。
「……外れた」
「うん」
「開いた?」
「蓋はまだ閉じてる」
子供は留め具から手を離した。
呼吸が浅い。
胸元へ手を持っていきそうになり、途中で止める。
「怖い」
「うん」
「戻す?」
アリシアは聞かなかった。
子供自身が箱を見る。
外れた金具。
閉じた蓋。
その隙間はほとんどない。
「戻せる?」
「たぶん留め具を元へかければ」
「今、戻したい?」
自分へ聞く。
長い沈黙。
「……少し」
「うん」
「でも、このままも見たい」
「うん」
「蓋、開けたい?」
また長い沈黙。
子供の指先が蓋へ近づく。
触れる。
木の感触。
「開ける理由、増えた」
「何が増えた?」
「留め具外れた。今なら開くかもしれない。見たい。あと……」
子供は少し困った顔をする。
「ここまで来たから」
言ったあと、自分で止まった。
「それ、理由?」
「子供はどう思う?」
「……ここまで来たからって、開けなきゃじゃない」
「うん」
「でも、ここまで自分でやったから、開けたいもある」
「それは?」
「私の気持ち」
「うん」
子供は蓋へ手を置いたまま、目を閉じた。
「開けたら怖いかもしれない」
「うん」
「中、嫌なものかもしれない」
「うん」
「何もないかもしれない」
「うん」
「答えないかもしれない」
「うん」
「でも……」
目を開ける。
「少しだけ、開けたい」
アリシアは頷いた。
「少しだけにする?」
「できる?」
「蓋が重くなければ、少し持ち上げて止められると思う」
「途中で閉じても?」
「いいよ」
「見ないで閉じても?」
「いい」
「開ける前にやめても?」
「もちろん」
子供は一度手を離した。
深く息を吸う。
吐く。
もう一度、蓋へ両手を置いた。
「……開ける」
「うん」
力を入れる。
蓋はすぐには動かなかった。
子供の顔が強張る。
「重い」
「無理しなくていいよ」
「もう少し」
少し力を増やす。
古い木が擦れるような、小さな音。
蓋がほんのわずかに浮いた。
指一本も入らないほどの隙間。
暗い。
中身はまだ見えない。
「開いた」
子供の声が震える。
「少しね」
「中、見えない」
「うん」
「もっと?」
自分へ問いかける。
子供の腕が少し震えている。
怖さ。
知りたい気持ち。
ここまで来たという感覚。
全部が混ざっている。
数呼吸。
そして。
「……今日は、ここまで」
「うん」
子供はゆっくり蓋を下ろした。
完全に閉じる。
留め具は外れたまま。
箱そのものは、また閉じている。
子供の手が蓋から離れた。
しばらく動かない。
それから、大きく息を吐いた。
「開けた」
「うん」
「少し」
「うん」
「見えなかった」
「うん」
「答えなかった」
「そうだね」
子供は少しだけ笑った。
「でも、開けた」
「うん」
「怖かった」
「うん」
「閉じた」
「うん」
その顔に、達成感だけがあるわけではなかった。
物足りなさもある。
怖さも残っている。
もう少し見たかった気持ちもある。
それでも、自分で開け、自分で止め、自分で閉じた。
「明日、もっと開ける?」
「明日決める?」
アリシアが聞くと、子供は頷いた。
「うん」
「留め具は?」
「外れたまま」
「いい?」
「今は、それがいい」
「分かった」
木箱は閉じた。
けれど、昨日までとは違う閉じ方だった。
◇
夕食前、西側から新しい報告が届いた。
学院長が生活観測区画の扉の外で、子供にも分かるように話す。
「金属板は、ただ落ちていた板ではない可能性が高くなった」
「何だった?」
「床に埋め込まれた、点検口の蓋らしい」
子供の目が大きくなる。
「蓋?」
「ああ。『第二排水支路 点検口』と読める文字が見つかった」
「開けた?」
「開けていない」
「どうして?」
「下に水路や管がある可能性がある。開けたとき、水や泥が噴き出すかもしれない。圧力も分からない」
「昨日、取らなくてよかった?」
学院長はすぐには答えなかった。
「結果だけ見れば、確認せず引っ張らなかったのはよかった。ただ、昨日は昨日の理由で触らなかった」
「うん」
「今日は近づく理由が増えたから近づいた。その結果、蓋らしいと分かった」
「でも開ける理由は足りなかった」
「そうだ」
子供は棚の前の木箱を見る。
「私、今日少し開けた」
「聞いた」
「留め具外した」
