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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第69話 名前を呼ぶ権利


 翌朝。


 アリシアは、目を覚ました時。


 自分の右手が、掛け布の上へ出ていることに気づいた。


 指先は、何かを掴もうとした形で止まっている。


 夢を見ていたような気がする。


 けれど。


 景色は思い出せなかった。


 黒い水も。


 白い文字も。


 誰かの声も残っていない。


 ただ。


 呼びかけようとして。


 呼ぶ言葉が見つからなかった。


 そんな感覚だけが、胸の奥へ薄く残っていた。


 アリシアは、しばらく自分の手を見つめた。


 指を開く。


 閉じる。


 痛みはない。


 冷えもない。


 胸の奥から水音が聞こえることもなかった。


 窓の外は、まだ朝靄に包まれている。


 中庭の木々。


 向かいの寮。


 中央塔。


 どれも淡く霞み、輪郭だけを残していた。


 見えている。


 けれど。


 細部は分からない。


 今の調査と似ていた。


 接続線のない『在』。


 何かを検知した可能性。


 ただし。


 名称。


 所属。


 機能。


 そのどれも識別できない。


 ノアの知る古い意味では。


 ――ここにいるが、まだ呼ばれていない。


 昨夜、その言葉を聞いた。


 思い出すだけで。


 胸の奥が、少し寂しくなる。


「朝から、随分と遠いところを見ているわね」


 ノアの声がした。


 アリシアは、寝台の足元を見る。


 黒猫は丸くなっていなかった。


 四本の足を揃えて座り、最初から起きていたような顔でこちらを見ている。


「夢を見た気がする」


「内容は?」


「分からない」


「水?」


「覚えてない」


「声は?」


「ないと思う」


 ノアの耳が一度だけ動いた。


「では、覚えている感覚だけ記録」


「呼びたかったけど、呼び方が分からなかった」


 言葉にした途端。


 胸の中に残っていた薄い感覚が、少しだけ輪郭を得た。


 誰かを呼びたかったのか。


 何かを呼びたかったのか。


 自分が呼ばれたかったのか。


 それすら分からない。


 ただ。


 名前がなかった。


「それも夢の内容だと決めない」


「うん。起きた後の感覚かもしれない」


「昨日、名前について考えた影響もある」


「うん」


 アリシアは寝台から降りた。


 朝の床は少し冷たい。


 けれど、冬のような冷たさではない。


 現実の温度。


 机まで歩き、練習帳を開く。


『朝。夢を見た感覚あり。ただし、景色、音、声は記憶なし』


『起床後、“呼びたいが、呼び方が分からない”という感覚が残っていた』


『昨日、名前、未識別、呼ばれていないものについて考えた影響の可能性あり』


『胸の反応、水音、痛み、冷えなし』


 ペンを止める。


 昨日。


 司書から教わった。


 仮の呼び方は便利。


 でも。


 名前は意味を固定することがある。


 未識別対象。


 第六補助点。


 深部系統。


 残響。


 それらは、調査のためにつけた呼び方。


 本当の名前ではない。


 もしかしたら。


 対象そのものは。


 まったく違う名前を持っているのかもしれない。


 あるいは。


 まだ名前を持っていないのかもしれない。


「ノア」


「何?」


「名前って、誰が決めるの?」


 ノアは、すぐには答えなかった。


 机へ跳び乗り。


 アリシアの書いた頁を見下ろす。


「何の名前?」


「人とか。神獣とか。神器とか」


「人は、たいてい親や家族」


「うん」


「神器は、作った者、最初に使った者、後世の管理者。時代によって違う」


「神獣は?」


 ノアの金色の瞳が、アリシアへ向く。


「私たちの名は、誰かにつけてもらうものではない」


「自分で決める?」


「人間の言葉へ近づける時は、自分で選ぶ場合もある。契約者へだけ教える場合もある。呼び方を許す相手を選ぶこともある」


「ノアも?」


「そうよ」


「ノアっていう名前を、自分で?」


 ノアは少しだけ顎を上げた。


「あなたのお祖父様が勝手に呼び始めた」


「えっ」


「黒い猫だから、夜。夜だからノア。あまりにも単純」


「嫌だった?」


「最初は」


 アリシアは目を丸くした。


 子どもの頃。


 祖父が黒猫をノアと呼び。


 自分も、そう呼ぶようになった。


 最初から名前だと思っていた。


「じゃあ、本当の名前は別にあるの?」


「質問が一つ増えたわね」


「教えてくれない?」


「今は教えない」


「どうして?」


「あなたが、ノアという呼び方を軽く扱ったことがないから」


 意味が分からず。


 アリシアは黙る。


 ノアは続けた。


「最初は勝手につけられた呼び方だった。でも、お祖父様が呼び、あなたが呼んだ。そのたびに、雑に扱われなかった」


「うん」


「だから、私は受け取った」


 アリシアの胸が温かくなる。


「名前って、つけるだけじゃなくて……受け取るもの?」


「場合による」


「ノアは受け取った?」


「ええ」


 いつもの毒舌ではない。


 静かな声だった。


「だから今は、私の名前よ」


 アリシアは、練習帳へ新しい一文を書く。


『名前は、呼ぶ側が決めるだけではない。呼ばれる側が受け取ることもある』


 その文字を見て。


 胸の奥に、また疑問が生まれる。


 接続線のない『在』。


 もし。


 本当に何かが在るのなら。


 自分たちが、正しいと思う名前をつけるだけでいいのか。


 六人で呼びたい。


 昨日は、そう書いた。


 でも。


 呼ばれるものが。


 その名前を望んでいなかったら。


「昨日、六人で呼びたいって書いた」


「ええ」


「でも、勝手に呼んじゃ駄目?」


「呼ぶことと、名づけることは別」


「どう違うの?」


「名前が分からない相手へ、“あなた”と呼びかけることはできる。名前を決めつけずに」


 あなた。


 誰か。


 そこにいるもの。


 それも呼びかけ。


「じゃあ、正しい名前が分かるまで、呼んじゃ駄目なわけじゃない」


「ええ。ただし」


 ノアの声が、少し低くなる。


「今のあなたたちは、呼びかけ自体を試験として禁止されている」


「うん」


「そこを忘れない」


「分かってる」


 返事を求める試験はしない。


 記録文を読むことも、再びは行わない。


 現地調査も禁止。


 今は資料だけ。


 アリシアは書き足す。


『呼びかけと命名は違う。ただし、現在は呼びかけ試験も行わない』


 ノアが頷いた。


「今日は九十八点」


「減点は?」


「昨夜の最後に、“六人で呼びたい”という綺麗な結論へ少し急いだ」


「昨日は百点だったのに」


「昨日の判断としては百点。今日、新しい視点が増えた」


「点数って、後から変わるの?」


「昨日の点数は変わらない。今日の理解が増えただけ」


 アリシアは、少し考え。


 頷いた。


「今日は今日」


「そう」


 ◇


 廊下へ出ると。


 メリルが、壁際の窓から外を見ていた。


 朝靄の中庭。


 アリシアの扉が開く音に気づき、振り返る。


「おはよう、アリシアちゃん」


「おはよう、メリルさん」


 メリルは、いつものようにアリシアの顔を見る。


「今日は少し考えてる顔」


「名前のこと」


「接続線のない表示?」


「うん。それとノアの名前」


 足元のノアが言う。


