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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第84話 役目を渡しても、自分の声まで消えるわけではない


 翌朝、隠れ里の空には薄い雲が浮かんでいた。


 夜明け直後の光はまだ弱く、森の奥から流れてくる風には水気を含んだ冷たさが残っている。窓硝子には白い曇りが薄く張り、外の枝を渡る小鳥の姿も、輪郭だけが淡く滲んで見えた。


 アリシアは目を覚ますと、すぐには起き上がらなかった。


 身体の状態を確かめる。


 肩の重さは、昨日より少し軽い。


 右肩だけに残っていた張りも、腕をゆっくり回せば気にならない程度だった。冷えはなく、頭痛もない。眠気はいつもと同じで、起き上がることを少しだけ面倒に感じるくらいだった。


「肩、昨日より軽い」


 窓辺で前足を舐めていたノアが、こちらを見ずに答える。


「他は?」


「冷えなし。頭痛なし。眠気は普通」


「今日の不安は?」


 身体ではなく、心の状態を聞かれた。


 アリシアは掛け布の端を指で掴み、少しだけ考えた。


「中央を渡すこと」


「まだ誰から誰へ渡すかも決まっていないのに?」


「だから」


「分からないことが怖い?」


「うん」


 昨日、ルシアンが治療へ入るため、セレナへ中央を渡した。あの時は治療条件が明確で、代行役も事前に決めていた。フィンの呼吸機能が低下したため、中央を離れる必要があり、セレナもすぐに役割を受け取った。


 今日からは、それを訓練の中心にする。


 負荷。


 敵の配置。


 得意な判断。


 戦場の変化。


 それらに応じて、戦闘中に中央を交代する。


 しかし、誰が最初に中央へ立つのかも、いつ交代するのかも、まだ分からない。


「渡した後、返ってこないかもしれない」


 アリシアが言うと、ノアは毛繕いを止めた。


「役割が?」


「うん」


「それが怖いのね」


「私より、受け取った人の方が上手だったら」


「返してもらえない?」


「うん」


「返してもらえなければ、あなたは必要ない?」


 アリシアはすぐに答えられなかった。


 自分が中央を担当した最初の日。


 何度も言葉が遅れ、全てを自分で決めようとして止まった。けれど、その経験があったからこそ、レオやセレナが中央に立った時、それぞれが何に困っているのか少し分かるようになった。


 それでも。


 他の誰かが自分より上手く判断できるなら。


 自分は中央へ戻る必要がないのではないか。


 中央だけではない。


 影による拘束も。


 索敵も。


 情報整理も。


 誰かがもっと上手にできるなら、自分の場所は少しずつ消えていくのではないか。


「必要ないって思われるかもしれない」


「誰に?」


「みんなに」


「昨日、ルシアンが中央をセレナへ渡した時、ルシアンは必要なくなった?」


「違う。治療してた」


「では、中央でなければ役に立てないわけではない」


「うん」


「あなたも分かっているでしょう」


「分かってる。でも、怖い」


「なら、怖いまま渡しなさい」


「簡単に言う」


「簡単ではないわよ」


 ノアは椅子から飛び降り、寝台の近くへ歩いてくる。


「役割を渡すとは、自分ができないと認めることではない。今、その役割に別の者の力が必要だと認めることよ」


「自分より向いてる人に?」


「その時の条件に向いている人へ」


「ずっとじゃない?」


「ずっとかもしれないし、一時的かもしれない。それは結果を見なければ分からない」


 アリシアは膝を抱えた。


「返ってこなかったら?」


「別の役割をしなさい」


「寂しい」


「そうでしょうね」


「否定しないの?」


「役割を手放して寂しいと思うことは、悪くないでしょう」


 ノアの金色の目が静かにアリシアを見つめる。


「寂しいから危険な状態でも握り続けるなら問題。でも、手放した後に寂しいと思うことまで、止める必要はない」


「役に立ちたいって思うのも?」


「当然」


「でも、それで全部抱えない」


「ええ」


 昨日のルシアンと同じだった。


 助けたい。


 治したい。


 それでも、全てを抱えない。


 今日のアリシアは。


 判断したい。


 必要とされたい。


 それでも、中央を握り続けない。


「今日の私は、肩が少し軽くなった。冷えなし。頭痛なし」


「他」


「中央を渡すのが怖い」


「他」


「返ってこないのも怖い」


「それで?」


「でも、必要なら渡す」


 ノアは僅かに目を細めた。


「朝の一問は百点」


「今日は百一点じゃない?」


「欲張り」


「ノアが始めた」


「その責任は昨日の私へ返しておきなさい」


「便利」


 アリシアは少し笑い、寝台から降りた。


 ◇


 朝食の席では、祖父が硬い黒パンを炙っていた。


 火の上へ置かれた鉄板から香ばしい匂いが立ち上り、鍋の中では細かく刻んだ野菜と豆のスープが静かに煮えている。窓の外は薄曇りだが、雨の気配はなく、屋根から落ちる雫の音も今日は聞こえなかった。


