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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第71話 まだ分からないと、声にする


 翌朝。


 アリシアは、廊下の向こうから聞こえてくる話し声へ、扉の内側で静かに耳を傾けていた。


 昨日と同じように。


 制服へ着替え。


 髪を整え。


 最後に扉を開くだけ。


 そこまで準備は終わっている。


 けれど。


 取っ手へ触れた指は、まだ動かなかった。


「昨日の掲示、見た?」


「見た。“六番目の心臓”って正式名称じゃなかったんだね」


「でも、何かはあるんでしょ?」


「名称未登録の補助座って書いてあった」


「それが心臓じゃないって、まだ決まったわけでもないんじゃない?」


「正式じゃないってだけでしょ」


 女子生徒たちの声。


 昨日までより。


 少しだけ慎重。


 でも。


 噂は消えていない。


 言葉の形を変えながら。


 まだ廊下を歩いている。


 アリシアは、胸元へ手を当てた。


 水音なし。


 痛みなし。


 冷えなし。


 ただ。


 言いたい。


 正式名称ではない。


 まだ分からない。


 その二つを。


 扉を開けて。


 廊下の向こうへ。


 でも。


 今、言うべきなのか。


 三呼吸。


 一。


 何が事実か。


 正式名称は確認されていない。


 二。


 今、何が必要か。


 彼女たちは掲示を読んだ。


 危険な場所へ行こうとしているわけでもない。


 三。


 どこまで話してよいか。


 公開情報の範囲。


 言える。


 でも。


 今、アリシアが出ていけば。


 盗み聞きしたように感じさせるかもしれない。


 廊下での普通の会話へ。


 本人が突然現れる。


 それは。


 相手を恥じさせる訂正になるかもしれない。


 アリシアは。


 取っ手から、ゆっくり指を離した。


 廊下の声が。


 少しずつ遠ざかる。


 ノアが机の上から言った。


「今日は出ないのね」


「うん」


「言いたかった?」


「すごく」


「では、なぜ出なかったの」


「訂正しなくても、危険じゃなかったから」


「他には」


「私が出たら、あの人たちが悪いことを言ったみたいに感じるかもしれない」


「よろしい」


 ノアは。


 少しだけ目を細めた。


「昨日より、一呼吸増えたわね」


「三呼吸した」


「そうだった」


 アリシアは机へ向かい、練習帳を開いた。


『朝、廊下で掲示について話す声を聞いた』


『正式名称ではないことは理解されていた。でも、“心臓ではないとも決まっていない”という話が残っていた』


『訂正したかった。だが、危険行動ではなく、掲示内容も一部伝わっていた。私が出ることで相手を恥じさせる可能性があるため、今は言わなかった』


 書きながら。


 少しだけ胸が痛んだ。


 言わなかった。


 それは。


 逃げたのか。


 待ったのか。


 自分でも。


 完全には分からない。


「逃げたと思う?」


 ノアが尋ねた。


「少し」


「怖かった?」


「うん」


「では、待っただけとも言い切らない」


「うん」


 アリシアは追記する。


『相手を配慮しただけではなく、自分が怖かった気持ちもある』


 書くと。


 少し落ち着く。


 綺麗にしない。


 判断には。


 複数の理由がある。


「今日は、何がある?」


 ノアが聞いた。


「掲示の反応確認。それと、次の合同訓練の説明」


「大勢の前で話す可能性」


「うん」


 昨日。


 教務主任は言った。


 掲示を出し。


 反応を見る。


 必要なら。


 次回の公開訓練で、六人から短く説明する。


 まだ。


 決定ではない。


 でも。


 アリシアは。


 昨夜から、その場面を何度も想像していた。


 演習室。


 見学者。


 噂。


 自分の声。


『まだ分からない』


 その一言を。


 大勢へ。


 言えるだろうか。


「怖いなら、今から断る?」


 ノアが尋ねた。


 アリシアは。


 少し考える。


「まだ頼まれてない」


「頼まれたら?」


「……考える」


「今は答えを決めない?」


「うん」


「よろしい」


 ノアは。


 練習帳へ前足を置いた。


「今日は九十九点」


「減点は?」


「廊下へ出なかった判断を、全部配慮だったことにしかけた」


「うん」


「でも怖さも書いた」


「うん」


「それで十分」


 アリシアは。


 鏡の前へ立った。


 背筋。


 自分から伸ばす。


 ノアは何も言わなかった。


 それに気づき。


 少し嬉しくなる。


「今日は、言わないことも逃げとは限らない」


「ええ」


「でも、言う必要が来た時は」


 鏡の中の自分を見る。


「怖くても、考える」


「言うとは決めないのね」


「必要を見てから」


「成長したわ」


「褒めた?」


「事実」


 アリシアは。


 少し笑った。


 ◇


 扉を開けると。


 メリルが。


 窓辺で。


 掲示板から持ってきたらしい小さな写しを読んでいた。


「おはよう、アリシアちゃん」


「おはよう、メリルさん」


 メリルは紙を折り。


 制服のポケットへ入れた。


「昨日の注意書き、寮にも貼られたよ」


「知ってる」


「読んだ?」


「教務主任に案を見せてもらった」


「そっか」


 二人と一匹で歩き出す。


 朝の廊下。


 昨日までより。


 生徒たちの声量が。


 少しだけ抑えられているように感じる。


 噂を話す者が消えたわけではない。


 でも。


 誰かが。


「正式じゃないらしい」


 と付け加える。


 別の誰かが。


「まだ調査中」


