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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第86話 断る声にも、手放す条件を一緒に置いておく


 翌朝、隠れ里の空には、夜明け前の青がまだ薄く残っていた。


 森の木々は静かで、枝先に溜まった露がときおり葉の端から落ち、小さな水音を立てている。窓の外を流れる風は冷たかったが、昨日までの湿り気は薄れ、部屋の空気には乾いた木の匂いが混じっていた。


 アリシアは目を覚ますと、寝台の中で身体を動かす前に、自分の状態を順番に確かめた。


 頭痛はない。


 肩の張りもない。


 指先の冷えも、いつもより少なかった。


 影を使った後に残りやすい腕の重さもなく、身体だけを見れば、昨日より調子は良い。


 けれど、胸の奥には小さな硬さが残っていた。


 今日は、中央交代の提案を断る訓練。


 誰かから「代わって」と言われた時に、「今は渡さない」と答える。


 それは昨日までとは違う怖さだった。


 渡すのは怖かった。


 返ってこないことも怖かった。


 選ばれないことも寂しかった。


 けれど。


 断ることは、相手の判断を否定することになるかもしれない。


 自分を心配してくれた声へ、「違う」と返さなければならない。


「朝から眉間に小さな戦争を飼っているわね」


 窓辺で丸くなっていたノアが、片目だけを開けて言った。


「見える?」


「あなたは考えすぎると、呼吸より先に眉が固まるもの」


 アリシアは掛け布を胸元まで下げ、ゆっくり上半身を起こした。


「今日は断る」


「そうね」


「交代してって言われても」


「必要なら」


「嫌われるかもしれない」


「誰に?」


「言ってくれた人に」


「心配して提案したのに断られたら、気分を悪くするかもしれない?」


「うん」


「では、何も言わずに渡す?」


 アリシアはすぐには答えなかった。


 渡せば、相手は安心するかもしれない。


 自分も衝突を避けられる。


 けれど、今の自分が中央を続ける方が良い状況なら、その安心は班全体の安全とは違う。


「必要なら断る」


「理由は?」


「今の方がいいから」


「それでは足りないわね」


「どうして?」


「今の方がいいと思っているだけかもしれないでしょう」


 アリシアは少し考えた。


「負荷」


「他」


「見えてる情報」


「他」


「補助があれば続けられるか」


「他」


「次に渡す条件」


 ノアは静かに頷いた。


「断るなら、出口も一緒に置きなさい」


「出口?」


「ずっと断り続けるのではなく、何が起きたら渡すのかを伝えるの」


「今は渡さない。でも、負荷二になったら渡す」


「そう」


「右が見えなくなったら、セレナへ渡す」


「そう」


「指示が二回止まったら、もう一度提案して」


「良いでしょう」


 断る声だけでは、相手を押し返すことになる。


 けれど。


 断る理由。


 支えてほしい場所。


 手放す条件。


 それらを一緒に伝えれば、相手は拒まれたのではなく、次の判断へ参加できる。


「でも、断った後に失敗したら?」


「失敗するでしょうね」


「ノア」


「断れば絶対に成功すると思っているの?」


「思ってない」


「なら、失敗した時は見直しなさい」


「断ったこと自体が間違いだった?」


「結果だけでは決められない」


「でも、失敗した」


「その時の情報で妥当だったか。手放す条件を守ったか。支援を求めたか。それを見なさい」


 アリシアは膝の上へ両手を置いた。


「断るって、強い声が必要?」


「大きな声ではなく、明確な声が必要ね」


「私、小さい」


「昨日も届いていた」


「怖かった」


「今日も怖いでしょう」


「うん」


「それで?」


「怖いまま言う」


「何を?」


 アリシアは一度息を吸う。


「今は渡さない。理由は――」


 そこで止まった。


「まだ状況がない」


「それでいいのよ」


「練習できない」


「朝から見えない敵に断る理由を作り始めたら、ただの独り言よ」


「少しやろうと思った」


「やめなさい」


 アリシアは少し笑った。


「今の私は、頭痛なし。肩問題なし。冷え少し」


「心は?」


「断るのが怖い」


「他」


「断った後、失敗するのも怖い」


「他」


「でも、断るなら手放す条件も言う」


「百点」


「百一点じゃない」


「断る練習だから、今日は一度控えたの」


「意味が分からない」


「私が百一点を拒否したのよ」


「理由は?」


「気分」


「それは駄目」


「朝から成長したわね」


 ◇


 朝食の席では、祖父が昨夜の煮込みへ麦を足し、火にかけ直していた。


 鍋の中では、豆と根菜が柔らかく煮崩れ、濃い湯気が立ち上っている。窓から差し込む朝の光はまだ弱く、卓上の木の器や黒パンの輪郭をぼんやりと照らしていた。


「今日は断る日か」


 祖父は鍋を混ぜながら言った。


「どうして分かったの?」


「昨日、次は断る練習だと言ってただろ」


「覚えてた」


「お前は俺を何だと思ってる」


「畑のことしか覚えてない人」


「今日の芋を減らすぞ」


「覚えてる人」


 祖父は鼻を鳴らし、アリシアの器へ煮込みをよそった。


「交代してと言われても断る」


「そうか」


「必要なら」


「そうか」


「でも、断ったら相手が怒るかもしれない」


「怒らせておけ」


「昨日と同じ」


「必要なことを言って怒る者まで面倒を見るな」


「でも、心配してくれてる」


「なら理由を言え」


「今は続ける。負荷二で渡す」


「それでいい」


「簡単に言う」


「難しく言えばできるのか」


「できない」


「なら簡単に言え」


 アリシアは煮込みを一口食べた。


 麦が汁を吸い、少し熱かった。


「おじいちゃんは、手伝うって言われて断ったことある?」


「毎日ある」


「誰に?」


「近所の者に」


「どうして?」


「任せるより自分でやった方が早い時がある」


「それ、しがみついてない?」


 祖父の手が一瞬止まった。


「時々はな」


「認めた」


「全部が正しいとは言ってない」


「どうやって分かる?」


「翌日に腰が痛ければ、だいたい間違ってる」


「遅い」


「畑は戦場より待ってくれる」


「でも、作物は待たない」


「妙なところで返すな」


 祖父は少し考え、椀を置いた。


「断るなら、何を任せるか言え」


「何を?」


「全部断るな。畑を任せるのは嫌でも、水運びなら頼む。収穫は自分でやりたくても、籠を運ぶのは任せる」


「中央は続ける。でも、後方を見て」


「そうだ」


「判断は私。でも、情報整理をして」


「そうだ」


「それでも苦しくなったら渡す」


「なら、断ってるというより分けてるだけだ」


 アリシアは少し目を開いた。


「断るのに、分ける?」


「全部渡せと言われて、全部は渡さない。だが一部は任せる。そういうことだろ」


「うん」


「なら、断る相手も仕事が残る」


「拒まれた感じが少ない?」


「知らん」


「考えて」


「人の気分までは分からん」


「おじいちゃん、言い方で怒らせそう」


「必要なら怒らせる」


「そればっかり」


「お前は怒らせないことを優先しすぎだ」


 祖父の言葉に、アリシアは少し黙った。


 嫌われたくない。


 怖がられたくない。


 面倒だと思われたくない。


 だから、相手の言葉をそのまま受け入れた方が楽な時がある。


 けれど。


 それで危険になるなら。


 その優しさは、六人を守らない。


「断る時、相手の顔を見る?」


「見られるなら見ろ」


「怖い」


「下を見ても言葉が届くなら、それでもいい」


「無理に見る必要ない?」


「戦場で礼儀作法を始めるな」


 祖父は自分の椀を持ち上げた。


「ただし、断った後に周りの声を聞かなくなるな」


「どうして?」


「一度断ったからといって、次も正しいとは限らん」


「また提案されたら?」


「また聞け」


「何回も?」


「必要なら」


「面倒」


「判断する役目を選んだんだろ」


「選ばれた」


「なら同じだ」


 アリシアは黒パンをちぎり、煮込みへ浸した。


「断った後に失敗したら?」


「見直せ」


「怒られたら?」


「聞け」


「自分が悪かったら?」


「謝れ」


「それだけ?」


「他に何がある」


 簡単だった。


 でも。


 簡単な言葉にすることで、逃げ道がなくなる。


 断る。


 失敗するかもしれない。


 見直す。


 必要なら謝る。


 それでも、必要な時はまた断る。


「今日は断るなら、何を任せるか言う」


「そうしろ」


「手放す条件も言う」


「そうしろ」


「怒られても聞く」


「食え」


「今、大事な話」


「冷める方が大事だ」


 アリシアは少し笑い、煮込みを口へ運んだ。


 ◇


 学園へ向かう道には、朝の陽射しが斜めに差し込んでいた。


 森の隙間から見える空は昨日より青く、道端の草には露が細かく光っている。前を歩く生徒たちは、昨日の訓練について話しながら、時折身振りを交えて中央交代の流れを再現していた。


