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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第82話 守るために前へ出るより、残ることで守れるものもある


 翌朝、雨は上がっていた。


 夜の間に雲が流れたらしく、窓の外には淡い青空が広がっている。濡れた屋根や木々の葉は朝日を受けて細かく光り、軒先から落ちる雫が地面の水溜まりへ小さな輪を作っていた。


 アリシアは目を覚ますと、まず両脚をゆっくり動かした。


 昨日まで感じていた重さは、完全には消えていない。ただ、寝台から足を下ろせないほどではなく、筋肉の奥へ薄く疲れが残っている程度だった。冷えも頭痛もなく、指先から足先まで自分の身体の位置ははっきり分かる。


「脚の重さ、昨日より少ない」


 寝台の足元に座っていたノアが、毛繕いを続けたまま答える。


「他は?」


「冷えなし。頭痛なし。眠気は普通」


「その“普通”は、いつものあなたを基準にしている?」


「うん。もう一度寝たいくらい」


「それは平常ね」


 アリシアは掛け布を畳みながら、昨日の訓練を思い返した。


 フィンは中央判断役として、一度誤った仮説を出した。後方に一体いると報告したが、実際には何もいなかった。


 その瞬間、彼は止まった。


 けれど、六人は次の声を待った。


 そして最後には、床下へ潜んでいた三体を見つけた。


 間違わないことではなく、間違えた後も声を出すこと。


 それが昨日、六人で覚えたことだった。


「今日はミリア」


 アリシアが言うと、ノアの尾が一度だけ動いた。


「そうね」


「どんな中央になるかな」


「予想するの?」


「昨日のミリアをそのまま今日にしない」


「少しは学習したようね」


「でも、考えるのはいいって言った」


「ええ。決めつけなければ」


 アリシアは椅子へ腰を下ろし、靴下を履きながらミリアの輪郭を思い浮かべた。


 土の神器を使い、誰よりも正面で受け止めることを得意とする少女。閉鎖空間は苦手だが、守る相手がいると自分から前へ出る。身体が重くなっても、「まだ持てる」と言ってしまうことがある。


