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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第81話 間違えた声を、そこで終わらせない



 翌朝、夜のうちに降り始めた雨は、まだ静かに屋根を叩き続けていた。


 激しい降り方ではない。細かな雨粒が一定の調子で窓硝子を濡らし、幾筋もの水の跡を作りながらゆっくり下へ流れていく。灰色の雲に覆われた空は朝の光を薄く遮り、いつもの時刻になっても部屋の中には夕方に似た淡い暗さが残っていた。


 アリシアは掛け布の中で目を開けたまま、しばらく雨音を聞いていた。


 今日の中央判断役はフィンだ。


 昨日の振り返りで教官から名前を告げられた時、フィンは明らかに顔を強張らせていた。間違うことを嫌い、確信のない情報を言葉にするくらいなら黙ってしまうことがある彼にとって、五人を動かす判断を任されることは、他の誰よりも重く感じられるのかもしれない。


 最近のフィンは、未確認の情報を「仮説」として伝える練習を続けている。実際に、その一言がなければ見落としていた敵もいたし、昨日は遮蔽壁の裏と床下に潜む魔導獣を見つけるきっかけにもなった。


 できている。


 だから、今日もできる。


 そう言い切ってしまえば簡単だったが、アリシアはその言葉を素直には信じられなかった。


 情報の一つを間違えることと、その情報をもとに五人を動かしてしまうことは同じではない。もしフィンの判断が外れ、それによって誰かが危険な場所へ向かってしまったら、彼は自分の誤りをいつまでも引きずるのではないか。


「起きているなら、そろそろ瞬きをした方がいいわよ」


 窓辺の椅子に座っていたノアが、外の雨を眺めたまま言った。


「してる」


「回数が少ない」


「数えてたの?」


「あなたが朝から天井を睨んでいるからでしょう」


 アリシアは掛け布を少しだけ下げ、枕元から窓辺へ視線を移した。黒い尾が椅子の端から垂れ、ゆっくり左右へ揺れている。


「フィンのことを考えてた」


「本人がいないところで、本人より先に今日の失敗を想像していたのね」


「失敗って決めてない」


「では、何を考えていたの?」


「間違えたらどうしようって」


「誰が?」


「フィンが」


「それで?」


 ノアはようやく振り返った。


「あなたが失敗しない方法を全部考えて、本人へ渡す?」


 アリシアはすぐには答えられなかった。


 昨日、自分はセレナへ答えを渡さなかった。ただ「今、分かること」と短く伝え、彼女が自分で判断を出す時間を残した。それが正しかったと思っているのに、相手がフィンへ変わっただけで、また先回りして助けたくなっている。


「全部はしない」


「少しは?」


「必要なことだけ」


「何が必要かは、もう分かっている?」


「まだ分からない」


「なら、今から決めないことね」


 ノアの声は冷たく聞こえるが、言っていることは昨日と同じだった。今日のフィンを、昨日までの輪郭だけで固定しない。間違うことを恐れる傾向はあっても、今日も同じように黙るとは限らない。


「でも、危なくなってからじゃ遅い時もある」


「安全に関わる条件は先に決めればいいでしょう。誰が止めるか、どこまでなら仮説で動くか、何が起きたら配置を変えるか。その程度なら準備と呼べるわ」


「失敗しない方法は?」


「本人の仕事」


「失敗したら?」


「直す」


「恥ずかしかったら?」


「恥ずかしいでしょうね」


 あっさり言われ、アリシアは少し眉を下げた。


「そこは大丈夫って言わないの?」


「恥ずかしいものを恥ずかしくないと言っても、本人は救われないわよ」


 ノアは椅子から静かに飛び降り、寝台の近くまで歩いてきた。


「間違ってもいい、と言うのは簡単。でも、そう言っていた人間が、本当に間違えた瞬間に呆れたり、責めたり、次の言葉を聞かなくなったりすることもある」


 アリシアの胸の奥へ、その言葉がゆっくり沈んだ。


 失敗しても大丈夫。


 気にしなくていい。


 誰にでもある。


 そんな優しい言葉をかけてもらっても、実際に失敗した後で態度を変えられたら、次はもっと怖くなる。間違ってもいいと言われることより、間違った後も隣にいてもらえることの方が、ずっと信じやすいのかもしれない。


「じゃあ、フィンが間違った後も、次の声を聞けばいい?」


「まずはね」


「直す時も一緒に?」


「危険な判断なら止める。誤った情報なら訂正する。でも、本人まで捨てない」


 アリシアは掛け布から腕を出し、自分の身体の状態を確かめた。冷えはなく、頭痛もない。昨日までの訓練の疲れが残っているのか、脚に少し重さはあったが、歩けないほどではなかった。