「余計なことは話さない」


「本当の名前は教えてくれなかった、ってだけ」


「十分余計」


 メリルは少し驚き。


 それから、ノアを見る。


「ノアちゃんって、本当の名前じゃないの?」


「今は私の名前よ」


「今は?」


「細かい説明はしない」


 ノアは歩き始めた。


 話を終わらせる時の歩き方。


 アリシアとメリルも、その後を追う。


「お祖父さんがつけた名前を、ノアが受け取ったんだって」


 アリシアが小さな声で説明する。


 メリルは。


 すぐに返事をしなかった。


 しばらく歩いた後。


 柔らかく言う。


「名前をもらったんじゃなくて、呼ばれ方を自分の名前にしたんだね」


「うん」


「素敵だね」


「単純な名前よ」


 前を歩くノアが言う。


「でも、気に入ってる?」


 メリルが聞く。


 ノアは振り返らなかった。


「悪くはないわ」


 その言葉だけで。


 十分だった。


 廊下の窓から見える中庭は、まだ白い靄の中。


 生徒たちの声も、朝の湿った空気へ少し吸われている。


「エマさんたち、今日はどうするのかな」


 アリシアが言う。


「“余裕あり”を変えるかもって言ってたんだよね」


「うん。本人が隠す言葉になったから」


「アリシアちゃんは、どう変えると思う?」


「分からない。エマさんたちが決めることだから」


 以前なら。


 何か良い案を考え。


 伝えなければと思ったかもしれない。


 でも。


 自分たちの言葉ではない。


 相手が使うもの。


 相談されたら、一緒に考える。


 それまでは待つ。


「少し、見に行きたい?」


「うん」


「でも行かない?」


「今日は私たちの授業もあるから。それに、毎回見に行ったら、エマさんたちが私の顔を見て決めるかもしれない」


 メリルが笑う。


「昨日の生活基礎、ちゃんと残ってるね」


「言葉を渡して、自分まで渡しすぎない」


「うん」


 二人は食堂へ続く渡り廊下へ入る。


 靄が少しずつ薄くなり。


 東の空から朝日が差し始める。


 輪郭だけだった中央塔に。


 窓。


 石の継ぎ目。


 塔頂の旗。


 少しずつ細部が戻っていく。


「分からないものも、こうやって少しずつ見えるのかな」


 アリシアが呟く。


「急に全部じゃなくて?」


「うん」


 メリルは中央塔を見た。


「でも、靄が晴れたら、思ってた形と違うこともあるね」


「うん」


「それでも見る?」


 アリシアは少し考えた。


「怖いけど、見る」


「一人で?」


「みんなと」


 ノアの尻尾が。


 前で一度だけ揺れた。


 ◇


 食堂。


 いつもの席。


 レオンの採点を公開で行わなくなって、二日目。


 周囲の生徒たちは。


 昨日より、待っている様子を見せなかった。


 レオンが普通に挨拶する。


 リーネも普通に返す。


 それだけ。


 けれど。


 レオンは席へ座った後。


 リーネへ少し身を寄せ。


「今の、どうだった」


 と、小声で聞いた。


 リーネは、同じ程度の声量で答える。


「前半が少し硬いです。大きさは問題ありません」


「点数は?」


「点数は使わないと決めたでしょう」


「個別でも?」


「改善点の確認だけで十分です」


 レオンは少し残念そうだった。


 それでも。


「分かった」


 と頷く。


 アリシアは、その様子を見ていた。


 百点。


 数字。


 分かりやすい。


 嬉しい。


 でも。


 点数がなくても。


 直す場所は分かる。


 ノアの点数も。


 いつか。


 必要なくなるのだろうか。


 そう考え。


 少し寂しくなる。


「何を見ているの」


 ノアが椅子の上から言う。


「点数って、いつまで続くのかなって」


「やめたい?」


「違う」


「なら、今考えなくていい」


「いつかなくなる?」


「必要なくなれば」


 やはり。


 少し寂しい。


 でも。


 なくなることは。


 捨てられることではない。


 できるようになったという意味かもしれない。


「今日のパンは?」


 ノアが聞く。


「まだ取ってない」


「では取る」


 アリシアはパンへ手を伸ばした。


 今日は、少し大きい。


 両手で持つ。


 ゆっくり力を入れる。


 柔らかな生地が伸び。


 少しだけ形が崩れた。


 ノアは。


 少し考え。


「九十四点」


 と、アリシアにだけ届く声で言った。


「減点は?」


「点数がなくなる未来を考えて、今のパンを見ていなかった」


「厳しい」


「でも、途中で戻った」


「うん」


 レオンが、二人の小声に気づく。


「採点してる?」


 アリシアは少し迷った。


 公開の場。


 周囲。


 でも。


 ノアの採点は。


 自分とノアの間のもの。


「私のパンだけ」


「何点?」


 答えなくてもいい。


 そう思った。


 以前なら。


 すぐに答えていた。


 皆と笑うため。


 でも。


 今日は。


「内緒」


 と言ってみた。


 レオンは一瞬。


 驚いた顔をした。


 その後。


「そっか」


 と頷いた。


 怒らない。


 理由を聞かない。


 シオンは、少しだけアリシアを見た。


 でも、何も言わなかった。


 境界を守ってくれた。


 胸が少し温かくなる。


「今日は、古い支点台帳の資料が来るかもしれません」


 リーネが言った。


 食卓の空気が少し変わる。


 アリシアの手も止まる。


「司書から連絡が?」


 ルシアンが尋ねる。


「閲覧許可の審査が今朝終わる予定です」


「予定」


 シオンが言う。


「来ない可能性もあるね」


「はい」


 リーネは頷く。


「期待はしますが、確定とは扱いません」


 アリシアはパンを口へ運びながら。


 胸の中を確認する。


 期待。


 ある。


 とても。


 古い支点台帳。


 そこに。


 第六補助点。


 接続線のない表示。


 名前。


 何かが書かれているかもしれない。


 でも。


 何もない可能性もある。


 読めない可能性。


 削除されている可能性。


 自分の期待する言葉ではない可能性。


「アリシアは、何が書いてあってほしい?」


 シオンが聞く。


 アリシアは、少し考えた。


「名前」


 正直に答える。


「でも……名前が書いてあったら、それをすぐ呼んでいいとは思わない」


 レオンが首を傾げる。


「名前が分かったのに?」


「台帳に書いてある名前が、本当の名前か分からない。管理側がつけた呼び方かもしれないから」


 ルシアンが静かに頷く。


「設備名称と、対象自身の名は別ですね」


 ミランダが言う。


「でも、呼ぶための言葉がないと困らない?」


「調査では、説明する」


 アリシアは言った。


「接続線のない表示。古い支点台帳の対象。長くても、今はそれでいい」


 レオンは少し難しい顔をした。


「俺なら、早く呼びやすい名前をつけたくなる」


「分かる」


 アリシアも頷く。


「私も昨日まで、六人で正しい名前を呼びたいって思ってた」


「今は違う?」


「呼ばれる側が、その名前を受け取るかも大事だって、ノアに教わった」


 五人の視線がノアへ集まる。


 ノアは目を閉じた。


「食事中に神獣へ集中しない」


 話を切る。


 レオンが小さく言う。


「受け取る名前……」


 リーネは、手帳を開きかけ。


 止めた。


 食事中。


 今日は、少しずつ。


 皆が戻れるようになっている。