 中央に立てば、正面へ飛び出すことはできない。


 自分が動けば、指示を出す場所が空く。


 仲間が危険になっても、誰かに任せなければならない時がある。


「ミリアは、前に出たくなると思う」


「そうかもしれないわね」


「誰かが危なかったら、特に」


「ええ」


「止めた方がいい?」


「危険なら」


「危険じゃなくても出そうになったら?」


「まず、本人が何を見ているか確認する」


「でも、出てからじゃ遅いかも」


 ノアは毛繕いを止め、アリシアを見た。


「あなたは今日も、失敗する前に全部取り上げたいのね」


「取り上げたいわけじゃない」


「では、ミリアが中央から動こうとするたび、あなたが止める?」


「……それも違う」


「中央に残る意味を、本人が自分で知る必要があるでしょう」


「じゃあ、出てもいい?」


「状況による」


「難しい」


「昨日も聞いたわね」


 ノアは椅子から飛び降り、窓辺へ歩いていく。


「守るとは、前に立つことだけではない」


「うん」


「でも、それを朝からあなたが説明しても、ミリアは理解したつもりになるだけかもしれない」


「自分で分かるまで待つ?」


「危険にならない範囲で」


「危険なら止める」


「そう」


 アリシアは立ち上がり、窓の外を見た。


 雨上がりの朝は明るい。


 けれど道は濡れている。


 晴れたからといって、昨日までの水が消えたわけではない。


 今日のミリアも同じなのかもしれない。


 明るく笑っていても。


 中央に立つ怖さがないとは限らない。


 ◇


 朝食の席では、祖父が濡れた薪を火の近くへ並べて乾かしていた。


 鍋の中では麦と根菜を煮込んだ粥が静かに湯気を立てている。昨日の雨で朝の空気は少し冷えていたが、台所には薪の香りと温かい食事の匂いが満ちていた。


「今日は土か」


 祖父はアリシアの顔を見る前に言った。


「ミリア」


「分かってる」


「最近、分かってるって言う回数増えた」


「お前が名前で呼べと言うからだ」


 アリシアは椅子へ座り、粥を一口食べた。少し塩気が強く、疲れの残る身体にはちょうどよかった。


「ミリアは、守るのが得意」


「土ならそうだろうな」


「土だからじゃない」


「本人が?」


「うん。誰かが危ないと、前に出る」


「いいことじゃないのか」


「中央でも出たら、中央がいなくなる」


「なら出ない方がいいな」


「でも、本当に助けが必要だったら?」


「出た方がいいかもしれん」


「どっち?」


 祖父は匙を置き、少しだけ面倒そうにアリシアを見る。


「何でも俺に決めさせるな」


「ノアも同じこと言う」


「猫と一緒にするな」


『珍しく正しい』


「聞こえない」


 祖父は粥へ視線を戻した。


「中央にいる者が動くことと、中央がいなくなることは同じなのか」


「違う?」


「知らん。だが、お前たちは六人いるんだろ」


「うん」


「誰かが一時的に代わる方法はないのか」


「あるかもしれない」


「なら、出るなら出るで決めればいい」


「勝手に出ない?」


「そうだ」


 アリシアは少し考えた。


 ミリアが前へ出ること自体が悪いのではない。


 中央の役割を誰にも渡さず、感情だけで飛び出せば危険になる。


「誰かに中央を渡してから出る」


「必要ならな」


「戻る条件も決める?」


「その方が迷わんだろ」


「おじいちゃん、見てないのに分かる」


「戦いは知らん。だが、畑でも同じだ」


「畑?」


「水路が詰まったからといって、全員で水路へ行けば畑が空く。誰が残るか決めてから動け」


「なるほど」


「分かったなら食え」


「食べてる」


「また止まってる」


 アリシアは匙を動かした。


 前へ出る。


 残る。


 どちらかだけが正しいのではない。


 誰が残り。


 誰が動き。


 いつ戻るか。


 声にしてつなぐ。


 それが今日の準備になるかもしれない。


 ◇


 学園へ続く道には、雨上がりの匂いが残っていた。


 木々の枝から時折雫が落ち、石畳の隙間にはまだ細い水の筋が流れている。生徒たちは晴れた空を喜びながらも、滑りやすい足元を避けて普段よりゆっくり歩いていた。


 中央校舎へ入ると、昨日の護送訓練について話す声が聞こえてくる。


「風、誤報の後も続けたのすごかったな」


「最後の床下、あれがなかったら負けてたよ」


「中央、次は土だって」


「土が中央ってどうするんだろ。前に出られないじゃん」


「逆に防御を全部見られるんじゃない?」


「でも、あの子すぐ助けに行きそう」


 アリシアは、その最後の言葉に少しだけ歩みを緩めた。


 周囲にも、ミリアが前へ出る人だと知られ始めている。


 期待。


 予想。


 不安。


 それらを、ミリア自身も聞くかもしれない。


「全部背負わない」


 足元のノアが言う。


「分かってる」


「なら歩きなさい」


 アリシアは教室の扉を開けた。


「おはよう、アリシア」


「おはよう、メリル」


 席へ着くと、メリルがすぐに顔を見た。


「脚は?」


「昨日より軽い。少し重さは残ってる」


「冷えと頭痛は?」


「ない」


「今日はミリアさん?」


「うん」


「土の人」


「ミリア」


「あ、ごめん。まだ慣れない」


「うん」


 メリルは教科書を開きながら、少し声を落とした。


「ミリアさんは、どんな中央になりそう?」


「前へ出たくなるかも」


「中央なのに?」


「誰かが危なかったら、自分で守りに行くと思う」


「それは駄目なの?」


「必要ならいい。でも、何も決めずに出たら中央が空く」


「じゃあ、アリシアが止める?」


「それも、最初から決めない」


「今日のミリアさんを見る?」


「うん」


 メリルは少し考え、窓の外へ目を向けた。


「守るのが得意な人って、自分が動かないと不安なのかな」


「たぶん」


「誰かに任せる方が怖い?」


「あると思う」


「アリシアも?」


 突然、自分へ向けられた言葉に、アリシアは少し止まった。


 助ける。


 支える。


 誰かが危ない。


 その時。


 自分が何もしないで待つこと。


「怖い」


「じゃあ、ミリアさんだけじゃないね」


「うん」


「今日は、アリシアも練習?」


「任せる練習」


「何もしない?」


「違う。自分の役割をする」


「なるほど」


 メリルは微笑んだ。


「誰かに任せながら、自分の場所に残るんだね」


「うん」


 それが簡単ではないことを、アリシアはもう知っている。


 ◇


 午前の戦術理論では、『中央位置の維持』が題材になった。


 教師は黒板へ簡単な陣形を書き、中央に円を一つ、その周囲へ五つの印を置いた。


「中央に立つ者は、最も安全な場所にいると思われがちです」


 前方の男子生徒がすぐに答える。


「実際、安全じゃないんですか」


「敵から遠いという意味では、比較的安全な場合もあります。しかし中央は、全体の情報が集まる場所です。そこが動けば、全員の基準も動きます」


 教師は中央の円を少し横へずらした。


「中央役が前へ出た場合、何が起きるでしょう」


「後ろが見えなくなる」


「左右の距離が変わる」


「誰に報告すればいいか分からなくなる」


 いくつもの答えが出る。


「では、中央役は絶対に動いてはいけない?」


 教室が少し静かになる。


 昨日までなら、アリシアもすぐには答えられなかったかもしれない。


 教師は黒板へ新しく書いた。


『中央の移動』


『役割の移譲』


『復帰条件』


「中央が動く必要はあります。しかし、無言で動けば陣形は崩れます。動くなら、誰が一時的に判断を引き継ぐのか。どこまで動くのか。何が起きたら戻るのか。それを共有する必要があります」


