第144話 新しく見つけたものがあるからといって、前からあったものが消えるわけではない
東側のさらに奥で昨夜確認された新しい微弱反応は、夜が明けても完全には消えていなかった。
強くなったわけではない。危険値が上昇したわけでもなく、生命反応も検出されていない。ただ、中継観測室の測定盤へ初めて現れた細い揺れが、朝になってもごく弱い値を残し、ときおり波打つように上下している。
地上側に設けられた中継観測室の窓は、夜明け直後の淡い青を映していた。地下区画ほど閉塞した空気はないものの、夜勤から朝勤へ引き継ぐ時間帯特有の静けさが室内に残り、机の上には冷めかけた飲み物と、夜のあいだに書き足された観測記録が幾重にも重なっている。
サーラは昨夜からの記録を、一枚へまとめず三つに分けていた。
一つは、左側通路の奥に留まっている名前のない光。
一つは、壁を隔てた小空洞でこれまで四度確認された周期反応。
そして最後の一つが、そのさらに奥側から新たに検出された微弱反応だった。
同じ区画で起きている以上、一枚へまとめた方が見やすい。しかし最初から三つを同一系統だと扱えば、記録を読む側までその前提へ引っ張られる可能性がある。そのため、時刻の照合表だけは共通で作りながら、現象そのものの記録は別々に残していた。
「夜のあいだ、新しい方の位置は変わりましたか?」
朝勤へ交代した観測員が、夜間記録を受け取りながら尋ねる。
「大きな位置変化は確認されていません」
答えたのは若い観測員だった。
昨夜は途中で一度休憩へ下がったものの、朝の引き継ぎには戻ってきている。目元には眠気が薄く残っていたが、記録を読む声は思いのほかしっかりしていた。
「名前のない光は?」
「位置変化なし。接続値、危険値ともに低いままです」
「小空洞側は?」
「夜間、五度目の周期反応は確認されていません」
「となると、新しい反応だけ続いている?」
朝勤の観測員が口にすると、若い観測員は反射的に頷きかけ、途中で止まった。
「……新しい反応だけが、今の機器で継続して確認できている状態です。小空洞や光側で“何も起きていない”とまでは言い切れません」
サーラが、記録へ向けていた視線を少しだけ上げる。
「朝から丁寧ですね」
「昨日、普通に褒められたのが逆に怖くなりまして」
「どういう意味ですか」
「一回褒められたくらいで気を抜いたら、また勝手に話を作り始めそうだなと」
記録係の一人が肩を揺らした。
サーラも呆れたように小さく息を吐いたが、口元には薄い笑みがある。
「自覚があるなら、悪くはありません。波形比較は?」
「新しい反応は、現在までの記録では小空洞の周期反応とも、第四の声に関係する既知反応とも、西側の古い導線反応とも一致していません。ただし、観測時間がまだ短いので、完全に別系統だと断定できる段階ではありません」
「周辺構造は?」
「今朝の再感知で、反応源付近に小さな空洞らしい抜けが出ました。壁の向こうか、床下かまではまだ絞れていません」
「昨日は通路奥側としか分からなかった場所ですね」
「はい」
若い観測員は地図へ小さな円を一つ書き加えた。
名前のない光。
小空洞。
新しく現れた微弱反応。
三つの位置は、それぞれ離れている。けれど、同じ地図の同じ区画へ並べてしまえば、人間の目にはどうしても一つのまとまりのように映ってしまう。
若い観測員が地図を見つめたまま、口を開いた。
「これ……」
そこで一度止まる。
サーラは急かさず、筆を置いた。
「何ですか?」
「今度は、ちゃんと最後まで考えてから言います」
「どうぞ」
「この三つが、全部つながっている可能性はありますよね」
「あります」
「逆に、全部別々の可能性もある」
「あります」
「光と小空洞だけ。小空洞と新反応だけ。光と新反応だけ、という組み合わせも」
「ありますね」
若い観測員は両手で頭を抱えた。
「増えた」
「何がです?」
「考えなきゃいけない組み合わせです」
朝勤の記録係が今度こそ吹き出した。
「光と小空洞だけでもややこしかったのに、三つ目が出たら一気に面倒じゃないですか?」
「面倒にはなりますね」
「サーラさんでも?」
「当然でしょう」
「よかった」
「何がよかったんです?」
「俺だけ頭が足りないわけじゃなかった」
「そこはまだ判定していません」
「ひどい」
夜勤明けの張り詰めた空気が少しだけ緩む。
それでも、誰の視線も測定盤から完全には離れなかった。