 と返す。


 掲示の言葉が。


 少しずつ。


 会話の中へ入っていた。


「昨日よりは、変わった?」


 メリルが尋ねる。


「うん。六番目の心臓って言った後に、正式じゃないって言う人が増えた」


「それでも名前は使うんだね」


「うん」


「嫌?」


「嫌。でも……昨日よりは少し違う」


「何が?」


「事実じゃないって分かって使うのと、本当の名前だと思って使うのは違う」


 メリルは。


 少し考えた後。


 頷いた。


「物語の題名みたいに使う人もいるかも」


「うん。でも、危ない場所へ探しに行かないなら」


「そこが一番大事?」


「今は」


 完全に名前を消すこと。


 それより。


 危険な行動を止める。


 正しい情報を残す。


 優先。


「昨日の一年生、どうなったのかな」


 メリルが聞く。


「先生から注意。保護者にも連絡。立入制限の説明を受けるって」


「怖かっただろうね」


「行った本人たちが?」


「うん。見つかった時も。後から自分が危ないことしたって分かった時も」


 アリシアは。


 少し考える。


 自分は。


 怒った。


 危ないことをした。


 噂を広げた。


 でも。


 一年生。


 たぶん。


 まだ学園へ慣れていない。


 英雄に憧れたのかもしれない。


 秘密を見つけたかったのかもしれない。


「話してみたい?」


 メリルが尋ねた。


「え?」


「怒るためじゃなくて。どうして行ったか」


 アリシアは。


 答えに迷う。


 会いたい。


 怖い。


 聞きたい。


 でも。


 自分が出ていけば。


 相手は責められていると感じるかもしれない。


「先生が必要だと思ったら」


 と答えた。


 メリルは微笑む。


「今はそれでいいね」


「うん」


 ◇


 食堂。


 いつもの席。


 今日は。


 六人の周囲へ。


 昨日までほど生徒が集まっていなかった。


 掲示が出たことで。


 興味が薄れた者もいるのだろう。


 逆に。


 遠くから見る視線は。


 まだ残っている。


 レオンは。


 アリシアが席へ来ると。


 普通の声で挨拶した。


「おはよう」


「おはようございます」


 リーネの採点はない。


 それでも。


 レオンは。


 自分で少し考え。


「今のは、固くなかったと思う」


 と呟いた。


 シオンが。


「僕もそう思う」


 と返す。


 点数なし。


 でも。


 誰かの確認はある。


 アリシアは。


 少しだけ嬉しくなる。


「昨日の掲示」


 リーネが。


 朝食を始めてから。


 少し待って切り出した。


 以前なら。


 席につく前から手帳を開いていた。


 今は。


 皆が一口食べるまで待つ。


「夜間から今朝までの反応が、教員側へ集まっています」


「何かあった?」


 レオンが聞く。


「旧管理棟への接近は、追加で確認されていません」


 全員の肩から。


 少し力が抜ける。


「よかった」


 ミランダが。


 心から言う。


「ただし」


 リーネは続ける。


「“六番目の心臓”という呼称自体は残っています」


 シオンが。


 パンを手にしながら言う。


「消えないだろうね」


「はい」


 リーネの声に。


 少し悔しさが混じる。


「掲示の文面を読んだ上で、“仮称として使う”という生徒もいます」


「仮称……」


 アリシアは呟く。


 仮称。


 便利。


 正式ではないと理解している。


 でも。


 使い続ける。


「それも止める?」


 レオンが尋ねる。


 リーネは。


 すぐには答えない。


「規則で禁止する根拠はありません」


 少し硬い声。


「危険行動や誤情報の断定は止められます。しかし、呼び方そのものを完全に禁じることは難しい」


 昨日。


 ノアも言った。


 言葉は。


 一度広がれば完全には消せない。


「私は、嫌です」


 アリシアが言う。


 食卓が。


 少し静かになる。


「使ってほしくない。でも……使う人を全部止めるのも違うと思う」


 自分の気持ち。


 現実。


 両方。


「どうして違う?」


 シオンが尋ねる。


 責める声ではない。


 考えるための問い。


「正式じゃないって分かって。危険なこともしないなら。呼び方を選ぶのは、その人だから」


「でも、呼ばれる側は?」


 ルシアンが静かに言う。


 アリシアは。


 胸が少し痛む。


 呼ばれる側。


 存在するかも。


 意志があるかも。


 何も分からない。


「分からない」


 正直に答える。


「嫌がるかもしれない。何も感じない設備かもしれない。名前自体が届かないかもしれない」


「だから」


 ルシアンは続ける。


「私たちは、積極的には使わない」


「うん」


 それなら。


 自分たちの選択として。


 できる。


 他人の口を完全には止められない。


 でも。


 六人は。


 その名前を使わない。


 リーネが。


 手帳を開く。


「六人内の表記を統一します」


「名称未登録補助座?」


 ミランダが聞く。


「調査資料では“深部補助座”と“名称未登録補助座”を用途で分ける必要があります」


 ルシアンが。


「台帳記載を指す時は深部補助座。噂対応や一般説明では名称未登録補助座」


 と提案する。


 リーネが頷く。


「接続線のない表示との関係を述べる時は、“接続線のない表示が示した対象候補”」


「長い」


 レオンが言う。


「でも、短くしない方がいい」


 アリシアが答える。


 エマが昨日言った。


 共有語は。


 意味を決めたから短くできる。


 これは。


 意味が分からない。


 だから。


 短くしない。


「それでいきましょう」


 リーネが書く。