 祖父が朝に言ったことと同じだった。


 前へ出ることを禁止するのではない。


 出るなら、残る者を決める。


「守ることが得意な人ほど、自分が前へ出た方が早いと考えます」


 教師は続ける。


「しかし、前へ出ないことで守れる場合もあります。中央に残り、全員の危険を見て、誰をどこへ送るか決める。それも立派な防御です」


 アリシアは、黒板の言葉を書き写した。


『自分が受けるだけが防御ではない』


『残って全体を見ることも防御』


 班ごとの練習では、中央役が動く条件を決める課題が出た。


 メリルが紙へ書きながら尋ねる。


「中央が自分で動くのは、どんな時?」


 トマがすぐに答える。


「他に行ける人がいない時」


「他の人が行くより中央が近い時」


 ミーナも続ける。


「でも、その場合は誰かが中央代わる」


「どのくらい?」


「戻るまで?」


「敵を止めるまで?」


 話し合いが続く中、アリシアは静かに言った。


「時間だけじゃなくて、条件」


「どんな?」


「例えば。敵を一体止めたら戻る。三歩以上は進まない。中央代行が危険って言ったら戻る」


 セリア先生が近づき、紙を覗き込む。


「良いですね。中央役が感情で動き続けないよう、停止条件を先に決めておく」


「感情で?」


 メリルが尋ねる。


「守りたいという気持ちは大切です。しかし、その気持ちが強すぎると、目の前の一人だけを見て全体を失うことがあります」


 アリシアは、その言葉を強く書き留めた。


 目の前の一人を守る。


 そのために。


 他の四人が見えなくなる。


 ミリアだけではない。


 自分にも起こることだった。


 ◇


 昼休み、六人は雨上がりの中庭へ集まった。


 石卓はまだ湿っていたため、ミリアが土の魔術で薄い板を作り、その上へ布を敷いた。朝の雨を含んだ庭はいつもより色が濃く、枝から落ちる雫が時折卓の端へ跳ねている。


「便利!」


 レオが座りながら言う。


「セレナみたいになってる」


 フィンが果物を取り出す。


「目的は座面の乾燥です」


 セレナが答える。


「ミリアの魔術だろ」


「評価基準が似ています」


「そこを似せる必要ある?」


 ミリアは笑いながら、自分の弁当を開いた。


 いつも通り明るく見える。


 けれど、箸を持つ指が僅かに忙しなく動いていた。


「ミリア」


 アリシアが呼ぶ。


「何?」


「怖い?」


「中央?」


「うん」


 ミリアは少しだけ笑みを弱めた。


「怖いよ」


「何が?」


「みんなが危ない時に、私が前へ出られないかもしれないこと」


 予想していた答えだった。


 しかしアリシアは、すぐに「やっぱり」とは言わなかった。


「前へ出たい?」


「出たいと思う」


「絶対?」


「状況によるけど」


 ミリアは弁当箱の中へ視線を落とす。


「私、正面にいる時は、自分が受ければいいって思えるの。痛くても、重くても、私が止めてる間にみんなが動けるから」


「うん」


「でも中央だと、自分が動かないで誰かへ行けって言わなきゃいけない」


「怖い?」


「かなり」


 レオが真剣な顔で頷く。


「俺に行けって言えばいいぞ」


「何でも?」


「危なくなければ」


「そこは自分で言うんだ」


「昨日学んだ!」


 フィンが少し笑う。


「レオは行くのが速いから、戻る条件も必要だよ」


「戻る!」


「何が起きたら?」


「終わったら!」


「曖昧です」


 セレナがすぐに指摘する。


「一体止めたら?」


 ルシアンが提案する。


「それか、中央から十歩以上離れたら戻る」


「十歩は遠い」


 ミリアは考えながら、卓の上へ指で簡単な配置を描いた。


「中央を私。正面レオ。右セレナ。左フィン。中央後方ルシアン。後方アリシア」


「ミリアが中央なら、正面は俺か」


「うん。でも、もし大型が出てレオ一人で止められなかったら、私も行きたい」


「中央代行を決める?」


 アリシアが尋ねる。


「誰がいいかな」


 セレナが少し考える。


「情報整理だけであれば、私が可能です。ただし右側担当との両立には制限があります」


「僕が中央へ寄れば、セレナは右を維持できる」


 ルシアンが言う。


「でも、状態確認が遅れない?」


「中央に寄る方が全員を見やすい」


「じゃあ」


 ミリアは顔を上げる。


「私が前へ出る時は、ルシアンが一時中央。セレナが情報整理補助」


「条件は?」


 フィンが尋ねる。


 ミリアはすぐに答えず、考える時間を取った。


「正面に大型一体以上。レオだけでは三秒以内に止められない。誰かの負荷が二以上。それから、中央周辺に敵がいない」


「良いと思います」


 セレナが頷く。


「どこまで?」


 アリシアが聞く。


「中央から五歩以内」


「戻る条件」


「大型を止めたら。ルシアンが戻れって言ったら。後方か左右に二体以上出たら」


「自分がまだ持てるって思っても?」


 アリシアの問いに、ミリアは少し困ったように笑った。


「戻る」


「本当に?」


「……戻る」


「間がありました」


 セレナが淡々と指摘する。


「だって、まだ持てる時あるし」


「それで止められたことがあります」


「分かってる」


 ミリアは小さく息を吐き、今度は真剣な顔でアリシアを見る。


「私が戻らなかったら、言って」


「何て?」


「中央」


「名前じゃなくて?」


「名前でもいい。でも、中央って言われた方が思い出せそう」


「分かった」


「怒っても?」


