第143話 分かったことが増えたからといって、分からないことまでなくなるわけではない
朝の生活観測区画には、昨日より少し乾いた空気が流れていた。
窓の外はよく晴れている。数日前まで石畳の窪みに残っていた雨水はもうなく、庭を横切る風が乾いた葉を一枚だけ転がしていた。植え込みの奥では鳥の声が聞こえているものの、窓から姿が見える鳥はいない。
いない、のではない。
今は見えない。
その違いを、アリシアは以前より意識するようになっていた。
室内へ目を戻せば、棚の上には白い花だったものと、その隣に置かれた子供の絵がある。
本物の花には、もう花らしい形がほとんど残っていなかった。
細い茎。
萎れた萼。
小皿の中へ集められた乾いた花弁。
昨日まで茎へ残っていた最後の数枚も、夜のあいだにさらに形を変えている。
一方、紙の上には白い花が咲いたままだった。
もちろん、それも本物ではない。
子供が見たもの。
覚えていたもの。
残したかったもの。
それを自分なりの形で描いた一枚だ。
そして棚の下では、木箱が今朝も閉じている。
留め具は、これまでで最も外れる位置に近いところまで動かされていた。
けれど外れてはいない。
昨夜も誰も触れなかった。
アリシアがそこまで確認したところで、床から低い声が飛んできた。
『朝から全部見て回ってるじゃない』
「全部じゃないよ」
『花、絵、箱、寝台、窓。次は報告書でしょう?』
「……まだ見てない」
『“まだ”って言ったわね』
「朝だから確認すること多いの」
『あなたの場合、確認したあと勝手に意味まで付けるから問題なのよ』
「今日は付けない」
『今日は?』
「言い方」
アリシアが振り返ると、ノアは窓際の布の上に横たわり、前脚の間へ顔を埋めていた。目は半分しか開いていないのに、耳だけはこちらへしっかり向いている。
「報告書、読むよ」
『好きにしなさい』
「止めないんだ」
『止めたところで読むでしょう』
「信用されてる?」
『諦めてるの』
「ひどい」
小声で言い返しながら、アリシアは机の上に置かれていた朝の報告書を手に取った。
最初は東側。
名前のない光について、夜間に大きな移動は確認されていない。
左側通路の奥。
複数の壁と距離によって直接目視はできず、前進させた観測点と遠隔感知を組み合わせて位置を追っている。
小空洞側についても、大きな危険値の上昇はない。
これまで何度か確認された弱い周期反応について、夜間の測定結果が追記されている。
数値を一度読む。
アリシアは途中で眉を寄せた。
『何?』
「……分かること、増えてる」
『それだけ?』
「うん」
『ならその顔をやめなさい』
「どんな顔?」
『“もうすぐ全部分かるかもしれない”って顔』
「してないよ」
『してる』
アリシアは思わず報告書から顔を上げた。
「だって、反応の間隔とか、光との距離とか、前より比較できるようになってるし」
『それで?』
「それで……」
言葉が止まる。
ノアが尻尾の先を一度だけ動かした。
『情報が増えたことと、答えが一つに絞れたことは同じ?』
「……違う」
『なら読み直す必要はないわね』
「まだ西読んでない」
『そこは読みなさいよ』
「どっちなの」
少しだけ笑いながら、アリシアは西側の報告へ移った。
旧排水坑。
入口側の補強状態に異常なし。
内部の弱い水流も続いている。
前日までに確認された範囲について、夜間の水位変化はごく小さい。
泥に埋もれた金属板についても、位置変化なし。
刻印の解析は継続。
ただし、現在読めている文字だけでは用途の確定には至っていない。
「やっぱり分からない」
『嬉しそうに言うこと?』
「嬉しくないよ」
『少し安心した顔したわよ』
「なんで?」
『答えが出なかったから、間違える心配もしなくて済むと思ったんじゃない?』
アリシアはしばらく黙った。