 ミランダが。


 少し考え。


「でも、ずっと長いまま?」


 と尋ねる。


 誰も。


 すぐには答えない。


 いつか。


 本当の名前が分かるのか。


 あるいは。


 名前自体が必要ないのか。


 分からない。


「ずっとかもしれない」


 アリシアが言った。


 ミランダは。


 少し寂しそうに。


「そっか」


 と頷いた。


 レオンが。


 パンを置く。


「俺は、名前が分からないまま終わるの、嫌だな」


 強い声ではない。


 でも。


 正直。


「呼んであげたい?」


 アリシアが尋ねる。


 レオンは。


 少し考える。


「うん。でも、前みたいに勝手につけたいとは思わない」


「じゃあ、どうしたい?」


「向こうが名前を言えるなら、聞きたい」


 素直な言葉。


「言えないなら?」


 シオンが聞く。


 レオンは。


 黙った。


 しばらく。


 パンの裂け目を見ている。


「……待つ」


 小さな声。


 アリシアの胸が温かくなる。


 以前のレオンなら。


 すぐ答えを求めたかもしれない。


 でも。


 待つ。


 言えた。


「俺、待つの苦手だけど」


 少し照れたように付け加える。


 ミランダが笑う。


「知ってる!」


 場が少し和らいだ。


 ◇


 生活基礎。


 セリア先生は。


 黒板へ。


『自分の言葉で言う前に、借りた言葉を確認する』


 と書いた。


 アリシアは。


 少し首を傾げる。


 借りた言葉。


 引用。


 噂。


 掲示。


 共有語。


 先生は。


 教室の反応を見ながら話し始める。


「誰かから聞いた言葉を、自分の言葉として別の人へ伝えることがあります」


 黒板に。


『聞いた』

『理解した』

『伝えた』


 三つの段階を書く。


「聞いた内容を、同じ意味で理解しているとは限りません」


 中央下部。


 統合。


 保持。


 聞いた。


 心臓。


 と理解した。


 六番目の心臓。


 と伝えた。


 まさに。


 今の噂。


「また、自分では“仮の呼び方”のつもりでも、聞いた人が正式名称だと思うことがあります」


 アリシアのペンが止まる。


 仮称として使う。


 それでも。


 次へ渡る時。


『仮』が落ちる。


 名前だけ残る。


「人へ渡す時は、どこまでが事実で、どこからが自分の解釈かを分けてください」


 黒板へ。


『事実』

『解釈』

『想像』


 アリシアは。


 大きく書く。


「想像を話してはいけない、という意味ではありません」


 先生は続ける。


「想像だと分かる形で話すこと。これが大切です」


 班練習。


 一つの短い記録。


『北塔の灯りが夜中に三度消えた』


 トマは。


「幽霊がいた」


 と言う。


 ミーナが。


「それは想像」


 と返す。


 メリルは。


「灯りが三度消えたのが事実。原因不明。幽霊は想像」


 と整理する。


 アリシアは。


 自分の噂へ重ねる。


「台帳に、名称未登録の補助座がある。保持、統合、復帰補助と書かれてる。これは事実」


「うん」


 メリルが頷く。


「五つを束ねる心臓みたいだ。これは解釈」


「うん」


「黒い六つ目の神器が眠ってる。これは想像」


 トマが言う。


「でも、言い方によっては、全部本当みたいに聞こえる」


「だから分ける」


 アリシアは答える。


 セリア先生が。


 近くから言う。


「今の整理は、とても良いです」


 少し間を置き。


「それを、自分の声で伝える準備はありますか」


 アリシアの胸が。


 強く鳴った。


 先生の視線は。


 優しい。


 でも。


 問いは。


 大きい。


「まだ分かりません」


 アリシアは。


 正直に答えた。


「それでいいです」


 セリア先生は。


 すぐに頷いた。


「伝える準備ができていないことも、伝えてよい状態です」


 また。


 まだ分からない。


 言っていい。


 ◇


 戦闘基礎の時間。


 六人は。


 演習室ではなく。


 学園の小講堂へ案内された。


 そこは。


 普段。


 学年単位の説明。


 委員会報告。


 少人数の講義。


 そうした場に使われる。


 演習室ほど広くはない。


 それでも。


 席は百近く。


 今日は。


 半分ほど埋まっていた。


 合同訓練を見学した生徒。


 各班の代表。


 治癒補助班。


 図書委員。


 基礎戦闘担当。


 噂に関心を持つ者。


 様々。


 アリシアは。


 入口で足が止まった。


「聞いてない」


 小さく言う。


 教務主任が。


 入口近くに立っていた。


「説明が必要になりました」


「今日?」


「はい」


「私たちが話す?」


「希望する者だけ」


 胸が。


 急に狭くなる。


 話す可能性。


 考えていた。


 でも。


 今日。


 今。


「断っても?」


「構いません」


 教務主任は。


 はっきり答えた。


「教員側だけで説明できます」


 アリシアは。


 講堂を見る。


 人。


 人。


 視線。


 まだ。


 自分へ集まってはいない。


 でも。


 六人が入れば。


 集まる。


「何を話すんですか」


 リーネが尋ねる。


 教務主任は。


 説明予定の内容を示す紙を渡す。


 一。


 名称未登録補助座に関する事実。


 二。


 未確定事項。


 三。


 立入、独自調査の禁止。


 四。


 共有語の一般化試験について。


 五。


 噂の扱い。


「六人が話す場合は」


 ルシアンが尋ねる。


「自分たちも答えを知らないこと。共有語と同じく、分からないものへ勝手な意味を置かないこと。この二点を短く」


 アリシアは。