「怒るの?」


「前に出てる時は、戻りたくないって思うかもしれない」


「それでも言う」


「お願い」


 役割を奪うのではない。


 自分で決めた戻る条件を、思い出す言葉として渡す。


 ◇


 午後の第一戦術演習室には、雨上がりの明るい光が高窓から差し込んでいた。


 見学席は前日よりも多く埋まり、中央判断役がミリアだと知った生徒たちは期待と不安を交えた声で話している。


「土が中央って、前に出ないのかな」


「昨日の授業、中央移動の話だったぞ」


「絶対何かあるだろ」


「教官がわざと大型出しそう」


「聞こえてます!」


 ミリアが見学席へ顔を向けると、周囲から笑いが起こった。


 緊張を隠すためか、いつもより声が明るい。アリシアには、それが分かった。


 教官は黒板へ今日の条件を書いた。


『防衛および救出』


『中央標柱を十五分間防衛』


『演習用救助対象が途中出現』


『救助対象の損傷で減点』


『標柱破壊で敗北』


『敵数、出現位置は未公開』


「両方?」


 ミリアの顔から笑みが消える。


「標柱を守りながら、救助対象も助ける」


「そうだ」


「救助対象は動くんですか?」


「場合による」


「一体ですか?」


「未公開だ」


 セレナが一瞬質問を続けそうになったが、自分で止めた。


 教官は六人を見る。


「配置と移動条件を言え」


 ミリアは一度深く息を吸った。


「現時点、正面レオ、右セレナ、左フィン、中央後方ルシアン、後方アリシア。中央は私です」


「中央が動く条件」


「正面に大型一体以上が出て、レオだけでは三秒以内に止められない場合。誰かの負荷が二以上で、私が近い場合。中央周辺に敵がいないことを確認してから動きます」


「代行」


「ルシアン。情報整理補助はセレナ」


「移動限界」


「中央から五歩」


「復帰条件」


「対象を止めた時。ルシアンが復帰を求めた時。左右か後方に二体以上出た時」


「よし。開始」


 ◇


 最初の二分間、敵は正面と左右から少数ずつ現れた。


 レオが正面の一体を炎で止め、セレナが右側へ水の網を広げる。フィンは左の音を拾い、アリシアは後方の床へ影を薄く這わせていた。


 ミリアは中央から全体を見ていた。


 斧は持っている。


 土の魔力も、いつでも使える。


 それでも、自分からは前へ出ない。


「正面一、レオ継続! 右二、セレナは一体拘束、一体遅延! フィン、左は?」


「一体。距離十歩」


「ルシアンは全員の状態確認。アリシア、後方維持」


 指示は短く、声も通っている。


 見学席では、ミリアが意外なほど中央へ残っていることに驚く声が聞こえた。


「前に出ないんだ」


「ちゃんと見てる」


「土壁だけ遠隔で出してるな」


 ミリアは正面へ小さな土の段差を作り、レオの足場を安定させた。自分が行かなくても、中央から支援できる。


「正面処理!」


「右一処理、残り一!」


「左一、接近!」


 報告が重なっても、ミリアは一度息を置いて整理する。


「現時点、左優先。フィンは遅延、アリシアは後方から左へ一時支援できる?」


「影、負荷一未満で可能」


「左一体、脚だけ止めて。後方異常があれば解除」


「了解」


 アリシアの影が左へ伸び、魔導獣の脚を短く拘束する。フィンの風矢が魔導核を捉え、敵は止まった。


「左処理。影解除」


「戻す。冷えなし」


「確認」


 順調だった。


 ミリアは中央から動いていない。


 けれど、それで守れている。


 アリシアは、その事実をミリア自身がどう受け取っているのか気になった。表情には緊張があるものの、前へ出られない苛立ちはまだ見えない。


 ◇


 五分を過ぎたところで、救助対象が出現した。


 演習室の左奥に人型の魔導人形が現れ、片脚を損傷した状態で床へ倒れる。同時に、その周囲へ小型魔導獣が三体出現した。


「左奥、救助対象一! 敵三!」


 フィンが報告する。


「距離!」


「中央から十五歩。僕から九歩!」


 ミリアはすぐに状況を見た。


 フィンが一人で三体を相手にしながら救助するのは難しい。自分が行けば、土壁で三体を止めながら人形を運べる。


 一歩。


 ミリアの身体が左へ傾いた。


 アリシアには、それが見えた。


 けれど、まだ声はかけない。


「セレナ、右は?」


「一体拘束中。追加なし」


「レオ、正面は?」


「なし!」


「ルシアン、中央代行できる?」


「可能です」


 ミリアは自分で確認した。


「中央をルシアンへ一時移譲! セレナは情報整理補助! 私は左へ五歩まで移動して、土壁でフィンを支援します!」


「了解」


 ルシアンが中央へ一歩寄る。


 ミリアは五歩だけ進み、左奥へ向けて土の壁を二枚立てた。三体のうち二体の進路が塞がれ、フィンが残り一体を風で押し戻す。


「五歩到達!」


 ミリアは自分から報告した。


「そこから先へ行かないで」


 ルシアンが言う。


「分かってる!」


 しかし、救助対象はまだ十五歩先にいる。


 フィンだけでは運べない。


「どうする?」


 レオが正面から叫ぶ。


 ミリアは歯を噛んだ。


 自分なら行ける。


 土壁を維持したまま、さらに十歩進めば助けられる。


 でも、決めた限界は五歩。


「フィン、救助対象へ行ける?」


「敵一体を処理すれば。でも運搬中の防御がない」


「セレナ、水路を左へ伸ばせる?」


「右拘束を維持したままでは、救助対象まで届きません」


「アリシア」


 ミリアが振り返る。


「後方から左奥まで影を伸ばせる?」


