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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第72話 声を出した後に残るもの


 翌朝。


 アリシアは。


 目を覚ましてから、しばらく天井を見ていた。


 昨夜は。


 夢を見なかった。


 少なくとも。


 覚えている夢はない。


 黒い水。


 白い文字。


 呼び方のない誰か。


 そのどれも。


 眠りの中には現れなかった。


 けれど。


 目を覚ました瞬間。


 最初に思い出したのは。


 昨日の講堂だった。


『私たちも、まだ分かりません』


 自分の声。


 少し震えていた。


 一度目は。


 講堂の後ろまで届いたか分からなかった。


 二度目。


 もう一度。


『まだ、分かりません』


 その言葉で。


 最後列の生徒が顔を上げたと。


 ノアが教えてくれた。


 届いた。


 そのことが。


 昨夜は嬉しかった。


 怖かったけれど。


 言ってよかったと思えた。


 今も。


 後悔しているわけではない。


 でも。


 朝になり。


 一人で天井を見ていると。


 別の不安が生まれていた。


 届いた後。


 どうなったのか。


 聞いた人は。


 何を思ったのか。


 納得したのか。


 呆れたのか。


 嘘だと思ったのか。


『何も知らないくせに、特別扱いされている』


 そう思われたかもしれない。


『知っているのに隠している』


 そう疑われたかもしれない。


『六人目なのに分からない』


 失望されたかもしれない。


 声を出す前は。


 言えるかどうかだけを考えていた。


 声を出した後は。


 届いた先のことを考えてしまう。


「朝から反省会?」


 ノアの声がした。


 足元。


 黒猫は。


 掛け布の上に座っている。


 いつから起きていたのか。


 分からない。


 金色の瞳が。


 アリシアの顔を静かに見ている。


「反省会じゃない」


「では」


「……昨日の言葉を、聞いた人がどう思ったか」


「全員分?」


「できれば」


「無理ね」


 即答。


 アリシアは。


 少しだけ眉を下げた。


「でも、気になる」


「気にしていい」


「知りたい」


「知れる範囲だけ」


「悪く思われてたら?」


「悪く思われることもある」


 ノアは。


 簡単に安心させない。


「ちゃんと説明したのに?」


「説明を聞けば、全員が同じ理解になると思っているの?」


「……思ってない」


「なら、答えは出ている」


 アリシアは。


 ゆっくり上体を起こす。


 掛け布が。


 胸元から滑り落ちる。


 朝の空気。


 少し冷たい。


 窓の外。


 薄い雲。


 昨日より。


 空は白い。


「声を出す前は」


 アリシアが言う。


「言わないと、誤解されるって思った」


「ええ」


「言った後は、言っても誤解されるって思う」


「ええ」


「じゃあ、どうすればいいの」


 ノアは。


 少しだけ尻尾を動かす。


「誤解を完全になくすために話すのではない」


「じゃあ、何のため?」


「あなたが、何を事実として持っているかを示すため」


「相手が信じなくても?」


「信じるかどうかは、相手の側に残る」


 アリシアは。


 少し黙る。


 昨日。


 一年生へ言った。


 噂だけで行かないで。


 次の人にも。


 行かない方がいいと伝えて。


 それを。


 実際にするかどうかは。


 相手の側。


 講堂で。


 まだ分からないと言った。


 信じるか。


 疑うか。


 それも。


 相手の側。


 自分は。


 言葉を置く。


 でも。


 相手の中へ。


 正しい形で押し込むことはできない。


「それ、少し怖い」


「当然」


「声を出したら、受け取り方まで責任を持たないといけないと思ってた」


「無理よ」


「でも、誤解されたら」


「訂正できる時は訂正する」


「できない時は?」


「記録を残す」


「それでも残ったら?」


「残る」


 昨日と同じ。


 噂も。


 記録も。


 残る。


 どちらか一つに。


 世界を揃えることはできない。


「じゃあ」


 アリシアは。


 少し考え。


「声を出した後に残る責任って、何?」


 ノアは。


 すぐには答えなかった。


 少し長い沈黙。


 窓の外で。


 風が枝を揺らす。


 葉の擦れる音。


「自分が言ったことを」


 ノアが。


 静かに言う。


「後で、自分の都合に合わせて変えないこと」


 アリシアは顔を上げる。


「昨日、まだ分からないと言った」


「うん」


「今日になって、周りが期待しているから、分かったふりをしない」


「うん」


「逆に、怖くなったから、何も言っていないことにもしない」


「うん」


「それが、あなたの側に残る責任」


 胸の中へ。


 ゆっくり入る。


 相手の受け取り方。


 全部は背負えない。


 でも。


 自分が言ったこと。


 それは。


 自分で守る。


 アリシアは。


 寝台から降り。


 机へ向かう。


 練習帳を開いた。


『朝。昨日の講堂で話した内容を、聞いた人がどう受け取ったか気になった』


『全員の受け取り方を知ることはできない』


『誤解を完全になくすこともできない』


『ノア:声を出した後に残る責任は、自分が言ったことを、自分の都合で変えないこと』


 少し考え。


 追記する。