サーラは三枚の記録を机の上へ並べ直す。
「新しい反応が見つかったからといって、小空洞の観測をやめるわけではありません」
「はい」
「名前のない光も継続して見ます」
「はい」
「新しい反応だけ追えば答えが出る、とも考えません」
若い観測員は地図を見ながら頷く。
「前から残っていた疑問が消えたわけじゃない」
「そうです」
「新しい疑問が一つ増えただけ」
「今のところは、その言い方が一番近いでしょうね」
◇
生活観測区画では、その頃まだ子供が眠っていた。
雨上がりから続いていた湿った朝はすっかり過ぎ去り、窓から差し込む光は白く明るい。庭の石畳に水面は一つも残っておらず、植え込みの葉も乾き、風が通るたびさらさらと軽い音を立てていた。
アリシアは机の前に座り、朝の報告書へ目を落としている。
東側で新たに確認された微弱反応。
西側で昨日までに判明した第二排水支路の点検口表示板。
そして室内の棚前には、留め具を外したまま閉じられている木箱がある。
三つを一つの話として扱う理由など、本来どこにもない。
それでも、昨日から続く出来事を振り返ると、「何か一つ分かった先で、また別の分からないものが現れる」という感覚だけが、不思議と重なって見えてしまった。
『また難しい顔をしてる』
床の布の上から、ノアの声が飛んでくる。
「何も言ってないよ」
『言ってなくても考えてるでしょう』
「考えるところまで禁止されたら、何もできないよ」
『禁止してないわ。勝手に全部を同じ話へまとめるなって言ってるだけ』
「まとめてない」
『まとめかけてた顔ね』
「顔だけで何でも決めないで」
『分かりやすいのが悪いのよ』
アリシアは少し口を尖らせ、東側の報告書を閉じた。
「新しい反応が出たから、光がそこへ行くとかは決めてないよ」
『“行くかもしれない”とは?』
「少し思った」
『でしょうね』
「でも、予想すること自体は悪くないってサーラも言ってる」
『都合のいいところだけ覚えるわね』
「ちゃんと、予想と事実は分けるから」
『ならいいわ』
ノアの尻尾が布の上で一度だけ揺れる。
その直後、寝台から小さな布擦れの音がした。
子供が目を覚ましていた。
今朝もすぐには起き上がらない。
しばらく天井を見てから、ゆっくり窓へ顔を向ける。
庭には鳥が一羽いた。
「一羽」
「うん」
「昨日の朝は、見えなかった」
「声だけだったね」
「今日は見える」
「うん」
子供は少し目を細めた。
鳥の大きさも羽の色も、以前窓辺から見たものによく似ている。けれど、それが同じ一羽だと確かめられる印は何もない。
「昨日の鳥と同じ?」
「分からないな」
「似てる」
「うん」
「でも、同じって分からない」
「そうだね」
子供は数秒だけ鳥を眺めた。
「じゃあ、今日の一羽」
「うん」
そのあと、隣の寝台を見る。
顔のない存在は横になったまま、胸の十一の光も朝の明るさに紛れそうなほど弱い。
「おはよう」
子供が声をかける。
すぐには何も変わらない。
子供は待った。
一つ目。
少し遅れて二つ目。
さらに間を置いて、三つ目が淡く明るさを増した。
「今日は三つ」
子供はしばらくその光を見ていた。
「昨日の夜は二つだった」
「うん」
「増えた?」
言いかけたところで、子供自身が少し眉を寄せる。
「……明るい数は増えた」
「そうだね」
「でも、“いいになった”じゃない」
「うん」
子供の口元に、小さな笑みが浮かんだ。
「言い終わる前に分かった」
「早かったね」
『もうアリシアより早いんじゃない?』
「ノア」
『何よ』
子供が二人を見比べる。
「また勝負?」
「してないから」
『勝負っぽくしたのはアリシアよ』
「ノアが言い出したんでしょ」
「朝から元気」
子供が笑いながら布団を押し下げる。
「誰が?」
「二人」
「私は普通だよ」
『私もいつも通りよ』
「同じこと言ってる」
寝台を出た子供は、足裏を自分で確認した。赤みはなく、押しても痛みはない。足首を回したあと室内を数歩歩き、少し考えてから頷く。
「今日も大丈夫」
「あとでセレナに?」
「見るだけ」
「うん」
そのあと、子供は白い花ではなく木箱へ向かった。
棚の前。
昨日、自分で留め具を外した箱。
蓋は閉じたままだが、金具は外側へ倒れ、もう固定の役目を果たしていない。
子供は箱の前へしゃがみ込む。
「まだ閉じてる」
「うん」
「夜、開かなかった」
