第74話 闇の少女は、空けられた一席に座る
昼休みを告げる鐘が鳴っても。
アリシアは、すぐには席を立てなかった。
教室の中では、張り詰めていた授業の空気が、一斉にほどけていく。
椅子が床を擦る音。
机の横に掛けられていた鞄を持ち上げる音。
購買へ向かう生徒たちが、廊下へ飛び出していく足音。
誰かが窓を開けたらしい。
初夏の匂いを含んだ風が、白いカーテンを大きく膨らませ、教室の奥まで流れ込んできた。
「今日のスープ、豆だって」
「豆かあ」
「なんでそんなに残念そうなんだよ」
「昨日も豆だった」
「昨日は煮込み。今日はスープ。別物だろ」
「豆は豆だよ」
そんな会話が、教室のあちこちから聞こえてくる。
少し前までなら。
アリシアは、その騒がしさが苦手だった。
誰も自分を見ていないと分かっていても。
笑い声が聞こえるたび。
自分のことを笑われているような気がした。
誰かが近づいてくるだけで。
何か言われるのではないか。
何かを求められるのではないか。
そう考えて、身体を固くしていた。
今も。
苦手ではある。
教室いっぱいに広がる声を、心地よいと思えるほど、アリシアは変わっていない。
けれど。
以前とは、少しだけ違った。
窓際の後方。
自分の机の上には、布で包まれた小さな弁当箱がある。
祖父が持たせてくれたものだ。
少し形の崩れたパン。
干し肉と野菜の炒め物。
小さな木の実を蜜で煮たもの。
どれも豪華ではない。
学園の食堂で出される料理と比べれば、ずっと質素だ。
それでも。
朝早く起きた祖父が。
慣れない学園生活を送る孫のために、ひとつずつ詰めてくれた。
そう思うと。
布包みの結び目に触れる指先が、ほんの少し温かくなった。
『さっさと開けなさい』
机の横。
アリシアの影の中から、呆れた声が響いた。
黒猫の姿をした闇の神獣、ノアは。
周囲の生徒には聞こえない程度に声を抑えながら、金色の瞳だけを影の外へ覗かせている。
『食事は食べるためにあるのよ。眺めていたって腹は膨れないわ』
「……分かってる」
『分かっている人間は、鐘が鳴ってからこんなに長く結び目を撫でないの』
「撫でてない」
『撫でていたわ』
「触ってただけ」
『同じでしょう』
「違う」
『どう違うのか説明してみなさい』
「……えっと」
アリシアは、結び目に指を置いたまま黙った。
違いを説明できない。
けれど、同じだと認めるのも、なぜか悔しかった。
影の中から。
小さなため息が聞こえる。
『そうやって言い返せるようになったのは進歩だけれど、無意味なところで意地を張るのは進歩とは言わないわよ』
「ノアが、細かいことを言うから」
『あら。私のせい?』
「……半分くらい」
『残り半分は?』
「私」
『素直でよろしい』
「褒められた気がしない」
『褒めていないもの』
「……やっぱり」
アリシアは、ほんのわずかに口を尖らせた。
教室の喧騒の中。
誰にも気づかれないほど、小さな変化だった。
けれど。
その表情を見ていた者が、一人だけいた。
「あの」
声を掛けられ。
アリシアの肩が、跳ねた。
結び目を握っていた指に力が入る。
すぐ近く。
机ひとつ分ほど離れた場所に、同じクラスの女子生徒が立っていた。
胸元で、小さな紙袋を抱えている。
淡い茶色の髪。
丸い眼鏡。
実技の授業では、いつも後方にいる生徒だった。
何度か目が合ったことはある。
けれど、話したことはほとんどない。
相手も緊張しているらしい。
紙袋の上で、両手の指が落ち着かずに動いていた。
「あ……」
アリシアは、喉の奥から声を出そうとした。
だが。
突然話しかけられた驚きで、何を言えばいいのか分からない。
こんにちは。
どうしたの。
何か用。
頭の中には、いくつもの言葉が浮かぶ。
そのどれを選べば正しいのか考えているうちに。
時間だけが過ぎていく。
女子生徒の表情が、少しずつ不安そうに曇っていった。
『アリシア』
ノアの声が。
影の中から、静かに届いた。
『まず、顔を上げなさい』
アリシアは。
俯きかけていた顔を、ゆっくりと上げた。
目の前の女子生徒を見る。
視線が重なる。
胸が、きゅっと縮む。
逃げたくなった。
けれど。
逃げずに。
「……どう、したの?」
途切れそうな声で尋ねた。
女子生徒は、一度目を見開いた。
それから。
ほっとしたように息を吐いた。
「あ、えっと……これ」
差し出されたのは。
抱えていた紙袋だった。
「今朝、寮の厨房で焼いたの。私、菓子作りの授業を選択していて……その、たくさんできたから」
「……お菓子?」
「うん。焼き菓子。形は、あまり綺麗じゃないんだけど」
紙袋の口から。
甘い匂いが漂ってくる。
小麦と。
溶かした乳脂。
蜂蜜。
それから、少し香ばしい木の実の匂い。
アリシアの鼻が、わずかに動いた。
影の中でも。
黒い耳が、ぴくりと動く。
