第7話 はじめての食堂
食堂へ向かう道は、講堂へ向かった時よりも少しだけ歩きやすかった。
人の数は、相変わらず多い。
新入生説明会を終えたばかりの生徒たちが、同じように食堂を目指している。石畳の道には靴音が重なり、あちこちから声が聞こえた。
「腹減ったー」
「説明長かったね」
「明日の属性測定、緊張する……」
「ランキング戦っていつからだろ」
「食堂って無料なの?」
「寮費に含まれてるって聞いたよ」
明るい声。
不安そうな声。
興奮した声。
それらが夜の学園に混ざっている。
アリシアはメリルの隣を歩きながら、腕の中のノアをそっと抱き直した。
講堂に入る前ほど、足は震えていない。
けれど、胸の奥にはまだ説明会の余韻が残っていた。
学園長の言葉。
五つの紋章。
ガレスとの会話。
火、水、風、土、光の継承者たち。
そして、明日の属性測定。
考えることが多すぎて、頭の中が少し散らかっている。
「アリシアちゃん、大丈夫?」
メリルが隣から覗き込む。
「えっ……あ、うん。大丈夫」
「本当?」
「……たぶん」
「たぶんなんだ」
メリルが小さく笑った。
アリシアも少しだけ笑う。
たぶん。
それが今の正直な気持ちだった。
大丈夫、と言い切れるほど強くはない。
でも、もう無理、と言うほどでもない。
少し怖い。
少し疲れた。
少しだけ、楽しみ。
そんな気持ちが全部混ざっていた。
ノアが腕の中で小さく言う。
「食堂に着いたら、まず席を確保しなさい」
アリシアはびくっとした。
周りに聞こえていないか確認する。
メリルは前を見て歩いている。
大丈夫そうだった。
「席……」
アリシアは小声で返す。
「そう。人が多い場所では、先に落ち着ける場所を見つけるのが大事よ」
「なるほど……」
「入口で固まらない」
「う……」
「料理の受け取り方が分からなかったら、前の人を見る」
「うん」
「それでも分からなかったら、聞く」
「聞く……」
「今日何回やったと思ってるの」
「いっぱい……」
「ならできるわ」
ノアの言葉は厳しい。
でも、道順を教えてくれる。
それだけで、アリシアの呼吸は少し整った。
やがて、食堂が見えてきた。
第一寮の奥にあるという説明だったが、実際には寮棟と校舎の間にある大きな建物だった。
天井が高く、横に長い。
大きな窓からは暖かな灯りが漏れている。
入口の上には、木彫りの看板が掲げられていた。
中央学園第一食堂。
中からは、すでに大勢の声と、食器の触れ合う音が聞こえている。
さらに、温かい匂いが漂ってきた。
焼いた肉。
煮込んだ野菜。
焼きたてのパン。
香草。
スープ。
アリシアのお腹が、きゅう、と小さく鳴った。
メリルが振り返る。
「今の……」
「ち、違……違わない……」
アリシアは顔を真っ赤にした。
メリルは笑いをこらえるように口元を押さえた。
「私もお腹空いたよ」
「うぅ……」
ノアが腕の中で呟く。
「正直でよろしい」
「ノアまで……」
「事実でしょう」
アリシアは小さく肩を落とした。
けれど、そのやり取りのおかげで、食堂の入口前で固まらずに済んだ。
扉をくぐる。
その瞬間、音と光と匂いが一気に押し寄せてきた。
広い食堂だった。
長いテーブルがいくつも並び、すでに新入生たちがあちこちに座っている。奥には料理を受け取る場所があり、白い前掛けをつけた職員たちが手際よく皿を並べていた。
壁には灯りがともり、天井の梁から吊るされた魔導灯が柔らかな光を落としている。
窓の外は夜に沈み始めているが、食堂の中は明るく、温かい。
けれど、その温かさ以上に、アリシアには人の多さが強く感じられた。
声が多い。
椅子の音が多い。
笑い声が多い。
