第9話 黒い光
水晶柱の中に生まれた黒い点は、最初、ただの影のように見えた。
光ではない。
炎でも、水でも、風でも、土でも、光でもない。
そこにあるのに、そこだけが夜になったような、深く小さな黒。
アリシアは指先を水晶に触れたまま、息を止めていた。
冷たいはずの水晶が、少しずつ冷たくなくなっていく。
熱いわけではない。
けれど、胸の奥と水晶の奥が、どこかで繋がってしまったような感覚があった。
どくん。
胸の中で、何かが鳴る。
どくん。
黒い点が、かすかに揺れる。
その瞬間、周囲に置かれた五つの属性石が震えた。
赤。
青。
緑。
黄。
白。
五つすべてが、細かく震えている。
光っているわけではない。
反応しているわけでもない。
ただ、怯えるように、あるいは何かを思い出したように、小さく震えていた。
演習場から音が消えた。
さっきまで新入生たちの小さなざわめきや、教師が記録する筆の音があった。
それが、全部止まった。
誰も喋らない。
誰も動かない。
視線が、一斉にアリシアへ向けられている。
それが分かった瞬間、アリシアの指先が震えた。
離したい。
水晶から手を離したい。
でも、離していいのか分からない。
今、何が起きているのかも分からない。
「……え?」
誰かが小さく声を漏らした。
その声をきっかけに、演習場へざわめきが戻ってくる。
「何、今の」
「黒……?」
「どの属性だ?」
「五つとも光ってないよな?」
「でも、水晶の中に何か……」
「属性石が震えてる」
「故障?」
「測定具って壊れるの?」
声。
声。
声。
アリシアの背中に、冷たい汗が流れた。
違う。
自分は何もしていない。
ただ、言われた通りに手を置いただけ。
魔力を流そうとしただけ。
それなのに。
黒い点は、水晶の中でじっと揺れている。
まるで、アリシアを見ているようだった。
教務主任の女性教師が、最初に動いた。
「アリシアさん。手を離してください」
声は落ち着いていた。
けれど、わずかに硬い。
アリシアは言われた通り、慌てて手を離した。
その瞬間、黒い点はふっと消えた。
五つの属性石の震えも止まる。
演習場に、妙な静けさが落ちた。
何事もなかったように、水晶柱は透明に戻っている。
けれど、誰も何事もなかったとは思っていなかった。
アリシアは水晶から一歩下がった。
足元がふらつく。
倒れそうになる直前、足元に黒い影が寄り添った。
ノアだった。
いつの間にか、少しだけ近づいていた。
普通の猫の姿のまま。
けれど、その金色の瞳は鋭く、演習場全体を見ていた。
アリシアはノアを見下ろす。
助けて。
言葉にはできなかった。
言ったら、泣いてしまいそうだった。
ノアは何も言わない。
ただ、尾の先でアリシアの足首に触れた。
逃げるな。
でも、倒れるな。
そう言われた気がした。
教務主任は水晶柱へ歩み寄り、表面を確認した。
別の教師も近づく。
白髪の老教師が属性石の台座を調べ、ローブの男性教師が水晶の魔力残滓を測っている。
教師たちの顔は険しかった。
だが、誰も大声を出さない。
それが逆に、アリシアの不安を増した。
失敗したのだろうか。
壊したのだろうか。
何か、してはいけないことをしてしまったのだろうか。
「教務主任」
ローブの男性教師が低く言った。
「測定具に破損はありません」
「属性石は?」
白髪の老教師が答える。
「物理的な損傷なし。ただし、全石に一時的な共振反応がありました」
「共振……?」
近くの新入生が小さく呟く。
その言葉は、アリシアにも分からなかった。
けれど、普通ではないことだけは分かった。
教務主任はアリシアを見た。
アリシアの肩がびくりと揺れる。
「アリシアさん」
「は、はい……」
「今、何か意図的に魔法を使いましたか?」
アリシアは勢いよく首を横に振った。
「つ、使ってません……手を置いて、少し魔力を流そうとしただけで……」
「黒い反応に心当たりは?」
心臓が跳ねた。
闇。
ノア。
継承。
六つ目。
心当たりなら、ある。
けれど言えない。
祖父に言われた。