『悪くない匂いね』
ノアの声には。
先ほどよりも、ほんの少し興味が混ざっていた。
「これを……私に?」
「う、うん」
「どうして?」
アリシアが尋ねると。
女子生徒は、困ったように唇を結んだ。
聞いてはいけないことを聞いてしまったのかもしれない。
アリシアの胸に、すぐに不安が広がる。
自分に渡したくて渡すのではなく。
余ったから仕方なく。
先生に言われたから。
あるいは。
何か別の理由があるのではないか。
心の奥に残っている疑いは。
少しのきっかけで、すぐに顔を出す。
女子生徒は。
しばらく言葉を探したあと、小さな声で言った。
「昨日……助けてもらったから」
「昨日?」
「実技棟の階段で、教材を落としたでしょう?」
言われて。
アリシアは、昨日のことを思い返した。
午後の授業が終わったあと。
人の少ない実技棟の階段。
上の方から、大きな音が聞こえた。
振り返ると。
何冊もの分厚い教本と、魔術用の石板が階段を滑り落ちてきた。
その後ろで。
誰かが、慌てていた。
アリシアは。
ほとんど反射的に、足元から影を伸ばした。
教本が床に散らばる前に受け止め。
割れそうになっていた石板を、影の腕で包んだ。
それだけだった。
相手の顔を、よく見てもいなかった。
「……あれ」
「うん。あのとき、ちゃんとお礼を言えなかったから」
「でも……私、拾っただけ」
「石板、落ちていたら割れてたと思う」
「……割れなかったから」
「それは、あなたが止めてくれたからでしょう?」
女子生徒の声は。
最初より、少しだけ強くなっていた。
怒っているわけではない。
ただ。
どうしても伝えたいことがあるのだと。
その目が語っていた。
「それに、私……あの石板、借り物だったの。弁償することになっていたら、しばらく食堂で夕食を食べられなかったかもしれない」
「……そんなに高いの?」
「すごく高い」
「そうなんだ」
「うん。だから、本当に助かったの」
紙袋が。
もう一度、アリシアの前に差し出される。
「受け取ってくれる?」
アリシアは、すぐには手を伸ばせなかった。
何かをもらうことに、慣れていない。
好意を向けられることにも。
礼を言われることにも。
まだ、慣れていない。
祖父から与えられるものなら。
受け取れる。
ノアから投げられる言葉も。
皮肉の中にある温かさを、少しずつ受け取れるようになった。
だが。
それ以外の誰かから差し出されるものは。
いつも、怖かった。
受け取れば。
何かを返さなければならないのではないか。
受け取ったあとで。
やはり渡す相手を間違えたと言われるのではないか。
喜んでしまったあとに。
笑われるのではないか。
そんな考えが。
幾重にも重なり、指先を止める。
沈黙が落ちた。
教室の中は騒がしい。
けれど。
二人の間だけ。
音が遠くなったように感じられた。
差し出された紙袋。
待っている女子生徒。
動けない自分。
そのすべてを。
ノアは、影の中から見ていた。
すぐに言葉を挟むことはしなかった。
急かすことも。
代わりに答えることも。
しなかった。
アリシアが自分で決めるのを。
じっと待っていた。
その沈黙に気づき。
アリシアは、ほんの少しだけ呼吸を整えた。
これは。
試験ではない。
答えを間違えたら、何かを失う場面でもない。
目の前の少女は。
ただ。
礼を伝えるために、ここへ来た。
そう信じることが。
まだ、少し怖い。
でも。
怖いからといって。
差し出されたものを、すべて拒み続ければ。
たぶん。
何も変わらない。
アリシアは。
膝の上で握っていた左手を開いた。
それから。
右手を、ゆっくり伸ばした。
「……ありがとう」
指先が。
紙袋に触れる。
温かかった。
焼き上がってから時間が経っているはずなのに。
なぜか。
少しだけ温かく感じた。
「もらっても……いいの?」
「もちろん」
「……本当に?」
「本当に」
「後で、返してって言わない?」
「言わないよ」
「間違えた、とか」
「間違えてない」
「……私に?」
「あなたに」
ひとつずつ。
確かめるように尋ねるアリシアへ。
女子生徒は、ひとつずつ答えた。
最後には。
少しだけ笑っていた。
アリシアの問い方が。
おかしかったからではない。
ようやく受け取ってもらえたことが。
嬉しかったのだろう。
その笑顔を見て。
アリシアの胸の奥にあった固いものが。
わずかにほどけた。
「……ありがとう」
もう一度。
今度は、先ほどよりもはっきりと言った。
「こちらこそ」
女子生徒は、そう答えた。
そして。
すぐに立ち去るのかと思ったが。
その場に残った。
何かを言いたそうに。
隣の空いた机へ視線を向ける。
アリシアも。
その視線を追った。
机の周りには、誰もいない。
昼食を持って。
ほとんどの生徒が食堂や中庭へ向かっている。