視線が多い。
アリシアは入口で足を止めかけた。
その瞬間、ノアの尻尾が腕の中で動く。
入口で固まらない。
さっき言われたばかりだ。
アリシアは一歩、中へ入った。
メリルも隣で少し緊張している。
「まず、席……だったよね」
アリシアが小声で言うと、メリルが頷いた。
「うん。空いてるところ……あ、あそこは?」
メリルが示した先に、端の方の四人掛けのテーブルがあった。
壁際で、通路から少し離れている。
アリシアにとっては、とてもありがたい場所だった。
「あそこ……いいかも」
「じゃあ、先に席取ろう」
二人は人の間を抜けて、壁際の席へ向かった。
途中、何人かがノアを見る。
「黒猫だ」
「従魔?」
「かわいい」
小さな声が聞こえる。
アリシアは少し身を縮めそうになるが、ノアは堂々としていた。
だからアリシアも、何とか前を向いた。
席に着くと、少しだけ息がしやすくなった。
壁が近い。
背後を気にしなくていい。
視線が全部から来るわけではない。
アリシアはノアを膝の上に下ろした。
ノアはすぐに机の上へ乗ろうとした。
「ノア」
アリシアは慌てて小声で止める。
「食堂では膝か専用籠って言われたよ」
ノアは不満そうに目を細めた。
「面倒ね」
「決まりだから……」
「分かってるわよ」
ノアはしぶしぶ膝の上で丸くなった。
登録札が小さく揺れる。
メリルが向かいの席に座り、ほっと息を吐いた。
「席、取れたね」
「うん……」
「次は料理かな」
アリシアは奥の配膳台を見る。
新入生たちが列を作っている。
皿を受け取り、料理を選び、飲み物を受け取り、席に戻る。
流れは見える。
でも、自分がやるとなると緊張する。
何を言えばいいのか。
料理は選べるのか。
お金は必要なのか。
ノアを置いていくのか。
考え始めると、また不安が膨らむ。
ノアが膝の上で言った。
「私はここにいるわ」
「え……でも」
「席を見てる。あんたは料理を取ってきなさい」
「ノア、一人で大丈夫?」
「私を何だと思ってるの」
「えっと……大事な子……」
ノアは一瞬黙った。
それから顔をそらした。
「そういう話じゃないわ」
「ご、ごめん……」
「いいから行きなさい。メリルと一緒に」
メリルはノアが喋っているとは思っていない。
アリシアは自然に聞こえるように、ノアを撫でながら言った。
「ノア、ここで待っててね」
ノアは普通の猫のように小さく鳴いた。
「にゃあ」
完璧だった。
アリシアは少しだけ感心した。
メリルも笑う。
「ノアちゃん、本当に賢いね」
「うん……すごく」
二人は配膳台へ向かった。
列に並ぶ。
前の生徒たちの動きを見る。
まず木のトレーを取る。
次にパン。
その後、主菜を選ぶ。
スープ。
飲み物。
最後に小さな果物。
お金を払っている様子はない。
寮費に含まれているのだろう。
アリシアは必死に順番を覚えた。
「トレー、パン、主菜、スープ、飲み物……」
小さく呟く。
メリルが隣で同じように頷いている。
「主菜、二種類あるね。肉と魚かな」
「どっちにする?」
「私は肉かな。アリシアちゃんは?」
「えっと……」
アリシアは迷った。
魚は山でもよく食べた。
肉は特別な時が多かった。
今日はとても疲れた。
祖父がいたら、しっかり食べなさいと言うだろう。
「肉……にする」
「うん」
列が進む。
アリシアの番になった。
配膳担当の女性が笑顔で言う。
「肉料理と魚料理、どちらにしますか?」
分かっていた質問なのに、いざ聞かれると少し緊張する。
「あ、えっと……肉料理で、お願いします」
「はい、肉料理ね。スープもどうぞ」
「あ、ありがとうございます」
言えた。
それも、あまり噛まなかった。
