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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第83話 助けられる傷を全部抱えるより、次の声を残す


 翌朝、アリシアが目を覚ました時、窓の外には薄い霧が広がっていた。


 昨夜まで濡れていた木々や石畳から、朝の冷気に押し上げられた白い靄がゆっくり立ち上っている。空には青さが戻っているものの、隠れ里の家々はまだ淡い霧の向こうに輪郭だけを見せ、遠くの水路から聞こえる音も普段より柔らかく届いていた。


 アリシアは寝台の中で両手を開き、指先を一本ずつ動かした。


 冷えはない。


 頭痛もない。


 脚の重さは、昨日より少しだけ軽くなっている。


 けれど、肩の奥に薄い疲れが残っていた。昨日、ミリアが大型魔導獣を止めている間、右側へ影を伸ばし続けた時の緊張が、眠っても完全には抜けなかったらしい。


「肩が少し重い」


 窓辺で外を見ていたノアが、耳だけをこちらへ向けた。


「右?」


「両方。でも右が少し強い」


「冷えは?」


「ない」


「頭痛」


「ない」


「眠気」


「普通」


「昨日よりは細かく言えるようになったわね」


 ノアはそう言いながらも、褒めるような声にはしなかった。いつもの確認として、ただ事実を受け取っている。


 アリシアは掛け布を畳みながら、今日の中央判断役を思い出した。


 ルシアン。


 光の神器を持ち、六人の中で最も状態確認に長けている少年。誰かの呼吸が浅くなればすぐに気づき、腕の動きが鈍れば本人より先に負荷を確認する。自分の治癒が必要だと思えば、迷わず手を伸ばす。


 それは、何度も六人を助けてきた。


 だからこそ、今日の中央は難しい。


 中央では、傷ついた一人だけを見ることはできない。


 誰かを治癒している間にも、他の方向から敵が来るかもしれない。目の前の痛みを軽くすることと、全体を守ることが食い違う場面もある。


「ノア」


「何?」


「ルシアン、全部治そうとするかな」


「全部とは?」


「誰かが少しでも痛かったら」


「あり得るわね」


「止めた方がいい?」


「治癒を?」


「無理してたら」


「何を無理と呼ぶの?」


 アリシアは少し考えた。


 ルシアンの治癒は、他の五人にとって安心だった。痛みや疲労を言えば、彼はすぐに見てくれる。だからこそ、どこからが必要で、どこからが過剰なのかを判断するのは難しい。


「自分が疲れても治し続けること」


「それは一つね」


「中央の指示が遅れること」


「それもある」


「相手が少し休めば戻れるのに、すぐ治すこと」


 ノアがゆっくり振り返った。


「なぜ、それが問題なの?」


「自分で休む練習を取るから」


「昨日までの話を使えるようになったわね」


「でも、痛いなら治した方がいい時もある」


「そうね」


「分からない」


「なら、今日のルシアンを見ること」


 やはり、そこへ戻る。


 昨日のミリアも、前へ出ること自体が悪かったわけではなかった。必要な条件を決め、中央を渡して動いた場面もある。


 ルシアンも同じだ。


 治癒することが悪いのではない。


 誰を、どの時点で、どの程度治すのか。


 中央として、それを選ばなければならない。


「助けられる人がいるのに、助けないのは怖いと思う」


 アリシアが言うと、ノアは少しだけ目を細めた。


「あなたも?」


「うん」


「では今日は、ルシアンだけの練習ではないわね」


「私も、任せる練習?」


「それもある。でも、もっと近いものがあるでしょう」


「何?」


「相手が少し苦しんでいても、すぐに全部取り除かないこと」


 アリシアの手が止まった。


「冷たい」


「そう感じる?」


「少し」


「では、苦しみを全て消すことが優しさ?」


「違う時もある」


「いつ?」


「その人が、自分で戻れる時」


「他には?」


「治す人が倒れる時」


「他」


「もっと危ない人がいる時」


 ノアは静かに頷いた。


「今日、ルシアンが何を選ぶか見なさい。そして、あなた自身も、誰かの不安や痛みをすぐに引き取ろうとしないこと」


「できるかな」


「できるかどうかは、今日のあなたが決めることよ」


 アリシアは小さく息を吐き、寝台から立ち上がった。


 ◇


 朝食の席では、祖父が干し肉と茸を煮込んだ濃いスープを器へ注いでいた。


 雨上がりの朝は火の匂いがいつもより強く、湿った薪が時折小さな音を立てている。窓の外にはまだ霧が残っていたが、台所の中は温かく、湯気の向こうで祖父の顔が少しぼやけて見えた。


「今日は光か」


「ルシアン」


「分かってる」


「最近、最初から名前で聞かない」


「毎朝増えるのか」


「六人だけ」


「十分多い」


 アリシアは椅子へ座り、スープを一口飲んだ。塩気と干し肉の味が強く、眠っていた身体がゆっくり起きていく。


「ルシアンは治すのが得意」


「光ならそうだろうな」


「光だからだけじゃない」


「本人が助けたがるのか」


「うん」


「いいことじゃないか」


「中央でも、全部助けようとしたら」


「倒れるな」


「それだけ?」


「他に何がある」


「指示が遅れる」


「なら困る」


「でも、目の前で痛そうにしてたら?」


「程度による」


「みんなそれ言う」


「程度を見ないで決める方が危ないからだ」


 祖父は自分の器を持ち上げ、少しだけ考えるように視線を落とした。


「畑で、葉が一枚傷んだら全部の作業を止めるか」


「止めない」


「根が腐りかけていたら」


「止める」


「同じだろ」


「人と葉っぱは違う」


「違うが、全部を同じ重さで扱えば何も進まん」


 アリシアは匙を持ったまま黙った。


 小さな痛み。


 大きな危険。


 休めば戻る疲労。


 すぐ治癒が必要な傷。


 中央は、それを区別しなければならない。


「助けなかったら、嫌われるかもしれない」


 口から出たのは、ルシアンのことだけではなかった。


 祖父はすぐには答えず、パンを一口食べてから言う。


「助けられるのに助けない者は嫌われることもある」


「うん」


「だが、助け続けて倒れる者も迷惑だ」


「厳しい」


「事実だ」


「ルシアンも迷惑?」


「知らん。だが、中央を任されたなら、治すことだけが仕事じゃないんだろ」


「うん」


「なら、治さない判断も仕事だ」


 治さない。


 その言葉は少し冷たく聞こえる。


 けれど、治癒を拒むことではない。


 今は休ませる。


 今は別の人を優先する。


 今は自分で戻れると信じる。


 そういう判断も含まれる。


「おじいちゃん」


「何だ」


「私が肩重いって言ったら、休めって言う?」


「どの程度だ」


「少し」


「動かせるか」


「動く」


「なら食え」


「またそれ」


「食べれば少しは戻る」


 祖父はアリシアの皿へパンをもう一切れ置いた。


「それでも悪くなったら言え」


「うん」


 すぐに全部を止めない。


 でも、変化は見る。


 それも一つの助け方だった。


 ◇


 学園へ着く頃には霧が薄れ、中央校舎の高い窓から朝日が差し込んでいた。


 廊下の床はまだ少し湿っているものの、昨日ほどの混雑はない。生徒たちは訓練の話をしながら教室へ向かい、六人の中央役が順番に変わっていることもすっかり知られ始めていた。