「今日は脚が少し重い。冷えと頭痛はない」


「眠気は?」


「ある」


「いつもより?」


「少し強い」


「なら、それも今日のあなたね」


「うん」


「フィンだけでなく、自分の状態も忘れないように」


 アリシアは頷き、ようやく寝台から降りた。


 ◇


 雨の日の隠れ里は、晴れた朝とはまるで違う場所のように見えた。


 木々の葉は水を含んで濃い緑に沈み、土の道には大小の水溜まりができている。家々の屋根から落ちる雫が細い水音を重ね、遠くの水路は普段より勢いを増して流れていた。


 玄関先で外套を羽織るアリシアを、祖父は腕を組んで見ていた。


「今日は滑るぞ」


「分かってる」


「急ぐな」


「遅れそうになったら?」


「走って転べば、もっと遅れる」


 祖父は外套の留め具を一度引き、緩みがないことを確かめると、簡易結界具をアリシアへ渡した。


「今日の中央は誰だ」


「フィン」


「風か」


「フィン」


「分かってる」


「名前で呼んで」


「本人がいない」


「いなくても」


「面倒だな」


 足元でノアが小さく息を吐いた。


『セレナに似てきたわね』


「ノアが、セレナに似てるって」


「聞こえない猫の意見は知らん」


『神獣よ』


「また言ってる」


「内容は聞こえない」


 祖父は扉を開け、雨の様子を確かめた。


「それで、そのフィンがどうした」


「間違うのが苦手」


「誰でもそうだろ」


「フィンは、間違うくらいなら黙ることがある」


「今日は黙れない役か」


「うん」


「なら本人が考えるだろ」


「助けたい」


「道の穴は教えろ」


「道?」


「今から歩く道と同じだ。滑る石や深い水溜まりが見えたなら言えばいい。だが、右足から出すか左足から出すかまで、お前が決める必要はない」


 アリシアは玄関の外に広がる濡れた道を見た。


「転んだら?」


「起きられるなら起きる。痛ければ休む」


「人に見られたら恥ずかしい」


「恥ずかしいだろうな」


「それでも?」


「転んだからといって、道から追い出されるわけじゃない」


 ノアが朝に言ったことと、少し似ている。


 失敗したからといって、六人の中からいなくなるわけではない。誤った声を出したからといって、その後の声まで聞いてもらえなくなるわけではない。


「行ってくる」


「ああ。帰ったら脚の状態を言え」


「うん」


 アリシアはノアと一緒に、雨の中へ歩き出した。


 ◇


 学園の中央校舎は、雨を避けて集まった生徒たちでいつも以上に混雑していた。


 入口では濡れた外套を払う生徒が列を作り、石床には何人もの靴から落ちた水が細く広がっている。清掃当番の生徒たちが何度も布を交換していたが、次々と人が入ってくるため追いついていない。


「廊下を走るな! 今日は本当に滑るぞ!」


「走ってません、早歩きです!」


「昨日も同じ言い訳を聞いた!」


 教師の声と生徒たちの笑いが響く中、アリシアは足元を確かめながら教室へ向かった。


 扉を開けると、メリルがすぐに顔を上げた。


「おはよう。濡れなかった?」


「少しだけ」


「髪の右側、湿ってるよ」


 渡された布で髪を押さえながら席へ座ると、メリルはアリシアの顔を覗き込んだ。


「今日は少し眠そう」


「朝から眠い。脚も少し重い」


「冷えと頭痛は?」


「ない」


「じゃあ、訓練はできそう?」


「できる。でも、途中で変わるかもしれない」


「それなら、また確認だね」


「うん」


 メリルは机へ頬杖をつき、少し声を落とした。


「今日はフィンさんが中央?」


「うん」


「どんな人だったっけ」


「風の神器を使う。遠くの音を集めるのが得意で、索敵も速い」


「性格は?」


「少し嫌味」


「本人に言ったら怒られない?」


「ノアがよく言う」


「アリシアは?」


「思う時はある」


 メリルが吹き出した。


「他には?」


「間違うのが嫌い。確信がないと、言わない時がある」


「中央なのに?」


「だから、たぶん怖い」


「本人に聞いた?」


「まだ」


「じゃあ、それは今までのフィンさんを見た予想だね」


「うん」


 昨日、ノアにも言われた。


 今日の本人を見る前から、怖がると決めつけない。


「アリシアは、どう助けるの?」


「必要な時だけ言う」


「昨日のセレナさんみたいに?」


「同じにはしない」


「どうして?」


「セレナは、全部確定するまで待って止まった。フィンは、間違うのが嫌で声を出さなくなるかもしれない」


「同じ止まるでも、理由が違うんだ」


「うん」


「だったら、かける言葉も違う?」


 アリシアは少し考えた。


「違うと思う。でも、まだ決めない」


「今日のフィンさんを見るから?」


「うん」


 メリルは満足したように頷いた。


「終わったら教えて。フィンさんが間違えたかどうかじゃなくて、間違えた後にどうなったか」


 アリシアは、その言葉を心の中でもう一度繰り返した。


 間違えたかではなく。


 間違えた後。


「うん。私が間違えたら、それも話す」


「できたこともね」


「両方」


「そう、両方」


 ◇


 午前の戦術理論で黒板へ書かれた題は、『誤情報の扱い』だった。


 教師は教室全体を見渡した後、黒板へ二つの言葉を書く。


『情報なし』


『誤情報』


「戦場で怖いものは、情報がないことだと思う人も多いでしょう。しかし、間違った情報を確定事項として信じてしまう方が危険な場合もあります」


 教室の空気が少し引き締まった。


 昨日は不完全な情報で決めることを学んだ。今日は、その不完全な情報の中に誤りが混ざっていた場合の話らしい。


 教師は黒板へ新しく三つの言葉を書いた。


『確定』


『仮説』


『未確認』


「情報には状態をつける必要があります。自分の目で確認したのか。音だけを聞いたのか。誰かの報告なのか。推測なのか。それを曖昧にすると、仮説がいつの間にか確定情報として扱われます」