「今日は何をする」


 祖父はパンを裏返しながら尋ねた。


「途中で中央を変える」


「誰から誰へ」


「まだ分からない」


「なら困るな」


「うん」


「決めてないのか」


「一部は訓練で決める。後は自分たち」


「昨日はやったんだろ」


「ルシアンからセレナに。でも、治療の間だけ」


「今日も同じようにすればいい」


「条件が違う」


「なら違うようにやれ」


 祖父はあまりにも簡単に言い切り、炙ったパンを皿へ置いた。


「それが難しい」


「誰も簡単とは言ってない」


「今、簡単そうに言った」


「お前が難しい顔をしても、条件は減らんだろ」


 アリシアは椅子へ座り、スープを一口飲んだ。


「中央を渡した後、返ってこなかったら?」


「何が」


「役割」


「別のことをしろ」


「ノアと同じ」


「猫と一緒にするな」


『今日も正しいわね』


「聞こえない」


 祖父は自分のパンをちぎりながら続ける。


「お前は中央だけするのか」


「違う」


「なら終わりだ」


「でも、中央をやりたいって思ったら?」


「思えばいい」


「戻してって言っても?」


「必要なら言え」


「必要じゃなかったら?」


「言って断られろ」


 アリシアは目を瞬いた。


「断られる?」


「今は戻さない方がいいと言われるかもしれん」


「嫌だ」


「嫌でも戦いは続く」


「厳しい」


「役割を欲しがるのと、必要な役割をするのは別だ」


 祖父は淡々としている。


 その言葉は胸へ少し痛く入った。


「私が必要じゃないってこと?」


「違う」


「じゃあ」


「中央が必要ないだけだ」


 アリシアは祖父を見る。


「その時のお前に、中央以外の仕事があるなら、それをやれ。何もないなら、周りを見ろ。何かある」


「なかったら?」


「立ってるだけでも、他の者が戻る場所になるかもしれん」


 昨日、ミリアが言った。


 中央が崩れたら、助けに行った二人も帰れない。


 動かないこと。


 役割を持っていないように見えること。


 それでも、誰かが戻る場所を残している場合がある。


「おじいちゃん」


「何だ」


「役割を渡したら、寂しいと思ってもいい?」


 祖父はスープの器を持ち上げる前に、一度だけアリシアを見た。


「勝手に思え」


「言い方」


「思うなと言って消えるのか」


「消えない」


「なら思ってろ。ただし、戦いの邪魔はするな」


「うん」


「それと食え」


「食べてる」


「今日は止まってないな」


「少し成長」


「パン一枚で大げさだ」


 アリシアは少し笑いながら、炙ったパンを口へ運んだ。


 役割を渡す。


 寂しい。


 怖い。


 戻りたい。


 それでも。


 今、必要なことをする。


 ◇


 学園へ続く道には、昨夜までの雨で残った水溜まりがいくつかあった。


 空は明るくなり始めているが、雲の隙間から差す光は弱く、木々の影もぼんやりしている。登校する生徒たちは、水溜まりを避けながら昨日の訓練について話していた。


「光が治さないの、最初は驚いた」


「でも最後まで守れたよな」


「今日から中央が途中で変わるらしいぞ」


「誰が最初だろ」


「闇じゃない?」


「最初の中央だったし」


「いや、火からじゃないか」


「途中で何回変わるんだろ」


「六人全員?」


 予想。


 期待。


 勝手な順番。


 アリシアは歩きながら、自分の胸が少し硬くなるのを感じた。


 最初が自分かもしれない。


 そう思うと怖い。


 違う人かもしれない。


 それも少し寂しい。


「両方ね」


 ノアが足元で言う。


「うん」


「どちらでも今日のあなたは変わらない」


「役割は変わる」


「あなた自身は消えない」


「うん」


 中央校舎へ入ると、廊下にはいつもより多くの生徒が集まっていた。中央交代訓練への関心が高く、戦術科の上級生だけでなく、他学科の生徒も見学許可について話している。


 教室の扉を開ける。


「おはよう、アリシア」


「おはよう、メリル」


 席へ着くと、メリルはすぐにアリシアの肩へ目を向けた。


「今日は動かしやすそう」


「昨日より軽い」


「冷えと頭痛は?」


「ない」


「今日は中央が変わるんだよね」


「うん」


「アリシアから?」


「分からない」


「最初じゃなかったら、嫌?」


 あまりにも直接聞かれ、アリシアは少し黙った。


「少し」


「やりたいんだ」


「怖いけど」


「怖いのに?」


「一回やったから。もう少しできるか確かめたい」


「じゃあ、途中で交代って言われたら?」


「嫌かもしれない」


「必要でも?」


「必要なら渡す」


 メリルは少し考え、穏やかに尋ねる。


「渡した後、何をするの?」


「自分の担当」


「それでも中央を見ちゃう?」


「たぶん」


「戻りたいって思う?」


「思うかもしれない」


「言う?」


「必要なら」


「必要かどうか、誰が決める?」


 難しい質問だった。


 自分だけで決めれば、役割を取り返したい気持ちを必要だと思い込むかもしれない。受け取った者だけに決めさせれば、戻りたい自分の状態を伝えられない。


「自分の状態を言う」


「うん」


「戻れるって」


「うん」


「でも、返すかはみんなで決める」


 メリルは小さく笑った。


「いいね」


「でも、返ってこなかったら寂しい」


「寂しくても、その人の指示を聞ける?」


「聞く」


「怒らない?」


「少し怒るかも」


「それでも?」


「必要なら動く」


「両方だね」


「うん」


 寂しい。


 でも、従う。


 戻りたい。


 でも、奪わない。


 その両方を持ったまま、今日の自分を見る。


 ◇


 午前の戦術理論では、『指揮権の移譲』が題材になった。


 黒板には一本の横線が引かれ、その途中に三つの円が描かれている。教師は最初の円に『中央A』、二つ目に『中央B』、三つ目に『中央A復帰』と書いた。


「中央交代で重要なのは、交代そのものではありません」


 教室の前列から声が上がる。


「じゃあ、何ですか」


「交代前後の情報です」


 教師は最初と二つ目の円の間へ、矢印を書き加えた。


『現状』


『未処理』


『負荷』


『次の危険』


「中央を渡す者は、全てを説明する時間があるとは限りません。しかし、何も言わずに渡せば、受け取った側は最初から状況を集め直すことになります」


 アリシアは筆を動かす。


『全部ではなく、今必要なこと』


「例えば、右に大型一体。左に小型二体。中央役の負荷が二。次に上方出現の可能性。この四つが必要なら、短く渡します」


 教師は例を書いた。


『右大型一、左小型二、私負荷二、上方注意。中央交代』


「受け取る側は?」


 教師が尋ねる。