 ◇


 生活基礎の授業。


 黒板へ書かれた言葉は。


『呼ばれたい名前を尋ねる』


 教室が。


 少し静かになった。


 昨日まで。


 共有語。


 助けを求める言葉。


 今日は。


 人を呼ぶ名前。


 アリシアは、朝のノアとの会話を思い出す。


 セリア先生は、生徒たちを見渡した。


「人には、呼ばれたい名前があります」


 黒板へ。


『正式名』

『愛称』

『役割名』

『呼ばれたくない呼び方』


 と書く。


「同じ人でも、相手や場所によって、呼ばれ方が変わることがあります」


 家族。


 友人。


 先生。


 職務。


 契約。


「親しいと思って愛称で呼んでも、本人が嫌なら親しさにはなりません」


 アリシアは。


 ノアという呼び方を思う。


 祖父が勝手に始めた。


 でも。


 ノアは受け取った。


 もし。


 受け取らなかったら。


 自分たちは別の呼び方をしていたのだろうか。


「相手が何と呼ばれたいか、尋ねることは尊重の一つです」


 先生は続ける。


「反対に、まだ答えたくない。決めていない。そういう人へ、答えを急がせないことも尊重です」


 接続線のない表示。


 何かが在る。


 でも。


 言葉を返せる相手かも分からない。


 尋ねることすら。


 まだできない。


 呼び方を決められない。


 それでも。


 決めないことを守る。


「呼び名は、相手を理解するための道具です」


 セリア先生は、一度チョークを置いた。


「相手を自分の理解へ閉じ込める箱ではありません」


 教室へ。


 長い沈黙が落ちる。


 誰もすぐにはペンを動かさなかった。


 アリシアは。


 ゆっくり書いた。


『名前は道具。箱ではない』


 班練習では。


 自分が呼ばれたい名前。


 呼ばれたくない名前。


 それを話せる範囲で共有することになった。


 トマは。


「トマでいい。家ではトムって呼ばれるけど、学校で呼ばれると子どもっぽい」


 と答えた。


 ミーナは。


「ミーナ。名字だけだと、少し距離を感じる。でも初対面で急に名前を呼ばれるのも苦手」


 メリルは。


「メリルでいい。呼び捨ても、信頼してる相手なら嫌じゃない」


 そして。


 アリシア。


 三人の視線が集まる。


 少し緊張する。


 自分は。


 何と呼ばれたい。


「アリシア」


 と答える。


 いつも通り。


 でも。


 続きがある。


「黒い子、とか。六人目だけで呼ばれるのは、少し嫌」


 言えた。


 トマが少し驚く。


 以前。


 廊下で、黒猫の子。


 黒髪の子。


 そう呼ぶ声を聞いた。


 名前を知らない人なら仕方ない。


 でも。


 名前を知っている人には。


 アリシアと呼んでほしい。


「闇の子は?」


 ミーナが慎重に尋ねる。


「役割の説明なら大丈夫。でも、名前の代わりは嫌かも」


 言いながら。


 自分でも初めて分かった。


 闇。


 黒月。


 六人目。


 全部、自分の一部。


 でも。


 全部を合わせても。


 アリシアという名前にはならない。


 メリルが、柔らかく言う。


「私はアリシアちゃんって呼ぶね」


「うん」


 胸が温かくなる。


 ◇


 戦闘基礎。


 今日は六人での反復訓練。


 昨日、アリシアが不在だった五人訓練の結果を踏まえ。


 一人が交代で抜ける。


 残った五人が。


 復帰点を保つ。


 空欄を埋める。


 そして。


 抜けた一人が戻る時。


 受け入れる。


 最初に抜けるのは。


 レオン。


 正面担当がいない。


 ミランダが前へ。


 シオンが左から中央。


 アリシアは復帰点。


 リーネが中央管理。


 ルシアンが後方検知。


 レオンは安全線の外。


 見ているだけ。


 エレナ教官が言う。


「始め」


 正面の圧を。


 ミランダの土が受ける。


 レオンほど押し返せない。


 でも。


 固定できる。


 シオンが風を通し。


 アリシアが空いた右前へ。


 リーネが復帰路を整える。


 ルシアンが伝える。


「正面、強い。左、薄い」


「正面、支援」


 ミランダが早めに言う。


 アリシアは正面へ寄る。


 シオンは左を保つ。


 重ならない。


 少しずつ前へ。


 一分。


「レオン、復帰」


 エレナ教官の声。


 レオンが安全線から入る。


 だが。


 正面は、ミランダとアリシアが支えている。


 元の位置がない。


 レオンは。


 一瞬、立ち止まる。


 戻ってきた。


 でも。


 自分の場所が埋まっている。


 アリシアは。


 以前の自分を思い出す。


 戻る。


 場所がない。


 必要ない。


 そう思う瞬間。


 レオンの顔にも。


 同じ戸惑いが浮かぶ。


 リーネが言う。


「中央、開ける」


 アリシアが復帰点へ下がる。


 ミランダが右へ戻る。


 シオンが左を流す。


 正面。


 一本の道。


「レオン、正面」


 ルシアンが伝える。


 レオンが入る。


 剣を構える。


 正面が戻る。


「続行」


 エレナ教官の声。


 レオンは。


 何も言わない。


 でも。


 剣の一撃が。


 返事になった。


 ◇


 次に抜けるのは。


 リーネ。


 中央管理がいない。


 復帰位置の指定。


 水膜。


 記録。


 それらが消える。


 代わりに。


 ルシアンが復帰候補を伝える。


 ミランダが足場を固定。


 アリシアは、一時介入だけでなく。


 基準復帰点の状態も見る。


 負担が増える。


 前。


 右。


 左。


 後方。


 全部を見る。


 胸が少し苦しくなる。


 まだ維持できる。


 でも。


 別の動きへ移れない。


「中央、支援」


 自分から言う。


 シオンが風の一部を中央へ。


 ミランダが足場を広げる。


 アリシアの負担が減る。


「戻る」


 基準点へ一歩下がる。


 全体を見る。


 リーネが戻る。


 しかし。


 彼女の中央位置へ。


 アリシアがいる。


 リーネは、すぐに入らない。


 アリシアを見る。


 アリシアも、彼女を見る。


 何を言う。


 リーネは。


「中央、交代」


 と口にした。


 既定外。


 だが。


 意味は分かる。


 アリシアは中央から下がる。


 リーネが入る。


 水膜が戻る。


「続行」


 訓練は止まらない。


 アリシアは基準点へ。


 胸の中に。


 少しだけ引っかかり。


 交代。


 エマたちの言葉。


 治癒補助班の言葉。


 六人の共有語ではない。


 でも。


 意味が通じた。


 使ってよかったのか。


 後で確認する。


 今は。


 動く。


 ◇


 次。


 ルシアンが抜ける。


 検知役がいない。


 全体の「強い」「薄い」が消える。


 六人の中で。


 声が減る。


 アリシアは。


 自分の視界だけで空欄を探す。


 右。


 ミランダ。


 安定。


 左。


 シオン。


 少し押される。


 正面。


 レオン。


 維持。


 中央。


 リーネ。


 復帰路。


 左へ動こうとした時。


 リーネも同じ方向を見る。


 判断が重なる。


 だが。


 言葉がない。


 アリシアが先に言う。


「左、支援」


 自分が行く判断を見せる。


 リーネは中央へ残る。


