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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第70話 空欄を守る言葉


 翌朝。


 アリシアは、扉の外から聞こえた一つの言葉に、制服の襟を整える手を止めた。


「――六番目の心臓、らしいよ」


 廊下を通り過ぎていく声だった。


 男子生徒が二人。


 足音は速く、話し声にも深い意味はなさそうだった。


 誰かから聞いた話を。


 少し面白そうだから、別の誰かへ渡している。


 その程度の軽さ。


「学園の地下にあるんだって」


「何それ。結界の心臓?」


「五つの神器をまとめる、秘密の六つ目。黒いやつ」


「じゃあ、あの黒髪の子が動かしたって話、本当なんだ」


 二人の声は、廊下の角を曲がり。


 すぐに聞こえなくなった。


 部屋の中へ。


 静けさが戻る。


 アリシアは。


 襟へ添えた指を動かせないまま。


 閉じた扉を見つめていた。


 六番目の心臓。


 そんな言葉は。


 台帳にはなかった。


 教務主任も言っていない。


 司書も。


 先生たちも。


 六人も。


 誰も使っていない。


 深部補助座。


 登録名は空欄。


 機能は。


 保持。


 統合。


 復帰補助。


 五主支点の中央下部に描かれていた。


 公開を許された情報は。


 名称未登録の補助座が存在したこと。


 保持、統合、復帰補助という機能。


 第六補助点との同一性は未確認。


 それだけ。


 呼称未承認は非公開。


 接続線のない『在』との詳細な比較も非公開。


 ノアの知る古い言葉も。


 話してはいけない。


 それなのに。


 誰かが。


 空欄へ名前を入れた。


『六番目の心臓』


 分かりやすい。


 五つをまとめる中央下部。


 保持。


 統合。


 心臓と呼びたくなる気持ちは、分からなくもない。


 だからこそ。


 怖かった。


 分かりやすい呼び方は。


 意味を強く固定する。


 人は、長い説明より短い名前を覚える。


 やがて。


 深部補助座という記録より。


 六番目の心臓という噂の方が、正しいものとして残るかもしれない。


「朝から、随分と不愉快そうな顔ね」


 ノアが言った。


 黒猫は机の上に座り。


 アリシアを見ていた。


「聞こえた?」


「ええ」


「六番目の心臓って」


「趣味の悪い名前」


 ノアは迷いなく切り捨てた。


「でも、広がりそう」


「広がるでしょうね」


「止めないと」


 言った瞬間。


 胸が少し強くなる。


 止める。


 誰かへ違うと言う。


 本当の情報を説明する。


 でも。


 どこまで。


「どうやって?」


 ノアが尋ねる。


 アリシアは答えられなかった。


「六番目の心臓じゃないって言う」


「では、何なの?」


「深部補助座」


「それも登録上の便宜的な呼び方でしょう」


「うん」


「第六補助点?」


「同じか分からない」


「接続線のない表示?」


「それは話せない」


「呼称未承認?」


「もっと話せない」


 言えることが少ない。


 違うと言うには。


 何が正しいのか示さなければ、噂は止まらないかもしれない。


 けれど。


 正しい名前は。


 まだない。


 空欄。


 未登録。


 未確認。


 それを守るために。


 どんな言葉を使えばいい。


「分からないものを守るのは、答えがあるものを守るより難しいわ」


 ノアが言った。


 アリシアは、ゆっくり机へ向かう。


 練習帳を開いた。


『朝、廊下で「六番目の心臓」という噂を聞いた』


『五つの神器をまとめる地下の秘密設備。黒いもの。私が動かした、と話していた』


 書く手に。


 少し力が入る。


『事実ではない。少なくとも、台帳に「六番目の心臓」という名称はない』


『ただし、正しい名前も分からない』


『止めたい。でも、非公開情報を話さず、何を伝えればよいか分からない』


 ノアが頁を覗く。


「怒ってる?」


「少し」


「誰に」


「勝手に名前をつけた人」


「誰か分かる?」


「分からない」


「なら、まだ誰かへ怒りを貼りつけない」


 アリシアは、少し息を吐いた。


 噂を作った人。


 悪意があったとは限らない。


 公開された情報を聞き。


 中央下部。


 統合。


 保持。


 そこから。


 心臓と呼んだだけかもしれない。


「でも、嫌」


「嫌でいい」


「空欄を、勝手に埋められたみたい」


 ノアの耳が。


 わずかに動いた。


「それは記録しておきなさい」


 アリシアは書く。


『感情:空欄を勝手に埋められたようで嫌だった』


 少し迷い。


 もう一行。


『でも、噂を作った人が悪意を持っていたとは決めない』


 胸の奥は。


 静かだった。


 水音もない。


 痛みも。


 冷えも。


 ただ。


 不快感。


 怒り。


 焦り。


 それらは。


 反応ではない。


 自分の感情。


「今日は何をする?」


 ノアが尋ねる。


「先生に報告する」


「それだけ?」


「六人にも話す」


「その後」


 アリシアは考える。


 噂を否定する。


 でも。


 正解を教えられない。


「何が分かっていて、何が分かっていないかを話せる範囲で整理する」


「よろしい」


「点数は?」


「九十七点」


「低い」


「廊下へ飛び出して、二人を止めようとした」


「してない」


「心の中で三歩は出てた」


「心の中の歩数まで数えるの?」


「当然」


 アリシアは少しだけ笑った。


 怒りが。


 完全には消えない。


 でも。


 形が変わる。


 誰かを追いかけるより。


 まず。


 伝えられる事実を整理する。


「背筋」


 ノアが言う。


 アリシアは鏡の前へ立ち。


 背筋を伸ばした。


「今日は、間違った名前を消すんじゃなくて」


 自分へ言い聞かせる。


「空欄が空欄である理由を、話せる範囲で守る」


「理由までは話せないでしょう」


「……じゃあ」


 少し考える。


「空欄であることを守る」


 ノアは頷いた。


「それならいいわ」


 ◇


 扉を開ける。


 廊下。


 メリル。


 いつもの朝。


 けれど。


 メリルの表情は、少し曇っていた。


「おはよう、アリシアちゃん」


「おはよう、メリルさん」


 返事をした後。


 メリルは周囲を少し確認した。


 近くを通る生徒はいない。


 それでも。


 声を落とす。


「変な噂、聞いた?」


「六番目の心臓?」


 メリルの目が少し開く。


「もう聞いたんだ」


「扉の外で」


「昨日の夕方くらいから、少し出てたみたい」


 昨日。


 台帳を読んだのは昼過ぎ。


 公開情報は。


 その日のうちに、どこかへ伝わった。


 先生から生徒へ。


 訓練関係者。


 図書委員。


 見学者。


 どこから広がったのかは分からない。


「メリルさんは、誰から?」


「寮の子。学園の地下に、五つの神器を束ねる六つ目の中枢があるって」


「中枢?」


「それを、誰かが心臓って呼び始めたみたい」


 アリシアは。


 少し唇を噛みそうになり。


 止める。


「違う」


「うん」


「台帳には、そんな名前なかった」


「じゃあ、何て書いてあったの?」


 普通の質問。