「うん」
「勝手に開かない」
「少なくとも、昨夜はね」
子供の肩がほんの少し下がった。
「留め具外したら、勝手に開くかもって少し思ってた」
「怖かった?」
「少し」
「眠れた?」
「うん。途中で一回起きて、箱見た」
「閉じてた?」
「うん」
その言葉を口にしてから、子供は改めて木箱を見る。
「今日、開ける?」
自分へ問いかける。
すぐには手を伸ばさない。
「……まだ分からない」
「うん」
「でも、留め具外れてるのは昨日から分かってる」
「うん」
「今日、新しく分かったことある?」
「箱について?」
「うん」
アリシアは少し考えた。
「一晩、留め具が外れた状態で置いても、少なくとも勝手には開かなかったね」
「それも分かったこと?」
「うん」
子供は少し考える。
「昨日、外した。今日、閉じたままだった」
「うん」
「開けなくても、分かったこと増えた」
「そうだね」
「西みたい」
「西?」
「古い扉、開けないで調べてた」
「ああ」
「開けなくても分かったことあった」
「そうだね」
子供は少し満足したように頷く。
「じゃあ、朝は開けない」
「分かった」
「でも、あとで変わるかもしれない」
「うん」
それだけ決めると、子供は木箱から離れた。
次に白い花の棚へ向かう。
花だったものは、さらに形を変えていた。
茎には、もう花弁と呼べるものがほとんど残っていない。小皿には茶色く乾いた花弁が重なり、その横には、子供が描いた「白い花」の絵がある。
「……花、なくなった?」
子供が呟いた。
アリシアも棚を見る。
「茎は残ってるね」
「花弁、ほとんどない」
「うん」
「じゃあ、白い花じゃない?」
子供の眉が少し下がった。
以前、自分で決めたことがあった。
白い色がなくなっても、「白い花」と呼ぶ。
昔の姿を、名前の中へ残す。
けれど今は、さらにその先まで形が変わっている。
アリシアは「名前を変える?」とは聞かなかった。
しばらく、子供自身が考える時間が続く。
「……白い花」
やがて、そう言った。
「今も?」
「うん」
「どうして?」
「私が、白い花って呼びたいから」
「うん」
「今は白くない。花弁もほとんどない。でも、これが白い花だったの、私は知ってる」
「そうだね」
「絵もある」
「うん」
「だから、白い花」
子供は茎と小皿、それから紙の絵を順番に見る。
「でも、前の白い花と同じじゃない」
「うん」
「今の白い花」
「そうだね」
その言葉で、子供の中に少し収まりがついたようだった。
◇
朝食の湯気が生活観測区画へ広がる頃、子供は東側について学院長へ尋ねた。
「学院長」
「いるぞ」
「昨日の奥、新しいの出た?」
「ああ。名前のない光よりさらに奥側で、別の弱い魔力反応を確認している」
「小空洞じゃない?」
「今のところ、波形は違う」
「第四の声?」
「それとも違う」
「西にあったやつ?」
「それとも一致していない」
子供は麦粥をすくっていた匙を止めた。
「じゃあ、新しい」
「そう見える」
「何?」
「まだ分からない」
「また」
呆れたような声に、アリシアは少しだけ笑った。
「昨日、“分かったこと増えたら分からないことも増えた”って言った」
「言ったな」
「今日も増えた」
「ああ」
「前の小空洞、いらなくなった?」
学院長が、少し意外そうに間を置く。
「どうしてそう思った?」
「新しいのが出たから。今度はそっちを見る?」
「新しい反応も見る。ただ、小空洞の反応がなくなったわけじゃない」
「昨日まで分かったことも?」
「なくならない」
「光と小空洞が関係あるか分からないのも?」
「まだ残っている」
「じゃあ、新しいのが増えただけ?」
「今のところはな」
子供は麦粥を一口食べる。
少し考えてから、棚へ視線を向けた。
「新しいの見つけたら、前のいらなくなるじゃない」
「うん」
「白い花も?」
「どういうこと?」
「絵描いた。だから本物の白い花はいらない、じゃない」
「うん」
「絵があるから、小皿の花弁いらない、でもない」
「そうだね」
「どっちもある」
「うん」
「じゃあ、新しいの出ても、前の消えない」
「そうだね」
子供は今度は少し困った顔になった。
「でも、いっぱいになる」
「何が?」
「見るもの」
「うん」
「疲れる?」
「疲れることもあると思う」
「じゃあ、全部一緒に見なくていい?」
「もちろん」
「人間は?」
「優先順位を決める」
