第10話 それでも食堂へ
昼の鐘が鳴る少し前まで、アリシアは部屋の椅子に座っていた。
膝の上にはノアがいる。
机の上には、午前中に配られた案内紙と、昨日の夜に少しだけ書いた練習帳。
窓の外には、中央学園の中庭が広がっている。
生徒たちが歩いていた。
属性測定を終えたばかりの新入生たちが、数人ずつ集まって話している。笑っている者。自分の結果を誇らしげに話す者。少し落ち込んでいる者。掲示板の方へ急ぐ者。
世界は動いていた。
アリシアの胸の中だけが、まだあの演習場に残っているようだった。
黒い点。
水晶柱の中に浮かんだ、夜の欠片のような光。
五つの属性石が震えた瞬間。
周囲の声。
魔族、という小さな囁き。
それらが何度も頭の中で繰り返される。
アリシアはノアの背をゆっくり撫でた。
柔らかい。
温かい。
ノアは目を閉じていたが、眠ってはいなかった。
アリシアが少し指を止めると、尻尾の先で手首を叩く。
撫でなさい。
そう言われている気がして、アリシアはまた手を動かした。
「……ノア」
「何?」
「食堂、行くんだよね」
「行くわよ」
即答だった。
「うん……」
「嫌?」
「嫌、というか……怖い」
「でしょうね」
「見られるよね」
「見られるでしょうね」
「噂、されるよね」
「されるでしょうね」
容赦がない。
でも、変に慰められるよりはよかった。
ノアはアリシアの膝の上で丸くなったまま、淡々と言った。
「でも、食堂へ行ってご飯を食べる。それだけよ」
「……それだけ」
「そう。それだけ」
「でも、その『それだけ』が難しい……」
「知ってるわ」
ノアは目を開けた。
金色の瞳がアリシアを見上げる。
「だから一緒に行くんでしょう」
その言葉に、アリシアの胸が少し緩んだ。
一緒。
ノアがいる。
メリルも待ってくれているかもしれない。
ガレスとミランダも、昼に食堂へ行くと言っていた。
でも、それでも足は重い。
アリシアは胸元の守り袋に触れた。
祖父が彫ってくれた木片の感触。
山の家。
朝の静けさ。
祖父の大きな手。
帰りたい。
一瞬、強く思った。
部屋から出ず、荷物をまとめて、山へ帰れたら。
祖父のもとへ戻れたら。
何も知らないふりをして、またあの家で暮らせたら。
けれど、そう思った瞬間、別の言葉が胸に浮かんだ。
逃げて終わるな。
祖父の声。
怖くても、一歩だけ進みなさい。
アリシアは目を閉じた。
一歩。
今日の一歩は、食堂へ行くこと。
とても小さくて、でも今のアリシアには大きすぎる一歩。
「ノア」
「何?」
「立つところから……手伝って」
ノアはしばらくアリシアを見た。
それから、膝の上で立ち上がった。
「仕方ないわね」
ノアは机へ飛び移り、そこから床へ降りる。
アリシアはゆっくり立ち上がった。
足が少し震える。
ノアはそれを見て、ため息をついた。
「まず背筋」
「うん……」
「目線」
「前……」
「呼吸」
「すぅ……はぁ……」
「もう一回」
「すぅ……はぁ……」
「よろしい」
ノアは扉の方へ歩く。
「行くわよ」
「うん」
アリシアは部屋の扉を開けた。
廊下に出る。
その瞬間、近くを歩いていた新入生二人がちらりとこちらを見た。
黒髪の少女。
黒猫。
木刀。
そして、午前中に黒い反応を示した生徒。
目が合ったわけではない。
それでも、アリシアには分かった。
見られた。
心臓が跳ねる。
足が止まりそうになる。
ノアが足元で低く言った。
「歩く」
「……うん」
一歩。
また一歩。
廊下を進む。
二〇七号室の扉が開いた。
メリルが顔を出す。
「アリシアちゃん」
その声に、アリシアは思わず立ち止まった。
メリルは少し心配そうな顔をしていた。
