第87話 選ばなかった提案にも、見えていたものは残っている
翌朝、隠れ里の空は薄い灰色に覆われていた。
雲は厚くないものの、陽射しはまだ森の奥まで届かず、窓の外に並ぶ木々は輪郭だけが静かに浮かんでいる。夜のうちに少し雨が降ったらしく、屋根の端から時折雫が落ち、湿った土と葉の匂いが開けた窓の隙間から部屋へ入り込んでいた。
アリシアは目を覚ますと、寝台の中で一度だけ深く息を吸った。
頭痛はない。
肩の張りもなく、腕の重さも残っていない。
指先にはわずかな冷えがあるが、影を使った翌朝としてはいつもの範囲だった。
身体は問題ない。
けれど、胸の奥には、昨日とは違う種類の緊張があった。
今日は、複数同時提案。
二人以上が、同時に違う交代案を出す。
レオが自分へ代われと言う。
フィンがセレナへ代われと言う。
あるいは、ミリアが中央継続を提案し、ルシアンが交代を求める。
誰か一人の声を選べば。
もう一人の声は、選ばれない。
「起きてる?」
窓辺の椅子で丸くなっていたノアが、目を閉じたまま尋ねた。
「うん」
「なら、朝から誰を傷つけるか考えている顔をやめなさい」
アリシアは少しだけ目を見開く。
「分かる?」
「今日は交代案が二つ出るのでしょう」
「うん」
「どちらかを選ぶ」
「うん」
「選ばなかった人が、嫌な気持ちになるかもしれない」
「うん」
「全部顔に出ているわ」
アリシアは掛け布を少し下げ、上半身を起こした。
「二人とも、必要だと思って言う」
「そうでしょうね」
「なのに、片方を選ばない」
「そうね」
「否定するみたい」
「提案を採用しないことと、その者を否定することは違う」
「でも、言った人はそう思うかもしれない」
「では、両方採用する?」
「できない時もある」
「なら選ぶしかないでしょう」
「簡単に言う」
「簡単ではないわよ」
ノアはゆっくり身体を起こし、前足を伸ばした。
「誰を選ぶかではなく、何を選ぶかを見なさい」
「何を?」
「その者が見ている危険」
「レオは前」
「フィンは音」
「ミリアは床」
「セレナは全体情報」
「ルシアンは状態」
「あなたは?」
「後方と影。あと、誰が止まってるか」
「では、二つの提案が出た時、比べるものは人ではない」
「見えてるもの?」
「そう」
アリシアは少し考える。
「レオが、自分へ代われって言う。理由は正面大型」
「ええ」
「フィンが、セレナへ代われって言う。理由は左右から音多数」
「どちらが正しい?」
「分からない」
「なぜ」
「危険が違うから」
「なら?」
「次の危険を決める」
「誰が一番強いかではなく?」
「どの危険を先に止めるか」
ノアは静かに頷いた。
「選ばなかった提案はどうする?」
アリシアは少し迷った。
「捨てない」
「どうやって?」
「その人が見てた危険を、別の人に任せる」
「良いでしょう」
「レオへ交代しなくても、正面大型はレオに任せる」
「そう」
「セレナへ交代しなくても、左右の情報整理はセレナに頼む」
「そう」
「中央にしないだけ」
「提案そのものを捨てるわけではない」
胸の奥の硬さが、少しだけほどける。
選ばない。
でも、消さない。
提案の中にあった情報を拾う。
「でも、どっちを選ぶか迷って止まったら?」
「時間を決めなさい」
「何秒?」
「戦況による」
「また」
「万能な数字を欲しがりすぎよ」
「二秒?」
「あなたの班は二秒が好きね」
「分かりやすい」
「では、二秒で決められなければ?」
「現時点で一番近い危険を選ぶ」
「他の危険は?」
「担当を振る」
「良い」
アリシアは寝台から足を下ろした。
「今日の私は、頭痛なし。肩問題なし。指先少し冷たい」
「心は?」
「誰かの提案を選ばないのが怖い」
「他」
「選ばなかった人に嫌われるのが怖い」
「他」
「でも、誰が正しいかじゃなくて、何が見えてるかを見る」
「他」
「選ばなかった提案も、情報は残す」
「百点」
「今日は百一点じゃない?」
「二つの提案が出たら、どちらか一つしか点数を選べないでしょう」
「百点を選んだ?」
「百一点は情報として残したわ」
「便利」
◇
朝食の席では、祖父が炊いた麦を木椀へよそっていた。
鍋の中には、昨夜残った豆の煮込みが少し混ぜられている。素朴な匂いが部屋へ広がり、外から聞こえる雫の音と、薪が弾ける小さな音が重なっていた。
「今日は二人から別のことを言われる」
アリシアが席へ着くと、祖父は麦をよそいながら答えた。
「よくある」
「畑で?」
「二人いれば二つ言う」
「どっちを聞く?」
「正しい方」
「分からなかったら?」
「先に困る方」
祖父は簡単に言い切り、椀をアリシアの前へ置いた。
「先に困る方?」
「水をやれと言う者と、柵を直せと言う者がいる。今にも獣が入るなら柵だ」
「水は?」
「別の者にやらせる」
「誰もいなかったら?」
「あとでやる」
「その間に枯れたら?」
「なら水だ」
「分からない」
「だから見ろ」
アリシアは麦を一口食べた。
少し熱い。
「誰が言ったかは関係ない?」
「少しはある」
「あるの?」
「畑を毎日見てる者と、昨日来た者では違う」
「見えてる範囲?」
「そうだ」
「でも、昨日来た人が正しい時もある」
「ある」
「じゃあ」
「言った者だけで決めるな。言った中身も見ろ」
ノアと似ている。
誰が正しいかではなく。
何を見て言っているか。
「二人とも正しかったら?」
「両方やれ」
「一つしか選べない」
「役割は一つでも、仕事は二つできるだろ」
「どういうこと?」
「鍬を持つ者は一人でも、水を運ぶ者は別にいる」
「中央はレオ。でも、フィンの音情報は使う」
「そういうことだ」
アリシアはゆっくり頷いた。
「選ばなかった人、怒るかも」
「怒らせておけ」
「また」
「必要なことを選んで怒る者へ、毎回謝るのか」
「でも、言ってくれた」
「なら後で理由を話せ」
「戦ってる途中は?」
「仕事を渡せ」
「あなたの提案は使わない、じゃなくて」
「お前の見ているものは任せる」
「うん」
祖父は黒パンをちぎりながら続けた。
「人は、自分の案が選ばれなかった時、案だけでなく自分まで捨てられたと思うことがある」
「おじいちゃんも?」
「ある」
「誰に?」
「村長に」
「何を言ったの?」
「北の畑へ先に水路を引けと言った」
「選ばれなかった?」
「南を先にした」
「怒った?」
「かなり」
「どうした?」
「北の水路を自分で掘った」
「勝手」
「後で叱られた」
「何で?」
「南の作業へ人が足りなくなった」
アリシアは祖父を見る。
「おじいちゃん、今日の訓練に悪い例として出せる」
