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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第7話 はじめての食堂


 食堂へ向かう道は、講堂へ向かった時よりも少しだけ歩きやすかった。


 人の数は、相変わらず多い。


 新入生説明会を終えたばかりの生徒たちが、同じように食堂を目指している。石畳の道には靴音が重なり、あちこちから声が聞こえた。


「腹減ったー」


「説明長かったね」


「明日の属性測定、緊張する……」


「ランキング戦っていつからだろ」


「食堂って無料なの?」


「寮費に含まれてるって聞いたよ」


 明るい声。


 不安そうな声。


 興奮した声。


 それらが夜の学園に混ざっている。


 アリシアはメリルの隣を歩きながら、腕の中のノアをそっと抱き直した。


 講堂に入る前ほど、足は震えていない。


 けれど、胸の奥にはまだ説明会の余韻が残っていた。


 学園長の言葉。


 五つの紋章。


 ガレスとの会話。


 火、水、風、土、光の継承者たち。


 そして、明日の属性測定。


 考えることが多すぎて、頭の中が少し散らかっている。


「アリシアちゃん、大丈夫?」


 メリルが隣から覗き込む。


「えっ……あ、うん。大丈夫」


「本当?」


「……たぶん」


「たぶんなんだ」


 メリルが小さく笑った。


 アリシアも少しだけ笑う。


 たぶん。


 それが今の正直な気持ちだった。


 大丈夫、と言い切れるほど強くはない。


 でも、もう無理、と言うほどでもない。


 少し怖い。


 少し疲れた。


 少しだけ、楽しみ。


 そんな気持ちが全部混ざっていた。


 ノアが腕の中で小さく言う。


「食堂に着いたら、まず席を確保しなさい」


 アリシアはびくっとした。


 周りに聞こえていないか確認する。


 メリルは前を見て歩いている。


 大丈夫そうだった。


「席……」


 アリシアは小声で返す。


「そう。人が多い場所では、先に落ち着ける場所を見つけるのが大事よ」


「なるほど……」


「入口で固まらない」


「う……」


「料理の受け取り方が分からなかったら、前の人を見る」


「うん」


「それでも分からなかったら、聞く」


「聞く……」


「今日何回やったと思ってるの」


「いっぱい……」


「ならできるわ」


 ノアの言葉は厳しい。


 でも、道順を教えてくれる。


 それだけで、アリシアの呼吸は少し整った。


 やがて、食堂が見えてきた。


 第一寮の奥にあるという説明だったが、実際には寮棟と校舎の間にある大きな建物だった。


 天井が高く、横に長い。


 大きな窓からは暖かな灯りが漏れている。


 入口の上には、木彫りの看板が掲げられていた。


 中央学園第一食堂。


 中からは、すでに大勢の声と、食器の触れ合う音が聞こえている。


 さらに、温かい匂いが漂ってきた。


 焼いた肉。


 煮込んだ野菜。


 焼きたてのパン。


 香草。


 スープ。


 アリシアのお腹が、きゅう、と小さく鳴った。


 メリルが振り返る。


「今の……」


「ち、違……違わない……」


 アリシアは顔を真っ赤にした。


 メリルは笑いをこらえるように口元を押さえた。


「私もお腹空いたよ」


「うぅ……」


 ノアが腕の中で呟く。


「正直でよろしい」


「ノアまで……」


「事実でしょう」


 アリシアは小さく肩を落とした。


 けれど、そのやり取りのおかげで、食堂の入口前で固まらずに済んだ。


 扉をくぐる。


 その瞬間、音と光と匂いが一気に押し寄せてきた。


 広い食堂だった。


 長いテーブルがいくつも並び、すでに新入生たちがあちこちに座っている。奥には料理を受け取る場所があり、白い前掛けをつけた職員たちが手際よく皿を並べていた。


 壁には灯りがともり、天井の梁から吊るされた魔導灯が柔らかな光を落としている。


 窓の外は夜に沈み始めているが、食堂の中は明るく、温かい。


 けれど、その温かさ以上に、アリシアには人の多さが強く感じられた。


 声が多い。


 椅子の音が多い。


 笑い声が多い。


 視線が多い。


 アリシアは入口で足を止めかけた。


 その瞬間、ノアの尻尾が腕の中で動く。