教室に残っているのは。
窓際で本を読んでいる男子生徒。
前方で机を囲んでいる三人組。
そして。
アリシアたちだけだった。
「あの」
女子生徒が。
意を決したように口を開く。
「ここで食べても、いい?」
アリシアは。
紙袋を持ったまま、固まった。
「……ここ?」
「うん」
「私の、隣で?」
「嫌なら、無理にとは言わないけど」
女子生徒の声が。
急に小さくなった。
その肩が。
わずかに内側へ縮む。
アリシアは。
返事をしなければと思った。
だが。
頭の中が、白くなっている。
お菓子を受け取るだけだと思っていた。
それが終われば。
相手は、自分の友人のもとへ戻るのだと。
そう思っていた。
一緒に食べる。
その選択肢を。
考えていなかった。
『嫌なの?』
ノアが尋ねる。
アリシアは。
心の中で答えた。
分からない。
『分からないというのは、嫌ではないということね』
違うかもしれない。
『では、怖い?』
……少し。
『何が?』
何を話せばいいか、分からない。
『話さなくても食事はできるわ』
黙っていたら、変だと思われる。
『黙って食べる人間なんて、いくらでもいるでしょう』
でも。
『アリシア』
ノアの声は。
優しくはなかった。
いつも通り。
少し厳しく。
少し呆れていて。
それでも。
決して、突き放すものではなかった。
『嫌なら断りなさい。怖いだけなら、怖いまま決めなさい』
怖くなくなってからでは。
遅いこともある。
ノアは。
これまで、何度もそう教えてくれた。
勇気とは。
恐怖が消えることではない。
恐怖を抱えたままでも。
それでも。
自分で一歩を選ぶことだと。
アリシアは。
空いている机を見た。
そこに椅子がある。
少し引けば。
目の前の少女が座れる。
ただ、それだけのことだ。
敵と戦うわけではない。
木刀を握るわけでもない。
闇の力を制御するわけでもない。
それなのに。
これまでのどんな訓練より。
難しいように思えた。
アリシアは。
机の横へ手を伸ばした。
椅子の背を掴む。
木製の脚が。
床の上を擦った。
ぎ、と。
小さな音が鳴る。
「……どうぞ」
女子生徒が。
一瞬、目を丸くした。
やがて。
嬉しそうに笑う。
「ありがとう」
椅子を引き。
アリシアの隣へ座った。
それだけで。
胸の鼓動が、急に大きくなる。
近い。
人が。
近くにいる。
肩が触れるほどではない。
けれど。
手を伸ばせば届く距離に。
家族でも。
ノアでもない誰かが座っている。
アリシアは。
落ち着かない気持ちで、弁当の包みを開いた。
結び目が。
なかなか解けない。
いつもなら簡単に解けるのに。
指が緊張している。
「手伝おうか?」
「だ、大丈夫」
思ったより強い声が出た。
女子生徒が、少し驚く。
「ご、ごめんなさい」
「ううん。私こそ、急に言ってごめん」
「違うの。嫌じゃなくて」
「うん」
「自分で、できるから」
「分かった」
女子生徒は。
それ以上、手を伸ばさなかった。
待ってくれた。
アリシアは、何度か指を滑らせたあと。
ようやく結び目を解いた。
蓋を開ける。
少し形の崩れたパンと。
野菜炒め。
木の実の蜜煮。
それを見て。
女子生徒が、目を輝かせた。
「美味しそう」
「……そう?」
「うん。その木の実、何?」
「里で採れるもの。名前は……たぶん、こっちにはない」
「甘いの?」
「少し。最初は酸っぱい」
「へえ」
女子生徒は。
自分の弁当箱を開きながら、興味深そうに木の実を見ている。
その視線に。
アリシアは少し迷った。
祖父が作ったもの。
自分のために入れてくれたもの。
誰かに分けるという発想は。
今までなかった。
けれど。
先ほど、お菓子をもらった。
何か返さなければならないから。
ではない。
相手が。
少し食べてみたそうに見えたから。
「……食べる?」
「いいの?」
「ひとつだけなら」
「じゃあ、一つだけ」
女子生徒は、遠慮がちに木の実を受け取った。
口へ運ぶ。
噛んだ瞬間。
眉が、ぎゅっと寄った。
「すっぱい」
「最初は、って言った」
「思っていたよりすっぱい」
「でも、後から甘い」
数秒後。
女子生徒の眉が、ゆっくり開いた。
「あ。本当だ」
「でしょう?」
「うん。美味しい」
アリシアは。
自分が作ったわけでもないのに。
なぜか。
少し誇らしい気持ちになった。
「おじいちゃんが作ったの」
「お祖父さん、料理が上手なんだね」
「……うん」
否定しようとして。
やめた。
祖父のパンは。
ときどき焦げる。
スープの味も。
日によって濃かったり薄かったりする。
野菜の切り方も、揃っていない。
料理人のように上手ではない。
だが。
アリシアにとっては。
どんな料理より。
安心できる味だった。
「上手」
そう言うと。
胸の奥が、温かくなった。
「すごく」
今度は。
少しだけ、付け足した。