 トマが手を挙げる。


「受け取ったって言う」


「それだけ?」


 ミーナが続ける。


「最初の指示を出す」


「そうです」


『受領』


『最初の判断』


「返事だけでは交代は成立しません。受け取った者が、次の指示を出して初めて中央が移ります」


 アリシアは昨日のルシアンとセレナを思い出した。


『中央をセレナへ移譲』


『引き継ぎます』


 その直後、セレナが全員へ指示を出した。


 だから六人は迷わなかった。


「では、元の中央が戻れる状態になった場合は?」


 教師は三つ目の円を指す。


「自分から戻るって言う?」


「必要です。ただし」


『復帰申告』


『現中央の判断』


「戻れると申告することと、すぐに戻すことは同じではありません」


 アリシアの筆が少し止まった。


 昨日、ノアと話したこと。


 戻れる。


 でも、返ってこないかもしれない。


「現中央は、戦況と負荷を見て返却するか決めます。今のまま続ける方が安全なら、返さない場合もあります」


 教室内に少しざわめきが起きる。


「元の人、嫌じゃない?」


「自分の役割なのに」


 教師はその反応を待ち、静かに言った。


「中央は所有物ではありません」


 教室が静かになる。


「誰かの権利ではなく、その時、班に必要な役割です」


 アリシアの胸へ、少し痛く入る。


『中央は所有物ではない』


「返してもらえなかった者は、失敗ですか」


 誰もすぐには答えない。


「違います」


 教師は自分で続ける。


「役割を渡した後、別の場所で戦い続けられたなら、班の一員として機能しています。返却されないことを、不要になったと受け取らないでください」


 アリシアは、黒板の言葉を書き写した。


『中央でなくても、声は残る』


 教師がこちらへ視線を向ける。


「アリシアさん」


「はい」


「元の中央が、戻れる状態だと申告した。しかし現中央が返さなかった。どうしますか」


 胸が少し強く鳴った。


「理由を聞く」


「戦闘中です」


「……自分の役割を続ける」


「感情は?」


「嫌かもしれない」


 教室の何人かがこちらを見る。


 アリシアは少し緊張しながらも続ける。


「でも、後で話す」


「良いでしょう」


「戦闘中は、返されなかったことより、今の危険を見る」


「その通りです」


 教師は黒板へ最後の言葉を書く。


『感情は後で置き直す』


「感情を無視しろという意味ではありません。戦闘中に処理できない感情は、終了後に確認する。そのための振り返りです」


 アリシアは強く頷いた。


 寂しい。


 悔しい。


 戻りたい。


 それらを消す必要はない。


 ただ、戦闘中に役割を奪い返す理由へしない。


 ◇


 昼休み、六人は中庭の石卓へ集まった。


 雲の隙間から時折日が差し、濡れた芝生の上に明るい斑点を作っている。風は少し強く、セレナの紙が捲れそうになるたび、ミリアが小さな土の欠片を置いて押さえていた。


「それ、便利ね」


 セレナが言う。


「認めた!」


 ミリアが嬉しそうに笑う。


「紙の保全に有効です」


「便利でいいじゃん」


「評価表現の正確さが必要です」


「始まった」


 フィンが果物を食べながら呟く。


 レオは今日も大きなパンを持っているが、話し始める前に一度口元から離した。


「今日は誰が最初の中央だと思う?」


「食べる前に離した」


 アリシアが言うと、レオは少し胸を張る。


「成長した!」


「そこを褒めるんだ」


 フィンが呆れたように言う。


 ルシアンは小さく笑い、全員の顔を見た。


「教官から、事前条件だけ届いています」


 セレナが紙を開く。


『初期中央:アリシア』


 胸が強く鳴った。


 予想していた。


 でも、実際に名前を見ると、身体の内側へ緊張が広がる。


「アリシアから!」


 ミリアが明るく言う。


「大丈夫?」


 ルシアンがすぐに尋ねる。


 アリシアは一度、自分の身体と心を確かめた。


「肩は少し軽い。冷えなし。頭痛なし」


「中央は?」


「怖い。でもやる」


「了解」


 セレナが紙へ書き加える。


「交代条件は三つです」


『中央役の負荷二以上』


『中央役が前方介入を必要とする場合』


『敵情報が中央役の得意範囲外へ偏った場合』


「三つ目」


 フィンが紙を覗き込む。


「誰の得意範囲かで交代するってこと?」


「そうだと思います」


 セレナが答える。


「例えば、音情報が多ければ僕?」


「治癒判断が連続すれば、僕かもしれません」


 ルシアンも続ける。


「大型が多かったら私?」


「速い判断なら俺!」


 レオが声を上げる。


「正確な整理ならセレナ」


 アリシアが言う。


「アリシアは?」


 ミリアが尋ねる。


 少し迷う。


「後方と影。あと」


「あと?」


「誰が困ってるか見る」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。


 でも、セレナは真面目な顔で頷く。


「中央補助の経験があります。負荷や停滞への気づきは、適性として記録できます」


「自分で言えたのも良い」


 ルシアンが穏やかに付け加える。


「では、初期配置を決めましょう」


 アリシアは紙を見る。


 最初の中央。


 自分。


 五人へ指示を出す。


「正面、レオ。右、ミリア。左、セレナ。中央後方、ルシアン。後方、フィン」


「フィンが後方?」


 レオが尋ねる。


「音を広く取れる。私が中央だから、影は近い範囲だけにする」


「なるほど」


「中央交代の第一候補は?」


 セレナが聞く。


 アリシアは少し考える。


「状況で決める」


「事前候補なし?」


「受け取れるかは、みんなに聞く」


「良いと思います」


 ルシアンが頷く。


「渡す時の言葉」


 フィンが言う。


「現状、未処理、負荷、次の危険」


「うん」


「戻る時は?」


「戻れるって言う。でも」


 アリシアは少し言葉を詰まらせた。


「返すかは、今の中央が決める」


 全員が少し静かになる。


 その言葉の中に、アリシアの怖さが混じっていると気づいたのかもしれない。


「返さなかったら」


 レオが言う。


「後で理由を言う」


「うん」


「戦闘中は?」


「今の役割をする」


「分かった」


 レオの返事は短かった。


 でも、余計な慰めを入れなかったことが、少し嬉しかった。


 ◇


 午後の第一戦術演習室には、これまでで最も多くの見学者が集まっていた。


 中央役一巡後、初めての交代訓練。上級生だけでなく、戦術科の教師も数人見学席の後方へ立っている。生徒たちは中央がどのように移り、六人の動きがどう変わるのかを見ようと、開始前から紙を広げていた。