 入口で固まらない。


 さっき言われたばかりだ。


 アリシアは一歩、中へ入った。


 メリルも隣で少し緊張している。


「まず、席……だったよね」


 アリシアが小声で言うと、メリルが頷いた。


「うん。空いてるところ……あ、あそこは?」


 メリルが示した先に、端の方の四人掛けのテーブルがあった。


 壁際で、通路から少し離れている。


 アリシアにとっては、とてもありがたい場所だった。


「あそこ……いいかも」


「じゃあ、先に席取ろう」


 二人は人の間を抜けて、壁際の席へ向かった。


 途中、何人かがノアを見る。


「黒猫だ」


「従魔?」


「かわいい」


 小さな声が聞こえる。


 アリシアは少し身を縮めそうになるが、ノアは堂々としていた。


 だからアリシアも、何とか前を向いた。


 席に着くと、少しだけ息がしやすくなった。


 壁が近い。


 背後を気にしなくていい。


 視線が全部から来るわけではない。


 アリシアはノアを膝の上に下ろした。


 ノアはすぐに机の上へ乗ろうとした。


「ノア」


 アリシアは慌てて小声で止める。


「食堂では膝か専用籠って言われたよ」


 ノアは不満そうに目を細めた。


「面倒ね」


「決まりだから……」


「分かってるわよ」


 ノアはしぶしぶ膝の上で丸くなった。


 登録札が小さく揺れる。


 メリルが向かいの席に座り、ほっと息を吐いた。


「席、取れたね」


「うん……」


「次は料理かな」


 アリシアは奥の配膳台を見る。


 新入生たちが列を作っている。


 皿を受け取り、料理を選び、飲み物を受け取り、席に戻る。


 流れは見える。


 でも、自分がやるとなると緊張する。


 何を言えばいいのか。


 料理は選べるのか。


 お金は必要なのか。


 ノアを置いていくのか。


 考え始めると、また不安が膨らむ。


 ノアが膝の上で言った。


「私はここにいるわ」


「え……でも」


「席を見てる。あんたは料理を取ってきなさい」


「ノア、一人で大丈夫?」


「私を何だと思ってるの」


「えっと……大事な子……」


 ノアは一瞬黙った。


 それから顔をそらした。


「そういう話じゃないわ」


「ご、ごめん……」


「いいから行きなさい。メリルと一緒に」


 メリルはノアが喋っているとは思っていない。


 アリシアは自然に聞こえるように、ノアを撫でながら言った。


「ノア、ここで待っててね」


 ノアは普通の猫のように小さく鳴いた。


「にゃあ」


 完璧だった。


 アリシアは少しだけ感心した。


 メリルも笑う。


「ノアちゃん、本当に賢いね」


「うん……すごく」


 二人は配膳台へ向かった。


 列に並ぶ。


 前の生徒たちの動きを見る。


 まず木のトレーを取る。


 次にパン。


 その後、主菜を選ぶ。


 スープ。


 飲み物。


 最後に小さな果物。


 お金を払っている様子はない。


 寮費に含まれているのだろう。


 アリシアは必死に順番を覚えた。


「トレー、パン、主菜、スープ、飲み物……」


 小さく呟く。


 メリルが隣で同じように頷いている。


「主菜、二種類あるね。肉と魚かな」


「どっちにする?」


「私は肉かな。アリシアちゃんは?」


「えっと……」


 アリシアは迷った。


 魚は山でもよく食べた。


 肉は特別な時が多かった。


 今日はとても疲れた。


 祖父がいたら、しっかり食べなさいと言うだろう。


「肉……にする」


「うん」


 列が進む。


 アリシアの番になった。


 配膳担当の女性が笑顔で言う。


「肉料理と魚料理、どちらにしますか?」


 分かっていた質問なのに、いざ聞かれると少し緊張する。


「あ、えっと……肉料理で、お願いします」


「はい、肉料理ね。スープもどうぞ」


「あ、ありがとうございます」


 言えた。


 それも、あまり噛まなかった。


 アリシアは小さく胸を撫で下ろす。


 トレーは思ったより重かった。


 パン、肉料理、野菜の煮込み、スープ、果物、水の入った杯。


 落とさないように、両手で慎重に持つ。


 歩く速度が遅くなる。


 後ろから来る生徒の邪魔になっていないか心配になる。


「アリシアちゃん、ゆっくりで大丈夫」


 メリルが隣で言ってくれる。


「う、うん」