「届く。でも負荷二に近い」


 ミリアの表情が変わる。


 アリシアへ無理をさせるより、自分が行った方が早い。


 一歩。


 六歩目へ出そうになる。


「ミリア」


 アリシアが呼ぶ。


 ミリアが止まる。


「中央」


 昼休みに決めた言葉だった。


 ミリアの顔が歪む。


「でも、あそこにいる」


「うん」


「私なら助けられる」


「うん」


「アリシアを二にしなくていい」


「私は行かない」


「じゃあ」


「他の方法」


 アリシアは答えを出さない。


 ミリアへ戻る場所だけを伝える。


 中央。


 全体を見る。


 誰を動かすか決める。


 ミリアは左奥の救助対象を見つめ、強く息を吐いた。


「レオ、正面異常なしなら左へ移動できる?」


「できる!」


「でも中央正面が空く」


 ルシアンが確認する。


「私が中央へ戻る」


 ミリアは五歩を引き返した。


「中央復帰! ルシアンは中央後方へ。レオは左奥へ九歩、フィンと合流。敵一体処理後、救助対象を二人で運搬!」


「了解!」


 レオが走る。


 ミリアは自分が行きたかった場所へ、レオを送った。


 その背中を見ながら、拳を強く握っている。


 フィンとレオが一体を処理し、土壁の陰から救助対象を持ち上げた。


「運搬開始!」


「セレナ、右拘束継続! アリシア、後方から左経路だけ確認!」


「了解」


 アリシアは影を広げすぎず、レオたちの戻る道へ敵がいないことだけを確認した。


「経路、現時点異常なし」


「戻って!」


 二人が救助対象を中央まで運び、ルシアンが損傷状態を確認する。


「救助対象、損傷増加なし」


 見学席から大きな拍手が起こった。


「土、自分で行かなかった!」


「中央へ戻った!」


「火と風を送ったんだ!」


 ミリアは拍手を聞いても笑わなかった。


 助けられた。


 でも、自分で抱えて戻りたかった。


 その気持ちは、まだ胸に残っている。


 ◇


 救助対象を中央へ収容した直後、正面に大型魔導獣が一体出現した。


「大型一!」


 レオはまだ左から戻り切っていない。


 正面まで八歩。


 大型は標柱まで十歩。


 事前に決めた条件へ近い。


「レオ、三秒以内に止められる?」


「走れば間に合う。でも一人で完全停止は難しい!」


「中央周辺、敵なし!」


 アリシアが後方から報告する。


「左右は?」


「右一拘束中!」


「左なし!」


 ミリアは斧を握り直した。


「中央をルシアンへ一時移譲! セレナは整理補助! 私は正面へ五歩、大型を停止します!」


「了解」


 今度は迷わなかった。


 ミリアは五歩前へ出ると、両足を開き、斧の柄を床へ叩きつけた。巨大な土壁が大型魔導獣の前へ立ち上がり、重い衝突音とともに演習室全体が震える。


「停止できてる!」


 しかし大型の力は強く、土壁に亀裂が走った。


「まだ持てる!」


 ミリアが叫ぶ。


 その声に、アリシアの胸が強く鳴る。


 以前と同じ言葉。


 まだ持てる。


 だから、続ける。


 けれど今日は、戻る条件を決めている。


「レオ到着!」


 レオが大型の右側へ回り込み、炎を脚へ絡める。


「右脚止めた!」


 ミリアはまだ壁を支えている。


「ミリア、復帰条件成立」


 ルシアンが中央から告げる。


「まだ壁が!」


「レオが止めています。中央へ戻って」


「でも!」


 ミリアは歯を食いしばり、土壁を支え続ける。


 アリシアは彼女の横顔を見た。


 今。


 怒るかもしれない。


 それでも。


「ミリア、中央」


 強く呼ぶ。


 ミリアの肩が揺れた。


「戻って」


「まだ持てる!」


「持てるかじゃない」


 アリシアの声は、いつもより大きかった。


「戻るって決めた」


 演習室が一瞬静かになったように感じた。


 ミリアは前方の大型と、中央にいる五人を交互に見る。


 自分が残れば、もっと確実に止められる。


 けれど、中央は今ルシアンが代行している。後方や右側に追加が出れば、ミリア自身が全体を見て判断しなければならない。


「……戻る!」


 ミリアは土壁の維持を解除せず、遠隔へ切り替えながら五歩を引き返した。


「中央復帰!」


 その直後、右側の床から二体の小型魔導獣が出現した。


「右追加二!」


 セレナが報告する。


 もしミリアが正面へ残っていれば、中央へ戻るまで判断が遅れていた。


「セレナは拘束中一体を処理! アリシア、右追加の先頭一体を負荷一まで拘束! フィンは二体目を遅延! ルシアンは大型側のレオを状態確認!」


 中央へ戻ったミリアの声が、演習室へ響く。


「了解!」


 アリシアの影が右へ伸び、先頭の脚を掴む。


「負荷一未満、冷えなし!」


「確認! フィン、二体目!」


「遅延!」


 風が敵の進路を曲げ、セレナが拘束中の一体を処理した後、追加へ水を回す。


 正面ではレオが大型の脚を止め、ミリアが中央から土壁の角度を調整している。


「大型、右へ傾いてる!」


 レオが叫ぶ。


「そのまま左へ誘導! 標柱から外して!」


「了解!」


 ミリアは前へ出ていない。


 それでも土壁を動かし、レオの炎と合わせて大型の進路を逸らす。


「右追加一処理、残り一!」


「フィン、射線ある?」


「あります!」


「処理!」


 風矢が魔導核を貫き、右側の二体も止まった。


 大型は標柱から離れ、最後はレオの炎とセレナの水、ミリアの土壁によって完全に動きを封じられた。