「初期中央は闇だって」


「最初にやった子だよな」


「途中で誰に渡すんだろ」


「火じゃない?」


「いや、敵次第だろ」


「戻すのかな」


 アリシアは中央へ立ち、呼吸を整えた。


 足元にはノアがいる。


「今のあなたは?」


「肩、少し軽い。冷えなし。頭痛なし。緊張、大きい」


「それで?」


「立てる」


「十分」


 年配の教官が前へ出る。


「本日の条件」


 黒板へ書かれた。


『移動防衛』


『中央標柱一基』


『標柱は指定経路を移動』


『経路は途中で分岐』


『敵数未公開』


『情報制限あり』


『中央交代最低一回』


『制限時間二十分』


「最低一回?」


 レオが声を上げる。


「状況がなくても変えるんですか」


 セレナが尋ねる。


「一度も必要がなければ、訓練にならん」


「交代時機は?」


「自分たちで決めろ」


「分岐条件は?」


「標柱が到達してから表示する」


「他は?」


 アリシアが尋ねる。


「ない」


 教官が全員を見る。


「配置」


 アリシアは一度だけ息を吸う。


「正面レオ。右ミリア。左セレナ。中央後方ルシアン。後方フィン。中央、私」


「交代条件」


「負荷二以上。私が前方介入する時。敵情報が他の人の得意範囲へ偏った時。それ以外でも必要なら変えます」


「受け渡し情報」


「現状、未処理、私の負荷、次の危険」


「よし」


 教官が手を上げる。


「開始」


 ◇


 標柱が低い音を立て、床へ刻まれた白い線に沿って動き始めた。


 最初の直線。


 敵なし。


 アリシアは中央から左右と後方を見た。


「全員、担当確認」


「正面なし!」


「右なし!」


「左なし!」


「後方、音なし」


「全員状態、問題なし」


 ルシアンの声。


 アリシアは頷く。


 十秒。


 二十秒。


 正面。


 小型二体。


「正面二!」


 レオが報告する。


「現時点、レオが処理。左右維持」


「了解!」


 レオの火が一体を止め、二体目の進路を逸らす。ミリアもセレナも動かない。


「正面処理!」


 順調。


 次。


 右から三体。


「右三!」


 ミリアの声。


「距離」


「十歩、九歩、十二歩!」


「ミリア、先頭を停止。セレナ、右支援一体。レオは正面維持」


「了解!」


 土壁が先頭を止め、水の拘束が二体目を絡め取る。残る一体はミリアが斧で進路を変えた。


「右処理!」


 見学席から小さな拍手が起こる。


 アリシアは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 できている。


 でも。


 まだ始まったばかり。


 標柱が最初の曲線へ入る。


「後方、音二」


 フィンが報告する。


「確定?」


「仮説。近づいてる」


「アリシア」


 セレナがこちらを見る。


 影で確認できる。


 でも、中央から意識を外しすぎれば、左右が見えなくなる。


「フィン、距離」


「十四歩。速度遅い」


「後方仮説二。今はフィンが確認継続。私は中央維持」


「了解」


 すぐに影を伸ばさなかった。


 少し不安。


 でも、任せる。


 三秒後。


「後方二、目視!」


 フィンの声。


「フィン、風で遅延。ルシアン、後方支援準備。標柱は速度維持」


「了解」


 風が二体の進路を曲げる。


 ルシアンが光を広げ、一体を押し戻す。


「一体遅延、一体抜ける!」


 フィンの報告。


「私が影で一体止める。中央補助、ルシアン」


「受けます」


 アリシアは中央位置から半歩だけ後ろへ意識を向け、影を伸ばす。抜けた一体の脚を掴み、冷えを確認する。


「負荷一未満。冷えなし」


「確認。全体異常なし」


 ルシアンが補助を続ける。


「フィン、処理」


「了解」


 風矢が魔導核を捉え、後方二体が止まった。


「影解除。中央継続」


 まだ渡さない。


 負荷は一未満。


 介入も短い。


 自分で中央へ戻れる。


 ◇


 標柱が最初の分岐点へ到達した。


 床の白線が左右へ二本に分かれ、正面の壁へ文字が浮かぶ。


『右経路:距離短、遮蔽多』


『左経路:距離長、開放』


「選択時間十秒」


 術式の声が響く。


 アリシアは情報を見る。


 右。


 短い。


 遮蔽。


 敵が見えにくい。


 左。


 長い。


 開けている。


「フィン、音」


「右から反響多い。数は不明。左は今なし」


「セレナ、地形」


「右は水流操作が難しい可能性。左は可能」


「ミリア」


「右でも土壁は出せる。でも狭い」


「レオ」


「どっちでも行ける!」


「残り五秒」


 全部。


 確認したい。


 敵数。


 遮蔽の形。


 追加。


 でも、時間がない。


「現時点、左経路!」


「了解!」


 標柱が左へ進む。


 見学席から少しざわめきが起きる。


「長い方?」


「敵が見える方を選んだ?」


 アリシアは聞こえても振り返らない。


 今ある情報で決めた。


 間違っていれば変える。


 ◇


 左経路へ入ってすぐ、上方から小型魔導獣が四体降下した。


「上四!」


 ルシアンが最初に気づく。


「レオ、上二! セレナ、左上! フィン、右上! ミリア、標柱へ屋根!」


「了解!」


 火、水、風、土が同時に動く。


 ミリアの土壁が標柱の上へ斜めの屋根を作り、落下してきた一体を弾く。レオの火が二体を焼き、フィンの風矢が右上を止める。


「左上一体、拘束!」


 セレナの声。


「処理継続!」


 アリシアは中央から全体を見る。


 上。


 左右。


 後方。


 次。


 その時、前方の開けた通路へ大型魔導獣が二体出現した。


「正面大型二!」


 レオが叫ぶ。


 上方四体。


 正面大型二。


 ミリアは標柱上の屋根を維持。


 セレナは左上一体を拘束。


 フィンは右上。


 ルシアンは状態確認。


 アリシアの中へ、情報が一気に流れ込む。


「上、残り一!」


「大型、標柱まで十五歩!」


「土屋根、維持可能!」


「左上処理まで三秒!」


 誰へ。


 どこ。


 大型二。


 アリシアの影なら、正面一体を止められる。


 でも、中央を維持しながら大型へ強く介入すれば、負荷が上がる。


 交代条件。


 自分が前方介入する場合。


 今。


「中央交代」


 言葉が喉へ引っかかる。


 渡す。


 誰へ。


 正面判断。


 速さ。


 大型。


「レオ!」


「何!」


「正面大型二、上残り一、私が一体へ影介入、負荷上昇見込み。中央を渡す!」


 レオの目が一瞬大きくなる。


 でも、すぐに答えた。


「受け取る! ミリア、屋根維持! セレナ、上処理後に大型左! フィン、右大型へ風! ルシアン、アリシアの負荷!」


 指示が出た。


 中央が移った。


 アリシアは影を正面へ伸ばす。


 大型一体の脚へ絡め、動きを止める。


 冷気が指先から腕へ広がる。