 アリシアは筆を走らせながら、フィンの報告を思い出した。


『仮説。右遮蔽壁裏、一』


 あの一言があったから、六人は罠の可能性を考えられた。仮説は間違うかもしれないが、使わない方が危険なこともある。


「では、仮説が外れた人間は、その後も報告役として使うべきでしょうか」


 教師が問いかけると、前方の男子生徒が少し迷いながら答えた。


「次も間違うかもしれないから、別の人に確認させた方がいいと思います」


「確認すること自体は正しい。では、その人の情報は二度と使わない?」


「……それは、困るかもしれません」


「なぜ」


「その人にしか見えない場所があるかもしれないから」


「その通りです」


 教師は黒板へ短く書いた。


『人ではなく、情報を直す』


「仮説が外れたなら訂正する。誤報だったことを共有する。しかし、報告した人間そのものを切り捨てれば、班は一つの目や耳を失います」


 アリシアの筆が止まった。


 一度間違えた人の声を、もう聞かない。


 それは、その人を役割から外すだけではない。次に本当に必要な情報を見つけても、言えなくさせることにもつながる。


「アリシアさん」


 教師に呼ばれ、アリシアは驚いて顔を上げた。


「外した人は、次にどうすればいいと思いますか」


「外れたって言う」


「はい」


「それから……次の情報を言う」


「良いでしょう」


「でも」


 アリシアは迷いながら続ける。


「周りが、もうその人の声を聞かないと思っていたら、次を言えないかもしれない」


 教室が少し静かになった。


 教師はすぐに答えず、アリシアの言葉を一度受け止めるように間を置いた。


「それは、個人の問題ではなく班全体の問題です」


「班の?」


「外れた報告は訂正する。危険な判断は止める。しかし、その人の次の声を待つ。それがなければ、仮説を出す訓練は成立しません」


 アリシアは黒板の言葉の下へ、自分でもう一行を書き加えた。


『次の声を待つ』


 ◇


 雨が止まないため、昼休みの打ち合わせは中庭ではなく空き教室で行われた。


 窓硝子へ細かな雨粒が当たり続け、外の木々は白く霞んでいる。教室内は昼とは思えないほど薄暗く、セレナが天井近くへ小さな水光球を浮かべていた。


「今日は紙が飛ばないね」


 ミリアが机へ弁当を置きながら言うと、セレナは資料を揃えながら答えた。


「室内ですから当然です」


「昨日、水球で押さえてたのは便利だったよ」


「紙の保全が目的です」


「便利だったってことでしょ」


「目的と評価は別です」


 フィンが果物を一切れ口へ運びながら、小さく息を吐く。


「今日も始まった」


 いつもの調子に聞こえるが、声は少し硬い。


 レオもそれに気づいたらしく、食べかけのパンを置いて身を乗り出した。


「フィン、緊張してるか?」


「その質問、朝から三人にされた」


「俺で四人目だな!」


「数を増やして喜ばないで」


「してる?」


 フィンはすぐには答えなかった。窓の外へ一度視線を向け、雨で歪んだ景色を見た後、机へ戻す。


「かなり」


「俺も昨日かなり緊張したぞ!」


「昨日聞いた」


「セレナと同じ返しをするなよ!」


「同じ内容を何度も報告するからでしょ」


 少しだけ笑いが起こったが、フィンの表情はすぐに戻った。


「正直に言えば、中央はやりたくない」


 教室の空気が静かになる。


 誰もすぐに励まさなかった。軽く「大丈夫」と言えば、かえってフィンへ逃げ道をなくさせる気がしたのかもしれない。


「昨日までは、僕が間違えても、外れるのは一つの情報だった」


 フィンは自分の指先を見ながら続ける。


「今日は僕が右と言えば、五人が右へ動く。もし違っていたら、僕が間違えたせいで誰かが危険な場所へ行くかもしれない」


「間違っても――」


 レオが言いかけ、自分で口を閉じた。


 アリシアが朝から考えていたのと同じ言葉だったのだろう。


 少し考えた後、レオは言い直した。


「間違ったら、俺たちで戻す」


 フィンが顔を上げる。


「怒らない?」


「危なかったら、危なかったとは言う」


「恥ずかしくない?」


「たぶん恥ずかしい」


「そこは否定してよ」


「嘘をついてもしょうがないだろ」