 紙を見る。


『自分たちも答えを知らない』


 それを。


 大勢へ。


 言う。


 弱く見えるかもしれない。


 秘密を隠していると思われるかもしれない。


 嘘だと言われるかもしれない。


「私は話します」


 リーネが言った。


 迷いが少ない。


「記録上の事実整理を担当します」


 ルシアンも。


「未確定事項と、推測の区別を説明します」


 シオンは。


 少し考え。


「共有語の話なら」


 と答える。


 ミランダは。


 大勢の席を見て。


 顔を少し強張らせた。


「私、話したいけど……変なこと言いそう」


 レオンも。


「俺は立入禁止を言いたい」


 と拳を握る。


 エレナ教官が言う。


「怒鳴るな」


「分かってる」


 視線が。


 アリシアへ集まる。


 六人の内側。


 問い。


「アリシアは」


 シオンが。


 優しく。


 急かさず。


 尋ねる。


 アリシアは。


 三呼吸。


 一。


 何が事実か。


 自分は。


 正式名称を知らない。


 対象も。


 意味も。


 知らない。


 二。


 今、何が必要か。


 皆が。


 六人は答えを知っていると思っている。


 その誤解を。


 少し正す。


 三。


 どこまで話してよいか。


『私たちも、まだ分からない』


 言える。


 非公開情報には触れない。


 でも。


 怖い。


 声が震える。


 言葉が出ないかもしれない。


「私は」


 喉が。


 少し固い。


「一言だけなら」


 答えた。


 教務主任が頷く。


「内容は?」


「私たちも、まだ分からないって」


「それで十分です」


 アリシアの胸が。


 少しだけ軽くなった。


 全部を説明しなくていい。


 一言。


 でも。


 必要な一言。


 ◇


 講堂へ入る。


 ざわめき。


 視線。


 六人が前方へ並ぶ。


 教員たちが脇に立つ。


 アリシアは。


 中央ではない。


 端から二人目。


 ノアは足元。


 黒い毛並み。


 それだけで。


 視線が集まる。


「あの子だ」


「黒月の」


「六人目」


「心臓を動かしたって」


 小声。


 聞こえる。


 アリシアの指が。


 制服の裾を握りそうになる。


 止める。


 ノアの尻尾が。


 足首へ一度触れる。


 戻る。


 前を見る。


 教務主任が。


 壇上の中央へ立つ。


「本日は、古い支点台帳に関する未確認情報が広がっているため、現時点での確認事項を説明します」


 講堂が。


 少し静かになる。


 掲示と同じ内容。


 名称未登録補助座。


 正式名称未確認。


 現存状態不明。


 第六補助点との関係未確定。


『六番目の心臓』は記録上確認されない呼称。


 独自調査。


 立入禁止。


 教務主任の声は。


 硬い。


 でも。


 明確。


 生徒たちは。


 静かに聞く者。


 少し残念そうな者。


 友人へ目配せする者。


 様々。


 説明が終わる。


 次に。


 リーネ。


 壇上へ一歩。


 記録上の事実と。


 推測を分ける。


 手帳を見ず。


 話している。


 声は。


 いつもより少し硬い。


 でも。


 通る。


「台帳に確認されるのは、名称未登録の補助座です。保持、統合、復帰補助という機能記録はありますが、現在も同じ機能が存在するとは確認されていません」


 生徒たちが。


 静かに聞く。


 ルシアン。


「中央下部に位置する概念図があることから、“中枢”や“心臓”という解釈が生まれたと考えられます。しかし、それは記録上の名称ではありません」


 解釈。


 事実。


 分ける。


 シオン。


 共有語の話。


「僕たち六人が使っている言葉も、意味を共有したから短く使えます。意味を決めていないものへ短い名前をつけると、分かったつもりになる危険があります」


 少し。


 講堂の空気が変わる。


 六番目の心臓。


 格好いい名前。


 それが。


 悪意ではなく。


 意味を急いだ結果。


 そう見える。


 ミランダ。


 小さく深呼吸。


「私たちも、何回も言葉を間違えました!」


 少し声が大きい。


 エレナ教官の眉が動く。


 でも。


 止めない。


「“戻る”って言って、どこへ戻るか分からなくなったり。“支援”って言えなくて、我慢しすぎたりしました」


 講堂の何人かが。


 少し笑う。


 馬鹿にする笑いではない。


 思い当たる。


 そんな笑い。


「だから、分からない時は、分からないまま直します!」


 ミランダは。


 最後に。


 少しだけ照れた。


 拍手はない。


 でも。


 空気は柔らかくなった。


 レオン。


 一歩前へ。


 声量。


 大丈夫か。


 アリシアは。


 少し心配する。


 でも。


 彼は。


 普通の声より。


 少しだけ前へ飛ばす。


「昨日、旧管理棟へ行こうとした生徒がいた」


 講堂が。


 静かになる。


「怪我はなかった。でも、次もそうとは限らない」


 怒り。


 ある。


 でも。


 怒鳴らない。


「俺も、秘密の場所があるって聞いたら、探しに行きたくなる気持ちは分かる」


 正直。


「でも、許可のない場所へ行くのは、勇気じゃない。自分だけじゃなく、助けに行く人も危険にする」


 生徒たちの顔が。


 少し変わる。


 英雄願望。


 冒険。


 そこへ。


 現実を置く。


「だから、行かないでほしい」


 短い。


 でも。


 届く。


 レオンが下がる。


 次。


 アリシア。


 順番。


 来る。


 足が。


 動かない。


 講堂。


 多くの顔。


 知らない人。