「どうやって?」
「危険性が高いか。急いで確認する必要があるか。今しか取れない情報か。人が足りるか。そういうものを見て決める」
「光だけ見たい、は?」
「それだけでは決めない」
「新しいの気になる、は?」
「それも同じだ」
「気になるけど、理由全部じゃない」
「そうだな」
子供は少し笑う。
「学院長、いっぱい気になる」
「かなりな」
「でも全部行かない」
「身体が一つしかないからな」
子供の目が丸くなった。
「それも理由?」
「かなり重要だぞ」
思わずアリシアが吹き出し、床にいたノアの尻尾まで楽しそうに揺れた。
「学院長、急に普通の理由言った」
「普通で悪いか」
「悪くない」
子供は笑いながら、朝食に添えられた果実を一つ口へ入れた。
◇
西側では午前中から、第二排水支路の点検口表示板周辺について、追加の現地確認が始まっていた。
昨日までに、旧排水坑内部へ十三歩進み、泥から回収した金属板の表面に「第二排水支路」「点検口」と読める文字が残っていることまでは確認している。
今日の目的は、その表示板が元々どこへ設置されていたのかを推定するため、周囲の壁面や床に固定跡が残っていないか調べることだった。
「表示板は動かさない」
入口前で、副学院長が確認する。
「はい」
「裏面も今日は見ない」
「はい」
「泥を動かす範囲は?」
「表示板周囲の固定跡を確認するために必要な範囲だけ」
若い観測員が即答した。
「よし」
「今日は先に言えました」
「普通だ」
「少しくらい褒めても」
「仕事だ」
「厳しいなあ」
魔導具教師が苦笑しながら感知具を確認する。
三人は旧排水坑へ入った。
十三歩目。
金属板があった場所。
表示板そのものには触れず、周囲を丹念に調べていく。
「壁側に穴があります」
若い観測員が声を上げた。
「どこだ?」
「板が落ちていた位置の右上。指二本分くらいの窪みです」
魔導具教師が細い感知具を近づける。
「人工的ですね。固定具を差し込んでいた穴の可能性があります」
「同じ高さにもう一つない?」
泥が張り付いている部分を、必要最小限だけ避ける。
左側。
似た大きさの穴がもう一つ出た。
「二点固定」
「表示板を壁面へ付けていた可能性は、昨日より上がりましたね」
若い観測員が表示板を見た。
「じゃあ、ここから落ちた?」
「その可能性は高くなった」
「点検口も近い?」
「表示板がここへ付いていたなら、近くに点検口があった可能性は上がる」
「壁?」
「床かもしれません」
「また分からない」
「でも、昨日よりは範囲を絞れたでしょう」
入口側から、副学院長の声が通信具を通して届く。
『周辺の石材を続けて見ろ』
「了解」
魔導具教師が一枚ずつ壁面を確認する。
その途中で、手が止まった。
「ここだけ材質が違います」
「どこ?」
「表示板の位置から少し奥。縦長の石材です」
若い観測員が目を細める。
周囲とほぼ同じ灰色だが、確かに質感が微妙に違う。継ぎ目も、通常の壁材より細かった。
「扉?」
反射的に言ってから、若い観測員は少し顔をしかめる。
「……扉かもしれない形の石材」
魔導具教師が笑う。
「ずいぶん長い言い直しですね」
「短く言うと怒られるでしょう」
『怒ってない』
通信越しに副学院長が返す。
「圧があるんですよ」
入口側で年長の観測員が吹き出した。
縦長の石材には取っ手がない。
下部は泥に埋まり、魔力反応もほとんど検出されない。
「開閉構造の可能性は?」
「あります」
「点検口?」
「候補には入るでしょう」
若い観測員の顔に明るさが浮かぶ。
「見つかった?」
『候補だ』
副学院長が即座に釘を刺した。
「はい」
『今日は開けない』
「分かってます」
『まだ何も言ってないだろ』
「言われると思ったので」
周囲に小さな笑いが起きた。
それでも、誰一人として縦長の石材へ手をかけなかった。
表示板の固定跡。
二点の穴。
周囲と材質の異なる縦長の石材。
情報はまた増えた。
そして、「第二排水支路点検口候補」という新しい調査対象が一つ加わった。
けれど昨日までに見つけた弱い水流も、壁内水抜きの枝も、過去の高水位跡も消えたわけではない。
新しい候補が現れても、それ以前に積み上げたものは、そのまま残っていた。
◇
東側では、昼前になっても新しい微弱反応が続いていた。
名前のない光は動かない。
小空洞にも新しい周期反応はない。