 メリルは。


 知りたいだけ。


 でも。


 話してよい範囲。


 アリシアは一度、頭の中で確認する。


「名称未登録の補助座。機能は、保持、統合、復帰補助」


「深部補助座っていうのは?」


「記録上の分類みたいなもの。正式な名前かは分からない」


「心臓ではない?」


「少なくとも、記録にはない」


 メリルはゆっくり頷いた。


 その後。


「でも、心臓みたいって思う人はいるかもね」


「うん」


「五つをまとめて。中央の下にあって。支えるなら」


「分かる」


 分かるから。


 余計に嫌。


「アリシアちゃんは、何が一番嫌だった?」


 メリルが尋ねる。


 アリシアは。


 昨日の空欄。


 初期登録時から空欄だった名称欄。


 呼称未承認。


 話せない情報。


 それらを胸へ置く。


「名前がないものに、勝手に名前をつけたこと」


「名前がないって、みんなは知らないんだよね」


「公開情報では、名称未登録までは話していい」


「じゃあ、“名前がないから勝手につけないで”って言える?」


 言える。


 でも。


 それだけで止まるか。


 分からない。


「言えると思う」


「先生と相談してから?」


「うん」


 メリルは。


 少し歩いた後。


「私は、六番目の心臓って聞いた時」


 と話し始めた。


「少し格好いいと思った」


 アリシアは。


 思わず足を止めた。


 メリルも止まる。


「怒った?」


「……少し驚いた」


「ごめん」


「謝らなくていい」


 本当に。


 謝らせたくはない。


「どうして格好いいと思ったの?」


「五つをまとめる、隠された心臓。物語みたいだから」


「うん」


「でも、アリシアちゃんの話を聞いたら。空欄へ勝手に入れた名前なんだって分かった」


 メリルは。


 言い訳をしない。


 最初に感じたことを。


 そのまま話した。


「だから、噂してる人も、悪くしようとしてるとは限らないと思う」


「うん」


「ただ、物語みたいで覚えやすかった」


 分かりやすい名前。


 広がる理由。


 悪意より。


 魅力。


「正しい説明は、長い」


 アリシアが言う。


「名称未登録の補助座。保持、統合、復帰補助。第六補助点と同じか未確認」


「長いね」


「でも、短くすると違う意味になる」


「じゃあ、全部言わなくても。“まだ名前は決まっていない”だけ伝えるのは?」


 アリシアは。


 その言葉を考える。


『まだ名前は決まっていない』


 簡単。


 短い。


 非公開情報にも触れない。


 何であるかを断定しない。


 でも。


 空欄を守れる。


「それなら、言えるかも」


「うん」


「ありがとう」


「私は、思ったことを話しただけ」


 メリルは歩き出す。


 アリシアも隣へ。


 足元のノアが言う。


「悪くないわね」


 メリルが笑う。


「ノアちゃんから褒められた」


「まだ採用とは言ってない」


「厳しい」


 アリシアの胸の中に。


 一つの候補が置かれた。


『まだ名前は決まっていない』


 噂を完全に否定する言葉ではない。


 でも。


 空欄へ線を引く言葉。


 ◇


 食堂。


 いつもの席へ向かう途中。


 アリシアは。


 周囲の声を拾わないようにしようとした。


 でも。


 完全には無理だった。


「六番目の心臓」


「地下」


「黒い神器」


「六人目」


 短い言葉が。


 幾つも聞こえる。


 すべてが自分へ向けられているわけではない。


 それでも。


 胸の奥へ小さく刺さる。


 いつもの席へ着くと。


 五人の顔も。


 少し硬かった。


「聞いた?」


 シオンが最初に尋ねる。


「うん」


「六番目の心臓」


「うん」


 ミランダは。


 頬を少し膨らませていた。


「勝手に名前つけるの、だめだよ!」


 声が大きい。


 近くの席が。


 一瞬こちらを見る。


 ミランダは口を押さえた。


 レオンも。


 普段より静かだった。


「俺も、最初聞いた時は格好いいと思った」


 と言う。


 アリシアは。


 メリルと同じだと思った。


「でも、昨日の台帳を見た後だと……違う」


 レオンは拳を握る。


「空欄だったんだ。何も書かれてなかったんじゃなくて、書かなかった場所なのに」


 非公開情報へ触れそうになる。


 アリシアは。


 レオンを見る。


 彼も気づいた。


 言葉を止める。


 周囲には聞こえていない。


「ごめん」


 小さな声。


「大丈夫」


 アリシアも小さく返す。


 リーネは。


 いつもより長く黙っていた。


 手帳も開かない。


 パンにも触れない。


 ルシアンが尋ねる。


「何を考えていますか」


 リーネは。


 視線を上げる。


「公開範囲の設定が不十分でした」


「リーネさんのせいじゃない」


 アリシアがすぐに言う。


「公開情報から推測できる呼び名でした」


「ですが、名称未登録という情報だけでは、空欄の扱いまで伝わりません」


 言えること。


 言えないこと。


 その境界が。


 逆に。


 噂を生んだ。


「全部話せば、止まる?」


 シオンが言う。


 誰もすぐには答えない。


 呼称未承認。


 呼び方が承認されなかった。


 それを話せば。


 勝手な命名は止まるかもしれない。


 でも。


 好奇心を煽る。


『何という名前なら承認されるのか』


『自分が名づけたい』


『呼びかければ返事が来る』


 そう考える者が出るかもしれない。


「止まらないと思う」


 アリシアが言った。


 五人が見る。


「呼称未承認まで話したら、試したくなる人が出る」


 声を落とす。


 周囲へ聞こえないように。


「自分の名前なら認めてもらえるって」


 シオンが。


 少し顔をしかめた。


「いるね」


「絶対いる!」


 ミランダが。


 今度は声を抑えて言う。


 レオンも苦い顔。


「俺も、昔なら考えたかもしれない」


 正直な言葉。


「名前をつけて、反応したら英雄みたいだ」


 ルシアンが静かに続ける。


「善意でも試す者が出るでしょう。呼ばれていないなら、呼んであげたいと」


 アリシアの胸が。


 少し痛む。


 自分も。


 呼んであげたいと思った。


 六人で。


 正しい名前を。


 それは。


 善意だった。


 でも。


 相手の望みを知らない。


「では」


 リーネが。


 ようやく手帳を開く。


 ただし。


 食堂の机の上ではなく。


 膝の上。


 周囲から見えないように。


「公開可能情報だけで、誤命名を抑える文面を作る必要があります」


「文面?」


 レオンが聞く。


「掲示?」


「教員側の判断次第です。少なくとも六人で案を作り、報告します」


 アリシアは。


 メリルの言葉を出す。


「“まだ名前は決まっていない”」


 全員が。


 少し考える。


 ルシアンが頷く。


「良いと思います」


 シオンも。


「否定しすぎない。新しい名前も出さない」


 ミランダが言う。


「勝手につけないで、も入れたい」


「強くない?」


 レオンが尋ねる。


「でも嫌だって伝えたい!」


 リーネは。


 膝の上へ短く書く。


『名称未登録の補助座について、現在調査中です。正式な名称、機能、現存状態は確定していません。便宜的な呼称が事実として定着する可能性があるため、独自の命名や呼びかけは控えてください』


