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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第144話 新しく見つけたものがあるからといって、前からあったものが消えるわけではない


 東側のさらに奥で昨夜確認された新しい微弱反応は、夜が明けても完全には消えていなかった。


 強くなったわけではない。危険値が上昇したわけでもなく、生命反応も検出されていない。ただ、中継観測室の測定盤へ初めて現れた細い揺れが、朝になってもごく弱い値を残し、ときおり波打つように上下している。


 地上側に設けられた中継観測室の窓は、夜明け直後の淡い青を映していた。地下区画ほど閉塞した空気はないものの、夜勤から朝勤へ引き継ぐ時間帯特有の静けさが室内に残り、机の上には冷めかけた飲み物と、夜のあいだに書き足された観測記録が幾重にも重なっている。


 サーラは昨夜からの記録を、一枚へまとめず三つに分けていた。


 一つは、左側通路の奥に留まっている名前のない光。


 一つは、壁を隔てた小空洞でこれまで四度確認された周期反応。


 そして最後の一つが、そのさらに奥側から新たに検出された微弱反応だった。


 同じ区画で起きている以上、一枚へまとめた方が見やすい。しかし最初から三つを同一系統だと扱えば、記録を読む側までその前提へ引っ張られる可能性がある。そのため、時刻の照合表だけは共通で作りながら、現象そのものの記録は別々に残していた。


「夜のあいだ、新しい方の位置は変わりましたか?」


 朝勤へ交代した観測員が、夜間記録を受け取りながら尋ねる。


「大きな位置変化は確認されていません」


 答えたのは若い観測員だった。


 昨夜は途中で一度休憩へ下がったものの、朝の引き継ぎには戻ってきている。目元には眠気が薄く残っていたが、記録を読む声は思いのほかしっかりしていた。


「名前のない光は?」


「位置変化なし。接続値、危険値ともに低いままです」


「小空洞側は?」


「夜間、五度目の周期反応は確認されていません」


「となると、新しい反応だけ続いている?」


 朝勤の観測員が口にすると、若い観測員は反射的に頷きかけ、途中で止まった。


「……新しい反応だけが、今の機器で継続して確認できている状態です。小空洞や光側で“何も起きていない”とまでは言い切れません」


 サーラが、記録へ向けていた視線を少しだけ上げる。


「朝から丁寧ですね」


「昨日、普通に褒められたのが逆に怖くなりまして」


「どういう意味ですか」


「一回褒められたくらいで気を抜いたら、また勝手に話を作り始めそうだなと」


 記録係の一人が肩を揺らした。


 サーラも呆れたように小さく息を吐いたが、口元には薄い笑みがある。


「自覚があるなら、悪くはありません。波形比較は?」


「新しい反応は、現在までの記録では小空洞の周期反応とも、第四の声に関係する既知反応とも、西側の古い導線反応とも一致していません。ただし、観測時間がまだ短いので、完全に別系統だと断定できる段階ではありません」