必要になるまで、簡単に話すな。
ノアも言っていた。
今は騒がない。
アリシアは喉が詰まった。
嘘はつきたくない。
でも、本当のことも言えない。
黙っている時間が長くなる。
周囲の視線がさらに強くなる。
メリルが心配そうにこちらを見ている。
ガレスは眉を寄せ、ミランダは不安げに口を結んでいた。
リーネは眼鏡の奥から水晶を見つめ、シオンは興味深そうに目を細めている。
ルシアンは――穏やかな顔のまま、静かにアリシアを見ていた。
その視線が、一番読めなかった。
アリシアは拳を握る。
手が冷たい。
それでも、どうにか声を出した。
「……分かりません」
教務主任は表情を変えなかった。
「分からない?」
「はい……私、自分の属性が、まだはっきり分からなくて……」
それは本当だった。
完全な嘘ではない。
アリシア自身、闇が何なのか分かっていない。
六つ目の継承者だと言われても、その意味を理解できているわけではない。
「そうですか」
教務主任は少し考え込んだ。
演習場の新入生たちは、まだざわざわしている。
「属性不明ってこと?」
「でも黒かったよな」
「闇属性……?」
「闇なんてあるのか?」
「魔族の属性じゃないの?」
「しっ、聞こえる」
魔族。
その言葉が耳に入った瞬間、アリシアの胸が凍った。
魔族。
千年前、人類と戦った存在。
今も恐れられるもの。
自分の黒い反応が、それと結びつけられている。
足元が崩れそうだった。
違う。
違う、と思いたい。
けれど、アリシア自身、何が違うのか説明できない。
周囲のざわめきが、少しずつ不安を帯びていく。
「黒って不吉じゃない?」
「測定具が変だっただけだろ」
「でも五属性全部反応しなかった」
「特別推薦って言ってた子だよね」
「家名もないって聞いた」
「黒猫連れてるし……」
声が刺さる。
一つ一つは小さい。
けれど、集まると痛かった。
アリシアは俯きそうになる。
その瞬間、ノアが足元で短く鳴いた。
「にゃあ」
普通の猫の鳴き声。
けれど、アリシアには叱られたように聞こえた。
下を向くな。
アリシアは唇を噛み、顔を上げた。
涙が出そうだった。
でも、まだ泣かない。
教務主任が片手を上げた。
その動作だけで、ざわめきが少し静まる。
「静かに」
声は大きくない。
しかし、演習場全体に通った。
「測定中の私語は慎みなさい」
新入生たちは口を閉じる。
完全に静かにはならない。
けれど、先ほどよりはずっと落ち着いた。
教務主任は続けた。
「現時点では、測定具の不調、魔力波形の乱れ、特殊な未分類反応のいずれも可能性があります。結論を急ぐ段階ではありません」
未分類反応。
その言葉に、教師たちの何人かが小さく頷いた。
「アリシアさんの測定結果は一時保留とします。後日、個別に再測定を行います」
「こ、個別……」
「はい。今日は下がってください」
アリシアは小さく頷いた。
「はい……」
水晶柱から離れる。
歩く。
自分の列へ戻る。
それだけのことが、とても長く感じた。
周囲の視線が痛い。
誰も大声で何かを言うわけではない。
教師に注意された直後だから、皆黙っている。
けれど、沈黙の中にいろいろな感情が混じっていた。
好奇心。
警戒。
戸惑い。
疑い。
同情。
アリシアはそのすべてを受け止めるほど強くなかった。
足元のノアだけを見て、どうにか戻る。
メリルの隣に立った瞬間、メリルが小声で言った。
「アリシアちゃん……大丈夫?」
その声が優しすぎて、逆に泣きそうになった。
アリシアは頷こうとした。
けれど、うまくできない。
「……分からない」
正直な声が出た。
メリルはそれ以上聞かなかった。
ただ、少しだけアリシアの近くに立ってくれた。
それが、ありがたかった。
測定は再開された。
だが、演習場の空気は変わってしまっていた。
次に呼ばれた生徒は、ひどく緊張していた。
水晶に手を置く。
青い石が普通に光る。
教師が「水属性」と告げる。
周囲から拍手が起こる。
けれど、その拍手はどこかぎこちなかった。