 長い。


 でも。


 必要な情報はある。


 アリシアは読む。


「呼びかけは控えて、って話していい?」


 リーネの筆が止まる。


 呼びかけ試験禁止。


 それは。


 教員から六人へ出た指示。


 一般生徒が呼びかける可能性。


 まだ。


 公に話していない。


 ルシアンが言う。


「呼びかけという言葉自体が、反応する対象だと示すかもしれません」


「じゃあ、独自の命名や接触を控えて?」


 シオンが提案する。


「接触も、地下に何かあるって印象を強める」


 レオンが悩む。


「何もするな、だけじゃ駄目か?」


 ミランダが言う。


「怖い先生みたい」


 話が。


 少しずつ散る。


 アリシアは。


 皆の言葉を聞きながら。


 パンへ視線を落とした。


 まだ食べていない。


 ノアの尻尾が。


 椅子の上で一度動く。


「一度食べなさい」


 小さな声。


 アリシアは頷く。


「朝食を食べてから、先生に相談しよう」


 と言った。


 リーネが。


 少し間を置き。


 手帳を閉じる。


「はい」


 皆も。


 それぞれパンやスープへ戻る。


 噂は。


 今すぐ消えない。


 文面も。


 今ここで完成させなくていい。


 アリシアはパンをちぎる。


 少し硬い。


 力を入れすぎて。


 片側が大きく裂けた。


 ノアが言う。


「八十九点」


「低い」


「噂を今朝のうちに完全に止めようとした」


「うん」


「でも食事へ戻ったから、八十九」


「戻らなかったら?」


「七十点」


「厳しい」


「今はパン」


 アリシアは。


 少し形の崩れたパンを口へ運んだ。


 ◇


 生活基礎。


 セリア先生が黒板へ書いた言葉は。


『訂正は、相手を恥じさせるためにしない』


 教室の空気が。


 少し静かになる。


 アリシアは。


 朝から聞いた噂を思い出す。


 六番目の心臓。


 間違い。


 訂正したい。


 でも。


 それを言った人たちへ。


 馬鹿にするな。


 勝手に呼ぶな。


 そんなふうに強く言えば。


 噂は止まるかもしれない。


 あるいは。


 反発され。


 もっと面白がられるかもしれない。


 セリア先生は。


 生徒たちをゆっくり見渡した。


「誰かが、事実と違うことを話している時。訂正が必要な場合があります」


 黒板へ二つの文を書く。


『それは間違いです』

『現時点では、そう確認されていません』


「どちらも、内容によっては同じ訂正になります」


 アリシアは。


 二つを見比べる。


 一つ目。


 強い。


 明確。


 二つ目。


 余白がある。


 今は確認されていない。


 将来も違うとは限らない。


「相手を責めることと、情報を直すことは別です」


 先生は続ける。


「知らなかった。聞いた話を信じた。分かりやすい表現へ変えた。誤りが生まれる理由はいくつもあります」


 悪意と決めない。


 今朝。


 書いたこと。


「訂正の目的は、相手を恥じさせることではありません。次に渡る情報を、少し正確にすることです」


 アリシアは。


 大きく書く。


『訂正は、次に渡る情報を正確にするため』


「ただし」


 セリア先生が。


 チョークを置く。


「話してはいけないことまで明かして、訂正する必要はありません」


 教室の中で。


 アリシアの指が止まる。


「秘密を守りながら訂正することは、難しいです」


 先生は。


 少し間を置いた。


「その場合は、何が違うかではなく。何が確認されていないかを伝える方法があります」


 現時点で。


 正式な名前は確認されていない。


 機能も。


 現存状態も。


 同一性も。


 確認されていない。


 それなら言える。


「分からないことを、分からないと伝える。それも訂正です」


 アリシアは。


 胸の奥に。


 一本の線が引かれるのを感じた。


 班練習。


 題材は。


『友人が、まだ確定していない試験結果を合格したと話している』


 トマが言う。


「落ちてたら恥ずかしいから、やめろって言う」


 ミーナが。


「それだと、もう落ちてるみたいじゃない?」


 と返す。


 メリルは。


「まだ結果は出てないよ、でいいと思う」


 アリシアも頷く。


「合格じゃない、じゃなくて。合格したとはまだ分からない」


「同じようで違うね」


 メリルが言う。


 アリシアは。


 今朝の噂へ重ねる。


「六番目の心臓じゃない、って言うより」


 小さく。


 自分の班だけに聞こえる声で。


「正式な名称は、まだ確認されてない」


 メリルが。


 静かに頷いた。


 セリア先生は。


 離れた場所にいた。


 けれど。


 聞こえていたらしい。


「その言い方なら、空欄を勝手に別の答えへ埋めません」


 と、穏やかに言った。


 ◇


 戦闘基礎。


 六人が演習室へ入ると。


 エレナ教官と教務主任が。


 すでに待っていた。


 今日の訓練用魔導人形は。


 一体もない。


 床にも。


 配置円は置かれていない。


 代わりに。


 机が一つ。


 その上へ。


 数枚の紙。


 朝の噂は。


 すでに教員側へ届いている。


 そう分かった。


「報告」


 エレナ教官が言う。


 アリシアは。


 朝聞いた内容を。


 できるだけそのまま話した。


 六番目の心臓。


 五つを束ねる秘密の中枢。


 黒い神器。


 アリシアが動かした。


 メリルから聞いた別の形。


 学園地下。


 中央装置。


 五つを統合。


 リーネが。


 食堂で作りかけた文面を教務主任へ渡す。


 教務主任は。


 最後まで読み。


 紙を机へ戻した。


「早かったですね」


 ルシアンが言う。


「噂の広がりですか」


「はい」


「昨日の夕刻、名称未登録の補助座に関する簡易報告が、関係授業の担当者へ共有されました」


 教務主任は。


 少し疲れたように息を吐いた。


「その中の“五主支点の中央下部”“統合”“保持”という情報が、複数の生徒へ伝わったようです」


「漏洩ですか」


 リーネが尋ねる。


「公開可能情報です。漏洩ではありません」


「でも、名前がついた」


 アリシアが言う。


「はい」


「止められますか」


 教務主任は。


 すぐに答えなかった。


「完全には難しいでしょう」


 胸が沈む。


「でも、訂正はできる?」


「できます」


 教務主任は。


 別の紙を出した。


 そこには。


 教員側の掲示案。


『名称未登録補助座に関する注意』


『現在、古い台帳に記録された補助座について調査を行っています。正式名称、現在の所在、機能状態、既存設備との同一性はいずれも確定していません。「六番目の心臓」等の呼称は記録上確認されておらず、便宜的な噂名です。未確認情報を事実として扱わないでください』