「負荷一!」


「確認!」


 レオの声。


「アリシア、一体だけ! 俺が右大型!」


 レオは中央位置へ寄りながら火を放ち、右側の大型へ注意を向けさせる。


 セレナが上方最後の一体を処理し、水を大型左へ回す。


 フィンの風が右大型の進路を曲げる。


 アリシアは影で一体を止め続ける。


 中央ではない。


 今は前方介入。


 それでも、声は聞こえる。


「ミリア、屋根解除! 大型左へ土壁!」


「了解!」


「ルシアン、全員状態!」


「アリシア負荷一・二。レオ軽度。ほか問題なし!」


 レオ。


 速い。


 指示。


 少し粗い。


 でも、状況が動く。


 アリシアは自分の負荷へ意識を向ける。


 一・二。


 まだ。


「影、あと五秒」


「三秒で離せ!」


 レオが言う。


「分かった!」


 セレナの水とミリアの土壁が大型左を止める。


「アリシア、解除!」


「解除!」


 影を戻す。


 冷えが腕へ少し残る。


「負荷一。冷え少し」


「後方へ下がれ!」


「了解」


 中央はレオ。


 自分は後方。


 動く。


 でも、胸の奥へ小さな寂しさが生まれる。


 中央を渡した。


 もう、指示を出しているのはレオ。


 速い。


 皆が動く。


 自分がいなくても。


 できている。


 ◇


 大型二体は、レオの中央判断で処理された。


「右大型停止!」


「左大型処理!」


 見学席から拍手が広がる。


「火に変わって速くなった!」


「闇が前へ出たから交代した!」


「受け渡し短かったな!」


 アリシアは後方位置から、その声を聞いた。


 嬉しい。


 レオができた。


 自分が渡せた。


 でも。


 胸の奥。


 少し痛い。


 戻りたい。


 今なら負荷は一未満へ下がっている。


 冷えも弱い。


「レオ」


 呼ぶ。


「何!」


「負荷、一未満。冷え少し。中央へ戻れる」


 言えた。


 返して。


 ではなく。


 戻れる。


 レオは一瞬だけこちらを見る。


 その時、標柱の前方に第二分岐が現れた。


『右:狭路、敵反応小』


『左:広路、敵反応大』


 同時に、右側の遮蔽の向こうから複数の足音が響く。


「フィン!」


 レオが叫ぶ。


「音七以上! 右に集中!」


 敵情報。


 音。


 フィンの得意。


 レオはすぐに判断した。


「アリシア、まだ戻さない!」


 胸が強く痛んだ。


 でも。


「了解」


 言えた。


「フィン、中央受け取れるか!」


「受け取れる!」


「右に七以上、標柱分岐前、俺の負荷軽度、上方不明! 中央交代!」


「受領! 右経路は敵数多い可能性、左は反応大。現時点、左経路を選択! レオ正面、アリシア後方維持、全員音報告は僕へ!」


 中央がレオからフィンへ移る。


 アリシアには戻らなかった。


 さらに別の者へ渡った。


 寂しい。


 悔しい。


 でも、フィンの指示は必要だった。


「後方、音なし」


 自分の役割をする。


 声を出す。


 中央ではない。


 でも、六人の声の一つ。


 ◇


 左経路へ入ると、正面から五体、左右から二体ずつの小型魔導獣が現れた。


 敵数は多い。


 だが遮蔽は少なく、フィンの音情報と全員の目視が一致している。


「正面五、左右各二。追加音なし!」


 フィンが報告する。


「現時点、正面優先。レオは二体処理、ミリアは正面壁。セレナ右二、アリシア左一を影、ルシアン左一を光で遅延!」


「了解!」


 アリシアは左側へ影を伸ばす。


「負荷一未満。冷え増加なし!」


「確認。左は処理ではなく遅延!」


「うん!」


 中央の指示を聞く。


 自分で決めない。


 でも、状態は伝える。


 レオの火が正面二体を処理し、ミリアの土壁が残り三体の進路を狭める。セレナの水が右二体を拘束し、ルシアンの光が左の一体を押し返した。


「正面残り三!」


「右拘束!」


「左、影一、光一!」


 フィンは音を聞きながら、短く指示を続ける。


「レオ、正面三を一体ずつ。ミリア壁維持二秒後解除。セレナ右一処理、一遅延。アリシア、影解除準備!」


 速い。


 でも、レオとは違う。


 フィンは音と数を基準に、次の変化を予測している。


 アリシアはその違いを後方から見ていた。


 自分が中央へ戻らなかったから、見えた。


 フィンの中央。


 今。


 必要。


 ◇


 戦闘が一度落ち着いた時、フィンがこめかみへ指を当てた。


 アリシアは気づいた。


「フィン、状態」


「頭痛、軽い」


「音範囲」


「広げすぎたかも」


 ルシアンもすぐに確認する。


「悪化傾向ですか」


「少し」


 中央交代条件。


 負荷二以上。


 まだ二ではない。


 でも、敵情報が次に何へ偏るか分からない。


 標柱は第三の直線へ入る。


 前方には広い空間。


 床には複数の亀裂。


「床下」


 ミリアが言う。


「何かいる」


 土。


 床。


 ミリアの得意。


 フィンは一度考え、すぐに言った。


「ミリア、中央受け取れる?」


「受け取れる!」


「前方広場、床下複数、目視敵なし、僕の頭痛軽度上昇、上方音なし。中央交代!」


「受領! 全員、床から距離を取って! フィンは中央後方で音範囲縮小! アリシアは影を床へ広げず、亀裂の動きだけ見て!」


「了解!」


 中央がミリアへ渡る。


 フィンは戻されない。


 アリシアも戻らない。


 でも、今の床下判断はミリアが最も得意だ。


 標柱が広場へ入った瞬間、床から大型一体と小型四体が飛び出した。


「大型中央! 小型四、左右二ずつ!」


 ミリアの声が響く。


「私が中央土壁! レオ大型右脚! セレナ左小型二! フィン右小型の音確認! アリシア後方から大型脚へ一瞬だけ影! ルシアン全員状態!」


「了解!」


 ミリアは中央から大きな土壁を立て、大型の突進を正面で受ける。


 前へ出ない。


 中央に残ったまま守る。


 昨日の訓練がつながっている。


「大型、壁へ固定!」


「右脚、炎入る!」


「左二拘束!」


「右二、速度差あり!」


「影、一未満!」


 六人の声が重なる。


 ミリアは全体を聞き、指示を出す。


「右速い一をフィンが遅延! 遅い一は後! アリシア影解除! レオは大型継続! セレナ左処理!」


 アリシアは影を戻す。


「解除。冷えなし!」


 自分の声。


 中央ではない。


 それでも、使われている。


 ◇


 大型と小型四体を処理した後、ミリアは中央へ残った。


 標柱は最後の直線へ入る。


 アリシアの負荷は下がっている。


 冷えもない。


 頭痛なし。


 中央へ戻れる。


 でも。


 今のミリアは安定している。


 床の変化も続いている。


 返してもらう理由は、自分が戻りたいからだけ。


「アリシア」


 ノアが足元から小さく呼ぶ。


「うん」


「今のあなたは?」


「戻れる」


「他」


「戻りたい」