「暗所で闇に変えなかったの、面白かったよな」


「火が続ける理由を言ったからだろ」


「今日は交代拒否らしい」


「拒否って危なくない?」


「中央が意地張ったら終わりじゃん」


「だから見分ける訓練なんだろ」


「誰が最初かな」


「レオじゃない? 断りそう」


「ミリアも断りそう」


「闇は断れなさそう」


 最後の言葉に、アリシアの足が少しだけ止まりかけた。


 断れなさそう。


 たぶん、今までの自分を見ればそう思う。


 人前で強い声を出せない。


 相手の言葉を遮れない。


 必要でも、頼みごとをするまで時間がかかる。


「予想通りにしなくていい」


 ノアが足元で言った。


「うん」


「断れなくても失敗ではない」


「必要なら断る」


「ええ」


「でも、断れなさそうって思われてる」


「それで?」


「少し悔しい」


「では、その悔しさで無理に断る?」


「しない」


「良い返事」


「でも、必要な時は言いたい」


「それで十分」


 校舎へ入ると、廊下の掲示板には今日の演習見学人数を制限する紙が貼られていた。昨日までの訓練が注目を集め、希望者が増えすぎたらしい。


「第一戦術演習室見学、戦術科優先」


「また埋まったって」


「今日は拒否条件だぞ」


「絶対見たい」


 生徒たちの声が重なる。


 アリシアは少し肩を固くした。


 見られる。


 断るところを。


 言えなかったところも。


 間違えたところも。


「今日は何を見せる日?」


 ノアが尋ねる。


「断る日」


「違う」


 アリシアは少し考えた。


「判断する日」


「そう」


「断らないかもしれない」


「必要がなければね」


 教室へ入ると、メリルはすでに席へ座っていた。


「おはよう、アリシア」


「おはよう」


「今日は顔が固い」


「断るから」


「誰を?」


「交代提案」


「アリシアが?」


「必要なら」


 メリルは少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。


「怖い?」


「うん」


「断ったら、相手が傷つくと思う?」


「少し」


「心配してくれたのに、いらないって言うみたいで」


「うん」


「でも、本当は違う?」


「今は全部いらない。でも、補助は欲しいかもしれない」


「全部いらない?」


「交代はしない。でも、後方は見てほしいとか」


「じゃあ、『あなたはいらない』じゃなくて、『今はその助け方じゃない』ってこと?」


 アリシアはゆっくり頷いた。


「それ」


「言えそう?」


「長い」


「短くすると?」


「今は続ける。後方を見て。負荷二で渡す」


「いいね」


「でも、相手がまだ代わった方がいいって言ったら?」


「もう一度理由を聞く?」


「うん」


「それでも違ったら?」


「みんなで決める」


 メリルは机の上の紙へ、指で小さく三つの丸を描いた。


「断る。任せる。渡す条件」


「うん」


「三つ一緒」


「うん」


「断るだけじゃないんだね」


「ノアとおじいちゃんも言った」


「二人とも似てるね」


「言うと怒る」


「どっちが?」


「おじいちゃん」


「ノアさんは?」


「怒らない。あとでずっと言う」


「そっちの方が大変そう」


 アリシアは少し笑った。


 ◇


 午前の戦術理論では、教師が黒板へ二つの言葉を書いた。


『交代提案』


『継続拒否』


 その下へ、一本の線で結ぶ。


「昨日まで、皆さんは交代を提案された側が受け入れる場合を中心に見ました。しかし、現場では提案が必ず正しいとは限りません」


 教室内が静かになる。


「中央役が自分の状態を最も把握している場合もあります。周囲から見れば苦しそうでも、本人はまだ余裕がある。あるいは、交代そのものが戦況を悪化させる場合もある」


 黒板へ項目が増える。


『拒否理由』


『必要補助』


『再提案条件』


「拒否する時は、この三つを示してください」


 アリシアは筆を動かした。


『今は渡さない』


『理由』


『何を任せる』


『何が起きたら渡す』


「例を挙げます」


 教師は黒板へ書く。


『交代提案:右側の指示遅延。セレナへ交代』


『拒否:今は継続。右情報だけセレナへ委任。次の遅延三秒で交代』


「これは必要な継続です」


 次に別の例を書く。


『交代提案:判断負荷二。ルシアン確認済み』


『拒否:まだできる。最後までやりたい』


「これは?」


 教室の前方から声が上がる。


「危険なしがみつき」


「なぜ?」


「負荷二を否定する根拠がない」


「補助も、次の条件もない」


「その通りです」


 教師は『まだできる』という言葉へ線を引いた。


「この言葉は便利です。本人がそう感じていることは事実かもしれません。しかし、戦術的な根拠にはなりません」


 アリシアは昨日のレオを思い出す。


 暗所で「まだいける」と言った。


 けれど、その後に理由を伝えた。


 全員の情報分担ができている。


 中央を変えると情報の流れを作り直す必要がある。


 だから継続が認められた。


「では、中央役が正しい理由を示した場合、周囲は必ず従うべきでしょうか」


 教師が尋ねる。


 フィンが手を挙げる。


「その理由が正しいか確認する」


「誰が?」


「一人じゃなくて、複数」


「良いでしょう」


 黒板へさらに書かれる。


『本人申告』


『状態観察』


『戦況』


『班の同意』


「拒否もまた、中央役一人の所有物ではありません」


 昨日の言葉とつながる。


 中央は所有物ではない。


 だから、渡すかどうかも一人で決め切らない。


「拒否した後、もう一度交代提案を受けた場合は?」


 教師が視線を巡らせる。


 アリシアは少し迷ってから手を挙げた。


「また理由を聞く」


「自分は一度断ったのに?」


「状況が変わってるかもしれない」


「それでも断りたい場合は?」


「もう一度、理由と条件を言う」


「何度まで?」


 教室の中に小さな笑いが起こる。


 アリシアは困った。


「危険になるまで?」


「危険になる前に決めなさい」


 教師も少しだけ口元を緩める。


「回数で決めるのではありません。状況が変化したか。新しい情報があるか。負荷が上がったか。そこを見ます」


 黒板の端へ、最後の言葉が書かれた。


『拒否した判断も更新する』


「一度断ったから、次も断る。その考えが最も危険です」


 アリシアは強く書き留めた。


『断った自分を守らない』


『班を守る』


「アリシアさん」


「はい」


「交代提案を断った直後、敵が追加で三体出た。どうしますか」


「もう一度、自分の状態と配置を見る」


「断ったことは?」


「関係ない」


「感情は?」


「悔しいかもしれない」


「何が」


「さっき断ったのに、すぐ渡すこと」