「出すな」
「自分の提案が選ばれなくて、別行動した」
「昔の話だ」
「危ない」
「今はやらん」
「成長した?」
「黙って食え」
祖父は少し不機嫌そうに椀を持ち上げた。
けれど、その話は分かりやすかった。
選ばれなかった。
だから、自分だけで動く。
それは班を壊す。
「選ばなかった人へ、今の役割を言う」
「そうしろ」
「提案の中の情報を使う」
「そうしろ」
「後で理由を話す」
「そうしろ」
「怒っても勝手に動かない」
「それを一番覚えろ」
祖父は少しだけ強く言った。
「選ばれなかった者が、自分の正しさを証明しようと勝手に動けば、二つの指揮ができる」
「中央が二人」
「一番面倒だ」
「今日、それもあるかも」
「なら止めろ」
「言えるかな」
「必要なら言え」
「また嫌われる」
「昨日も同じことを言ってたな」
「毎日違う」
「嫌われる心配だけは毎日同じだ」
アリシアは少しだけ頬を膨らませた。
「食え」
「食べてる」
「止まってる」
「考えてた」
「麦は待たん」
「麦は待つ」
「冷める」
◇
学園へ向かう道では、朝の雨が残した水溜まりが所々に広がっていた。
空はまだ曇っているが、雲の隙間から薄い光が差し始めている。登校する生徒たちは足元へ気をつけながら歩き、昨日の交代拒否訓練について声を弾ませていた。
「土の最初の拒否、すごかったな」
「でも二回目は渡した」
「あれ、断り続ける方が失敗なんだろ」
「今日は同時提案だって」
「二人が別の人を推すんだろ?」
「絶対揉める」
「火は自分を推しそう」
「風は情報で別の人を選びそう」
「闇、決められるのかな」
最後の言葉が耳へ入る。
アリシアは足元の水溜まりを避けながら、少しだけ呼吸を深くした。
「また予想されてる」
「有名人ね」
「嫌」
「見られるのは?」
「怖い」
「決められないと思われるのは?」
「少し悔しい」
「なら、その悔しさで急いで間違える?」
「しない」
「良い」
ノアは濡れた地面を嫌がるように、乾いた石の上を選んで歩いている。
「選ぶのが遅くても?」
「二秒で決める」
「本当に二秒が好きね」
「分かりやすい」
「二秒以内に分からなかったら?」
「今、一番近い危険」
「選ばない提案は?」
「担当を渡す」
「それで十分」
校舎へ入ると、今日も見学人数制限の掲示が出ていた。戦術科の生徒たちが掲示板の前へ集まり、自分の名前が許可一覧にあるか確認している。
「入れた!」
「俺、補欠だ」
「複数提案は見たいよな」
「中央役が誰かで変わるだろ」
「アリシアからじゃない?」
「昨日、土だったから今日は別だろ」
教室へ入る。
「おはよう、アリシア」
「おはよう、メリル」
席へ着くと、メリルはすぐにアリシアの顔を見た。
「今日は、昨日より静かな顔」
「静か?」
「考えてるけど、昨日ほど固くない」
「二人から違うこと言われる」
「どっちか選ぶの?」
「うん」
「選ばなかった方、嫌な気持ちになる?」
「たぶん」
「でも、両方は選べない」
「中央は一人」
メリルは少し考え、机の上へ二本の指を立てた。
「二人とも違うものを見てるんだよね」
「うん」
「じゃあ、選ばなかった人の見てるものは?」
「その人に任せる」
「中央にはしないけど?」
「情報は使う」
「それなら、何も選ばれなかったわけじゃないね」
「うん」
「でも本人は?」
「後で理由を言う」
「戦闘中は?」
「今の役割を言う」
「例えば?」
「レオは中央にしない。でも、正面大型はレオが止める」
「フィンは?」
「中央にしない。でも、音情報整理は任せる」
「セレナなら?」
「左右情報まとめて」
「ミリアなら?」
「床を見て」
「ルシアンなら?」
「負荷と治療条件」
メリルは笑った。
「みんな、中央じゃなくても仕事たくさんあるね」
「うん」
「アリシアも?」
「後方と影。あと、誰が困ってるか」
「それ、中央じゃなくてもできる?」
「できる」
「じゃあ、選ばれなかった人へ、『あなたは必要ない』じゃなくて、『今はここをお願い』って言える」
「うん」
「少し言いやすくなった?」
「少し」
メリルは教科書を開きながら言った。
「でも、二人のうち一人が怒って勝手に動いたら?」
祖父の昔話が頭へ浮かぶ。
「止める」
「強く?」
「必要なら」
「怖い?」
「かなり」
「でも、中央が二人になる方が怖い?」
「うん」
「じゃあ言える」
「たぶん」
◇
午前の戦術理論では、教師が黒板へ三人の名前を書いた。
『中央:A』
『提案者:B→Bへ交代』
『提案者:C→Dへ交代』
「複数同時提案では、中央役は二つの提案を比べます」
教室内の生徒たちが一斉に筆を取る。
「ただし、比べるものは提案者の能力ではありません」
教師はBとCの名前へ線を引き、その下へそれぞれ項目を書く。
『Bの位置』
『Bが見えている危険』
『Bが見えていない範囲』
『Cの位置』
『Cが見えている危険』
『Cが見えていない範囲』
「誰が正しいかではなく、何を根拠に言っているかを見ます」
アリシアは強く書き留める。
『人ではなく、根拠を比べる』
「例です」
教師が黒板へ新しい状況を書く。
『正面大型一、標柱まで六歩』
『左右小型各四、標柱まで十歩』
『レオ:自分へ交代提案』
『フィン:セレナへ交代提案』
「レオは正面大型を見ています。フィンは左右から近づく音を聞いている。どちらが正しいですか」
前方の生徒が答える。
「レオ?」
「なぜ」
「大型が近いから」
「では、左右小型八体は無視しますか」
「セレナが整理する?」
「そうです」
教師は黒板へ書く。
『中央:レオ』
『左右情報整理:セレナ』
『音継続:フィン』
「一つを選び、もう一つを捨てるのではない。中央役だけを決め、もう一つの提案が見ていた危険へ担当を置く」
次の例。
『中央役負荷二』
『後方負傷者一』
『正面敵なし』
『ルシアン:自分へ交代提案』
『レオ:アリシアへ交代提案』
「これは?」
教室が少し静かになる。
「ルシアン?」
「理由」
「負傷者がいるから」
「中央へ立つ必要がありますか」
別の生徒が答える。
「治療するなら中央から外れた方がいい」
「では」
「アリシアへ中央を渡して、ルシアンは治療」
「そうです」
提案者本人が、必ずしも中央へ立つ必要はない。
その人が見つけた危険を処理するため、別の者が中央へ立つ場合もある。
「複数同時提案で最も危険なことは何でしょう」
教師が尋ねる。
セレナが手を挙げる。
「選ばれなかった提案者が、独自判断で動くこと」
「その通りです」
黒板へ大きく書かれる。