三つの値を同時に並べているうち、若い観測員が何とも言えない顔で測定盤を見回した。
「何ですか?」
サーラが尋ねる。
「どれを一番見ればいいのか、分からなくなってきました」
「全部です」
「ですよね」
「ただし、同じ密度で人が見続ける必要はありません」
若い観測員は三つの値を指で順番に示した。
「新しい反応は継続中」
「はい」
「小空洞は今は静か」
「はい」
「名前のない光も動いていない」
「はい」
「じゃあ、人の目は新反応を少し優先?」
「そうします」
「ほかを止める?」
「止めません。光と小空洞は自動記録を継続し、人が直接確認する頻度だけ下げます」
若い観測員が感心したように頷いた。
「見るのをやめるんじゃない」
「人間の目は有限ですから」
「学院長も今朝、身体一つしかないって言ったらしいです」
「それと似ていますね」
「目、四つ欲しいな」
「増えたら増えたで疲れると思いますよ」
「……確かに」
昼近く。
新しい微弱反応が、一度だけ少し強くなった。
「上昇」
観測員の声で、室内がすぐに静まる。
「危険値は?」
「低いまま」
「名前のない光?」
「変化なし」
「小空洞?」
「反応なし」
「継続時間」
「十四呼吸……下がります」
新反応は元の水準へ戻った。
それ以上、大きな変化は起こらない。
「一度だけ」
「記録してください」
「名前のない光側は変わらなかった」
「はい」
「新しい反応が強くなったからって、光が近づくわけでもない」
「少なくとも今回は」
若い観測員は少し考え込んだ。
「これ、新しい反応が出たからって、光と新反応ばっかり見てたら小空洞のこと忘れそうですね」
「そうですね」
「逆に、小空洞だけ気にしていたら、新しい反応の変化を見落とすかもしれない」
「はい」
「増えるって大変だ」
「でも?」
サーラが、わずかに口元を緩めて続きを待つ。
若い観測員は少し笑った。
「増えたからって、前のものが消えたわけじゃない」
「その通りです」
◇
午後の生活観測区画では、子供が珍しく二つのものを同じ視界へ入れていた。
白い花の絵。
そして、棚の前に置かれた木箱。
箱を机まで運んだわけではない。絵だけを机の近くへ持ってきて、椅子の向きを少し変えた結果、両方が同時に見える位置になっている。
「両方見るの?」
アリシアが尋ねる。
「うん」
「どうして?」
「どっち先にするか、今決めたくない」
「何を?」
「絵、複写するか。箱、開けるか」
「今日どちらかをしないといけない?」
子供は少し考え、首を横へ振った。
「……しなくていい」
「うん」
「でも、両方気になる」
「そっか」
「前だったら、一個決めないとって思ったかも」
「うん」
「今は、両方気になるで置いとく」
子供はまず絵を見る。
「絵、少しずつ変わる」
「うん」
「残したい」
「うん」
「複写したら増える」
「うん」
「でも前、壊れるかもしれないって怖かった」
「うん」
今度は木箱へ視線を向ける。
「箱、留め具外れてる」
「うん」
「中身見たい」
「うん」
「でも怖い」
「うん」
「両方、したいと怖いがある」
「そうだね」
「同じ?」
「子供はどう思う?」
少し考える。
「違う」
「うん」
「絵は、残したい。箱は、知りたい」
「そうだね」
「怖いのも違う」
「どんなふうに?」
「絵は壊れたら嫌。箱は、中に何があるか分からないから怖い」
「うん」
「だから、同じ“気になる”じゃない」
「そうだね」
子供の表情が少しだけ明るくなった。
同じ言葉の中に違う気持ちがあることを、自分で見つけられたことが嬉しいらしい。
そのとき、隣の寝台で顔のない存在がゆっくり立ち上がった。
子供はすぐに気づいたが、椅子から飛び上がることはなかった。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
今日はいつもよりゆっくりだ。
五歩。
六歩。
一度止まる。
子供は声に出して数えず、静かに待つ。
顔のない存在は、さらに一歩進んだ。
七。
そして八。
そこで止まり、ゆっくり床へ腰を下ろした。
「今日は八」
座ったあとで、子供が口にする。
「うん」
「昨日は六」
「うん」
「今日は八」
「うん」
「嬉しい」
「うん」
子供は人影を見ながら、今度は自分の胸元へ手を置いた。
「でも、箱気になるもある。絵のこともある」
「うん」
「いっぱい一緒にある」
「あるね」