 ミリアが苦笑しながら、自分の右腕を軽く叩いた。


「私も昨日、まだ持てるって言った後で止められた時、かなり恥ずかしかった。でも今日もここにいるよ」


「私は判断を遅らせました」


 セレナも静かに続ける。


「見学していた生徒にも見られました。それでも、今日ここにいます」


 ルシアンは少しだけ考え、穏やかな声で言った。


「僕も、自分が止まれないことを記録されるのは嫌だった。でも、記録された後も役割はなくならなかった」


「俺は精密操作が苦手ってかなり書かれてるぞ!」


「本人の自己評価は『少し』でした」


 セレナの指摘に、レオが机を軽く叩く。


「そこは少しでいいだろ!」


「事実を更新しただけです」


 張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。


 フィンも微かに笑ったが、不安はまだ消えていない。


「フィン」


 アリシアが呼ぶと、彼は少し首を傾げた。


「何?」


「もし今日、仮説が外れても、次の声を聞く」


「誰が?」


「私も、みんなも」


 レオがすぐに頷く。


「聞くぞ」


「私も」


 ミリアが続き、ルシアンも穏やかに頷いた。


 セレナは眼鏡を直しながら言う。


「情報状態を訂正した上で、次の報告も使用します」


「セレナだけ言い方が怖いんだよ」


「意味は同じです」


「分かるけど」


 フィンは困ったように笑い、その後で深く息を吐いた。


「じゃあ、外れたら更新する」


「人じゃなくて?」


「情報を直す」


「次は?」


「また言う」


 アリシアが確認すると、フィンは小さく頷いた。


「少しだけ、やれそう」


 ◇


 配置は、これまでとは少し違う形になった。


「僕は中央にいても、索敵を広げすぎない」


 フィンは資料の上へ指を置き、自分で考えた案を説明する。


「正面と上方の音だけに絞る。全部を見ようとすると、判断まで遅れると思う」


「他の範囲は?」


 セレナが尋ねる。


「正面はレオ。右はミリア。左はセレナ。中央後方はルシアン。アリシアは右後方で、僕が見ない床と後方を見てほしい」


「全部じゃなくて、床と後方」


「そう」


 フィンはアリシアを見た。


「それから、僕が仮説を言わなくなったら、言えって言って」


「毎回は言わない」


「どうして?」


「自分で言えるかもしれないから」


 フィンは一瞬だけ驚き、その後で納得したように頷いた。


「それでいい」


 相手が自分でできるところを残す。


 昨日、セレナから学んだことを、同じ形ではなく今日のフィンへ合わせる。


 ◇


 午後の第一戦術演習室には、雨のため昨日より少ないとはいえ、二十人以上の見学者が集まっていた。


 戦術科の生徒や上級生たちは紙を持ち込み、六人が入場すると小声で予想を交わし始める。


「今日は風が中央らしい」


「索敵が得意なら向いてそうだな」


「でも、全部聞こうとして混乱しないか?」


「闇は後方?」


「右後方だって」


 フィンにも聞こえているのだろう。表情は平静を装っているが、指先が僅かに動いている。


 教官が前へ出て、黒板へ条件を書き始めた。


『護送』


『移動標柱を目的地点まで護衛』


『距離:演習室三周相当』


『魔導獣数:未公開』


『標柱停止十秒で敗北』


『標柱破壊で敗北』


『制限時間二十分』


「数がない!」


 レオが声を上げると、教官は淡々と答えた。


「意図的だ」


「昨日から本当に何でもありだな!」


「敵が毎回事前に数を教えてくれると思うな」


 見学席から笑いが起こる。


 フィンは黒板を見つめたまま、少しだけ肩を強張らせていた。敵数が分からない条件は、確信を求める彼にとって最も苦手なものだろう。


「フィン」


 教官が呼ぶ。


「はい」


「今の気分は」


「かなり嫌です」


「よし」


「よしなんですか?」


「条件は変わらん。どうする」


 フィンは一度だけ目を閉じ、深く息を吸った。それから五人を見渡し、自分の声で宣言する。


「現時点、敵数は未確認です。標柱は低速で進め、接敵時に速度を更新します。配置は事前案のまま。レオ正面、ミリア右、セレナ左、ルシアン中央後方、アリシア右後方。僕は中央で正面と上方の音を取ります」