 重ならない。


 ルシアンが戻る時。


 後方位置は空いている。


 すぐに入れる。


 彼は。


 戻りながら。


「後方、復帰」


 と短く告げた。


 新しい言葉。


 でも。


 自分が戻ったことを知らせるため。


 アリシアは振り返らない。


 声だけで。


 ルシアンが後方へ戻ったと分かる。


 全体を見る負担を。


 彼へ返せる。


 胸が少し軽くなる。


 ◇


 最後に抜けるのは。


 アリシア。


 安全線の外へ出る。


 五人が動く。


 昨日も行った形。


 でも今日は。


 アリシアが見る。


 自分のいない六人。


 正確には五人。


 自分が普段立つ基準復帰点は。


 空いている。


 誰かが常に立つわけではない。


 必要な者が戻る場所として。


 残されている。


 レオンが正面。


 ミランダが右。


 シオンが左。


 リーネが中央。


 ルシアンが後方。


 空欄へ入る者がいない。


 その代わり。


 一人が支援へ動く時。


 別の誰かが、その位置を補う。


 連鎖。


 少し遅い。


 でも。


 崩れない。


 アリシアがいないから。


 全員が。


 少しずつ余分に見る。


 ルシアンが言う。


「右、支援」


 シオンが右へ。


 リーネが左の流れを水膜で補う。


 ミランダが一度戻る。


「全員、戻る」


 リーネが言う。


 五人が基準位置へ寄る。


 配置を組み直す。


 昨日見つけた言葉。


 正式ではない。


 でも。


 全体復帰。


 機能している。


 そして。


「アリシア、復帰」


 エレナ教官の声。


 胸が鳴る。


 戻る。


 でも。


 どこへ。


 自分の基準点は。


 五人が組み直したばかり。


 空いている。


 白い小さな円。


 アリシアは入る。


 しかし。


 入っただけでは。


 五人へ自分が戻ったことが伝わらない。


 声を出す。


「基準点、復帰」


 六人が。


 ほんの少しだけ動きを変えた。


 レオンが正面へ半歩。


 ミランダが右を広げる。


 シオンが左を薄くする。


 リーネが中央の水膜をアリシアの足元まで繋ぐ。


 ルシアンが言う。


「六人、確認」


 アリシアの胸が。


 強く鳴った。


 六人。


 確認。


 いる。


 全員。


 接続線のない『在』。


 存在確認。


 未識別。


 名前。


 様々な言葉が、一瞬頭へ浮かぶ。


 でも。


 訓練へ戻る。


 エレナ教官の声。


「続行」


 六人で。


 動く。


 ◇


 訓練終了。


 全員が、床へ座り込むほどではない。


 けれど。


 呼吸は少し乱れている。


 エレナ教官が、一人ずつ見た。


「復帰時の言葉が増えた」


 リーネが答える。


「中央、交代。後方、復帰。基準点、復帰」


「既定外だ」


「はい」


「意味は通じたか」


 全員が。


 少し考える。


 レオンが先に言った。


「通じた」


 シオンも頷く。


「場所と、戻ったことが分かった」


 ミランダが言う。


「交代も、分かりやすかった!」


 ルシアンは少し慎重に言う。


「ただし、他班の“交代”と意味が混ざる可能性があります」


 エレナ教官が頷く。


「その通りだ」


 アリシアは。


 リーネを見る。


「中央、交代って言われた時。エマさんたちの交代を思い出しました」


「私も、発声した後に気づきました」


「意味は違う?」


「治癒補助班では、魔力消耗による担当交代。私たちの場合は、位置担当の交代」


 同じ言葉。


 違う意味。


 生活基礎で学んだ。


 班ごとに意味を共有していても。


 他班と一緒になれば。


 混ざる。


「使わない方がいい?」


 アリシアが聞く。


 エレナ教官は、すぐには答えない。


「今すぐ決めるな。利点と混乱を記録しろ」


「はい」


「後方、復帰。基準点、復帰」


「はい」


「これらは、位置と行動が明確だ。候補として残せ」


 ルシアンが頷く。


「全員、戻るは?」


 リーネが尋ねる。


「全体再配置として機能している。ただし、“戻る”の通常意味が個人復帰だ。区別が必要」


 シオンが言う。


「全員ってついてるから分かるけど」


「音が欠けたら?」


 エレナ教官が返す。


 戦闘音。


 最初の「全員」が聞こえず。


「戻る」だけ聞こえたら。


 個人が戻るのか。


 全体が戻るのか。


 分からない。


「じゃあ、別の言葉」


 レオンが言う。


「それを考えるのが次だ」


 エレナ教官は、そこで一度言葉を切った。


 全員の呼吸が少し整うのを待つ。


「今日の目的は、欠けても戻れるかを見ることだった」


 視線が六人を通る。


「結果。一人欠けても、五人は崩れなかった」


 アリシアの胸が少しだけ痛む。


 分かっている。


 不要という意味ではない。


 でも。


 感情は反応する。


 エレナ教官は続けた。


「同時に、戻った者を受け入れるには、位置を空けるだけでは足りなかった」


 アリシアは顔を上げる。


「戻ったことを知らせる言葉が必要だった」


「はい」


「つまり」


 エレナ教官は、低く言う。


「在ることと、戻ったことは違う」


 胸の奥へ。


 強く落ちた。


 存在。


 そこにいる。


 でも。


 どこから来たのか。


 どこへ戻ったのか。


 何の役割なのか。


 それは別。


 接続線のない『在』。


 存在だけを確認。


 接続先はない。


 まだ呼ばれていない。


「アリシア」


 エレナ教官が呼ぶ。


「はい」


「今、調査へ繋げたな」


「はい」


「何を」


「接続線のない『在』は、いることは分かっても、どこへ戻るものか分からない状態なのかもしれないって」


「仮説だ」


「はい」


「記録して、今は訓練へ戻れ」


「はい」


 ◇


 昼食後。


 図書館。


 いつもの閲覧席ではなく。


 再び奥の相談室へ案内された。


 司書。


 グラン先生。


 マリナ先生。


 教務主任。


 机の上に。


 一冊の厚い複写資料が置かれている。


 表紙には。


『初期支点登録台帳・公開許可部分』


 アリシアの足が、扉の前で一瞬止まった。


 期待していた。


 でも。


 実物を見ると。


 怖い。


 台帳。


 登録。


 名前。


 何が書かれている。


「体調」


 グラン先生が尋ねる。


「胸が少し深いです。痛み、冷え、水音なし。緊張しています」


「良い報告です」


 全員が席につく。


 ノアはアリシアの足元。


 今日は。


 いつもより静かだった。


 アリシアは、ノアを見る。


 古い記録。


 ノアが知っていること。


 でも。


 今は聞かない。


 資料を先に。


 教務主任が説明する。


「この台帳は、五属性支点と、関連する補助設備を初期登録した記録です」


 リーネが手帳を開く。


「年代は」


「五大国成立直後。現在の学園結界の基礎が整えられた時期」


「原本の状態は」


「欠損あり。一部は後世の写本」


「公開部分の選定基準は」


「現在の調査対象と関係する可能性があること。安全上の術式情報を含まないこと」


「承知しました」


 教務主任が複写資料を開く。


 最初に。


 五つの主支点。


『第一主支点 火鳥系』


『登録名 紅蓮翼座』


『接続神器 火鳥剣』


『所属 南方守護系』