「それで?」


「でも、必要なら渡す」


 教師は頷いた。


「良いでしょう。拒否は約束ではありません。継続条件が崩れたら、すぐ撤回してください」


 教室の空気が少し引き締まる。


 断ることは、強さの証明ではない。


 渡さないと決めた自分を守るものでもない。


 その時だけの判断。


 次の瞬間には変えていい。


 ◇


 昼休み、六人は中庭の石卓へ集まった。


 空には薄い雲が流れていたが、陽射しは暖かい。芝生の水気はほとんど乾き、石卓の周りには見学の話をする生徒たちが遠巻きに立っていた。


 セレナが教官から渡された紙を開く。


『初期中央:ミリア』


『交代提案拒否:最低一回』


『危険な拒否は減点』


「最低一回」


 ミリアの声が少し低くなる。


「断らないといけない?」


 レオが紙を覗き込む。


「訓練だから、一度は必要なんだろ」


「でも、必要じゃない時に断ったら変じゃない?」


 ミリアが言う。


「教官が拒否条件を作ると思います」


 セレナが答える。


「初期中央はミリア」


 アリシアはミリアを見る。


「怖い?」


「うん」


 ミリアは珍しく、すぐに笑わなかった。


「私は、前へ出たくなる時がある。中央に残れって言われたこともある。だから、続けたいって言ったら、本当に必要なのか、自分でも分からなくなりそう」


「どうする?」


 フィンが尋ねる。


「みんなに理由を聞いてほしい」


「何を?」


「私が続けたい理由」


「自分で言うんじゃないの?」


「言う。でも、変だったら止めて」


 セレナが紙へ書く。


『ミリアの拒否確認』


『地形情報が継続して必要か』


『防御維持が移譲困難か』


『本人負荷』


『前へ出たい気持ちとの混同』


「前へ出たい気持ちとの混同」


 ミリアが苦笑する。


「書かれると恥ずかしい」


「重要です」


「分かってる」


 ルシアンが穏やかに尋ねる。


「拒否する時、何を補助してほしいですか」


「情報整理はセレナ。後方はアリシア。負荷確認はルシアン。前方の速い敵はレオ。遠距離と音はフィン」


「全部」


 レオが言う。


「中央ってそういう役目でしょ」


「正しい!」


「でも、全部任せたらミリアは何するんだ?」


「土と全体判断」


「なら大丈夫か」


 フィンが果物を一口食べてから言った。


「手放す条件も先に決めた方がいい」


「負荷二」


「他」


「土壁を二枚以上同時維持して、指示が遅れたら」


「他」


「床情報がなくなって、別の人の得意へ変わったら」


「良いと思います」


 セレナが書き留める。


「交代提案は誰が最初にする?」


「固定しない」


 アリシアが言う。


「どうして?」


 ミリアが尋ねる。


「固定すると、その人の意見だけ待つかもしれない」


「誰でも言う?」


「うん。でも理由を言う」


 レオが腕を組む。


「俺が『ミリア、危ないから代われ!』って言う」


「理由がない」


「見れば分かる時もあるだろ!」


「訓練では言う」


「セレナみたいになってきたな」


「少し」


 アリシアが答えると、セレナは眼鏡を直した。


「正確性の向上は歓迎します」


「褒められた?」


「たぶん」


 少し笑いが起こる。


 その後、ミリアはもう一度真剣な顔になった。


「私が断った時、みんな怒らない?」


「必要なら怒らない」


 アリシアが言う。


「必要じゃなかったら?」


「止める」


「怒る?」


「少し」


「正直」


「でも、後で話す」


 ミリアは小さく頷いた。


「私も、断ったことを守ろうとしない」


「うん」


「条件が崩れたら渡す」


「うん」


「怖いけど」


「一緒」


 ◇


 午後の第一戦術演習室には、今日も多くの見学者が集まっていた。


 見学席の後方には教師たちも並び、戦術科の上級生たちは紙を広げて、誰がどの時点で交代を提案するか予想している。


「初期中央は土」


「拒否しそう」


「でも土は前へ出たがるんだろ」


「そこを見られるんじゃない?」


「危険な拒否は減点って、かなり厳しいな」


「断ればいい訓練じゃないんだろ」


 ミリアは中央位置へ立ち、足元の床へ一度手を触れた。


 土の感触を確かめる。


 アリシアは後方へ立ち、ノアと一緒に全体を見た。


「ミリア」


「何?」


「今の状態」


「頭痛なし。腕問題なし。魔力負荷なし。緊張、大きい」


「続けたい気持ち」


「まだ分からない」


「分かった」


 教官が黒板へ条件を書く。


『多層防衛』


『中央標柱一基』


『床下経路あり』


『上方経路あり』


『敵数未公開』


『標柱損傷三回で終了』


『制限時間十八分』


「中央交代条件は?」


 セレナが尋ねる。


「自分たちで決めろ」


「拒否は最低一回」


「必要ならな」


「必要でない拒否は?」


「減点」


 ミリアが小さく息を吐く。


「配置」


「正面レオ。右セレナ。左フィン。中央後方ルシアン。後方アリシア。中央、私」


「拒否条件」


 教官が尋ねる。


「地形情報と土壁維持が継続して必要な場合。補助で負荷を下げられる場合。手放す条件は、負荷二、土壁二枚以上で指示遅延、床情報が不要になった時」


「よし」


 教官が手を上げる。


「開始」


 ◇


 開始直後、床下から低い振動が伝わった。


「床下、正面三!」


 ミリアが報告する。


「上方、音なし!」


 フィン。


「後方、影反応なし!」


 アリシア。


「正面、出る!」


 床が割れ、小型魔導獣三体が飛び出した。


「レオ、正面二! セレナ一体水拘束! フィンは上方継続! アリシア後方維持! ルシアン状態確認!」


「了解!」


 レオの火が二体を止め、セレナの水が一体の脚を絡め取る。


「正面処理!」


 最初は順調だった。


 次に右床下二。


 左上方一。


 ミリアは床から伝わる振動を読み、敵が出る前に指示を出した。


「右床下二、三秒後! セレナ右へ壁沿い水膜! 左上方一、フィン風矢準備! レオ正面維持!」


 敵が出た瞬間に、水膜と風矢が当たる。


 見学席から小さな拍手が起こった。


「土、早い」


「床下情報があると強いな」


 ミリアは中央で安定している。


 アリシアは後方から、その背中を見ていた。


 今は。


 交代不要。


 ◇


 三分後。


 床下の敵が一気に増えた。


「正面床下四! 右二! 左一!」


 ミリアの声が強くなる。


「土壁、正面一枚! 右一枚! レオ正面二を処理、残り二遅延! セレナ右二を水で外へ! フィン左一! アリシア後方と上方補助!」


「了解!」


 二枚の土壁が同時に立ち上がる。


 床が揺れる。


 ミリアの呼吸が少し速くなる。


「負荷一・三!」


 ルシアンが告げる。


「継続可能!」


 正面壁へ四体がぶつかる。