「今日は光が中央らしいぞ」


「回復役が中央って、前線きつくない?」


「逆に全部見られるんじゃない?」


「でも、誰かが傷ついたらそっちばかり見そう」


「光の人、いつも周りの状態見てるよな」


「自分のこと忘れそう」


 周囲の声は、ルシアンの輪郭をよく見ている。


 助ける。


 確認する。


 自分を後回しにする。


 その評価を本人が聞いたら、どう思うのだろう。


「今日の期待も相手のもの」


 ノアが足元から言う。


「うん」


「あなたが背負う必要はない」


「ルシアンも?」


「本人が背負う必要もない。でも、それをあなたが代わりに捨てさせることはできない」


 アリシアは小さく頷き、教室の扉を開けた。


「おはよう、アリシア」


「おはよう、メリル」


 席へ着くと、メリルはすぐにアリシアの肩へ目を向けた。


「右肩、少し固い?」


「分かる?」


「外套を脱ぐ時、いつもよりゆっくりだった」


「両方少し重い。右が強い」


「痛い?」


「痛くない」


「冷えと頭痛は?」


「ない」


「今日は、そのまま訓練?」


「うん。でも増えたら言う」


「ルシアンさんに?」


「みんなに」


「治してもらわないの?」


「今は、休めば戻るかもしれない」


 メリルは少し驚いた顔をした。


「治せるのに?」


「治さなくていい痛みもあるかもしれない」


「それ、怖くない?」


「少し」


「ルシアンさんも怖いかもね」


「うん」


 メリルは机へ教科書を置き、声を落とす。


「ルシアンさんは、どんな人?」


「優しい」


「うん」


「誰かが疲れてると、すぐ分かる」


「うん」


「自分が疲れてても、助けようとする」


「それは心配」


「中央だと、全員見なきゃいけない」


「一人を治してる間に、他の人が危なくなる?」


「あると思う」


「じゃあ、今日は治さない練習?」


 アリシアは少し考えた。


「治さないじゃなくて、選ぶ練習」


「誰を?」


「誰を。いつ。どのくらい」


「難しいね」


「うん」


「アリシアは、どう助ける?」


「ルシアンが全部やろうとしたら、止めるかもしれない」


「何て言うの?」


「まだ決めてない」


「今日のルシアンさんを見るから?」


「うん」


 メリルは少し笑った。


「最近、先に答えを作らなくなったね」


「少しだけ」


「でも、心配はする?」


「する」


「じゃあ、心配したまま見るんだ」


「うん」


 不安が消えてから待つのではない。


 不安なまま。


 相手が自分で選ぶ場所を残す。


 ◇


 午前の戦術理論では、『治療優先順位』が題材になった。


 教師は黒板へ三人の簡単な人型を描き、それぞれの横へ状態を書いた。


『腕に軽傷。戦闘継続可能』


『脚に中等度損傷。移動困難』


『外傷なし。魔力枯渇寸前』


「治療できる者が一人しかいない場合、誰から対応しますか」


 教室内でいくつもの手が上がった。


「脚の人。動けないから」


「魔力枯渇。倒れるかもしれない」


「腕の人は後回し」


 教師はそれぞれの意見を聞いた後、黒板へ一つの言葉を書いた。


『目的』


「何のために治療するのか。それによって優先順位は変わります」


 避難中なら、歩けない者を先に動ける状態へ戻す。


 防衛中なら、戦線を維持できる者へ最低限の治療を行う。


 魔力枯渇者が結界を支えているなら、外傷がなくても最優先になる。


「治療とは、全員を完全な状態へ戻すことではありません」


 教師の言葉に、教室が少し静かになった。


「戦場では、次の行動が可能になる程度まで戻し、残りは安全確保後に行うことがあります」


 アリシアは筆を止めずに書く。


『完全に治すことが目的とは限らない』


『次へ動ける状態』


「では、治療者が全員を完全に治そうとした場合、何が起きるでしょう」


 ミーナが答える。


「治療者が先に疲れる」


「時間がかかる」


「他の人の対応が遅れる」


 教師は頷いた。


「そして、治療を受ける側も、自分で休む、負荷を下げる、役割を変更するといった判断をしなくなる場合があります」


 アリシアの胸へ、その言葉が入った。


 助けてもらえる。


 治してもらえる。


 だから無理をしてもいい。


 もし六人がそう考え始めたら、ルシアンはどこまでも治し続けなければならなくなる。


「助ける力がある者ほど、自分が助けなければならないと思い込みます」


 教師は黒板へ続けて書く。


『治療可能』


『治療必要』


『治療最優先』


「この三つは同じではありません」


 できる。


 必要。


 今、最優先。


 それぞれ違う。


「アリシアさん」


 呼ばれ、アリシアは顔を上げる。


「軽い疲労を抱えた仲間が、治療を求めた場合はどうしますか」


「状態を聞く」


「それから?」


「休めば戻るなら、先に休む」


「治療しない?」


「悪くなったら治す。役割を続ける必要があって、休めないなら少し治す」


「良いでしょう」


「でも」


 アリシアは少し迷いながら続ける。


「本人が怖いから治してほしい時もある」


 教師は一度だけ頷いた。


「あります。その場合、安心のための治療が必要なこともあります。しかし、毎回治癒だけで不安を消そうとすれば、治療者への依存が生まれる可能性もある」


「じゃあ、どうする?」


「話すことです」


「何を?」


「何が起きているか。今すぐ治療が必要か。休めば戻るか。本人が何を怖がっているか」


 教師は教室全体を見る。


「治療は、光を当てることだけではありません。状態を言葉にし、次の行動を一緒に決めることも治療の一部です」


 アリシアはその言葉を強く書き留めた。


 ルシアンはいつも、治癒だけでなく状態を聞いていた。


 だからこそ今日、中央としてどこまでを自分の役目にするかが大切になる。


 ◇


 昼休み、六人は中庭の石卓へ集まった。


 雨上がりの空気には湿り気が残っていたが、日差しは柔らかく、濡れた芝生の上で細かな光が揺れている。ミリアが昨日作った土の板は片づけられており、今日は乾いた布だけで座ることができた。