『機能 熱量循環・攻性防壁』


 次。


『第二主支点 水蛇系』


『登録名 蒼流環座』


『接続神器 水蛇槍』


『所属 西方水脈系』


『機能 水脈調整・冷却防壁』


 風狼。


 土亀。


 光白猫。


 それぞれ。


 登録名。


 接続神器。


 所属。


 機能。


 明確に書かれている。


 アリシアは。


 一頁ずつ見る。


 レオン。


 リーネ。


 シオン。


 ミランダ。


 ルシアン。


 今の五人と完全に同じ役割ではない。


 でも。


 属性。


 神器。


 支点。


 それぞれの線が繋がっている。


「六つ目は」


 レオンが、少し声を抑えて言う。


 教務主任は。


 すぐに頁をめくらない。


「次の頁です」


 相談室の空気が。


 少し重くなる。


 紙をめくる音。


 乾いた。


 小さな音。


 そこに。


 一つの登録欄があった。


『深部補助座』


 その下。


『登録名――空欄』


『接続神器――記載なし』


『所属――未定』


『機能――保持・統合・復帰補助』


 アリシアの呼吸が止まりかける。


 空欄。


 登録名。


 接続神器。


 所属。


 名前がない。


 でも。


 機能は書かれている。


 保持。


 統合。


 復帰補助。


 リーネの筆が止まった。


 シオンが、椅子へ深く座り直す。


 ミランダは、口元へ手を当てる。


 レオンは。


 声を出さない。


 ルシアンだけが。


 静かに文字を追っている。


「第六補助点と同一ですか」


 リーネが尋ねた。


 声は落ち着いている。


 しかし。


 いつもより少し遅い。


 マリナ先生が答える。


「不明です」


「機能は、私たちが推測していたものに近い」


「はい。保持、統合、復帰補助」


 アリシアは、自分の合同訓練での役割を思い出す。


 空いた場所へ入る。


 全体を支える。


 戻る場所を使う。


 復帰。


 補助。


 似ている。


 あまりにも。


「今、自分と繋げました」


 アリシアが言った。


 誰かに聞かれる前に。


「保持。統合。復帰補助。私の訓練での役割と似てる」


 グラン先生が頷く。


「自然な連想です」


「でも、同じとは決めない」


「はい」


「この台帳が、学園結界の深部補助座。私の役割は、今の訓練で作ったもの」


「その通りです」


 アリシアは練習帳へ書く。


『台帳:深部補助座』


『登録名空欄。接続神器記載なし。所属未定。機能は保持・統合・復帰補助』


『自分の訓練役割と似る。しかし同一性未確認』


 教務主任が、頁の下部を指す。


 そこには。


 後から書き加えられたような細い文字があった。


『名称欄は欠損ではない』


『初期登録時より空欄』


 部屋の静けさが。


 さらに深くなる。


「最初から?」


 ミランダが呟く。


「はい」


 教務主任が答える。


「後世に消されたのではありません。登録時点で記入されていなかった」


 忘れられた。


 消された。


 そう思っていた。


 でも。


 最初から、名前がなかった。


 あるいは。


 書かなかった。


「どうして」


 レオンが言う。


「機能まで分かってるのに、名前をつけなかったんだ」


 リーネが。


 次の注記を見つける。


「ここに続きがあります」


 細い古文字。


 現代語訳。


『呼称未承認』


 たった四文字。


 呼称。


 未承認。


 アリシアの胸が。


 強く鳴った。


 ノアの言葉。


 名前は。


 呼ぶ側が決めるだけではない。


 呼ばれる側が受け取ることもある。


「呼称未承認って」


 アリシアは。


 声が少し震える。


「誰が、承認しなかったんですか」


 マリナ先生は首を横に振る。


「記録にはありません」


「作った人?」


「可能性はあります」


「神獣?」


「可能性はあります」


「神器?」


「意志を持つ神器であれば」


「対象そのもの?」


「それも可能性です」


 全部。


 分からない。


 ただ。


 呼び方が承認されなかった。


 だから。


 登録名が空欄。


 接続神器も記載なし。


 所属未定。


 それでも。


 機能だけは記録されている。


 存在していた。


 働きも想定されていた。


 でも。


 名前は。


 書けなかった。


「ここにいるが、まだ呼ばれていない」


 アリシアが、思わず呟く。


 全員の視線が集まる。


 教務主任も。


 グラン先生も。


 マリナ先生も。


 ノアは足元で黙っている。


「それは」


 グラン先生が慎重に尋ねる。


「どこから?」


 アリシアはノアを見る。


 話していいか。


 ノアは。


 少しだけ目を閉じ。


「話していいわ」


 と答えた。


 アリシアは説明する。


 昨夜。


 接続線のない『在』について。


 ノアの知る古い言い方。


 ここにいるが。


 まだ呼ばれていない。


 同じ意味とは決めない。


 昨日の表示と同じとも決めない。


 全てを伝える。


 教員たちは。


 途中で口を挟まない。


 最後まで聞いた。


 長い沈黙。


 その後。


 マリナ先生が静かに言う。


「台帳の『呼称未承認』と、ノアさんの知る表現は、概念上かなり近い」


「同じですか」


「まだ決めません」


「はい」


「ですが、比較対象として正式に記録します」


 ノアが言う。


「私の記憶は、資料ではない」


「承知しています」


 マリナ先生は、ノアへ正面から答えた。


「証言として扱います。原本照合なしに事実とはしません」


「それならいい」


 ノアの声は。


 少しだけ硬かった。


 アリシアは足元へ手を伸ばしたいと思った。


 でも。


 今は資料。


 ノアも。


 自分で話すと選んだ。


 勝手に慰めない。


 ◇


 ルシアンが、頁の端を指した。


「別の印があります」


 小さな円。


 その中に。


 六本の短い線。


 五本は外側から中央へ。


 一つだけ。


 中央から下へ伸びている。


「六支点図?」


 リーネが身を乗り出す。


 教務主任が説明する。


「初期登録用の接続概念図です」


 五本の線。


 火。


 水。


 風。


 土。


 光。


 中央で交わる。


 そして。


 中央から下へ。


 六本目。


「深部補助座は、五つの外側じゃない」


 シオンが言う。


「中央の下」


 マリナ先生が頷く。


「五主支点の魔力を直接支える位置と考えられます」


「闇は」


 レオンが聞く。


「ここに書いてない」


「属性欄自体がありません」


 リーネが言う。


 確かに。


 深部補助座の項目には。


 属性名がない。


 闇。


 黒猫。


 黒月。


 それらは書かれていない。


 アリシアの胸が。


 少し沈む。


 自分と繋がる資料を期待していた。


 でも。


 闇という言葉がない。


「残念です」


 アリシアは言った。


「闇って書いてあると思ってた」


 グラン先生が頷く。


「期待として自然です」


「でも、書いてない」


「はい」


「だから、深部補助座と闇の神器を同じとはできない」


「その通りです」


 感情。


 事実。


 分ける。


 アリシアは書く。


『深部補助座に属性記載なし。闇、黒月、黒猫の記載なし』