 右壁には二体。


 ミリアは二枚の壁を維持しながら、全体を見ようとする。


「右壁、ひび!」


「正面二体抜ける!」


「左処理!」


「後方上方一!」


 情報が重なる。


 ミリアの指示が一瞬止まった。


 二秒。


「ミリア」


 セレナが声を上げる。


「土壁二枚、指示遅延。私へ交代を提案します」


 約束していた条件。


 見学席が静かになる。


 最低一回の拒否。


 ここで断るか。


 ミリアは強く息を吸った。


「今は渡さない!」


 声が演習室へ響いた。


 一瞬、全員の動きが止まりかける。


 ミリアは続けた。


「床下七体、今も追加振動あり。土情報が必要! セレナは右情報整理! アリシアは後方と上方! レオは正面処理! 負荷二で渡す。次の指示遅延三秒でも再提案して!」


「受領!」


 セレナがすぐに答える。


「右二、壁ひび。水で外側へ誘導可能!」


「実行!」


「後方上方一、距離八歩!」


 アリシアが報告する。


「フィン、上方へ風! アリシアは影一秒だけ!」


「了解!」


 ミリアは断った。


 でも、一人で抱えなかった。


 右情報をセレナへ渡した。


 後方と上方をアリシアへ任せた。


 負荷二。


 次の遅延三秒。


 出口も伝えた。


「正面二処理!」


「右二、外側へ誘導!」


「上方一停止!」


「負荷一・五!」


 ルシアンの声。


 ミリアは中央を続ける。


 土壁二枚はまだ維持中。


 だが、情報が整理されたことで指示は戻った。


「正面壁、二秒後解除! 右壁維持! レオ、残り二を一体ずつ! セレナは右処理せず距離維持! フィン上方確認継続!」


 動きが整う。


 見学席から、遅れて大きなざわめきが起きた。


「断った!」


「理由も条件も言った!」


「交代しないまま戻した!」


 アリシアの胸へ、少し熱いものが広がる。


 ミリアは怖がっていた。


 それでも言えた。


 ただし、断ったことを守るためではない。


 今は床情報が必要だったから。


 ◇


 最初の波を処理した後、ミリアの負荷は一・二まで下がった。


「状態」


 ルシアンが確認する。


「魔力一・二。腕問題なし。判断負荷一。継続可能」


「拒否判断を支持します」


 セレナが言う。


「理由」


 教官が横から問う。


 戦闘中だが、短く答える訓練なのだろう。


「床下追加情報が継続。補助で指示を回復。負荷二未満。手放す条件を明示しました」


「続けろ」


 ミリアは頷いた。


 ◇


 次の波は上方から来た。


 天井近くの術式が光り、小型魔導獣六体が左右へ分かれて降下する。


「上方六!」


 フィンが報告する。


「床下振動、なし!」


 ミリアが答える。


 状況が変わった。


 床情報はもう必要ない。


 上方。


 風。


 フィンの得意。


「フィン、中央受け取れる?」


 ミリアがすぐに尋ねる。


「受け取れる!」


「現状、上方六、左右三ずつ。床下振動なし。私負荷一・二。次の危険は上方追加。中央をフィンへ移譲!」


「受領! レオ左上二、セレナ右上二、ミリア標柱上へ土屋根、アリシア後方上空を影確認、ルシアン状態!」


 交代した。


 先ほど断った。


 でも、今は渡した。


 見学席から驚きの声が上がる。


「すぐ渡した!」


「さっき断ったのに」


「条件が変わったからだ!」


 ミリアは中央を離れ、標柱の上へ土の屋根を作る。


 その表情には、少しだけ寂しさがあった。


 でも、動きは止まっていない。


 アリシアは後方から、その横顔を見た。


 断った自分を守らなかった。


 条件が崩れたから渡した。


 それが今日の訓練。


 ◇


 フィンは上方六体を処理した後も中央を続けた。


 音と風の流れが多く、彼の情報が有効だったからだ。


「上方残り二!」


「右壁沿い音一、仮説!」


「後方なし!」


「床下なし!」


 フィンは短く指示を出す。


「上方二、レオとセレナで一体ずつ。右仮説はミリア土壁準備、アリシア影確認。ルシアン全員状態!」


「了解!」


 アリシアが影を右壁へ伸ばす。


「右一体確定。距離九歩。負荷一未満」


「ミリア、壁で進路変更!」


「了解!」


 土壁が出る。


 その時、正面床下へ新たな振動が走った。


「床下正面五!」


 ミリアの声。


「追加、左右にも!」


 床。


 再びミリアの得意。


 フィンはすぐに判断する。


「ミリア、中央へ戻れる?」


「戻れる!」


「現状、正面床下五、左右にも振動、上方残り二処理中。僕負荷一。次の危険は床下多方向。中央交代!」


「受領! レオ正面二、セレナ右床下、水膜! フィン上方残り! アリシア左床下を影で出現確認! ルシアン状態!」


 ミリアへ戻る。


 返却ではない。


 再選択。


 昨日の言葉がつながっている。


 ◇


 床下から敵が一斉に飛び出した。


 正面五。


 右三。


 左二。


 上方残り二。


 合計十二。


 ミリアは中央で指示を出しながら、正面へ土壁を一枚、右へ低い土壁を一枚立てる。


「負荷一・六!」


 ルシアンが告げる。


「継続!」


「左二、影確認! 一体速い!」


 アリシアが報告する。


「アリシア、速い一を拘束! 遅い一はルシアン光! フィン上方処理後、正面右へ風! セレナ右三を水でまとめる!」


 指示は出ている。


 でも、土壁二枚。


 負荷一・六。


 敵十二。


 中央の声が少し強くなる。


「正面壁、ひび!」


「右三まとまった!」


「左影一、負荷一!」


「上方一処理、残り一!」


 レオが正面で叫ぶ。


「ミリア、正面大型反応!」


 小型の後方から、大型魔導獣が一体現れた。


 標柱まで十二歩。


 土壁二枚。


 負荷一・六。


 大型追加。


 ミリアの顔が強張る。


 一秒。


 二秒。


「ミリア」


 アリシアが呼ぶ。


「大型追加。土壁二枚。負荷一・六。私へ交代を提案」


 なぜ自分なのか。


 後方と全体の情報を最も持っている。


 影で大型の足を一時拘束できる。


 今、ミリアが土壁維持へ集中するなら、中央を外した方がいい。


 ミリアは唇を噛んだ。


「今は――」


 断ろうとした。


 その声が途中で止まる。


 アリシアは胸が強く鳴るのを感じた。


 ミリアは続けたい。


 さっき断って成功した。


 もう一度できると思っている。


 でも。


「理由」


 アリシアが言う。


 少し厳しい声になった。


 ミリアは床の振動へ意識を向ける。


 大型。


 小型。


 壁二枚。


 負荷一・六。


 指示遅延二秒。


「土情報が……必要」


「私が中央でも、土情報はミリアが出せる」


 沈黙。


 見学席も静かになる。


「補助で続けられる?」