「前は、一個ずつじゃないと駄目だったのかな」
「そう感じてた?」
「うん。怖いときは、怖いだけだった」
「うん」
「今は、嬉しい。気になる。怖い。知りたい。残したい。ちょっと疲れた」
「多いね」
「多い」
子供が少し笑う。
「でも、一個増えたら前のがなくなるじゃない」
「そうだね」
「箱が気になるから、絵どうでもいいにならない。絵残したいから、この人が歩いた嬉しいが消えない」
「うん」
子供は改めて顔のない存在を見る。
「この人、八歩歩いた」
「うん」
「今の光は?」
胸にある十一の光。
現在、少し明るいのは二つだった。
「二つ」
「朝は三つ」
「うん」
「歩いたのに減った?」
子供は言い切る前に少し止まる。
「……明るい数は、一つ少ない」
「うん」
「でも、八歩歩いたことはなくならない」
「そうだね」
「今、二つ明るいのもある」
「うん」
「両方ある」
人影は八歩目に座ったまま、静かにしている。
子供はもう、窓まで残り何歩かを数えなかった。
◇
夕方。
西側から新しい報告が届くと、子供は食事前の水を飲みながら学院長へ聞き返した。
「点検口候補?」
「ああ。昨日見つけた表示板が、元は壁に固定されていた可能性が高くなった。その近くに、周囲とは材質の違う縦長の石材がある」
「開ける?」
「今日は開けない」
「明日は?」
「明日以降、外側からさらに調べてからだ」
「前の古い扉みたい?」
「形が似ているところはある。だが、同じ用途とは限らない」
「また増えた」
「何が?」
「扉っぽいの」
学院長が少し笑った。
「そうだな」
「前の古い扉は?」
「閉じたまま残っている」
「なくなってない?」
「もちろん」
「新しい点検口候補が出たから、前の扉の調査やめるじゃない」
「うん」
「見るもの増えた」
「そうなる」
「大人、大変」
「かなりな」
子供は少し考えた。
「全部、今日やらない?」
「やらない」
「できない?」
「できないものもあるし、今日やる必要がないものもある」
「身体一つ?」
「それも、かなり大きな理由だ」
朝の会話を覚えていた子供が、また笑った。
◇
夕食後。
子供は木箱の前へ座った。
今日は朝から留め具には触れていない。
昨日外したまま。
蓋も閉じたまま。
夕方になっても、誰も箱へ手を加えなかった。
子供は膝の上へ両手を置き、長いあいだ木目と蓋の縁を眺めていた。
「今日、開ける?」
小さな声。
アリシアは答えない。
その問いは、アリシアへではなく子供自身へ向けられている。
やがて、右手が上がった。
蓋の縁へ指が触れる。
木箱そのものへ触れるのは初めてではない。
けれど、留め具が外れた状態で、蓋を持ち上げられる位置へ指をかけるのは初めてだった。
「持ち上げたら、開く」
「たぶんね」
「少しだけ?」
「子供がそうしたいなら」
「全部?」
「それもできると思う」
「開けない?」
「それも選べるよ」
子供は少し笑った。
「またいっぱい」
「うん」
指先へ、わずかに力が入る。
蓋が動いた。
木と木が擦れる、低く乾いた音がした。
ほんのわずか。
本当に、わずかな隙間だった。
指一本どころか、爪先ほども入らない。
中は暗く、何が入っているのかは見えない。
アリシアは自分から中を覗き込まず、以前から行っている範囲の弱い魔力感知だけを使った。
危険反応なし。
急激な魔力変化もない。
「開いた?」
「少し」
子供は蓋を持ち上げた状態のまま、呼吸を止めそうになっていた。
「怖い」
「うん」
「見えない」
「うん」
「もっと開けたら見える?」
「たぶんね」
「……閉じる?」
今度も、自分へ聞く。
指が震える。
「閉じたいもある」
「うん」
「見たいもある」
「うん」
「今日は……」
長い沈黙が落ちた。
誰も「もう少し」と言わない。
誰も「ここまで来たなら」と背中を押さない。
子供はそのまま蓋をさらに上げることなく、ゆっくり力を抜いた。
木箱が再び閉じる。
軽い音。
留め具はかけない。
「閉じた」
「うん」
「でも、開けた」
「うん」
「少しだけ」
「うん」
「中、見えなかった」
「うん」
子供の目に、じわりと涙が滲んでいた。
「答え出なかった」
「うん」
「でも、少し開けた」
「うん」
「怖かった」
「うん」
「それで、閉じた」
「うん」
子供は箱から手を離した。
しばらく膝の上で両手を握る。
「開けたら、中身すぐ分かると思ってた」
「うん」