「……それ、ちょっとあるかも」
『今度は逆ね』
「逆?」
『急いで答えを出さないことを覚えたから、今度は答えが出ること自体を怖がり始めてる』
その指摘には、すぐ言い返せなかった。
分からないままでいること。
保留すること。
まだ決めないこと。
それらを大切にしてきた。
けれど、いつか本当に分かる日が来る。
何かを開ける日も。
何かを選ぶ日も。
確定した事実によって、それまで持っていた可能性の幾つかを手放さなければならない日もある。
「……難しい」
『でしょうね』
「ノアは怖くないの?」
『何が?』
「答え出るの」
ノアは少しだけ目を開いた。
『答えによるわ』
「またそれ」
『何でも同じ答えで済むなら、あなたたちはここまで苦労してないでしょう』
その言葉に、アリシアは小さく息を吐いた。
ちょうどそのとき、寝台から布の擦れる音が聞こえた。
子供が目を覚ました。
アリシアは報告書を閉じた。
◇
今朝の子供は、目覚めてすぐには動かなかった。
天井を見つめる。
数回瞬きをする。
それから窓へ目を向けた。
「鳥、いない」
「今は見えないね」
「声は?」
二人とも少し黙る。
外から、短い鳴き声が聞こえた。
「あ」
「聞こえたね」
「見えないけど、声ある」
「うん」
「一羽?」
「声だけだと分からないな」
「二羽かも?」
「かもしれない」
「もっと?」
「それもあるかも」
子供は窓を見たまま、少し考える。
「今分かるの、鳥の声がした」
「うん」
「何羽かは分からない」
「そうだね」
それで窓の確認は終わった。
次に隣の寝台を見る。
顔のない存在は、横になっている。
「いる」
子供はいつものように小さく確かめてから、胸にある十一の光へ向けて声をかけた。
「おはよう」
すぐには反応しない。
子供は待った。
一つ。
少し間を置いて、もう一つ。
さらにしばらく待ったが、三つ目は明るくならない。
「今は二つ」
「うん」
子供はそれ以上数を比べなかった。
布団を出て、自分で足裏を確認する。
「痛くない」
「赤みは?」
「ない」
足首を回す。
少し立つ。
三歩だけ歩いて、また止まる。
「大丈夫」
「あとでセレナにも?」
「見るだけ」
「うん」
そこから子供は棚へ向かった。
白い花。
絵。
そして木箱。
三つが同じ方向にある。
以前なら、最初にどれを見るかというだけでも迷ったかもしれない。
今朝は白い花の前で止まった。
「また変わった」
「うん」
「昨日より少ない」
茎へ残っている花弁は、さらに減っていた。
子供は小皿を見る。
「落ちたの、ここに入ってる?」
「夜の記録では、職員は触れてないよ」
「じゃあ勝手に入った?」
小皿の縁へ一枚の花弁が半分だけ乗っている。
完全に中へ入ってはいない。
「落ちた場所が、たまたま小皿の縁だったんじゃないかな」
「小皿に入ろうとした?」
言ってから、子供が自分で少し眉を寄せた。
「……違う。そう見えるだけ」
「うん」
「花弁が考えてるか分からない」
「そうだね」
「でも、半分入ってる」
「うん」
子供は花弁へ指を近づける。
「押したら入る」
「うん」
「拾うより簡単」
「そうだね」
「やる?」
少し迷う。
指先が止まる。
「……今日はそのまま見る」
「うん」
「半分入ってるの、ちょっと面白い」
アリシアは笑った。
「そうなの?」
「入ってるみたい。でも入ってないみたい」
「半分だからね」
「どっち?」
「半分入ってる、でいいんじゃない?」
「それも答え?」
「今の状態を言ってるだけかな」
「そっか」
子供は満足したように頷き、次に絵を持ち上げた。
紙の白い花は変わらない。
少なくとも昨日との違いは、子供にも見つけられなかったらしい。
「これは同じに見える」
「うん」
「本当に同じ?」
「紙が少し乾いたり、色が少し変わったりしてる可能性はあると思う」
子供の顔が少し曇る。