「今日は晴れたな!」


 レオが空を見上げる。


「昨日の訓練もこれくらい明るかったら、救助対象もっと見えたのに」


 ミリアが言うと、フィンは果物を切りながら答えた。


「明るかったら別の遮蔽が出たと思う」


「教官ならやる」


「聞こえているぞ」


 少し離れた場所を通った年配の教官が振り返り、六人の周囲から笑いが起こった。


 ルシアンも笑っていたが、いつもより少し静かだった。


「ルシアン」


 アリシアが呼ぶ。


「はい」


「怖い?」


 ルシアンはすぐには答えなかった。


 弁当箱の蓋を丁寧に置き、少し考えてから言う。


「怖いです」


「何が?」


「誰かが傷ついた時に、治療を後回しにすることです」


 予想していた答えだった。


 けれど、ルシアンの声には思っていた以上の重さがあった。


「僕が治せるのに、そのまま戦わせることになるかもしれません」


「でも、全員を治したら」


 フィンが静かに続ける。


「君が止まる」


「分かっています」


「本当に?」


 セレナの問いに、ルシアンは少し視線を下げた。


「分かっているつもりです」


「昨日まで」


 ミリアが言う。


「私が右腕重いって言った時、すぐ治そうとしたよね」


「はい」


「休めば戻るって言われても」


「念のために、と思いました」


「その念のためが多い」


 フィンの言葉は少し厳しいが、責めているわけではなかった。


 ルシアンも反論せず、静かに受け止める。


「僕は、何かあってからでは遅いと思ってしまいます」


「分かる」


 アリシアが言うと、ルシアンはこちらを見る。


「アリシアも?」


「うん。誰かが苦しそうなら、すぐ何かしたい」


「そうですよね」


「でも、全部しない練習もしてる」


「難しいですか」


「かなり」


 ルシアンは少しだけ笑った。


「僕もです」


 レオが大きなパンを持ったまま身を乗り出す。


「じゃあ、今日の治療条件を決めよう!」


「口に物を入れたまま話さないでください」


 セレナが注意する。


「まだ食べてない!」


「持っているだけでしたか」


「食べる前!」


「紛らわしいです」


 少し笑いが起き、緊張が和らいだ。


「治療条件」


 セレナが紙を出す。


「まず、即時治療が必要な状態を決めましょう」


「出血は演習だとない」


 フィンが言う。


「負荷三以上?」


 ミリアが提案する。


「二でも危険な場合があります」


 ルシアンが答える。


「人による」


 アリシアが言う。


「私の黒月は二で感覚が鈍ることがある」


「そうですね」


「では、数値だけではなく行動不能の可能性も含めるべきです」


 セレナが書き足す。


 話し合いの結果、即時治療の条件は三つに分けられた。


 意識や感覚の低下。


 自力で役割を継続できない状態。


 放置すると急速に悪化する可能性。


「次に、すぐ治さなくていい状態」


 フィンが言う。


「軽い疲労」


「休めば戻る痛み」


「本人が役割変更を選べる時」


 アリシアも加える。


 ルシアンは紙を見つめ、少しだけ苦しそうに眉を下げた。


「本当に、治さなくていいのでしょうか」


「治さないんじゃない」


 アリシアはゆっくり言葉を選ぶ。


「今すぐじゃない」


「でも、本人が治してほしいと言ったら?」


「理由を聞く」


「怖いからだったら?」


「一緒に決める」


 ルシアンはしばらく黙った。


 治癒を頼まれたのに、すぐ応じない。


 それは彼にとって、拒絶のように感じられるのかもしれない。


「ルシアン」


 ミリアが静かに呼ぶ。


「私たちも、何でも治してもらうって思わないようにする」


「でも」


「私がまた“まだ持てる”って無理したら止めて。でも、少し重いだけなら、まず休む」


 フィンも頷く。


「僕も頭痛を隠さない。隠した後で君に全部戻してもらおうとしない」


「俺も!」


 レオが大きな声を出す。


「何を?」


 セレナが尋ねる。


「疲れたら言う!」


「それは以前から課題です」


「今回は本気!」


「毎回、本気と言っています」


 また笑いが起こった。


 ルシアンも小さく笑い、ようやく肩の力を少し抜いた。


「では」


 紙の中央へ、自分で書き込む。


『中央判断を止めて治癒へ入る条件』


「誰かが即時治療条件に該当する時」


「代行は?」


 セレナが尋ねる。


「中央代行はセレナ。僕が治癒へ入る間、全体判断をお願いします」


「可能です」


「治療時間は?」


「十秒以内を基本にします。完全治癒ではなく、役割変更または退避が可能な状態まで」


「戻る条件」


 アリシアが聞く。


「対象が自力で移動可能になった時。セレナが復帰を求めた時。別方向で即時危険が発生した時」


「自分の負荷」


 ミリアが言う。


 ルシアンは少し止まる。


「……一を超えたら報告。二へ近づいたら治癒縮小」


「治しながら自分を見る?」


「見ます」


「忘れたら?」


 アリシアが尋ねる。


 ルシアンは少し考えた。


「名前を呼んでください」


「ルシアン?」


「はい。それから、“誰を見ていますか”と」


「一人だけ見てたら?」


「全体へ戻ります」


「分かった」


 ◇


 午後の第一戦術演習室には、見学者が三十人近く集まっていた。


 中央判断役の訓練が六人目へ入り、今日で一巡することを知った生徒たちは、開始前から普段以上に関心を寄せている。戦術科だけでなく治癒科の生徒も多く、光の神器継承者が中央でどのように治癒を使うのか、紙を持って待っていた。