隣の女子生徒が。
静かに笑った。
「大好きなんだね」
「……うん」
返事をするまでに。
少し時間がかかった。
恥ずかしかったからではない。
大好きだと。
誰かの前で認めることに。
慣れていなかったからだ。
でも。
一度言葉にしてみると。
不思議なほど、胸に馴染んだ。
祖父が好きだ。
ノアが好きだ。
自分が戻れる里が好きだ。
それらは。
誰かに隠さなければならないことではない。
『私の名前が出なかったわね』
影の中から。
不満そうな声が聞こえた。
アリシアは、心の中で返す。
聞かれてない。
『聞かれなくても付け加えなさい』
どうやって。
『私には麗しく聡明な黒猫の姉がいます、と』
姉じゃない。
『似たようなものでしょう』
違う。
『何が違うの?』
ノアは、ノア。
『……そう』
返ってきた声が。
ほんの少しだけ柔らかかった。
アリシアは。
それに気づいたが。
何も言わなかった。
口にすれば。
きっと、ノアは誤魔化すから。
しばらく。
二人は静かに昼食を食べた。
ずっと話していたわけではない。
女子生徒がパンをちぎる音。
アリシアが木の匙を弁当箱へ置く音。
窓から流れ込む風が。
紙袋の端を揺らす音。
教室の前方からは。
男子生徒たちの笑い声が聞こえる。
「それ、本当かよ」
「本当だって。訓練用の鎧を着たまま池に落ちたんだ」
「どうやって上がった?」
「先生に引き上げられた」
「格好悪いな」
「お前も笑って転んでただろ」
「それは言うな」
大きな笑いが起きる。
アリシアは。
反射的に肩を縮めかけた。
しかし。
隣の女子生徒は、何も気にしていない。
笑い声の方を一度見たあと。
また自分の弁当に視線を戻した。
自分たちのことを笑っているのではない。
頭では、分かっている。
けれど。
それを身体が理解するまでには。
まだ、時間が必要だった。
「ねえ」
隣から声を掛けられる。
アリシアは。
今度は先ほどほど驚かなかった。
「何?」
「昨日の影の魔術、すごかったね」
指先が、止まる。
「……怖かった?」
口から出たのは。
自分でも予想していなかった言葉だった。
女子生徒は。
すぐには答えなかった。
考えている。
その沈黙が。
アリシアには長く感じられた。
やはり。
怖かったのだろうか。
黒い影。
形を変える闇。
地面を這い。
物を絡め取り。
ときには、相手の足さえ止める。
闇の力は。
明るく、美しいものではない。
火のように華やかでも。
水のように透き通ってもいない。
風のように軽やかでも。
土のように力強く見えるわけでもない。
光とは。
正反対だ。
里の外では。
闇を恐れる人間が多い。
魔族の力。
呪われた力。
人を隠し。
陥れ。
奪うもの。
そう呼ばれてきた。
この学園へ来てから。
以前ほど露骨に言われることは減った。
それでも。
視線が完全になくなったわけではない。
アリシアが力を使うと。
息を呑む者がいる。
後ずさる者がいる。
近くにいた友人の腕を掴む者もいる。
だから。
目の前の少女も。
助けられたことには感謝していても。
力そのものは怖かったのかもしれない。
アリシアは。
それを責めるつもりはなかった。
怖がられることには。
慣れている。
慣れているはずだった。
「少しだけ」
女子生徒が答えた。
アリシアの胸が。
小さく沈む。
予想していた答えだ。
傷つく必要はない。
そう自分に言い聞かせる。
だが。
女子生徒は、続けた。
「でも、あなたが怖かったんじゃないよ」
アリシアは。
ゆっくり顔を上げた。
「……違うの?」
「うん。急に教本が空中で止まったから、びっくりしただけ」
「影は?」
「最初は、びっくりした」
「……うん」
「でも」
女子生徒は。
弁当箱の縁に置いていた手を、膝へ下ろした。
言葉を選ぶように。
一度。
窓の外を見る。
中庭では。
昼食を終えた生徒たちが。
木の下で話していた。
誰かが投げた小さな球を。
別の誰かが受け止め損ね。
周囲から声が上がる。
「あなたの影、すごく丁寧だった」
「丁寧?」
「うん」
「影が?」
「教本を乱暴に掴まなかったでしょう? 一冊ずつ、下から支えていた。石板も、端を締めつけないように包んでいた」
アリシアは。
何も言えなかった。
そんなところを。
見られていたとは思わなかった。
「私、最初は闇の魔術って、もっと怖いものだと思ってた」
「……みんな、そう思う」
「でも昨日、少し違うのかもしれないって思った」
「違う?」
「力が怖いかどうかは、使い方で変わるんじゃないかな」
女子生徒は。
自信がなさそうに、首を傾けた。
「ごめん。魔術のこと、あまり詳しくないから、変なこと言ってるかもしれない」
「……変じゃない」
「そう?」
「うん」
アリシアは。
膝の上で、自分の手を見た。
細い指。
幼い頃から。