「大型停止!」


「全方位確認!」


 ミリアはすぐに終わりだと決めなかった。


「後方なし!」


「左なし!」


「右なし!」


「床下、今はなし!」


「上方なし!」


 六人の報告が揃ったところで、教官が手を挙げる。


「終了」


 見学席から拍手が起こった。


 今度の拍手は、救助時よりもさらに大きかった。


 ◇


 ミリアは終了の声を聞いた後もしばらく中央に立っていた。


 斧を握る手には力が残り、正面へ出た時の緊張も身体から抜けていない。大型を自分で最後まで受け止めなかったことが、どこか悔しいのかもしれない。


「ミリア」


 アリシアが近づく。


「何?」


「戻った」


「うん」


「怒った?」


 ミリアは少し迷った後、正直に答えた。


「ちょっと」


「私に?」


「アリシアにも。ルシアンにも」


「うん」


「まだ持てたから」


「うん」


「でも」


 ミリアは右側に倒れた二体を見る。


「戻ってなかったら、あっちの指示が遅れた」


「うん」


「分かってる」


「まだ怒ってる?」


「少し」


 アリシアは無理に笑わなかった。


「怒ってていい」


「え?」


「戻ったことと、戻りたくなかったこと。両方」


 ミリアはしばらく黙り、その後で大きく息を吐いた。


「そっか」


「うん」


「アリシア、最近そういうこと言うね」


「両方、事実」


「誰に教わったの?」


「みんな」


 ミリアは少しだけ笑った。


 ◇


 四分間の休憩では、ミリアは床へ座り、両腕をゆっくり動かして状態を確かめた。


「右腕、重さ中。痛みなし。肩、少し張ってる」


「頭痛や息苦しさは?」


 ルシアンが尋ねる。


「ない。脚も大丈夫」


「まだ持てた?」


 フィンが少し意地悪そうに聞く。


「持てた」


「でも戻った」


「戻った」


「どっちが良かった?」


 ミリアはすぐには答えなかった。


「まだ分からない」


「右二体」


 セレナが静かに言う。


「あなたが中央へ戻っていたため、出現直後に処理役を割り当てられました」


「うん」


「正面に残っていた場合、ルシアンが判断を継続することも可能でした」


「うん」


「ただし、大型の状態確認と右側判断を同時に行う必要があり、情報負荷は上がっていました」


「じゃあ、戻って正解?」


「結果としては適切です」


「結果として」


「その時点で唯一の正解だったとは断定できません」


 ミリアは少し困った顔をする。


「セレナ、そういうところ難しい」


「簡単な答えを作ると、次に同じ条件だと思ってしまいます」


「昨日の成功を今日の義務にしない」


 アリシアが言う。


「そうです」


 セレナが頷く。


「今日は戻ることで右側を守れました。しかし別の状況では、前に残る方が必要かもしれません」


 ミリアは水を飲み、少しずつ肩の力を抜いていった。


「戻ったから守れたものもある」


「はい」


「前に出たから守れたものもある」


「はい」


「両方、見る」


「それで良いと思います」


 ◇


 振り返りでは、黒板へ結果が書かれた。


『結果:勝利』


『標柱:無傷』


『救助対象:損傷増加なし』


『大型一体、小型九体処理』


 教官はミリアを見た。


「自己評価」


「七十点」


「理由」


「救助対象が出た時、決めた五歩を越えそうになりました。大型の時も、復帰条件が成立した後に戻るのを拒みかけました」


「他」


「中央から土壁を出して、レオやフィンを支援できました。救助の時、自分で行かずに二人を送れました。大型の後、右側追加へすぐ指示できました」


「七十点は妥当か」


 ミリアは少し考える。


「七十五点」


 レオが笑う。


「細かい!」


「できたこと言ったから上げたの!」


「俺もそれやった!」


「フィンもやった」


「流行ってるな!」


 教官は小さな笑いが収まるのを待ち、黒板へ『防御』と書いた。


「ミリア」


「はい」


「守るとは何だ」


「前に立って、攻撃を止めること」


「今日、それだけだったか」


 ミリアは中央から出した土壁や、仲間へ送った指示を思い出す。


「違いました」


「他は」


「誰をどこへ送るか決める。戻る道を作る。中央に残って、全体を見る」


「自分が受けなければ守ったことにならないか」


「なります」


「本当にそう思うか」


 ミリアはすぐには答えなかった。


 見学席も静かになる。


「まだ、少し悔しいです」


「何が」


「救助対象を、自分で抱えて戻れなかったこと。大型を最後まで自分で止められなかったこと」


「それで」


「でも、レオとフィンが助けました。大型はみんなで止めました。私が中央へ戻ったから、右の二体にもすぐ動けました」


 ミリアは一度息を整え、はっきりと言った。


「私が前へ出なくても、守れたものがありました」


 教官は頷き、黒板へ書き加える。


『前に出る防御』


『残る防御』


「どちらかだけが正しいわけではない」


「はい」


「問題は、自分が動きたいという感情を、必要な判断だと思い込むことだ」


 ミリアの表情が僅かに硬くなる。


「守りたい気持ちは否定しない。しかし、目の前の一人だけを見て、他の四人を失えば中央ではない」


「はい」


「アリシア」


「はい」


「何をした」


「ミリアへ、中央って言った」


「なぜ」


「昼に決めたから。戻る条件を思い出してほしかった」


「命令したか」


「戻って、とは言った」