『昨日、私は「まだ分からない」と言った』


『期待されても、分かったふりをしない』


『怖くなっても、言わなかったことにしない』


 ノアが。


 頁を覗く。


「今日は九十八点」


「減点は?」


「講堂にいた全員の感想を、朝食前に回収しようとした」


「してない」


「心の中で名簿を作りかけていた」


「そこまでしてない」


「最後列から順に三人は想像してた」


 アリシアは。


 少し考える。


「……少しだけ」


「正直でよろしい」


「百点じゃない?」


「一日はこれから」


 昨日と同じ。


 でも。


 少し安心する。


 今日は。


 昨日の続き。


 でも。


 昨日とは違う日。


 ◇


 扉を開ける前。


 アリシアは。


 一度だけ。


 廊下の音を聞いた。


 話し声。


 足音。


 誰かが笑う声。


 昨日までのように。


 自分の噂が聞こえるか。


 確かめようとする気持ち。


 ある。


 でも。


 今日は。


 待ちすぎなかった。


 取っ手を回す。


 扉を開ける。


 メリルが。


 いつもの場所にいた。


「おはよう、アリシアちゃん」


「おはよう、メリルさん」


 メリルは。


 返事を聞いた後。


 少しだけ。


 アリシアの顔を見る。


「眠れた?」


「うん」


「でも、考えてる?」


「昨日の言葉を、みんながどう思ったか」


 メリルは。


 すぐに。


 安心させる言葉を言わなかった。


 二人で歩き始める。


 ノアが前。


 廊下。


 窓から入る朝の光。


「いろいろだと思う」


 少し歩いてから。


 メリルが答える。


「いろいろ?」


「信じた人。まだ疑ってる人。あまり興味ない人。アリシアちゃんが話したことより、レオン君の“行かないで”の方が残った人」


「私の言葉が残らなかった人も?」


「いると思う」


 胸が。


 少し沈む。


 でも。


 嘘ではない。


「メリルさんは?」


「私は、安心した」


「昨日も言ってた」


「うん。でも、少し別の安心」


「どう違う?」


 メリルは。


 窓の外を見る。


 中庭。


 朝の清掃をしている生徒。


 花壇。


 噴水。


「アリシアちゃんたちが、何かすごい秘密を見つけたら」


 言葉を選ぶ。


「いつか、私たちとは別の場所へ行っちゃう気がしてた」


 アリシアは。


 足を少し止める。


 メリルも止まる。


「別の場所?」


「先生たちと。神器の人たちと。特別な調査だけする人になるのかなって」


 胸へ。


 思っていなかった不安。


 入る。


「でも昨日、アリシアちゃんが“私たちも分からない”って言ったから」


 メリルは。


 少し笑う。


「まだ同じ場所にいるって思えた」


「分からないから?」


「うん。私たちと一緒に、知らない側にいる」


 アリシアは。


 何も言えなかった。


 六人目。


 黒月。


 深部補助座。


 接続線のない『在』。


 調査。


 特別な情報。


 少しずつ。


 普通の生徒から離れていくような感覚。


 自分にもあった。


 でも。


 メリルも。


 感じていた。


「私、離れたくない」


 アリシアが言う。


 声は。


 少し小さい。


「うん」


「調査はしたい。でも、メリルさんと歩くのもやめたくない」


「うん」


「食堂も。生活基礎も」


「うん」


「全部」


 メリルは。


 柔らかく頷く。


「じゃあ、戻ってきてね」


「どこから?」


「特別な場所に行った時」


 復帰。


 戻る。


 また。


 その言葉。


「うん」


「私も、おかえりって言うから」


 胸が。


 温かくなる。


 ノアが。


 前を歩きながら言う。


「朝から重い約束を廊下の中央でするのはやめなさい」


 メリルが笑う。


「ノアちゃん、照れてる?」


「違う」


「耳、少し動いた」


「風よ」


「廊下なのに?」


「黙りなさい」


 アリシアも。


 少し笑った。


 ◇


 食堂へ近づくにつれ。


 声が増える。


 皿。


 椅子。


 パンを運ぶ籠。


 朝の匂い。


 温かいスープ。


 焼きたての生地。


 いつもの日常。


 でも。


 食堂へ入った瞬間。


 アリシアは。


 昨日までとは違う視線を感じた。


 露骨ではない。


 けれど。


 何人かが。


 目を合わせ。


 その後。


 すぐに逸らす。


 講堂で話した。


 昨日まで。


 噂の中心。


 今日は。


 自分の声を持った人。


 そう見られている。


 アリシアは。


 いつもの席へ向かう。


 レオン。


 ミランダ。


 シオン。


 リーネ。


 ルシアン。


 全員。


 すでに揃っている。


「おはよう」


 レオンが言う。


「おはようございます」


 アリシアが返す。


 その時。


 近くの席から。


 小さな拍手が聞こえた。


 一人。


 女子生徒。


 昨日の講堂にいた。


 顔は覚えていない。


 彼女が。


 アリシアを見ながら。


 静かに二度。


 手を叩いた。


 周囲が。


 少しざわつく。


 別の生徒も。


 一度だけ拍手。


 さらに。


 二人。


 三人。


 大きな拍手ではない。


 でも。


 少しずつ増える。


 アリシアの足が。


 止まった。


 何。


 どうして。


 昨日。


 話したから?


 勇気があったから?


 黒月だから?


 何かを期待して?