「少しだと分からなかった」
「そうだね」
「もっと開けなきゃ?」
アリシアは答えなかった。
子供は少しだけアリシアを見て、それから自分で視線を箱へ戻す。
「……違う。分かりたいなら、もっと開ける必要あるかもしれない。でも、今日やらなきゃじゃない」
「うん」
「今日分かったのは、少し開けても大丈夫だった」
「うん」
「自分で閉じられた」
「うん」
「中身は、まだ分からない」
「そうだね」
子供は袖で頬を拭った。
「分からないまま、分かったこと増えた」
「どういうこと?」
「箱、少し開けられるって分かった。でも中身は分からない」
「うん」
「怖くなったら閉じられるも分かった」
「うん」
「前より分かったこと増えた。でも、“中身分からない”は残った」
「そうだね」
子供は涙の残る顔で少し笑った。
「今日の東と西みたい」
「東も、西も?」
「うん」
◇
夜。
東側の新しい微弱反応は、その後も大きく形を変えなかった。
小空洞には、日中のうち五度目の周期反応は起きていない。
名前のない光も同じ位置に留まっている。
三つの観測対象が、同じ区画に同時に存在している。
けれど、どれか一つが新しく見つかったからといって、ほか二つが不要になったわけではなかった。
西側では、「第二排水支路点検口」と読める表示板と、その付近にある縦長の石材が、新しい調査対象へ加わった。
それでも、最初に見つけた古い扉。
水没区画。
旧制御系統。
弱い排水。
過去の高水位跡。
そのどれもが消えたわけではない。
生活観測区画では、木箱の蓋が初めてほんの少しだけ持ち上げられ、再び閉じられた。
中身は見えなかった。
それでも子供は、留め具を外した箱を自分の手で開けられることと、怖くなったところで自分の手で閉じられることを知った。
白い花は、さらに以前の姿を失った。
けれど子供は、今の姿も「白い花」と呼んだ。
紙に描いた絵もある。
小皿の中の花弁もある。
本物の茎も残っている。
どれか一つがあるから、ほかがいらないということにはならなかった。
◇
寝台へ入った子供は、今夜も木箱を見ていた。
部屋の灯りは夜用の弱い明るさへ落とされ、棚の前にある箱は影の中へ半分沈んでいる。留め具が外れていることも、よく見れば分かる程度だった。
「アリシア」
「うん」
「今日、箱開けた」
「うん」
「ちょっとだけ」
「うん」
「でも、中身分からなかった」
「うん」
「がっかりした」
「そっか」
「開けたら見えると思った」
「うん」
「もっと開けたら、見えるかもしれない」
「うん」
「でも今日は閉じた」
「うん」
子供は布団の端を指で撫でる。
「閉じたら、開けたことなくなる?」
「なくならないよ」
「中、見えなかったけど?」
「うん」
「じゃあ今日は、“少し開けた日”」
「そうだね」
子供は隣の寝台を見る。
「顔のない人は八歩」
「うん」
「今は?」
胸の十一の光を見る。
今、少し明るいのは三つだった。
「三つ」
「朝も三つだった」
「うん」
「同じ?」
「数はね」
「場所も?」
アリシアは少しだけ目を凝らした。
「似てるようには見える。でも、同じ三つかまでは私には分からない」
「じゃあ、今の三つ」
「うん」
子供は少し安心したように頷いた。
「東、新しいの出た」
「うん」
「小空洞もある」
「うん」
「光もいる」
「うん」
「西、新しい点検口候補出た」
「うん」
「前の古い扉もある」
「うん」
「私、箱少し開けた」
「うん」
「白い花もある」
「うん」
「絵もある」
「うん」
子供は天井へ視線を向ける。
「増えても、前の消えない」
「そうだね」
「でも、頭いっぱいになる」
「なることもあるね」
「そういうとき、どうする?」
「全部を同時に考えなくてもいいと思う」
「一個、置いとく?」
「うん」
「忘れても?」
「忘れたくないなら、記録しておける」
「あとで戻る?」
「必要なら」
「戻ったとき、変わってるかも」
「うん」
「なくなるかも」
「あるね」
「それでも?」
「そのときは、そのとき見えるものをまた見る」
子供はしばらく考え込んだ。
「全部持ったまま走らなくていい」
「うん」
「置いて、また戻ってもいい」
「うん」
「でも、待っててくれるとは限らない」
「うん」
「難しい」
「うん」
「でも今日は箱閉じた」
「うん」
「明日また開けるかもしれない」
「うん」
「開けないかも」
「うん」