皆、まだアリシアの黒い反応を気にしている。
アリシアにも分かった。
視線が時々、こちらに向く。
話し声が低く交わされる。
アリシアは手を握った。
爪が掌に食い込む。
痛みがある方が、少しだけ現実に留まれる。
ノアが足元で座っている。
普通の猫として。
でも、いつもより近い。
アリシアの足に体が触れるほど近くにいた。
測定が終わるまでの時間は、ひどく長かった。
新入生全員の測定が終わり、教務主任が本日の結果について簡単に説明する。
各自の適性に応じて、明日以降の基礎授業班を仮決定すること。
魔法実技の初回では無理に出力を上げないこと。
属性が弱い者も、制御や応用で伸びる余地があること。
未分類、再測定対象者については個別に連絡すること。
その最後の言葉で、また何人かがアリシアを見た。
アリシアは目を伏せなかった。
伏せたくなかった。
でも、顔を上げ続けるだけで精一杯だった。
「以上です。午前の予定は終了。午後は各自寮で待機し、掲示板に出る班分けを確認してください。解散」
教師の言葉で、新入生たちが動き始めた。
ざわめきが一気に戻る。
椅子はないが、人の移動で空気が揺れる。
「さっきの何だったんだろ」
「個別再測定って……」
「属性不明って初めて見た」
「黒い反応、初めて聞いた」
「先生たちも驚いてたよな」
「でも問題ないって言ってたし……」
「本当に?」
アリシアはその場から動けなかった。
人が流れていく。
その流れに乗ればいい。
演習場を出ればいい。
それだけ。
でも足が動かない。
心が、水晶柱の前に置き去りにされているようだった。
メリルが隣で待ってくれている。
「アリシアちゃん、出よう?」
「……うん」
答えた。
けれど足は遅かった。
ノアが前を歩き、時々振り返る。
演習場を出るまで、アリシアは周囲をほとんど見られなかった。
廊下に出ると、空気が少し変わった。
外の光が窓から入っている。
朝よりも明るくなった学園の廊下。
普通なら、それだけで少し落ち着くはずだった。
でも、アリシアの胸の中はまだ黒い点に支配されていた。
黒い光。
五つの属性石の震え。
周囲の声。
魔族という言葉。
「アリシア」
低い声がした。
振り返ると、ガレスが立っていた。
ミランダも一緒だ。
ガレスの顔は、いつものように明るいだけではなかった。
真剣だった。
アリシアは身構える。
何を言われるのだろう。
怖いのか。
気味が悪いのか。
なぜ黒かったのかと聞かれるのか。
ガレスはまっすぐこちらへ来た。
そして、声を少し抑えて言った。
「大丈夫か?」
予想していなかった言葉だった。
アリシアは目を瞬かせる。
「え……」
「顔が真っ白だぞ」
ミランダも心配そうに頷いた。
「さっきの、びっくりしたよね。私もびっくりしたもん」
責められていない。
疑われていない。
少なくとも、この二人は。
アリシアは喉が詰まった。
「わ、私……何が起きたのか、分からなくて……」
声が震える。
「ごめんなさい……変なことに、なって……」
「なんで謝るんだ?」
ガレスが不思議そうに言った。
アリシアは言葉を失う。
「だって……みんな、驚いて……」
「驚いたけど、アリシアが悪いわけじゃないだろ」
ガレスは当然のように言った。
その言葉に、胸が痛くなった。
ミランダも力強く頷く。
「そうだよ! 測定って、何があるか分からないから測るんでしょ?」
「……」
「分かってたら測らなくていいもん!」
とても単純な理屈。
けれど、今のアリシアにはその単純さが救いだった。
メリルも隣で言う。
「先生も結論を急がないって言ってたし。再測定で分かるかもしれないよ」
「……うん」
アリシアは小さく頷いた。
涙が出そうだった。
でも、ここで泣くと余計に心配をかける。
そう思って堪えようとした。
しかし、ノアが足元で小さくため息をついた。
「泣くのを我慢しすぎるのも面倒ね」
アリシアにだけ聞こえる声。
アリシアはノアを見る。
ノアは普通の猫のふりをしながら、静かにこちらを見上げていた。
泣いてもいい。
でも、崩れるな。