「周辺構造は?」


「今朝の再感知で、反応源付近に小さな空洞らしい抜けが出ました。壁の向こうか、床下かまではまだ絞れていません」


「昨日は通路奥側としか分からなかった場所ですね」


「はい」


 若い観測員は地図へ小さな円を一つ書き加えた。


 名前のない光。


 小空洞。


 新しく現れた微弱反応。


 三つの位置は、それぞれ離れている。けれど、同じ地図の同じ区画へ並べてしまえば、人間の目にはどうしても一つのまとまりのように映ってしまう。


 若い観測員が地図を見つめたまま、口を開いた。


「これ……」


 そこで一度止まる。


 サーラは急かさず、筆を置いた。


「何ですか?」


「今度は、ちゃんと最後まで考えてから言います」


「どうぞ」


「この三つが、全部つながっている可能性はありますよね」


「あります」


「逆に、全部別々の可能性もある」


「あります」


「光と小空洞だけ。小空洞と新反応だけ。光と新反応だけ、という組み合わせも」


「ありますね」


 若い観測員は両手で頭を抱えた。


「増えた」


「何がです?」


「考えなきゃいけない組み合わせです」


 朝勤の記録係が今度こそ吹き出した。


「光と小空洞だけでもややこしかったのに、三つ目が出たら一気に面倒じゃないですか?」


「面倒にはなりますね」


「サーラさんでも?」


「当然でしょう」


「よかった」


「何がよかったんです?」


「俺だけ頭が足りないわけじゃなかった」


「そこはまだ判定していません」


「ひどい」


 夜勤明けの張り詰めた空気が少しだけ緩む。


 それでも、誰の視線も測定盤から完全には離れなかった。


 サーラは三枚の記録を机の上へ並べ直す。


「新しい反応が見つかったからといって、小空洞の観測をやめるわけではありません」


「はい」


「名前のない光も継続して見ます」


「はい」


「新しい反応だけ追えば答えが出る、とも考えません」


 若い観測員は地図を見ながら頷く。


「前から残っていた疑問が消えたわけじゃない」


「そうです」


「新しい疑問が一つ増えただけ」


「今のところは、その言い方が一番近いでしょうね」


     ◇


 生活観測区画では、その頃まだ子供が眠っていた。


 雨上がりから続いていた湿った朝はすっかり過ぎ去り、窓から差し込む光は白く明るい。庭の石畳に水面は一つも残っておらず、植え込みの葉も乾き、風が通るたびさらさらと軽い音を立てていた。