 胸が。


 急に狭くなる。


 拍手。


 嬉しい。


 でも。


 怖い。


 意味が分からない。


 ミランダが。


 立ち上がりかける。


 嬉しそう。


 レオンも。


 少し誇らしげ。


 シオンは。


 周囲を見ている。


 リーネの表情は。


 硬い。


 ルシアンが。


 アリシアを見る。


「座れますか」


 静かな声。


 戻る。


 アリシアは頷く。


 席へ。


 座る。


 拍手は。


 長く続かなかった。


 十秒もない。


 やがて。


 少しずつ消える。


 食堂へ。


 また。


 皿の音。


 会話。


 日常。


「何だったの」


 アリシアが。


 小さく言う。


 ミランダは。


 目を輝かせている。


「昨日のアリシア、すごかったから!」


「でも、何に拍手?」


 ミランダは。


 言葉に詰まる。


「話したこと?」


 レオンが言う。


「大勢の前で」


「でも、私は答えを言ってない」


「だからじゃない?」


 シオンが。


 少し考えながら言う。


「知らないって言ったことに、拍手した人もいる」


「でも」


 アリシアは。


 周囲を見る。


 拍手した生徒。


 もう。


 普通に食事をしている。


 聞きに行きたい。


 でも。


 全員に。


 何の拍手だったのか。


 確認できない。


「分からない」


 アリシアが言う。


 ルシアンが頷く。


「分からないままでも、受け取れます」


「どうやって?」


「自分が受け取りたい範囲だけ」


 アリシアは。


 少し首を傾げる。


 ルシアンは続ける。


「昨日、あなたが話した。その行動へ向けられた拍手として、今は受け取る」


「英雄みたいに思われてるかもしれない」


「その可能性もあります」


「何かを解決してくれるって、期待かもしれない」


「その可能性も」


「なら、喜んじゃ駄目?」


「喜んでいい」


 リーネが。


 静かに言った。


 アリシアが見る。


「ただし、拍手の意味を勝手に決めない」


「うん」


「拍手されたから、全員が理解したとも。支持したとも。期待したとも決めない」


「うん」


「今は、何人かがあなたの昨日の発言へ反応した。それだけです」


 事実。


 解釈。


 想像。


 昨日の授業。


「嬉しかったって書いてもいい?」


「感情ですから」


 リーネが答える。


「怖かったも?」


「当然です」


 アリシアは。


 少し息を吐く。


「嬉しかった。怖かった」


 自分へ。


 確認するように言う。


 ノアが。


 椅子の上から。


「それでいい」


 と小さく返した。


 ◇


 朝食を始める。


 パン。


 スープ。


 今日は。


 昨日より柔らかいパン。


 アリシアは。


 両手で持つ。


 拍手。


 まだ。


 頭に残る。


 ノアが言う。


「今のパンは?」


「柔らかい」


「点数」


「自分で?」


「今日は自分で」


 アリシアは。


 少し驚く。


 でも。


 考える。


 パン。


 力。


 形。


 今。


「九十五点」


「理由は」


「最初、拍手のことを考えて、少し強く持った。でも、潰す前に戻った」


「妥当」


 アリシアは。


 少し笑う。


「ノアの点数は?」


「同じ」


「本当に?」


「今日はね」


 レオンが。


 二人を見る。


「今、自己採点?」


「うん」


「俺もやってみようかな」


 リーネが。


 少し眉を上げる。


「声量ですか」


「うん」


「点数化はやめたでしょう」


「数字じゃなくて。良かったところと、直すところ」


 リーネは。


 少し考え。


「それなら」


 と答えた。


 レオンは。


 朝の挨拶を思い返す。


「大きさは良かった。少し、アリシアの様子を気にして固くなった」


 シオンが。


「合ってると思う」


 と返す。


 点数がなくても。


 見られる。


 直せる。


 アリシアは。


 ノアの百点が。


 いつかなくなる未来を。


 昨日より。


 少しだけ怖く感じなかった。


 ◇


 食事の途中。


 一人の男子生徒が。


 六人の席へ近づいてきた。


 昨日。


 講堂で質問した女子生徒ではない。


 背が高い。


 制服の襟章。


 二年生。


 彼は。


 少し緊張しながら。


 アリシアの前で止まった。


「昨日の話」


 アリシアの手が。


 少し止まる。


「はい」


「本当に、何も知らないの?」


 食堂の空気。


 近くの席。


 少し静かになる。


 聞いている。


 直接質問。


 教務主任は。


 六人への直接質問を控えるよう説明した。


 でも。


 来た。


 怒る。


 断る。


 答える。


 三呼吸。


 一。


 事実。


 公開範囲以上は話せない。


 二。


 必要。


 相手は。


 知りたい。


 三。


 境界。


 応答例。


『正式名称は未確認です』


『第六補助点との関係も調査中です』


『公開されている以上の情報は話せません』


 アリシアは。


 ゆっくり答える。


「何も知らないわけではありません」


 男子生徒が。


 少し顔を上げる。


「台帳に、名称未登録の補助座があること。保持、統合、復帰補助と記録されていること。それは知っています」


「じゃあ、その先は?」


「まだ分かりません」


「本当に?」


 疑い。


 その一言。


 胸が少し痛む。


「本当に、です」


「でも、先生たちとは何度も奥の部屋に入ってる」


 周囲が。


 少しざわつく。


 アリシアの胸。


 狭くなる。


 隠している。


 そう見える。


「公開されている以上の情報は、話せません」


「あるんじゃん」


 男子生徒が言う。


「知らないんじゃなくて、話せないだけだろ」


 食堂。


 静かになる。


 その指摘。


 完全には間違っていない。


 非公開情報。


 ある。


 呼称未承認。


 候補名。


 ノアの証言。


 詳細比較。


 知っている。


 昨日。


『まだ分からない』


 と話した。


 でも。


『何も知らない』


 とは言っていない。


「はい」


 アリシアは答えた。


 男子生徒の目が。


 少し開く。


「話せないことはあります」


 食堂の空気。


 さらに重くなる。


「でも、その話せない情報を含めても。正体も。正式な名前も。私との関係も。まだ分かりません」


「それ、信じろって?」


 強い言い方。


 アリシアの手が。


 少し震える。


 レオンが。


 口を開きかける。


 エレナ教官はいない。


 先生も。


 近くには見えない。


 シオンが。


 レオンの腕へ軽く触れる。


 待つ。