そんな目だった。
アリシアは目元を指で押さえた。
「……ありがとう」
小さく言った。
ガレスは腕を組んで頷く。
「気にするな!」
声が少し大きくなった。
近くの生徒が振り返る。
ガレスは慌てて口を押さえた。
「……気にするな」
小さく言い直す。
その様子が少しおかしくて、アリシアは涙の中でほんの少し笑った。
ミランダも笑う。
「ガレス、小声苦手だね」
「鍛える!」
「小声も鍛えるんだ」
メリルが苦笑した。
小さな笑いが生まれる。
その笑いは、アリシアの胸に絡まっていた黒い糸を少しだけほどいた。
だが、全員がそうだったわけではない。
廊下の少し離れた場所で、数人の新入生がこちらを見ていた。
視線はまだある。
好奇心と警戒。
それは消えていない。
アリシアはそれを感じ、また少し肩を縮める。
その時、静かな声が響いた。
「測定直後に騒ぐのは、あまり賢明ではありませんね」
アリシアたちが振り返る。
リーネがそこにいた。
青髪のショート。
眼鏡の奥の冷静な瞳。
手には測定結果の記録紙の写しのようなものを持っている。
彼女はアリシアを見て、次に周囲の生徒たちを見た。
「未分類反応は、異常ではあっても即座に危険と決まったわけではありません。教師陣が保留した以上、学生が憶測で騒ぐべきではないでしょう」
その声は大きくなかった。
だが、廊下にいた数人の生徒に届いた。
ひそひそ話をしていた者たちが、少し気まずそうに視線を逸らす。
リーネは表情を変えず、アリシアに向き直った。
「あなたも、現時点で必要以上に怯える意味はありません」
言い方は少し硬い。
優しい、とは違う。
けれど、助けてくれたのだと分かった。
アリシアは慌てて頭を下げる。
「あ、ありがとうございます……」
「礼を言われることではありません。事実を述べただけです」
リーネはそう言った。
少しノアに似ている。
アリシアは一瞬そう思った。
もちろん全然違う。
ノアは毒舌で、リーネは理屈っぽい。
でも、どちらも感情ではなく、必要なことをまっすぐ言うところが少し似ていた。
ノアの尻尾が足元でぴくりと動く。
何か不満そうだった。
ミランダがリーネに笑いかける。
「リーネも心配して来たの?」
「違います。通り道です」
「そっか!」
ミランダは疑わず頷く。
リーネは少しだけ眼鏡を押し上げた。
ガレスが腕を組む。
「リーネ、さっきの測定すごかったな!」
「あなたの出力も十分目立っていました」
「そうか!」
「褒めてはいません。制御不足は明らかです」
「なら鍛える!」
「でしょうね」
リーネの声は平坦だった。
だが、どこか会話に慣れているようにも見えた。
五属性の継承者たちは、互いに面識があるのかもしれない。
アリシアはその輪を少し遠く感じた。
そこへ、さらに軽い声が混ざった。
「朝からずいぶん賑やかだね」
シオンだった。
緑髪のポニーテールを揺らし、壁に軽く寄りかかっている。
いつからそこにいたのか分からなかった。
細身で、表情には薄い笑みが浮かんでいる。
「黒い反応なんて、退屈しない学年になりそうだ」
その言葉に、アリシアの胸が少し強張る。
シオンはそれに気づいたのか、肩をすくめた。
「責めてるわけじゃないよ。珍しいものを珍しいと言っただけ」
「シオン」
リーネの声が少し冷たくなる。
「言い方を選びなさい」
「僕にそれを求めるのは酷だね」
「なら黙っていなさい」
「手厳しいな」
シオンは笑った。
だが、彼の視線はアリシアとノアをじっと観察していた。
不快ではない。
しかし、落ち着かない。
アリシアはノアを抱き上げたくなった。
だが、ノアは足元で静かに座っている。
逃げるな、ということだろう。
アリシアはどうにかその場に立ち続けた。
シオンはアリシアに向かって言う。
「アリシア、だったね」
「は、はい……」
「面白い反応だった」
アリシアは返事に困った。
面白い。
そう言われても、どう受け止めればいいのか分からない。
シオンは続けた。
「五属性のどれにも属さない。けれど五つ全部を震わせた。普通じゃない」