 アリシアは机の前に座り、朝の報告書へ目を落としている。


 東側で新たに確認された微弱反応。


 西側で昨日までに判明した第二排水支路の点検口表示板。


 そして室内の棚前には、留め具を外したまま閉じられている木箱がある。


 三つを一つの話として扱う理由など、本来どこにもない。


 それでも、昨日から続く出来事を振り返ると、「何か一つ分かった先で、また別の分からないものが現れる」という感覚だけが、不思議と重なって見えてしまった。


『また難しい顔をしてる』


 床の布の上から、ノアの声が飛んでくる。


「何も言ってないよ」


『言ってなくても考えてるでしょう』


「考えるところまで禁止されたら、何もできないよ」


『禁止してないわ。勝手に全部を同じ話へまとめるなって言ってるだけ』


「まとめてない」


『まとめかけてた顔ね』


「顔だけで何でも決めないで」


『分かりやすいのが悪いのよ』


 アリシアは少し口を尖らせ、東側の報告書を閉じた。


「新しい反応が出たから、光がそこへ行くとかは決めてないよ」


『“行くかもしれない”とは?』


「少し思った」


『でしょうね』


「でも、予想すること自体は悪くないってサーラも言ってる」


『都合のいいところだけ覚えるわね』


「ちゃんと、予想と事実は分けるから」


『ならいいわ』


 ノアの尻尾が布の上で一度だけ揺れる。


 その直後、寝台から小さな布擦れの音がした。


 子供が目を覚ましていた。


 今朝もすぐには起き上がらない。


 しばらく天井を見てから、ゆっくり窓へ顔を向ける。


 庭には鳥が一羽いた。


「一羽」


「うん」


「昨日の朝は、見えなかった」


「声だけだったね」


「今日は見える」


「うん」


 子供は少し目を細めた。


 鳥の大きさも羽の色も、以前窓辺から見たものによく似ている。けれど、それが同じ一羽だと確かめられる印は何もない。


「昨日の鳥と同じ?」


「分からないな」


「似てる」


「うん」


「でも、同じって分からない」


「そうだね」


 子供は数秒だけ鳥を眺めた。


「じゃあ、今日の一羽」


「うん」


 そのあと、隣の寝台を見る。


 顔のない存在は横になったまま、胸の十一の光も朝の明るさに紛れそうなほど弱い。


「おはよう」


 子供が声をかける。


 すぐには何も変わらない。


 子供は待った。


 一つ目。


 少し遅れて二つ目。


 さらに間を置いて、三つ目が淡く明るさを増した。


「今日は三つ」


 子供はしばらくその光を見ていた。


「昨日の夜は二つだった」


「うん」


「増えた?」


 言いかけたところで、子供自身が少し眉を寄せる。


「……明るい数は増えた」


「そうだね」


「でも、“いいになった”じゃない」


「うん」


 子供の口元に、小さな笑みが浮かんだ。


「言い終わる前に分かった」


「早かったね」


『もうアリシアより早いんじゃない?』


「ノア」


『何よ』


 子供が二人を見比べる。


「また勝負?」


「してないから」


『勝負っぽくしたのはアリシアよ』


「ノアが言い出したんでしょ」


「朝から元気」


 子供が笑いながら布団を押し下げる。


「誰が?」


「二人」


「私は普通だよ」


『私もいつも通りよ』


「同じこと言ってる」


 寝台を出た子供は、足裏を自分で確認した。赤みはなく、押しても痛みはない。足首を回したあと室内を数歩歩き、少し考えてから頷く。


「今日も大丈夫」


「あとでセレナに?」


「見るだけ」


「うん」


 そのあと、子供は白い花ではなく木箱へ向かった。


 棚の前。


 昨日、自分で留め具を外した箱。


 蓋は閉じたままだが、金具は外側へ倒れ、もう固定の役目を果たしていない。


 子供は箱の前へしゃがみ込む。


「まだ閉じてる」


「うん」


「夜、開かなかった」


「うん」


「勝手に開かない」


「少なくとも、昨夜はね」


 子供の肩がほんの少し下がった。


「留め具外したら、勝手に開くかもって少し思ってた」


「怖かった?」


「少し」


「眠れた?」


「うん。途中で一回起きて、箱見た」


「閉じてた?」


「うん」


 その言葉を口にしてから、子供は改めて木箱を見る。


「今日、開ける?」


 自分へ問いかける。


 すぐには手を伸ばさない。


「……まだ分からない」


「うん」


「でも、留め具外れてるのは昨日から分かってる」


「うん」


「今日、新しく分かったことある?」


「箱について?」


「うん」


 アリシアは少し考えた。


「一晩、留め具が外れた状態で置いても、少なくとも勝手には開かなかったね」


「それも分かったこと?」


「うん」


 子供は少し考える。


「昨日、外した。今日、閉じたままだった」


「うん」


「開けなくても、分かったこと増えた」


「そうだね」


「西みたい」


「西?」


「古い扉、開けないで調べてた」


「ああ」


「開けなくても分かったことあった」


「そうだね」


 子供は少し満足したように頷く。


「じゃあ、朝は開けない」


「分かった」


「でも、あとで変わるかもしれない」


「うん」


 それだけ決めると、子供は木箱から離れた。


 次に白い花の棚へ向かう。


 花だったものは、さらに形を変えていた。


 茎には、もう花弁と呼べるものがほとんど残っていない。小皿には茶色く乾いた花弁が重なり、その横には、子供が描いた「白い花」の絵がある。


「……花、なくなった?」


 子供が呟いた。


 アリシアも棚を見る。


「茎は残ってるね」


「花弁、ほとんどない」


「うん」


「じゃあ、白い花じゃない?」


 子供の眉が少し下がった。


 以前、自分で決めたことがあった。


 白い色がなくなっても、「白い花」と呼ぶ。