『採用されなかった提案者は、現在の中央へ従う』
「自分の提案が正しいと思っていても、勝手に実行しない」
祖父の昔話と同じ。
北の水路を選ばれず、一人で掘った。
結果、南の作業から人が減った。
「ただし、提案者は黙る必要はありません」
『新情報』
『危険悪化』
『提案の再提出』
「新しい情報が出たなら、もう一度提案してください。ですが、自分の正しさを証明するために動いてはいけない」
アリシアは筆を止めずに書く。
『提案が選ばれなかった』
『だから勝手に動かない』
『新しい情報があれば再提案』
「中央役は、選ばなかった提案者へ何を伝えるべきですか」
教師が視線を巡らせる。
アリシアは少し迷ってから手を挙げた。
「今の役割」
「他」
「見えていた危険を誰が担当するか」
「他」
「次に再提案する条件」
「良いでしょう」
黒板へ書かれる。
『あなたの提案は採用しない』
『しかし、あなたの情報は使う』
『今はこれを担当』
『条件が変われば再提案』
「言葉を長くしすぎる必要はありません」
教師は短い例を書く。
『中央はレオ。フィンは左右音継続。左右六歩で再提案』
「これで十分です」
アリシアは何度も読み返した。
中央はレオ。
フィンは左右音継続。
左右六歩で再提案。
選ばない。
でも、消さない。
「アリシアさん」
「はい」
「レオとフィンから同時に提案が出た。二秒で判断できない。どうしますか」
「一番近い危険を優先する」
「他の提案は」
「担当を置く」
「選ばなかった者が不満そうなら」
「戦闘中は役割を言う。後で理由を話す」
「勝手に動いたら」
「止める」
「言えますか」
胸が少し強く鳴る。
「必要なら」
「良いでしょう」
教師は最後に黒板へ本日の主題を書いた。
『選ばなかった提案にも、見えていたものは残っている』
◇
昼休み、六人は中庭の石卓へ集まった。
空は少し明るくなり、雲の切れ間から淡い陽射しが差している。石卓の周囲には、今日も遠巻きに訓練内容を予想する生徒たちの姿があった。
セレナが教官から届いた紙を開く。
『初期中央:フィン』
『複数同時提案:最低二回』
『提案採用後、非採用者へ役割指示必須』
「僕から」
フィンの表情が僅かに固くなる。
「どう?」
アリシアが尋ねる。
「音情報が多ければできる。でも、同時に二人から言われた時、誰を選ぶか迷う」
「何が怖い?」
ミリアが聞く。
「どちらも正しく聞こえること」
「選ばなかった人に嫌われる?」
レオが尋ねる。
「それは君ほど気にしない」
「何で俺?」
「自分を選ばなかったら大声で不満を言いそう」
「言わない!」
全員の視線がレオへ集まる。
「少しは言う!」
「言うんだ」
セレナが紙へ書き込む。
「非採用時のレオ注意」
「書くな!」
少し笑いが起こる。
フィンは果物を一口食べた後、真面目な顔へ戻った。
「でも、僕も自分の提案が選ばれなかったら、音情報を無視されたと思うかもしれない」
「どうしてほしい?」
アリシアが尋ねる。
「音を誰が使うか言ってほしい」
「例えば?」
「中央はレオ。でも、僕は左右音継続。左右が六歩で再提案」
「授業と同じ」
「うん」
「じゃあ、フィンが中央の時は?」
「提案者へ役割を言う」
「二秒で?」
「できるだけ」
セレナが紙へ条件を書く。
『複数提案時』
『一、直近危険』
『二、中央適性』
『三、交代負荷』
『四、非採用提案の危険担当』
「順番が多い」
レオが言う。
「二秒では無理」
「なら短くします」
セレナは書き直す。
『近い危険』
『誰が今すぐ動けるか』
『残りの危険を誰へ任せるか』
「これなら」
フィンが頷く。
「同時提案をする時の言葉も決める?」
ルシアンが尋ねる。
「理由を最初に」
アリシアが答える。
「自分へ代われ、だけじゃなくて?」
「正面大型六歩。レオへ交代提案」
「左右音八。セレナへ交代提案」
「状態負荷二。アリシアへ交代提案」
ルシアンが続ける。
「提案者が自分を候補にしなくてもいい」
セレナが言う。
「見えている危険に合う者を提案する」
「俺は自分を提案する!」
「状況次第です」
「速い敵なら俺だろ!」
「その時は正しい」
ミリアが笑う。
「採用されなかった人が勝手に動いたら?」
アリシアが尋ねる。
少し空気が静かになる。
「止める」
フィンが答える。
「誰が?」
「中央」
「言える?」
「必要なら」
「怖い?」
「少し」
「一緒」
アリシアが言うと、フィンは少し嫌そうな顔をした。
「君と一緒にされると、人見知りみたい」
「昨日も言った」
「今日も違う」
「慎重?」
「そう」
「でも、怒らせるの怖い?」
「少し」
「一緒」
「もういい」
ミリアが笑い、セレナも僅かに口元を緩めた。
「提案が選ばれなかった時の約束」
ルシアンが全員を見る。
「勝手に動かない」
「新しい情報が出たら再提案」
「中央から役割を言われたら従う」
「後で理由を聞く」
六人が順番に確認する。
「フィン」
アリシアが呼ぶ。
「何?」
「二人とも怖そうな顔してたら?」
「顔では決めない」
「怒ってたら?」
「役割を言う」
「泣きそうだったら?」
「戦闘中は同じ」
「後で?」
「話す」
アリシアは頷いた。
「できそう?」
「分からない。でもやる」
「うん」
◇
午後の第一戦術演習室には、今日も多くの見学者が集まっていた。
複数同時提案という題材は、昨日まで以上に注目を集めているらしい。見学席の前方には上級生が並び、後方には戦術科の教師たちが立っている。
「初期中央、風だって」
「音情報で判断するタイプか」
「火と水が違う提案出しそう」
「闇は誰を選ぶんだろ」
「今日は風だぞ」
「でも途中で変わるだろ」
フィンは中央位置へ立ち、目を閉じて演習室の反響を確かめた。
「音、今は問題なし」
「頭痛は?」
ルシアンが尋ねる。
「なし。緊張一」
「一?」
レオが笑う。
「数字にした!」
「君の声量より分かりやすい」
「今日もそこ言うのか!」
教官が黒板へ条件を書く。
『多方向護送』
『移動標柱一基』
『正面・左右・上方経路あり』
『敵数未公開』
『視界変化あり』
『標柱停止五秒で敗北』
『制限時間二十分』
「中央交代条件」
教官が尋ねる。
フィンは一度息を吸う。
「複数提案の理由を確認。直近危険を優先。選ばなかった提案の危険へ担当を置く。非採用者は勝手に動かず、新情報で再提案」
「配置」
「正面レオ。右セレナ。左ミリア。中央後方ルシアン。後方アリシア。中央、僕」
「開始」
◇
標柱が動き始めた。
最初の通路は広く、正面と左右が見渡せる。