「今日は治癒条件があるらしい」


「完全治癒しないって本当?」


「戦場なら普通だろ」


「でも、光の神器なら一気に治せるんじゃない?」


「できることと、やることは別なんじゃないか」


 午前の授業内容が、すでに他の学年へも広がっているらしい。


 ルシアンは周囲の声を聞きながらも、表情を崩さず中央へ立った。ただ、両手の指を一度組み直したことをアリシアは見ていた。


 教官は黒板へ本日の条件を書いた。


『連続防衛』


『中央標柱二基』


『第一標柱と第二標柱を同時防衛』


『模擬損傷付与あり』


『敵数未公開』


『片方の標柱破壊で敗北』


『制限時間十八分』


「標柱二つ?」


 レオが声を上げる。


「距離は?」


 ルシアンがすぐに尋ねる。


「中央から左右へ十二歩ずつ」


「同時攻撃の可能性」


「ある」


「模擬損傷は誰に?」


「未公開」


「条件は以上ですか」


「以上だ」


 ルシアンはそれ以上聞かなかった。


「配置を決めます」


 中央から左の標柱へ、セレナとフィン。


 右の標柱へ、レオとミリア。


 アリシアは中央後方から床と後方を確認。


 ルシアンは中央で両側の状態を見ながら全体判断を行う。


「僕が治癒へ入る場合、セレナが中央代行。左側の直接判断はフィンが引き継いでください」


「了解」


「治癒条件は事前案どおり。軽度損傷は、まず本人の継続可否を確認します」


 教官が僅かに頷く。


「開始」


 ◇


 最初の一分間は、右側へ小型魔導獣が二体現れただけだった。


「右二!」


 レオが報告する。


「ミリアは一体を止め、レオは一体を処理。左は維持してください」


 ルシアンの指示は穏やかだが、はっきりしている。


 ミリアが土の壁で一体の進路を曲げ、レオの火がもう一体を斬る。残った一体も二人の連携で素早く処理された。


「右処理。ミリア、状態は?」


「問題なし!」


「確認」


 その直後、左側へ三体が出現する。


「左三。距離九歩!」


 フィンが報告する。


「セレナは二体拘束。フィンは一体遅延。右側は中央へ寄らず維持」


「了解」


 水と風が広がり、三体の動きが止まる。


 ルシアンは全員の呼吸と動きを見ながらも、治癒の光は使わない。


 まだ誰も治す必要はない。


 順調に見えた。


 しかし、左側の一体が水の拘束を無理に破り、フィンへ体当たりする。


「フィン!」


 セレナが声を上げる。


 フィンは風で衝撃を逸らしたものの、床へ膝をついた。左腕へ模擬損傷の赤い光が浮かび、腕の動きが鈍る。


「左腕、中等度損傷」


 演習術式が状態を表示する。


 ルシアンの身体がすぐに動きかけた。


 だが、中央を離れる前に止まる。


「フィン、自力移動は?」


「可能。左腕は使いにくいけど、風は右手で出せる」


「痛み」


「中。悪化はしてない」


「セレナ、左を一人で十秒維持できますか」


「可能です」


「フィンは中央へ後退。治癒はせず、左腕を固定してください」


 見学席から小さなどよめきが起こった。


「治さないのか?」


「動けるから?」


 フィンも少し驚いたようだったが、すぐに頷いて中央へ下がる。


「了解」


 ルシアンは近づいて状態を確認したが、光を当てなかった。


「左腕を胸へ固定。風は正面索敵だけに縮小してください」


「本当に治さなくていい?」


 フィンが尋ねる。


 その声には痛みだけでなく、不安も混じっている。


 ルシアンの表情が揺れた。


「今は、右手で役割を変更できます。悪化したらすぐ治療します」


「分かった」


 フィンは少し不満そうだったが、自分で姿勢を整えた。


 ルシアンは中央へ戻る。


 治せる。


 けれど、今は治さない。


 最初の選択をした。


 ◇


 次の二分間、敵は左右へ交互に現れた。


 フィンは中央寄りから正面と上方の音を取り、左の直接戦闘はセレナが担っている。左腕の痛みは残っているものの、呼吸は安定していた。


 右側では、レオとミリアが小型三体を処理していた。


「右一、抜ける!」


 ミリアが土壁を出すが、敵の速度が予想より速く、レオの脇を抜けて標柱へ接近する。


「アリシア、右へ影介入。負荷一まで!」


「了解」


 アリシアの影が床を走り、敵の脚を掴む。


「一未満、冷えなし」


「確認。レオ、処理」


「おう!」


 敵は止まった。


 その直後、演習室の照明が一瞬暗くなり、左右の床から同時に大型魔導獣が一体ずつ姿を現した。


「左大型一!」


「右大型一!」


 セレナとレオの声が重なる。


 ルシアンは全体を見た。


 左はセレナ一人。フィンは左腕損傷。


 右はレオとミリア。


 アリシアは右へ影を伸ばしている。


「左優先。フィン、風で大型の進路だけ逸らせますか」


「右手だけでも可能」


「痛みは?」


「変化なし」


「セレナは拘束ではなく標柱から外へ誘導。右はレオとミリアで遅延。アリシアは影を解除して中央へ戻って」


「了解」


 アリシアが影を戻す。


 ルシアンはまだ治癒を使わない。


 フィンは痛みを抱えたまま風を放ち、大型の進路を左標柱から外へ逸らす。セレナが水流でその動きを補助する。


「左、大型の進路変更!」


「右、壁が割れる!」


 ミリアの声が響く。


 大型の突進を土壁で受け止めた反動により、右肩へ赤い模擬損傷が浮かんだ。


「ミリア、右肩中等度損傷!」


 術式が告げる。


 ルシアンの視線が右へ向く。


 フィンの左腕。


 ミリアの右肩。


 二人。


 治せる。


 けれど、今すぐ中央を離れれば、左右の大型へ判断を出す者がいなくなる。


「ミリア、斧は持てますか」


「持てる。でも右腕は重い!」


「左手中心へ変更。レオ、大型の注意を引いてください」


「了解!」


「フィン、左はあと何秒維持できる?」


「十秒以上。痛み変化なし」


「セレナ、左大型を標柱から十五歩まで離してください」


「可能です」


 ルシアンは治癒を選ばなかった。


 代わりに、二人の役割を変えた。


 見学席では治癒科の生徒たちが真剣に紙へ書き込んでいる。


「二人傷ついてるのに、治療しない」


「でも両方動けてる」


「中央を維持してるんだ」


 右側では、レオが大型の前へ炎を広げ、ミリアが左手で土壁の角度を変えている。


「右、大型を標柱から外へ誘導中!」


 左側でも、セレナとフィンが距離を保ちながら大型を動かしていた。


 ルシアンの判断は間違っていない。


 それでも、彼の顔は苦しそうだった。


 治せる人が二人いる。


 痛みを残したまま動かしている。


 その事実が、少しずつ彼を削っている。


 ◇


 その時、後方の床から小型魔導獣が二体飛び出した。


「後方二!」


 アリシアが報告する。


 中央に最も近いのは、ルシアンとアリシアだけだった。


「アリシア、一体を影で拘束。僕が一体を光で停止します」


「中央判断は?」


 アリシアが尋ねる。


「継続します」


 ルシアンは光を放ち、一体を押し返す。同時に左右の状況を確認しようとするが、攻撃と判断を並行したことで声が少し遅れる。


「右、大型が戻る!」


 レオが叫ぶ。


「左、標柱へ小型追加二!」


 セレナの報告も重なる。


 ルシアンは一瞬、後方の一体を完全に処理しようと光を強めた。


 その時、アリシアは気づいた。


 今の一体は、影で止めればレオかフィンが後で処理できる。


 ルシアンが完全に倒す必要はない。


「ルシアン」


 名前を呼ぶ。


 ルシアンがこちらを見る。


「誰を見てる?」


 昼に決めた言葉だった。


 ルシアンの瞳が揺れる。


 今、彼は目の前の一体だけを見ていた。


「……全体へ戻ります」


 光の出力を下げ、敵を止めるだけに切り替える。


「後方二は遅延。アリシアは負荷一まで維持。レオ、右大型を再誘導。ミリアは標柱周囲へ土壁。フィン、左追加二体を風で遅延できますか」


「できます!」


「セレナは大型を維持!」


 指示が戻った。


 アリシアの影へ冷気が乗るが、まだ一の範囲内だった。


「負荷一。冷え、少し」


「確認。十秒以内に解除します」


 ルシアンは、後方の敵を倒すことより、全体の動きを優先した。


 左右の標柱は守られている。


 けれど、負傷者は二人。


 アリシアの冷えも始まった。


 治療が必要になる人が増えていく。


 ルシアンの呼吸が少しずつ浅くなった。


 ◇


 左側の大型が突然方向を変え、フィンへ突進した。


 左腕を固定しているフィンは、回避が一瞬遅れる。


「フィン!」


 セレナが水の壁を出すが、衝撃を完全には止められなかった。


 フィンの身体が床へ投げ出され、胸元に赤い模擬損傷が広がる。


「フィン、胸部中等度損傷。呼吸機能低下!」


 術式の声が響いた。


 即時治療条件。


 自力移動が難しい。


 放置すれば悪化する。


「中央をセレナへ移譲!」


 ルシアンは迷わなかった。


「フィンの治療へ入ります!」


「引き継ぎます!」


 セレナが左側から中央判断を受け取る。


「レオは右大型を継続! ミリアは中央へ土壁! アリシアは後方影を解除し、フィンの退避経路を確認!」


「了解!」


 ルシアンはフィンのもとへ走り、胸元へ光を当てた。


「呼吸できますか」


「浅い。苦しい」


「十秒以内に自力移動可能まで戻します。完全治癒はしません」


「分かった」


 光がフィンの胸へ広がる。


 見学席が静かになった。


 治癒科の生徒たちは、ルシアンがどこで止めるのかを見ている。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 フィンの呼吸が少し深くなる。