 昔の姿を、名前の中へ残す。


 けれど今は、さらにその先まで形が変わっている。


 アリシアは「名前を変える?」とは聞かなかった。


 しばらく、子供自身が考える時間が続く。


「……白い花」


 やがて、そう言った。


「今も?」


「うん」


「どうして?」


「私が、白い花って呼びたいから」


「うん」


「今は白くない。花弁もほとんどない。でも、これが白い花だったの、私は知ってる」


「そうだね」


「絵もある」


「うん」


「だから、白い花」


 子供は茎と小皿、それから紙の絵を順番に見る。


「でも、前の白い花と同じじゃない」


「うん」


「今の白い花」


「そうだね」


 その言葉で、子供の中に少し収まりがついたようだった。


     ◇


 朝食の湯気が生活観測区画へ広がる頃、子供は東側について学院長へ尋ねた。


「学院長」


「いるぞ」


「昨日の奥、新しいの出た?」


「ああ。名前のない光よりさらに奥側で、別の弱い魔力反応を確認している」


「小空洞じゃない?」


「今のところ、波形は違う」


「第四の声?」


「それとも違う」


「西にあったやつ?」


「それとも一致していない」


 子供は麦粥をすくっていた匙を止めた。


「じゃあ、新しい」


「そう見える」


「何?」


「まだ分からない」


「また」


 呆れたような声に、アリシアは少しだけ笑った。


「昨日、“分かったこと増えたら分からないことも増えた”って言った」


「言ったな」


「今日も増えた」


「ああ」


「前の小空洞、いらなくなった?」


 学院長が、少し意外そうに間を置く。


「どうしてそう思った?」


「新しいのが出たから。今度はそっちを見る?」


「新しい反応も見る。ただ、小空洞の反応がなくなったわけじゃない」


「昨日まで分かったことも?」


「なくならない」


「光と小空洞が関係あるか分からないのも?」


「まだ残っている」


「じゃあ、新しいのが増えただけ?」


「今のところはな」


 子供は麦粥を一口食べる。


 少し考えてから、棚へ視線を向けた。


「新しいの見つけたら、前のいらなくなるじゃない」


「うん」


「白い花も?」


「どういうこと?」


「絵描いた。だから本物の白い花はいらない、じゃない」


「うん」


「絵があるから、小皿の花弁いらない、でもない」


「そうだね」


「どっちもある」


「うん」


「じゃあ、新しいの出ても、前の消えない」


「そうだね」


 子供は今度は少し困った顔になった。


「でも、いっぱいになる」


「何が?」


「見るもの」


「うん」


「疲れる?」


「疲れることもあると思う」


「じゃあ、全部一緒に見なくていい?」


「もちろん」


「人間は?」


「優先順位を決める」


「どうやって?」


「危険性が高いか。急いで確認する必要があるか。今しか取れない情報か。人が足りるか。そういうものを見て決める」


「光だけ見たい、は?」


「それだけでは決めない」


「新しいの気になる、は?」


「それも同じだ」


「気になるけど、理由全部じゃない」


「そうだな」


 子供は少し笑う。


「学院長、いっぱい気になる」


「かなりな」


「でも全部行かない」


「身体が一つしかないからな」


 子供の目が丸くなった。


「それも理由?」


「かなり重要だぞ」


 思わずアリシアが吹き出し、床にいたノアの尻尾まで楽しそうに揺れた。


「学院長、急に普通の理由言った」


「普通で悪いか」


「悪くない」


 子供は笑いながら、朝食に添えられた果実を一つ口へ入れた。


     ◇


 西側では午前中から、第二排水支路の点検口表示板周辺について、追加の現地確認が始まっていた。


 昨日までに、旧排水坑内部へ十三歩進み、泥から回収した金属板の表面に「第二排水支路」「点検口」と読める文字が残っていることまでは確認している。


 今日の目的は、その表示板が元々どこへ設置されていたのかを推定するため、周囲の壁面や床に固定跡が残っていないか調べることだった。


「表示板は動かさない」


 入口前で、副学院長が確認する。


「はい」


「裏面も今日は見ない」


「はい」


「泥を動かす範囲は?」


「表示板周囲の固定跡を確認するために必要な範囲だけ」


 若い観測員が即答した。


「よし」


「今日は先に言えました」


「普通だ」


「少しくらい褒めても」


「仕事だ」


「厳しいなあ」


 魔導具教師が苦笑しながら感知具を確認する。


 三人は旧排水坑へ入った。


 十三歩目。


 金属板があった場所。


 表示板そのものには触れず、周囲を丹念に調べていく。


「壁側に穴があります」


 若い観測員が声を上げた。


「どこだ?」


「板が落ちていた位置の右上。指二本分くらいの窪みです」


 魔導具教師が細い感知具を近づける。


「人工的ですね。固定具を差し込んでいた穴の可能性があります」


「同じ高さにもう一つない?」


 泥が張り付いている部分を、必要最小限だけ避ける。


 左側。


 似た大きさの穴がもう一つ出た。


「二点固定」


「表示板を壁面へ付けていた可能性は、昨日より上がりましたね」


 若い観測員が表示板を見た。


「じゃあ、ここから落ちた?」


「その可能性は高くなった」


「点検口も近い?」


「表示板がここへ付いていたなら、近くに点検口があった可能性は上がる」


「壁?」


「床かもしれません」


「また分からない」


「でも、昨日よりは範囲を絞れたでしょう」


 入口側から、副学院長の声が通信具を通して届く。


『周辺の石材を続けて見ろ』


「了解」


 魔導具教師が一枚ずつ壁面を確認する。


 その途中で、手が止まった。


「ここだけ材質が違います」


「どこ?」


「表示板の位置から少し奥。縦長の石材です」