 ルシアンが尋ねる。


「負荷、上昇中。一・八」


 ミリアは目を閉じかけた。


 断る理由が崩れている。


 床情報は必要。


 でも、中央でなければ出せないわけではない。


 土壁二枚を維持しながら、全体判断まで続ける方が危険。


 先ほどと違う。


「……アリシア、受け取れる?」


「受け取れる」


「現状、正面大型一、小型正面五、右三、左二、上方一。土壁正面右維持。私負荷一・八。次の危険は大型突破。中央をアリシアへ移譲!」


「受領! ミリアは土壁と床情報だけ! レオ大型正面、セレナ右三、フィン上方処理後に正面風! ルシアン左一光維持、アリシア左影一継続!」


 中央が移る。


 ミリアはすぐに土壁へ集中した。


「正面壁、あと四秒!」


「レオ、大型右脚へ火! フィン、正面小型五を風で左右へ分ける! セレナ、右三のうち一体処理、二体遅延! ルシアン、ミリア負荷!」


「ミリア一・八維持。悪化なし!」


「ミリア、正面壁二秒後解除して右壁だけ残す!」


「了解!」


 正面壁が消える。


 小型五体と大型一体が前へ出る。


 だが、フィンの風が小型を左右へ分け、レオの火が大型の右脚を焼く。


「大型、速度低下!」


「右三、一処理、二遅延!」


「左、影一、光一維持!」


「上方処理!」


 アリシアは全体を見る。


 情報。


 負荷。


 次。


「ミリア、床下追加」


「なし!」


「フィン、遠距離」


「正面後方に二、仮説!」


「現時点、大型優先。追加二は仮説のまま距離確認。レオ大型継続、セレナ水を右から大型左脚へ一部。ミリア右壁維持。左二は処理せず遅延!」


 六人の声がつながる。


 ミリアは中央ではない。


 でも、土情報を出している。


 壁を維持している。


 役割は消えていない。


 ◇


 大型を処理した後、戦況は一度落ち着いた。


 アリシアの判断負荷は一。


 影負荷一未満。


 ミリアの負荷は一・三まで下がった。


「中央へ戻れる?」


 ミリアが尋ねた。


 声には、少しだけ期待があった。


 アリシアは状況を見る。


 床下振動なし。


 正面遠距離に仮説二。


 上方なし。


 今は、アリシアが全体情報を持っている。


 戻す必要はない。


「今は戻さない」


 胸が痛む。


 でも、言う。


「理由。床下反応なし。私が全体情報を持ってる。ミリアは負荷一・三。次に床下が増えたら再選択する」


 ミリアは一瞬だけ寂しそうな顔をした。


 けれど、頷く。


「了解。右と床を見る」


「お願い」


 断る。


 今度はアリシアが。


 ミリアの復帰申告を断った。


 でも。


 役割を残す。


 条件を言う。


 次に床下が増えたら再選択。


 見学席から小さなどよめきが起こる。


「今度は闇が断った」


「理由も言った」


「土、少し悔しそう」


「でも動いてる」


 アリシアは聞こえても振り返らない。


 ミリアが寂しいことは分かる。


 昨日の自分と同じ。


 だからこそ。


 後で話す。


 今は戦う。


 ◇


 残り五分。


 敵は正面遠距離二体。


 右上方一。


 床下反応なし。


 アリシアは中央を続ける。


「正面二、距離十四歩!」


「右上一!」


「床下なし!」


「後方なし!」


「現時点、正面二をフィン遅延。右上はセレナ水。レオは標柱正面。ミリア床確認継続。ルシアン状態!」


 指示は安定していた。


 だが、右上方の敵が突然二体へ増える。


「右上追加一!」


「セレナ一人で可能?」


「一体拘束、一体処理に三秒!」


「レオ、右上へ火線一回。正面はフィン遅延継続!」


「了解!」


 火線が右上へ走る。


 その瞬間、床下へ大きな振動が来た。


「床下!」


 ミリアの声。


「中央正面三、右二、左二! 大型反応一!」


 状況が変わる。


 床下多方向。


 大型。


 ミリアの得意。


 アリシアは一瞬も迷わなかった。


「ミリア、中央受け取れる?」


「受け取れる!」


「現状、床下正面三、右二、左二、大型一。右上二処理中。私負荷一。次の危険は床下一斉。中央をミリアへ移譲!」


「受領! 全員、床から半歩離れて! レオ正面、セレナ右、フィン左、アリシア後方と大型影確認、ルシアン状態!」


 再選択。


 アリシアは中央を渡し、後方へ移る。


 先ほど戻さなかった。


 でも、条件が来たから渡した。


 ミリアの顔に、安堵と緊張が同時に浮かぶ。


 床下から敵が飛び出す。


「正面三、右二、左二! 大型、正面後方!」


「土壁中央一枚! 左右は壁を作らず、セレナとフィンで外へ! レオ正面三! アリシア大型右脚へ影一秒!」


「了解!」


 アリシアは影を伸ばす。


「大型右脚拘束、負荷一!」


「一秒で解除!」


「了解!」


 ミリアの指示は速い。


 先ほど中央を渡したことで負荷が下がり、今は必要な場面で再び選ばれている。


「正面三処理!」


「右二外へ!」


「左二遅延!」


「大型右脚停止!」


「アリシア解除!」


「解除!」


 レオの火が大型へ入る。


 フィンの風が左二を外側へ回す。


 セレナの水が右二を拘束する。


「残り二分!」


 術式の声。


「大型優先! 小型は距離維持!」


 ミリアが中央から土壁を前へ押し、大型の進路をずらす。


「レオ、左脚! セレナ水を右脚! フィン小型全部を外周へ! アリシア後方確認! ルシアン全員負荷!」


「ミリア一・五、レオ一・三、アリシア一、他一未満!」


「継続!」


 大型の動きが止まる。


「大型停止!」


「残り一分!」


「全員、処理より距離! 標柱周囲十歩を空ける!」


 六人が動く。


 小型は残っている。


 でも、倒す必要はない。


 標柱から遠ざける。


「右二、十二歩!」


「左二、十一歩!」


「正面残り一、九歩!」


「レオ、正面一を火で後退!」


「了解!」


 炎が走り、最後の一体が標柱から離れる。


「終了」


 教官の声が響いた。


 ◇


 演習室を満たした拍手は、昨日までよりも少し遅れて大きくなった。


 派手な勝利ではなかった。


 拒否。


 撤回。


 再選択。


 その一つ一つを、見学者たちは確かめるように見ていた。


「最初の拒否は成功だった」


「二回目は断りかけて渡した」


「闇も土の復帰を断った」


「でも床下が増えたらすぐ返した」


「断ったことにこだわってなかった」


「手放す条件が本当に使われてた」


 アリシアは後方からミリアを見た。


 ミリアは中央位置に立ったまま、しばらく動かなかった。


 勝った。


 でも。


 最初に断った時。


 二回目に渡した時。


 復帰を断られた時。


 再び選ばれた時。


 その全部が胸に残っているのだろう。


「状態報告」


 ミリアが言う。


 声は少し震えていたが、届いた。