「正面なし」
「右なし」
「左なし」
「後方なし」
「上方音なし」
フィンは全員の報告を聞き、短く答える。
「現配置維持。標柱速度一定」
三十秒後。
正面から小型三体。
右から二体。
「正面三!」
「右二!」
「レオ正面二処理、一遅延。セレナ右二を水で外へ。ミリア左維持。アリシア後方。ルシアン状態」
「了解!」
最初の指示は安定している。
火と水が動き、敵は標柱へ近づく前に処理された。
「正面処理!」
「右外周へ!」
「追加音なし!」
フィンは中央を続ける。
◇
標柱が最初の曲がり角へ入った時、視界が薄い霧に包まれた。
「視界低下!」
「音、左右から増加!」
フィンが報告する。
「正面大型一!」
レオの声。
「右、小型四目視!」
セレナ。
「左床下二!」
ミリア。
情報が一気に増える。
正面大型。
右小型四。
左床下二。
「正面大型、標柱まで七歩!」
レオが叫ぶ。
「フィン、正面大型。俺へ交代提案!」
同時に。
「右四、左床下二。全体整理必要。セレナへ交代提案します!」
二つ。
レオ。
セレナ。
見学席が静かになる。
フィンの目が動く。
正面大型七歩。
右四。
左床下二。
直近。
正面。
「中央はレオ!」
フィンが言う。
「正面大型七歩を優先! セレナは右四情報整理、ミリアは左床下二、フィンは左右音継続。左右が標柱八歩で再提案!」
「受領!」
レオが前へ出すぎず、中央位置へ半歩寄る。
「俺が中央! 正面大型へ火壁! ミリア左床下を封鎖! セレナ右四を二体ずつ分けろ! アリシア後方と霧の中! ルシアン状態!」
「了解!」
中央が変わる。
選ばれたのはレオ。
でも、セレナの提案は捨てられていない。
右四の情報整理。
ミリアは左床下。
フィンは左右音。
「右四、速い二、遅い二!」
「左床下二、出現三秒!」
「正面大型、火壁で速度低下!」
「右速い二、標柱まで九歩!」
セレナが叫ぶ。
「再提案条件まで一歩!」
フィンが言う。
「レオ、右が八歩で再提案!」
「分かった!」
レオは正面大型へ集中しながら、右の声も聞いている。
「正面大型、あと五歩!」
「右速い二、八歩!」
「セレナへ交代提案!」
フィンが再提出する。
レオは一瞬だけ迷い、正面大型を見る。
「正面、俺が火で三秒止める! 中央をセレナへ渡す!」
「受領! 現状、正面大型五歩で火壁停止、右速い二八歩、遅い二十二歩、左床下二出現直前。ミリア左封鎖、フィン右速い二へ風、アリシア正面大型へ影一秒、レオ火壁維持!」
セレナの指示が出る。
フィンの最初の判断。
正面を優先。
でも、条件が来たら右を優先する中央へ変えた。
複数提案の両方が、時間をずらして使われた。
見学席からどよめきが起こる。
「両方使った!」
「最初は火、次に水!」
「風が条件を残してたからだ!」
アリシアは後方で影を伸ばし、正面大型の脚を一秒だけ止める。
「影一秒、負荷一未満!」
「解除!」
「了解!」
セレナの水が右速い二体をまとめ、フィンの風が外側へ流す。ミリアの土壁が左床下二体の出現位置をずらし、レオの火壁が正面大型を止め続ける。
「右速い二、外へ!」
「左二、出現位置変更!」
「正面大型、火壁限界!」
「セレナ、正面へ水一部! ミリア中央土壁! レオ右脚!」
指示がつながる。
正面大型が止まり、右四と左二も標柱から遠ざけられた。
「第一波処理!」
拍手が起こる。
◇
戦況が落ち着くと、フィンは中央へ戻らず、左右音を聞き続けた。
セレナが中央。
フィンは補助。
自分が最初の中央だったことへしがみつかない。
「フィン、状態」
「頭痛なし。音範囲中。負荷一」
「中央復帰希望は?」
セレナが尋ねる。
「今は不要。霧が続くなら音補助をする」
「了解」
アリシアはそのやり取りを聞きながら、フィンが少しだけ成長したのを感じた。
以前なら。
自分の音情報が多いなら、中央へ戻る方が良いと思っていたかもしれない。
でも今は。
セレナが全体を整理し。
フィンは音を渡す。
それで流れができている。
◇
標柱が広い円形の部屋へ入った。
霧がさらに濃くなり、天井付近から羽音が響く。
「上方音六!」
フィンが叫ぶ。
「床下、正面三!」
ミリア。
「右影二!」
アリシア。
「正面目視なし!」
レオ。
「全体情報多。中央継続可能ですが、上方はフィンが最適です」
セレナが自分の状態を言う。
その時。
「上方六、俺の火でまとめる! レオへ交代提案!」
レオ。
「上方音と霧。フィンへ交代提案します!」
ルシアンが同時に言った。
今度は。
レオとフィン。
上方六。
床下正面三。
右影二。
セレナは一瞬だけ考える。
「中央はフィン!」
選ばれたのはフィン。
「理由、霧と上方音。レオは上方六へ火、ミリア床下正面三、アリシア右二、セレナは全体整理継続。レオ、上方接近三歩で再提案可能!」
「受領!」
フィンが中央を受け取る。
「上方六、速度差あり! レオ、速い三を火壁! 遅い三はセレナ水膜で位置確認! ミリア床下三を出現前に土でずらす! アリシア右二拘束一体、もう一体はルシアン光!」
「了解!」
レオの提案は採用されなかった。
けれど。
上方六の処理は、レオが担当する。
その瞬間。
レオが一歩前へ出た。
「俺がまとめて――」
「レオ、中央指示に従って!」
フィンが強く言った。
レオの足が止まる。
演習室が一瞬静かになる。
レオは自分の提案が選ばれなかった。
それでも、自分の方が速いと証明するように前へ出かけた。
「速い三だけ!」
フィンが続ける。
「遅い三はセレナ! 全部取るな!」
レオは歯を噛み、火を速い三体へ向ける。
「了解!」
火壁が上方三体を包む。
セレナの水膜が残り三体の位置を浮かび上がらせる。
「速い三停止!」
「遅い三、位置確定!」
「床下三、出現位置変更!」
「右一拘束、一光停止!」
流れは崩れない。
フィンは短く指示を続ける。
「レオ速い三処理! セレナ遅い三を一体ずつ外へ! ミリア床下出現後、標柱から離す! アリシア右解除準備!」
レオは従った。
勝手に全部を取らなかった。
見学席から、ざわめきが広がる。
「今、止めた!」
「火、前へ出かけた」
「風が強く言った!」
「でも役割は残した!」
アリシアの胸が少し熱くなる。
フィンは怖かったはずだ。
レオへ強く言うこと。
それでも。
中央が二人になる前に止めた。
◇
上方と床下、右の敵を処理した後、レオは少し黙っていた。
戦闘は続いている。
今は振り返りではない。
フィンは中央から尋ねる。
「レオ、状態」
「魔力一。負荷なし」
「怒ってる?」