闇を宿していると嫌われた手。
触れれば。
不幸になると言われたこともある。
祖父だけが。
その手を握ってくれた。
ノアだけが。
その力を、恐れずに見てくれた。
そして今。
また一人。
闇を。
怖いだけのものではないと。
言ってくれた。
大勢ではない。
たった一人だ。
それでも。
たった一人の言葉は。
ときに。
百人の無言より、強かった。
「私も」
アリシアは。
弁当箱の中へ視線を落としたまま、言った。
「ずっと……怖いものだと思ってた」
「自分の魔術を?」
「うん」
「今も?」
「……少し」
嘘はつけなかった。
今では。
闇の力を、以前より信じている。
黒月を握り。
ノアとともに戦えることを。
誇らしく思う瞬間もある。
だが。
怖さが消えたわけではない。
自分の力が。
誰かを傷つけるかもしれない。
制御を失うかもしれない。
守りたかった相手まで。
飲み込んでしまうかもしれない。
その恐怖は。
いつも、心の奥にある。
「でも」
アリシアは。
影の中にいるノアの気配を感じながら、言葉を続けた。
「怖くても、使わないと守れないときがあるから」
「うん」
「だから、練習してる」
「昨日は、守ってくれたね」
「……うん」
アリシアは。
小さく。
けれど確かに頷いた。
女子生徒も。
同じように頷いた。
それから。
紙袋の中から、焼き菓子を二つ取り出す。
丸い形。
端が少し欠けている。
一つを、アリシアへ差し出した。
「一緒に食べよう」
「これは……私にもらったものじゃないの?」
「全部食べてもいいよ」
「じゃあ、あなたの分がなくなる」
「まだあるから」
「でも」
「一緒に食べた方が、美味しいと思う」
その言葉を聞いた瞬間。
アリシアの胸の奥で。
何かが、小さく揺れた。
一緒に食べた方が、美味しい。
祖父と食卓を囲むときも。
ノアが横で文句を言っているときも。
同じように感じたことがある。
けれど。
それを、言葉として受け取ったことはなかった。
アリシアは。
差し出された焼き菓子を受け取った。
「……いただきます」
「どうぞ」
同時に。
菓子を一口かじる。
さくりと。
軽い音がした。
口の中に。
蜂蜜の甘さと。
木の実の香ばしさが広がる。
「……美味しい」
本当に。
自然に出た言葉だった。
女子生徒の顔が、明るくなる。
「よかった」
「すごく、美味しい」
「形、崩れてるけどね」
「形は、食べたら分からない」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「本当に?」
「本当に」
「後で返してって言わない?」
先ほど。
アリシアが繰り返した言葉を。
今度は、女子生徒が真似た。
アリシアは。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
だが。
相手の口元が笑っているのを見て。
ようやく気づいた。
「……言わない」
「間違えた、とか」
「間違えてない」
「私に?」
「あなたに」
二人の間に。
短い沈黙が落ちた。
そして。
先に笑ったのは、女子生徒だった。
声を抑えながら。
肩を揺らしている。
アリシアは。
どうして笑われているのか分かっている。
それでも。
不思議と嫌ではなかった。
先ほどの自分が。
少しだけ、おかしかったのだと思う。
何度も確認して。
それでも不安そうにして。
今になって振り返ると。
確かに。
少しだけ。
おかしい。
「……ふふ」
自分の口から。
小さな音が漏れた。
アリシアは。
驚いて、口元を押さえた。
女子生徒も。
目を丸くする。
二人とも黙る。
数秒後。
また。
女子生徒が笑った。
今度は。
アリシアも。
先ほどより少しだけ、長く笑った。
大きな声ではない。
教室の前方にいる生徒たちには。
聞こえなかったかもしれない。
けれど。
窓際で本を読んでいた男子生徒が。
一度だけ顔を上げた。
前方の机を囲んでいた三人のうち。
一人の女子生徒も。
ちらりとこちらを見る。
「今、笑ってた?」
「誰が?」
「ほら、窓際の」
「闇の神器の子?」
「そう」
「笑うでしょ、普通に」
「いや、あまり見たことなかったから」
「見るなよ。失礼でしょう」
「見てない。ちょっと気になっただけ」
「それを見たって言うの」
小さな囁き。
以前のアリシアなら。
その声を聞いただけで、笑顔を失っていただろう。
自分が笑ったことを。
おかしいと思われた。
馬鹿にされた。
そう考え。
すぐに俯いていた。
だが。
今は。
隣に座る女子生徒が。
何も気にせず、焼き菓子を食べている。
影の中には。
ノアがいる。
『なかなか美味しそうね』
声には。
明らかな催促が混じっていた。
アリシアは。
残っている焼き菓子を見た。
『何よ』
ノアが言う。
『私は何も言っていないでしょう』
欲しいの?