「開始」


 ◇


 移動標柱は床に刻まれた術式へ沿い、低い音を立てながらゆっくり進み始めた。


 六人は周囲を囲むように歩き、それぞれの担当範囲へ意識を向ける。演習室の高い天井には雨音が遠く響き、普段より小さな足音や呼吸音が聞き分けにくい。


「正面、今はなし」


 フィンが短く報告する。


「後方と床、なし」


 アリシアも影を狭い範囲へ伸ばし、負荷を確認しながら答えた。


 左右からも異常なしの報告が続き、標柱はそのまま第一曲線へ近づいていく。


 二十秒ほど進んだところで、フィンの眉が僅かに動いた。


「左奥に……」


 言葉が一度止まる。


 アリシアは彼を見たが、すぐには声をかけなかった。


 フィンは自分で息を整え、続きを言う。


「仮説。左奥に二体」


「一体、目視しました」


 セレナが左側へ水膜を広げながら答える。


「右から回り込む音があります!」


 ミリアの報告が続く。


「現時点、左一確定、一仮説。セレナは左の一体を処理、ミリアは右を警戒」


「はい」


「了解!」


 一体目はセレナの水によって足を封じられ、二体目は本当に右側から姿を現した。ミリアが土を盛り上げて進路を止め、そのまま斧で魔導核を砕く。


「二体処理」


 フィンの声が、僅かに安定した。


 見学席では、彼が最初から「仮説」と明示したことへ気づいた生徒たちが、小さく言葉を交わしていた。


「今、自分で言ったな」


「昨日までは他の誰かに促されてたよな」


 フィンにも聞こえているはずだが、今度はそちらを見なかった。


 標柱はさらに進み、正面の通路へ差しかかる。


 突然、前方から三体の小型魔導獣が姿を現した。


「正面三!」


 レオが報告すると同時に、フィンはその奥へ意識を向ける。


「仮説。奥に二体。合計五」


「左側からも反響があります。一体以上の可能性」


 セレナの情報が重なった。


 フィンは急いで整理し、標柱の速度を半分へ落とす。


「正面三確定、奥二仮説、左一仮説。レオは正面三を遅延。倒し切らなくていい。セレナは左を確認。ミリアは右を維持」


 教官は何も言わず、六人の判断を見守っていた。


 標柱が指示どおり速度を落として進む中、レオは炎を壁のように広げるのではなく、小さく火力を調整しながら三体の進路を押さえ込む。倒すことを優先せず、標柱との距離だけを保つ動きだった。