 若い観測員が目を細める。


 周囲とほぼ同じ灰色だが、確かに質感が微妙に違う。継ぎ目も、通常の壁材より細かった。


「扉?」


 反射的に言ってから、若い観測員は少し顔をしかめる。


「……扉かもしれない形の石材」


 魔導具教師が笑う。


「ずいぶん長い言い直しですね」


「短く言うと怒られるでしょう」


『怒ってない』


 通信越しに副学院長が返す。


「圧があるんですよ」


 入口側で年長の観測員が吹き出した。


 縦長の石材には取っ手がない。


 下部は泥に埋まり、魔力反応もほとんど検出されない。


「開閉構造の可能性は?」


「あります」


「点検口?」


「候補には入るでしょう」


 若い観測員の顔に明るさが浮かぶ。


「見つかった?」


『候補だ』


 副学院長が即座に釘を刺した。


「はい」


『今日は開けない』


「分かってます」


『まだ何も言ってないだろ』


「言われると思ったので」


 周囲に小さな笑いが起きた。


 それでも、誰一人として縦長の石材へ手をかけなかった。


 表示板の固定跡。


 二点の穴。


 周囲と材質の異なる縦長の石材。


 情報はまた増えた。


 そして、「第二排水支路点検口候補」という新しい調査対象が一つ加わった。


 けれど昨日までに見つけた弱い水流も、壁内水抜きの枝も、過去の高水位跡も消えたわけではない。


 新しい候補が現れても、それ以前に積み上げたものは、そのまま残っていた。


     ◇


 東側では、昼前になっても新しい微弱反応が続いていた。


 名前のない光は動かない。


 小空洞にも新しい周期反応はない。


 三つの値を同時に並べているうち、若い観測員が何とも言えない顔で測定盤を見回した。


「何ですか?」


 サーラが尋ねる。


「どれを一番見ればいいのか、分からなくなってきました」


「全部です」


「ですよね」


「ただし、同じ密度で人が見続ける必要はありません」


 若い観測員は三つの値を指で順番に示した。


「新しい反応は継続中」


「はい」


「小空洞は今は静か」


「はい」


「名前のない光も動いていない」


「はい」


「じゃあ、人の目は新反応を少し優先?」


「そうします」


「ほかを止める?」


「止めません。光と小空洞は自動記録を継続し、人が直接確認する頻度だけ下げます」


 若い観測員が感心したように頷いた。


「見るのをやめるんじゃない」


「人間の目は有限ですから」


「学院長も今朝、身体一つしかないって言ったらしいです」


「それと似ていますね」


「目、四つ欲しいな」


「増えたら増えたで疲れると思いますよ」


「……確かに」


 昼近く。


 新しい微弱反応が、一度だけ少し強くなった。


「上昇」


 観測員の声で、室内がすぐに静まる。


「危険値は?」


「低いまま」


「名前のない光?」


「変化なし」


「小空洞?」


「反応なし」


「継続時間」


「十四呼吸……下がります」


 新反応は元の水準へ戻った。


 それ以上、大きな変化は起こらない。


「一度だけ」


「記録してください」


「名前のない光側は変わらなかった」


「はい」


「新しい反応が強くなったからって、光が近づくわけでもない」


「少なくとも今回は」


 若い観測員は少し考え込んだ。


「これ、新しい反応が出たからって、光と新反応ばっかり見てたら小空洞のこと忘れそうですね」


「そうですね」


「逆に、小空洞だけ気にしていたら、新しい反応の変化を見落とすかもしれない」


「はい」


「増えるって大変だ」


「でも?」


 サーラが、わずかに口元を緩めて続きを待つ。


 若い観測員は少し笑った。


「増えたからって、前のものが消えたわけじゃない」


「その通りです」


     ◇


 午後の生活観測区画では、子供が珍しく二つのものを同じ視界へ入れていた。


 白い花の絵。


 そして、棚の前に置かれた木箱。


 箱を机まで運んだわけではない。絵だけを机の近くへ持ってきて、椅子の向きを少し変えた結果、両方が同時に見える位置になっている。


「両方見るの?」


 アリシアが尋ねる。


「うん」


「どうして?」


「どっち先にするか、今決めたくない」


「何を?」


「絵、複写するか。箱、開けるか」


「今日どちらかをしないといけない?」


 子供は少し考え、首を横へ振った。


「……しなくていい」


「うん」


「でも、両方気になる」


「そっか」


「前だったら、一個決めないとって思ったかも」


「うん」


「今は、両方気になるで置いとく」


 子供はまず絵を見る。


「絵、少しずつ変わる」


「うん」


「残したい」


「うん」


「複写したら増える」


「うん」


「でも前、壊れるかもしれないって怖かった」


「うん」


 今度は木箱へ視線を向ける。


「箱、留め具外れてる」


「うん」


「中身見たい」


「うん」


「でも怖い」


「うん」


「両方、したいと怖いがある」


「そうだね」


「同じ?」


「子供はどう思う?」


 少し考える。


「違う」


「うん」


「絵は、残したい。箱は、知りたい」


「そうだね」


「怖いのも違う」


「どんなふうに?」


「絵は壊れたら嫌。箱は、中に何があるか分からないから怖い」


「うん」


「だから、同じ“気になる”じゃない」


「そうだね」


 子供の表情が少しだけ明るくなった。


 同じ言葉の中に違う気持ちがあることを、自分で見つけられたことが嬉しいらしい。


 そのとき、隣の寝台で顔のない存在がゆっくり立ち上がった。


 子供はすぐに気づいたが、椅子から飛び上がることはなかった。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 四歩。