 アリシア自身が。


 答えるか。


 見ている。


「信じるかどうかは」


 喉が。


 少し固い。


 でも。


 言う。


「あなたが決めることです」


 男子生徒の表情が。


 少し変わる。


「私は、話せる範囲で。分からないと言いました」


「ずるいな」


 その言葉。


 胸へ刺さる。


「秘密はある。でも、信じろって」


「信じてとは言ってません」


 アリシアは。


 少し強く答えた。


 声。


 大きくはない。


 でも。


 届く。


「昨日も。今も」


 男子生徒が。


 何か言おうとする。


 その前に。


 ルシアンが。


 静かに言う。


「これ以上は、食事の場で続ける内容ではありません」


 男子生徒が。


 ルシアンを見る。


「質問がある場合は、教務窓口へ提出してください」


 リーネも。


 手帳を閉じ。


 続ける。


「昨日の説明会で、六人への直接質問は控えるよう案内されています」


「でも本人がここにいる」


 男子生徒が言う。


「本人がいることと。全てへ答える義務があることは別です」


 リーネの声。


 冷たい。


 でも。


 正確。


 男子生徒は。


 少し顔を歪める。


 周囲の視線。


 多い。


 恥ずかしい。


 怒っている。


 両方。


「分かったよ」


 短く言い。


 席へ戻っていく。


 ざわめき。


 少しずつ戻る。


 でも。


 完全な日常にはならない。


 アリシアは。


 パンを見たまま。


 動けない。


「大丈夫?」


 ミランダが小さく聞く。


 大丈夫。


 と言いそうになる。


 止める。


「嫌だった」


 と答える。


「うん」


 ミランダは。


 それ以上。


 すぐに何も言わない。


 レオンの拳。


 まだ握られている。


「俺、あいつ嫌い」


 低い声。


「レオン」


 リーネが呼ぶ。


「分かってる。今は行かない」


 自分で止める。


 シオンは。


 男子生徒の席を見ず。


「でも、質問自体は出ると思ってた」


 と話す。


 アリシアが見る。


「秘密があるのに、分からないって言う。その違いが、分かりにくいから」


「私、ずるかった?」


 シオンは。


 すぐに否定しない。


 少し考える。


「ずるいと思う人はいる」


 胸が。


 沈む。


「でも、話せないことがあると認めたうえで。分からない範囲を説明した。僕は、ずるいとは思わない」


 ルシアンも。


 静かに続ける。


「秘密の存在を隠し、全て知らないふりをしたわけではありません」


 リーネが。


「昨日の発言内容にも、虚偽はありません」


 と答える。


「ただし」


 アリシアの胸が固くなる。


「今後は、“何も知らない”と受け取られない表現へ補足する必要があります」


「どう言う?」


「話せない情報はある。しかし、結論は分からない」


 ルシアンが言う。


「長いけど」


 ミランダが呟く。


「短くすると、また意味が変わる」


 アリシアが答える。


 また。


 同じ。


 意味が決まらないものは。


 短くしない。


「食べられる?」


 ノアが。


 小さく聞く。


 アリシアは。


 パンを見る。


 少しだけ。


 食欲が消えている。


「少し待つ」


「よろしい」


 無理に。


 今へ戻らなくてもいい。


 でも。


 完全に離れない。


 アリシアは。


 スープを一口だけ飲んだ。


 温かい。


 喉。


 少し楽になる。


 ◇


 生活基礎。


 黒板。


『同じ事実でも、言わなかった部分があると、不信が生まれる』


 アリシアは。


 教室へ入った瞬間。


 自分のための授業のように感じた。


 セリア先生は。


 黒板の前で。


 生徒たちが席につくのを待つ。


「秘密を守る必要がある時。話せる範囲だけで説明することがあります」


 先生の声。


 穏やか。


「その説明に嘘がなくても。聞いた側は、後から“隠されていた”と感じることがあります」


 朝の男子生徒。


『秘密はある。でも信じろって』


 その言葉。


 胸へ戻る。


「秘密を持つ側は。“嘘はついていない”と考えます」


 黒板へ。


『嘘ではない』

『全部ではない』


「聞く側は。“全部ではなかった”と感じます」


 アリシアは。


 大きく書く。


「どちらかだけが、必ず間違いとは限りません」


 先生は。


 少し間を置く。


「では、どうするか」


 黒板へ。


『話せない部分があることを伝える』

『分からない範囲を示す』

『信じることを強制しない』


 アリシアの指が。


 少し止まる。


 朝。


 全部。


 した。


 それでも。


 不信は残った。


「この三つを行っても、全員が納得するとは限りません」


 セリア先生は続ける。


「ですが。信頼とは、相手を必ず納得させる技術ではありません」


 教室。


 静か。


「自分が、何を話せて。何を話せず。何を分からないのか。それを変えずに示すことです」


 ノアの言葉と。


 同じ。


 自分の都合で。


 変えない。


 班練習。


 題材。


『友人から、先生との相談内容を聞かれた。しかし一部は話せない』


 トマが言う。


「全部秘密って言う」


 ミーナが。


「それだと、何も答えてくれないって思われる」


 メリルは。


「話せないところがある。でも、私が困ってるわけじゃない。心配しなくて大丈夫。とか?」


 アリシアは。


 少し考える。


「話せないことはある。でも、今の結論はまだ出てない」


「今日のこと?」


 メリルが。


 小さく聞く。


 アリシアは頷く。


「朝、聞かれた」


 班の三人。


 アリシアを見る。


 アリシアは。


 男子生徒とのやり取りを。


 公開してよい範囲で話す。


 質問。


 秘密。


 ずるい。


 信じるかはあなたが決める。


 トマは。


 少し顔をしかめた。


「俺なら、腹立つ」


「どっちに?」


「聞いた方にも。でも、秘密あるって言われたら、気になる」


 正直。


 ミーナも。


「私も。知ってるのに知らないって言われたみたいに感じるかも」


 胸が。


 少し痛む。


 でも。


 聞く。


 メリルが言う。


「でも、アリシアちゃんは“何も知らない”って言ってない」


「うん」


「ただ。聞いた側が、そう聞いたかもしれない」


 セリア先生が。


 近くから静かに言う。


「重要なのは。誤解した相手を、理解力がないと責めないことです」


 アリシアは。


 少し俯く。


 男子生徒へ。


 少し思った。


 説明したのに。


 分かってくれない。


 でも。


 自分の言葉も。


 十分ではなかったかもしれない。


「次に同じ質問を受けたら」


 セリア先生が尋ねる。


「どう答えますか」