「絵も変わる?」
「少しずつは」
「ずっと残らない?」
「紙だから、いつか傷んだりすることはあるよ」
子供は絵を見つめた。
以前なら、その事実にすぐ不安が強く出ていたかもしれない。
今朝も嫌そうな顔はする。
「……嫌」
「うん」
「せっかく描いた」
「うん」
「残したい」
「うん」
「もっと残るようにできる?」
「できる方法はあると思う。紙を湿気から守ったり、別の紙に写したり」
「複写?」
「うん」
「前、やらなかった」
「そうだね」
「今日やる?」
「どうしたい?」
子供は絵を胸の前へ持つ。
「まだいい」
「うん」
「変わるって分かった。でも、今すぐ複写するじゃない」
「うん」
「必要だと思ったらする」
そして絵を棚へ戻す。
最後に木箱を見る。
留め具は、ほとんど外れそうな位置にある。
子供は箱の前へ座った。
「近い」
「うん」
「昨日も近かった」
「うん」
「今日も近い」
しばらく見つめる。
「開けたら分かること増える」
「うん」
「でも、分からないこと残るかも」
「うん」
「じゃあ……」
子供は留め具へ手を伸ばさなかった。
「今日は朝は触らない」
「分かった」
「あとで開けたくなるかも」
「うん」
「開けたくならないかも」
「うん」
「どっちでもいい」
その言葉を口にしたあと、子供自身が少し驚いたような顔をした。
「今、どっちでもいいって言った」
「うん」
「前は決めないと嫌だった」
「そうだね」
「今も少し気になる」
「うん」
「でも朝ご飯食べたい」
「それはかなり大事だね」
子供が笑った。
◇
朝食の途中で、子供は東側の話を聞いた。
学院長から説明されたのは、夜間に大きな危険変化がなかったことと、観測資料が増えたことだった。
「分かった?」
子供が聞く。
「何が?」
「光と空洞」
「まだだ」
「昨日よりいっぱい見た?」
「ああ」
「分かること増えた?」
「増えた」
「でも関係あるかは分からない?」
「そうだ」
子供は匙を止めた。
「変」
「何が?」
「分かったこと増えたのに、分からないの残ってる」
「うん」
「分かったこと増えたら、分からないの減るんじゃない?」
学院長は少し考えた。
「減ることもある」
「今回は?」
「逆に、新しく分からないことが増えた部分もある」
「増えた?」
「ああ」
「なんで?」
「例えば、反応が出ることは分かった。でも、なぜ出るのかは分からない。反応が長くなることも分かった。でも、何が長さを変えているかは分からない」
「……分かったから、分からないの出た?」
「そういうこともある」
子供は露骨に嫌そうな顔をした。
「ずるい」
「何が?」
「分かったら終わると思った」
「終わらないこともあるな」
「西も?」
「金属板について読める文字が増えれば、その文字が何を意味していたのかという別の疑問が出るかもしれない」
「箱も?」
子供はすぐ木箱を見る。
アリシアが答えた。
「中に何か入ってるって分かったら、それが何かって考えることになるかもしれないね」
「それが分かったら?」
「どうして入ってたのか、とか」
「それも分かったら?」
「誰が入れたのか、とか」
「それも?」
「……たぶん、次も出てくるかも」
子供は匙を器へ置いた。
「終わらない」
「全部は、すぐ終わらないかもね」
「嫌?」
アリシアが聞く。
「少し」
「知りたくなくなった?」
子供はしばらく黙ってから、首を横へ振った。
「知りたい。でも、知ったら終わると思ってた」
「そっか」
「終わらないなら、ずっと疲れる?」
「ずっと考え続けなくてもいいよ」
「途中で止める?」
「うん」
「分かったところで一回終わる?」
「できると思う」
子供は少し安心した。
「全部分かるまで続けなくていい?」
「いいよ」
「一つ分かったら、今日はここまでってしても?」
「うん」
「また明日?」