 アリシアは。


 ゆっくり読む。


 必要なこと。


 全部。


 入っている。


 秘密はない。


 呼称未承認も。


 接続線のない『在』も。


 呼びかけ禁止も。


 書かれていない。


「これを掲示するんですか」


「本日中に」


「私たちの名前は?」


「出しません」


 少し安心する。


 自分たちが訂正した。


 そう見られれば。


 噂を嫌っている。


 何か隠している。


 そう思われるかもしれない。


「でも」


 ミランダが。


 少し不安そうに紙を見る。


「“六番目の心臓”って文字を掲示したら、もっと広がらない?」


 全員が。


 少し黙る。


 確かに。


 知らなかった生徒まで。


 掲示で知る。


 教務主任は頷く。


「その危険はあります」


「じゃあ、書かない方が」


 レオンが言いかける。


 シオンが。


「でも、書かなかったら訂正だと分からない」


 と続ける。


 名前を出せば広がる。


 出さなければ止められない。


 難しい。


 ルシアンが紙を見ながら言う。


「噂名を大きく扱わず、本文の中で一度だけ示す」


 リーネが頷く。


「見出しには入れない」


「現在の案も、見出しは名称未登録補助座です」


 教務主任が答える。


 アリシアは。


 紙の最初を見る。


 正式名ではない。


 分類。


 状態。


「私は、この文でいいと思います」


 アリシアが言った。


 全員が見る。


「噂名を隠したら、その名前を使ってる人は、自分の話が違うって気づけない」


 少し間を置く。


「でも、噂を言った人が悪いって書いてない。記録にない。まだ確定してないって書いてある」


 教務主任は頷く。


「訂正の目的は、発信者を罰することではありません」


 生活基礎と同じ。


「ただし」


 エレナ教官が。


 低く言う。


「掲示が出た後、お前たちへ直接聞きに来る者が増える」


 胸が固くなる。


「答える範囲を決める」


 リーネが即座に言った。


「はい」


 教務主任は。


 六人へ、一枚ずつ小さな紙を配る。


『応答例』


 一。


「正式名称は未確認です」


 二。


「第六補助点との関係も調査中です」


 三。


「公開されている以上の情報は話せません」


 四。


「独自調査や立入は禁止されています」


 最後の一文。


 独自調査。


 立入禁止。


 これは。


 噂が広がれば。


 地下へ行こうとする者が出る可能性を想定している。


「もう、行こうとしてる人がいますか」


 アリシアが尋ねる。


 教務主任は。


 少しだけ視線を落とした。


「昨夜、旧管理棟周辺で一年生二名が見つかりました」


 演習室の空気が。


 冷える。


「何を」


 レオンの声が低くなる。


「六番目の心臓を探していたそうです」


 ミランダが息を呑む。


 シオンの表情から。


 いつもの薄い笑いが消える。


 リーネは。


 手帳を開かない。


 ルシアンが静かに尋ねる。


「負傷は」


「ありません。立入制限区域へ入る前に発見されました」


 安心。


 でも。


 胸の奥へ。


 強い怒りが生まれる。


 面白半分。


 英雄願望。


 善意。


 何であっても。


 危ない。


 呼びかける。


 探す。


 名前をつける。


 勝手に。


「私が動かしたって噂が」


 アリシアは。


 自分の声が少し震えるのを感じた。


「行けば、自分も動かせるって思わせた?」


「可能性はあります」


「私が悪い?」


 言った瞬間。


 エレナ教官が。


 強く言った。


「違う」


 演習室へ。


 短い声が響く。


「お前は許可された調査で、指示に従った。再試験もしていない。立入を勧めてもいない」


「でも、噂に私の名前が」


「噂を作った責任と、噂の中に名前を使われた者の責任を混同するな」


 厳しい。


 でも。


 胸へ届く。


「二名の行動は、二名と監督側の問題だ」


「はい」


「お前が背負うな」


「はい」


 アリシアは。


 息を吸う。


 吐く。


 怒り。


 怖さ。


 罪悪感。


 全部ある。


 でも。


 自分の責任ではない。


 だからといって。


 何もしなくていいわけでもない。


「掲示を出してください」


 アリシアが言った。


「はい」


「独自調査と立入禁止も、目立つように」


「その予定です」


「それと」


 言葉が。


 少し詰まる。


 自分が言うべきか。


 迷う。


「私たち六人からも、何か言った方がいいですか」


 教務主任は。


 すぐに否定しなかった。


「何を言いたいですか」


 アリシアは考える。


『勝手に名前をつけないで』


『地下へ行かないで』


『私が動かしたわけじゃない』


 全部。


 感情。


 事実。


 必要。


 でも。


 六人の立場で。


 どこまで。


「まだ分からないものを、面白い名前で決めないでほしい」


 声に出す。


「危ない場所へ行かないでほしい」


「他には」


「私たちも、答えを知らない」


 その言葉。


 教務主任の表情が。


 少し変わる。


「それは重要です」


「でも、言ったら頼りないと思われる?」


 レオンが聞く。


 教務主任は首を横に振る。


「分からないことを分からないと示すのは、調査者の責任です」


 リーネが。


 ゆっくり頷く。


「六人が秘密を知り、答えを隠しているという印象を減らせます」


 シオンが言う。


「逆に、全部知ってると思われてるのか」


「可能性は高いです」


 ルシアンが。


 少し考え。


「掲示とは別に、次回の合同訓練公開時に、短く説明する方法があります」


「訓練公開時?」


「すでに私たちの共有語へ注目が集まっています。人が集まる場所で、教員の監督下に説明する」


 ミランダが言う。


「みんなの前で?」


 少し不安そう。


 アリシアも。


 怖い。


 大勢。


 自分の声。


 でも。


 昨日。


 届いたと言われた。


 必要な人へ向ける声。


「今日すぐじゃなくていい」


 教務主任が言う。


「まず掲示。反応を確認します」


 少し安心。


 それでも。