 今日はいつもよりゆっくりだ。


 五歩。


 六歩。


 一度止まる。


 子供は声に出して数えず、静かに待つ。


 顔のない存在は、さらに一歩進んだ。


 七。


 そして八。


 そこで止まり、ゆっくり床へ腰を下ろした。


「今日は八」


 座ったあとで、子供が口にする。


「うん」


「昨日は六」


「うん」


「今日は八」


「うん」


「嬉しい」


「うん」


 子供は人影を見ながら、今度は自分の胸元へ手を置いた。


「でも、箱気になるもある。絵のこともある」


「うん」


「いっぱい一緒にある」


「あるね」


「前は、一個ずつじゃないと駄目だったのかな」


「そう感じてた?」


「うん。怖いときは、怖いだけだった」


「うん」


「今は、嬉しい。気になる。怖い。知りたい。残したい。ちょっと疲れた」


「多いね」


「多い」


 子供が少し笑う。


「でも、一個増えたら前のがなくなるじゃない」


「そうだね」


「箱が気になるから、絵どうでもいいにならない。絵残したいから、この人が歩いた嬉しいが消えない」


「うん」


 子供は改めて顔のない存在を見る。


「この人、八歩歩いた」


「うん」


「今の光は?」


 胸にある十一の光。


 現在、少し明るいのは二つだった。


「二つ」


「朝は三つ」


「うん」


「歩いたのに減った?」


 子供は言い切る前に少し止まる。


「……明るい数は、一つ少ない」


「うん」


「でも、八歩歩いたことはなくならない」


「そうだね」


「今、二つ明るいのもある」


「うん」


「両方ある」


 人影は八歩目に座ったまま、静かにしている。


 子供はもう、窓まで残り何歩かを数えなかった。


     ◇


 夕方。


 西側から新しい報告が届くと、子供は食事前の水を飲みながら学院長へ聞き返した。


「点検口候補?」


「ああ。昨日見つけた表示板が、元は壁に固定されていた可能性が高くなった。その近くに、周囲とは材質の違う縦長の石材がある」


「開ける?」


「今日は開けない」


「明日は?」


「明日以降、外側からさらに調べてからだ」


「前の古い扉みたい?」


「形が似ているところはある。だが、同じ用途とは限らない」


「また増えた」


「何が?」


「扉っぽいの」


 学院長が少し笑った。


「そうだな」


「前の古い扉は?」


「閉じたまま残っている」


「なくなってない?」


「もちろん」


「新しい点検口候補が出たから、前の扉の調査やめるじゃない」


「うん」


「見るもの増えた」


「そうなる」


「大人、大変」


「かなりな」


 子供は少し考えた。


「全部、今日やらない?」


「やらない」


「できない?」


「できないものもあるし、今日やる必要がないものもある」


「身体一つ?」


「それも、かなり大きな理由だ」


 朝の会話を覚えていた子供が、また笑った。


     ◇


 夕食後。


 子供は木箱の前へ座った。


 今日は朝から留め具には触れていない。


 昨日外したまま。


 蓋も閉じたまま。


 夕方になっても、誰も箱へ手を加えなかった。


 子供は膝の上へ両手を置き、長いあいだ木目と蓋の縁を眺めていた。


「今日、開ける?」


 小さな声。


 アリシアは答えない。


 その問いは、アリシアへではなく子供自身へ向けられている。


 やがて、右手が上がった。


 蓋の縁へ指が触れる。


 木箱そのものへ触れるのは初めてではない。


 けれど、留め具が外れた状態で、蓋を持ち上げられる位置へ指をかけるのは初めてだった。


「持ち上げたら、開く」


「たぶんね」


「少しだけ?」


「子供がそうしたいなら」


「全部?」


「それもできると思う」


「開けない?」


「それも選べるよ」


 子供は少し笑った。


「またいっぱい」


「うん」


 指先へ、わずかに力が入る。


 蓋が動いた。


 木と木が擦れる、低く乾いた音がした。


 ほんのわずか。


 本当に、わずかな隙間だった。


 指一本どころか、爪先ほども入らない。


 中は暗く、何が入っているのかは見えない。


 アリシアは自分から中を覗き込まず、以前から行っている範囲の弱い魔力感知だけを使った。


 危険反応なし。


 急激な魔力変化もない。


「開いた?」


「少し」


 子供は蓋を持ち上げた状態のまま、呼吸を止めそうになっていた。


「怖い」


「うん」


「見えない」


「うん」


「もっと開けたら見える?」


「たぶんね」


「……閉じる?」


 今度も、自分へ聞く。


 指が震える。


「閉じたいもある」


「うん」


「見たいもある」


「うん」


「今日は……」


 長い沈黙が落ちた。


 誰も「もう少し」と言わない。


 誰も「ここまで来たなら」と背中を押さない。


 子供はそのまま蓋をさらに上げることなく、ゆっくり力を抜いた。


 木箱が再び閉じる。


 軽い音。


 留め具はかけない。


「閉じた」


「うん」


「でも、開けた」