『感情:闇と書いてあることを期待していたので残念』


 ミランダが、少し心配そうにアリシアを見る。


 アリシアは。


 大丈夫と言いそうになる。


 止める。


「少し残念。でも、読めます」


 と答えた。


 ミランダは。


 安心したように頷いた。


 ◇


 次の頁。


 深部補助座の登録経過。


『第一回接続試行』


『五主支点応答あり』


『深部補助座、流入あり』


『表示応答なし』


『呼称候補一、未承認』


『接続中止』


 第二回。


『保持機能のみ確認』


『呼称候補二、未承認』


『統合処理中断』


 第三回。


『対象在り』


『所属未定』


『呼称候補三、記録抹消』


『復帰補助反応あり』


 アリシアの指が。


『復帰補助反応あり』で止まる。


「動いたことはある」


「はい」


 マリナ先生が答える。


「少なくとも記録上は」


「でも、応答なし?」


「第一回は表示応答なし。第三回では対象在り。時期により反応が異なります」


 リーネが一つずつ整理する。


「一回目。流入あり、表示なし」


「二回目。保持機能のみ」


「三回目。対象在り、復帰補助反応あり」


「はい」


 ルシアンが言う。


「少しずつ機能が確認されています」


 シオンが。


 頁を見ながら、静かに続ける。


「でも、名前は全部駄目だった」


 呼称候補一。


 未承認。


 候補二。


 未承認。


 候補三。


 記録抹消。


 何という名前をつけようとしたのか。


 書かれていない。


「候補名は見られますか」


 レオンが尋ねる。


 教務主任は首を横に振る。


「原本にも残っていません」


「誰かが消した?」


「第三候補のみ、意図的に抹消された痕跡があります。第一、第二は別紙登録だった可能性がありますが、失われています」


 アリシアは。


 少しだけ、候補名を知りたいと思った。


 何と呼ぼうとした。


 なぜ拒まれた。


 でも。


 候補名を知れば。


 それに引っ張られる。


 勝手に本当の名前だと思うかもしれない。


「知らない方がいいのかも」


 アリシアが呟く。


「なぜ?」


 リーネが尋ねる。


「候補名は、呼ばれる側が受け取らなかった名前かもしれないから」


 部屋が静かになる。


「受け取らなかったものを、私たちがもう一度使うのは……嫌です」


 マリナ先生が。


 ゆっくり頷いた。


「重要な視点です」


 教務主任も。


 候補名の探索について。


 何かを書きかけていた筆を止める。


「候補名の復元は、現時点では調査目的から外しましょう」


 リーネが少し驚く。


「よいのですか」


「名前の復元が、機能解明に必要とは限りません」


「はい」


「また、過去に未承認となった呼称を無断で再使用する危険があります」


 アリシアの言葉が。


 調査の線を変えた。


 少し怖い。


 自分の一言で。


 でも。


 教務主任が決めた。


 自分だけの責任ではない。


「ありがとうございます」


 アリシアが言うと。


 教務主任は。


「礼を言う場面ではありません」


 と答えた。


 どこか。


 ノアに似た言い方だった。


 ◇


 台帳の公開部分は。


 さらに数頁続いた。


 しかし。


 深部補助座に関する記録は、そこで急に少なくなる。


『管理対象外へ移行』


『登録保留』


『支点図から削除』


 理由は。


 記載なし。


 その後。


 五主支点だけが正式登録。


 五大国の象徴へ。


 深部補助座は。


 台帳の端へ。


 やがて。


 別冊の補助設備記録へ。


 さらに。


 名前のない点。


 第六補助点。


 そう呼ばれるようになった可能性。


「忘れられたというより」


 ルシアンが言う。


「登録できないまま、管理から外された」


 リーネが頷く。


「名称、所属、接続神器が定まらなかったため、正式支点へ含められなかった」


 シオンが腕を組む。


「でも、機能はあった」


「保持。統合。復帰補助」


 ミランダが言う。


 レオンは。


 少し悔しそうに紙を見る。


「名前が決まらないだけで、外したのか」


 教務主任が答える。


「当時の事情は分かりません。安全上の判断だった可能性もあります」


「名前がないから危ない?」


「接続先、所属、制御権限が決まらない設備を、主支点として運用することは危険です」


 レオンは。


 納得しきれない顔。


 でも。


 反論はしなかった。


 アリシアも。


 複雑だった。


 名前がない。


 所属がない。


 だから。


 使えない。


 危険。


 管理外。


 学園へ来たばかりの自分。


 闇。


 既存の枠にない。


 怖がられた。


 似ている。


 でも。


 同じではない。


 自分を資料へ重ねすぎない。


「私は」


 アリシアは。


 ゆっくり言葉を選ぶ。


「管理から外した人が、悪いとは決められません」


 レオンが見る。


「でも?」


「でも……名前も所属も決まらないまま、機能だけ使おうとしたなら、少し寂しい」


 機能。


 保持。


 統合。


 復帰補助。


 役に立つ。


 でも。


 何であるかは分からない。


 呼び方も承認されていない。


 それでも。


 使おうとした。


 もし。


 意志があるものなら。


 どんな気持ちだったのか。


 分からない。


「人みたいに考えすぎてる?」


 アリシアが尋ねる。


 グラン先生は。


「可能性はあります」


 と答えた。


「設備かもしれない。意志のない術式かもしれない」


「はい」


「それでも、あなたが寂しいと感じたことは感情として記録できます」


「はい」


 アリシアは書く。


『管理から外した判断の善悪は不明』


『対象に意志があるかも不明』


『感情:名前や所属が決まらないまま、機能だけを求められたように見えて寂しい』


 ◇


 資料確認の最後。


 教務主任が。


 今後の調査範囲を示した。


「確認項目を更新します」


 一。


 深部補助座と、第六補助点の同一性。


 二。


 接続線のない『在』と、台帳の『対象在り』表示の比較。


 三。


 保持、統合、復帰補助機能と、現在の結界異常の関係。


 四。


 呼称未承認の意味。


「呼称候補の復元は行わない」


 リーネが確認する。


「はい」


「対象への呼びかけ試験は」


「行わない」


「現地調査」


「禁止継続」


「再表示試験」


「行わない」


「承知しました」


 アリシアは。


 少し安心した。


 調査は進む。


 でも。


 呼ばない。


 名前をつけない。


 まず知る。


「一つだけ」


 教務主任が言う。


「台帳の内容は、公開範囲を限定します」


 六人の表情が引き締まる。


「他の生徒へ話してよいのは、初期台帳に名称未登録の補助座が存在したこと。機能が保持、統合、復帰補助と記録されていたことまで」


「呼称未承認は?」


 リーネが尋ねる。


「非公開」


「理由は」


「安易な命名や、呼びかけを試す者が出る可能性があります」


 アリシアは、学園の噂を思い出す。


 六人の共有語。


 すぐに広がった。


 接続線のない『在』。


 名前がない。


 呼ばれていない。


 もし。


 その話が広がれば。


 誰かが名前をつけようとするかもしれない。


 面白半分。


 善意。


 英雄願望。


 様々な理由で。


「分かりました」