「正面、遅延できてる!」


「左一体、確定しました」


 セレナが水槍で敵を拘束する。


 フィンは前方の音を追っていたが、奥から響く足音が二体なのか三体なのか判断できず、顔を強張らせた。


「二……いや」


 また言葉が止まりかける。


 アリシアは彼を見た。


 今は、危険が迫っている。正面の三体はレオが抑えているが、奥の数によって追加支援の必要が変わる。


「フィン」


 名前だけを呼ぶ。


 それ以上は言わない。


 フィンは一瞬だけアリシアへ視線を向け、自分で続きを選んだ。


「仮説を更新。奥は二体ではなく、三体の可能性があります。現時点、正面は見える三体と奥三体の合計六体」


「了解!」


 レオの声が返る。


 直後、奥から本当に三体が姿を現し、見学席がどよめいた。


「ミリア、正面支援!」


「はい!」


「アリシア、右後方から一時介入。負荷は一まで!」


「了解」


 アリシアは影を床へ這わせ、レオとミリアの間を抜けようとした一体の脚を掴んだ。身体の内側へ冷気が生まれかけたが、まだ負荷は一未満に収まっている。


「一未満。冷えなし」


「確認」


 フィンは中央から全体を見ながら、影へ任せすぎないよう次の指示を出した。


「レオは手前一体を処理。ミリアは右側二体を分断。ルシアンは標柱との距離を確認」


「標柱まで六歩。現在は安全です」


 それぞれの報告が返り、正面の敵は一体ずつ数を減らしていく。


 その最中、右へ大きく迂回した一体が標柱の側面へ回り込もうとした。


「右一!」


 フィンが声を上げる。


 ミリアは正面で二体を抑えており、すぐには戻れない。アリシアは影で一体を止めている。


「今の影、離せる?」


「離せる」


「解除して右へ。正面の抜けはルシアン!」


「はい!」


 アリシアは一度影を戻し、冷えが残っていないことを確かめてから右側へ伸ばし直した。ルシアンは正面を抜けた一体を光で押し返し、レオが戻るまでの時間を稼ぐ。


 フィンの判断は速かった。


 けれど、その直後だった。


 彼が後方へ顔を向ける。


「……後ろに一体?」


 確信はない。


 音だけが、雨の反響に混ざって聞こえたのかもしれない。


「仮説?」


 セレナが確認する。


「仮説。後方一体」


「私は右を拘束中」


 アリシアはすぐに担当状況を伝える。


「セレナ、左から後方を目視確認」


「はい」


 セレナが一歩下がり、水膜を薄く広げて後方を確認した。


「後方、敵影なし。異常ありません」


 仮説は外れた。


 見学席から、小さなざわめきが起こる。


「今の、いなかったよな」


「誤報?」


 フィンの表情が固まり、口が閉じた。


 その瞬間にも正面では戦闘が続いている。


「正面二!」


 レオが叫ぶ。


「右一、まだ保持!」


 ミリアの報告も重なる。


 フィンは返事をしない。


 一秒。


 もう一秒。


 危険な沈黙になりかけた。


「フィン」


 アリシアは、もう一度名前を呼んだ。


 彼がこちらを見る。


「次」


 短い一言だった。


 間違ったことを責めるのでも、気にしなくていいと慰めるのでもない。


 次の声を待っている。


 それだけを伝える。


 フィンの目が、僅かに開いた。


「後方一体の仮説は取消。現時点、正面二、右一。レオは正面を継続、ミリアは右を処理、ルシアンは標柱を維持。アリシアは影を解除後、中央へ戻って!」


「了解!」


 五人の声が、すぐに返った。


 仮説は外れた。


 しかし、その後の声は終わらなかった。


 ◇


 護送は続いた。


 標柱が二周目へ入る頃には、六人全員に軽い疲労が溜まり始めていた。フィンは一度仮説を外した後も、必要な場面では「仮説」と明示しながら情報を出し続けた。


「仮説、上方一体」


「目視しました。一体です」


 ルシアンが確認する。


 上方へ現れた一体は、光を受けた瞬間に二つへ分裂して見えた。


「二体!?」


 見学席から声が上がる。


 フィンは音へ集中し、すぐに首を振った。


「音は一体分です。片方は幻影の可能性」


「ルシアン、攻撃せず照明を強化してください」


 セレナが補助提案を出す。


「了解」


 強い光が当たると、片方の姿は輪郭を失い、薄く消えた。


「幻影確定。実体一体」


 フィンが報告すると、見学席から小さな拍手が起こった。


 先ほど誤報を出した者の声を、六人は変わらず聞いた。その結果、無駄な攻撃を避けられた。


 それでも、フィンの状態は少しずつ悪くなっていた。


 三周目へ入る前、彼は一度こめかみへ指を当てる。


 アリシアはその動きを見逃さなかった。


「フィン、状態」


 声をかけると、彼は少し迷った後で答えた。


「軽い頭痛。少し前から」


「報告が遅いです」


 セレナがすぐに指摘する。


「分かってる」


「索敵範囲を縮めましょう」


 ルシアンも穏やかに続けた。


「でも、最後が近い」


「最後でも、次がある」


 アリシアが言うと、フィンは悔しそうに口を閉じた。


 最後まで全部やりたい。


 中央だから、自分が見なければならない。


 その気持ちは分かる。


 けれど、それで倒れれば、六人の目は一つ減る。


「正面音だけに縮小する」


 フィンは自分で決めた。


「上方はセレナとルシアン。右後方と床はアリシア。僕は正面と全体判断に集中する」


「確認」


 セレナが頷く。


 役割を減らすことは、逃げではない。


 続けるための更新だった。


 ◇


 最後の直線へ入った時、正面には一体の魔導獣しか見えなかった。


「正面一!」


 レオが報告する。


 簡単に終わるように見えた。


 しかしフィンは、正面から返る音の奥に不自然な空洞音を聞いた。


 一体。


 その下。


 複数。


 けれど、軽い頭痛のせいで音が歪んでいる可能性もある。先ほどは後方一体の仮説を外したばかりだった。


 見学席の視線も、分かっている。


 また外したら。


 一度訂正したばかりなのに。


 フィンの唇が僅かに震えた。


 それでも、アリシアは何も言わなかった。


 今度は、彼自身が出せるかもしれない。


 フィンは一度強く息を吸った。


「仮説!」


 六人が一斉に耳を向ける。


「正面の一体は囮。床下に二体以上いる可能性があります」


 ミリアがすぐに斧の柄を床へ当て、土の振動を読む。


「いる。三体!」


「標柱停止!」


 フィンの判断で標柱が止まる。


 停止十秒で敗北。


 セレナがすぐに数え始めた。


「九秒!」


 床が割れ、三体の中型魔導獣が一斉に飛び出す。


「八秒!」


 ミリアが土壁を立て、最初の突進を受け止める。


「七秒!」


 レオが囮の一体を処理する間に、床下から出た三体が左右と正面へ分かれた。


「六秒!」


「レオは正面、ミリアは右、セレナは左! ルシアンは標柱を守る!」


 フィンは続けてアリシアを見る。


「アリシア、床の穴を影で妨害できる?」


「負荷一までなら」


「一で!」


「五秒!」


 アリシアは影を床の裂け目へ絡め、さらに何かが出てこようとする動きを妨害した。冷気が指先から腕へ這い上がり始めるが、まだ一の範囲内に収まっている。


「負荷一!」


「四秒!」


 ミリアが右の一体を土で押さえ込み、斧を振り下ろす。


「右処理!」


「三秒!」


 セレナの水が左の敵を拘束し、ルシアンの光が魔導核を撃ち抜いた。


「左処理!」


「二秒!」


 レオが正面の一体を炎で切り裂く。


「正面処理!」


「一秒!」


 穴の下で、まだ何かが動いた。


 アリシアの影へ圧力がかかる。


 ここで止まり続ければ敗北する。


「標柱再開! アリシアは影を解除、全員移動!」


 フィンの声に従い、アリシアはすぐに影を戻した。


 標柱が再び動き始め、停止時間が十秒へ届く直前に目的地点へ入る。


「護送成功。終了!」


 教官の声が演習室へ響いた。


 一瞬の静寂の後、見学席から大きな拍手が広がった。


 ◇


 フィンは、その場ですぐには笑えなかった。


 勝ったことよりも、途中で後方一体と誤報を出したことが頭に残っているようだった。見学席から聞こえた「いなかった」という声も、まだ胸の中へ刺さっているのかもしれない。