見学席から小さな笑いが起こりかけるが、フィンの声は真剣だった。
「少し!」
「勝手に動く?」
「動かない!」
「上方速い敵がまた三以上で再提案して」
「了解!」
短いやり取り。
怒っている。
でも。
役割を続ける。
再提案条件もある。
レオの声は消えていない。
◇
標柱は円形部屋を抜け、細い直線通路へ入った。
霧が少し薄くなり、正面は見える。
「正面小型二」
「左右なし」
「後方なし」
「上方なし」
フィンは中央を続ける。
「レオ正面二。ほか維持」
「了解!」
レオは素早く二体を処理した。
「正面処理!」
声はいつも通り大きい。
少し怒っているようにも聞こえる。
でも、指示へ従っている。
アリシアは後方から、その背中を見ていた。
選ばれなかった。
悔しい。
それでも班の動きを壊さない。
それも今日の訓練。
◇
残り八分。
標柱が第二の広場へ入った。
床には浅い水が広がり、足音と水音が混ざる。フィンの音情報には反響が増え、距離の判別が難しくなった。
「音、反響強い!」
「水面右三目視!」
セレナ。
「左床下大型一!」
ミリア。
「正面、速い小型四!」
レオ。
「後方影二!」
アリシア。
情報が四方向から重なる。
フィンの表情が固くなる。
「現時点――」
声が一秒止まる。
「正面速い四。俺へ交代提案!」
レオ。
「水面情報と全体整理。セレナへ交代提案!」
ミリア。
「後方二、近い。アリシアへ交代提案します!」
ルシアン。
三つ。
見学席が大きくざわめく。
レオ。
セレナ。
アリシア。
フィンは目を閉じかけ、すぐに開く。
「近い危険!」
自分へ言う。
「後方二、距離!」
「五歩、七歩!」
アリシアが答える。
「正面四は?」
「九歩!」
レオ。
「右三?」
「十一歩!」
セレナ。
「左大型?」
「出現まで四秒!」
ミリア。
フィンは決める。
「中央はアリシア!」
胸が強く鳴る。
「理由、後方二が五歩。アリシアは全体影確認! レオ正面速い四、セレナ右三整理、ミリア左大型出現位置、フィン音補助継続。正面六歩でレオ再提案、右八歩でセレナ再提案!」
「受領!」
アリシアは中央へ半歩寄り、影を近距離全方向へ広げる。
「後方二、フィン風一、ルシアン光一! 正面四はレオ遅延、処理を急がない! 右三はセレナ水で外へ! 左大型はミリア土壁一枚で進路変更!」
「了解!」
選ばれたのはアリシア。
でも。
レオの正面四。
セレナの右三。
どちらも担当へ残る。
フィンの音補助も続く。
「後方一風停止!」
「後方一光停止!」
「正面四、距離七歩!」
「右三、九歩!」
「左大型、出現!」
「ミリア、進路!」
「外側へ変更中!」
「正面六歩!」
レオが叫ぶ。
「再提案!」
条件が来た。
同時に。
「右八歩!」
セレナも言う。
「再提案します!」
二つ。
また。
正面四、六歩。
右三、八歩。
左大型外側へ変更中。
後方二停止。
アリシアは一瞬だけ考える。
正面が近い。
速い。
「中央はレオ!」
「受領!」
「セレナは右三情報整理と水継続! 右六歩で再提案。アリシアは後方処理後、全体影補助。ミリア左大型。フィン音!」
言えた。
選ばなかったセレナへも役割と条件を残す。
レオが中央へ入る。
「正面四を先に止める! 俺が火壁! アリシア後方処理後、右へ影一体! セレナ右三を水でまとめろ! ミリア左大型維持! フィン追加音!」
「了解!」
火壁が正面四体を止める。
後方二体が処理され、アリシアは右へ影を伸ばす。
「右一拘束、負荷一!」
「セレナ、残り二!」
「水で外へ!」
「右距離七歩!」
「まだ条件前!」
レオが叫ぶ。
「正面二処理、二停止!」
セレナは中央に選ばれなかった。
でも、勝手に動かない。
右三を処理しながら情報を出す。
「右一処理、二外周へ。距離九歩へ戻りました!」
「再提案撤回!」
「了解!」
提案は選ばれなかった。
けれど、担当を続けたことで危険が下がり、再提案そのものが不要になった。
見学席から大きな拍手が起きる。
「提案撤回した!」
「中央にならなくても右を処理した!」
「選ばれない案が残ってた!」
◇
残り五分。
標柱は最後の通路へ入る。
敵の数は減ったが、視界が再び暗くなる。
「暗所」
アリシアが報告する。
「近距離影、全方向可能」
「音、反響弱い」
フィン。
「床下なし」
ミリア。
「右水面なし」
セレナ。
レオが中央から全員の報告を聞く。
「アリシアへ交代した方がいいか?」
これは提案ではなく確認。
アリシアは自分の状態を見る。
「受け取れる。今は暗所で全体影が使える」
「他の意見!」
レオが尋ねる。
「アリシアを支持します」
セレナ。
「僕も」
フィン。
「床下なし。アリシアでいい」
ミリア。
「状態問題なし」
ルシアン。
「じゃあ渡す!」
レオは短く現状をまとめる。
「暗所、敵反応まだなし、標柱残り四十歩、俺負荷一、次の危険は全方向。中央をアリシアへ移譲!」
「受領。レオ正面、セレナ右、ミリア左床、フィン遠距離音、ルシアン状態。私は全方向近距離影!」
交代する。
今度は複数提案ではない。
全員が同じ判断をした。
でも。
それまでの選ばなかった声が積み重なっていたから、今の一致が分かる。
◇
暗所へ入って一分後。
正面三。
右二。
後方二。
上方一。
影と音、魔力反応が重なる。
「正面三、近距離!」
「右二、影確定!」
「後方二、音確定!」
「上方一、魔力反応!」
アリシアは一度息を吸う。
「正面レオ二処理、一遅延! 右セレナ一拘束、一外へ! 後方フィン風一、ルシアン光一! 上方はミリア土柱で進路変更!」
「了解!」
六人が動く。
指示は止まらない。
「正面二処理!」
「右一拘束、一外周!」
「後方二停止!」
「上方進路変更!」
「正面残り一、標柱まで八歩!」
「レオ処理!」
「了解!」
炎が暗闇を照らす。
「正面処理!」
標柱は進む。
残り二十歩。
追加敵。
左床下二。
「左床下二!」
ミリア。
「ミリアへ交代提案!」
ミリア自身が言う。
同時に。
「後方音三! フィンへ交代提案!」
フィン。
二つ。
左床下二。
後方三。
距離。
「左出現まで?」
「三秒!」
「後方距離?」
「六歩!」
後方が近い。
「中央はフィン!」
「受領!」
「ミリアは左床下二を封鎖! 左出現一秒前で再提案。アリシアは後方影一、ルシアン光一、レオ火一!」
「了解!」
フィンが中央を受け取る。
「後方三、距離六、七、九! レオ六歩を火! アリシア七歩影! ルシアン九歩光! ミリア左床下を土で外へ!」
後方三体が止まる。
「六歩処理!」