 席へ戻ると、ノアは膝の上から椅子の上へ移動していた。


 机には乗っていない。


 アリシアはほっとした。


 ノアは得意げな顔をしている。


「ちゃんと待ってたわよ」


「うん、偉い」


「子ども扱いしない」


「あっ……」


 アリシアは慌てて口を閉じる。


 メリルには聞こえないようだった。


 二人は席に座り、食事を始めた。


 最初の一口。


 アリシアは肉料理を少し切り、口に運んだ。


 柔らかい。


 香草の香りが広がる。


 山で食べていた肉とは違う味だった。


 しっかり味がついていて、温かくて、疲れた体に染み込む。


「……おいしい」


 思わず呟いた。


 メリルが嬉しそうに頷く。


「おいしいね。学園の食堂、思ったより豪華」


「うん……」


 ノアが椅子の上からアリシアを見上げる。


「私の分は?」


 アリシアは小さく固まった。


 従魔用の食事。


 そういえば、どうするのだろう。


 ノアは神獣だが、今は登録上、猫だ。


 食堂で猫に人の料理を分けてもいいのだろうか。


 アリシアが迷っていると、近くを通った食堂職員の女性がノアに気づいた。


「あら、従魔連れね。小型従魔用の皿、持ってきましょうか?」


 アリシアはぱっと顔を上げた。


「あ、お願いします」


「肉と魚、どちらがいいかしら」


 ノアを見る。


 ノアはアリシアを見た。


 当然、肉。


 そういう顔だった。


「に、肉で……」


「はい。少し待っててね」


 職員はにこやかに去っていった。


 メリルが感心したように言う。


「従魔用のご飯もあるんだね」


「うん……すごいね」


 しばらくして、小さな皿に細かく切った肉と野菜が少し載せられて運ばれてきた。


 アリシアはそれを椅子の上のノアの前へ置く。


「ノア、ご飯だよ」


 ノアは少し不満そうに皿を見た。


「量が少ないわね」


 アリシアは小声で言う。


「あとで少し分けるから……」


「約束よ」


「うん」


 ノアはようやく食べ始めた。


 姿だけ見れば、ただの上品な黒猫だった。


 アリシアは少し笑ってしまう。


 ノアがすぐに顔を上げる。


「何笑ってるの」


「なんでもない」


「笑ってたわよ」


「かわいいなって……」


 言った瞬間、ノアの尻尾がぴんと立った。


 アリシアはしまったと思った。


「……後で覚えてなさい」


「ご、ごめ……」


「謝らない。あと、かわいいは禁止」


「えぇ……」


 メリルが首を傾げる。


「どうしたの?」


「あっ、ううん。ノア、よく食べるなって」


「元気でいいね」


「うん……」


 アリシアは誤魔化しながらスープを飲んだ。


 温かい。


 少し塩気が強いけれど、疲れた体にはちょうどよかった。


 食堂の中は、時間が経つにつれてさらに賑やかになった。


 新入生たちが次々に入ってくる。


 席が埋まり、笑い声が増えていく。


 その中でも、ひときわ目立つ声があった。


「肉! 肉大盛りで頼む!」


 ガレスだった。


 配膳台の方で、赤髪の大柄な少年が堂々と皿を受け取っている。


 職員が苦笑している。


「大盛りは一回までよ」


「そうか! なら大事に食う!」


「本当に一年生かしらねぇ、その食べっぷり」


 周囲の生徒たちが笑っている。


 ガレスはトレーに山盛りの料理を載せ、空いている席を探していた。


 アリシアは反射的に目を逸らしかけた。


 だが、少し遅かった。


 ガレスの視線がこちらを捉えた。


「あ!」


 大きな声。


 アリシアの肩が跳ねる。


 ガレスが片手を上げて近づいてきた。


「木刀のやつ!」


 食堂の数人がこちらを見る。


 アリシアは固まった。


 木刀のやつ。


 自分のことだ。


 間違いなく。


 メリルが小声で言う。


「アリシアちゃん、呼ばれてる……」


「う、うん……」


 ガレスはトレーを持ったまま、アリシアたちのテーブルの前で立ち止まった。


「ここ、空いてるか?」


 四人掛けのテーブル。


 空いている席は二つ。


 アリシアはどう答えればいいのか分からず、メリルを見る。


 メリルも少し驚いているが、すぐに頷いた。


「あ、はい。空いてます」


「助かる!」


 ガレスは豪快に座った。


 椅子が少し軋んだ。