 アリシアは。


 ゆっくり考える。


「話せない記録はあります」


「はい」


「でも、その中にも。正式名称や。正体や。私との関係を確定する答えはありません」


「はい」


「だから、私はまだ分からないと言っています」


「良いです」


「信じてとは、言わない」


「良いです」


「質問は、教務窓口へ」


「境界も明確です」


 セリア先生は。


 穏やかに頷いた。


「それでも、ずるいと言われる可能性はあります」


「はい」


「どうしますか」


 アリシアは。


 少し黙る。


「嫌だと思います」


「はい」


「でも、答えは変えません」


 先生の表情が。


 少し柔らかくなる。


「それが、声を出した後に残る責任です」


 朝。


 ノア。


 同じ言葉。


 アリシアは。


 強く書いた。


 ◇


 戦闘基礎。


 今日は。


 いつもの演習室。


 講堂ではない。


 見学者も。


 いない。


 六人。


 エレナ教官。


 グラン先生。


 床には。


 配置円。


 魔導人形。


 通常訓練。


 戻れる場所。


 アリシアは。


 少し安心した。


 ただ。


 エレナ教官は。


 訓練開始前に。


 アリシアを見る。


「朝、直接質問を受けたそうだな」


「はい」


「答えた内容」


 アリシアは。


 そのまま報告する。


 話せる範囲。


 話せない情報。


 まだ分からない。


 信じるかは相手が決める。


 ルシアンとリーネが。


 途中で補足する。


 エレナ教官は。


 最後まで聞く。


「相手を止めたのは」


 ルシアンが答える。


「食事の場で続ける内容ではないと判断しました」


「妥当」


「アリシア」


「はい」


「今、何を気にしている」


「ずるかったか」


「答えは」


「私は、ずるくないと思いたいです。でも、そう感じる人がいることは分かる」


「よし」


 予想していなかった返事。


「よし?」


「一方へ逃げなかった」


 エレナ教官は。


 配置円を指す。


「今日は、同じ指示が別の意味に受け取られた時の訓練をする」


 六人の表情が変わる。


「共有語の意味ずれ?」


 リーネが尋ねる。


「それに近い」


 エレナ教官は。


 六人へ。


 それぞれ異なる小札を渡した。


 アリシア。


『戻る=基準復帰点へ』


 レオン。


『戻る=最初の担当位置へ』


 ミランダ。


『戻る=一歩後退』


 シオン。


『戻る=支援前の位置へ』


 リーネ。


『戻る=中央再配置』


 ルシアン。


『戻る=安全線へ』


 全員。


 違う。


「訓練中、“戻る”が一度だけ出る」


 エレナ教官が言う。


「札の意味に従え」


「絶対崩れる」


 レオンが言う。


「崩れろ」


「え?」


「今日は、意味が違うまま同じ言葉を聞く危険を確認する」


 アリシアは。


 札を見る。


 戻る。


 自分にとって。


 基準復帰点。


 でも。


 皆は違う。


「始め」


 訓練開始。


 正面。


 レオン。


 右。


 ミランダ。


 左。


 シオン。


 中央。


 リーネ。


 後方。


 ルシアン。


 基準点。


 アリシア。


 最初は。


 通常。


 赤札。


 正面。


 青札。


 右。


 白札。


 左。


 支援。


 開ける。


 短い言葉。


 意味共有。


 動ける。


 そして。


 エレナ教官が。


 突然。


「戻る!」


 声。


 六人。


 全員が動く。


 アリシア。


 基準点へ。


 レオン。


 正面初期位置。


 もともと近い。


 ミランダ。


 一歩後ろ。


 シオン。


 支援前の左。


 リーネ。


 中央再配置。


 ルシアン。


 安全線へ。


 全体が。


 一瞬で。


 ばらばらになる。


 後方検知が消える。


 中央水膜が動く。


 右が下がる。


 左が流れる。


 正面だけ。


 レオンが残る。


 魔導人形の圧。


 正面へ集中。


「支援!」


 レオンが叫ぶ。


 誰が。


 どこへ。


 アリシアは。


 基準点。


 動こうとする。


 でも。


 リーネが中央再配置で通路を塞ぐ。


 シオンは左へ戻った。


 ミランダは一歩下がった位置。


 ルシアンは安全線外。


 全体。


 崩れる。


「止め」


 エレナ教官の声。


 魔導人形。


 停止。


 六人。


 荒い呼吸。


 実際の負荷は。


 それほど高くない。


 でも。


 判断の混乱。


 疲れる。


「同じ言葉を聞いた」


 エレナ教官が言う。


「全員が、自分の意味で正しく動いた」


 アリシアは。


 札を見る。


 自分は。


 指示通り。


 正しい。


 皆も。


 正しい。


 でも。


 全体は崩れた。


「誰が悪い」


 教官が尋ねる。


 誰も答えない。


 レオンが。


 少し考え。


「誰も、札の意味では間違ってない」


「では、なぜ崩れた」


 リーネが答える。


「共有されていなかったから」


「そうだ」


 エレナ教官は。


 六人を見る。


「説明を聞いた側が、違う意味に受け取った時。発信者だけ。受信者だけ。どちらかを責めても直らない」


 朝のこと。


 食堂。


 男子生徒。


「必要なのは」


 ルシアンが言う。


「どこで意味が分かれたか確認すること」


「その通り」


 アリシアは。


 少しだけ。


 胸が軽くなる。


 自分の説明。


 嘘ではない。


 相手の疑い。


 ただの悪意と決められない。


 意味が。


 違った。


『まだ分からない』


 アリシア。


 結論が分からない。


 男子生徒。


 何も知らない。


 そう受け取った。


「もう一度」


 エレナ教官が言う。


 今度は。


 訓練前に。


 各自の札を公開する。


 戻る。


 六つの意味。


 並べる。


「統一しろ」


 六人。


 話し合う。


 基準復帰点。


 最初の位置。


 一歩後退。


 支援前。


 中央再配置。


 安全線。


 どれを。


 共有語へする。


「戻るは、基準復帰点」


 アリシアが言う。


「今まで使ってる意味」


 レオンが頷く。


「全体再配置は別の言葉」


 リーネ。


「安全線への退避も別」


 ルシアン。


「一歩後退は、下がる」


 ミランダ。


「支援前の位置は、復帰先を指定する」


 シオン。


 意味を分ける。


 短い言葉へ。


 条件。


「再開」


 同じ配置。


 同じ流れ。


 再び。


「戻る!」


 今度は。


 六人。


 基準復帰点へ。


 ただし。


 全員が同じ円へ集まるわけではない。