周囲の空気がまた少し張り詰める。
アリシアの指が震える。
しかし、シオンは笑みを深めた。
「普通じゃないって、悪い意味だけじゃないからね」
「……え?」
「普通なんて、たくさんいる。普通じゃない方が、見ていて飽きない」
それは慰めなのか、皮肉なのか。
アリシアには判断できなかった。
ミランダが明るく言う。
「シオンなりに励ましてる?」
「そう聞こえたなら、君の耳はかなり前向きだね」
「前向きなのはいいことだよ!」
「否定はしない」
シオンは肩をすくめた。
その時、廊下の奥から柔らかな声がした。
「皆さん、ここに集まっていたのですね」
ルシアンだった。
白髪の少年。
穏やかな微笑み。
彼が近づいてくると、周囲の空気が自然と整うように感じられた。
近くにいた新入生たちも、少し緊張したように道を空ける。
ルシアンはまずガレスたちに微笑みかけ、それからアリシアを見た。
「アリシアさん。先ほどは驚かれたでしょう」
丁寧な声。
優しい声。
けれど、アリシアはなぜか少し身構えた。
「あ……はい……」
「測定具の未分類反応は、稀に起こると聞いたことがあります。あまり気を落とさないでください」
ルシアンは穏やかに言った。
メリルがほっとしたように言う。
「そうなんですか?」
「ええ。詳しい資料は限られていますが、魔力波形が既存の属性石にうまく噛み合わない場合、一時的に測定が保留されることがあります」
リーネが少し目を細めた。
「どの文献ですか?」
ルシアンは微笑む。
「神殿図書館の古い測定記録です。一般公開はされていませんが」
「神殿図書館……」
リーネは興味を引かれたようだった。
アリシアは、ルシアンの説明に少しだけ安心しそうになった。
未分類反応は、稀にある。
自分だけではないのかもしれない。
そう思えたから。
しかし、ノアの体が足元でわずかに硬くなった。
アリシアはそれに気づく。
ノアはルシアンを見ていた。
警戒。
たぶん、それに近い。
ルシアンはノアへ視線を下げる。
「綺麗な黒猫ですね」
ノアは普通の猫のように黙っている。
ルシアンの微笑みは崩れない。
「名前は?」
アリシアは一瞬迷いながら答えた。
「ノア……です」
「ノア。良い名前ですね」
また、名前を褒められた。
普通なら嬉しいはずだった。
実際、少し嬉しい。
けれど、ルシアンの声には、何かを確かめるような響きもあった。
気のせいだろうか。
アリシアには分からない。
ノアは金色の瞳でルシアンを見つめている。
ルシアンもまた、ほんの一瞬だけノアと視線を合わせた。
その場の空気が、ほんの少しだけ冷えた気がした。
だが次の瞬間、ルシアンはいつもの穏やかな笑みに戻った。
「午後の掲示で班分けが出るようです。皆さんも確認を忘れないように」
「そうだった!」
ミランダが声を上げる。
「班分けって、属性ごとかな?」
ガレスが言う。
「俺は火の班か!」
リーネが冷静に答える。
「説明では、属性と基礎能力を踏まえて仮決定するとありました。単純な属性別とは限りません」
「そうなのか!」
「説明を聞いていなかったのですか?」
「聞いていたぞ! 半分くらい!」
「半分では足りません」
そのやり取りに、少しだけ空気が緩む。
アリシアはその場に立ちながら、ようやく呼吸が戻ってきたのを感じた。
みんなが責めているわけではない。
少なくとも、ここにいる人たちは。
それでも、不安は消えない。
黒い反応は消えない。
でも、一人で抱え込まなくていいのかもしれない。
そう思えた。
教務主任が演習場の入口から出てきた。
その姿を見て、新入生たちが少し静かになる。
「廊下に溜まらないように。各自、寮へ戻るか、指定区域で待機してください」
「はい」
皆が返事をし、少しずつ動き始める。
ガレスがアリシアに向かって言った。
「アリシア、昼は食堂行くか?」
「え……」
「腹が減ったら行くだろ?」
当然のように言う。
まだ朝食からそれほど経っていないのに、もう昼食の話だ。
ミランダも頷く。
「私も行く!」