 アリシアは彼の隣へ近づいた。


「フィン」


「何」


「途中、間違った」


「うん」


「後方一体」


「分かってる」


「でも、その後も次の声を聞いた」


 フィンがゆっくりアリシアを見る。


「本当に?」


「幻影も、最後の床下も」


「僕の報告だった」


「うん」


「一回外した後も?」


「うん」


 フィンの表情が、僅かに崩れた。


 笑ったわけではない。


 緊張を支えていた力が抜け、ようやく息を吐けたような顔だった。


「そっか」


「俺も聞いたぞ!」


 レオが横から大声を出す。


「声が大きいです」


 セレナがすぐに注意する。


「今はいいだろ!」


「演習室です」


「終わった!」


「終わった直後です」


 ミリアが笑いながら手を挙げる。


「私も聞いたよ」


「僕も」


 ルシアンも穏やかに続けた。


 セレナは眼鏡を直しながら、いつもの調子で言う。


「誤報一件は訂正済みです。その後の仮説的中率と情報精度を下げる理由にはなりません」


「褒めてる?」


「褒めています」


「言い方が怖いんだよ」


「今後の改善点として記録します」


 六人の間に笑いが生まれた。


 フィンも今度は、はっきり笑った。


 ◇


 四分間の休憩中、六人はすぐに振り返りを始めず、それぞれ水を飲んで呼吸を整えた。


 フィンは床へ座り、壁へ背中を預けている。頭痛は軽いままだが、索敵範囲を縮めたことで悪化はしていないらしい。


 見学席からは、まだ今日の訓練について話す声が聞こえていた。


「風、途中で一回外したよな」


「でもちゃんと取消した」


「その後も普通に仮説を言ってた」


「最後の床下は、あれがなかったら負けてたぞ」


「俺なら外した後、黙るかも」


「だから次の報告まで聞くんだろ」


 フィンは俯いたまま、その声を聞いていた。


「嫌?」


 アリシアが尋ねる。


「かなり」


「逃げたい?」


 少し間が空く。


「前よりは少ない」


「どうして?」


「一度外した後も、みんなが普通に次の指示を待ってたから」


 フィンは水筒を両手で持ち、静かに続けた。


「僕の声、そこで終わらなかった」


「終わってない」


「うん」


 ◇


 休憩後の振り返りでは、黒板へ結果が書かれた。


『結果:勝利』


『護送成功』


『最大停止時間:九秒』


 教官は六人を見渡し、フィンへ自己評価を求めた。


「六十点です」


「低くないか?」


 レオがすぐに口を挟む。


「比べない」


 アリシアが言うと、見学席から小さな笑いが起こった。


「理由を言え」


 教官に促され、フィンは順番に挙げる。


「後方一体の誤報。頭痛報告の遅れ。最後に標柱を九秒止めたこと」


「他は」


「仮説を出せた。外した後、訂正した。幻影を見抜いた。最後の床下三体を報告した。途中で索敵範囲を縮めた」


「それだけ挙げて、六十点か」


 フィンは少し黙った。


「……七十点」


「なぜ上がった」


「できたことも、自分で言ったから」


「良い」


 教官は黒板へ『誤報』と書いた。


「後方一体」


「はい」


「外れた」


「はい」


「訂正した」


「はい」


「その後、何が問題だった」


「誤報を出したこと」


「それだけではない」


 フィンが顔を上げる。


「外した後、二秒止まった」


 教官の声は厳しいが、責める調子ではなかった。


「仮説は外れる。誤報を出すな、ではない。仮説を確定情報として扱うな。外れたら訂正しろ。そして、次を止めるな」


「はい」


 黒板へ、さらに一行が書かれる。


『誤報は、人の失格ではない』


「アリシア」


「はい」


「何をした」


「名前を呼んで、次って言った」


「なぜ」


「間違ってもいいって言うより、次の声を聞くって伝えたかった」


 教官は僅かに頷いた。


「良い」


 それから六人全員へ視線を向ける。


「これが班だ。誤情報は直す。危険な判断は止める。しかし、間違った者をその場で切り捨てる場所ではない。その人間の次の声まで捨てるな」


 演習室が静かになる。


 見学していた生徒たちも、黒板の言葉を紙へ書き写していた。


「次回の中央判断役はミリア」


「私ですか!?」


 ミリアの明るい声が響いた。


 笑いが起こる一方で、彼女の顔には少しだけ緊張が浮かんでいる。前へ出て守ることは得意でも、中央に立って全員を止めたり動かしたりすることは、また別の難しさがある。


 今日のフィンとは違う。


 昨日のセレナとも違う。


 明日は、明日のミリアを見る。


 ◇


 演習室を出ると、廊下には見学を終えた生徒たちが残っていた。


「フィンさん」


 上級生らしい男子生徒が声をかける。


「途中、後方一体って言ったの、外れましたよね」


 フィンの表情が僅かに強張ったが、逃げずに答えた。


「外れました」


「その後も仮説を出したのは、怖くなかったんですか」


「かなり怖かったです」


「じゃあ、どうして言えたんですか」


 フィンは少し考え、アリシアではなく自分の言葉で答えた。


「一度外しても、次の報告を聞いてもらえると分かったからです」


 男子生徒は驚いたように目を開いた後、ゆっくり頷いた。


「最後の床下、格好よかったです」


「ありがとうございます」


 相手が去った後、ミリアがすぐにフィンの顔を覗き込んだ。


「嬉しい?」


「普通」


「口元が上がってる」


「雨の湿気」


「ここ、廊下だよ」