「七歩拘束!」
「九歩停止!」
「左床下二、出現位置変更! 標柱から十二歩!」
「再提案不要!」
ミリアが言う。
選ばれなかった。
でも、左床下を処理した。
再提案は不要になった。
「標柱残り五歩!」
「全員、処理より距離維持!」
フィンの声。
三歩。
二歩。
一歩。
「到達!」
教官が手を上げる。
「終了」
◇
大きな拍手が演習室を満たした。
今日の交代回数は多かった。
フィンからレオ。
レオからセレナ。
セレナからフィン。
フィンからアリシア。
アリシアからレオ。
レオからアリシア。
アリシアからフィン。
その間に、何度も複数の提案が出た。
選ばれた提案。
選ばれなかった提案。
条件が来て再提出された提案。
担当で危険を下げ、撤回された提案。
「火が選ばれなかった時、前へ出かけた!」
「風が止めた!」
「でも火の役割は残した!」
「三つ同時提案もあったぞ」
「闇が選ばれた」
「その後、火と水の再提案を条件で分けた!」
「選ばれなかった方も、ずっと情報が使われてた」
アリシアは拍手の中で、まず身体の状態を確かめた。
影負荷一。
冷え少し。
頭痛なし。
判断負荷中。
最後の中央はフィン。
「状態報告」
フィンが言う。
「レオ、魔力一・四。疲労軽度!」
「セレナ、魔力一・二。問題なし!」
「ミリア、魔力一。腕問題なし!」
「ルシアン、光負荷一。疲労軽度!」
「アリシア、影負荷一。冷え少し。判断負荷中!」
「フィン、頭痛軽度。音範囲縮小中!」
教官が頷く。
「四分休憩」
◇
休憩へ入ると、レオは水筒を持ったまま、フィンの前へ座った。
「さっき、俺を止めたな」
「止めた」
「怒ってた?」
「少し」
「俺も怒ってた」
「知ってる」
「何で俺を中央にしなかった」
「霧と上方音が多かった。僕の方が全体を持てた」
「俺なら火で速く処理できた」
「だから速い三体を任せた」
「全部やりたかった」
「それは提案じゃなくて気持ち」
レオは口を閉じた。
少し間が空く。
「勝手に動きかけた」
「うん」
「ごめん」
レオは素直に言った。
「でも、止め方きつかった」
「必要だった」
「分かってる」
「後でなら言い方を考える」
「戦闘中は?」
「同じ状況なら同じくらい強く言う」
「うん」
レオは水を飲み、少しだけ笑った。
「選ばれなかったの、悔しかった」
「僕も、最初にセレナへ提案した時、レオが選ばれて少し悔しかった」
「そうなのか?」
「音情報を無視されたように感じた」
「でも、左右音を続けろって言われた」
「うん。それで戻れた」
「じゃあ、俺も上方速い三を任された」
「うん」
「無視されたわけじゃない」
「そう」
アリシアは隣で聞いていた。
選ばれなかった時。
自分まで選ばれなかったように感じる。
でも、役割が残る。
見えていた危険が使われる。
それで少し戻れる。
「アリシア」
セレナが呼ぶ。
「何?」
「三つ同時提案の時、なぜ自分を選びましたか」
「後方二が五歩。正面四が九歩。右三が十一歩。左大型は四秒後」
「直近危険」
「うん」
「自分を選ぶことへ迷いは?」
「少し」
「なぜ」
「自分を選んだら、欲しがったみたいに見えるかもしれない」
「でも選んだ」
「後方が近かったから」
「適切です」
レオが笑う。
「自分を選んでもいいんだな」
「状況次第」
アリシアが答える。
「やりたいからじゃなく、必要だから」
「分かってる!」
「本当に?」
「少しはやりたい!」
「それも感情」
フィンが言う。
「分かってる!」
ミリアが少し笑いながら、アリシアへ尋ねる。
「最後、私とフィンが同時に言った時、フィンを選んだよね」
「うん」
「少し寂しかった」
「うん」
「でも、左床下を任せてくれた」
「うん」
「再提案条件も言った」
「うん」
「だから、選ばれなかったけど、見えてたものは使われた」
「うん」
「それで少し平気だった」
アリシアは小さく頷く。
「私も、選ばれない時は役割が欲しい」
「じゃあ次から、必ず言う」
ミリアが答える。
「全員?」
セレナが確認する。
「非採用提案者へ、役割と再提案条件」
「戦況によって再提案条件がない場合は?」
「新情報が出たら」
「良いでしょう」
ルシアンが静かに言った。
「選ばなかった提案を残すことは、感情のためだけではありません」
「どういうこと?」
アリシアが尋ねる。
「その人が見ていた危険は、本当に存在しているからです」
「うん」
「中央候補として選ばれなくても、危険自体が消えるわけではない」
「だから担当を置く」
「はい」
感情。
戦術。
また両方。
選ばれなかった人を寂しくさせないためだけではない。
その人が見ていた危険を消さないためでもある。
◇
振り返りでは、黒板へ複数提案の場面が四つ書かれた。
『一回目』
『レオ→レオ』
『セレナ→セレナ』
『採用:レオ』
『非採用情報:右四、左床下二』
『役割:セレナ右整理、ミリア左床下』
『再提案条件:左右八歩』
教官はフィンを見る。
「なぜレオを選んだ」
「正面大型七歩。最も近い危険でした」
「セレナの提案は」
「右四と左床下二の全体整理。中央には選ばなかったが、右をセレナ、左をミリアへ任せ、左右八歩で再提案条件を置きました」
「その後」
「右が八歩へ入り、セレナへ交代しました」
「良い」
黒板へ書かれる。
『非採用提案は、条件付きで後から採用される場合がある』
「二回目」
『レオ→レオ』
『ルシアン→フィン』
『採用:フィン』
『非採用者:レオ』
『役割:上方速い三』
『問題:レオが勝手に前進』
「レオ」
「はい」
「なぜ動いた」
「自分なら全部処理できると思った」
「それは中央の指示か」
「違います」
「提案が選ばれなかったことを、行動で覆そうとしたか」
レオは少し黙った。
「……少し」
「危険だ」
「はい」
「フィン」
「はい」
「止めた言葉」
「中央指示に従って。速い三だけ。全部取るな」
「強かったな」
「必要でした」
「結果」
「レオは従い、速い三を処理しました」
「良い」
教官は黒板へ書く。
『非採用者は、自分の正しさを行動で証明しない』
「三回目」
『レオ→レオ』
『ミリア→セレナ』
『ルシアン→アリシア』
『採用:アリシア』
「なぜ」
フィンが答える。
「後方二が五歩と七歩。正面四が九歩。右三が十一歩。左大型は出現まで四秒。直近危険が後方でした」
「自分を選ぶことへ迷ったか」
アリシアが答える。
「少し」
「なぜ」
「自分が役割を欲しがったように見えるかもしれないと思った」
「それで」
「距離を見て選んだ」
「良い」