「必要なら」
「やらない日も?」
「もちろん」
子供は麦粥へ匙を戻した。
「じゃあ、分からないの残っても、ご飯食べていい」
「当然だよ」
『むしろ食べなさい』
「ノアも?」
『分からないことを考えて空腹になるなんて、一番割に合わないわ』
アリシアが訳すと、子供が笑った。
「ノア、食べるの大事?」
『非常に重要よ』
「寝るのも?」
『同じくらい』
「じゃあノア、すごい?」
『ようやく分かった?』
「そこまでは言ってない」
『何ですって?』
子供の笑い声が朝の部屋へ広がった。
◇
西側では、その頃、金属板の扱いについて小さな会議が行われていた。
旧排水坑の入口から十歩までという前日の調査範囲は守られた。
金属板はその先、およそ三歩。
今日、正式にその三歩を調査範囲へ含めるか。
それを決めるための会議だった。
「目的を確認します」
魔導具教師が資料を示す。
「金属板の刻印が排水系統の識別情報であるなら、水没区画の排水先を確認する材料になる可能性があります」
副学院長が頷く。
「なら、昨日より調べる理由はある」
「はい」
若い観測員が少し嬉しそうにする。
「今日は三歩進める?」
「話を最後まで聞け」
「はい」
「ただし、板そのものを回収する必要があるかは別だ」
「現地で読む?」
「可能ならな」
「泥の下の文字は?」
「必要なら周囲の泥を少量だけ除ける。ただし板を動かさない」
年長の観測員が確認する。
「目的は刻印確認。回収ではない」
「そうだ」
「板の材質調査は?」
「表面測定だけ」
「裏面は?」
「今日は見ない」
若い観測員が少し笑った。
「かなり細かくなりましたね」
「お前が三歩先へ行きたそうにしてたからな」
「それ、まだ言うんですか」
「今日も顔に出てる」
「そんなに?」
「かなり」
魔導具教師まで頷いたので、若い観測員が肩を落とした。
「分かりましたよ。三歩進む。でも、三歩進んだから全部やるわけじゃない」
「その通り」
準備が始まった。
昨日と同じ三人。
安全縄。
小型観測具。
泥を薄く除くための平たい器具。
板に直接傷を付けない材質を選ぶ。
入口から十歩。
そこまでは昨日確認済みだ。
十一歩。
足元の泥の深さを確認。
異常なし。
十二歩。
金属板がさらに近くなる。
十三歩。
三人が止まった。
板は目の前だった。
「近い」
若い観測員が言う。
『今度は近いな』
入口側から副学院長の声が返る。
「昨日は近いのに遠かったのに」
『今日は調査対象だからな』
「同じ三歩なのに」
『目的が変わった』
魔導具教師がしゃがみ込む。
「触れずに測ります」
感知具を近づける。
「魔力反応なし。残留値もかなり低い」
「材質?」
「錆びにくい合金です。設備表示板としては珍しくありません」
「文字は?」
泥の外へ出ている部分を清掃せず、そのまま観測する。
「『第二』。その下が……やはり『点検』に見えます」
「泥をどける?」
「必要ですね」
副学院長が通信越しに確認する。
『板は動かさない。泥だけ薄く』
「了解」
平たい器具を泥へ差し込む。
板そのものには触れない。
一度。
泥を少量だけ外へ。
文字が増える。
「……『第二排水支路』」
若い観測員が息を呑む。
「続きは?」
「下に……『点検口』」
「第二排水支路、点検口?」
「そう読めます」
観測員の顔が明るくなる。
「じゃあ、これが――」
途中で止まった。
自分で深く息を吐く。
「……第二排水支路の点検口を示す板、と読める」
「良い」
魔導具教師が頷いた。
「今の時点ではそれで十分です」
「板の下に点検口がある?」
「それはまだ分かりません」
「表示板が落ちた可能性もある」
「あります」
「じゃあ、また分からない」
「そうですね」
若い観測員は、少しだけ苦笑した。
「文字読めたら終わると思ったのに」
『何が終わるんだ』