「白い花も明日また変わる」
「そうだね」
「東も西も?」
「たぶんね」
子供は目を閉じた。
「じゃあ、明日の分は明日」
「うん」
「今日は寝る」
「おやすみ」
「おやすみ」
少しして、子供の呼吸がゆっくり整っていった。
アリシアは眠った子供と、閉じられた木箱を交互に見る。
留め具は外れたまま。
蓋だけが閉じている。
今日そこが少しだけ開いたことを示す跡は、見た目にはほとんど残っていない。
それでも、子供の中には残っている。
怖かったこと。
開けられたこと。
中が見えなかったこと。
そして、自分で閉じられたこと。
どれか一つだけではなく、全部が同時に。
『また考えてる』
ノアが声を潜めて言った。
「うん」
『今度は何?』
「新しいものが増えても、前のものって消えないんだなって」
『当たり前でしょう』
「分かってるけど」
『でも人間は、新しく動いたものへすぐ目を奪われる』
「ノアも?」
『私は猫だから、動くものには多少弱いわ』
「そこは認めるんだ」
『事実を事実として認めるのは大事でしょう?』
アリシアは声を殺して笑った。
◇
その夜半。
東側の中継観測室で、小空洞に五度目の反応が出た。
「周期反応、確認」
夜勤観測員の声で、室内に残っていた眠気が一瞬で消える。
サーラもまだ観測室に残っていた。
「時刻」
「二十三時四十二分」
「継続時間、計測開始」
小空洞。
弱い周期反応。
危険値は低い。
生命反応なし。
名前のない光。
位置変化なし。
接続値変化なし。
そして、さらに奥側にある新しい反応。
「……こちらも変化しました」
「方向は?」
「上昇です。わずかですが、基準値より強くなっています」
観測員たちの視線が三つの盤面へ分かれた。
「開始は同時?」
「いいえ。小空洞反応開始から……五呼吸後です」
「名前のない光は?」
「変化なし」
若い観測員が小さく息を呑んだ。
「今度は、新しい反応の方が変わった」
「事実だけを取ってください」
サーラの声は静かだった。
「はい」
小空洞の反応が続く。
新しい反応も、弱いながら上昇した値を保っていた。
「名前のない光、変化なし」
「記録」
「小空洞、二十一呼吸……低下します」
「新しい反応は?」
「まだ高いままです」
小空洞が基準値へ戻る。
そのあとも、新しい反応だけはしばらく高い。
十呼吸ほど遅れて、ようやくそちらも元の値へ落ちていった。
「両方、終了」
観測室に沈黙が落ちる。
机の上には、三つの記録が並んでいる。
若い観測員が測定盤を見つめたまま、慎重に口を開いた。
「……つながってる?」
今度は、誰もすぐに答えなかった。
サーラも否定しない。
「関連を考える材料は、また増えました」
「名前のない光は変わらなかった」
「はい」
「じゃあ、光は関係ない?」
「まだ言えません」
「小空洞と新反応だけが関係してる?」
「それもまだです」
若い観測員は背もたれへ身体を預け、天井を見上げた。
「分かったこと増えたのに、また分からない」
「そうですね」
「でも、新しい反応が出たからって、小空洞を観測から外さなくてよかった」
「はい」
「両方残してたから、今の変化が取れた」
サーラは、三枚の記録を一つずつ見た。
「新しいものを見つけたあとも、前から見ていたものを捨てなかったからですね」
観測盤には三つの情報が並び続けている。
名前のない光。
小空洞。
さらに奥側に現れた新しい微弱反応。
今夜、明確に変化したのは二つ。
変化しなかったのは一つ。
だからといって、動かなかった一つをすぐ無関係だとは扱えない。
新しいものが現れたからといって、前からあった疑問が消えるわけではない。
新しい答えの候補らしきものが見えたからといって、昨日まで積み上げてきた記録が不要になるわけでもない。
残す。
並べる。
比べる。
必要になれば、また前の記録へ戻る。
生活観測区画では、子供が一度だけほんの少し開けた木箱のそばで眠っている。
西側では、第二排水支路の点検口候補が、人の手を加えられないまま静かに閉じている。
東側では、二つの魔力反応が時間差を伴って変化し、名前のない光だけが同じ位置に留まっていた。
分かったことは、また少し増えた。
けれど、そのせいで昨日までの疑問が消えたわけではない。
新しく見つけたものも。
前からそこにあったものも。
どちらも残したまま、人間側はまた次の朝を待つことになった。