 知っている人。


 エマ。


 トマ。


 ミーナ。


 メリルも。


 後方の席にいる。


 目が合う。


 メリルは。


 大きく頷かない。


 笑いすぎない。


 ただ。


 そこにいる。


 ノアが。


 足元で言う。


「必要な人へ」


 アリシアは。


 一歩前へ。


 講堂のざわめきが。


 少し消える。


 黒髪。


 黒猫。


 六人目。


 噂の中心。


 視線。


 胸が狭い。


 でも。


 声を。


 部屋全体へ広げなくていい。


 必要な人へ。


 ここにいる。


 答えを知りたい人たちへ。


 自分たちが秘密を隠していると思う人へ。


 大きく息を吸う。


「私たちも」


 声が。


 少し震える。


 聞こえたか。


 講堂の後ろ。


 分からない。


 でも。


 続ける。


「まだ、分かりません」


 静寂。


 アリシアの心臓が。


 大きく鳴る。


「何があるのか」


 少し。


 声を前へ。


「今もあるのか」


「何と呼ばれるものなのか」


「私が関係しているのかも」


 最後の言葉。


 講堂が。


 さらに静かになる。


 噂。


 アリシアが動かした。


 本人が。


 分からないと言う。


「全部」


 喉が。


 少し痛い。


「まだ、分かりません」


 同じ言葉。


 二度目。


 今度は。


 少し強い。


「だから」


 手が震える。


 でも。


 裾を握らない。


「分からないものを、分かった名前で呼ばないでほしいです」


 胸が。


 苦しい。


 でも。


 最後。


「危ない場所へ、答えを探しに行かないでください」


 声が。


 講堂の後ろまで。


 届いたか。


 分からない。


 それでも。


 前列の生徒。


 中ほど。


 後方。


 顔が上がっている。


 聞いている。


 アリシアは。


 頭を下げる。


 壇上から下がる。


 足が。


 少し震える。


 ノアの尻尾が。


 また足首へ触れる。


 戻った。


 六人の並び。


 ミランダが。


 小さく。


「届いたよ」


 と言う。


 アリシアは。


 返事をしない。


 今は。


 息を整える。


 ◇


 説明後。


 質問時間。


 教務主任が。


「公開可能範囲で受けます」


 と告げる。


 最初の手。


 普通科の男子生徒。


「名称未登録補助座って、結局六番目なんですか」


 教務主任。


「五主支点とは別に記録された補助座です。六番目の主支点とは確認されていません」


 二人目。


 女子生徒。


「アリシアさんが関係していないなら、どうして水晶が反応したんですか」


 講堂の視線が。


 再びアリシアへ。


 胸が固くなる。


 教務主任が答える。


「反応原因は未確認です。アリシアさんとの関係も、無関係も、どちらも確定していません」


 質問した女子生徒は。


 少し不満そう。


「でも、本人がいた時だけ出たんですよね」


 非公開に近い情報。


 どこまで。


 広がっている。


 教務主任の声が。


 少し低くなる。


「観測条件の詳細は公開していません。未確認情報を事実として扱わないでください」


 女子生徒は。


 少し肩をすくめ。


 座る。


 アリシアは。


 責められたように感じた。


 でも。


 質問。


 知りたい。


 その気持ちも分かる。


 三人目。


 エマ。


「分からないまま名前をつけない方がいいのは分かりました。でも、話す時に長すぎて困る場合は、どうすればいいですか」


 教務主任は。


 少し考え。


「現時点では“名称未登録補助座”を使用してください」


 エマが続ける。


「それは正式名称ですか」


「分類上の便宜表記です」


「じゃあ、それも仮の呼び方?」


「はい」


 講堂が。


 少しざわつく。


 何も呼べない。


 全部仮。


 困る。


 そういう空気。


 アリシアは。


 エマの質問が。


 必要だったと思う。


 教務主任が続ける。


「便宜表記であることを理解した上で、記録や説明に使用します。重要なのは、正式名称だと誤解しないことです」


 エマは頷く。


 四人目。


 背の低い一年生の男子。


 昨日の二人か。


 アリシアには分からない。


 声が震えている。


「旧管理棟へ行った二人は……退学になりますか」


 講堂が。


 静かになる。


 教務主任は。


 少し間を置く。


「処分内容は個人情報のため公開しません。ただし、重大な危険行動として指導します」


「でも、怪我はなかった」


 男子生徒が言う。


「結果に怪我がなかったことと、行動が安全だったことは別です」


 その言葉。


 重い。


 アリシアは。


 自分の訓練を思い出す。


 偶然うまくいった。


 それを。


 共有された意味。


 安全な方法。


 と思わない。


 同じ。


 男子生徒は。


 俯き。


 座った。


 ◇


 質問が終わる。


 教務主任が。


 最後に言う。


「この件について、新しい確認事項が出た場合は、掲示および授業内で周知します」


「個人への聞き取り。六人への直接質問。旧管理棟周辺への接近は控えてください」


 講堂の生徒たちが。


 少しずつ立ち上がる。


 ざわめき。


 でも。


 来た時とは違う。


「まだ分からないんだって」


「本人も知らないのか」


「六番目って決まってない」


「名前長いな」


「でも、勝手につけるなってことだろ」


「立入はやめとこう」


 全部。


 正確ではない。


 それでも。


 少し。


 変わっている。


 アリシアは。


 六人の列から動けず。


 その声を聞いていた。


「どうだった」