副学院長の声が聞こえる。
「この板の正体です」
『正体の一部は分かっただろ』
「一部?」
『第二排水支路の点検口に関係する表示板らしい。だが、元々どこに付いていたかはまだ分からない』
「……本当だ」
『分かったことが増えたな』
「分からないことも増えました」
『それも記録しろ』
「はい」
泥は、それ以上除けなかった。
裏面も見ない。
板も回収しない。
今日の目的は達成した。
三人は十三歩目から戻り始めた。
◇
昼過ぎ。
東側の小空洞では、新しい周期反応は起きていなかった。
けれど、光が以前より近い位置にいる状態で、静かな時間が長く続いている。
サーラはその時間も記録していた。
「何もなし」
若い観測員が測定盤を見る。
「はい」
「昨日、反応出た」
「はい」
「今日は今のところ出ない」
「そうですね」
「距離はほぼ同じ」
「はい」
「じゃあ、距離だけで反応するわけじゃない可能性が増えた?」
サーラは少し考えた。
「距離が同程度でも、反応が常時発生するわけではないことは分かります」
「それと、距離が無関係は違う」
「違います」
「条件がほかにもあるかもしれない」
「はい」
「分からないもの増えた」
「そうですね」
若い観測員が椅子へ深く座った。
「昔の俺なら、嫌になってたかもしれない」
「今は?」
「ちょっと面白いです」
「どうして?」
「分からない理由が増えると、次に見るところも増えるから」
「観測員らしくなりましたね」
「今のかなり褒めました?」
「普通に褒めました」
若い観測員の顔が一瞬固まった。
「逆に怖い」
「失礼ですね」
記録係が笑った。
小空洞は静かなままだった。
名前のない光も動かない。
それでも、何も分からなかったわけではない。
同じ距離でも、反応が出ない時間がある。
昨日の反応だけを見ていれば拾えなかった情報だった。
◇
午後の生活観測区画では、顔のない存在が寝台を出た。
子供は少し離れた場所で、白い花の絵を眺めていた。
人影が立ち上がったことに気づく。
けれど、すぐには口を開かない。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
今日は比較的ゆっくりだった。
五歩。
そこで一度止まる。
子供は黙ったまま見ている。
人影はさらに一歩だけ進んだ。
六歩目。
今度は座った。
「今日は六」
座ったあとに、子供が小さく言った。
「うん」
「昨日は七だった」
「うん」
「今日は六」
「うん」
「一つ少ない?」
自分で言ってから、少し考える。
「数は一つ少ない」
「そうだね」
「でも、悪いじゃない」
「うん」
子供は顔のない存在の胸を見る。
十一の光のうち、今明るいのは三つだった。
「朝は二つ」
「うん」
「今三つ」
「増えた?」
「明るい数はね」
「良くなった?」
子供は少し笑った。
「分からない」
「うん」
「分かったこと増えた」
「何が?」
「今三つって分かった」
「うん」
「でも、なんで三つか分からない」
「そうだね」
「朝二つだった理由も分からない」
「うん」
「いっぱい分からない」
少しだけ不満そうな顔をする。
それでも以前ほど怯えてはいない。
「でも、今三つは分かる」
「うん」
子供はそこで人影から視線を外した。
木箱を見る。
少し迷う。
近づく。
「今日、朝触らなかった」
「うん」
「今は触りたい」
「うん」
箱の前へ座る。
留め具へ指を置く。
あと少しで外れる。
子供はそれを知っている。
「外したら、蓋開く?」
「留め具が外れるだけで、蓋は自分で持ち上げないと開かないと思う」
子供が目を瞬く。
「留め具外しても、まだ開かない?」
「たぶんね」
「……また途中ある」
「そうだね」
子供は少し呆れたような顔になった。
「外したら終わりじゃない」
「うん」
「蓋もある」
「うん」
「中身もある」