「レオ、魔力一・三。疲労軽度!」


「セレナ、魔力一。問題なし!」


「フィン、頭痛なし。風負荷一!」


「ルシアン、光負荷一未満!」


「アリシア、影負荷一。冷え少し。判断負荷一!」


「ミリア、魔力一・五。腕の重さ少し。頭痛なし!」


 教官が頷く。


「四分休憩」


 ◇


 休憩へ入ると、ミリアはその場へ座り込んだ。


 レオがすぐ隣へ座る。


「最初の断り、すごかった!」


「怖かった」


「声大きかったぞ!」


「そこ?」


「届いた!」


 ミリアは少し笑ったが、すぐに表情を戻した。


「二回目、断りたかった」


「分かった」


 アリシアが近くへ座る。


「どうして?」


「さっき断って続けられたから、次もできる気がした」


「うん」


「それに、渡したら失敗みたいに思った」


 六人が静かになる。


「断る訓練だったから?」


 フィンが尋ねる。


「うん。最低一回って言われてたし。最初にできたから、そのまま最後まで持ちたくなった」


「でも渡した」


 ルシアンが言う。


「アリシアに理由を聞かれて、言えなかった」


「床情報は必要だった」


「うん。でも、中央じゃなくても言えた」


「土壁二枚もあった」


「負荷も上がってた」


 ミリアは膝の上で手を握った。


「悔しかった」


「渡したこと?」


「断れなかったこと」


 アリシアは少し考え、静かに言う。


「断れなかったんじゃない」


「違う?」


「断らないって決めた」


「でも」


「条件が崩れたから」


 ミリアはアリシアを見る。


「それ、成功?」


「たぶん」


「たぶん?」


「私も分からない。でも、危なくなる前に渡した」


「うん」


「断った自分を守らなかった」


 ミリアの目が少し潤んだ。


 泣くほどではない。


 でも、胸の奥へ強く入ったのだろう。


「アリシアに戻したいって言った時、断られて寂しかった」


「うん」


「怒った」


「うん」


「でも、理由は分かった」


「床下がなかった」


「うん」


「全体情報は私が持ってた」


「うん」


「でも、戻りたかった」


「分かる」


 昨日のアリシアと同じ。


 返してほしい。


 必要でなくても。


 少しだけ。


「後で言うって、こういうこと?」


 ミリアが尋ねる。


「うん」


「戻りたかった。寂しかった。でも、判断は責めない」


「うん」


「じゃあ言う。寂しかった」


「分かった」


「次は、理由をもう少し早く言って」


「言った」


「もっと優しく」


「戦闘中」


「分かってるけど」


 少し笑いが起こる。


 レオが頷く。


「優しく言ってる間に敵来るからな」


「レオはいつも大きすぎる」


「今は俺関係ないだろ!」


 緊張が少しほどけた。


 セレナが紙を見ながら言う。


「今日、重要だったのは拒否回数ではありません」


「何?」


 ミリアが尋ねる。


「拒否条件の更新です」


「最初は続けた」


「補助で負荷を下げられたからです」


「二回目は渡した」


「条件が崩れたからです」


「戻りたいって言って断られた」


「床下情報が消え、アリシアが全体情報を持っていたからです」


「最後は戻った」


「床下多方向が再発したからです」


 ミリアは一つずつ聞きながら、ゆっくり頷いた。


「全部、同じじゃない」


「はい」


「最初に断ったから、次も断るじゃない」


「はい」


「一回渡したから、戻れないでもない」


「その通りです」


 アリシアは胸の中で、その言葉を繰り返した。


 一度断ったから、次も断る。


 一度渡したから、戻れない。


 一度返さなかったから、最後まで返さない。


 どれも違う。


 判断は、その時ごとに更新する。


 ◇


 振り返りでは、黒板へ交代と拒否の流れが書かれた。


『初期中央:ミリア』


『交代提案:セレナ』


『拒否:ミリア』


『ミリア→フィン』


『フィン→ミリア』


『交代提案:アリシア』


『受諾:ミリア→アリシア』


『復帰申告:ミリア』


『拒否:アリシア』


『アリシア→ミリア』


 見学席の生徒たちは、いつも以上に静かだった。


 教官はまず、最初の拒否を指した。


「ミリア。なぜ断った」


「床下七体。追加振動あり。土情報が必要でした。補助で情報を分ければ続けられると判断しました」


「何を任せた」


「右情報をセレナ。後方と上方をアリシア。前方処理をレオ。負荷確認をルシアン」


「手放す条件」


「負荷二。次の指示遅延三秒」


「結果」


「指示を戻せました。負荷は一・五から一・二へ下がりました」


「適切な拒否だ」


 見学席から小さなどよめきが起こる。


 次に、二回目の交代提案。


「アリシア。なぜ提案した」


「大型追加。土壁二枚。ミリア負荷一・六から一・八へ上昇。指示遅延二秒。中央でなくても土情報は出せると思った」


「ミリア。なぜ最初に断ろうとした」


 ミリアは少し黙った。


「最初の拒否が成功したからです」


「それは戦術理由か」


「違います」


「他」


「最後まで中央を持ちたかった」


「それは」


「感情です」


「他」


「床情報が必要だと思った」


「中央でなければ出せなかったか」


「出せました」


「なら」


「渡すべきでした」


 教官は頷く。


「危険なしがみつきになる一歩手前だった」


 演習室が静かになる。


「しかし、理由を問われて見直した。条件が崩れたことを認め、渡した。そこは評価する」


 ミリアは深く息を吐いた。


「はい」


「拒否を撤回することは失敗か」


「違います」


「なぜ」


「判断を更新したからです」


「良い」


 黒板へ大きく書かれる。


『拒否の撤回は敗北ではない』


 アリシアは強く書き留めた。


 次に、アリシアの拒否。


「ミリアの復帰申告を断ったな」


「はい」


「理由」


「床下反応なし。私が全体情報を持っていた。ミリア負荷一・三。次に床下が増えたら再選択すると伝えた」


「感情は」


「言いにくかった」


「なぜ」


「ミリアが戻りたそうだったから」


「それで」


「でも、今は戻さないって言った」


「ミリア」


「寂しかったです」


「判断は間違いだったか」


「違います」


「なぜ」


「その後も床下が来るまで、アリシアの中央で安定していました」


「では、感情は」


「後で言いました」


「良い」


 教官は黒板へさらに書く。


『拒否された側の感情も残る』


「正しい拒否でも、相手を寂しくさせることはある」


 アリシアはミリアを見る。


 ミリアもこちらを見ていた。


「だからといって、必要な拒否をやめるな。ただし、終了後に置き直せ」


「はい」


「最後」


 教官はアリシアからミリアへの交代を指す。


「なぜ戻した」