 アリシアは目の前に座るガレスの迫力に、思わず背筋を伸ばした。


 近い。


 講堂で話しかけられた時も大きいと思ったが、向かいの席に座られるとさらに大きい。


 肩幅が広い。


 腕が太い。


 食堂の灯りを受けた赤髪が、やはり炎のようだった。


 ガレスは料理を見て満足げに笑う。


「いやー、腹減ったな!」


「説明会の前に訓練してたからじゃ……」


 メリルが少し遠慮がちに言う。


 ガレスは目を丸くした。


「見てたのか?」


「遠くからですけど」


「そうか! まだ軽かっただろ?」


「軽い……?」


 メリルが困った顔をする。


 アリシアも同じ気持ちだった。


 あの巨大な模擬剣を見て、軽いとは思えない。


 ガレスは肉を豪快に口へ運び、満足そうに頷いた。


「うまい!」


 食べる声まで大きい。


 けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。


 ガレスの明るさは、人を押し潰すというより、巻き込む勢いだった。


 ガレスはアリシアを見る。


「そういえば、名前もう一回聞いていいか?」


「あ……アリシア、です」


「そうだ、アリシア! 悪い、俺、人の名前覚えるのは得意なんだが、腹が減ると少し抜ける!」


「そ、そうなんですか……」


「おう!」


 自信満々に言うことなのだろうか。


 アリシアは少し困ったが、メリルは笑っていた。


「私はメリルです」


「メリルだな! よろしく!」


「よろしくお願いします」


「敬語じゃなくていいぞ。同じ一年だろ!」


「じゃあ……よろしく、ガレス君」


「おう!」


 メリルはすぐに距離を調整できている。


 すごい。


 アリシアは密かに感心した。


 自分も敬語をやめた方がいいのだろうか。


 でも、ガレスの迫力を前にすると、自然と敬語になる。


 ガレスはそんなアリシアの様子を見て、首を傾げた。


「アリシアは、なんでそんなに固まってるんだ?」


「ひゃ……」


「怖いか?」


 直球だった。


 アリシアは言葉に詰まる。


 怖い。


 少し。


 いや、かなり。


 でも、本人を前にして怖いとは言いにくい。


 アリシアが困っていると、ノアが椅子の上から小さく尻尾でアリシアの腕を叩いた。


 嘘をつくな。


 アリシアは小さく息を吸った。


「す、少し……声が大きくて……びっくり、します」


 言った。


 言ってしまった。


 メリルが「あ」と小さく声を漏らす。


 ガレスは一瞬目を丸くした。


 アリシアは慌てる。


「あ、ご、ごめ……」


「そうか!」


 ガレスは大きく頷いた。


「なら、少し小さくする!」


「え……」


 怒らなかった。


 それどころか、ガレスは本当に声を少し抑えた。


 それでも普通の人より大きいが、先ほどよりはましだった。


「これくらいならどうだ?」


 アリシアは驚きながら頷く。


「だ、大丈夫……です」


「そうか! ならよかった!」


 ガレスはまた笑った。


 アリシアは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 言ってよかった。


 怖いと全部飲み込まずに、少し伝えたら、相手は受け取ってくれた。


 ノアが小さく言う。


「八十点」


 アリシアはノアを見る。


 褒められた。


 たぶん、とても。


 ガレスはノアに視線を移した。


「その黒猫、ノアだったか?」


「あ、はい」


「賢そうだな!」


 ノアは普通の猫らしく、静かにガレスを見上げた。


 ガレスは楽しそうに笑う。


「目つきが強い! いいな!」


 ノアの尻尾が少し動いた。


 褒められているのか、判断に迷っているようだった。


 アリシアは少し笑いそうになる。


 その時、また賑やかな声が近づいてきた。


「あー! ガレス、ここにいた!」


 黄髪の少女が、トレーを持ってこちらへ歩いてきた。


 ミランダだった。


 昼間、講堂で見た時と同じく、明るい空気をまとっている。


 彼女のトレーにも、肉料理がしっかり載っていた。


 ガレスが顔を上げる。


「おう、ミランダ!」


「席探してたんだよ。隣、空いてる?」


「空いてるぞ!」


 ミランダはアリシアたちを見る。


 にっこり笑った。


「座ってもいい?」


 明るい。


 近い。