 シオンが尋ねる。


「何が?」


「話して」


 アリシアは。


 胸を確認する。


 水音なし。


 痛みなし。


 冷えなし。


 でも。


 疲れた。


 喉。


 熱い。


 足。


 少し震える。


「怖かった」


「うん」


「途中で、声が出なくなると思った」


「でも出た」


「うん」


「今、後悔してる?」


 アリシアは。


 少し考える。


「少し。言わなくても、先生が話してくれた」


「でも?」


「私が知らないって、自分で言えた」


 それは。


 大きい。


 誰かに代わってもらう。


 それもできた。


 でも。


 自分が。


 秘密を知っている人。


 特別な人。


 そう見られている場所で。


『分からない』


 と言えた。


 恥ずかしい。


 怖い。


 でも。


 嘘ではない。


「よかったと思う」


 アリシアは。


 最後に答えた。


 ◇


 講堂を出たところで。


 一人の男子生徒が。


 アリシアを待っていた。


 見覚えがない。


 制服の襟章。


 一年生。


 顔色が悪い。


 隣には。


 指導担当らしい先生。


 アリシアの胸が。


 少し固くなる。


「旧管理棟へ行こうとした生徒の一人です」


 先生が言う。


 男子生徒は。


 深く頭を下げた。


「すみませんでした」


 アリシアは。


 すぐに返事ができなかった。


 謝られる。


 自分へ。


 何を。


「僕たち」


 男子生徒は。


 頭を下げたまま。


「六番目の心臓を見つけたら、すごいと思って」


 声が震える。


「アリシア先輩が動かしたなら、近くに行けば見られるって」


 アリシア先輩。


 その呼び方。


 初めて。


 でも。


 今は。


 そこへ気持ちを置けない。


「誰かに言われた?」


 先生が。


 慎重に尋ねる。


 男子生徒は首を横に振る。


「何人かが話してるのを聞いて。友達と」


「私が、行っていいって言った?」


 アリシアの声は。


 少し硬くなった。


「言ってません」


「動かしたって、私が言った?」


「言ってません」


「じゃあ」


 怒り。


 少し。


 上がる。


 三呼吸。


 一。


 事実。


 自分は勧めていない。


 二。


 必要。


 相手へ危険を理解してもらう。


 三。


 境界。


 非公開情報は話さない。


「次は、噂だけで行かないでください」


 声を。


 少し柔らかくする。


「怪我がなかったのは、運がよかっただけかもしれない」


 男子生徒は。


 強く頷く。


「はい」


「私は、答えを知りません」


「はい」


「だから、あなたたちより先に、見つけてほしいとも思ってません」


 少し長い沈黙。


 男子生徒の肩が。


 小さく震える。


「ごめんなさい」


 また謝る。


 アリシアは。


 どう返せばいい。


 許す。


 自分にその権利はあるか。


 学園規則。


 危険行動。


 先生。


 処分。


 自分は。


 噂に名前を使われた。


 でも。


 直接被害を受けたわけではない。


「私に謝るだけで終わらないで」


 アリシアは言った。


 男子生徒が顔を上げる。


「先生の説明を聞いて。友達とも、どうして行ったか話して」


「はい」


「次に同じ噂を聞いた人がいたら。行かない方がいいって言ってください」


 男子生徒は。


 目を少し見開いた。


 その後。


 強く頷いた。


「分かりました」


「それなら」


 アリシアは。


 少し迷い。


「私は、もう怒り続けません」


 許す。


 とは言わない。


 でも。


 怒り続けない。


 自分の選択。


 男子生徒の目に。


 少し涙が浮かぶ。


「ありがとうございます」


 先生が。


 静かに頭を下げる。


 男子生徒と。


 廊下の向こうへ去っていく。


 アリシアは。


 その背中を見送った。


 レオンが。


 少し離れた場所から。


「よく怒鳴らなかったな」


 と呟く。


「怒鳴りたかった」


「俺なら怒鳴った」


 シオンが。


「だからレオンは後ろにいた」


 と返す。


「分かってる」


 レオンは。


 少し悔しそう。


 でも。


 否定しない。


 ルシアンが。


「次へ渡す役割をお願いしたのは、良いと思います」


 と言う。


 アリシアは。


 胸を押さえる。


 疲れた。


 でも。


 後悔は。


 少ない。


 ◇


 昼食後。


 図書館。


 六人。


 今日は。


 調査資料を開かなかった。


 接続線のない表示。


 深部補助座。


 新しい照合。


 そうしたものは。


 机の端へも置かれない。


 今日の記録。


 説明会。


 質問。


 一年生。


 それを整理する。


 リーネが。


 最初に尋ねる。


「アリシアさんの発言内容を、記録へ残してよいですか」


 アリシアは。


 少し考え。


「そのまま?」


「はい」


「私たちもまだ分からない。分からないものを、分かった名前で呼ばないでほしい。危ない場所へ行かないで」


「はい」


「残してください」


 リーネが書く。


 手帳。


 記録。


 噂より。


 短くはない。


 でも。


 残る。


「今日、分かったこと」


 ルシアンが言う。


「掲示だけでは、六人が答えを知っているという誤解までは消えなかった」


「本人の声で、知らないって言う必要があった」


 シオンが続ける。


「でも、毎回アリシアが話す必要はない」


 ミランダが言う。


「今日一回でいい?」


「少なくとも、今は」


 リーネが答える。


「追加発信は、反応を見て教員側が判断します」


 レオンは。