「他」


「でも、ミリアの方が今は合ってる」


「なら?」


「後方をする」


 自分で選ぶ。


 返してほしいと言わない。


 少し寂しい。


 でも、声は消えない。


「後方、異常なし」


 ミリアがすぐに返す。


「確認!」


 その一言が、少し嬉しかった。


 ◇


 最後の直線で、演習室の照明が落ちた。


 完全な暗闇ではないが、視界は大きく制限される。標柱の淡い光だけが六人の足元を照らし、遠くの敵影はほとんど見えない。


「暗所!」


 レオの声。


「床情報は取れる! でも遠くは見えない!」


 ミリアが報告する。


「音、多数!」


 フィンが続ける。


「後方からも!」


 アリシアは影へ意識を向けた。


 暗所。


 影。


 自分の得意。


 敵の位置。


 床。


 後方。


 今。


「ミリア」


「何!」


「暗所。影で全方向の近距離確認できる。中央へ戻れる」


 今度は。


 戻りたいからだけではない。


 状況が自分の得意へ偏った。


 ミリアはすぐに答えず、床の振動を確かめる。


「受け取れる?」


「うん」


「現状、正面床下二以上、左右不明、後方音あり。標柱まで残り三十歩。私の負荷一未満。次の危険は全方位。中央を返す!」


「受領!」


 胸が強く鳴る。


 戻った。


 でも。


 最初と同じではない。


「影は近距離全方位。フィンは遠距離音。ミリアは床下。レオ正面、セレナ右、ルシアン左。全員、確定と仮説を分けて!」


「了解!」


 指示を出す。


 中央が戻った。


 でも、受け取ったのは最初の自分ではない。


 レオの速さ。


 フィンの音。


 ミリアの床。


 その中央を見た後の自分。


「後方確定二! 右仮説三! 正面床下二!」


 影と音、土の情報が集まる。


「現時点、後方優先。フィン遅延、ルシアン支援。右はセレナ水膜で確認。正面床下はミリア阻害。レオは標柱正面維持!」


 六人が動く。


 アリシアは全部を自分で決めようとしない。


「フィン、後方距離」


「九歩、十一歩!」


「ルシアン、一体押せる?」


「可能!」


「一体光。もう一体フィン!」


「了解!」


「セレナ、右」


「三体確定。速度遅い!」


「右は遅延だけ。正面床下」


「二体、出る!」


 ミリアの土が床の亀裂を盛り上げ、飛び出した二体の進路をずらす。


「レオ、正面二!」


「おう!」


 炎が暗闇を赤く照らす。


 見学席から声が上がる。


「戻った!」


「闇に中央戻した!」


「暗所だから?」


「最初と指示が違う!」


 聞こえる。


 でも。


 今は六人の声だけを見る。


 後方二。


 右三。


 正面二。


 追加。


「上方一!」


 ルシアンの声。


「セレナ、右の水膜を上へ一部! ミリア、右三の進路を土で狭める! フィン、上方音確認!」


「上は一体確定!」


「セレナ、上処理!」


 水槍が暗闇を走る。


「上処理!」


「後方処理!」


「正面二処理!」


「右三、遅延継続!」


 アリシアは呼吸を整える。


 負荷。


 一未満。


 冷えなし。


 判断負荷。


 中。


「私、判断負荷中。継続可能」


 自分から言う。


「確認」


 ルシアン。


 その声が返る。


 標柱は目的地点へ近づく。


 右三体。


「セレナ、一体処理可能?」


「一体。残り二は遅延」


「レオ、正面から右へ火線一回」


「できる!」


「ミリア、標柱周囲土壁!」


「了解!」


 右の一体をセレナが水で止め、レオの火線が一体を処理する。残る一体はミリアの土壁で進路を外された。


「右残り一、標柱から十二歩!」


「標柱、目的地まで五歩!」


「全員、処理より距離維持! 標柱優先!」


「了解!」


 最後の一体が動いている。


 でも、倒す必要はない。


 標柱を目的地へ入れる。


 三歩。


 二歩。


 一歩。


「到達!」


 標柱が白い円の中へ入った。


 教官が手を上げる。


「終了」


 ◇


 一瞬の静寂の後、演習室に大きな拍手が広がった。


 派手な一撃で終わったわけではない。


 中央は、アリシアからレオへ、レオからフィンへ、フィンからミリアへ、そして最後にアリシアへ戻った。


 四度。


 そのたびに声が変わり、見る場所が変わり、六人の動きも変わった。


「中央が戻った!」


「でも、最初の闇と最後の闇、全然違った」


「途中で他の三人のやり方見てたから?」


「火は速いし、風は情報多いし、土は守りが安定してた」


「戻らない時間も長かったよな」


「後方でずっと報告してた」


 アリシアは拍手の中で、すぐには動けなかった。


 戻った。


 最後に。


 でも。


 途中。


 戻してもらえなかった。


 レオからフィンへ渡った時。


 少し苦しかった。


 ミリアが中央を続けていた時も、寂しかった。


 それでも。


 後方で声を出した。


 影を使った。


 状態を報告した。


 自分は消えていなかった。


「アリシア」


 ミリアが近づく。


「最後、すごかった!」


「ミリアが返した」


「暗い時、アリシアの方が全体見えたから」


「うん」


「途中、返さなくてごめん」


 アリシアは少し驚いた。


「どうして謝る?」


「戻りたいかなって思ったから」


「戻りたかった」


「やっぱり」


「でも、ミリアの方がよかった」


「怒った?」


「少し寂しかった」


 ミリアはすぐに「ごめん」と言わなかった。


 代わりに、静かに頷く。


「後で聞く」


「うん」


 感情は後で置き直す。


 今。


 まず状態確認。


「全員、状態報告」


 最後の中央として、アリシアが言う。


「レオ、軽い疲労。痛みなし!」


「ミリア、魔力負荷一。腕問題なし!」


「セレナ、魔力負荷一・三」


「フィン、頭痛軽度。音範囲縮小で悪化なし」


「ルシアン、軽い疲労。治癒負荷なし」


「アリシア、判断負荷中。影負荷一未満。冷えなし」


 全員。


 言えた。


 教官が頷く。


「四分休憩」


 ◇


 休憩の最初の一分、誰もすぐには話し始めなかった。


 水を飲み、呼吸を整え、手足の状態を確かめる。見学席のざわめきはまだ大きかったが、六人の周囲には静かな時間が流れていた。


 アリシアは壁へ背中を預け、水筒を両手で持った。


 嬉しい。


 戻れた。


 最後に中央をした。


 でも、それだけではない。


 戻れなかった時間。


 寂しかった。


 その感情もまだ残っている。


「アリシア」


 レオが隣へ座る。


「何?」


「俺からフィンに渡した時」


「うん」


「戻さなかった」


「うん」


「怒ったか?」


「少し」


「ごめん」


「でも、フィンが必要だった」


「そう思った」


「うん」


「アリシアが戻れるって言ったのも聞いた」


「うん」


「でも、右から七以上の音があって。俺よりフィンだと思った」