「うん」
「中身見ても、分からないことある」
「うん」
「ずっと途中」
「そう感じる?」
「少し」
留め具へかけた指が動く。
かすかな金属音。
これまで止めてきた位置を越える。
アリシアは息を止めそうになった。
けれど何も言わない。
子供自身も、肩に力を入れている。
もう少し。
金具が動く。
そして。
小さな音がした。
留め具が外れた。
蓋は閉じたまま。
木箱そのものは、何も変わらないように見える。
子供の手だけが、しばらく金具へ触れたまま止まっていた。
「……外れた」
「うん」
「開いてない」
「うん」
子供の呼吸が少し速い。
「怖い」
「うん」
「でも、思ってたより何も起きない」
「うん」
「魔力?」
アリシアは感知する。
危険反応なし。
以前と大きく変わらない。
「今のところ変な反応はないよ」
「蓋、開ける?」
自分へ問いかけた。
アリシアは黙って待つ。
子供は蓋を見る。
手は、まだ留め具の近く。
ほんの少し持ち上げればいい。
けれど。
「……今日はここまで」
「うん」
「外しただけ」
「うん」
「閉め直す?」
子供は少し考える。
「戻さない」
「分かった」
「留め具外れたまま」
「うん」
「蓋は閉じてる」
「うん」
「また分かったこと増えた」
「何が分かった?」
子供は箱を見た。
「留め具、外せる」
「うん」
「外しても、すぐ蓋開かない」
「うん」
「怖いけど、今ここにいられる」
「うん」
「でも中身は分からない」
「そうだね」
子供は少し苦い顔をした。
「分かったのに、分からない」
「うん」
「今日いっぱいそれ」
「そうだね」
それでも、子供は箱から逃げなかった。
少し離れた位置へ座り直し、留め具の外れた木箱をしばらく眺めていた。
◇
夕方、西側の報告が届いた。
「第二排水支路、点検口」
学院長の説明を聞き、子供が繰り返す。
「そう読める文字が確認された」
「板、何のか分かった?」
「第二排水支路の点検口に関係する表示板らしいところまでは」
「点検口どこ?」
「分からない」
子供が目を細める。
「また」
「ああ」
「板の下?」
「可能性はある」
「壁?」
「それもある」
「落ちた?」
「それも」
「いっぱい」
「そうだな」
子供は外れた木箱の留め具を見る。
「私も留め具外れた」
「聞いた」
「箱開いた?」
「開いてないな」
「うん」
「じゃあ、似てる?」
学院長が少し笑った。
「何が?」
「板の文字分かった。でも点検口分からない。私は留め具外れた。でも中身分からない」
「少し似ているな」
「分かったら終わるじゃない」
「そうだな」
「でも、一個ずつ分かる」
「ああ」
「それでいい?」
学院長は、すぐに答えを与えなかった。
「子供はどう思う?」
子供はしばらく考えた。
「全部分からないの、まだ嫌」
「うん」
「でも一個分かったのは、ちょっと嬉しい」
「うん」
「留め具外せた」
「うん」
「怖かった」
「うん」
「でも止まった」
「うん」
「蓋開けなかった」
「うん」
「今日の分はそこまで」
「そうだな」
子供は少し笑った。
「西の人も?」
「今日は板の刻印確認までだ」
「同じ」
「近いな」
「でも同じじゃない」
「そうだな」
子供は満足そうに頷いた。
◇
夕食後。
外れた木箱の留め具は、そのままだった。
誰も触れない。
蓋も持ち上げない。
子供は何度か箱を見た。
けれど、近づかなかった。
怖さが残っているのだろう。
それでも棚の下へ戻してほしいとも言わない。
「夜、これで寝る?」
アリシアが聞く。
子供は少し考えた。
「……うん」
「不安?」
「ある」
「閉め直したい?」
「少し」
「閉め直してもいいよ」
「うん」
「どうする?」
子供は箱を見つめる。
「今日はこのまま」
「分かった」
「でも、夜怖くなったら?」
「そのとき言って」