 アリシアは強く頷いた。


「話しません」


「ノアさんの証言も非公開です」


 ノアが言う。


「当然ね」


「六人の中でも、資料外の推測として扱ってください」


「承知しました」


 ルシアンが答えた。


 ◇


 相談室を出た後。


 六人は。


 また廊下の長椅子へ座った。


 誰も。


 すぐには話さない。


 今日の資料。


 重い。


 でも。


 恐怖だけではない。


 名前。


 承認。


 空欄。


 機能。


 管理外。


 それぞれの心へ。


 違う形で残っている。


 窓の外では。


 朝の靄は完全に消え。


 青い空が広がっていた。


 最初に口を開いたのは。


 レオンだった。


「呼称未承認って」


 声は小さい。


「名前をつけた人が、駄目だって言ったのか。それとも、呼ばれる側が嫌だって言ったのか」


 リーネが答える。


「記録からは分かりません」


「分かってる」


 レオンは。


 膝へ肘を置き。


 手を組む。


「でも、呼ばれる側が嫌だって言ったなら……昔の人は、ちゃんと聞いたのかな」


 その問い。


 誰も答えられない。


 シオンが。


 窓の外を見ながら言う。


「聞いたから、未承認って記録した可能性もある」


「じゃあ、勝手につけなかった?」


「少なくとも登録はしなかった」


 ルシアンが静かに続ける。


「過去の管理者が、全て無責任だったとは限りません」


 アリシアは頷く。


 悪い人。


 忘れた人。


 消した人。


 そう決めるのは簡単。


 でも。


 名前を承認されなかったから。


 空欄のまま残した。


 それは。


 もしかしたら。


 尊重だったのかもしれない。


 危険管理だったのかもしれない。


 臆病だったのかもしれない。


 全部あり得る。


 ミランダが言う。


「名前が決まるまで、空欄を守ったのかも」


 リーネが。


 少しだけ目を細める。


「空欄を、未完成と見るか。保留として守ったと見るか」


 アリシアの胸に。


 その言葉が入る。


 空欄。


 何もない場所。


 そうではなく。


 勝手な名前を書かないための場所。


「私、空欄担当って言われるの、少し嫌だった」


 アリシアが言う。


 シオンが。


 少し申し訳なさそうにこちらを見る。


「ごめん」


「嫌だったけど……今日、少し意味が変わった」


「どう変わった?」


「空欄って、何もないんじゃなくて。まだ決めないために空けてある場所かもしれない」


 シオンは。


 しばらく黙った。


 それから。


「じゃあ、空欄担当はやめる」


 と答えた。


「別の名前をつける?」


ミランダが聞く。


 シオンは首を横に振った。


「本人が決めるまで、いらない」


 アリシアは。


 少し目を見開いた。


 ルシアンが。


 静かに笑う。


「良い判断だと思います」


 レオンも言う。


「アリシアはアリシアでいい」


 ミランダが頷く。


「うん!」


 リーネも。


 手帳を開かず。


「役割名が必要な時は、機能を正確に説明します」


 と答えた。


 空欄担当。


 復帰点の子。


 六人目。


 それらは。


 親しみから生まれた呼び方。


 でも。


 今は。


 アリシア。


 それでいい。


「ありがとう」


 アリシアが言うと。


 シオンは少し笑った。


「礼を言われると、僕がすごく悪いことしてたみたい」


「悪いと思ってない」


「ならよかった」


 ◇


 図書館。


 今日は。


 公開できる情報と。


 できない情報を分ける作業。


 リーネが二つの欄を作る。


『共有可』


・初期台帳に名称未登録の補助座が存在。

・機能は保持、統合、復帰補助。

・五主支点の中央下部に位置する概念図あり。

・第六補助点との同一性は未確認。


『非公開』


・呼称未承認。

・呼称候補の記録。

・ノアの古い表現。

・対象への呼びかけに関する推測。

・接続線のない『在』との詳細比較。


 レオンが。


 少し苦い顔をする。


「話したくなるな」


「何を?」


 ミランダが聞く。


「名前を勝手につけるなって、みんなに言いたい」


 アリシアも。


 その気持ちは分かる。


 でも。


 名前のない何かがある。


 そう話すだけで。


 名づけたい人を増やすかもしれない。


「話さない方が守れることもある」


 ルシアンが言う。


「うん」


 レオンは頷いた。


 少し悔しそう。


 でも。


 守るための沈黙。


 隠すこと。


 全部が悪いわけではない。


 シオンが。


 公開可能欄を見ながら言う。


「保持、統合、復帰補助って、共有語の役割にも似てるね」


 リーネが答える。


「機能上の類似はあります」


「保持。誰かが崩れないよう支える」


 ミランダが言う。


「統合。みんなの動きを合わせる」


 レオンが続ける。


「復帰補助。戻る道を作る」


 全員の視線が。


 自然とアリシアへ集まる。


 アリシアの肩が。


 少し固くなる。


 自分へ繋げられる。


 特別な役割。


 怖い。


「似てる」


 アリシアは認める。


「でも、私一人の役割じゃない」


 六人が見る。


「支援はみんながする。統合はリーネさんやルシアンさんもする。戻る道は、全員が空ける」


 今日の訓練。


 アリシアがいない時も。


 五人は戻った。


 復帰点を使った。


「だから、深部補助座と私が同じだとしても……全部が私だけの役目だとは思いたくない」


 ルシアンが、ゆっくり頷く。


「非常に重要です」


 リーネも。


「機能の集中を避けるべきです」


 レオンが言う。


「六人でやる」


 ミランダも。


「うん!」


 シオンは。


 少し考え。


「もし昔の深部補助座が、一つで全部やろうとして壊れたなら」


 言葉を止める。


「今度は六人で分ける?」


 仮説。


 でも。


 温かな仮説。


 アリシアは。


 胸の奥に置く。


「そうできたらいい」


 ◇


 夕方。


 メリルと歩く。


 今日は。


 最初から最後まで話すと。


 長くなる。


 でも。


 メリルは。


 いつも通り。


 急がない。


 台帳。


 深部補助座。


 登録名空欄。


 保持。


 統合。


 復帰補助。


 公開してよい範囲だけ。


 呼称未承認は。


 話してはいけない。


 だから。


 そこだけ避ける。


 アリシアは。


 話せない場所があることを意識しながら言葉を選んだ。


 以前なら。


 隠していることに罪悪感を覚えたかもしれない。


 でも。


 今は。


 境界。


 守るため。


 メリルも。


 詳しく聞かない。


「名前は、なかったんだね」


「うん。最初から空欄」


「消されたんじゃなくて?」


「台帳には、最初から空欄って書いてあった」


 メリルは。


 少し考える。


「じゃあ、誰かが書き忘れたわけでもない」


「うん」


「空けておいた」


「たぶん」


 アリシアは。


 廊下の長椅子で話したことを伝える。


 空欄は。


 何もない場所ではなく。


 まだ決めないために守られた場所かもしれない。


 メリルは。


 ゆっくり頷いた。


「アリシアちゃんも、空欄担当って呼ばないことになったんだね」


「うん」


「寂しい?」


 予想していなかった質問。


 アリシアは。


 少し考える。


「少し」