「分かってる」


「それでも怒った?」


「少し寂しかった」


 レオは黙った。


 謝れば消える感情ではないと分かったのかもしれない。


「じゃあ、次からどうする」


「戦闘中は同じでいい」


「本当に?」


「必要なら返さない」


「後は?」


「終わったら、理由を言って」


「分かった」


 フィンが反対側から言う。


「僕も、受け取った時、アリシアに返すか考えた」


「うん」


「でも、音情報が多かったから続けた」


「うん」


「少し嬉しかった」


「中央?」


「必要だと思われたこと」


 アリシアはフィンを見る。


 自分が返してほしいと思った時。


 フィンは受け取ったことを嬉しいと思っていた。


 両方。


 同じ時間。


 存在していた。


「私も、最初に中央で嬉しかった」


「うん」


「返ってこなくて寂しかった」


「うん」


「フィンは、受け取れて嬉しかった」


「うん」


「両方」


「両方だね」


 ミリアも近くへ座り、足を伸ばす。


「私、フィンから受け取った時、床下が見えたから迷わなかった。でも、その後アリシアに返さなかった時は少し迷った」


「どうして?」


「アリシアが戻れるって言ってたから」


「うん」


「でも、まだ床の亀裂が続いてた」


「うん」


「だから返さなかった」


「分かった」


「最後は暗くなったから返した」


「うん」


「その時、安心した」


「どうして?」


「アリシアなら暗くても見えるって思ったから」


 自分の役割が返ってきた理由。


 かわいそうだからではない。


 最初の役目だったからでもない。


 その時、自分の力が必要だったから。


 胸の奥が温かくなる。


「返ってきた」


「うん」


「でも」


 アリシアは水筒を見下ろす。


「返ってこないで終わる日もある」


「あると思う」


 セレナが静かに言う。


「その場合も、交代が適切であれば失敗ではありません」


「寂しくても?」


「感情評価と戦術評価は別です」


「セレナ、硬い」


 レオが言う。


「でも分かる」


 アリシアは少し笑った。


「寂しかったって言っていい?」


「当然です」


「返さなかった理由も聞いていい?」


「必要です。次回の交代条件を改善できます」


 ルシアンも頷く。


「感情を伝えることが、交代を責めることにならないように話せばいいと思います」


「どう言う?」


 アリシアが尋ねる。


「返してほしかった、と。返さなかったことが悪い、は違います」


「分かった」


 役割を返してほしかった。


 寂しかった。


 でも、返さなかった判断を責めない。


 両方。


 言える。


 ◇


 振り返りでは、黒板へ今日の結果が書かれた。


『結果:勝利』


『標柱:目的地到達』


『中央交代:四回』


『初期中央:アリシア』


『アリシア→レオ→フィン→ミリア→アリシア』


 見学席に残った生徒たちは、交代の流れを紙へ書き写している。


 教官は六人を見渡した。


「最初の中央。アリシア」


「はい」


「自己評価」


「七十点」


「理由」


「最初の分岐を時間内に決めた。上方と大型が重なった時、レオへ中央を渡した。最後、暗所で中央を受け取って指示を出せた」


「できなかったこと」


「レオに戻さないと言われた時、戦況より気持ちへ意識が向いた」


「動きは止まったか」


「止まらなかった。後方報告はした」


「なら、感情があったこと自体は失敗ではない」


「うん」


「他」


「戻れるって言った後、何度も言いそうになった」


「言ったか」


「言わなかった」


「なぜ」


「今の中央が決めるって、授業で聞いたから」


「七十」


 アリシアは少し考える。


「七十八点」


 レオが小さく笑う。


「また上がった」


「できたことも言ったから」


「俺たちの決まりみたいになってるな」


「良い」


 教官は黒板へ『移譲』と書いた。


「アリシアからレオ」


「はい」


「なぜ渡した」


「正面大型二体。私が影で一体へ介入する必要があった。速い正面判断はレオが合うと思った」


「受け渡し情報」


「正面大型二。上方残り一。私が影介入。負荷上昇見込み」


「不足」


 アリシアは少し考える。


「次の危険」


「そうだ。上方処理後の追加可能性を伝えていない」


「はい」


「レオ」


「はい」


「受け取った後の最初の指示は速かった。だが声量」


「必要でした!」


「半分で届く」


「はい」


 見学席から笑いが起こる。


「レオからフィン」


「右側へ七以上の音。音情報が多く、俺よりフィンが合うと思った」


「アリシアの復帰申告は聞いたか」


「聞いた」


「なぜ返さなかった」


「音情報が多かったから」


「本人へ伝えたか」


「戻さないとは言った。でも理由は言ってない」


「改善」


「右に七以上、音判断が必要だからフィンへ渡すって言う」


「よし」


 次にフィン。


「フィンからミリア」


「床下複数。頭痛軽度上昇。土の感知が必要だった」


「自分の負荷を伝えた」


「はい」


「受け取ったミリア」


「床下情報を確認して、すぐ全員を床から離した」


「良い」


「ミリアからアリシア」


「暗所。全方位から敵。影で近距離を見られるアリシアが合うと思った」


「返したのか」


「新しく渡しました」


 教官が僅かに頷く。


「その認識は良い」


 アリシアは少し驚いた。


「返したんじゃない?」


「初期中央へ戻ったとしても、戦況も本人も変化している。最初と同じ役割をそのまま返却したわけではない」


 黒板へ書かれる。


『復帰ではなく、再選択』


「中央役は荷物ではない。元の持ち主へ戻すという考え方だけでは、判断を誤る」


 教官は六人を見る。


「暗所でアリシアが最適だったから、再び選ばれた。それだけだ」


 胸の奥へ、強く入る。


 返ってきた。


 自分のものだからではない。


 今の自分が必要だったから。


「では」


 教官が続ける。


「アリシア。途中で戻されなかったことをどう思った」


 見学席も静かになる。


 アリシアは少し迷った。


 でも、隠さない。


「寂しかった」


 何人かが驚いたようにこちらを見る。


「他」


「戻りたかった」


「戦術上、返すべきだったと思うか」


「思わない。レオからフィン。フィンからミリア。必要だった」


「なら、その感情は間違いか」


「違う」


「どうする」


「終わった後、理由を聞く。返してほしかったって言う。でも、返さなかったことを責めない」


「良い」


 教官は黒板へ書いた。


『役割評価』


『感情』


「分けろ」


「はい」


「戦術上正しい交代でも、渡した者が寂しさや悔しさを感じることはある。その感情を無視すれば、次は渡せなくなる」


 見学席の教師たちも頷いている。


「だから振り返りで話す。返さなかった理由。返してほしかった気持ち。次回の条件。全部置き直せ」


 アリシアは強く書き留めた。