けれど、無理に明るくしようとはしていない。
それがありがたかった。
「食堂……行く?」
メリルが聞く。
アリシアは小さく頷いた。
「うん……行く」
「じゃあ、一緒に行こう」
「……うん」
それだけの会話。
でも、その一言で廊下が少し歩きやすくなった。
メリルはアリシアの隣に並ぶ。
ノアは少し前を歩く。
三人で階段へ向かった。
廊下では、やはりいくつかの視線を感じた。
声も聞こえる。
「ほら、あの子……」
「黒い反応の」
「猫連れてる」
「特別推薦だって」
「先生たちも慌ててたよな」
声は小さい。
けれど、耳に入ってくる。
アリシアは唇を噛んだ。
メリルが少しだけ歩く位置を変え、アリシアと噂をしている生徒たちの間に立った。
自然に。
さりげなく。
アリシアはそれに気づいた。
「メリルさん……」
「うん?」
「ありがとう」
メリルは少し笑った。
「何もしてないよ」
「……うん」
何もしていない。
そう言ってくれることも、優しさなのだと思った。
階段を下り、寮の玄関ホールへ出る。
そこにも生徒がいた。
掲示板には、午後に出る予定の班分けについての案内が貼られている。
まだ仮班は出ていない。
けれど、新入生たちはすでに気にしているようだった。
「火属性班かな、俺」
「魔法基礎は成績順って噂もある」
「再測定組ってどうなるんだろ」
再測定組。
その言葉に、アリシアの胸がきゅっとなる。
自分のことだ。
でも、メリルが足を止めずに歩いてくれた。
ノアも振り返らない。
だからアリシアも、前を向いた。
外へ出ると、昼前の光が眩しかった。
朝よりも空が高く、学園の白い建物がはっきりと輝いている。
中庭の噴水には日差しが反射し、きらきらと揺れていた。
こんなに明るい場所で、自分の胸の中だけが暗いことが、少し不思議だった。
でも、足元のノアは黒い。
日差しの中でも黒い。
その黒さは、不吉ではなかった。
綺麗だった。
アリシアはその背中を見て、少しだけ息を整えた。
「黒って……悪い色じゃないよね」
思わず小さく呟いた。
メリルが首を傾げる。
「え?」
「あ……ううん」
ノアだけが耳を動かした。
何も言わなかった。
けれど尻尾が、ほんの少しだけ揺れた。
食堂へ近づくにつれ、人の声が増えていく。
昼食の時間だから、昨日の夕食よりもさらに人が多い気がした。
入口前では、新入生たちが数人ずつ集まっていた。
午前の属性測定の話題で持ちきりだった。
「俺、火だったけど反応弱めだって」
「制御が良いって言われたならいいじゃん」
「ガレス様の火、見た? やばかった」
「ミランダ様の土もすごかったよ」
「リーネ様、完璧だった」
「ルシアン様の光、綺麗だったよね」
そして、少し声を落として。
「黒いのもあったよな」
アリシアの足が止まりかけた。
ノアがすぐに言う。
「入口で固まらない」
「……うん」
昨日と同じ言葉。
食堂の入口で固まらない。
アリシアは一歩入った。
中の空気は温かかった。
料理の匂い。
人の声。
食器の音。
昨日は少しだけ楽しい場所になったはずの食堂。
けれど今日は、入った瞬間にいくつかの視線が集まった。
アリシアはそれを肌で感じた。
あの子だ。
そんな声が、聞こえた気がした。
本当に言われたのか、アリシアの不安が作った声なのか分からない。
それでも足は震える。
「席」
ノアが足元で言う。
アリシアは壁際を探した。
昨日の場所は埋まっていた。
他の壁際も、半分ほど埋まっている。
焦る。
落ち着け。
席を探すだけ。
そう思っても、視線が気になって目が泳ぐ。
その時、奥の方から大きな手が振られた。
「アリシア! メリル! こっちだ!」
ガレスだった。
声は大きい。