教官は黒板へ書く。
『自分を選ぶ場合も、根拠を言う』
「中央役が自分を候補にすることは問題ではない。欲望か適性かを分けろ」
次。
『レオ再提案:正面六歩』
『セレナ再提案:右八歩』
『採用:レオ』
『セレナ役割:右三継続』
『セレナ再提案撤回』
「セレナ」
「はい」
「中央へ選ばれなかった時、どう感じた」
「少し悔しかったです」
「行動は」
「右三の情報整理と水拘束を継続しました」
「結果」
「右距離が九歩へ戻り、再提案を撤回しました」
「なぜ撤回できた」
「自分が中央へ立つことが目的ではなく、右の危険を下げることが目的だったからです」
「良い」
アリシアはその言葉を強く書き留めた。
中央へ立つことが目的ではない。
危険を下げることが目的。
だから。
役割を得なくても。
自分の担当で危険を下げられたなら、提案は役目を果たしている。
「四回目」
『ミリア→ミリア』
『フィン→フィン』
『採用:フィン』
『ミリア役割:左床下』
『結果:再提案不要』
「ミリア」
「選ばれなくて寂しかったです」
「戦術評価」
「後方三が六歩。左床下二は出現まで三秒。フィンが適切でした」
「自分の情報は」
「左床下を土で外へ変えました」
「再提案は」
「危険が下がったので不要でした」
「良い」
教官は黒板の中央へ大きく書いた。
『選ばれなかった提案にも、見えていた危険は残っている』
『中央候補を選ばなくても、情報は捨てない』
『非採用者は勝手に動かない』
『新情報があれば再提案』
「これが今日の主題だ」
教官は六人を見る。
「提案を選ばれなかった者は、不要になったのではない」
アリシアの胸へ、昨日までと同じ言葉が別の形で入る。
「その者が見ていた危険が、別の担当へ移っただけだ」
「はい」
「そして中央役」
フィンが姿勢を正す。
「選ばなかった提案者へ、何も言わずに終わるな」
「はい」
「役割を与えろ。再提案条件を示せ。見えていたものを使え」
「はい」
「次回」
教官は黒板へ新しい題を書く。
『提案者の誤認』
六人の表情が変わる。
「誤認?」
レオが尋ねる。
「見えている情報が間違っている場合を扱う」
「間違った提案?」
ミリアが少し不安そうに言う。
「当然ある」
「誰かが嘘をつく?」
アリシアが尋ねる。
「嘘ではない。見間違い、聞き間違い、負荷による誤認。本人は正しいと思って提案する」
フィンの顔が僅かに強張った。
誤報。
以前の訓練。
間違いを隠さず、次の声を出す。
今度は。
間違った情報を根拠に、中央交代まで提案する。
「次は」
教官が言う。
「提案内容だけでなく、根拠の確度を確認しろ」
◇
演習室を出ると、廊下には見学を終えた生徒たちが多く残っていた。
「フィンさん」
戦術科の男子生徒が声をかける。
「レオさんを選ばなかった時、怖くなかったですか」
「怖かった」
「怒りそうでしたよね」
「実際、少し怒ってた」
レオが横から答える。
「自分で言うんだ」
フィンが呆れたように見る。
「でも従った!」
「途中まで勝手に動きかけた」
「止まった!」
周囲に笑いが起こる。
男子生徒はフィンへ尋ね直す。
「それでも、強く止められたのはどうしてですか」
「中央が二人になる方が危険だったから」
「レオさんの提案は間違いだった?」
「間違いではない」
「じゃあ」
「上方六を火で処理する必要はあった。でも、中央は音情報を持ってる僕の方が合ってた」
「提案の一部だけ使った?」
「そう」
別の女子生徒がアリシアへ尋ねる。
「三人から同時に言われた時、自分を選ぶの怖くなかったんですか」
「怖かった」
「自分がやりたいから選んだって思われそうで?」
「うん」
「でも選んだ」
「後方二が一番近かったから」
「距離で?」
「現時点では」
「選ばなかった二人へ役割も言ってましたよね」
「見えてた危険は消えないから」
女子生徒は紙へその言葉を書き留めた。
「選ばなかった人へ、どう思われるかだけじゃないんですね」
「うん」
「見えてた敵が本当にいるから」
「うん」
「ありがとうございました」
生徒たちは頭を下げ、離れていった。
ミリアが小さく言う。
「最近、質問する人増えたね」
「怖い」
アリシアが答える。
「でも逃げてない」
「みんながいるから」
「一人だったら?」
「ノアに任せる」
『喋れないわよ』
「心で言って」
『便利に使わないで』
◇
夕方、教室へ戻ると、メリルはいつものように待っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「二人から言われた?」
「三人からも言われた」
「三人?」
「レオはレオ。ミリアはセレナ。ルシアンは私」
「誰を選んだの?」
「私」
「自分?」
「うん」
「怖かった?」
「かなり」
「どうして自分にしたの?」
「後方二が五歩。正面四が九歩。右三が十一歩。左大型は四秒後」
「一番近かった」
「うん」
「じゃあ、やりたかったからじゃない」
「少しはやりたかった」
「でも理由は距離」
「うん」
メリルは頷く。
「選ばなかった二人は?」
「レオに正面四。セレナに右三。再提案条件も言った」
「怒った?」
「少し」
「それでも動いた?」
「役割通り」
「良かった」
「レオは別の時、勝手に動きかけた」
「どうなった?」
「フィンが止めた」
「強く?」
「うん」
「レオさん怒った?」
「少し」
「でも?」
「従った。後で話した」
メリルは少し考える。
「選ばれなかった時って、自分が間違ってるって言われたみたいに感じるよね」
「うん」
「でも、本当は?」
「提案の全部じゃなく、中央候補だけ選ばれなかった」
「見えてた危険は?」
「残る」
「だから、その危険を任せてもらえる」
「うん」
「それなら、自分まで否定されたわけじゃない」
「うん」
アリシアは少しだけ笑った。
昨日までと同じ。
中央へ選ばれない。
役割を返されない。
提案を採用されない。
そのどれも。
自分が不要という意味ではない。
「次は?」
メリルが尋ねる。
「提案者の誤認」
「間違った情報で交代を言う?」
「うん」
「怖いね」
「フィンが少し固くなってた」
「前に誤報したから?」
「うん」
「また間違えるかもしれないって思った?」
「たぶん」
「どうするの?」
「確度を聞く」
「確定か、仮説か?」
「うん」
「間違ってたら?」
「隠さない」
「次の声を出す」
「うん」
メリルは柔らかく笑った。
「今までの訓練、全部つながってるね」
「うん」
◇
帰宅すると、祖父は物置の前で縄を束ねていた。