 いつか。


 自分たちの口から。


 知らないと言う。


 空欄を守る。


 その必要が来るかもしれない。


 ◇


 本来の戦闘基礎。


 今日の訓練は。


 噂対応の話が長くなったため。


 短いものへ変更された。


 六人は。


 声を使わず。


 静止配置の確認だけを行う。


 前。


 右。


 左。


 中央。


 後方。


 基準復帰点。


 教員が。


 一人ずつ位置を外す。


 残った者が。


 空欄を見つける。


 ただし。


 今日は。


 空欄へすぐ入らない。


「三呼吸待て」


 エレナ教官が言う。


「空いたからといって、すぐ埋めるな」


 アリシアの胸が。


 少し動く。


 空欄。


 名前。


 朝から。


 ずっと。


 同じ言葉が続いている。


「なぜ」


 レオンが尋ねる。


「空欄が、必ず不足とは限らないからだ」


 エレナ教官は。


 レオンを正面から外す。


 正面が空く。


 ミランダが。


 反射的に前へ出そうになる。


 しかし。


 三呼吸。


 一。


 正面へ圧はない。


 二。


 右は安定。


 三。


 左も安定。


 誰も入らなくていい。


「空欄維持」


 リーネが言う。


 既定語ではない。


 今日の訓練用。


 エレナ教官が頷く。


「そのまま」


 次。


 ミランダが右から外れる。


 右が空く。


 今度は。


 教官が青札を上げる。


 右へ圧。


 三呼吸。


 一。


 シオンが見る。


 二。


 アリシアが復帰点で判断。


 三。


「右、支援」


 アリシアが入る。


 空欄を埋める。


 必要だから。


 次。


 リーネが中央から外れる。


 中央。


 復帰路。


 空く。


 しかし。


 今は誰も戻らない。


 そのまま。


 三呼吸。


 誰も入らない。


 空欄維持。


 アリシアは。


 不思議な感覚を覚える。


 空いている場所を見ると。


 埋めたくなる。


 自分の役割だと思う。


 でも。


 必要がなければ。


 空けておく。


 誰かが戻るため。


 まだ決まっていない動きのため。


 余白。


 守る。


「空欄を埋めることだけが補助ではない」


 エレナ教官が言う。


「必要な時まで空けておくことも補助だ」


 アリシアの胸へ。


 深く入る。


 台帳の名称欄。


 初期登録時から。


 空欄。


 誰かが。


 埋めなかった。


 それは。


 未完成。


 失敗。


 忘却。


 そうとは限らない。


 必要な時まで。


 相手が受け取る時まで。


 守った場所かもしれない。


「アリシア」


 教官が呼ぶ。


「はい」


「顔が調査へ行った」


「はい」


「何を考えた」


「空欄を埋めないことも、守ることかもしれないって」


「仮説として記録。今は右を見る」


「はい」


 青札。


 右。


 ミランダは戻っている。


 問題なし。


 今。


 目の前。


 アリシアは戻った。


 ◇


 訓練後。


 エレナ教官は。


 六人へ一つずつ問いを出した。


「空欄を見た時、最初に何をする」


 レオン。


「圧があるか見る」


 ミランダ。


「誰かが戻る場所か見る」


 シオン。


「自分が動いたら、別の場所が空くか見る」


 リーネ。


「維持か介入かを判断する」


 ルシアン。


「全体への影響を検知する」


 アリシア。


 少し考える。


「すぐ名前をつけない」


 エレナ教官の眉が。


 わずかに動く。


 問いは訓練の話。


 少しずれた。


 でも。


 アリシアは続けた。


「空いてるから、弱い場所。危険な場所。私の場所。そう決めない」


 教官は。


 短く頷く。


「それなら良い」


 空欄を。


 意味づけしすぎない。


 必要を見る。


 ◇


 昼食後。


 図書館へ向かう廊下。


 掲示板の前に。


 多くの生徒が集まっていた。


 新しい注意書き。


『名称未登録補助座に関する注意』


 教務主任が見せた文面。


 ほぼ同じ内容。


 正式名称。


 所在。


 機能状態。


 既存設備との同一性。


 全て未確定。


『六番目の心臓』は。


 記録上確認されない便宜的な噂名。


 独自調査。


 立入制限区域への接近。


 禁止。


 生徒たちは。


 紙を読み。


 様々な反応を見せていた。


「やっぱり噂だったんだ」


「でも、補助座自体はあるんでしょ?」


「未登録って書いてある」


「六番目じゃないの?」


「名前がないだけじゃない?」


「じゃあ、今つければいいじゃん」


 最後の言葉。


 アリシアの足が止まる。


 言ったのは。


 背の高い男子生徒。


 友人へ軽く笑いながら。


「心臓が駄目なら、黒核とか。影の座とか」


 アリシアの胸に。


 怒りが戻る。


 言いたい。


 勝手につけないで。


 でも。


 声を出す前に。


 隣の女子生徒が言った。


「注意書き読んだ? 正式名称も分かってないんだから、今つけたら余計ややこしいでしょ」


「冗談だよ」


「冗談がまた噂になるんじゃん」


 男子生徒は。


 少し肩をすくめた。


「はいはい」


 完全に納得したわけではなさそう。


 でも。


 別の生徒が訂正した。


 アリシアが言わなくても。


 掲示を読んだ人が。


 情報を少し正確にした。


「今、行こうとした?」


 シオンが小声で尋ねる。


「うん」


「でも止まった」


「うん」


「必要なかった?」


 アリシアは。


 掲示板の前を見る。


 女子生徒が。


 別の友人へ。


「まだ名前は分からないんだって」


 と説明している。


 メリルが言った言葉。


 同じではない。


 でも。


 近い。


「今は、必要なかった」


 アリシアが答えた。


 ルシアンが静かに言う。


「掲示が行動で返事をしたとも言えます」


 紙。


 言葉。


 それを読んだ人。


 次へ正しく渡そうとした。


 小さな応答。


 ◇


 図書館の閲覧席。


 今日は。


 新しい台帳資料はない。


 接続線のない『在』の追加照合もない。