でも、その声に何人かが振り返ったことで、逆に隠れる必要がなくなった。
アリシアは驚き、立ち止まる。
ガレスは堂々と手を振っていた。
隣にはミランダもいる。
「席取っといたよー!」
ミランダが元気よく言う。
アリシアは胸が熱くなった。
待っていてくれた。
席を取ってくれていた。
午前のことがあっても、変わらずに。
メリルが微笑む。
「行こう、アリシアちゃん」
「……うん」
二人と一匹は、ガレスたちの席へ向かった。
途中、視線はあった。
囁きもあった。
でも、向かう場所があるだけで歩けた。
席には四人分の空きがあった。
ガレス、ミランダ、メリル、アリシア。
ノアはアリシアの椅子の上。
ガレスはアリシアを見ると、いつもより少し声を抑えた。
「来たな」
「はい……」
「飯は食えるか?」
その聞き方がガレスらしくて、アリシアは少しだけ笑いそうになった。
「たぶん……少しなら」
「少しじゃ足りんぞ!」
「ガレス、そこは無理に食べさせない」
メリルが言うと、ガレスは真剣に考えた。
「そうか。じゃあ食える分だけ食え!」
「うん……」
ミランダがにこにこして言う。
「席、壁側にしたよ。アリシア、端の方が落ち着くかなって」
アリシアは目を丸くした。
気づいてくれていた。
昨日、アリシアが壁際の席を選んでいたことを。
ミランダは明るく勢いのある少女だ。
でも、ちゃんと見ている。
「あ……ありがとう、ミランダさん」
「さんはいらないけど、今はいいよ!」
ミランダは笑った。
その優しさに、胸が詰まる。
ノアが椅子の上から小さく言う。
「泣くのは食べてから」
「な、泣いてない……」
アリシアは小声で返した。
メリルが首を傾げる。
「どうしたの?」
「ううん……ノアに、ご飯待っててねって」
ノアは普通の猫のように一声鳴いた。
「にゃあ」
完璧だった。
ガレスが感心する。
「本当に賢いな、ノア」
ノアの尻尾が少し得意げに揺れた。
アリシアは配膳台へ向かった。
今日は昨日より少しだけ足取りが重い。
でも、席がある。
戻る場所がある。
それだけで、トレーを持つ手は少し落ち着いていた。
昼食は、野菜と肉の煮込み、パン、豆のスープ、果物だった。
アリシアは少なめを選ぶ。
職員が心配そうに聞いた。
「それだけで足りる?」
「あ、はい……今日は少し」
「無理せず食べなさいね」
「ありがとうございます……」
職員の声は普通だった。
黒い反応のことなど知らないのかもしれない。
あるいは知っていても、何も変えないでくれているのかもしれない。
アリシアは少しだけ救われた。
席へ戻ると、ガレスのトレーには相変わらず山のように料理が乗っていた。
ミランダも負けていない。
メリルは普通の量。
アリシアは少なめ。
ノアには、従魔用の小皿を頼んだ。
ノアは皿を見て言う。
「今日は魚ね」
「肉の方がよかった?」
「魚も悪くないわ」
「よかった」
「ただし後で肉も少し」
「うん……」
小声でやり取りしていると、ミランダがノアを見て笑う。
「ノア、魚好きなのかな?」
「たぶん……好き」
「かわいいね!」
ノアの耳がぴくっと動く。
アリシアは慌ててスープを飲んだ。
昼食が始まる。
最初の数口は、味がほとんど分からなかった。
周囲の声が気になる。
近くの席で誰かが「黒」と言うたび、自分のことかと思う。
笑い声がすると、自分が笑われている気がする。
視線が動くと、自分を見ていると思ってしまう。
アリシアはパンを小さくちぎり、口へ運ぶ。
飲み込む。
またちぎる。
その繰り返しだった。
ガレスはそんなアリシアをじっと見ていた。
そして、突然言った。
「アリシア」
「は、はい」