『別に』
嘘。
『神獣が人間の菓子ごときに執着すると思う?』
耳が動いてる。
『これは周囲を警戒しているだけよ』
尻尾も。
『影の中に尻尾は見えないでしょう』
分かる。
『何が分かるのよ』
アリシアは。
焼き菓子を半分に割った。
机の下へ手を下ろす。
「どうしたの?」
女子生徒が尋ねる。
「……黒猫がいるの」
「え?」
「私の影に」
女子生徒が。
目を瞬いた。
アリシアは。
自分が何を言ったのか気づき。
急に不安になった。
ノアの存在は。
学園内では知られている。
闇の神器に宿る神獣。
黒猫の姿をしている。
それを知っている生徒は多い。
それでも。
影の中に黒猫がいる。
突然そう言われれば。
変に聞こえるかもしれない。
「あ、えっと……神器の神獣で」
「ノア様?」
「知ってるの?」
「もちろん。入学式の騒ぎも、実技試験のことも、学園中で話題になってたから」
『様ですって』
影の中で。
ノアの声が、分かりやすく弾んだ。
『聞いた、アリシア? この子は礼儀を知っているわ』
アリシアは。
少しだけ呆れながら、影へ焼き菓子を差し出した。
指先に。
柔らかな毛が触れる。
次の瞬間。
半分に割った菓子が、手の中から消えた。
机の下から。
小さな咀嚼音が聞こえる。
『まあまあね』
ノアが言う。
だが。
声が明らかに満足している。
「食べた?」
「うん」
「姿、見せてくれないかな」
「たぶん、無理」
『嫌よ』
「……嫌だって」
「そっか」
女子生徒は。
残念そうにはしたが。
無理に覗こうとはしなかった。
「いつか、会えたらいいな」
『百年早いわね』
「百年早いって」
「そんなに?」
「……ノアは、素直じゃないから」
『誰が素直じゃないのよ』
「でも」
アリシアは。
影の中で膨らんでいるノアの気配を感じながら。
小さく言った。
「たぶん、嫌いじゃないと思う」
『アリシア』
低い声が響く。
アリシアは。
焼き菓子を食べながら、聞こえないふりをした。
女子生徒は。
声を抑えて笑っている。
昼休みの教室。
窓から差し込む光。
白いカーテン。
遠くから聞こえる食器の触れ合う音。
中庭で遊ぶ生徒たちの声。
その中で。
アリシアは、誰かと並んで座っていた。
誰かと食べ。
誰かと話し。
誰かと笑っていた。
ほんの少し前まで。
自分には、決して訪れないと思っていた時間。
特別なことは。
何も起きていない。
魔族が現れたわけでもない。
神器が光ったわけでもない。
敵を倒したわけでもない。
ただ。
空いていた椅子を引いた。
一人分の席を作った。
それだけだ。
けれど。
アリシアにとっては。
黒月を初めて握ったときと同じくらい。
大きな一歩だった。
やがて。
昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴った。
廊下の向こうから。
食堂へ行っていた生徒たちが戻ってくる。
教室が。
再び、急速に騒がしくなっていった。
「次、移動授業だぞ」
「魔術史だっけ?」
「違う。基礎陣形論」
「教本、持ってきてない」
「机の中にあるだろ」
「昨日持ち帰った」
「なんで持ち帰ったんだよ」
「勉強しようと思って」
「したの?」
「寝た」
「意味ないじゃん」
多くの生徒が席へ戻る中。
女子生徒も。
弁当箱を片づけ、立ち上がった。
「ありがとう。急に隣に座って」
「……ううん」
「また、お菓子を作ったら持ってきてもいい?」
アリシアは。
答える前に。
ほんの少しだけ迷った。
これまでなら。
社交辞令かもしれないと疑った。
本当にまた来たら、どうすればいいのかと怯えた。
次も上手く話せるとは限らない。
今日のように笑えるとも限らない。
沈黙が続き。
気まずくなるかもしれない。
それでも。
今日。
一緒に食べた焼き菓子は。
一人で食べるより。
少しだけ美味しかった。
「……うん」
アリシアは。
少女の顔を見て、頷いた。
「また、食べたい」
「分かった」
「今度は……おじいちゃんのパンも」
言いかけて。
声が小さくなる。
女子生徒が、聞き返す。
「パン?」
「……持ってくる」
「いいの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「おじいちゃんに、聞いてみる」
「楽しみにしてる」
女子生徒は。
嬉しそうに笑った。
そして。
自分の席へ戻っていく。
途中で。
前方にいた友人らしい女子生徒から声を掛けられた。
「どこにいたの?」
「窓際」
「何してたの?」
「お昼を食べてた」
「一緒に?」
「うん」
それだけの会話。
けれど。
友人の視線が。
一度、アリシアへ向けられる。
驚き。
好奇心。
ほんの少しの警戒。
いくつかの感情が混ざった目だった。
アリシアは。
反射的に俯きそうになった。
だが。
その前に。
先ほどの女子生徒が、友人へ何かを話した。
声は。
周囲の騒がしさに紛れて聞こえない。
友人は。
もう一度、アリシアを見た。
今度は。
警戒の色が、少し薄れていた。
そして。
小さく頭を下げた。
アリシアは。
どうすればいいのか迷ったあと。
同じように。
ほんの少し、頭を下げた。