 勢いがある。


 アリシアは一瞬固まったが、メリルが先に答えた。


「どうぞ」


「ありがと!」


 ミランダはガレスの隣に座った。


 四人掛けのテーブルに四人。


 アリシア、メリル、ガレス、ミランダ。


 ノア。


 急に、テーブルがとても賑やかになった。


 ミランダはアリシアを見て、目を輝かせた。


「わ、黒猫! かわいい!」


 ノアの耳がぴくっと動く。


 アリシアは内心で冷や汗をかいた。


 かわいいは禁止。


 ついさっき、そう言われたばかりだ。


 ミランダは身を乗り出す。


「触ってもいい?」


 アリシアは息を飲んだ。


 まただ。


 子どもたちの時と同じ。


 ノアは嫌がるだろう。


 断らないといけない。


 でも相手はミランダ。


 土の継承者。


 明るくて、悪気がなくて、周囲から注目される少女。


 断ったら、嫌な気持ちにさせるかもしれない。


 アリシアは膝の上で手を握る。


 ノアは椅子の上でアリシアを見ていた。


 自分で言いなさい。


 アリシアは息を吸った。


「あ、あの……ノアは、触られるのが少し苦手で……ごめ……じゃなくて……見るだけなら」


 言えた。


 途中で謝りかけたが、止めた。


 ミランダは少し残念そうにしたが、すぐに笑った。


「そっか! じゃあ見るだけにする!」


 そして本当に、手を出さずにノアを眺めた。


「目が綺麗だねぇ」


 ノアは静かに座っている。


 ミランダは満足そうに頷いた。


「うん。いい子だ」


 ノアの尻尾が、ほんの少しだけ揺れた。


 アリシアはほっと息を吐いた。


 ガレスが肉を食べながら言う。


「ミランダ、猫好きだったのか?」


「好き! でも実家の亀が猫を怖がるから飼えなかった!」


「亀が猫を怖がるのか?」


「うちの子、繊細なんだよ!」


 土の神獣は亀。


 アリシアは思わずミランダを見る。


 実家の亀。


 それは普通の亀なのか、それとも神獣に関係するものなのか。


 聞けるはずもない。


 ミランダは豪快に肉を食べた。


「うん、おいしい!」


「だろ!」


 なぜかガレスが自慢げに言う。


「ガレスが作ったわけじゃないでしょ」


 メリルが思わず言うと、ガレスは大きく笑った。


「確かに!」


 テーブルに笑いが起きた。


 アリシアも、少しだけ笑った。


 その笑いは小さかったが、確かに自然だった。


 ミランダはそれに気づいたのか、アリシアを見る。


「あなた、アリシアだよね? さっきガレスが話してた子!」


「は、はい……」


「私はミランダ! よろしく!」


「よ、よろしくお願いします……」


「敬語じゃなくていいよ!」


「う……」


 今日何度目だろう。


 敬語じゃなくていいと言われる。


 アリシアは困った。


 ガレスもミランダも、距離を詰めるのが早い。


 嫌ではない。


 ただ、心の準備が追いつかない。


「よ、よろしく……ミランダ、さん」


「さんもいらないよ!」


「そ、それは難しい……」


「難しいのかぁ」


 ミランダは真剣に考え込む。


 そして、ぱっと顔を上げた。


「じゃあ、慣れたらでいいよ!」


「あ……うん」


 その一言に、アリシアは少し救われた。


 急がなくていい。


 そう言われた気がしたから。


 ガレスはパンをちぎりながら言う。


「アリシアは木刀使うんだよな?」


「は、はい」


「剣術科か?」


「えっと……まだ、分からなくて……」


「特別推薦って言ってたもんね」


 メリルが補足する。


 ミランダの目が輝いた。


「特別推薦!? すごい!」


「す、すごくないです……」


「すごいよ! だって特別なんでしょ?」


「でも、私は……」


 アリシアは言葉に詰まる。


 自分がすごいとは思えない。


 そう言おうとした。


 けれど、ノアの尻尾が椅子の上からアリシアの足に触れた。


 自分を下げすぎない。


 今日、何度も注意されている。


 アリシアは言葉を飲み込んだ。


「……まだ、分からないことばかりだから、頑張ります」


 少し変な返しだったかもしれない。


 でも、自分を否定しすぎずに言えた。


 ミランダは満足そうに頷く。


「うん! 頑張るの大事!」


 ガレスも頷いた。


「そうだな! 分からないなら鍛えればいい!」