「床下正面三、右二、左二、大型一。ミリアの土情報が必要だった」


「一度拒否したのに?」


「状況が変わったから」


「良い」


 黒板の中央へ、本日の主題が書かれた。


『断る声には、手放す条件を置く』


『一度断った判断も更新する』


『拒否した自分を守らず、班を守る』


「これが今日の主題だ」


 教官は六人を見渡す。


「拒否できることを強さだと思うな」


 レオが少し姿勢を正す。


「断る者が強いのではない。必要な時に断り、必要な時に撤回できる者が強い」


「はい」


「次回」


 黒板へ新しい題が書かれる。


『複数同時提案』


 六人の表情が変わった。


「同時?」


 フィンが尋ねる。


「二人以上から異なる交代提案が出る状況を扱う」


「例えば?」


 セレナが聞く。


「レオは自分へ代われと言う。フィンはセレナへ代われと言う。中央役はどちらを選ぶ」


「それぞれ理由が違う?」


「当然だ」


 アリシアの胸が少し固くなる。


 一人の提案を断るだけでも怖かった。


 次は。


 違う二つの声。


 どちらかを選べば、もう一方を退けることになる。


「全員の意見を聞く時間は?」


「ない場合もある」


 教官は淡々と答えた。


「次は、提案の正しさだけでなく、提案者の見えている範囲も見ろ」


 ◇


 演習室を出ると、廊下には見学を終えた生徒たちが多く残っていた。


「ミリアさん、最初の拒否すごかったです」


「二回目はどうして渡したんですか」


「断ったのに、すぐ変えたら失敗じゃないんですか」


 ミリアは一度、アリシアたちを見る。


 少し怖そう。


 でも、逃げなかった。


「最初は、補助があれば続けられたから断りました」


 声は少し震えている。


「二回目は、土壁を二枚維持して、負荷も上がって、中央じゃなくても床情報を出せるって分かったから渡しました」


「悔しくなかったですか」


「悔しかったです」


 周囲が静かになる。


「断る訓練なのに、渡したから」


「じゃあ失敗?」


「最初はそう思いました。でも、断った自分を守るために続けたら、みんなを危なくするから」


 ミリアは少し息を吸う。


「だから、渡してよかったと思います」


 生徒たちは頷きながら、紙へ書いている。


 別の女子生徒がアリシアへ尋ねた。


「ミリアさんが戻りたいって言った時、断るの怖くなかったですか」


「怖かった」


「怒られると思った?」


「少し」


「でも言えた?」


「今は戻さない。理由と、次に戻す条件を言った」


「ミリアさんは怒りました?」


「少し」


 ミリアが横から答える。


 周囲に笑いが起こった。


「でも、後で話しました」


「正しい判断でも怒るんですか」


「寂しかったから」


 ミリアが言う。


「判断が正しいことと、私が戻りたかったことは別です」


 アリシアは少し驚いた。


 セレナの言葉に似ている。


 でも、ミリアの声だった。


「それでも次も断られたら?」


 女子生徒が尋ねる。


「必要なら」


 ミリアは答えた。


「その時も、後で寂しかったって言います」


 見学していた生徒たちの中から、小さな拍手が起こった。


 ◇


 夕方、教室へ戻ると、メリルは窓際で待っていた。


「おかえり」


「ただいま」


「断った?」


「断った」


「アリシアが?」


「ミリアが最初。私も一回」


「怖かった?」


「かなり」


「どう言ったの?」


「今は戻さない。床下反応なし。私が全体情報を持ってる。次に床下が増えたら戻す」


「ちゃんと言えたね」


「胸、痛かった」


「ミリアさん、寂しそうだった?」


「うん」


「それでも?」


「必要だった」


 メリルは少し考える。


「正しいことを言っても、相手が寂しくなる時ってあるんだね」


「うん」


「じゃあ、どうするの?」


「後で聞く」


「謝る?」


「判断が悪くなかったら、断ったことは謝らない」


「じゃあ何を言う?」


「寂しかったのは分かった」


 メリルは静かに頷いた。


「それ、大事かも」


「うん」


「ミリアさんは、断った後に渡した?」


「うん」


「どうして?」


「最初に断って続けられたから、次も断りたくなった。でも条件が崩れた」


「断ったことを守りたくなった?」


「うん」


「それって、失敗を認めたくないのと似てる?」


 アリシアは少し考えた。


「似てる」


 一度言ったから。


 一度決めたから。


 それを変えると、自分が間違っていたように見える。


 でも。


 戦況は変わる。


 正しかった判断が、次の瞬間も正しいとは限らない。


「アリシアも、次に断ったら変えにくくなりそう?」


「なるかもしれない」


「どうする?」


「断った自分を守らない」


「何を守る?」


「六人」


 メリルは柔らかく笑った。


「いいね」


「次は複数同時提案」


「何それ?」


「二人が違う人へ交代してって言う」


「どっちかを選ぶ?」


「うん」


「もっと怖いね」


「かなり」


「でも今日もできた」


「明日できるとは限らない」


「うん。でも、今日できたことは消えない」


 アリシアはその言葉に、少し目を細めた。


 明日の成功を保証はしない。


 でも、今日できたことは残る。


 役割を渡しても声が消えないように。


 今日の判断も。


 明日になったからといって消えない。


 ◇


 帰宅すると、祖父は薪を割っていた。


 乾いた木が割れる音が庭へ響き、夕方の空気には木屑の匂いが混ざっている。


「断ったか」


 祖父は手を止めずに尋ねた。


「一回」


「失敗したか」


「勝った」


「ならいい」


「でも、ミリアは断った後に渡した」


「そうか」


「失敗?」


「知らん」


「考えて」


「条件が変わったなら正しいだろ」


「簡単」


「お前らは何でも難しくしすぎだ」


 アリシアは薪置き場の近くへしゃがんだ。


「私も、ミリアが戻りたいって言った時に断った」


「理由は」


「床下がなかった。私が全体情報を持ってた」


「ならいい」


「ミリア、寂しそうだった」


「そうか」


「怒った」


「そうか」


「でも判断は責めないって」


「なら話は終わりだ」


「終わらない」


「何が」


「感情が残る」


 祖父は薪割り斧を置き、アリシアを見る。


「残しておけばいい」


「どうして?」


「消そうとするから面倒になる」


「でも、次に影響する」


「次に話せ」


「それでいい?」


「嫌だった。寂しかった。それでも必要だった。全部本当なら、全部言えばいい」


 アリシアは少し驚いた。


「おじいちゃん、今日は分かりやすい」


「薪を割る方が頭が動く」


「朝は?」


「飯を食ってた」


 祖父は再び斧を持つ。


「断った後に、やっぱり渡すのは恥ずかしい?」