「ああ」
「蓋、ちょっとだけ上げた。でも中見えなかった」
「そうか」
「西は開けなかった」
「うん」
「私、開けた」
「うん」
「どっちが正しい?」
学院長は少しだけ笑った。
「比べなくていいんじゃないか」
「どうして?」
「箱と点検口では、分かっている危険が違う。目的も違う。それに、子供は自分の箱を自分で開けたいと思ったんだろう?」
「うん」
「西側は、開けたときに水が出るかもしれない。人間側の安全確認が先だ」
「同じ蓋でも同じじゃない」
「そういうことだ」
子供は少し考えてから笑った。
「また」
「まただな」
◇
夜になっても、東側の五度目の反応は起きなかった。
名前のない光も大きく動かない。
小空洞も静かなまま。
観測点の移動は、その日見送られた。
遠隔感知の精度は少し落ちている。
それでも今夜までは、現在位置を追えると判断された。
西側では、第二排水支路の点検口らしきものが発見された。
蓋は閉じたまま。
明日は、点検口の下に圧力があるか、水がどの方向へ流れているかを、開けずに確認する方法を検討する。
生活観測区画では、木箱の留め具が初めて完全に外れていた。
蓋も一度だけ、ごくわずかに持ち上がった。
中は見えなかった。
そして子供は、自分で閉じた。
◇
寝台へ入った子供は、今日は何度も木箱を見ていた。
「アリシア」
「うん」
「開けた」
「うん」
「少しだけ」
「うん」
「でも中、分からなかった」
「うん」
「もっと開ければ分かる?」
「中に何があるかは、たぶん今より見えると思う」
「でも全部答えじゃない」
「うん」
「今日、もっとやってもよかった?」
「やりたかった?」
子供は天井を見ながら考える。
「少し」
「うん」
「でも止めたかったもある」
「うん」
「止めた方が大きかった」
「そっか」
「じゃあ止めた」
「うん」
「明日、見たいがもっと大きくなったら?」
「また考えよう」
「怖いが大きくなったら?」
「開けなくていいよ」
「両方大きくなったら?」
「難しいね」
子供が少し笑う。
「また難しい」
「うん」
「でも今日、理由いっぱいあった」
「何の?」
「開ける理由」
子供は指を少し動かす。
「見たい。留め具外れた。ここまで来た。中が気になる」
「うん」
「怖い理由もあった」
「うん」
「中、嫌かもしれない。開けたら戻らないことあるかもしれない。怖くなるかもしれない」
「うん」
「理由、いっぱいあったらどうする?」
アリシアは少し考えた。
「全部の数を比べるだけじゃないと思う」
「三個と四個なら四個?」
「そうとは限らないよ。一つでも大事な理由があるかもしれないから」
「危ない、とか?」
「うん。危ないからやめる、が一つでも強いことはある」
「じゃあ数じゃない」
「そうだね」
「大きさ?」
「それもあるかも」
「気持ち?」
「それも」
「難しい」
「難しいね」
子供は布団の端を握り、それから少しずつ緩めた。
「西の人、今日開けなかった」
「うん」
「開けたい理由あった?」
「あると思う」
「知りたい」
「うん」
「でも危ないかもがあった」
「うん」
「だから先に調べる」
「そうだね」
「東は五回目来てほしい理由ある」
「比較したいからね」
「でも人間が無理に出す理由はない」
「うん」
「だから待ってる」
「そうだね」
「私は、開けたい理由があった」
「うん」
「危ないって分かってるのは少ない」
「今のところ、箱から危険な魔力反応は出てないからね」
「だから少し開けた」
「うん」
子供は少し満足そうに息を吐いた。
「全部、理由違う」
「うん」
「同じ『知りたい』でも、同じじゃない」
「そうだね」
「知りたいから、何でも開けるじゃない」
「うん」
「でも知りたいって思っていい」
「もちろん」
子供は隣の寝台を見る。
顔のない存在は横になっている。
胸の十一の光は今、二つが淡く明るい。
「この人のことも知りたい」
「うん」
「十一の光、何か知りたい」
「うん」
「でも胸開けない」
アリシアは一瞬、返事に詰まった。
子供は自分で続ける。
「知りたいからって、何でもしていいじゃない」
「そうだね」
「触っていいかも分からない」
「うん」
「だから見る。聞く。待つ」
「うん」
「でも待つだけにしない?」