「全部鍛える方向なんだ……」


 メリルが呟く。


 ガレスは真顔で頷く。


「大体のことは鍛えれば何とかなる!」


「ならないこともあると思う」


「その時はもっと鍛える!」


 メリルが苦笑し、ミランダが楽しそうに笑う。


 アリシアはその会話を聞きながら、少し肩の力を抜いた。


 この二人は、強い。


 たぶん、とても。


 でも、怖いだけではない。


 ガレスは声が大きくて迫力があるけれど、こちらの言葉を聞いて声を抑えてくれた。


 ミランダは勢いがあるけれど、ノアに触るのを我慢してくれた。


 それだけで、アリシアの中の怖さは少し形を変える。


 知らない人。


 すごい人。


 遠い人。


 それだけではなくなっていく。


 食事は賑やかに進んだ。


 ガレスとミランダはよく食べた。


 本当によく食べた。


 メリルはその量に目を丸くし、アリシアは途中から少し圧倒された。


「二人とも……そんなに食べられるの?」


 アリシアが小さく聞くと、ミランダが笑顔で答えた。


「食べられるよ! 動くから!」


「動くから……」


「そう! 食べないと斧が振れない!」


 ガレスも頷く。


「剣も振れない!」


 似ている。


 火と土。


 属性は違うが、二人はどこか同じ方向を向いている気がした。


 ノアが小声で言う。


「脳筋が二人」


 アリシアはスープを吹き出しそうになった。


 慌てて口元を押さえる。


 メリルが心配そうに見る。


「大丈夫?」


「う、うん……スープが熱くて」


「気をつけてね」


 ノアは椅子の上で涼しい顔をしている。


 ずるい。


 アリシアは少しだけノアを睨んだ。


 ノアは目だけで返してくる。


 何よ。


 アリシアはすぐに目を逸らした。


 勝てない。


 食堂の別の席では、リーネが一人で静かに食事をしていた。


 食事をしながらも本を開いている。


 周囲に話しかけたそうな生徒はいるが、声をかけるタイミングを見つけられないようだった。


 シオンは少し離れた席で、数人の生徒に囲まれている。


 笑っているが、どこか距離がある。


 時々何かを言うたび、周囲が笑ったり、困ったりしていた。


 ルシアンはさらに奥の席で、上級生らしき生徒と落ち着いて話している。


 食堂の中でも、彼だけ周囲の空気が穏やかに整っているように見えた。


 アリシアは遠くからその姿を見ていた。


 その時、ルシアンがふと顔を上げた。


 また。


 一瞬だけ、視線がこちらへ向いた気がした。


 アリシアは慌てて目を逸らした。


 心臓が跳ねる。


 気のせい。


 たぶん、気のせい。


 でも、膝の下でノアの尻尾が少しだけ動いた。


 アリシアは小声で聞く。


「ノア……?」


「今は気にしない」


 ノアの声は低かった。


 アリシアはそれ以上聞けなかった。


 食事を終える頃には、最初の緊張は少し薄れていた。


 もちろん疲れはある。


 人の多さにも慣れたわけではない。


 でも、席に座り、料理を食べ、誰かと話し、笑うことができた。


 それだけで、食堂は恐ろしい場所から、少しだけ知っている場所へ変わった。


 ガレスが最後のパンを食べ終え、満足そうに息を吐く。


「うまかった!」


「声、戻ってる」


 メリルが言うと、ガレスははっとしてアリシアを見る。


「すまん、また大きかったか?」


 アリシアは少し驚いた。


 覚えていてくれたのだ。


 アリシアは首を横に振る。


「今のは……少し、慣れました」


「そうか!」


 ガレスは嬉しそうに笑った。


 その声はまた大きかった。


 でも、アリシアは少しだけ笑えた。


 ミランダが椅子から立ち上がる。


「明日、属性測定だよね! 楽しみ!」


「楽しみなんだ……」


 メリルが不安そうに言う。


「だって、自分の力をちゃんと見てもらえるんだよ? わくわくする!」


「私は緊張するなぁ」


「緊張もする! でも楽しみ!」


 ミランダらしい答えだった。


 ガレスも頷く。


「俺も楽しみだな! 火がどれくらい出るか試したい!」


 アリシアは黙っていた。


 属性測定。


 その言葉が出るたび、胸の奥が冷える。


 メリルがそれに気づいたのか、そっと声をかけてくれた。


「アリシアちゃんは?」


「え……」


「明日の属性測定、不安?」