それで。
やり取りは終わった。
友達になったわけではない。
急に教室の全員から受け入れられたわけでもない。
明日になれば。
また遠巻きに見られるかもしれない。
廊下ですれ違った誰かから。
闇の神器使いだと、囁かれるかもしれない。
それでも。
今日。
一人が隣に座った。
その一人が。
別の一人に、何かを伝えた。
大きな変化ではない。
目に見えないほど。
小さな変化。
だが。
影が、少しずつ形を変えるように。
人の見方も。
時間を掛ければ。
変わることがあるのかもしれない。
『随分と嬉しそうね』
ノアが言った。
アリシアは。
弁当箱の蓋を閉じながら答える。
「……普通」
『口元が緩んでいるわ』
「緩んでない」
『緩んでいる』
「ノアこそ」
『私が何よ』
「美味しかったんでしょう?」
『何が?』
「焼き菓子」
『まあ、人間が作ったものにしては悪くなかったわね』
「耳、動いてた」
『だから警戒していたのよ』
「もっと欲しかった?」
『いらないわ』
「今度、もらったらあげない」
『待ちなさい』
即座に返ってきた声に。
アリシアは。
目を瞬いた。
『私は、いらないとは言ったけれど、味見をしないとは言っていないわ』
「同じじゃない?」
『違うわ』
「どう違うの?」
『神獣として、食材の安全性を確かめる必要があるの』
「最初に私が食べた」
『だから何?』
「安全だった」
『次は違うかもしれないでしょう』
「……食べたいんだ」
『違う』
「食べたい」
『違うと言っているでしょう』
「じゃあ、あげない」
『アリシア』
「何?」
『あなた、最近少し意地悪になったわね』
「ノアに教わった」
『私はそんなことを教えた覚えはないわ』
「毎日、教えられてる」
『まったく』
ノアは。
呆れたように息を吐いた。
だが。
その声は。
少しだけ楽しそうだった。
アリシアは。
包み直した弁当箱を、鞄へ入れた。
紙袋は。
机の中へ。
焼き菓子は、まだいくつか残っている。
放課後。
祖父の家へ帰ってから。
一緒に食べよう。
ノアにも。
半分だけ分けてあげよう。
そう考えたところで。
教室の前方から、声が上がった。
「アリシア」
名前を呼ばれ。
身体が反応する。
先ほどの驚きより。
少し大きく肩が跳ねた。
教室の入口に。
実技科の教員が立っていた。
昼休み明けの授業を担当する教師ではない。
そのことに気づき。
教室の声が、少しずつ小さくなる。
生徒たちが。
何事かと入口を見る。
「はい」
アリシアは。
立ち上がった。
多くの視線が集まる。
胸の奥が、強く脈打つ。
先ほどまでの温かさが。
一瞬で、不安へ塗り替えられそうになる。
「授業前に悪いな」
教員は。
教室の中を一度見渡したあと。
アリシアへ告げた。
「放課後、第一戦術演習室へ来るように」
「……私が?」
「ああ」
「どうしてですか?」
尋ねる声が。
少し震えた。
教員は。
アリシアの不安に気づいたらしい。
厳しい顔を。
ほんの少しだけ和らげた。
「叱るためじゃない」
教室のあちこちで。
小さな笑いが漏れた。
悪意のある笑いではない。
教師に呼び出されれば。
誰でも最初に同じことを考える。
そんな空気だった。
アリシアの頬が。
少しだけ熱くなる。
「来週から始まる合同演習について、話がある」
「合同演習……」
「神器継承者を含む特別班が、正式に組まれることになった」
教室の空気が。
一瞬で変わった。
椅子へ座りかけていた生徒が。
動きを止める。
教本を開いていた者も。
顔を上げる。
小さな囁きが。
教室中へ広がった。
「特別班?」
「神器継承者って、五人じゃなかったのか?」
「六人だろ。闇が戻ったんだから」
「合同演習って何するんだ?」
「魔獣討伐じゃないか?」
「学園の中で?」
「実地かもしれない」
火。
水。
風。
土。
光。
そして。
忘れられていた闇。
六つの神器。
それらの継承者が。
一つの班として動く。
アリシアは。
教員の言葉を理解しながらも。
すぐには返事ができなかった。
「私も……入るんですか?」
確認する。
教員は。
迷うことなく頷いた。
「お前は闇の神器、黒月の正式な継承者だ」
その言葉が。
静かに。
教室の中へ落ちた。
「外れる理由はない」
アリシアの影の中で。
ノアが、僅かに身じろぎした。
『聞いた?』
声は。
落ち着いていた。
けれど。
どこか。
誇らしげだった。
『外れる理由はない、ですって』
アリシアは。
返事をしなかった。
できなかった。
正式な継承者。
それは。
何度も聞いた言葉だ。
儀式で。
教師から。
仲間たちから。
ノアから。
それでも。
多くの生徒が見ている前で。
闇の神器の継承者として。
他の五人と同じ場所へ呼ばれることは。
初めてだった。
忘れられた六つ目。
存在しないものとして扱われ。
忌まれ。
隠され。
長い時間の中で。
名さえ失いかけた闇。
その継承者である自分へ。
席が用意されている。
誰かの代わりではない。
余った席でもない。
闇の継承者のための。
一つの席。
「放課後だ。忘れるなよ」
教員が念を押す。
「……はい」
アリシアは。
今度は。
はっきりと答えた。