「必要なら、別のことを考える」
「うん」
子供は少し考えた。
「知りたい理由が増えたら、進むこともある」
「あるね」
「でも増えたから絶対進むじゃない」
「うん」
「今日の箱みたい」
「そうだね」
しばらく静かな時間が流れた。
「アリシア」
「うん」
「中、何入ってると思う?」
アリシアは思わず木箱を見る。
「予想していいの?」
「いいよ」
「うーん……」
『また勝手に物語作るんじゃないでしょうね』
ノアの声が床から飛ぶ。
「予想だってば」
「ノア、何て?」
「勝手に物語作るなって」
「でも予想していい」
『子供に許可を取っても事実にはならないわよ』
「分かってる」
アリシアは少し考えた。
「布とか、小さい道具とか?」
「どうして?」
「箱の大きさ的に」
「食べ物?」
「さすがに古いなら残ってないかも」
「紙?」
「ありそう」
「絵?」
「それもあるかも」
子供は少し楽しそうに聞いている。
「私は……」
「うん」
「分からない」
「予想しない?」
「少し考えた。でも何も出なかった」
「そっか」
「明日見たら、アリシア外れるかも」
「その可能性高そう」
「悔しい?」
「ちょっと」
子供が笑った。
「私、東の光で外れた」
「右って予想したね」
「左だった」
「うん」
「アリシアも外れたら同じ」
「同じとは限らないけどね」
「そこ言う?」
子供の笑いが少し大きくなった。
ノアまで小さく鼻を鳴らした。
やがて笑いが収まり、子供は目を閉じる。
「今日は、箱ちょっと開けた日」
「うん」
「西は、板が蓋だったかもしれないって分かった日」
「うん」
「東は、五回目来なかった日」
「うん」
「何も来なかったのも日?」
「一日だよ」
「そっか」
子供は少し笑ったまま、布団を胸元まで引き上げた。
「おやすみ」
「おやすみ」
◇
その夜。
東側中継観測室では、五度目の反応を待ちながら夜間観測が続けられていた。
人間側は刺激しない。
観測点も動かさない。
ただし、それを永遠に続けるとは決めていない。
光がさらに遠くへ動けば。
遠隔感知が不安定になれば。
危険値が変われば。
判断は変わる。
西側では、第二排水支路の点検口らしき蓋について、開けずに圧力を測る方法が検討されていた。
見つけたから開けるのではない。
文字が読めたから開けるのでもない。
知りたい理由は昨日より増えた。
だからこそ、次に何を知ってから開けるべきかも増えていた。
生活観測区画では、留め具の外れた木箱が棚の前へ置かれている。
蓋は閉じている。
けれど一度だけ、子供自身の手で持ち上げられた。
ほんのわずか。
中は見えなかった。
それでも昨日までとは違う。
子供は初めて、自分から箱を開け始め。
そして、自分で途中で閉じた。
知りたい。
だから開けたい。
怖い。
だから止まりたい。
どちらか一つだけが本当なのではない。
知りたい理由が幾つ増えても、それだけで次の行動が自動的に決まるわけではなかった。
理由には重さがある。
状況がある。
相手がいる。
危険がある。
そして、自分の気持ちもある。
そのすべてを同じ数として並べることはできない。
だから人は、何度も考える。
昨日とは違う理由で。
今日の自分で。
その夜半。
東側の測定盤を見ていた観測員が、椅子からゆっくり身体を起こした。
「……反応」
小空洞側の針が、ほんのわずかに上がっている。
「五度目?」
隣の観測員が記録板を取る。
「まだ分からない。基準を越えるか見て」
針は上がる。
ゆっくり。
昨日までとは違うほど、ゆっくり。
そして。
小空洞側の値が正式な反応判定線を越えるより先に。
「光側……移動」
別の測定盤で、名前のない光を示す点が動いた。
「方向は?」
「左側通路の奥ではありません」
観測員が息を呑む。
「少し……戻っています」
小空洞の反応は、まだ上がり続けている。
名前のない光は、小空洞との直線距離がわずかに広がる方向へ動き始めていた。
誰も「離れた」とはまだ書かなかった。
誰も「反応から逃げた」とも言わない。
ただ時刻を取る。
距離を取る。
光量を取る。
小空洞の値を取る。
五度目らしき反応が始まりかけた、その瞬間。
昨日まで近づいていた名前のない光は。
初めて、小空洞から距離が広がる方向へ動いていた。