アリシアは小さく胸を撫で下ろす。
トレーは思ったより重かった。
パン、肉料理、野菜の煮込み、スープ、果物、水の入った杯。
落とさないように、両手で慎重に持つ。
歩く速度が遅くなる。
後ろから来る生徒の邪魔になっていないか心配になる。
「アリシアちゃん、ゆっくりで大丈夫」
メリルが隣で言ってくれる。
「う、うん」
席へ戻ると、ノアは膝の上から椅子の上へ移動していた。
机には乗っていない。
アリシアはほっとした。
ノアは得意げな顔をしている。
「ちゃんと待ってたわよ」
「うん、偉い」
「子ども扱いしない」
「あっ……」
アリシアは慌てて口を閉じる。
メリルには聞こえないようだった。
二人は席に座り、食事を始めた。
最初の一口。
アリシアは肉料理を少し切り、口に運んだ。
柔らかい。
香草の香りが広がる。
山で食べていた肉とは違う味だった。
しっかり味がついていて、温かくて、疲れた体に染み込む。
「……おいしい」
思わず呟いた。
メリルが嬉しそうに頷く。
「おいしいね。学園の食堂、思ったより豪華」
「うん……」
ノアが椅子の上からアリシアを見上げる。
「私の分は?」
アリシアは小さく固まった。
従魔用の食事。
そういえば、どうするのだろう。
ノアは神獣だが、今は登録上、猫だ。
食堂で猫に人の料理を分けてもいいのだろうか。
アリシアが迷っていると、近くを通った食堂職員の女性がノアに気づいた。
「あら、従魔連れね。小型従魔用の皿、持ってきましょうか?」
アリシアはぱっと顔を上げた。
「あ、お願いします」
「肉と魚、どちらがいいかしら」
ノアを見る。
ノアはアリシアを見た。
当然、肉。
そういう顔だった。
「に、肉で……」
「はい。少し待っててね」
職員はにこやかに去っていった。
メリルが感心したように言う。
「従魔用のご飯もあるんだね」
「うん……すごいね」
しばらくして、小さな皿に細かく切った肉と野菜が少し載せられて運ばれてきた。
アリシアはそれを椅子の上のノアの前へ置く。
「ノア、ご飯だよ」
ノアは少し不満そうに皿を見た。
「量が少ないわね」
アリシアは小声で言う。
「あとで少し分けるから……」
「約束よ」
「うん」
ノアはようやく食べ始めた。
姿だけ見れば、ただの上品な黒猫だった。
アリシアは少し笑ってしまう。
ノアがすぐに顔を上げる。
「何笑ってるの」
「なんでもない」
「笑ってたわよ」
「かわいいなって……」
言った瞬間、ノアの尻尾がぴんと立った。
アリシアはしまったと思った。
「……後で覚えてなさい」
「ご、ごめ……」
「謝らない。あと、かわいいは禁止」
「えぇ……」
メリルが首を傾げる。
「どうしたの?」
「あっ、ううん。ノア、よく食べるなって」
「元気でいいね」
「うん……」
アリシアは誤魔化しながらスープを飲んだ。
温かい。
少し塩気が強いけれど、疲れた体にはちょうどよかった。
食堂の中は、時間が経つにつれてさらに賑やかになった。
新入生たちが次々に入ってくる。
席が埋まり、笑い声が増えていく。
その中でも、ひときわ目立つ声があった。
「肉! 肉大盛りで頼む!」
ガレスだった。
配膳台の方で、赤髪の大柄な少年が堂々と皿を受け取っている。
職員が苦笑している。
「大盛りは一回までよ」
「そうか! なら大事に食う!」
「本当に一年生かしらねぇ、その食べっぷり」
周囲の生徒たちが笑っている。
ガレスはトレーに山盛りの料理を載せ、空いている席を探していた。
アリシアは反射的に目を逸らしかけた。
だが、少し遅かった。
ガレスの視線がこちらを捉えた。
「あ!」
大きな声。
アリシアの肩が跳ねる。
ガレスが片手を上げて近づいてきた。