「午前のあれ、俺はすごいと思ったぞ」
食堂の音の中で、その言葉だけがはっきり聞こえた。
アリシアは固まる。
「すごい……?」
「おう。五つ全部が震えたんだろ? 普通じゃない」
普通じゃない。
午前中、シオンも似たようなことを言った。
その言葉は怖かった。
けれど、ガレスの声には悪意がなかった。
「俺の火は赤く光っただけだ。ミランダの土は黄色。リーネの水は青。分かりやすい。でもアリシアのは、誰も分からなかった」
「それは……怖いことじゃ……」
「分からないことは怖い!」
ガレスはきっぱり言った。
アリシアは目を見開く。
「でも、分からないから面白いんだろ?」
「……面白い?」
「分かったら調べる。できなかったら鍛える。知らなかったら学ぶ。学園ってそういう場所だろ?」
言葉は単純だった。
でも、学園長の言葉とどこか重なった。
未熟であることを認め、それでも前へ進もうとする者の場所。
ミランダも大きく頷く。
「私もすごいと思った! だって五つ全部がびびびってなったんだよ!」
「びびび……」
メリルが少し笑う。
「表現はミランダらしいけど、私も……怖いというより、びっくりした。でも、アリシアちゃんが悪いとは思わなかったよ」
アリシアは三人を見た。
ガレス。
ミランダ。
メリル。
三人とも、こちらを責めていない。
疑っていない。
ただ、心配してくれている。
あるいは、すごいと言ってくれている。
周囲の全員がそうではない。
噂はある。
警戒もある。
けれど、この席には違うものがあった。
アリシアは胸元を押さえた。
「私……怖かった」
小さな声が出た。
三人が静かに聞く。
「黒いのが出て……みんなが見て……魔族って、聞こえて……」
言った瞬間、喉が詰まった。
ミランダの表情が曇る。
ガレスは眉を寄せた。
「誰がそんなこと言った」
声が低くなる。
いつもの大きな明るさとは違う。
怒っている。
アリシアは慌てて首を振った。
「わ、分からない……小さい声だったから……」
「そうか」
ガレスは拳を握った。
「気にするな、と言っても難しいだろうが……俺はそう思わん」
アリシアはガレスを見る。
「アリシアは魔族じゃない。昨日一緒に飯を食ったし、今日もこうして飯を食ってる」
「理由がご飯……」
メリルが小さく言った。
ガレスは真剣だった。
「飯を一緒に食えるやつは、だいたい悪いやつじゃない」
「だいたい……」
「例外はある!」
「あるんだ」
ミランダが笑う。
アリシアも、少しだけ笑った。
変な理屈。
でも、ガレスらしい。
そのまっすぐさが、今はありがたかった。
ミランダがアリシアの方へ身を乗り出す。
「私はね、黒ってかっこいいと思うよ」
「え……」
「夜みたいだし、ノアも黒くて綺麗だし。私、黄色だからよく目立つけど、黒もいいなって思う」
アリシアは言葉を失った。
黒がいい。
そう言われたのは、初めてかもしれない。
ノアの背を撫でる。
黒い毛並み。
艶やかで、温かくて、自分を支えてくれる色。
「黒って……悪くない?」
アリシアは思わず聞いた。
ミランダはきょとんとしてから、力強く頷いた。
「悪くないよ!」
ガレスも頷く。
「夜がないと寝られん!」
「そこ?」
メリルが笑う。
「でも、私も悪い色だとは思わないよ。黒い服とか、上品に見えるし」
アリシアは胸が熱くなった。
午前中、魔族という言葉で冷えた胸に、少しずつ温かいものが戻ってくる。
黒は悪くない。
ノアの色。
夜の色。
祖父の家で見上げた、星を抱く空の色。
アリシアは小さく頷いた。
「……ありがとう」
ノアが椅子の上で言う。
「泣くのは食べてからって言ったでしょう」
アリシアは慌てて目元を押さえた。
「泣いてない……」