 アリシアは少し迷った。


 ガレスとミランダもこちらを見ている。


 本当のことは言えない。


 でも、嘘もつきたくない。


 アリシアは膝の上で手を握った。


「……不安、です」


 小さく答えた。


「自分が、ちゃんとできるか……分からないから」


 それは本当だった。


 闇とは言わない。


 神器とも言わない。


 でも、不安なのは本当だ。


 ミランダは真剣な顔で頷いた。


「そっか。不安かぁ」


 ガレスも腕を組む。


「なら、飯を食って寝るのが一番だな!」


「それ、解決になる?」


 メリルが苦笑する。


「なるぞ! 寝不足だと力が出ない!」


 それは、少し正しい気がした。


 ミランダも頷く。


「うん! 寝るの大事!」


 ノアが小声で呟く。


「脳筋にしては正論ね」


 アリシアはまた笑いそうになり、必死に堪えた。


 ガレスはアリシアに向かって、真っ直ぐ言った。


「大丈夫だ。できなかったら、できるようにすればいい」


 アリシアは目を瞬かせた。


 ガレスは続ける。


「最初から全部できるやつなんて、つまらんだろ」


「……つまらない?」


「おう! できないことがあるから鍛えられる!」


 その考え方は、アリシアにはなかった。


 できないことは怖い。


 失敗は恥ずかしい。


 そう思っていた。


 でもガレスは、できないことを前向きに見ている。


 鍛える余地がある。


 そう考えている。


 アリシアは少しだけ胸が軽くなった。


「……ありがとう」


「おう!」


 ミランダも笑う。


「困ったら一緒に頑張ろ! 私も座学はたぶんだめ!」


「そこは頑張ろうね」


 メリルが優しく言う。


「うん! 教えて!」


「早い」


 四人の間にまた笑いが生まれた。


 アリシアはその笑いの中に、自分も少しだけ混ざれている気がした。


 食事を終え、食器を返却口へ持っていく。


 流れは最初より分かっていた。


 前の人を見る。


 同じように置く。


 職員に軽く頭を下げる。


「ごちそうさまでした」


 声は小さかったが、言えた。


 職員がにこりと笑う。


「はい、お粗末さま」


 それだけで、アリシアは少し嬉しくなった。


 食堂を出ると、夜風が涼しかった。


 空には星が出始めている。


 山で見る星よりは少ない。


 中央都市の灯りが明るいからだろう。


 それでも、星は確かにあった。


 アリシアは空を見上げる。


 祖父も、同じ空を見ているだろうか。


 山の空は、もっと星が多い。


 きっと今頃、家の前で夜風に当たっているかもしれない。


 少し寂しくなった。


 けれど、昼間ほど胸は苦しくなかった。


 今日、自分は食堂でご飯を食べた。


 メリルと話した。


 ガレスと話した。


 ミランダとも話した。


 ノアに支えられながら。


 それを祖父に話したいと思った。


 寂しさの中に、報告したい出来事ができた。


 それが少し嬉しかった。


「アリシアちゃん、寮に戻る?」


 メリルが聞く。


「うん……明日も早いし」


「そうだね。属性測定……」


 メリルは少し緊張した顔になる。


 アリシアも頷く。


「頑張ろうね」


 メリルが言った。


 アリシアは、少しだけ間を置いてから答えた。


「うん。頑張ろう」


 自分から、そう言えた。


 ガレスが大きく手を振る。


「また明日な!」


 アリシアは少し驚きながらも、手を小さく振り返した。


「ま、また明日……」


 ミランダも元気よく手を振る。


「アリシア、メリル、またね!」


「うん、またね」


 メリルが返す。


 アリシアも小さく言う。


「また……ね」


 その言葉が、不思議だった。


 またね。


 次がある言葉。


 今日だけで終わらない言葉。


 山では祖父にしか使わなかった言葉。


 それを、学園で出会った人たちに言った。


 胸の奥がくすぐったい。


 けれど、嫌ではない。


 寮へ戻る道で、ノアがアリシアの隣を歩いた。


 食堂を出てからは、ノアは腕の中ではなく、自分の足で歩いている。


 登録札が小さく揺れていた。


「今日は何点?」


 アリシアが小声で聞くと、ノアは少し考えた。


「七十五点」


「食堂全体で?」


「ええ」


「思ったより高い……」