「閉めてもいい?」
「もちろん」
「自分で?」
「自分でもいいし、手伝ってって言ってもいいよ」
「分かった」
子供は寝台へ入った。
顔のない存在も、すでに隣へ戻っている。
午後は六歩。
胸の光は今、二つだけが少し明るい。
「アリシア」
「うん」
「今日、分かったこと多かった?」
「どの話?」
「全部」
「多かったと思うよ」
「東も?」
「うん」
「西も?」
「うん」
「私も?」
「うん」
「じゃあ、分からないこと減った?」
アリシアは少し考える。
「減ったものもある」
「増えたのも?」
「あるね」
「変なの」
「うん」
子供は天井を見つめる。
「留め具外れるか分からなかった」
「うん」
「今は外れるって分かった」
「うん」
「でも外したら、蓋どうするって出た」
「うん」
「蓋開けたら中身出る」
「うん」
「中身見たらまた分からないの出るかも」
「うん」
「ずっと全部分からない?」
「全部分かることもあるかもしれないし、最後まで分からないことが残るかもしれない」
「嫌」
「うん」
「でも、前よりちょっと違う」
「何が?」
「分からないの出たら、次見るものあるって分かる」
「そっか」
「全部一気に答えじゃない」
「うん」
「一個ずつ?」
「そういうことも多いと思う」
「疲れたら?」
「休む」
「嫌になったら?」
「やめてもいい」
「またやりたくなったら?」
「また始める」
子供は少し笑った。
「いつものに戻った」
「何が?」
「やめてもいい。あとでいい」
「うん」
「でも、あとで同じとは限らない」
「うん」
「分かった」
「いっぱいつながってるね」
「うん」
少し沈黙が続いた。
子供は木箱を見る。
「今日、開けなかった」
「うん」
「でも昨日より進んだ?」
アリシアは答えなかった。
子供もすぐに気づいた。
「……違う。留め具を外した」
「うん」
「進んだって言うかは分からない」
「うん」
「でも私は、外せて少し嬉しい」
「そっか」
「怖いもある」
「うん」
「両方」
「うん」
子供は目を閉じかけた。
その直前、隣の寝台へ顔を向ける。
「この人は今日六歩」
「うん」
「光は今二つ」
「うん」
「なんでか分からない」
「うん」
「でもいる」
「うん」
「今日はそれでいい」
目を閉じる。
「おやすみ」
「おやすみ」
◇
夜半。
東側の中継観測室では、名前のない光と小空洞の観測が続いていた。
五度目の大きな周期反応は、まだ確認されていない。
光も動かない。
ただし、昨日までとの比較材料は増えている。
同程度の距離に光がいても、反応が起きない時間がある。
人間側の補強作業中にも反応は起きなかった。
反応が長くなる条件も。
光量変化との関係も。
まだ分からない。
「分からないこと、増えましたね」
若い観測員が呟いた。
サーラは記録板から顔を上げた。
「嫌ですか?」
「前なら嫌でした」
「今は?」
若い観測員は二つの測定盤を見る。
「ちょっと面白いです」
「昼も言っていましたね」
「だって、一つ分かると次に見るところが増えるんですよ」
「はい」
「昔は、それを終わらないって思ってた」
「今は?」
「終わらないかもしれないけど、今日はここまでってできる」
サーラは少しだけ笑った。
「どこかで聞いたような話ですね」
「最近、学院中で似たこと言ってません?」
「誰の影響でしょうね」
「たぶん、生活観測区画」
「それだけではないと思います」
若い観測員が首を傾げる。
「じゃあ?」
「あなたたち自身が、毎日実際にやっているからでしょう」
その言葉に、若い観測員は少し黙った。
「……俺たちも?」
「はい」
「子供だけじゃなくて?」
「当然です」
サーラは記録へ視線を戻した。
「観測する側だけが、最初から正しい距離の取り方を知っていたわけではありません」
「確かに」