「嫌だったのに?」


「うん。でも……みんなが呼んでたから」


 親しみ。


 冗談。


 役割。


 嫌なところもあった。


 でも。


 なくなると。


 少し寂しい。


「嫌だった気持ちと、なくなって寂しい気持ち。両方でいいんだね」


 メリルが言う。


「うん」


「これからは、アリシアちゃん」


「うん」


「たまに、復帰点の子」


「それもやめて」


 メリルが笑う。


 アリシアも笑った。


 ◇


 夜。


 アリシアは机へ向かう。


 練習帳。


 今日の頁。


 最初に。


 朝の夢の感覚。


 名前について。


 ノアの名前。


 次に。


 生活基礎。


『呼ばれたい名前を尋ねる。呼ばれたくない呼び方を無理に使わない』


『名前は理解の道具。相手を閉じ込める箱ではない』


『私は、黒い子、六人目だけで呼ばれるより、アリシアと呼ばれたい』


 訓練。


『一人ずつ欠けた五人訓練を行った』


『欠けても崩れないことと、不要であることは別』


『戻った人を受け入れるためには、位置を空けるだけでなく、“戻った”と共有する言葉が必要』


『候補:後方、復帰。基準点、復帰』


『“中央、交代”は、治癒補助班の交代と意味が混ざるため保留』


 そして。


 台帳。


 アリシアは。


 ゆっくり書く。


『初期支点登録台帳』


『深部補助座』


『登録名:空欄』


『接続神器:記載なし』


『所属:未定』


『機能:保持・統合・復帰補助』


『名称欄は欠損ではなく、初期登録時から空欄』


 ペンを止める。


 呼称未承認。


 非公開。


 練習帳へ書いてよいか。


 自分の記録。


 教務主任は、外へ話すなと言った。


 書くことは禁止されていない。


 でも。


 練習帳を誰かに見せることもある。


 アリシアは、別の封印頁を開く。


 教員とノアのみ閲覧可の札を挟む。


 そこへ書く。


『非公開情報』


『呼称未承認』


『複数の呼称候補が承認されなかった記録あり』


『候補名の復元は、対象の意志を無視する可能性があるため、現時点で調査対象外』


 さらに。


『ノアの証言との概念的類似あり。ただし同一性未確認』


 公開頁へ戻る。


『深部補助座は、五主支点の中央下部に配置されていた』


『五つの外側ではなく、五つを支える深部』


『ただし、闇属性、黒月、黒猫の記載なし』


『感情:闇と書いてあると思っていたので残念』


『自分の訓練役割と似る。でも、保持・統合・復帰は六人全員が行っている。私一人の役割とは決めない』


 最後に。


 管理対象外。


 支点図から削除。


『悪意で消したとは決めない。安全判断の可能性もある』


『でも、名前や所属がないまま、機能だけを求められたように感じて寂しい』


 ノアが机へ跳び乗る。


 今日は。


 アリシアから点数を聞かなかった。


 少し待つ。


 ノアは練習帳の公開頁。


 封印頁。


 両方を確認する。


「非公開情報を分けたのは良いわね」


「メリルさんにも話さなかった」


「話したかった?」


「少し。でも、守るためだから」


「よろしい」


 アリシアは。


 ノアを見る。


「今日は?」


「百点」


「朝は九十八点だった」


「一日は朝だけではない」


「どこが百点?」


「名前を知りたい気持ちがあっても、未承認の候補を掘り返さない方を選んだ」


「うん」


「深部補助座と自分を重ねても、役割を一人で抱えなかった」


「うん」


「話してはいけないことを、罪悪感で話さなかった」


「うん」


「空欄担当と呼ばれなくなることを、寂しいと認めた」


「それも?」


「嫌だったものがなくなれば、必ず嬉しいとは限らない」


「うん」


 ノアは。


 前足を練習帳の端へ置く。


「それと」


「何?」


「私の名前について、無理に聞かなかった」


 アリシアは少し笑う。


「聞きたいけど」


「知ってる」


「いつか教えてくれる?」


「私が教えたくなれば」


「うん」


 以前なら。


 いつ。


 どうして。


 自分には教えられないのか。


 問いを重ねたかもしれない。


 今は。


 ノアが選ぶ。


 その余白を守る。


「最後に書くなら?」


 アリシアは。


 今日の空欄を思い返す。


 名前が書かれなかった場所。


 欠損ではない。


 忘れたのでもない。


 空けたまま。


 何百年。


 何百年より長いかもしれない。


 誰にも埋められず。


 残っていた場所。


 一行。


『空欄は、何もない場所とは限らない』


 ノアは黙っている。


 アリシアは続ける。


『まだ決めないために、誰かが守った場所かもしれない』


 そして。


 少し迷い。


 もう一行。


『名前を呼ぶ権利は、名前を知った人ではなく、呼ばれる相手から許された人にあるのかもしれない』


 ノアの金色の瞳が。


 アリシアを見た。


 少し長い沈黙。


「少し違う」


 ノアが言った。


「違う?」


「権利というより、信頼ね」


 アリシアは。


 書いた一文を見つめる。


 消さない。


 その下へ。


 追記する。


『ノア:権利というより、信頼』


「これでいい?」


「ええ」


 アリシアは最後に。


 もう一行書いた。


『だから私は、名前を探す前に、呼ばれても怖くない相手になりたい』


 ノアは。


 その一文を見つめ。


 ゆっくり目を細めた。


「百一点」


 アリシアは顔を上げる。


「百一点はないんじゃなかったの?」


「レオンの採点にはない」


「私にはあるの?」


「今日だけ」


「ずるい」


「嬉しくない?」


「……嬉しい」


「ならいいでしょう」


 アリシアは笑った。


 練習帳を閉じる。


 夜は。


 静かだった。


 水音はない。


 白い表示も出ない。


 名前のない何かから。


 返事も来ない。


 それでも。


 今日。


 古い台帳の中に。


 空欄が見つかった。


 消された跡ではない。


 最初から。


 何も書かれなかった場所。


 そこには。


 保持。


 統合。


 復帰補助。


 機能だけが記されていた。


 呼び方は。


 まだない。


 あるいは。


 人間が知らないだけ。


 アリシアは。


 今すぐ名前を探したい気持ちを。


 胸の奥へ静かに置いた。


 探さないわけではない。


 知ろうとすることを諦めるわけでもない。


 ただ。


 見つけた言葉を。


 すぐ相手へ貼りつけない。


 いつか。


 何かが。


 本当にそこに在り。


 自分たちの声を聞くことができ。


 呼ばれることを望むのなら。


 その時。


 六人で。


 同じ意味を知り。


 同じ気持ちで。


 呼びたい。


 でも。


 呼ぶより先に。


 聞かなければならない。


 何と呼ばれたいのか。


 自分たちの声を。


 受け取ってもらえるのか。


 アリシアは灯りを落とした。


 寝台へ入る。


 ノアが足元へ丸くなる。


「おやすみ、ノア」


「おやすみ、アリシア」


 互いに受け取った名前。


 互いに許した呼び方。


 その確かさを胸へ抱きながら。


 アリシアは目を閉じた。


 今夜は。


 名前のない何かを呼ばない。


 ただ。


 呼ばれる日が来るまで。


 空欄を空欄のまま。


 静かに守ることにした。

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