「席を確保できた。料理も取れた。断ることもできた。ガレスに怖いと伝えられた。ミランダにもノアを触らせなかった」


「うん……」


「ただし、何度も固まりかけた。ルシアンを見て動揺した。私をかわいいと言った」


「最後も減点なの……?」


「当然」


 アリシアは困った顔をした。


 けれど、七十五点。


 悪くない。


 少なくとも、朝の自分よりはずっと進んでいる。


「ノア」


「何?」


「私……今日、少しだけ楽しかった」


 ノアは足を止めなかった。


 ただ、尻尾だけが少し揺れた。


「そう」


「怖かったけど……楽しかった」


「なら、覚えておきなさい」


「うん」


「怖いだけの日じゃなかったって」


 アリシアは頷いた。


 夜の学園を、二人と一匹で歩く。


 メリルは隣で今日の案内紙を確認している。


 ノアは足元で静かに歩いている。


 遠くではまだ食堂の明かりが揺れている。


 アリシアは胸元の守り袋に触れた。


 おじいちゃん。


 私、今日、少しだけ楽しかったよ。


 心の中でそう呟く。


 返事はない。


 でも、守り袋の木片は温かい気がした。


 第一寮に戻ると、廊下にはまだ多くの新入生がいた。


 食堂から戻ってきた者。


 明日の話をしている者。


 すでに部屋に入った者。


 アリシアとメリルは二階へ上がり、それぞれの部屋の前で立ち止まった。


「じゃあ、また明日」


 メリルが言う。


「うん。また明日」


 アリシアは今度は少しだけ自然に返せた。


 メリルが嬉しそうに笑い、自分の部屋へ入っていく。


 アリシアも二〇八号室の鍵を開けた。


 部屋に入る。


 扉を閉める。


 静かになった。


 食堂の賑わいが嘘のように、部屋の中は静かだった。


 アリシアは布袋を椅子に置き、深く息を吐いた。


「疲れた……」


「でしょうね」


 ノアが寝台へ飛び乗る。


「でも、よく耐えたわ」


「うん……」


 アリシアは机に向かい、祖父に渡された古い練習帳を開いた。


 何か書きたくなった。


 日記など、これまでほとんど書いたことがない。


 でも、今日のことを残しておきたかった。


 ペンを持つ。


 少し考える。


 そして、ゆっくり書いた。


『中央学園に着きました。食堂で、ご飯を食べました。メリルさんと、ガレスさんと、ミランダさんと話しました。怖かったけど、少し楽しかったです』


 それだけ書いて、手が止まる。


 祖父に見せるわけではない。


 でも、いつか帰った時に話すための練習のようだった。


 ノアが机の上を覗き込もうとする。


「何を書いてるの?」


「ひゃっ……見ないで」


「見られたくないなら堂々と机で書かない」


「うぅ……」


 アリシアは練習帳を閉じた。


 ノアはそれ以上追及しなかった。


 ただ、寝台の上で丸くなる。


「明日は属性測定よ」


「……うん」


「怖い?」


「怖い」


「そう」


「でも……今日よりは、少しだけ大丈夫かも」


 アリシアはそう言って、自分で驚いた。


 本当にそう思った。


 怖さはある。


 でも、今日を越えた自分がいる。


 ノアは金色の瞳でアリシアを見た。


「なら、寝なさい」


「うん」


「寝不足で震えるのは減点よ」


「厳しい……」


「当然」


 アリシアは小さく笑い、寝支度を始めた。


 窓の外には、中央学園の夜が広がっている。


 遠くで鐘が鳴った。


 山とは違う夜。


 知らない部屋。


 知らない明日。


 それでも、アリシアは布団に入った時、昨日ほど強い孤独を感じなかった。


 隣の部屋にはメリルがいる。


 食堂で「また明日」と言ってくれた人たちがいる。


 そして、枕元にはノアがいる。


 毒舌で、厳しくて、すぐ減点してくる黒猫。


 けれど、誰よりもそばにいてくれる存在。


「ノア」


「何?」


「おやすみ」


「おやすみ、アリシア」


 名前を呼ばれる。


 それだけで、胸が少し温かくなる。


 アリシアは目を閉じた。


 明日は属性測定。


 何が起こるか分からない。


 それでも、今日の最後に思えた。


 怖いだけじゃなかった。


 その小さな事実を抱きしめながら、アリシアは静かに眠りへ落ちていった。

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