「うん」


「少しだけ」


「うん」


「中、見えなかった」


「うん」


 子供の目に、じわりと涙が滲んでいた。


「答え出なかった」


「うん」


「でも、少し開けた」


「うん」


「怖かった」


「うん」


「それで、閉じた」


「うん」


 子供は箱から手を離した。


 しばらく膝の上で両手を握る。


「開けたら、中身すぐ分かると思ってた」


「うん」


「少しだと分からなかった」


「そうだね」


「もっと開けなきゃ?」


 アリシアは答えなかった。


 子供は少しだけアリシアを見て、それから自分で視線を箱へ戻す。


「……違う。分かりたいなら、もっと開ける必要あるかもしれない。でも、今日やらなきゃじゃない」


「うん」


「今日分かったのは、少し開けても大丈夫だった」


「うん」


「自分で閉じられた」


「うん」


「中身は、まだ分からない」


「そうだね」


 子供は袖で頬を拭った。


「分からないまま、分かったこと増えた」


「どういうこと?」


「箱、少し開けられるって分かった。でも中身は分からない」


「うん」


「怖くなったら閉じられるも分かった」


「うん」


「前より分かったこと増えた。でも、“中身分からない”は残った」


「そうだね」


 子供は涙の残る顔で少し笑った。


「今日の東と西みたい」


「東も、西も?」


「うん」


     ◇


 夜。


 東側の新しい微弱反応は、その後も大きく形を変えなかった。


 小空洞には、日中のうち五度目の周期反応は起きていない。


 名前のない光も同じ位置に留まっている。


 三つの観測対象が、同じ区画に同時に存在している。


 けれど、どれか一つが新しく見つかったからといって、ほか二つが不要になったわけではなかった。


 西側では、「第二排水支路点検口」と読める表示板と、その付近にある縦長の石材が、新しい調査対象へ加わった。


 それでも、最初に見つけた古い扉。


 水没区画。


 旧制御系統。


 弱い排水。


 過去の高水位跡。


 そのどれもが消えたわけではない。


 生活観測区画では、木箱の蓋が初めてほんの少しだけ持ち上げられ、再び閉じられた。


 中身は見えなかった。


 それでも子供は、留め具を外した箱を自分の手で開けられることと、怖くなったところで自分の手で閉じられることを知った。


 白い花は、さらに以前の姿を失った。


 けれど子供は、今の姿も「白い花」と呼んだ。


 紙に描いた絵もある。


 小皿の中の花弁もある。


 本物の茎も残っている。


 どれか一つがあるから、ほかがいらないということにはならなかった。


     ◇


 寝台へ入った子供は、今夜も木箱を見ていた。


 部屋の灯りは夜用の弱い明るさへ落とされ、棚の前にある箱は影の中へ半分沈んでいる。留め具が外れていることも、よく見れば分かる程度だった。


「アリシア」


「うん」


「今日、箱開けた」


「うん」


「ちょっとだけ」


「うん」


「でも、中身分からなかった」


「うん」


「がっかりした」


「そっか」


「開けたら見えると思った」


「うん」


「もっと開けたら、見えるかもしれない」


「うん」


「でも今日は閉じた」


「うん」


 子供は布団の端を指で撫でる。


「閉じたら、開けたことなくなる?」


「なくならないよ」


「中、見えなかったけど?」


「うん」


「じゃあ今日は、“少し開けた日”」


「そうだね」


 子供は隣の寝台を見る。


「顔のない人は八歩」


「うん」


「今は?」


 胸の十一の光を見る。


 今、少し明るいのは三つだった。


「三つ」


「朝も三つだった」


「うん」


「同じ?」


「数はね」


「場所も?」


 アリシアは少しだけ目を凝らした。


「似てるようには見える。でも、同じ三つかまでは私には分からない」


「じゃあ、今の三つ」


「うん」


 子供は少し安心したように頷いた。


「東、新しいの出た」


「うん」


「小空洞もある」


「うん」


「光もいる」


「うん」


「西、新しい点検口候補出た」


「うん」


「前の古い扉もある」


「うん」


「私、箱少し開けた」


「うん」


「白い花もある」


「うん」


「絵もある」


「うん」


 子供は天井へ視線を向ける。


「増えても、前の消えない」


「そうだね」


「でも、頭いっぱいになる」


「なることもあるね」


「そういうとき、どうする?」


「全部を同時に考えなくてもいいと思う」


「一個、置いとく?」


「うん」


「忘れても?」


「忘れたくないなら、記録しておける」


「あとで戻る?」


「必要なら」


「戻ったとき、変わってるかも」


「うん」


「なくなるかも」


「あるね」


「それでも?」


「そのときは、そのとき見えるものをまた見る」


 子供はしばらく考え込んだ。


「全部持ったまま走らなくていい」


「うん」


「置いて、また戻ってもいい」


「うん」


「でも、待っててくれるとは限らない」