「メリルは?」
ガレスが聞く。
「私は行くつもり」
メリルはアリシアを見る。
アリシアは少し迷った。
今は一人になりたい気持ちもある。
でも、一人になったら、黒い反応のことばかり考えてしまいそうだった。
それに、ガレスたちは普通に誘ってくれている。
さっきのことがあっても、変わらずに。
それが嬉しかった。
「……行きます」
「おう!」
ガレスは笑った。
今度は少し声が大きかった。
だが、アリシアは驚かなかった。
ほんの少しだけ、慣れてきたのかもしれない。
それぞれが廊下を歩き始める。
リーネは図書館の場所を確認すると言い、シオンは「少し風に当たる」と言って別方向へ行った。
ルシアンは神殿棟へ向かうらしい。
別れる直前、ルシアンはアリシアに微笑んだ。
「再測定で落ち着いた結果が出ると良いですね」
「あ……はい」
「困ったことがあれば、教師や上級生に相談するといいですよ」
「ありがとうございます……」
丁寧な言葉。
優しい助言。
アリシアは頭を下げた。
ルシアンは去っていく。
その後ろ姿を見ながら、ノアが小さく呟いた。
「……油断しないことね」
アリシアは足元を見る。
「ルシアンさんのこと?」
「今は覚えておくだけでいいわ」
「……うん」
ノアの声は低かった。
珍しく、皮肉が少ない。
だからこそ、アリシアはその言葉を胸に留めた。
寮へ戻る道で、メリルがそっと言った。
「アリシアちゃん」
「うん?」
「さっきのこと、聞かれたくなかったら、私は聞かないよ」
アリシアはメリルを見る。
メリルの表情は真剣だった。
「気になるけど……でも、アリシアちゃんが話したくないなら、無理に聞かない」
その言葉が、深く染みた。
聞かれたら、答えられない。
答えられない自分を責めてしまう。
でも、メリルは聞かないと言ってくれた。
「……ありがとう」
アリシアは小さく言った。
「私も……まだ、よく分からないの」
「うん」
「分かったら……話せることなら、話す」
「うん」
メリルはそれだけで頷いてくれた。
追及しない。
疑わない。
ただ隣を歩いてくれる。
アリシアは胸が少し温かくなった。
ノアも、何も言わなかった。
第一寮に戻ると、午前の測定を終えた新入生たちがそれぞれの部屋へ散っていった。
廊下では、まだ属性測定の話題が続いている。
「俺、火だった!」
「知ってたんじゃないの?」
「反応強って言われた!」
「私は光だけど弱めだって。治癒向きらしい」
「ガレス様すごかったよな」
「リーネ様も」
「黒い反応の子、見た?」
最後の声に、アリシアは足を止めそうになった。
メリルがさりげなくアリシアの前に立つように歩いてくれる。
ノアが足元で尻尾を振った。
気にするな。
アリシアは呼吸を整え、部屋の前まで歩いた。
二〇八号室。
鍵を開ける。
部屋に入る。
扉を閉める。
その瞬間、力が抜けた。
アリシアは扉に背を預け、そのままずるずると座り込みそうになった。
ノアがすぐに言う。
「床に座らない」
「……ちょっとだけ」
「冷えるわよ」
「うん……」
アリシアはどうにか椅子まで歩き、腰を下ろした。
ノアは机の上へ飛び乗った。
部屋の中では、もう机に乗ることを止めなかった。
今は、それを注意する気力もなかった。
ノアは登録札の首輪を器用に外し、机の上に置いた。
「まったく。面倒なものをつけさせるわね」
いつもの毒舌。
それを聞いて、アリシアは少しだけ安心した。
「ノア……」
「何?」
「さっきの、黒いの……やっぱり、闇?」
ノアはすぐには答えなかった。
机の上に座り、窓の外を見る。
しばらく沈黙が落ちた。
アリシアはその沈黙を待った。
怖い。
でも、聞かなければならない気がした。
やがてノアは言った。
「そうね。闇の反応よ」
アリシアは目を閉じた。
やはり。
「でも、あれは本来の反応じゃない」
「本来の……?」
「黒月はまだ眠っている。あんたも闇を扱える段階じゃない。だから測定具が無理やり拾ったのは、契約の影みたいなものよ」
「契約の影……」