 机へ肘を置き。


「一年生に会った時、どう思った」


 と尋ねた。


 アリシアは。


 正直に答える。


「最初は怒った」


「うん」


「私の噂で行ったって言われて、責任を押しつけられたみたいに感じた」


「うん」


「でも、私が勧めたわけじゃないって、自分で確認したら。少し分けられた」


「許した?」


 アリシアは。


 少し迷う。


「分からない」


 また。


 まだ分からない。


「怒り続けないとは決めた。でも、危なかったことは消えない」


 ルシアンが頷く。


「許すことと、行動の危険性を忘れることは別です」


「うん」


 リーネが。


 今日の説明会について。


 反応を分類する。


『理解』

・正式名称未確認。

・六人も答えを知らない。

・立入禁止。


『残る誤解』

・六番目の補助座である。

・アリシアが反応を起こした。

・黒月と接続している。


『新しい懸念』

・名称未登録補助座を、別の仮称で呼ぶ動き。

・六人への直接質問。

・台帳内容の過剰解釈。


「完全には消えない」


 リーネの声に。


 まだ悔しさ。


 アリシアは。


 昨日のノアの言葉を思い出す。


「別の記録を残す」


 リーネが顔を上げる。


「噂を消せなくても。説明会の記録と、掲示を残す」


「はい」


「次に調べる人が、両方見られるように」


 司書が。


 少し離れた席から言う。


「そのための図書館です」


 全員が見る。


「噂は、書かれなくても残ります。記録は、書かなければ残りません」


 静かな言葉。


「正確な記録が、必ず勝つとは限りません」


 厳しい現実。


「ですが、残さなければ、後の人は噂しか選べません」


 アリシアの胸へ。


 深く入る。


 空欄を守る。


 同時に。


 正しい記録を置く。


「今日の説明会記録」


 アリシアが言う。


「図書館に残せますか」


「教務記録として保存されます。公開範囲を整理した後、閲覧可能記録にも写しを置く予定です」


「私の言葉も?」


「許可があれば」


「お願いします」


 アリシアは答えた。


 自分の声。


 講堂で。


 震えた。


 そのまま。


 記録へ。


 完璧ではない。


 でも。


 自分が知らないと言った事実。


 残す。


 ◇


 夕方。


 メリルは。


 中庭の入口で待っていた。


 アリシアを見ると。


 すぐには声をかけず。


 少しだけ。


 顔を見た。


「疲れた?」


「うん」


「話した?」


「うん」


「聞こえたよ」


 アリシアは。


 足を止める。


「講堂にいた?」


「後ろの方」


「声、届いた?」


「うん。最初は少し震えてた。でも、二回目の“まだ分かりません”は、すごく聞こえた」


 胸が。


 少し熱くなる。


「知らないって言うの、怖かった」


「うん」


「秘密を持ってるのに隠してるって、思われるかもって」


「私は思わなかった」


「どうして?」


「本当に分からない顔だったから」


「顔……」


「それと、アリシアちゃんは、分からない時に分かったふりしないって知ってる」


 メリルは。


 静かに笑う。


「だから信じられた」


 信じられた。


 その言葉。


 名前を呼ぶ権利。


 権利というより。


 信頼。


 ノアが言った。


 分からないと言うことも。


 信頼へ繋がる。


「一年生に会った」


 アリシアは話す。


 謝られたこと。


 怒ったこと。


 噂だけで行かないでと言ったこと。


 次の人へ。


 行かない方がいいと伝えてほしいと頼んだこと。


 メリルは。


 最後まで聞いた。


「許した?」


 皆。


 同じことを聞く。


「まだ分からない」


 アリシアは答える。


「でも、怒り続けない」


「それでいいと思う」


「許さないと悪い?」


「そんなことない」


「でも、謝ってた」


「謝ったら、すぐ許される権利がもらえるわけじゃないよ」


 アリシアは。


 少し目を開く。


「権利じゃない?」


「うん。謝るのは、その人がやること。許すかどうかは、アリシアちゃんが決めること」


 名前と。


 似ている。


 つける側。


 呼ばれる側。


 謝る側。


 許す側。


 片方だけでは決まらない。


「でも、ずっと怒るのも疲れる」


「うん」


「だから、怒り続けないって決めたの、よかったと思う」


 夕方の風。


 少し冷たい。


 二人の髪を揺らす。


「今日、私」


 アリシアは。


 少し照れながら言う。


「大勢の前で、まだ分からないって言った」


「うん」


「変じゃなかった?」


「全然」


「頼りなく見えなかった?」


「むしろ、ちゃんとして見えた」


「どうして?」


「分からないのに、知ってるふりする人より」


 メリルは。


 少し考え。


「ずっと安心できる」


 アリシアの胸に。


 温かなものが広がる。


 ◇


 夜。


 練習帳。


 今日の頁。


 アリシアは。


 朝から。


 ゆっくり書く。


『朝、掲示について話す生徒を聞いた』


『訂正したかったが、危険行動ではなく、私が出ることで相手を恥じさせる可能性があったため、言わなかった』


『配慮だけではなく、自分が怖かった気持ちもある』


 食堂。


『六人内では、噂名を使用しない』


『台帳記載を指す時は深部補助座。一般説明では名称未登録補助座。接続線のない表示との関係は長くても正確に説明する』


『意味が分からないため、短くしない』


 生活基礎。


『聞いた。理解した。伝えた。三つは同じではない』


『事実、解釈、想像を分ける』


 講堂。


 ペンが。


 少し止まる。


 自分の言葉。


 そのまま書く。


『私たちも、まだ分かりません』