「左腕も治せる?」


 フィンが苦しそうに尋ねる。


 ルシアンの視線が左腕へ向く。


 治せる。


 今なら。


 胸部を治した後、少し光を回せば、左腕の痛みも軽くできる。


 けれど、中央ではセレナが二方向を見ている。


「左腕は後です」


 ルシアンは答えた。


「まず移動できる状態まで戻します」


 フィンは僅かに驚いたが、すぐに頷いた。


「分かった」


「六秒!」


 セレナが治療時間を共有する。


「右大型、標柱まで七歩! 後方一体抜けます!」


 状況が動く。


 ルシアンはフィンの呼吸を確認した。


「立てますか」


「支えがあれば」


「アリシア!」


「行く!」


 アリシアが駆け寄り、フィンの右側へ肩を入れる。


「中央へ三歩退避できます」


 ルシアンは治癒を止めた。


 まだ完全ではない。


 左腕も治っていない。


 胸にも痛みが残っている。


 それでも、自力で退避できる。


「治療終了。中央へ戻ります!」


 ルシアンは約束どおり、十秒以内で治癒を切り上げた。


 ◇


 中央へ戻ったルシアンは、すぐに全体を確認した。


 右大型はレオとミリアが抑えている。


 左大型はセレナが水で進路を変えている。


 後方の一体は、アリシアがフィンを支えている間に中央へ近づいていた。


「僕が後方一体を止めます。セレナ、中央代行をあと三秒継続してください」


「了解」


 光が後方の敵へ走り、その脚を止める。


 今度は完全処理まで行かない。


「レオ、後方一体へ火線を送れますか」


「一回なら!」


「処理してください」


 レオが大型から視線を外さず、片手だけを後方へ向けた。細い火線が敵の魔導核を貫き、後方の一体が崩れる。


「後方処理!」


「中央復帰します」


 ルシアンが全体判断を戻す。


「フィンは中央後方で休息。左腕と胸部は戦闘継続なし。アリシアは後方へ戻り、冷えを報告してください」


「冷え一未満。影解除後、少し下がってる」


「治療は今しません。悪化したら報告を」


「うん」


 その言葉に、アリシアは少しだけ安心した。


 治してもらえなかった。


 でも、見捨てられたとは思わない。


 状態を聞かれ。


 必要なら治すと言われ。


 今は自分で戻れると判断された。


 それも助けだった。


 ◇


 残り時間は六分。


 左右の大型魔導獣はまだ動いている。


 ミリアの右肩の損傷は残り、フィンは戦闘から外れている。アリシアには軽い冷えがあり、ルシアン自身にも治癒負荷が生じ始めていた。


「ルシアン、状態」


 ミリアが右側から尋ねる。


「治癒負荷一。魔力消耗、軽度」


「他は?」


 アリシアが続ける。


「判断負荷、中」


「治療したい人は?」


 フィンが中央後方から、少し苦しそうに尋ねる。


 ルシアンは一瞬黙った。


「三人です」


 正直に答える。


「フィンの左腕と残存痛。ミリアの右肩。アリシアの冷え」


「全部治す?」


 アリシアが聞く。


「……治したいです」


「今、必要?」


 ルシアンは全体を見る。


 フィンは退避済み。


 ミリアは左手中心で大型を抑えられている。


 アリシアの冷えは下がっている。


「今すぐではありません」


「じゃあ、次」


 フィンが言った。


「次の判断をして」


 昨日、アリシアがフィンへ渡した言葉。


 今度はフィンからルシアンへ返ってきた。


 ルシアンは静かに息を吸う。


「右大型を先に処理します。レオ、炎を右脚へ集中。ミリアは土壁を左側へ傾け、進路を固定」


「了解!」


「左大型はセレナが遅延。アリシアは影を使わず、床下確認のみ」


「うん」


「フィンは休息継続。音情報は求めません」


 フィンは少し悔しそうに口を閉じた。


「僕、正面だけなら聞ける」


「今は求めません」


「でも」


「胸部損傷後です。休むことが役割です」


 ルシアンの声は優しい。


 けれど、譲らなかった。


 フィンはしばらく黙った後、壁へ背中を預ける。


「了解」


 治すだけではない。


 休ませる。


 役割を外す。


 それもルシアンの判断だった。


 ◇


 レオとミリアの連携により、右側の大型が標柱から大きく離れた。


「右脚固定!」


「炎、入る!」


 レオの火が関節部へ集中し、ミリアの土壁が逃げ道を塞ぐ。


「右大型、停止!」


 見学席から拍手が起きるが、ルシアンはすぐに左を見る。


「レオ、右標柱をミリアへ任せて中央へ戻れますか」


「戻れる!」


「ミリア、右標柱を一人で維持可能?」


「左手中心なら大丈夫!」


「痛み」


「変化なし!」


「レオは中央経由で左へ。セレナと合流してください」


 レオが走る。


 その途中でルシアンの横を通り過ぎながら、小さく言った。


「ちゃんと治すの我慢してるな」


「今、話しかけないでください」


「はい!」


 見学席から少し笑いが起こった。


 左側の大型は水流へ抵抗し、標柱へ少しずつ近づいている。


「左標柱まで六歩!」


 セレナが報告する。


「レオ到着まで三秒」


 ルシアンは自分で数える。


「セレナ、二秒だけ拘束を強化できますか」


「可能ですが、魔力負荷一上昇」


「許可します。二秒後、縮小してください」


「了解」


 水が強まり、大型の動きが止まる。


 レオが到着し、炎を胸部の魔導核へ叩き込む。


「一撃では止まらない!」


「セレナ、拘束解除。後退して負荷報告!」


「魔力負荷一・五。継続可能」


「ミリア、中央から左へ土壁を出せますか」


「距離が遠いけど、一枚なら!」


「お願いします」


 右標柱を守りながら、ミリアが左側へ薄い土壁を立てる。完璧な壁ではないが、大型の足を一瞬止めるには十分だった。


「レオ、今!」


「おう!」


 炎が再び魔導核を撃ち抜く。


 大型が重い音を立てて倒れた。


「左右大型処理!」


 見学席から大きな拍手が広がる。


 しかし制限時間はまだ残っている。


「全方位確認。終了と思わないでください」


 ルシアンが言う。