「二つ言われたか」
「三つもあった」
「選べたか」
「うん」
「間違えたか」
「勝った」
「ならいい」
「一回、レオが選ばれなくて勝手に動きかけた」
「止めたか」
「フィンが」
「ならいい」
「おじいちゃんと同じ」
「何が」
「北の水路」
祖父の手が止まる。
「忘れろ」
「選ばれなくて、勝手に掘った」
「昔だ」
「人が足りなくなった」
「飯を減らすぞ」
「今日の教訓に使った」
「誰に話した」
「まだ誰にも」
「話すな」
祖父は縄を強く束ね直した。
「でも、分かりやすかった」
「俺の失敗を教材にするな」
「もうした」
「猫にか」
『聞いたわ』
「聞こえない」
アリシアは少し笑った。
「選ばなかった人へ、役割を言った」
「そうか」
「見えてた危険を任せた」
「そうか」
「再提案条件も言った」
「ならいい」
「それだけ?」
「他に何を言え」
「褒めて」
「昨日も褒めた」
「今日は別」
「毎日要求するな」
「毎日違う」
「選ばなかった提案も使った。よくやった」
「軽い」
「重く言うと飯が遅れる」
「まだ作ってない」
「だから遅れる」
祖父は物置へ縄を戻しながら言った。
「明日は間違った提案か」
「覚えてた?」
「さっき言っただろ」
「聞いてた」
「お前は俺を何だと思ってる」
「畑のことしか覚えてない人」
「今日の芋を減らす」
「覚えてる人」
昨日と同じやり取りになり、アリシアは少し笑った。
◇
夜、アリシアは机へ練習帳を開いた。
窓の外では、雲の隙間から星が一つだけ見えている。夜風は弱く、森の奥から虫の声が静かに聞こえていた。
『複数同時提案訓練』
『初期中央:フィン』
『提案は人ではなく、根拠を比べる』
最初の場面を書く。
『レオ→レオ』
『セレナ→セレナ』
『正面大型七歩』
『右小型四、左床下二』
『採用:レオ』
『セレナ右整理』
『ミリア左床下』
『左右八歩で再提案』
『条件到達後、セレナへ交代』
次。
『レオ→レオ』
『ルシアン→フィン』
『上方六、霧、音情報多』
『採用:フィン』
『レオは上方速い三』
『レオが勝手に前へ出かけた』
『フィンが止めた』
『中央が二人になる前に止める』
その下へ、少し大きく書く。
『選ばれなかった者は、自分の正しさを行動で証明しない』
次。
『三つ同時提案』
『レオ→レオ』
『ミリア→セレナ』
『ルシアン→アリシア』
『後方二、五歩と七歩』
『正面四、九歩』
『右三、十一歩』
『左大型、四秒後』
『採用:アリシア』
『自分を選ぶ時も、根拠を言う』
さらに。
『レオ再提案:正面六歩』
『セレナ再提案:右八歩』
『採用:レオ』
『セレナは右三継続』
『右距離が九歩へ戻り、再提案撤回』
最後。
『ミリア→ミリア』
『フィン→フィン』
『左床下二、出現三秒』
『後方三、六歩、七歩、九歩』
『採用:フィン』
『ミリアは左床下を処理』
『再提案不要』
アリシアは筆を止めた。
「今日、一番残ったことは?」
ノアが机の端から尋ねる。
「選ばなかった人に、役割を言うこと」
「なぜ?」
「人の気持ちのためだけじゃなかった」
「他には?」
「見えてる危険が本当に残ってるから」
「そう」
「中央に選ばれなくても、提案の中身は使う」
「そう」
「それで、選ばなかった人も勝手に動かなくていい」
「役割があるからね」
アリシアは今日の題を書く。
『選ばなかった提案にも、見えていたものは残っている』
その下へ。
『誰が正しいかではなく、何を見ているか』
『近い危険』
『今すぐ動ける人』
『交代負荷』
『選ばなかった危険へ担当を置く』
『再提案条件を言う』
『非採用者は勝手に動かない』
『新情報があれば再提案』
『提案が選ばれなくても、自分が不要なわけではない』
ノアが頁を覗き込む。
「今日の点数」
「百一点」
「自分から上げたわね」
「三つから選べた」
「他」
「自分を選ぶ理由も言えた」
「他」
「選ばなかった人に役割を言った」
「他」
「レオが勝手に動きかけた時、フィンが止めた」
「それはフィンの点数でしょう」
「班の点数」
「なるほど」
「百二点?」
「欲張り」
「ノアが言った」
「では百一点のまま」
「選ばれなかった百二点は?」
「情報として残す」
「便利」
二人は少し笑った。
最後に次回の題を書く。
『次回:提案者の誤認』
『確定』
『仮説』
『見間違い』
『聞き間違い』
『負荷による誤認』
『本人は正しいと思っている』
『提案を否定するのではなく、根拠の確度を確認』
『間違いに気づいたら隠さない』
『次の声を出す』
アリシアは筆先を止めた。
「フィン、怖いと思う」
「なぜ?」
「前に誤報した」
「間違えた後も次の声を出せた」
「でも、今度は交代まで提案する」
「間違いが大きく見える?」
「うん」
「あなたはどうする?」
「間違ってるって決めつけない」
「他」
「確定か仮説か聞く」
「他」
「他の人の情報と比べる」
「間違っていたら?」
「隠さないで、次の声を出してもらう」
「良いでしょう」
◇
灯りを消し、寝台へ入った。
今日。
フィンは、二つの提案から一つを選んだ。
正面大型。
右小型四。
左床下二。
レオを中央へ選んだ。
けれど、セレナの提案を捨てなかった。
右情報をセレナへ。
左床下をミリアへ。
左右が八歩へ近づいたら、再提案。
そして本当に条件が来た時。
中央はセレナへ移った。
別の場面。
レオの提案は選ばれなかった。
悔しくて。
自分の正しさを証明するように、全部を処理しようと前へ出かけた。
フィンが止めた。
強い声で。
全部取るな。
速い三体だけ。
レオは止まり。
自分の役割を続けた。
また別の場面。
三つの提案。
アリシアは自分を選んだ。
欲しかったからではなく。
後方二体が最も近かったから。
自分を選ぶ時も、根拠を言う。
そして。
選ばなかったレオとセレナへ。
正面。
右。
それぞれの危険を任せた。
最後。
ミリアとフィンから同時に提案が出た。
フィンを選んだ。
ミリアは選ばれなかった。
けれど、左床下二体を処理し。
再提案が必要ないところまで危険を下げた。
提案は。
中央へ選ばれるためだけの声ではない。
危険を見つけた声。
何かを変えた方がいいと伝える声。
だから。
中央候補として選ばれなかったとしても。
その声が見ていたものは、戦場から消えない。
役割を渡す。
再提案の条件を置く。
そして。
選ばれなかった者も、勝手に動かず、今の中央へ声を渡し続ける。
今日、六人が覚えたのは。
どの提案を選ぶかだけではなかった。
選ばなかった提案を、どう残すかだった。