「役割を奪ったか」


「奪ってない。最後に戻るって決めたのはミリア」


「良い」


 次に教官はルシアンを見る。


「代行はどうだった」


「情報はまとめられました。ただ、大型側の状態確認と右側の変化を同時に見るのは難しかったです」


「セレナ」


「情報整理補助は可能でしたが、右の拘束を維持しながらでは報告量に限界がありました」


「レオ」


「救助対象まで行って戻れた。でも、最初はミリアが来ると思ってた」


「なぜ」


「守るならミリアって思ってたから」


「今日、変わったか」


「守る人が、行く人を決めることもあるって分かった」


「フィン」


「救助時、僕一人では運べなかったことを早く言えた。ミリアが来なかったから不安だったけど、レオが来て助かった」


 教官は最後に六人全員を見渡した。


「任せることは、何もしないことではない。中央に残り、誰かを信じて送り出し、必要なら戻す。それも役割だ」


 アリシアはその言葉を書き留めた。


 自分が助ける。


 それだけではない。


 誰かに任せる。


 それを見守る。


 戻れる場所を残す。


 それも支えることだった。


「次回の中央判断役」


 教官が言うと、全員の姿勢が少し変わった。


「ルシアン」


「僕ですか」


 ルシアンは驚いたように目を瞬いた。


「そうだ」


 レオがすぐに身を乗り出す。


「治癒しながら中央!?」


「それが課題だ」


 ルシアンの表情が僅かに曇る。


 誰かが傷つけば、すぐに助けたい。


 状態を見れば、全員を支えたくなる。


 けれど中央では、治癒へ集中しすぎれば全体判断が止まるかもしれない。


 また、今日とは違う難しさが待っている。


 ◇


 演習室を出ると、廊下にはミリアへ声をかけようと待っていた生徒たちがいた。


「ミリアさん!」


 小柄な女子生徒が近づく。


「救助対象のところ、自分で行かなかったの、怖くなかったですか?」


「怖かったよ」


「レオさんたちに任せて、大丈夫だと思えた?」


 ミリアは少し考えた。


「最初は思えなかった」


「じゃあ」


「でも、私が行けば全部うまくいくって考えるのも、たぶん違った」


 女子生徒は真剣に聞いている。


「私、守るなら自分が前へ出るものだと思ってたの。でも今日は、誰かに行ってもらって、私は戻ってくる場所を守った」


「戻ってくる場所?」


「うん。中央が崩れたら、助けに行った二人も帰れないから」


 女子生徒は少し驚いた後、ゆっくり頷いた。


「それも、守るなんですね」


「今日、私も知った」


 ミリアは照れたように笑った。


 その横で、レオが小さな声でフィンへ言う。


「ミリア、ちゃんと話せてるな」


「君より声量も適切」


「そこ今いる?」


 アリシアも少し笑った。


 ◇


 夕方、教室へ戻ると、メリルがいつもの席で待っていた。


「おかえり」


「ただいま」


「ミリアさん、どうだった?」


「前へ出た」


「中央なのに?」


「一回。でも決めた条件で出た」


「戻れた?」


「最初は戻った。二回目は、戻りたくないって言った」


「どうして?」


「まだ持てたから」


「それで?」


「私とルシアンが、戻ってって言った」


「怒った?」


「少し」


「それでも戻った?」


「うん」


 アリシアは救助対象の場面から、大型魔導獣が現れた場面まで順番に話した。


 自分で行きたかったミリアが、レオとフィンへ救助を任せたこと。


 大型を土壁で止めた後、中央へ戻ったこと。


 直後に右から二体が現れたこと。


 中央に残っていたから、すぐに指示を出せたこと。


「じゃあ、戻って正解だった?」


 メリルが聞く。


 アリシアは少し考えた。


「今日のあの時は、戻って守れた」


「いつでも?」


「分からない」


「前に残った方がいい時もある?」


「あると思う」


「難しいね」


「うん」


「ミリアさん、怒ったまま?」


「少し怒ってた。でも、分かってるって」


「怒ってても、仲間?」


「うん」


「アリシア、嫌われたと思わなかった?」


 胸の奥に、少しだけ残っていた不安を言い当てられた。


「少し思った」


「どうしたの?」


「怒ってていいって言った」


「本当は怖かった?」


「怖かった」


「でも言えた?」


「うん」


 メリルは静かに頷いた。


「怒らせないことより、戻ってきてもらう方が大事だったんだね」


「うん」


 嫌われたくない。


 怒らせたくない。


 そのために必要な声を飲み込めば。


 もっと危険になる。


 昨日のフィンは、間違える怖さを越えて仮説を言った。


 今日はアリシアが、怒られる怖さを越えて「戻って」と言った。


 ◇


 帰宅後、祖父はアリシアの歩き方を見るなり尋ねた。


「脚は」


「朝と同じくらい。重さは少しだけ」


「冷え」


「ない」


「頭痛」


「ない」


「なら食え」


「まだ夕食できてない」


「手を洗えという意味だ」


『言葉が足りない』


「ノアが言葉足りないって」


「聞こえない」


 夕食の席で、祖父は今日の訓練について短く尋ねた。


「ミリアは前へ出たか」


「出た」


「中央は」


「ルシアンへ渡した」


「戻ったか」


「一回目はすぐ。二回目は戻りたくないって言った」


「戻ったのか」


「うん」


「ならいい」


「怒ってた」


「誰に」


「私とルシアン」


「必要なことを言ったんだろ」


「うん」


「なら怒らせておけ」