 基準復帰線。


 それぞれの近い位置。


 リーネが。


「全体、再配置」


 新しい言葉。


 レオンが正面。


 ミランダ右。


 シオン左。


 ルシアン後方。


 アリシア基準点。


 戻る。


 意味が揃う。


「続行」


 訓練。


 崩れない。


 ◇


 終了後。


 六人は。


 床へ座る。


 呼吸を整える。


 エレナ教官が。


 アリシアへ尋ねる。


「朝の発言。“まだ分からない”」


「はい」


「お前の意味は」


「結論が分からない」


「相手の意味は」


「何も知らない」


「次は」


 アリシアは。


 少し考える。


「話せない記録はあります。でも、結論はまだ分からない」


「長いな」


「はい」


「短くするか」


「今は、しない方がいいです」


 エレナ教官は頷く。


「それでいい」


 レオンが。


 横から言う。


「でも、毎回それ言うの大変だな」


「うん」


「聞かれるたび?」


 アリシアは。


 少し考える。


「毎回は言わない」


「じゃあ」


「教務窓口へ」


 リーネが答える。


「個人対応を六人へ集中させない」


 ルシアンも。


「説明文を掲示へ追加する方法があります」


「話せない情報はある。しかし、現時点の結論は未確定」


 シオンが。


 紙へ書く真似をする。


「長いけど、必要」


 ミランダが言う。


 六人。


 少しずつ。


 今日の朝を。


 一人の問題にしない。


 ◇


 訓練後。


 教務主任との短い確認。


 食堂での直接質問。


 内容。


 周囲の反応。


 全て報告する。


 教務主任は。


 少し疲れた顔をした。


「直接質問を控えるよう案内しましたが、完全には止まりませんね」


「私が答えたのは、よくなかったですか」


 アリシアが尋ねる。


「いいえ。応答例の範囲です」


「でも、ずるいと言われました」


「そう感じる生徒はいるでしょう」


 また。


 同じ。


 教務主任は。


 否定しない。


「追加掲示を出します」


『非公開情報の有無と、調査結論の確定は別です』


「少し難しい」


 ミランダが言う。


 教務主任も頷く。


「そのため、授業内でも説明します」


「私たちは?」


 アリシアが尋ねる。


「追加発信は不要です」


 胸が。


 少し軽くなる。


「今後、直接質問を受けた場合」


 教務主任が続ける。


「一度だけ応答例を伝え。それ以上は教務窓口へ案内してください」


「信じないと言われたら?」


「信じることを強制しない」


「ずるいと言われたら?」


「その評価へ反論する義務はありません」


 アリシアは。


 少し目を開く。


「反論しなくていい?」


「はい」


「でも、誤解されたまま」


「説明できる範囲は説明した」


 教務主任の声。


 静か。


「その後まで、あなた一人が背負う必要はありません」


 エレナ教官。


 ノア。


 皆。


 同じことを言う。


 それでも。


 何度も。


 自分の中へ戻ってくる。


 背負いたい。


 全部正したい。


 嫌われたくない。


 信じてほしい。


 でも。


 できない。


「分かりました」


 アリシアは答えた。


 完全には。


 分かっていない。


 でも。


 今の答え。


 ◇


 昼食後。


 図書館。


 今日は。


 少し空気が重かった。


 調査資料は。


 机へ置かれていない。


 代わりに。


 説明記録。


 質問記録。


 掲示改訂案。


 リーネの手帳。


 六人の訓練結果。


 それら。


「声を出した後の記録」


 リーネが言う。


「必要ですね」


 アリシアが見る。


「声を出した後?」


「発信内容だけではありません」


 リーネは。


 新しい頁を作る。


『発信』

『受け取られ方』

『誤解』

『追加説明』

『対応終了条件』


「最後は何?」


 レオンが尋ねる。


「どこまで対応したら、一度終えるか」


 リーネが答える。


「終える?」


「全ての誤解が消えるまで続けることはできません」


 アリシアは。


 その言葉を。


 強く聞く。


「では、どこで終える?」


 ルシアンが尋ねる。


 リーネは。


 少し考える。


「必要な事実を掲示した」


「はい」


「危険行動を禁止した」


「はい」


「質問窓口を設けた」


「はい」


「六人も、答えを知らないと説明した」


「はい」


「非公開情報があることと、結論未確定が両立することを追加説明する」


「はい」


「その後は」


 リーネの筆が。


 少し止まる。


「個別の感想までは追わない」


 アリシアの胸が。


 少し狭くなる。


「追わない?」


「はい」


「信じてない人がいても?」


「います」


「ずるいと思ってる人も?」


「います」


「それでも?」


「それでも」


 リーネは。


 アリシアを見る。


「対応を終える線が必要です」


 ルシアンが静かに言う。


「終えることは、諦めることではありません」


「では?」


「次に新しい事実が出るまで、同じ説明を維持する」


 変えない。


 自分の都合で。


 変えない。


「追加の噂が出たら?」


「危険性を確認。必要なら対応」


 シオンが答える。


「ただの感想なら?」


「追わない」


 ミランダが。


 少し不安そう。


「嫌われても?」


 全員。


 少し黙る。


 この問い。


 アリシアだけではない。


 ミランダも。


 怖い。


「嫌われないために、分かったふりはできない」


 アリシアが言った。


 自分へ。


 皆へ。


「うん」


 ミランダは。


 少し寂しそうに。


 でも。


 頷いた。


 司書が。


 遠くから。


 静かに言う。


「記録は、全員に好かれるために残すものではありません」


 図書館。


 紙。


 本。


 長い時間。


「後の人が、自分で選べるように残すものです」


 噂。


 記録。


 両方。


 後の人。


 選ぶ。


 アリシアは。


 練習帳へ書く。


『対応終了条件』


・公開可能な事実を示した。

・未確定事項を示した。

・危険行動を禁止した。

・質問窓口を設けた。

・非公開情報があることと、結論未確定が両立すると説明した。

・新事実が出るまで、同じ説明を維持する。

・個人の感想までは追わない。


 最後。


『嫌われないために、分かったふりをしない』


 ◇


 夕方。


 図書館を出ると。


 廊下の掲示板へ。


 新しい紙が追加されていた。


『補足』


『調査には、安全上公開できない記録が含まれます。ただし、それらを含めても、正式名称、現存状態、機能状態、特定生徒との関係はいずれも確定していません』


『非公開情報が存在することは、調査結論が確定していることを意味しません』