『何があるのか。今もあるのか。何と呼ばれるものなのか。私が関係しているのかも、まだ分かりません』


『分からないものを、分かった名前で呼ばないでほしいです』


『危ない場所へ、答えを探しに行かないでください』


 書きながら。


 胸が。


 また少し狭くなる。


 でも。


 今度は。


 講堂の視線ではない。


 記録の中。


 自分の声。


 もう一度。


 受け取る。


『声は震えた。喉が熱かった。足も少し震えた』


『それでも、言えた』


 質問。


 一年生。


『旧管理棟へ行こうとした生徒の一人から謝罪を受けた』


『私が動かしたという噂を聞き、近くへ行けば見られると思った』


『私は勧めていない。動かしたとも言っていない。そこを確認した』


『噂だけで行かないこと。次に同じ噂を聞いた人へ、行かない方がよいと伝えることをお願いした』


『許したかはまだ分からない』


『ただし、怒り続けないと決めた』


 図書館。


『噂は書かなくても残る。記録は書かなければ残らない』


『正確な記録が必ず勝つとは限らない。でも、残さなければ後の人は噂しか選べない』


 アリシアは。


 その一文を。


 大きく囲む。


 ノアが机へ跳び乗る。


 今日は。


 すぐに点数を聞かなかった。


 ノアも。


 すぐには言わない。


 練習帳。


 アリシア。


 交互に見る。


「どうだった?」


 アリシアが尋ねる。


「何が」


「今日の私」


「疲れてる」


「点数は?」


「百点」


 少し。


 予想していた。


 それでも。


 嬉しい。


「どうして?」


「大勢の前で話したから、ではない」


「違うの?」


「話さない選択もできた。断ってもよかった」


「うん」


「それでも、必要を見て一言だけ選んだ」


「うん」


「一年生を、噂を作った悪者の代わりにしなかった」


「怒った」


「怒っていい」


「許せなかった」


「まだ決めなくていい」


「うん」


「それと」


 ノアは。


 前足を練習帳へ置く。


「自分が知らないと、他人へ見せられた」


 アリシアは。


 少し目を伏せる。


「恥ずかしかった」


「なぜ」


「六人目なのに。黒月の契約者なのに。何も知らないみたいで」


「何も知らないの?」


「少しは知ってる」


「では、知っていることと、知らないことを分けた」


「うん」


「それは恥ではない」


 ノアの声。


 静か。


 強い。


「今日の百点は、分からない自分を隠さなかった点数」


 胸が。


 温かくなる。


「ありがとう」


「礼はいい」


「でも、言いたいから」


「知ってる」


 ノアは。


 最後の余白を見る。


「書くなら?」


 アリシアは。


 講堂。


 静寂。


 自分の声。


『まだ分かりません』


 その後。


 生徒たちの会話。


『本人も知らないんだ』


 それは。


 少し寂しい。


 でも。


 嘘ではない。


 ペンを持つ。


『分からないと声にすることは、答えを諦めることではない』


 ノアが頷く。


 続ける。


『知らない場所を、知らないまま一緒に見るための言葉』


 少し考え。


 もう一行。


『私は今日、答えではなく、空欄をみんなの前へ置いた』


 ノアの金色の瞳が。


 少し細くなる。


「いいわね」


 アリシアは。


 最後に。


 さらに書いた。


『それでも逃げずに見てくれる人がいるなら、いつか一緒に名前を待てるかもしれない』


 ノアは。


 少し長く黙った。


 アリシアは。


 その沈黙へ。


 答えを入れない。


 待つ。


「一緒に待つ人は、増えたわね」


 やがて。


 ノアが言った。


「うん」


「なら、今日は眠りなさい」


 アリシアは練習帳を閉じた。


 夜。


 静か。


 水音なし。


 白い表示なし。


 名前のないものから。


 返事もない。


 でも。


 今日。


 講堂には。


 アリシアの声が残った。


『まだ分かりません』


 答えではない。


 物語でもない。


 格好いい名前でもない。


 ただ。


 空欄を空欄として。


 大勢の前へ置いた言葉。


 それを。


 何人が受け取ったか。


 分からない。


 明日になれば。


 また。


『六番目の心臓』


 と呼ぶ人がいるかもしれない。


 黒い中枢。


 影の核。


 新しい名前が。


 増えるかもしれない。


 それでも。


 今日の記録も残る。


 正式名称は未確認。


 六人も答えを知らない。


 危険な場所へ行かない。


 まだ分からない。


 その言葉も。


 誰かへ渡る。


 アリシアは灯りを落とす。


 寝台へ入る。


 足元へ。


 ノア。


「ノア」


「何?」


「今日、私の声。後ろまで届いてた?」


「届いていた」


「本当に?」


「ええ」


「どうして分かるの」


「最後列の生徒が、あなたの二度目の“まだ分かりません”で顔を上げた」


 アリシアの胸が。


 少し熱くなる。


「見てた?」


「あなたではなく、周りを」


「どうして?」


「あなたの声が届いたか確認するため」


 ノアは。


 当然のように言った。


 アリシアは。


 目の奥が少し熱くなる。


「ありがとう」


「礼はいい」


「でも、言いたいから」


「知ってる」


「おやすみ、ノア」


「おやすみ、アリシア」


 互いの名前。


 受け取った呼び方。


 確かな声。


 それを最後に。


 アリシアは目を閉じた。


 まだ分からないものを。


 分からないまま。


 けれど。


 一人ではなく。


 多くの人と。


 待ち始めた夜だった。

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