 その代わり。


 司書から。


 噂の発生経路に関する簡単な報告があった。


「“六番目の心臓”という呼称は、特定の一人が作ったものではない可能性が高いです」


 リーネが尋ねる。


「複数箇所で同時に?」


「似た表現が、少なくとも三つの経路から確認されました」


 一。


 中央下部にある統合設備。


 だから。


 心臓。


 二。


 五主支点へ魔力を戻す補助。


 だから。


 心臓。


 三。


 黒い六つ目の神器が眠る中枢。


 これは。


 台帳にない完全な推測。


「誰か一人を訂正して終わる問題ではない」


 ルシアンが言う。


「はい」


 司書は頷く。


「同じ情報を聞けば、複数人が似た呼び名を考えることがあります」


 悪意。


 発信者。


 犯人。


 それを探しても。


 意味がない。


「では、掲示で十分ですか」


 リーネが尋ねる。


「十分ではありません。ですが、現時点で必要な対応です」


「追加対応は」


「立入制限の強化。授業内での注意。関係教員への説明統一」


 司書は。


 アリシアを見る。


「六人からの発信は、まだ保留です」


「はい」


「話したいですか」


 アリシアは。


 少し考える。


「朝は、話したいと思いました」


「今は?」


「掲示を読んで、別の生徒が訂正してくれた」


「はい」


「だから、私が全部言わなくてもいいと思いました」


 司書は穏やかに頷く。


「良いです」


「でも、私が動かしたって噂は」


「訂正します」


「どうやって?」


「次の掲示追加で、“特定生徒が起動させた事実は確認されていない”と明記します」


 アリシアの肩から。


 少し力が抜ける。


「私の名前は?」


「出しません」


「ありがとうございます」


「礼は不要です。誤情報の訂正です」


 また。


 ノアと似た言葉。


 アリシアは少し笑った。


 ◇


 六人は。


 今日の作業として。


『未確定情報を扱う共有語』を考えることになった。


 戦闘用ではない。


 調査用。


 これまでは。


 事実。


 仮説。


 感情。


 未確認。


 練習帳やリーネの手帳では分けていた。


 でも。


 学園内へ情報を渡す時。


 もっと明確な形が必要。


 リーネが紙を三つに分ける。


『確認済み』

『調査中』

『噂』


 シオンが言う。


「噂って言葉、少し悪く聞こえない?」


「では、出所未確認」


 ルシアンが提案する。


「長い」


 レオンが言う。


 ミランダが。


「まだ分からない!」


 と元気よく言う。


 一瞬。


 全員が黙る。


 その後。


 シオンが笑う。


「一番分かりやすい」


 リーネは。


 真剣に考える。


「対外説明では、専門語より良い可能性があります」


 アリシアも。


「“まだ分からない”なら、空欄へ別の答えを入れない」


 と答える。


 司書が。


 少し離れた席から聞いていた。


「調査中という言葉より、受け取る側には分かりやすいでしょう」


 リーネが書く。


『対外説明の基本』

・確認できたこと。

・まだ分からないこと。

・してはいけないこと。


 レオンが読む。


「三つだけ?」


「増やしません」


 リーネが答える。


「確認できたこと」


 ルシアンが言う。


「古い台帳に、名称未登録の補助座が記録されていた」


「まだ分からないこと」


 アリシア。


「正式名称。今もあるか。どこにあるか。第六補助点と同じか。誰かが動かしたか」


「してはいけないこと」


 ミランダ。


「勝手に探しに行かない!」


 シオン。


「噂の名前を、正式名称みたいに広げない」


 レオン。


「勝手に試さない」


 最後の言葉。


 試す。


 呼びかけ。


 接触。


 具体的に言えば。


 興味を煽る。


 リーネが少し考え。


「許可のない調査、接近、術式試行を行わない」


 と書く。


 正式な表現。


「これなら、公開できる?」


 アリシアが司書へ尋ねる。


「教務主任の確認が必要ですが、内容は問題ないでしょう」


 六人が。


 紙を見る。


 長すぎない。


 短すぎない。


 答えを作らない。


 でも。


 危険は止める。


「名前を守る言葉じゃなくて」


 アリシアが言う。


「空欄を守る言葉」


 ルシアンが。


 静かに頷いた。


「そして、生徒も守る言葉です」


 地下へ行った一年生。


 怪我はなかった。


 でも。


 次は分からない。


 空欄を守る。


 同時に。


 そこへ近づこうとする人を守る。


 ◇


 図書館を出る頃。


 廊下の掲示板前は。


 朝より人が少なかった。


 注意書きは。


 まだ貼られている。


 何人かが立ち止まり。


 読む。


 その中に。


 エマの姿があった。


 アリシアへ気づき。


 近づいてくる。


「アリシアさん」


「こんにちは」


「これ、六番目の心臓って、本当じゃないんですね」


「記録にはない名前です」


「私、昨日聞いて……少し信じました」


 エマは。


 申し訳なさそうな顔をした。


 アリシアは。


 訂正は。


 相手を恥じさせるためにしない。


 そう思い出す。


「私も、聞いたら物語みたいだと思ったかもしれません」


 メリルの言葉。


 借りるのではなく。


 理解として使う。


「でも、まだ正式な名前は分かってないです」


「じゃあ、何て呼べば?」


 アリシアは。


 少し考え。


「説明が必要な時は、名称未登録の補助座」


「長いですね」


「うん」


 二人で。


 少しだけ笑う。


「短く呼びたい時は?」


 エマが尋ねる。


 アリシアは。


 ここが大事だと思った。


「今は、短くしない方がいいと思います」


「どうして?」


「短い名前をつけると、それが本当の名前みたいに残るから」


 エマは。


 掲示を振り返る。


「私たちの共有語とは、逆なんですね」


 アリシアは目を瞬く。


「共有語は、意味を決めたから短くできる」


 エマが言う。


「でも、これは意味が分からないから、短くしちゃ駄目」


 胸に。


 綺麗に落ちる。


「うん」