 長い。


 難しい。


 でも。


 必要。


 何人かの生徒が。


 立ち止まり。


 読む。


「やっぱり秘密あるんじゃん」


 一人が言う。


「でも、秘密が答えとは限らないって書いてある」


 別の生徒。


「分かりにくい」


「調査ってそういうもんじゃない?」


「先生たちも大変だな」


 様々。


 アリシアは。


 少し離れた場所で。


 聞く。


 訂正したい。


 説明したい。


 でも。


 今は。


 掲示がある。


 質問窓口もある。


 危険行動ではない。


 三呼吸。


 一。


 事実。


 掲示に書かれている。


 二。


 必要。


 今はない。


 三。


 境界。


 個人の感想は追わない。


 アリシアは。


 歩き出す。


 シオンが。


 隣で言う。


「今日は止まらなかったね」


「うん」


「気にならない?」


「すごく気になる」


「でも、行かなかった」


「うん」


「それも、戻る?」


 アリシアは。


 少し考える。


「たぶん」


 自分の役割。


 空欄。


 介入。


 でも。


 必要がない時。


 入らない。


 同じ。


 ◇


 中庭。


 メリルが待っていた。


 今日は。


 少し心配そう。


「食堂のこと、聞いた」


「早い」


「近くにいた子から」


 噂。


 また。


 広がる。


 でも。


 今回は。


 自分のやり取り。


「ずるいって言われた?」


「うん」


「傷ついた?」


「うん」


 正直。


 メリルは。


 すぐに。


 相手を悪く言わなかった。


 二人で歩く。


 夕方。


 風。


 少し強い。


「私も」


 メリルが言う。


「秘密があるって聞いたら、気になると思う」


「うん」


「全部は知らないって言われても。本当かなって思うかも」


「うん」


「でも」


 少し間。


「信じるかは私が決めるなら。私はアリシアちゃんを信じる」


 胸が。


 温かくなる。


 でも。


 少し怖い。


「私が間違ってたら?」


「その時は、一緒に直す」


「嘘ついてたら?」


「怒る」


 即答。


 アリシアは。


 少し驚く。


 メリルは。


 真剣な顔。


「信じるって、何をしても許すことじゃないよ」


「うん」


「今は。アリシアちゃんが、分からないって言ってるのを信じる」


「うん」


「でも、後で分かってたって出たら。怒る」


「うん」


「それでいい?」


 アリシアは。


 少し笑う。


「うん」


 信じる。


 全部。


 無条件。


 そうではない。


 今の言葉を。


 今。


 受け取る。


「朝の拍手」


 メリルが言う。


「びっくりした?」


「すごく」


「私もしたかった」


「しなかった?」


「後ろだったから。急にしたら、もっと増えそうで」


「何の拍手?」


「昨日、話したこと」


「知らないって言ったこと?」


「うん」


「期待じゃない?」


「私は違う」


「でも、他の人は分からない」


「うん」


「嬉しかった。でも怖かった」


「両方でいいよ」


 今日。


 何度も。


 同じ。


 嬉しい。


 怖い。


 信じる。


 疑う。


 秘密。


 分からない。


 一つにしない。


 ◇


 夜。


 アリシアは。


 机へ向かう。


 練習帳。


 朝。


『昨日の発言を、聞いた人がどう受け取ったか気になった』


『全員の受け取り方を知ることはできない』


『声を出した後に残る責任は、自分が言ったことを、自分の都合で変えないこと』


 メリル。


『分からない側に一緒にいると感じて安心した、と言われた』


『調査で特別な場所へ行っても、日常へ戻りたい』


 食堂。


『数名から拍手を受けた』


『意味は未確認』


『昨日話した行動への反応として受け取る』


『感情:嬉しい。怖い』


 直接質問。


 アリシアは。


 少し手を止める。


『何も知らないのかと聞かれた』


『話せない情報はあると答えた』


『“秘密はあるのに、知らないと言うのはずるい”と言われた』


『私は、“信じるかはあなたが決めること。信じてとは言っていない”と答えた』


『傷ついた』


 そのまま。


 書く。


『ただし、相手がそう感じる理由もある』


『私の“まだ分からない”が、“何も知らない”と受け取られた可能性』


 生活基礎。


『嘘ではないことと、全部ではないことは違う』


『話せない部分があることを伝える』


『分からない範囲を示す』


『信じることを強制しない』


 訓練。


『同じ“戻る”を、六人が別の意味で受け取った』


『全員が自分の札に従い、全員が正しく動いた。しかし全体は崩れた』


『発信者か受信者のどちらか一人を責めるのではなく、どこで意味が分かれたかを見る』


 追加説明。


『話せない記録はある。しかし、それらを含めても結論は未確定』


 対応終了条件。


 すべて書く。


 最後。


『個人の感想までは追わない』


 その一文。


 書く手が。


 少し止まる。


 追わない。


 知りたい。


 自分を。


 どう思った。


 信じた。


 疑った。


 好き。


 嫌い。


 全部。


 知りたい。


 でも。


 追えば。


 終わらない。


 アリシアは。


 少し強く書く。


『追わないことは、気にしないことではない』


 ノアが。


 机へ跳び乗る。


「今日は?」


 アリシアが尋ねる。


 ノアは。


 すぐには答えない。


 練習帳。


 アリシア。


 交互に見る。


「百点」


「ずるいって言われたのに」


「点数と、他人の評価を結びつけない」


「傷ついた」


「傷ついていい」


「言い返した」


「必要な範囲で」


「信じるかは相手が決めるって、少し冷たかったかも」


「そう受け取る者もいる」


「じゃあ、減点?」


「しない」


「どうして?」


 ノアは。


 前足を。


 練習帳の端へ置く。


「今日の百点は、誤解されたからといって。昨日の言葉を、相手に好かれる形へ変えなかった点数」


 胸が。


 温かくなる。


 同時に。


 少し痛い。


「嫌われても?」


「嫌われることはある」


「怖い」


「当然」


「でも、変えない?」


「新しい事実が出れば変える」


「好かれるためには?」


「変えない」


 アリシアは。


 ゆっくり頷く。


「最後に書くなら?」


 ノアが尋ねる。


 アリシアは。


 朝。


 拍手。


 男子生徒。


 授業。


 訓練。


 掲示。


 全部。


 思い返す。


 一行。


『声を出した後、言葉は私だけのものではなくなる』


 ノアが。


 静かに見る。


 続ける。