 フィンが中央後方で、僅かに笑った。


「セレナみたい」


「必要な確認です」


「言い方まで」


「休んでください」


「はい」


 ◇


 最後の三分間、追加の小型魔導獣が四体現れた。


 六人は負傷と疲労を抱えながらも、役割を変更したまま対応した。


 フィンは戦闘へ戻らず、中央後方で時間と処理数だけを記録する。


 ミリアは右肩を使わず、左手と遠隔土壁で右標柱を守る。


 アリシアは影を使わず、目視と床の振動だけを報告する。


 セレナは水の出力を抑え、拘束ではなく進路変更へ切り替える。


 レオは左右を走り回らず、中央近くから必要な方向へ短い火線を送った。


 ルシアンは誰にも追加治癒を行わず、全員の状態を聞き続けた。


「ミリア、右肩」


「痛み変化なし。左手操作継続」


「セレナ、魔力」


「一・五から一・三へ低下」


「アリシア、冷え」


「ほとんど消えた」


「フィン、呼吸」


「浅さなし。胸は少し痛い」


「レオ」


「俺は元気!」


「具体的に」


「軽い疲労! 痛みなし!」


 見学席から笑いが起こる。


 最後の一体がレオの火で処理され、二つの標柱はどちらも傷つかないまま時間を迎えた。


「終了」


 教官が手を挙げた。


 拍手が大きく広がる。


 派手な治癒は少なかった。


 光が演習室全体を包むこともなかった。


 それでも六人は、負傷者を抱えたまま最後まで役割をつなぎ、二つの標柱を守り切った。


 ◇


 終了の声が響いた瞬間、ルシアンは最初にフィンのもとへ向かおうとした。


 けれど、一歩目で止まった。


「全員、まず状態報告を」


 中央から動かずに言う。


「レオ、軽い疲労。痛みなし!」


「ミリア、右肩中等度損傷。悪化なし」


「セレナ、魔力負荷一・二」


「アリシア、冷えほぼなし。肩の重さは朝と同じ」


「フィン、胸の痛み軽度。左腕中等度損傷。呼吸は正常」


 最後に、ルシアン自身が答える。


「治癒負荷一。判断負荷、中。魔力消耗、軽度」


 全員分を聞いた後で、ようやくフィンへ近づく。


「今から治療します。胸部の残存痛と左腕、どちらを先にしますか」


「胸は休めば戻りそう。左腕を少し」


「完全治癒ではなく、痛み軽減まで?」


「うん」


 フィンが自分で選んだ。


 ルシアンはその希望に合わせ、短い治癒を行う。


 次にミリアへ向き直る。


「右肩は?」


「痛いけど動かさなければ大丈夫。後で治してほしい」


「分かりました。今は固定だけします」


 アリシアへも尋ねる。


「冷えは?」


「もうほとんどない。治療いらない」


「本当に?」


「うん。温かいもの飲めば戻る」


 ルシアンは少し迷った。


 それでも、光を使わなかった。


「分かりました。変化したら言ってください」


「うん」


 治さないことを選び。


 でも、聞くことはやめない。


 その姿を、治癒科の生徒たちが静かに見ていた。


 ◇


 四分間の休憩中、六人は床へ座り、水を飲みながら身体を休めた。


 ルシアンはミリアの右肩を簡単に固定した後、ようやく自分も壁へ背中を預ける。


「疲れた?」


 アリシアが尋ねる。


「かなり」


「何が一番?」


 ルシアンは少し考える。


「治さないことです」


「判断より?」


「同じくらいです」


 彼は自分の両手を見る。


「フィンが最初に左腕を傷めた時、すぐ治したかったです。ミリアの肩も、アリシアの冷えも。全部、僕が光を使えば少し楽にできました」


「うん」


「それなのに、しないで見ているのが怖かった」


 ミリアが固定された肩を庇いながら、穏やかに言う。


「見てただけじゃないよ」


「そうでしょうか」


「役割を変えてくれた。私は左手で続けた。フィンは中央で休んだ。アリシアは影を止めた」


 フィンも壁へ背を預けたまま続ける。


「胸を治した後、左腕までやらなかった」


「痛かったでしょう」


「痛かった。でも、戻るのが遅れたら他が危なかった」


「僕は、冷たかったですか」


 ルシアンの問いに、全員が少し黙った。


 アリシアはすぐに否定しなかった。


 ルシアンは、本当にそう感じている。


「少しだけ」


 フィンが正直に言う。


「左腕も治してほしかったから」


 ルシアンの顔が僅かに曇る。


「でも」


 フィンは続ける。


「冷たい人だとは思わなかった。後で治すって言ったし、呼吸はずっと見てたから」


 ミリアも頷く。


「私も肩を治してほしかった。でも、痛いままでもできることを一緒に決めてくれた」


 アリシアは自分の胸へ手を置く。


「私は、治療いらないって言えて嬉しかった」


「なぜ?」


「自分で戻れるって思ってもらえたから」


 ルシアンは目を見開いた。


「治さないことが、信じることになる場合もある?」


「うん」


「でも、放置とは違う」


 セレナが静かに加える。


「あなたは全員の状態を定期的に確認しました。必要条件を決め、変化があれば治療する準備もしていました」


「それなら、冷たくない?」


「少なくとも、無関心ではありません」


「セレナは言い方が硬い」


 レオが言う。


「事実です」


「俺なら、ちゃんと優しかったって言うぞ!」


「では、言ってください」


「ルシアン、ちゃんと優しかった!」


「ありがとうございます」


「でも、フィンの左腕をすぐ治さなかった時、ちょっと怖かった!」


「余計な一言が多いです」


 六人の間に笑いが広がった。


 ルシアンも少し笑い、ようやく自分の水筒へ手を伸ばした。


 ◇


 振り返りでは、黒板へ今日の結果が書かれた。


『結果:勝利』


『第一標柱:無傷』


『第二標柱:無傷』


『大型二体、小型九体処理』


『模擬損傷:フィン二箇所、ミリア一箇所』


 教官はルシアンを見る。


「自己評価」


「六十八点です」


「理由」


「フィンが最初に左腕を負傷した時、中央を離れかけました。後方二体の場面では、一体の処理へ集中しすぎました。フィンの胸部損傷時は治療へ入りましたが、完全治癒をしそうになりました」