「光へ意味を付けすぎたこともある。変化を前進と呼びそうになったこともある。止まることを正解にしかけたこともある」
「今もやりますけどね」
「今は気づく人が増えました」
「それ、成長?」
「そう呼んでもいいかもしれません。ただ――」
若い観測員が先に笑った。
「明日また間違えるかもしれない」
「はい」
「今日できたから明日もできる、じゃない」
「よく覚えていますね」
「毎日聞いてますから」
二人とも少し笑った。
そのとき。
測定盤の一つで、ごく小さな変化が出た。
「……待ってください」
若い観測員の声が変わる。
サーラがすぐに顔を上げる。
「どちらです?」
「小空洞ではありません」
「光?」
「いえ」
観測員が別の盤面へ指を伸ばした。
「左側通路の、さらに奥です」
これまで名前のない光が進んでいた方向。
その先。
まだ人間側の観測点から遠く、詳細構造を確認できていない範囲。
「魔力反応?」
「……弱いです」
「生命反応は?」
「ありません」
「光との距離は?」
「小空洞より、さらに先」
サーラはすぐに何かの名前を付けなかった。
「波形は?」
「小空洞とは違います」
「過去記録との一致?」
「確認します」
若い観測員の手が少し速く動く。
数十秒。
「第四の声とも違う。西側の排水系統反応とも違います」
「継続?」
「……今もあります。ただ、一定ではありません」
弱くなる。
少し戻る。
また弱くなる。
名前のない光は動いていない。
小空洞も反応していない。
そのさらに奥だけで、新しい微弱な反応が出ている。
「また増えた」
若い観測員が小さく呟いた。
「何がです?」
「分かったことと、分からないこと」
サーラは盤面を見たまま頷いた。
「そうですね」
「光があそこへ行く?」
「分かりません」
「新しい反応が光を呼んでる?」
「分かりません」
「小空洞と関係ある?」
「分かりません」
若い観測員が苦笑した。
「三つとも分からない」
「でも?」
彼は少し考えた。
「今、新しい反応がある。それは分かった」
「はい」
「じゃあ今日はそこまで」
サーラは静かに頷いた。
「記録しましょう」
誰も光を動かそうとはしなかった。
誰も新しい反応源へ急いで人を送ろうともしなかった。
今夜分かったのは、左側通路のさらに奥に、これまでとは異なる微弱な魔力反応が一つ現れたこと。
それだけだった。
けれど、それは昨日まで知らなかったことでもある。
分かったことが一つ増えた。
同時に、その正体、理由、光との関係という分からないことも増えた。
それでも調査が後ろへ戻ったわけではない。
分からないことが増えるのは、何も知らなくなったからではない。
昨日までは、その疑問があることすら知らなかっただけなのかもしれなかった。
生活観測区画では、子供が留め具の外れた木箱のそばで眠っている。
蓋はまだ閉じている。
中身は分からない。
それでも今日、留め具を外せることは分かった。
西側では、泥に埋もれた金属板に「第二排水支路」「点検口」と読める文字があることが分かった。
けれど、本当の点検口がどこにあるのかは分からない。
東側では、小空洞との関係を調べている最中に、さらに奥から別の反応が見つかった。
答えへ近づいているようで。
疑問まで増えていく。
それは少し面倒で。
少し怖くて。
時には、どこまで続くのか嫌になる。
けれど。
分からないことが増えたということは、見える範囲が広がったということでもあるのかもしれない。
全部を今夜知る必要はない。
全部を一度に解かなければならないわけでもない。
一つ知る。
そこで止まる。
また次の日に考える。
その繰り返しでもよかった。
夜の東側観測室で、新しい反応を示す針が小さく揺れていた。
そして名前のない光は、その反応へ近づくことも、離れることもなく。
今夜は今いる場所に、静かに留まり続けていた。