メリルが心配そうに見る。
「大丈夫?」
「うん……大丈夫」
今度は少し、本当にそう思えた。
昼食の後半になると、少しずつ味が分かってきた。
煮込みは温かく、野菜は柔らかい。
豆のスープは優しい味がした。
少なめにした料理を、アリシアはゆっくり食べきった。
ノアにも約束通り、肉を小さく分けた。
「約束は守るのね」
「うん……」
「よろしい」
ノアは満足そうだった。
食堂を出る頃には、アリシアの足の震えは少しだけ収まっていた。
噂は消えない。
視線もある。
でも、食堂へ行けた。
ご飯を食べられた。
仲間たちと話せた。
午前の黒い光だけで、一日を終わらせなかった。
それが、今日の一歩だった。
午後、第一寮の掲示板前は新入生で溢れていた。
班分けが貼り出されたのだ。
寮の玄関ホールにある大きな掲示板の前で、生徒たちが自分の名前を探している。
「俺、基礎魔法三班!」
「同じだ!」
「剣術基礎は明日から?」
「属性補助班って何?」
「再測定対象者は別紙だって」
再測定。
その言葉に、アリシアの胸がまた少し重くなる。
しかし、メリルが隣にいてくれた。
ガレスとミランダも一緒に掲示板を覗き込んでいる。
ガレスは背が高いので、人の後ろからでもよく見えるらしい。
「俺は……基礎魔法一班! 戦闘基礎一班! 食事班はないのか?」
「ないよ」
メリルが笑う。
ミランダも名前を見つけた。
「私も戦闘基礎一班! ガレスと一緒だ!」
「おう! よろしくな!」
「魔法基礎は二班だって!」
メリルは掲示板の別の場所を見る。
「私は基礎魔法三班……あ、アリシアちゃん」
「うん……」
アリシアは自分の名前を探した。
なかなか見つからない。
家名がないから、どこにあるのか分かりにくい。
不安になりかけた時、メリルが指差した。
「あった」
そこには、確かに書かれていた。
アリシア。
基礎魔法:保留・個別指導予定。
戦闘基礎:三班。
生活基礎:第一寮合同。
再測定:後日、教務主任より通知。
保留。
個別指導。
再測定。
周囲の名前とは違う記載。
アリシアはその文字を見つめた。
また、特別扱い。
目立つ。
不安が胸に広がる。
メリルが小さく言った。
「戦闘基礎、私は三班だよ」
アリシアは顔を上げた。
「え……」
「ほら、私も三班」
メリルの名前を見る。
戦闘基礎:三班。
本当だ。
同じ。
アリシアの胸が少し軽くなる。
「一緒だね」
メリルが笑う。
「うん……」
ミランダが残念そうに言う。
「戦闘基礎は別かぁ。でも食堂で会えるよね!」
「うん」
ガレスも頷く。
「班が違っても鍛えればいい!」
「それ、何にでも言うね」
メリルが苦笑した。
アリシアはもう一度、自分の名前を見る。
保留。
個別指導。
再測定。
怖い言葉。
でも、その隣に、戦闘基礎三班という文字もある。
そこにはメリルがいる。
全部が一人ではない。
ノアが足元で言った。
「木刀の出番ね」
「……うん」
戦闘基礎。
魔法は分からない。
属性は保留。
でも、剣なら。
木刀なら。
祖父に教わったことがある。
アリシアは腰の木刀に触れた。
少しだけ、指先に力が戻る。
ノアが続ける。
「そこで縮こまったら減点よ」
「厳しい……」
「当然」
アリシアは小さく笑った。
掲示板前のざわめきの中で、もう一つの紙が貼られた。
上級生が新しい案内を張り出している。
「明日の予定です! 各自確認してください!」
生徒たちがさらに集まる。
ガレスが読み上げる。
「明日午前、入学式。午後、各班顔合わせ。翌日より通常授業開始!」
入学式。
ついに、正式に中央学園の生徒になる。
アリシアは息を飲んだ。
制服も明日。
入学式も明日。