 アリシアは頷いた。


「そうだと思います」


 エマは。


 もう一度掲示を読む。


「分かりました。私も、班の子にそう話します」


「ありがとう」


「私が決めることじゃないけど」


「でも、次に渡る情報が少し正しくなる」


 生活基礎の言葉。


 エマは笑った。


「セリア先生みたい」


「今日、教わったから」


 二人の間に。


 少し柔らかな空気が生まれた。


 エマは去る前に。


「私たち、“余裕あり”をやめました」


 と言った。


「変えたの?」


「はい。“継続”にしました」


「継続」


「今の処置を続けられる、って意味。支援が不要とは限らないことにしました」


 良い変更。


 エマたちの言葉。


 自分たちで直した。


「それと、周りが“支援”を言っていい条件も決めました」


「うん」


「今度は、うまくいくか分からないけど」


 エマは少し笑う。


「分からないまま試します。先生のいるところで」


「それがいいと思います」


 エマは頭を下げ。


 仲間のところへ戻っていった。


 アリシアは。


 その背中を見つめる。


 言葉を渡した。


 でも。


 結果は奪わなかった。


 エマたちは。


 自分たちで。


 余裕ありをやめ。


 継続へ変えた。


 名前。


 意味。


 受け取る側が決める。


 小さな実例。


 ◇


 夕方。


 メリルと中庭を歩く。


 今日は。


 朝より風が強かった。


 木々の葉が揺れ。


 石畳の上へ。


 細い影を何度も動かしている。


 アリシアは。


 掲示。


 一年生。


 六人で作った対外説明。


 エマの共有語。


 それらを話した。


 メリルは。


 途中で何度か驚き。


 特に。


 一年生二人が旧管理棟へ行こうとした話では。


 足を止めた。


「怪我は?」


「なかった」


「よかった」


「うん。でも、次があるかもしれない」


「アリシアちゃん、自分のせいだと思った?」


 分かっている。


 メリルには。


 顔で分かる。


「少し」


「先生は?」


「違うって言った」


「私も違うと思う」


「うん」


「でも、噂を止めたい気持ちはある?」


「うん」


 アリシアは。


 掲示板で。


 女子生徒が男子生徒を訂正した場面を話す。


「私が言わなくても、掲示を読んだ人が言ってくれた」


「じゃあ、少しずつ変わるかも」


「全部は止まらない」


「全部止めなくてもいいんじゃない?」


 メリルの言葉に。


 アリシアは少し考える。


「危ない行動だけは止めたい」


「うん」


「名前は……使う人が残るかもしれない」


「うん」


「それが嫌」


 正直。


「でも、言葉を無理やり取り上げることはできない」


 メリルは。


 風に髪を押さえながら言った。


「使わないでってお願いはできる。でも、最後はその人が選ぶ」


「うん」


「その代わり、正しい説明も残す」


「掲示みたいに?」


「うん。噂の名前が残っても。記録も残る」


 どちらが。


 長く残るかは分からない。


 でも。


 正確な説明を。


 置いておく。


 空欄を空欄として。


 残す。


「今日の訓練で」


 アリシアが言う。


「空欄をすぐ埋めない練習した」


「何それ」


「空いた場所へ、すぐ誰かが入らない。三呼吸待って、本当に必要か見る」


「アリシアちゃん、難しそう」


「すごく」


 メリルが笑う。


「いつも空いてるところ探してるもんね」


「うん。でも、空いてる場所が、戻るために必要なこともある」


「名前の空欄も?」


「……うん。たぶん」


 すぐ埋めない。


 三呼吸。


 見る。


 必要か。


 誰のためか。


 その名前は。


 本当に必要か。


「六番目の心臓って聞いた時」


 メリルが言う。


「私は一呼吸で埋めちゃった」


「格好いいって?」


「うん」


「でも、後で変えた」


「うん」


「それでいいと思う」


 アリシアが言うと。


 メリルは少し嬉しそうに笑った。


「ありがとう」


「訂正は、恥ずかしがらせるためじゃないから」


「今日の授業?」


「うん」


 二人で笑う。


 風。


 葉。


 遠くの訓練音。


 学園の日常。


 噂は。


 まだ消えない。


 でも。


 その中で。


 別の言葉も広がり始めている。


『まだ名前は分からない』


『記録にはない』


『勝手に探しに行かない』


 それも。


 今日の声。


 ◇


 夜。


 アリシアは。


 練習帳を開いた。


 今日の頁は。


 朝から。


 怒りの文字で始まっている。


『六番目の心臓』


 その下へ。


 大きく線を引く。


『記録上確認されない噂名』


 ただし。


 言葉自体を消さない。


 何が広がったか。


 記録として残す。


『五主支点の中央下部、保持、統合という情報から、複数人が似た呼称を考えた可能性が高い』


『特定の一人が悪意で作ったとは確認されていない』


 次。


『一年生二名が、噂の設備を探すため旧管理棟周辺へ接近。立入制限区域へ入る前に保護。負傷なし』


『自分が動かしたという噂が、行動を促した可能性を考え、罪悪感が出た』


『エレナ教官:噂を作った責任と、噂に名前を使われた者の責任を混同しない』


 アリシアは。


 少し手を止め。


 その一文をもう一度読む。


 自分の責任ではない。


 でも。


 今できることはする。


『掲示内容』

・正式名称未確認。

・現在の所在、機能状態、既存設備との同一性は未確定。

・六番目の心臓は記録上確認されない便宜的噂名。

・独自調査、立入制限区域への接近は禁止。


 生活基礎。


『訂正は、相手を恥じさせるためにしない』


『次へ渡る情報を、少し正確にするため』


『秘密を話さず訂正する時は、何が違うかより、何が確認されていないかを伝える』


 訓練。


『空欄を見ても、三呼吸待つ』


『圧がない。戻る人がいない。役割が不足していない。その場合、空欄を維持する』


『空欄を埋めることだけが補助ではない。必要な時まで空けておくことも補助』


 そして。


 六人で作った。


 対外説明の三つ。


『確認できたこと』

『まだ分からないこと』