「分かりやすく言えば、あんた自身の力というより、あんたが継いだものの気配ね」
アリシアは胸元に手を当てた。
継いだもの。
六つ目の神器。
黒月。
まだ姿を見せない、眠った神器。
「じゃあ……私が何かしたわけじゃない?」
「何かはしたわ。水晶に触れて魔力を流した」
「う……」
「でも、壊したわけでも、暴走させたわけでもない」
ノアの声は静かだった。
「そこは覚えておきなさい」
アリシアはゆっくり頷いた。
「でも……みんな、魔族って……」
言葉にした瞬間、胸が痛んだ。
ノアの瞳が細くなる。
「無知な子どもの囁きよ」
「でも……」
「でも、痛かった?」
アリシアは小さく頷いた。
「うん……痛かった」
「そう」
ノアは机から降り、アリシアの膝に飛び乗った。
いつものように当然の顔で丸くなる。
アリシアは驚きながらも、そっとノアの背を撫でた。
「覚えておきなさい、アリシア」
「……うん」
「人は知らないものを怖がる。怖がったものに、知っている怖い名前をつけたがる」
「知っている怖い名前……」
「魔族。不吉。異常。そういう言葉よ」
ノアの声は低い。
怒っているようにも、悲しんでいるようにも聞こえた。
「でも、あんたはその言葉に自分を明け渡しちゃだめ」
「……」
「あんたが何者かは、あんたがこれから決めるの」
アリシアの手が止まる。
ノアは見上げた。
「六つ目の継承者であることは変わらない。闇の契約者であることも変わらない。でも、それが何を意味するかは、あんたの歩き方で変わる」
「私の……歩き方」
「そう」
ノアは尻尾でアリシアの手首を叩いた。
「だから、今日のことで勝手に自分を悪者にしない」
アリシアは唇を噛んだ。
涙がこぼれそうになる。
「……難しい」
「知ってるわ」
「怖い」
「知ってる」
「また見られるの、怖い」
「それも知ってる」
ノアは静かに言った。
「でも、昼は食堂に行くんでしょう?」
アリシアは驚いてノアを見た。
「……行けるかな」
「行くのよ」
「ノア……」
「ガレスたちが誘った。メリルも待つ。逃げて部屋にこもったら、次に出る時もっと怖くなる」
容赦がない。
でも、正しい。
アリシアには分かった。
ここで閉じこもったら、廊下へ出るのが怖くなる。
食堂へ行くのが怖くなる。
明日の授業が怖くなる。
どんどん、怖さが大きくなる。
「でも、無理に笑う必要はないわ」
ノアは続けた。
「怖い顔でもいい。声が震えてもいい。食堂まで行って、ご飯を食べなさい」
「……うん」
「それが今日の一歩」
アリシアは深く息を吸った。
まだ胸は重い。
黒い光の記憶も消えない。
でも、ノアの重みが膝にある。
その温かさが、少しだけアリシアを現実に戻してくれる。
「ノア」
「何?」
「昼まで……少しだけ、このままでいて」
ノアは一瞬黙った。
それから、そっぽを向く。
「仕方ないわね」
「ありがとう」
「礼はいいって言ってるでしょう」
「でも……言いたいから」
「本当に頑固ね」
ノアは呆れたように言った。
けれど、膝の上から降りようとはしなかった。
アリシアはノアの背を撫でながら、窓の外を見た。
学園の中庭には、午前の光が降り注いでいる。
新入生たちが歩いている。
笑っている者もいる。
不安そうに掲示板へ向かう者もいる。
世界は、さっきの黒い反応だけで止まってはいなかった。
それが少し悔しくて、少し救いでもあった。
アリシアは机の上の練習帳を見た。
昨日書いた短い日記。
今日は、何と書くだろう。
黒い光が出ました。
怖かったです。
でも、みんなが心配してくれました。
ノアが、勝手に自分を悪者にするなと言いました。
書けるかもしれない。
まだ無理かもしれない。
でも、いつか祖父に話したいと思った。
怖かった。
でも、逃げなかった。
そう話せるように。
アリシアは胸元の守り袋に触れた。
「おじいちゃん……私、今日も一歩だけ進むね」
声は小さかった。
部屋の中に溶けるような声。
ノアは何も言わなかった。
ただ、尻尾の先でアリシアの手を軽く叩いた。
それで十分だった。