「恥ずかしいかもしれん」


「でも?」


「腰を壊すよりましだ」


「また畑」


「お前の訓練より分かりやすい」


「一度断ったから、最後までやるって言ったら?」


「馬鹿だ」


「厳しい」


「道具が壊れそうなら手を離せ。人も同じだ」


「でも、断った時は正しかった」


「その時はな」


「次は違う」


「そうだ」


 アリシアはゆっくり頷いた。


「断った自分を守らない」


「何だそれ」


「今日の言葉」


「なら覚えろ」


「練習帳に書く」


「飯の前に手を洗え」


「今から?」


「薪の粉がついてる」


 アリシアは自分の手を見た。


 しゃがんでいるだけのつもりだったが、指先に木屑がついている。


「いつの間に」


「周りを見ろ」


「今日の訓練みたい」


「何でも訓練につなげるな」


 ◇


 夜、アリシアは机へ練習帳を開いた。


 窓の外には星がいくつか見えている。夜風は弱く、森の音も静かだった。


『中央交代拒否訓練』


『初期中央:ミリア』


『最初の拒否:適切』


『二回目の拒否:撤回』


『アリシアによる復帰拒否』


『最後にミリアを再選択』


 最初の場面を書く。


『セレナから交代提案』


『土壁二枚』


『床下七体、追加振動あり』


『ミリア負荷一・三』


『拒否理由:床情報が必要』


『補助:右情報セレナ、後方上方アリシア』


『手放す条件:負荷二、次の遅延三秒』


『結果:継続成功』


 次に、二回目。


『大型追加』


『土壁二枚』


『負荷一・六から一・八』


『中央でなくても土情報を出せる』


『ミリアは最初、断ろうとした』


『理由:最初の拒否が成功したから。最後まで持ちたかったから』


『戦術理由ではない』


『アリシアが理由を確認』


『ミリアは判断を更新して移譲』


 アリシアは筆を止めた。


「何が一番残った?」


 ノアが机の端から尋ねる。


「ミリアが、断ろうとしてやめたこと」


「なぜ?」


「難しかったから」


「断るより?」


「うん。一回断って成功した後だから」


「成功した自分を守りたくなる?」


「うん」


「あなたもなるでしょうね」


「たぶん」


「では書きなさい」


 アリシアは続けた。


『一度断ったことを、次の判断の理由にしない』


『最初の拒否が正しくても、次も正しいとは限らない』


『撤回は失敗ではない』


『条件が崩れたら渡す』


 次に、自分の拒否。


『ミリア復帰申告』


『床下反応なし』


『アリシアが全体情報を保持』


『ミリア負荷一・三』


『今は戻さない』


『次に床下が増えたら再選択』


『ミリアは寂しかった』


『判断は責めなかった』


『後で感情を話した』


 アリシアは少し考え、今日の題を書く。


『断る声にも、手放す条件を一緒に置いておく』


 その下へ。


『今は渡さない』


『理由』


『何を任せる』


『何が起きたら渡す』


『拒否した後も、提案を聞く』


『断った自分を守らない』


『班を守る』


 ノアが頁を覗き込む。


「今日の点数は?」


「百点」


「理由」


「断れた」


「それだけ?」


「ミリアが寂しそうでも言えた」


「他」


「床下が増えた時は、すぐミリアへ渡した」


「他」


「ミリアが断りかけた時、理由を聞いた」


「他」


「終わった後に寂しかったって聞いた」


「では百一点」


「今日は拒否しない?」


「理由が十分だから」


「基準が戻った」


「現時点」


「やっぱり便利」


 二人は少し笑った。


 最後に次回の題を書く。


『次回:複数同時提案』


『レオはレオを提案するかもしれない』


『フィンは別の人を提案するかもしれない』


『誰が正しいではなく、何が見えているか』


『提案者の位置』


『得意範囲』


『見えていない場所』


『中央は短時間で選ぶ』


 アリシアは筆先を止めた。


「二人から違うことを言われたら、どっちかを断る」


「ええ」


「嫌われる」


「今日も同じ心配ね」


「二人だから増える」


「では三人ならもっと怖い?」


「かなり」


「四人なら?」


「やめて」


「五人全員が違う人を提案したら?」


「戦う前に話し合う」


「時間がないと言われるわよ」


「ノア」


「冗談」


「分かりにくい」


 ノアは机の端で丸くなった。


「明日は、提案の内容だけ見ないこと」


「誰が言ったかも見る?」


「誰が、どこから、何を見て言ったのか」


「レオは前しか見えてないかもしれない」


「フィンは音だけかもしれない」


「セレナは情報が多いけど遅いかもしれない」


「ミリアは床」


「ルシアンは状態」


「アリシアは?」


「誰が困ってるか」


「それだけ?」


「後方と影」


「十分」


 アリシアは練習帳を閉じた。


 ◇


 灯りを消し、寝台へ入った。


 今日。


 ミリアは最初の交代提案を断った。


 ただ続けたいと言ったのではない。


 床下の敵が多い。


 土情報が必要。


 右情報をセレナへ。


 後方と上方をアリシアへ。


 負荷二で渡す。


 次の遅延三秒でも再提案してほしい。


 理由と補助と手放す条件を、一緒に伝えた。


 だから六人は、ミリアを残して支えられた。


 けれど。


 二度目。


 ミリアは最初の成功を守ろうとした。


 断る訓練なのだから。


 さっきできたのだから。


 最後まで持ちたいから。


 それらは、今の戦況とは違う理由だった。


 アリシアが理由を尋ねた。


 ルシアンが負荷を伝えた。


 セレナが情報を整理した。


 そしてミリアは、断るのをやめた。


 渡した。


 その後。


 戻りたいと言ったミリアへ。


 アリシアは、今は戻さないと答えた。


 寂しそうな顔を見た。


 胸が痛んだ。


 それでも理由を言った。


 床下反応がない。


 自分が全体情報を持っている。


 次に床下が増えれば、再びミリアを選ぶ。


 そして本当に床下が増えた時。


 アリシアは迷わずミリアへ渡した。


 一度断ったことを守らなかった。


 一度持った役割へしがみつかなかった。


 必要な者へ、必要な時に渡した。


 断ることは。


 強い声を出すことではない。


 相手を退けることでもない。


 今は続ける。


 その代わり、ここを助けてほしい。


 そして、ここまで来たら渡す。


 その出口を一緒に置くことだった。


 さらに。


 一度断った判断を、次の瞬間も守り続けないこと。


 断った自分を守るのではなく。


 六人を守ること。


 今日、六人が覚えたのは。


 拒否する勇気だけではなかった。


 拒否を撤回する勇気だった。

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