『渡せたことだけで終わらない』


『渡した後の感情も確認する』


「今日の主題」


 教官は黒板の中央へ大きく書く。


『中央は所有物ではない』


『中央でなくても声は消えない』


「全員」


「はい」


「次回は、交代回数を指定しない」


 レオが少し身を乗り出す。


「必要なかったらゼロ?」


「あり得る」


「何回でも?」


「必要なら」


 フィンが少し顔をしかめる。


「判断が増える」


「だから訓練する」


「初期中央は?」


「次回伝える」


 六人はそれぞれ、少しだけ緊張した顔をした。


 一度変えればいい。


 その条件はもうない。


 変えない判断も。


 何度も変える判断も。


 自分たちで決める。


 ◇


 演習室を出ると、廊下には見学を終えた生徒たちが多く残っていた。


「アリシアさん」


 戦術科らしい女子生徒が声をかける。


「途中で中央を返してもらえなかった時、本当に寂しかったんですか」


「うん」


 周囲の生徒たちが少し静かになる。


「でも、怒らなかったんですか」


 女子生徒は少し不思議そうな顔で尋ねた。


 アリシアは廊下の窓から差し込む午後の光を一度だけ見てから、小さく頷いた。


「少し寂しかった」


「うん」


「戻りたかった」


「うん」


「でも」


 そこで言葉を切り、少しだけ考える。


 どう言えば、この気持ちが伝わるのだろう。


 役割を返してほしかった。


 でも、それは戦術とは別の話だった。


「返さなかった理由があったから」


 女子生徒は首を傾げる。


「理由があれば平気なんですか」


「平気じゃない」


 アリシアは正直に答えた。


「寂しいまま」


「じゃあ」


「でも、その理由が班のためだった」


 少しだけ間を置く。


「だから、戦ってる途中では取り返そうと思わなかった」


 女子生徒は驚いたように目を丸くした。


「私だったら、『返してください』って言っちゃうかもしれません」


「私も言いたかった」


「えっ」


「何回も」


 周囲で聞いていた生徒たちから、小さなどよめきが起こる。


「でも、今の中央が必要だから続けてるなら、途中で私が取り返したら、みんなが困る」


「……」


「だから終わってから話した」


 女子生徒はゆっくり息を吐いた。


「役割を返してもらえなかったことと、自分が必要ないことは違うんですね」


「うん」


「今日、後ろで何回も報告してましたもんね」


「影も使った」


「最後はまた中央になりましたし」


 アリシアは少しだけ笑った。


「最後に戻れたから良かった、じゃない」


「違うんですか」


「戻れなくても、必要なら」


 女子生徒は何度も頷く。


「ありがとうございます」


 深く頭を下げると、そのまま友人たちの方へ戻っていった。


 その背中を見送りながら、フィンが隣へ並ぶ。


「少しずつ広がってるね」


「何が?」


「役割の考え方」


 廊下では、見学していた生徒たちがそれぞれ今日の演習について話し合っていた。


「交代って失敗じゃないんだな」


「途中で変わる方が弱いと思ってた」


「でも今日は違った」


「最後に戻ったのも、『返却』じゃなくて『再選択』って先生が言ってた」


「あれ印象に残った」


「自分の役割って考え方だと危ないんだな」


 その言葉を聞きながら、アリシアは胸の中が少し温かくなるのを感じた。


 今日、自分が感じた寂しさも。


 途中で戻れなかった悔しさも。


 全部、無駄ではなかったのかもしれない。


 ◇


 夕方。


 隠れ里へ戻る道は、朝よりも柔らかな光に包まれていた。


 森を抜ける風は少しだけ暖かく、木々の葉がゆっくりと揺れている。水路の流れる音も穏やかで、一日の終わりを静かに知らせているようだった。


 ノアはいつものようにアリシアの少し前を歩いていた。


「今日は長い一日だったわね」


「うん」


「一番残ったことは?」


 アリシアは少し考える。


 中央になったこと。


 渡したこと。


 戻れたこと。


 どれも大切だった。


 でも、一番残ったものは少し違う。


「戻れなかった時間」


「理由は?」


「その時、私が必要じゃないと思った」


「今は?」


「違った」


「どう違うの」


「その時は、別の人が必要だった」


 ノアは静かに頷いた。


「そして?」


「私も必要だった」


「どこで?」


「後方」


「他には?」


「影」


「他」


「報告」


 少し歩いてから、アリシアは小さく笑う。


「寂しいって言うこと」


 ノアも小さく目を細めた。


「それも今日の役目だったのかもしれないわね」


「そうかな」


「ええ。誰も寂しくならない交代なんて、最初から存在しないでしょう」


 その言葉に、アリシアは足を止めた。


 確かにそうだ。


 渡す人も。


 受け取る人も。


 返さない人も。


 返してもらえない人も。


 みんな何かを感じている。


「だから話す」


 アリシアが呟く。


「そう」


「戦ってる時じゃなくて」


「ええ」


「終わった後」


「そのための仲間でしょう」


 アリシアは空を見上げた。


 薄い雲の隙間から、夕日が静かに森を照らしている。


 今日、自分は中央を四度経験した。


 最初に持ち。


 途中で渡し。


 返されず。


 そして最後に、もう一度選ばれた。


 あれは返却ではなかった。


 今の自分が必要だったから、もう一度選ばれただけだ。


 そして、もし最後まで選ばれなかったとしても。


 後方で声を出した自分は、きっと消えてはいなかった。


 アリシアは胸の前で小さく手を握る。


 役割は変わる。


 中央も変わる。


 その時々で、一番必要な者が選ばれる。


 だからこそ、自分もまた、その時必要な役割を選び続ければいい。


 中央だけが、自分ではない。


 そう思えた一日だった。


 その夜。


 机へ向かったアリシアは、今日の訓練記録を静かに開く。


 新しい頁の一番上へ、少しだけ時間をかけて文字を書いた。


『役割を渡しても、自分の声まで消えるわけではない』


 その下へ、今日学んだことを一つずつ並べていく。


『中央は所有物ではない』


『必要だから選ばれる』


『返却ではなく、再選択』


『戻れなくても役割はある』


『寂しさは失敗ではない』


『感情と戦術は分けて話す』


『中央でなくても、仲間の声は戦いを支えている』


 最後に少しだけ考え、もう一行だけ書き足した。


『誰かへ役割を渡せる人は、自分の居場所まで渡してしまうわけではない』


 文字を書き終えると、アリシアはそっと本を閉じた。


 窓の外では、夜風が木々を優しく揺らしている。


 明日はまた、新しい訓練。


 次は、交代を提案されても中央役が断る訓練。


 渡す勇気とは違う。


 持ち続ける勇気とも違う。


 また新しい「判断」が、自分たちを待っていた。

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