「簡単に言う」


「怒りはそのうち薄くなる。壊れた標柱は勝手に直らんだろ」


 祖父は煮た豆を皿へ盛りながら続ける。


「嫌われないために黙るのと、仲間を守るために言うのと。どちらを選んだ」


「言った」


「なら食え」


「また戻った」


「食事中だ」


 アリシアは苦笑しながら豆を口へ運んだ。


 でも、祖父の言葉は胸へ残った。


 嫌われないために黙らなかった。


 怖かった。


 それでも。


 言えた。


 ◇


 夜、練習帳を開くと、ノアは机の端へ座った。


『中央判断役:ミリア』


『朝:脚の重さ少し。冷えなし。頭痛なし』


『訓練後:脚の重さ変化少。影負荷最大一。冷えなし』


 配置と結果を書いた後、ミリアについて整理する。


『中央から土壁を遠隔支援』


『救助対象出現時、自分で行こうとした』


『五歩の移動限界を守った』


『レオとフィンへ救助を任せた』


『大型出現時、ルシアンへ中央を移譲』


『復帰条件成立後も残ろうとした』


『“まだ持てる”と言った』


『アリシアとルシアンの声で中央へ復帰』


『復帰直後、右追加二体へ指示』


 次に、自分のことを書く。


『ミリアへ“中央”と伝えた』


『二回目は“戻って”と言った』


『怒られるのが怖かった』


『それでも必要だった』


『ミリアは少し怒った』


『それでも戻った』


 筆が少し止まる。


「嫌われたと思う?」


 ノアが尋ねる。


「少し」


「今も?」


「少しだけ」


「明日、確認する?」


「聞かない」


「なぜ」


「ミリアが必要なら言うと思う」


「本当に?」


「……たぶん」


「確認して安心したいだけなら、相手へ仕事を増やすわね」


「うん」


 アリシアは練習帳へ続けた。


『相手を怒らせないことが、いつも支えることではない』


『危険なら、嫌がられても止める』


『でも、止めた後に怒るなとは言わない』


『戻ったことと、戻りたくなかったこと。両方』


 次に、今日の題を書く。


『守るために前へ出るより、残ることで守れるものもある』


『自分が受ける防御』


『誰かを送る防御』


『戻る場所を守る防御』


『全体を見る防御』


 ノアが頁を覗き込む。


「前へ出るのは悪い?」


「悪くない」


「残るのは逃げ?」


「違う」


「任せるのは何もしないこと?」


「違う。誰を送るか決めて、戻れるように見る」


「今日のミリアは?」


「両方やった」


「あなたは?」


 アリシアは考える。


「ミリアを止めた」


「他」


「自分の後方も見た」


「他」


「レオとフィンに任せた」


「あなたが?」


「救助を。私が負荷二で行くんじゃなくて」


「そうね」


「少し怖かった」


「それでも?」


「任せた」


 ノアは少しだけ目を細めた。


「今日は採点を求めないの?」


「自分で決める」


「何点?」


「百点」


「理由」


「怒られるのが怖くても、必要なことを言った」


「他」


「ミリアが前へ出ないで守れたことを見た」


「他」


「私も、全部自分で助けようとしなかった」


「では百一点」


「やっぱり増やす」


「今の三つを、自分で言えたから」


「昨日と同じ」


「昨日の成功を今日の義務にしない」


「ノア、それ便利に使ってる」


「良い言葉は何度でも使うものよ」


「毎回は駄目って言ってた」


「使い方の問題」


 アリシアは少し笑い、最後に明日のことを書いた。


『明日の中央:ルシアン』


『誰かが傷ついた時、治すことを優先しすぎるかもしれない』


『全員を助けようとして、自分や中央判断を忘れるかもしれない』


『でも、今日までのルシアンだけで決めない』


『明日のルシアンを見る』


 ◇


 灯りを消した後、窓の外には雨上がりの月が浮かんでいた。


 薄い雲が時折その光を隠し、濡れた葉の間で小さな水滴が白く光っている。


 今日、ミリアは前へ出た。


 そして、戻った。


 救助対象を自分で抱えてはいない。


 大型魔導獣を最後まで一人で受け止めてもいない。


 それでも。


 レオとフィンを送り。


 戻る場所を守り。


 右側へ現れた二体へ指示を出し。


 六人全員を勝利までつないだ。


 前へ出なかったから守れなかったのではない。


 残ったから守れたものがあった。


 誰かへ任せることは、責任を捨てることではない。


 信じて送り出し、危険なら戻し、戻ってくる場所を残すこと。


 それも責任だった。


 そしてアリシアも、怒られることを恐れながら「戻って」と言った。


 嫌われない答えより。


 必要な声を選んだ。


 それが正しかったかどうかは、明日になっても完全には分からないかもしれない。


 けれど、今日の六人は勝った。


 ミリアは戻った。


 右側の二体も止められた。


 その事実は残る。


 明日はルシアンが中央に立つ。


 人を助けることを優先し、自分を後回しにしやすい少年が、全体を見ながら誰か一人へ治癒を集中させることになる。


 また、違う中央。


 また、違う怖さ。


 だから、今日の答えをそのまま持ち込まない。


 明日の声を聞く。


 明日の六人で決める。


 守るために前へ出る者もいる。


 残ることで守る者もいる。


 そのどちらも、一人ではできない。


 六人はまた一つ、守り方の輪郭を増やした。

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