 アリシアが言うと、フィンは一瞬こちらを見た後、堪えきれず笑った。


「またそれ?」


「便利」


『私の真似をしないで』


 ノアが足元から言い、アリシアも笑った。


 ◇


 夕方、教室へ戻ると、メリルは窓際で本を開いて待っていた。


「おかえり」


「ただいま」


「どうだった?」


「勝った」


「フィンさんは?」


「間違った」


 メリルは少しだけ目を開いた。


「それで、どうなった?」


「後ろに一体いるって仮説を出したけど、いなかった。少し止まった」


「みんなは?」


「次の指示を待った」


「フィンさんは言えた?」


「うん。訂正して、また言った」


「最後は?」


「床下三体を見つけた」


 メリルは静かに笑った。


「じゃあ、間違えた後も役に立ったんだね」


「うん」


「アリシアは?」


「名前を呼んで、次って言った」


「それだけ?」


「それだけ」


「役に立った?」


 アリシアは迷わず頷いた。


「役に立った」


「少なくても?」


「必要だったから」


 メリルは満足したように頷く。


「フィンさん、恥ずかしかった?」


「かなりって言ってた」


「でも、明日も来る?」


「来ると思う」


「じゃあ、間違っても道から追い出されなかったね」


 朝、祖父に言われた言葉と重なる。


「うん」


「次はミリアさん?」


「うん」


「どんな中央になるかな」


「まだ分からない」


「楽しみ?」


「少し。怖いのも少し」


「両方だね」


「うん」


 ◇


 夜、アリシアは雨音を聞きながら練習帳を開いた。


『中央判断役:フィン』


 今日の身体状態、配置、処理数、標柱の停止時間を書いた後、フィンについて整理する。


『仮説を自分から出せた』


『左奥二体、正面奥三体、幻影一体、最後の床下三体』


『後方一体の仮説は外れた』


『訂正後、二秒止まった』


『その後も次の情報を出した』


『頭痛報告は遅れた』


『索敵範囲を縮小できた』


 次に、班の対応を書く。


『誤情報を訂正した』


『フィン本人の評価まで下げなかった』


『次の報告を待った』


『人ではなく、情報を直した』


 最後の一文を、アリシアは線で囲んだ。


「今日は採点しないの?」


 ノアが机の端から尋ねる。


「してほしい?」


「あなたが欲しい顔をしている」


「少し」


「では百点」


「今日は早い」


「フィンの失敗を消そうとしなかったから」


「消せない」


「以前なら、外す前に全部教えようとしたでしょう」


「うん」


「今日は、外した後も次を待った」


 アリシアは頁を見下ろす。


「フィンが間違った人になったわけじゃない」


「そう」


「風の情報が一回外れただけ」


「そう」


「次の情報は、また別」


「そうね」


 アリシアは練習帳へ続けて書いた。


『間違ってもいいと言われるだけでは、怖さは消えない』


『本当に間違った後、訂正して、それでも次の声を聞いてもらえた時、少しだけまた話せる』


『仲間とは、正しい時だけ隣にいる人ではない』


『危険な判断は止める』


『誤った情報は直す』


『でも、人まで捨てない』


『次の声を待つ』


 ノアは最後の一行を見つめ、少しだけ目を細めた。


「百一点」


「増えた」


「今の一行」


「次の声を待つ?」


「ええ」


 アリシアは少し迷い、ノアを見る。


「私が間違った時も、次を聞いてくれる?」


 ノアはすぐには答えなかった。


 金色の瞳が、静かにアリシアを見つめる。


「何度でも」


 短い言葉だった。


 けれど、その一言は雨音よりもはっきりとアリシアの胸へ残った。


「でも、危ない大丈夫は怒る」


「当然」


「嘘も?」


「叱る」


「嫌いにはならない?」


「間違えるたびに嫌いになるなら、あなたとはとっくに絶縁しているわ」


「ひどい」


「事実」


「そんなに間違えた?」


「数える?」


「やめる」


 二人は小さく笑った。


 ◇


 灯りを落とし、寝台へ入った後も、雨は静かに降り続いていた。


 今日、フィンは一度仮説を外した。


 見学者にも見られた。


 自分でも恥ずかしかった。


 それでも、六人は次の声を聞いた。


 だからフィンは、もう一度仮説を言えた。


 最後に床下の三体を見つけられたのは、一度も間違えなかったからではない。間違えた後も、声を出すことをやめなかったからだ。


 もし、後方一体の仮説が外れた瞬間に、誰かが「もうフィンの情報は信用できない」と言っていたら。


 最後の報告は、届かなかったかもしれない。


 一度間違った目を閉じてしまえば、六人分の視界はすぐに減っていく。


 間違える。


 訂正する。


 また見る。


 また言う。


 その繰り返しの中でしか、六人の連携は育たない。


 明日はミリアが中央に立つ。


 守ることが得意で、誰かが危険なら自分が前へ出ようとする少女。けれど中央に立てば、前へ出るだけではなく、誰かを止め、自分自身をその場に残す判断も必要になる。


 今日のフィンと同じ助け方では、きっと足りない。


 だから、明日のミリアを見る。


 明日の自分も見る。


 その時に必要な声を、必要な分だけ渡す。


 今日、六人が覚えたのは、間違わない方法ではなかった。


 間違った声を、そこで終わらせない方法だった。

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