『してはいけないこと』


 アリシアは。


 その三つを。


 少し大きく囲んだ。


『確認できたこと』

 古い台帳に、名称未登録の補助座が記録されている。


『まだ分からないこと』

 正式名称。

 現存。

 場所。

 機能状態。

 第六補助点との関係。

 誰かが動かしたか。


『してはいけないこと』

 許可のない調査。

 立入。

 術式試行。

 噂名を確定情報として広げること。


 最後に。


 エマ。


『治癒補助班は、“余裕あり”を“継続”へ変更』


『支援不要という意味ではなく、現在の処置を継続できる状態』


『言葉を渡した後、エマさんたちが自分たちで直した』


 ノアが机へ跳び乗る。


 今日は。


 すぐ練習帳を読まなかった。


 アリシアの顔を見る。


「まだ怒ってる?」


「少し」


「名前に?」


「勝手に決められたことに」


「一年生にも?」


「危ないことしたのは怒ってる。でも、怪我がなくてよかった」


「自分に?」


 アリシアは。


 少し考える。


「朝よりは、怒ってない」


「なぜ」


「私のせいじゃないって、少し分かったから」


「少し?」


「完全には、まだ」


 ノアは。


 練習帳へ視線を落とす。


「それでいいわ」


「今日は?」


「九十九点」


「百点じゃない」


「噂を完全に消そうとしてる」


「まだ?」


「まだ」


 アリシアは。


 少し目を伏せた。


 確かに。


 できれば。


 明日には。


 誰も使わなくなってほしい。


 六番目の心臓。


 その名前が。


 消えてほしい。


「消せない?」


「言葉は、一度広がれば完全には消せない」


「じゃあ、どうするの」


「別の記録を残す」


「正しい説明?」


「ええ」


「それでも、噂の方が残ったら」


「残るかもしれない」


 ノアは。


 簡単に慰めない。


「でも、あなたたちが空欄を空欄として記録すれば。後から調べる者は、少なくとも別の道を見つけられる」


「噂と記録。両方残る?」


「人間の歴史は大抵そう」


 少し。


 悔しい。


 でも。


 現実。


「百点じゃない理由、もう一つ」


 ノアが言う。


「何?」


「掲示板で、男子生徒を直接止められなかった自分を少し責めた」


「でも、別の子が止めた」


「そう。必要な行動は起きた」


「私じゃなくてもいい」


「ええ」


 アリシアは。


 胸の中で。


 その言葉をゆっくり受け取る。


 自分が全部言わなくてもいい。


 全部守らなくてもいい。


 掲示。


 先生。


 六人。


 別の生徒。


 メリル。


 エマ。


 少しずつ。


 正しい情報を渡す人が増える。


「最後に書くなら?」


 ノアが尋ねる。


 アリシアは。


 今日の朝。


 扉の外。


 六番目の心臓。


 その言葉に。


 空欄を奪われたように感じたことを思い出す。


 そして。


 訓練の空欄。


 三呼吸。


 必要になるまで。


 誰も入らなかった場所。


 ペンを持つ。


『空欄は、早く埋めた人のものではない』


 ノアが。


 少し目を細める。


 アリシアは続けた。


『分からない場所へ、分かりやすい名前を置くと、安心できる。でも、その安心が事実とは限らない』


 もう一行。


『だから私は、空欄を守るために、“まだ分からない”と言える人になりたい』


 ノアは。


 静かに頷いた。


「それなら百点」


 アリシアは顔を上げる。


「さっき九十九点って」


「最後の一文で上がった」


「点数、変わるんだ」


「今日の中ならね」


「ずるい」


「嬉しくない?」


「嬉しい」


 ノアは。


 練習帳の端へ前足を置いた。


「ただし、明日また噂を聞いて怒っても、減点ではない」


「怒っていい?」


「感情はね」


「行動は?」


「三呼吸」


 アリシアは。


 少し笑った。


「一。事実」


「二。必要」


「三。境界」


「それ、今決めた?」


「うん」


「悪くない」


 アリシアは。


 最後に小さく書き足す。


『三呼吸』

 一、何が事実か。

 二、今、何が必要か。

 三、どこまで話してよいか。


 練習帳を閉じる。


 夜は。


 静かだった。


 水音はない。


 白い表示もない。


 名前のない何かから。


 返事もない。


 けれど。


 学園のどこかでは。


『六番目の心臓』


 という言葉が。


 まだ話されているかもしれない。


 完全には消せない。


 誰かの記憶に残る。


 物語として。


 噂として。


 面白い呼び方として。


 それでも。


 今日。


 掲示板には。


 別の言葉が置かれた。


『正式名称未確認』


『調査中』


『記録上確認されない噂名』


『立入禁止』


 長い。


 少し硬い。


 物語のように格好よくはない。


 でも。


 空欄を。


 勝手な答えから守るための言葉。


 そして。


 危ない場所へ進もうとする人を。


 戻すための言葉。


 アリシアは灯りを落とした。


 寝台へ入る。


 ノアが足元へ丸くなる。


「ノア」


「何?」


「名前が分からないままでも、守れるかな」


 ノアは。


 少し長く黙った。


 その沈黙へ。


 アリシアは答えを入れない。


 待つ。


「名前を守るのではなく」


 やがて。


 ノアが言った。


「名前を選ぶ余地を守るのよ」


 アリシアは。


 暗い部屋の中で。


 目を開けた。


 名前を選ぶ余地。


 空欄。


 まだ決めない場所。


 呼ばれる側が。


 いつか。


 受け取るか。


 拒むか。


 選べるように。


「うん」


 アリシアは答えた。


「それを守りたい」


「なら、今日は眠りなさい」


「おやすみ、ノア」


「おやすみ、アリシア」


 互いに受け取った名前を呼び。


 アリシアは目を閉じた。


 噂の言葉が残る夜の中で。


 名前のないものへ。


 新しい名前を与えるのではなく。


 まだ選ばれていない場所を。


 空欄のまま。


 静かに守りながら。

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