「他」


「治療条件を守りました。中央代行を明確にできました。軽度と中等度損傷では、役割変更を優先しました。自分の治癒負荷も報告しました」


「六十八」


「……七十五点」


 レオがすぐに笑う。


「また上がった!」


「できたことも評価しました」


「みんなそれやるようになったな!」


「良い傾向です」


 教官は小さな笑いが収まるのを待ち、黒板へ『治癒』と書く。


「ルシアン」


「はい」


「治せる傷は、全て治すべきか」


 ルシアンは少し黙った。


 以前なら、はいと答えていたかもしれない。


「いいえ」


「なぜ」


「治癒者の負荷と時間には限界があります。全体の目的に合わせて、優先順位を決める必要があります」


「他」


「完全に治すことが、いつも必要とは限りません。次の行動が可能になる状態まで戻し、残りは安全確保後に治すこともできます」


「他」


 ルシアンはフィンとミリア、アリシアを見る。


「自分で休む。役割を変える。痛みを抱えたまま無理をしない。治癒を使わなくても、戻れる方法があります」


 教官は頷き、黒板へ三つの言葉を書く。


『治す』


『休ませる』


『役割を変える』


「全て治療だ」


 見学席にいた治癒科の生徒たちが、一斉に筆を動かした。


「治療者がすべきことは、光を出すことだけではない。状態を見て、本人へ伝え、班全体へ共有し、次にできる行動を決める。それも治療だ」


「はい」


「では、治療を断ることは冷たいか」


 ルシアンは少し考える。


「理由を説明せず、状態も見ないなら冷たいと思います」


「今日は?」


「今すぐ治さない理由を伝えました。変化も確認しました」


「なら」


「必要な判断でした」


 自分で言った。


 治さないことを。


 冷たい失敗ではなく。


 必要な判断として。


「アリシア」


「はい」


「何をした」


「ルシアンに、誰を見てるって言った」


「なぜ」


「後ろの一体だけを完全に止めようとしてたから。全体へ戻ってほしかった」


「治療時は」


「フィンを支えて、退避した」


「治してもらわなかったな」


「冷えが下がってたから」


「不安は」


「少しあった。でも、必要なら治すって言われた」


「それで足りたか」


「うん」


 教官は六人全員へ視線を向ける。


「助けを求める側にも責任がある」


 空気が少し引き締まる。


「痛みを隠すな。治療者がいるからと無理をするな。治してもらえばいいと考えるな。自分の状態を言い、休むか、役割を変えるか、治療を受けるかを一緒に決めろ」


 レオが小さく姿勢を正した。


「聞いてるか、レオ」


「俺だけ!?」


「全員だ」


「はい!」


 見学席から笑いが起こる。


「今日で中央役は一巡した」


 教官が言うと、六人の表情が少し変わった。


 アリシア。


 レオ。


 セレナ。


 フィン。


 ミリア。


 ルシアン。


 それぞれが一度、中央に立った。


「次回からは」


 教官は黒板へ新しく書く。


『中央交代』


「戦闘中に中央役を変更する」


 見学席がざわめく。


「最初から最後まで同じ者が中央とは限らない。負荷、配置、敵の条件、判断内容によって交代する」


 レオが目を輝かせる。


「途中で変わる!?」


「そうだ」


 セレナはすでに紙へ条件を書き始めている。


「交代条件は事前指定ですか」


「一部だけ指定する。残りは自分たちで決めろ」


 フィンが小さく息を吐く。


「また難しくなる」


 ミリアは少し笑う。


「でも、一回ずつやったから」


 ルシアンも頷いた。


「誰が何で止まりやすいか、前より分かっています」


 アリシアは六人の顔を見る。


 一巡。


 終わりではない。


 ようやく、それぞれの中央の輪郭が見え始めた。


 次は。


 それをつなぐ。


 ◇


 演習室を出ると、廊下には治癒科の生徒たちが何人も残っていた。


「ルシアンさん」


 一人の女子生徒が声をかける。


「フィンさんの左腕をすぐ治さなかった時、怖くなかったですか」


「怖かったです」


「治せたんですよね」


「治せました」


「なら、どうして」


 ルシアンは少し考え、ゆっくり答える。


「左腕を完全に治す間、中央判断が止まる可能性がありました。フィンは右手で役割を変更できましたし、悪化もしていませんでした」


「でも、痛かったと思います」


「はい」


「それでも?」


「痛みがあることと、今すぐ完全治癒が必要であることは同じではありません」


 女子生徒は少し難しそうな顔をした。


 ルシアンも、その反応を見て言葉を足す。


「僕も、今日初めて本当に分かった気がします。助けたいと思うことと、今ここで治すべきだと判断することは、別でした」


「治さないのも、助けることですか」


「何も見ずに放置するのは違います。でも、状態を見て、休ませて、役割を変えて、必要になったら治す。それなら、助けることだと思います」


 女子生徒はゆっくり頷いた。


「私、治癒科なんです」


「そうでしたか」


「治せるなら全部治せる人になりたいと思ってました」


「僕も、今でもそう思います」


「でも」


「全部を一人で治せるようになることより、誰を先に助けるか選べることも必要なのだと思います」


 その言葉を聞き、女子生徒は真剣な顔で頭を下げた。


 離れていく背中を見送った後、レオがルシアンの肩へ手を置こうとする。


「ルシアン、格好よかったぞ!」


「そこは損傷していませんが、強く叩かないでください」


「まだ叩いてない!」


「予防です」


 フィンが少し笑う。


「治療可能と治療必要は違う」


「君が言いますか」


「左腕、まだ少し痛い」


「休憩後に治します」


「今じゃないんだ」


「歩けていますから」


 ルシアンの答えに、六人はまた笑った。


 ◇


 夕方、教室へ戻ると、メリルはアリシアの肩を見るなり尋ねた。


「重さ、増えた?」


「朝と同じ」


「冷えは?」


「途中、少し出た。でも今はない」


「治してもらった?」


「もらってない」


 メリルは驚いた。


「ルシアンさんが中央だったのに?」


「必要なかった」


「本当に?」


「聞かれた。変わったら言ってって」


「それで安心できた?」


「うん」


 アリシアは今日の訓練を順番に話した。


 フィンの左腕損傷。


 治癒をしないまま役割を変えたこと。


 ミリアの右肩。


 アリシア自身の冷え。


 フィンの胸部損傷が起きた時だけ、中央をセレナへ渡して治癒したこと。


 完全に治し切るのではなく、フィンが自力で退避できる状態まで戻したところで、治療を切り上げたこと。


「ルシアンさん、つらそうだった?」


「すごく」


「治したかった?」


「三人って言ってた」


「それでも、治さなかった?」


「今すぐじゃないって」


 メリルは少し考え、静かに言った。


「優しい人ほど、何もしないで待つのが苦しいんだね」


「何もしてないわけじゃない」


「うん。見てたんだよね」


「状態を聞いて、役割を変えて、休ませた」


「アリシアも、治してもらえないって嫌じゃなかった?」


「少し不安だった。でも、自分で戻れるって思ってもらえた」


 メリルは柔らかく微笑んだ。


「それは、嬉しいね」


「うん」


「助けてもらうことと、信じてもらうことは違う?」


「同じ時もある。でも、今日は少し違った」


 治してもらえなかったから見捨てられたのではない。自分で戻れると判断され、必要になればすぐ手を伸ばしてもらえる場所で見守られていた。


 だから、アリシアは自分の冷えを自分で確かめ、影を使わない役割へ切り替えたまま最後まで立っていられた。


「じゃあ、今日のアリシアは?」


「治してもらわずに戻った」


「役に立った?」


「うん。後方を見た」


「できなかったことは?」


「ルシアンがフィンを治している時、全部自分で守らなきゃって少し思った」


「実際は?」


「セレナが中央を代わった。みんなで守った」


「両方だね」


「うん」


 自分一人で空いた場所を埋めなくてもいい。


 誰かが治癒へ入れば、別の誰かが中央を引き継ぎ、他の者が前を支える。六人で役割をつなげば、一人が抜けた瞬間にも戦いは止まらない。


 メリルは窓の外を見ながら、少しだけ首を傾げた。


「次は、戦っている途中で中央が変わるんだよね?」


「うん」


「誰から誰に変わるか、最初から決まってるの?」


「一部だけ。あとは自分たちで決めるって」


「難しそう」


「かなり」


「でも、今日も途中でルシアンさんからセレナさんに変わったんでしょう?」


「治療の間だけ」


「それも練習になってた?」


 アリシアは少し考えてから頷いた。


「たぶん。セレナはすぐ受け取ったし、ルシアンも戻るって言った」


「渡したままにならなかった?」


「うん。中央復帰って言った」


「じゃあ、渡すだけじゃなくて、返してもらうのも必要なんだね」


「うん」


 中央を受け取る者だけでなく、渡す者にも判断が必要になる。


 いつ手放すのか。


 誰へ渡すのか。


 何を伝えてから離れるのか。


 そして、いつ戻るのか。


 今までよりも、一つの声に含まれる責任が増える。


「怖い?」


 メリルが尋ねた。


「怖い」


「でも、少し楽しみ?」


「少し」


「両方?」


「両方」


 メリルは笑い、机の上の本を閉じた。


「終わったら、また教えてね。誰が一番上手だったかじゃなくて、どうやって渡したか」


「うん」


 ◇


 帰宅すると、祖父は玄関へ入ってきたアリシアの歩き方を一度見ただけで、短く尋ねた。


「肩は」


「朝と同じ」


「冷え」


「訓練中に少し出た。でも、今はない」


「治してもらったか」


「もらってない」


「必要なかったのか」


「うん」


「ならいい」


 祖父はそれ以上追及せず、アリシアの外套を受け取って火の近くへ掛けた。


 夕食の席で、アリシアはルシアンが三人を治したかったことを話した。フィンの左腕と胸、ミリアの右肩、自分の冷え。そのどれも光を使えば少しは楽にできたが、ルシアンは今すぐ必要な治療だけを選んだ。