そしてその後、戦闘基礎三班。
再測定。
個別指導。
学園生活は待ってくれない。
黒い反応が出ても、噂されても、明日は来る。
それが怖くもあり、救いでもあった。
部屋に戻る前、メリルが言った。
「アリシアちゃん、夕食も一緒に行こうね」
アリシアは少しだけ迷わず頷けた。
「うん。行く」
「よかった」
ミランダも手を振る。
「私も行く!」
「俺も行く!」
ガレスが言う。
メリルが笑った。
「それは知ってる」
アリシアも笑った。
小さく。
でも、朝よりずっと自然に。
部屋に戻ると、ノアはすぐに首輪を外した。
「やっぱり邪魔」
「お疲れ様」
「本当に疲れたわ。猫のふりも楽じゃないのよ」
「上手だったよ」
「当然」
ノアは机の上に座り、窓の外を見た。
アリシアは練習帳を開いた。
昼間の光が机の上に落ちている。
ペンを持つ。
少し考える。
そして、ゆっくり書き始めた。
『今日、属性測定で黒い光が出ました。怖かったです。みんなに見られて、魔族という言葉も聞こえました。逃げたくなりました。でも、ノアがいてくれました。メリルさんが隣にいてくれました。ガレスさんとミランダさんも、食堂で待っていてくれました。黒は悪くないと言ってくれました』
そこまで書いて、手が止まる。
涙が一滴、紙に落ちそうになった。
アリシアは慌てて目元を押さえる。
ノアが机の上から見ていた。
「泣くのは書いてから?」
「……うん」
「なら最後まで書きなさい」
「うん……」
アリシアは続きを書いた。
『だから、私は今日も食堂へ行けました。ご飯を食べられました。明日は入学式です。まだ怖いけど、一歩だけ進みます』
書き終えて、ペンを置く。
胸の中にあったものが、少しだけ紙へ移った気がした。
アリシアは練習帳を閉じる。
「ノア」
「何?」
「私、今日……何点?」
ノアは少し考えた。
いつものように厳しい顔をして。
「八十点」
アリシアは目を丸くした。
「高い……」
「食堂へ行った。逃げなかった。ご飯を食べた。掲示板も見た。自分を悪者にしすぎなかった」
「減点は?」
「何度も固まりかけた。すぐ泣きそうになった。あと、まだ背筋が甘い」
「背筋……」
「でも」
ノアはアリシアを見た。
「今日の八十点は、昨日の百点より価値があるわ」
アリシアは息を止めた。
ノアは顔をそらす。
「一度しか言わないわよ」
「……うん」
アリシアは胸がいっぱいになった。
今日の八十点。
黒い光が出た日。
怖くて、逃げたくて、でも食堂へ行った日。
その八十点。
アリシアはそっと胸元の守り袋に触れた。
「おじいちゃん……私、今日も逃げなかったよ」
声は小さかった。
けれど、昨日より少しだけ強かった。
窓の外では、午後の光が学園の中庭を照らしている。
新入生たちは明日の入学式へ向けて動き出している。
噂はまだ消えない。
黒い反応の意味も分からない。
再測定も待っている。
それでも、アリシアは椅子に座ったまま、少しだけ前を向けていた。
ノアが机から降り、アリシアの膝へ飛び乗る。
いつものように当然の顔で丸くなる。
アリシアはその背を撫でた。
黒い毛並み。
夜の色。
悪くない色。
アリシアは小さく笑った。
「ノアの色、やっぱり綺麗だね」
ノアの耳がぴくりと動く。
「……減点」
「えっ」
「照れるようなことを急に言ったから減点」
「そんな理由……」
「私の点数表では有効よ」
アリシアは困った顔をしながら、それでも笑った。
部屋の中に、少しだけ穏やかな時間が戻る。
明日は入学式。
怖い。
でも、今日より少しだけ進めるかもしれない。
そう思いながら、アリシアはノアの温もりを抱きしめるように、静かに午後の時間を過ごした。