教員が教室を離れる。
その直後。
抑えられていた声が、一気に戻った。
「合同演習だって」
「すごいな」
「六人全員が揃うのか?」
「見学できないのかな」
「無理だろ。特別班だぞ」
「闇の神器って、戦いでは何をするんだ?」
「拘束じゃないか?」
「昨日、教本止めてたらしいぞ」
「教本と魔獣は違うだろ」
「でも、影で足を止められたら強いよな」
視線。
声。
好奇心。
期待。
不安。
さまざまなものが。
アリシアへ向けられる。
怖くないわけではない。
逃げたくないわけでもない。
多くの目に見られることは。
今も苦しい。
だが。
そのすべてが。
拒絶ではなかった。
少なくとも。
今、聞こえてくる声の中には。
闇だから外せという言葉はない。
危険だから近づくなという声もない。
一体、何ができるのか。
どんな戦い方をするのか。
それを知ろうとする声がある。
「アリシア」
先ほどの女子生徒が。
自分の席から呼んだ。
アリシアが顔を向けると。
彼女は。
胸の前で、小さく拳を握った。
「頑張って」
たった一言。
それだけだった。
周囲の生徒が。
女子生徒と。
アリシアを交互に見る。
アリシアは。
何と答えるべきか迷った。
大丈夫。
任せて。
頑張る。
どれも。
今の自分には、少し大きな言葉に思える。
合同演習が。
どのようなものなのかも知らない。
他の神器継承者たちと。
上手く連携できるかも分からない。
失敗するかもしれない。
足を引っ張るかもしれない。
それでも。
何も言わずに俯くのは。
今日は。
少し違う気がした。
「……うん」
アリシアは。
女子生徒を見て。
ゆっくりと頷いた。
「頑張る」
声は。
大きくなかった。
教室全体へ響くほどでもない。
けれど。
すぐ近くにいた生徒たちには聞こえた。
「頑張れよ」
誰かが言った。
男子生徒の声だった。
アリシアは。
誰が言ったのか探そうとした。
だが。
すぐに別の声が重なる。
「合同演習、怪我するなよ」
「闇の神獣にも頑張れって伝えて」
『私が頑張るのは当然でしょう』
ノアが。
影の中で胸を張る。
もちろん。
誰にも見えていない。
「……ノアは、自分は当然だって」
アリシアが伝えると。
教室の中に。
小さな笑いが広がった。
今度は。
その笑い声を聞いても。
肩は縮まらなかった。
自分たちが。
馬鹿にされているのではない。
ノアの言い方が。
少しおかしかったから。
みんなが笑った。
それが。
分かった。
『なぜ笑われているのよ』
「ノアが偉そうだから」
『私は偉いのよ』
「そういうところ」
『何が悪いの?』
「悪くない」
『ならいいでしょう』
「でも、おかしい」
『アリシア』
ノアの不満そうな声を聞きながら。
アリシアは。
自分の席へ座った。
昼休みが終わる。
教室の前扉が開き。
次の授業を担当する教師が入ってくる。
「席につけ。今日は陣形の基礎を――」
教師の声。
教本を開く音。
黒板へ文字が書かれていく。
いつもと同じ授業。
いつもと同じ教室。
けれど。
アリシアの机の中には。
誰かからもらった焼き菓子がある。
隣の空いていた席には。
少し前まで。
誰かが座っていた。
そして。
放課後に向かう演習室にも。
自分の席がある。
それらは。
決して同じ席ではない。
けれど。
アリシアには。
どこかでつながっているように思えた。
一人分の椅子を引くこと。
誰かの隣に座ること。
誰かから用意された場所へ向かうこと。
席とは。
ただ身体を置く場所ではない。
ここにいていいと。
言ってもらえる場所なのかもしれない。
窓から入った風が。
教本の端を揺らす。
アリシアは。
開きかけた頁を、指先で押さえた。
そして。
黒板を見た。
放課後。
第一戦術演習室。
六人の神器継承者。
合同演習。
怖い。
緊張する。
逃げたい気持ちも。
少しある。
それでも。
行こうと思った。
自分のために空けられた席へ。
自分の足で。
歩いていこうと思った。
影の中から。
ノアの声が聞こえる。
『ようやく、六つ揃うわね』
アリシアは。
黒板から目を離さず。
心の中で頷いた。
うん。
『怖い?』
……少し。
『そう』
ノアは。
それ以上。
怖がるなとは言わなかった。
大丈夫だとも。
簡単だとも言わなかった。
ただ。
当然のように告げた。
『なら、怖いまま行きましょう』
アリシアの指先が。
教本の上で、ゆっくり開く。
握り締めていたことに。
今、気づいた。
力を抜く。
息を吸う。
窓から入る風が。
胸の中まで流れ込む。
怖いままでいい。
震えたままでもいい。
一度で。
上手くできなくてもいい。
空けられた席へ座ることから。
始めればいい。
昼休み。
自分が引いた椅子へ。
一人の少女が座ったように。
放課後は。
誰かが用意した席へ。
自分が座る。
そして、いつか。
その輪の中で。
自分も。
誰かのために椅子を引けるように。
アリシアは。
教本の余白へ。
小さな文字で書き込んだ。
――第一戦術演習室。
その文字を。
指先で一度なぞる。
消えない。
確かに。
そこにある。
それを見て。
アリシアは。
誰にも気づかれないほど。
ほんの少しだけ。
笑った。