「全部治せばよかったんじゃないか」


 祖父が意外にもそう言い、アリシアは目を開いた。


「倒れる」


「倒れない範囲なら」


「中央の指示が止まる」


「なら駄目だな」


「今、試した?」


「条件を聞いただけだ」


「ずるい」


「考えずに答えるよりいいだろ」


 祖父は煮魚の骨を丁寧に外しながら続ける。


「助ける者が一番偉いと思い始めると厄介だ」


「ルシアンは思ってない」


「本人が思っていなくても、周りがそう扱うことはある」


「どういうこと?」


「何かあれば光が治す。疲れたら光が戻す。無理をしても光がいる。そう思えば、他の者は自分で止まらなくなる」


 午前の授業で聞いた話と同じだった。


 治してもらえる安心が、無理を続ける理由へ変わることがある。誰かが最後には戻してくれると思えば、自分の身体を確かめることも、休む判断も遅くなる。


「じゃあ、助けてもらわない方がいい?」


「極端だな」


「難しい」


「必要なら頼れ。必要ないなら自分で戻れ。それだけだ」


「それが難しい」


「だから練習してるんだろ」


 祖父はアリシアの皿へ魚を一切れ置いた。


「お前は今日はどうした」


「冷えが少し出たけど、治療はいらないって言った」


「戻ったか」


「うん」


「なら、自分でできたな」


「でも、ルシアンが見てくれてた」


「なら一人ではない」


 その言葉が、静かに胸へ残った。


 自分で戻った。


 けれど、一人で放っておかれたわけではない。


 状態を見てもらい、変化すれば伝えられる場所で、自分の力を使って戻った。


「ルシアンは、治さなかったことを後悔してた?」


「少し。冷たかったかって聞いてた」


「何て答えた」


「フィンは、少し冷たく感じたって。でも冷たい人だとは思わなかったって」


「正直だな」


「うん」


「お前は」


「嬉しかった。自分で戻れるって思ってもらえたから」


 祖父は一度だけ頷いた。


「なら、それも言ったか」


「言った」


「十分だ」


「それだけ?」


「治すかどうか決めたのはそいつだ。治されなかった側がどう感じたか伝えたなら、後は本人が考える」


 自分の判断を押しつけない。


 相手の感情も、勝手に決めない。


 ルシアンは冷たくなかったと、全員で無理に慰めることもしなかった。


 少し冷たく感じた。


 でも、見捨てられたとは思わなかった。


 その両方を伝えたからこそ、ルシアンも自分の選択を事実として受け取れたのかもしれない。


「明日から中央が途中で変わる」


「また面倒なことを始めるんだな」


「難しい」


「誰から誰へ変わる」


「まだ分からない」


「なら今日考えても決まらん」


「でも準備はする」


「滑る石と穴だけ見つけておけ。歩き方まで決めるな」


 以前にも聞いた言葉だった。


 危険な条件は先に決める。


 しかし、その時の全てを今から決めつけない。


「うん」


「分かったなら食え」


「食べてる」


「また手が止まってる」


 アリシアは自分の匙を見下ろし、少し笑いながら食事を再開した。


 ◇


 夜、アリシアは机へ練習帳を開いた。


 窓の外には霧が消えた後の澄んだ夜空が広がり、星の光が昨日よりもはっきりと見えている。ノアは机の端で前足を揃え、アリシアが頁へ日付を書くのを眺めていた。


『中央判断役:ルシアン』


『朝:肩の重さ少し。右がやや強い。冷えなし。頭痛なし』


『訓練中:影負荷一。冷え一未満』


『訓練後:冷えなし。肩の重さ変化なし』


 次に配置と結果を書き、今日の出来事を整理する。


『フィン左腕中等度損傷』


『即時治療せず、中央後方へ役割変更』


『ミリア右肩中等度損傷』


『左手中心へ変更』


『アリシア冷え一未満』


『影解除と状態確認。治療なし』


『フィン胸部中等度損傷、呼吸機能低下』


『セレナへ中央移譲』


『十秒以内で自力退避可能まで治療』


『左腕の完全治癒は後回し』


 書きながら、フィンへ光を当てていたルシアンの表情を思い出す。


 治したい。


 痛みが残らないところまで、できる限り戻したい。


 それでもルシアンは途中で止め、中央へ戻った。


『ルシアン』


『治療条件を守った』


『完全治癒ではなく、次に動ける状態まで』


『治療中、中央をセレナへ渡した』


『目の前の一体へ集中しすぎた』


『“誰を見ていますか”で全体へ戻った』


『自分の治癒負荷を報告した』


『治療しない人の状態も確認し続けた』


 次に、自分の記録を書く。


『冷えを報告した』


『治療不要と自分で言った』


『ルシアンに見捨てられたとは思わなかった』


『必要なら治すと言われた』


『自分で戻れると信じてもらえた』


 筆が少し止まる。


「本当に嬉しかった?」


 ノアが尋ねた。


「うん」


「治してもらうより?」


「比べられない」


「なぜ」


「治してもらうのも嬉しい。でも今日は、自分で戻れるって思えた」


「見られていたから?」


「うん。放っておかれたんじゃない」


「そうね」


 アリシアは続けて書く。


『治療しないことと、見捨てることは違う』


『状態を見る』


『理由を説明する』


『役割を変える』


『休ませる』


『必要になったら治す』


『全部、助ける方法』


 今日の題を、頁の中央へゆっくり書いた。


『助けられる傷を全部抱えるより、次の声を残す』


「次の声?」


 ノアが尋ねる。


「ルシアンが全部治したら、疲れて次の指示が出せなくなる」


「ええ」


「フィンを完全に治すまで止まっていたら、他の声を聞けなかった」


「ええ」


「だから、治す力を残した」


「他には?」


「フィンも、痛いって言う声を残した。ミリアも。私も」


「なるほど」


 アリシアはさらに書き加える。


『助ける人が全部を抱えると、本人の声がなくなる』


『何が痛いか』


『どこまでならできるか』


『休むか』


『役割を変えるか』


『治してほしいか』


『一緒に決める』


 治療者が一人で全てを判断し、全ての痛みを取り除いてしまえば、治療を受ける側は自分の身体について考える必要がなくなる。


 けれど今日、フィンは胸より左腕を先に軽くしてほしいと選んだ。ミリアは今すぐ完全に治すのではなく、肩を固定して後で治してほしいと伝えた。アリシアは、温かいものを飲めば自分で戻れると判断した。


 治される側にも声がある。


 その声を残すことが、ルシアン一人へ全てを抱えさせない方法になる。


『治療可能と、治療必要と、治療最優先は違う』


『全部を完全に戻すことが目的ではない』


『次へ進める状態をつくる』


 ノアが頁を覗き込む。


「今日の点数は?」


「自分で?」


「もちろん」


 アリシアは少し考えた。


「九十八点」


「なぜ下がったの?」


「ルシアンが治療している時、私が全部守らなきゃって少し思った」


「実際には?」


「セレナが中央を代わった。みんながいた」


「他にできたこと」


「冷えを言った。治療はいらないって言った。誰を見てるって言えた」


「では何点?」


「百点」


「最初からそう言えばいいのに」


「できなかったこともあった」


「百点は完璧という意味?」


「違う。今日の私を全部書いたから」


 ノアは少しだけ目を細めた。


「百一点」


「また」


「今の答え」


「採点の基準、毎回変わる」


「現時点の評価よ」


「便利」


「良い言葉は使うもの」


 アリシアは笑いながら、最後に次回のことを書く。


『中央役、一巡終了』


『次回:戦闘中の中央交代』


『一人が最後まで中央とは限らない』


『負荷、配置、敵、必要な判断で交代』


『交代することは失敗ではない』


『誰が次に受け取るか』


『いつ返すか』


『六人で決める』


 書いた後も、アリシアはしばらくその頁を見つめていた。


 中央を渡すことは、自分ではできないと認めるようで怖いかもしれない。


 受け取る側も、突然五人分の声を預かることになる。


 そして、返す時には、本当に元の中央が戻れる状態なのかを見なければならない。


「ノア」


「何?」


「中央を渡したら、役に立たなかったことになる?」


「今日のルシアンは?」


「治療へ行くために渡した」


「役に立たなかった?」


「違う」


「では答えは出ているでしょう」


「でも、途中で疲れて渡したら?」


「疲れたまま続けて全員を危険へ入れる方が、役に立つの?」


「違う」


「なら、渡す判断も中央の仕事よ」


 アリシアは練習帳へ一行を書き加えた。


『中央を渡すことも、中央の判断』


「受け取った人が上手だったら?」


「何が不安?」


「自分より上手なら、返してもらわなくてもいいって思われるかもしれない」


 口にしてから、それが自分の不安だと気づいた。


 最初に中央を経験した時、自分は何度も止まった。他の五人が自分より上手にできるように見えることは、今でもある。


「アリシア」


「うん」


「役割を渡した後、もう必要とされないことが怖い?」


「少し」


「今日、セレナが中央を受け取った後、ルシアンは戻った?」


「うん」


「セレナは返した?」


「うん」


「なぜ?」


「ルシアンが戻れるって言ったから」


「それで十分でしょう」


「でも、次は分からない」


「分からないから条件を作る。返さない方が安全なら、そのまま続ける時もあるでしょう」


「それは失敗?」


「違うと、あなた自身が今書いたばかりよ」


 アリシアは頁を見た。


『交代することは失敗ではない』


 自分で書いた。


 それでも、自分の役割を誰かに渡した時、もう返ってこないかもしれないという怖さは残っている。


「怖いままでもいい?」


「ええ」


「怖いって言っても?」


「言いなさい」


「中央を渡したくないって思っても?」


「思うことまで禁じる必要はない。ただし、危険なら渡しなさい」


「厳しい」


「神獣ですから」


「関係ある?」


「あることにしておきなさい」


 アリシアは少し笑い、練習帳を閉じた。


 ◇


 灯りを消し、寝台へ入る。


 窓の外では、遠くの木々を夜風が揺らしていた。澄んだ空を流れる薄い雲が星を隠し、少し待つと再び光が現れる。


 今日、ルシアンは何人も治せた。


 フィンの左腕。


 ミリアの右肩。


 アリシアの冷え。


 全てに光を当てることもできた。


 けれど、すぐにはしなかった。


 状態を聞き、できることを確かめ、役割を変え、休ませ、本当に必要になった時だけ中央を渡して治療した。


 その判断は、治療を受ける側にとって、いつも優しく感じられるものではなかった。


 痛いと言ったのに治してもらえない。


 苦しいのに待たされる。


 助けられる力が目の前にあるのに、すぐには使われない。


 それでも、冷たいわけではなかった。


 ルシアンは見ていた。


 何度も状態を聞き、変化を確かめ、必要ならいつでも手を伸ばせるよう準備していた。


 治療を受ける側も、ただ光を待っていたのではない。


 どこが痛いか。


 何ができるか。


 休めば戻れるか。


 今すぐ治してほしいか。


 それぞれが自分の声で伝えた。


 助ける人が一人で答えを作らない。


 助けられる人も、自分の身体を丸ごと預けない。


 六人で決める。


 それが今日、新しく見えた治療の形だった。


 明日からは、中央が途中で変わる。


 誰かが疲れた時。


 誰かの得意な判断が必要になった時。


 誰かが前へ出なければならない時。


 中央を渡し、受け取り、必要なら返す。


 それはきっと、治癒と少し似ている。


 一人が最後まで全部を抱え込まず、次に動ける状態を作るための判断。


 渡す者の声を残し、受け取る者の声をつなぎ、返せる場所を守る。


 一人の力を使い切らないために。


 次の声を残すために。


 六人はまた、新しいつなぎ方を覚えていく。

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