「うん」


「難しい」


「うん」


「でも今日は箱閉じた」


「うん」


「明日また開けるかもしれない」


「うん」


「開けないかも」


「うん」


「白い花も明日また変わる」


「そうだね」


「東も西も?」


「たぶんね」


 子供は目を閉じた。


「じゃあ、明日の分は明日」


「うん」


「今日は寝る」


「おやすみ」


「おやすみ」


 少しして、子供の呼吸がゆっくり整っていった。


 アリシアは眠った子供と、閉じられた木箱を交互に見る。


 留め具は外れたまま。


 蓋だけが閉じている。


 今日そこが少しだけ開いたことを示す跡は、見た目にはほとんど残っていない。


 それでも、子供の中には残っている。


 怖かったこと。


 開けられたこと。


 中が見えなかったこと。


 そして、自分で閉じられたこと。


 どれか一つだけではなく、全部が同時に。


『また考えてる』


 ノアが声を潜めて言った。


「うん」


『今度は何?』


「新しいものが増えても、前のものって消えないんだなって」


『当たり前でしょう』


「分かってるけど」


『でも人間は、新しく動いたものへすぐ目を奪われる』


「ノアも?」


『私は猫だから、動くものには多少弱いわ』


「そこは認めるんだ」


『事実を事実として認めるのは大事でしょう?』


 アリシアは声を殺して笑った。


     ◇


 その夜半。


 東側の中継観測室で、小空洞に五度目の反応が出た。


「周期反応、確認」


 夜勤観測員の声で、室内に残っていた眠気が一瞬で消える。


 サーラもまだ観測室に残っていた。


「時刻」


「二十三時四十二分」


「継続時間、計測開始」


 小空洞。


 弱い周期反応。


 危険値は低い。


 生命反応なし。


 名前のない光。


 位置変化なし。


 接続値変化なし。


 そして、さらに奥側にある新しい反応。


「……こちらも変化しました」


「方向は?」


「上昇です。わずかですが、基準値より強くなっています」


 観測員たちの視線が三つの盤面へ分かれた。


「開始は同時?」


「いいえ。小空洞反応開始から……五呼吸後です」


「名前のない光は?」


「変化なし」


 若い観測員が小さく息を呑んだ。


「今度は、新しい反応の方が変わった」


「事実だけを取ってください」


 サーラの声は静かだった。


「はい」


 小空洞の反応が続く。


 新しい反応も、弱いながら上昇した値を保っていた。


「名前のない光、変化なし」


「記録」


「小空洞、二十一呼吸……低下します」


「新しい反応は?」


「まだ高いままです」


 小空洞が基準値へ戻る。


 そのあとも、新しい反応だけはしばらく高い。


 十呼吸ほど遅れて、ようやくそちらも元の値へ落ちていった。


「両方、終了」


 観測室に沈黙が落ちる。


 机の上には、三つの記録が並んでいる。


 若い観測員が測定盤を見つめたまま、慎重に口を開いた。


「……つながってる?」


 今度は、誰もすぐに答えなかった。


 サーラも否定しない。


「関連を考える材料は、また増えました」


「名前のない光は変わらなかった」


「はい」


「じゃあ、光は関係ない?」


「まだ言えません」


「小空洞と新反応だけが関係してる?」


「それもまだです」


 若い観測員は背もたれへ身体を預け、天井を見上げた。


「分かったこと増えたのに、また分からない」


「そうですね」


「でも、新しい反応が出たからって、小空洞を観測から外さなくてよかった」


「はい」


「両方残してたから、今の変化が取れた」


 サーラは、三枚の記録を一つずつ見た。


「新しいものを見つけたあとも、前から見ていたものを捨てなかったからですね」


 観測盤には三つの情報が並び続けている。


 名前のない光。


 小空洞。


 さらに奥側に現れた新しい微弱反応。


 今夜、明確に変化したのは二つ。


 変化しなかったのは一つ。


 だからといって、動かなかった一つをすぐ無関係だとは扱えない。


 新しいものが現れたからといって、前からあった疑問が消えるわけではない。


 新しい答えの候補らしきものが見えたからといって、昨日まで積み上げてきた記録が不要になるわけでもない。


 残す。


 並べる。


 比べる。


 必要になれば、また前の記録へ戻る。


 生活観測区画では、子供が一度だけほんの少し開けた木箱のそばで眠っている。


 西側では、第二排水支路の点検口候補が、人の手を加えられないまま静かに閉じている。


 東側では、二つの魔力反応が時間差を伴って変化し、名前のない光だけが同じ位置に留まっていた。


 分かったことは、また少し増えた。


 けれど、そのせいで昨日までの疑問が消えたわけではない。


 新しく見つけたものも。


 前からそこにあったものも。


 どちらも残したまま、人間側はまた次の朝を待つことになった。

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