『でも、私が何を言ったかまで、相手の受け取り方に合わせて変えてはいけない』


 もう一行。


『信じてもらうために話すのではなく、何を知り、何を知らないかを残すために話す』


 ノアの瞳が。


 少し細くなる。


「いいわ」


 アリシアは。


 さらに書く。


『そして、説明を尽くした後は、相手がどう思うかを相手へ返す』


 少し迷い。


 最後。


『私は、全員の中へ正しい答えを置くことはできない。でも、自分の言葉を同じ場所に置き続けることはできる』


 ノアは。


 長く黙る。


 アリシアも。


 待つ。


 沈黙へ。


 答えを入れない。


「百一点」


 やがて。


 ノアが言う。


 アリシアは。


 少し笑った。


「今日だけ?」


「今日も」


「百一点、増えてる」


「あなたが増やしてるのよ」


 アリシアは。


 練習帳を閉じた。


 夜。


 静か。


 水音なし。


 白い表示なし。


 名前のない何かから。


 返事もない。


 でも。


 今日は。


 別の声が。


 いくつも残った。


 拍手。


 疑い。


 ずるい。


 信じる。


 待つ。


 行かない。


 まだ分からない。


 同じ言葉を聞いても。


 人は。


 同じ意味で受け取らない。


 同じ拍手も。


 同じ疑いも。


 全部。


 違う。


 それを。


 一つへ揃えることはできない。


 アリシアは。


 灯りを落とした。


 寝台へ入る。


 ノアが。


 足元へ丸くなる。


「ノア」


「何?」


「昨日の言葉、変えなくていい?」


「新しい事実が出るまでは」


「うん」


「話せないことがあるのも」


「隠さず、話せないと示した」


「うん」


「それでいい」


「嫌われても?」


 ノアは。


 少しだけ。


 間を置く。


「嫌われたくないと思っていい」


「うん」


「でも、そのために嘘をつかない」


「うん」


「それだけ」


 アリシアは。


 目を閉じる。


「おやすみ、ノア」


「おやすみ、アリシア」


 昨日。


 声を出した。


 今日。


 その声が。


 いくつもの形で返ってきた。


 優しい形。


 痛い形。


 分からない形。


 その全部を。


 自分の中へ抱え込まず。


 必要なものだけを記録し。


 残りを。


 相手の場所へ返す。


 それは。


 まだ。


 上手くできない。


それは。


 まだ。


 上手くできない。


 気になれば。


 足を止める。


 誰かが囁けば。


 自分のことではないかと考える。


 少し強い言葉を向けられれば。


 その理由を。


 夜まで何度も探してしまう。


 今日。


 男子生徒へ答えた後も。


 もっと違う言い方があったのではないかと。


 何度も思った。


 冷たく聞こえなかったか。


 突き放したように見えなかったか。


 信じてもらえなくてもいいと。


 本当に思っているように聞こえなかったか。


 本当は。


 信じてほしかった。


 疑われたくなかった。


 分かってもらいたかった。


 拍手の意味も。


 できれば。


 すべて知りたかった。


 自分へ向けられたものが。


 好意なのか。


 期待なのか。


 同情なのか。


 ただの流れなのか。


 一つずつ。


 確かめたかった。


 けれど。


 それを始めれば。


 たぶん。


 終わらない。


 一人の言葉を聞けば。


 次の一人が気になる。


 十人へ説明すれば。


 十一人目の表情が気になる。


 百人に信じてもらえても。


 一人に疑われれば。


 その一人のことだけを考えてしまう。


 だから。


 全部は追わない。


 追えないから諦めるのではなく。


 自分が立っていられる場所を。


 失わないために。


 線を引く。


 その線は。


 まだ。


 細い。


 少し強い声があれば。


 簡単に踏み越えてしまいそうになる。


 それでも。


 今日。


 一度だけ。


 掲示板の前を通り過ぎられた。


 男子生徒を追いかけず。


 もう一度説明しに行かなかった。


 ずるいと言われた言葉を。


 自分の中で。


 事実へ変えなかった。


 傷ついた。


 でも。


 傷ついたことと。


 相手の評価が正しいことは。


 同じではない。


 嬉しかった。


 でも。


 拍手されたことと。


 すべてを理解してもらえたことも。


 同じではない。


 違うものを。


 違うまま置く。


 今のアリシアにできるのは。


 まだ。


 それだけだった。


 眠りへ落ちる直前。


 足元から。


 ノアの小さな声が聞こえた。


「アリシア」


「……何?」


 目は。


 もう開けなかった。


「今日の言葉は」


 ノアは。


 少し間を置く。


「明日も、同じ場所へ置ける?」


 アリシアは。


 眠気の中で。


 今日書いた記録を思い出した。


『話せない記録はある』


『でも、結論はまだ分からない』


『信じるかどうかは、相手が決める』


『嫌われないために、分かったふりをしない』


 明日。


 また聞かれるかもしれない。


 別の言い方で。


 もっと強く。


 もっと優しく。


 期待を込めて。


 疑いを込めて。


 そのたびに。


 言葉を変えたくなるかもしれない。


 喜ばれる答えへ。


 怒られない答えへ。


 嫌われない答えへ。


 でも。


 新しい事実がないなら。


 置く言葉も。


 変えない。


「……置けると思う」


 アリシアは答えた。


「思う?」


「置く」


 言い直す。


 ノアは。


 すぐには返さなかった。


 暗闇。


 布の擦れる音。


 黒猫が。


 足元で少し丸くなり直す気配。


「それでいい」


 小さな声。


 アリシアは。


 布団の中で。


 指を少しだけ開いた。


 今日は。


 声を出した後。


 返ってきたものを。


 全部は抱えなかった。


 全部を。


 捨てたわけでもない。


 必要な言葉は。


 記録へ。


 必要な痛みは。


 自分の中へ。


 それ以外は。


 相手の場所へ。


 返した。


 上手くはない。


 きっと。


 明日も迷う。


 それでも。


 声を出した後に。


 自分まで。


 なくならないために。


 アリシアは。


 自分の言葉を。


 同じ場所へ置き続ける。


 今は。


 それでいい。


 夜は。


 静かに深くなる。


 返事のない何かも。


 白い文字も。


 黒い水も。


 現れない。


 ただ。


 今日残した言葉だけが。


 閉じた練習帳の中で。


 朝を待っていた。


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