「木刀のやつ!」
食堂の数人がこちらを見る。
アリシアは固まった。
木刀のやつ。
自分のことだ。
間違いなく。
メリルが小声で言う。
「アリシアちゃん、呼ばれてる……」
「う、うん……」
ガレスはトレーを持ったまま、アリシアたちのテーブルの前で立ち止まった。
「ここ、空いてるか?」
四人掛けのテーブル。
空いている席は二つ。
アリシアはどう答えればいいのか分からず、メリルを見る。
メリルも少し驚いているが、すぐに頷いた。
「あ、はい。空いてます」
「助かる!」
ガレスは豪快に座った。
椅子が少し軋んだ。
アリシアは目の前に座るガレスの迫力に、思わず背筋を伸ばした。
近い。
講堂で話しかけられた時も大きいと思ったが、向かいの席に座られるとさらに大きい。
肩幅が広い。
腕が太い。
食堂の灯りを受けた赤髪が、やはり炎のようだった。
ガレスは料理を見て満足げに笑う。
「いやー、腹減ったな!」
「説明会の前に訓練してたからじゃ……」
メリルが少し遠慮がちに言う。
ガレスは目を丸くした。
「見てたのか?」
「遠くからですけど」
「そうか! まだ軽かっただろ?」
「軽い……?」
メリルが困った顔をする。
アリシアも同じ気持ちだった。
あの巨大な模擬剣を見て、軽いとは思えない。
ガレスは肉を豪快に口へ運び、満足そうに頷いた。
「うまい!」
食べる声まで大きい。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
ガレスの明るさは、人を押し潰すというより、巻き込む勢いだった。
ガレスはアリシアを見る。
「そういえば、名前もう一回聞いていいか?」
「あ……アリシア、です」
「そうだ、アリシア! 悪い、俺、人の名前覚えるのは得意なんだが、腹が減ると少し抜ける!」
「そ、そうなんですか……」
「おう!」
自信満々に言うことなのだろうか。
アリシアは少し困ったが、メリルは笑っていた。
「私はメリルです」
「メリルだな! よろしく!」
「よろしくお願いします」
「敬語じゃなくていいぞ。同じ一年だろ!」
「じゃあ……よろしく、ガレス君」
「おう!」
メリルはすぐに距離を調整できている。
すごい。
アリシアは密かに感心した。
自分も敬語をやめた方がいいのだろうか。
でも、ガレスの迫力を前にすると、自然と敬語になる。
ガレスはそんなアリシアの様子を見て、首を傾げた。
「アリシアは、なんでそんなに固まってるんだ?」
「ひゃ……」
「怖いか?」
直球だった。
アリシアは言葉に詰まる。
怖い。
少し。
いや、かなり。
でも、本人を前にして怖いとは言いにくい。
アリシアが困っていると、ノアが椅子の上から小さく尻尾でアリシアの腕を叩いた。
嘘をつくな。
アリシアは小さく息を吸った。
「す、少し……声が大きくて……びっくり、します」
言った。
言ってしまった。
メリルが「あ」と小さく声を漏らす。
ガレスは一瞬目を丸くした。
アリシアは慌てる。
「あ、ご、ごめ……」
「そうか!」
ガレスは大きく頷いた。
「なら、少し小さくする!」
「え……」
怒らなかった。
それどころか、ガレスは本当に声を少し抑えた。
それでも普通の人より大きいが、先ほどよりはましだった。
「これくらいならどうだ?」
アリシアは驚きながら頷く。
「だ、大丈夫……です」
「そうか! ならよかった!」
ガレスはまた笑った。
アリシアは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
言ってよかった。
怖いと全部飲み込まずに、少し伝えたら、相手は受け取ってくれた。
ノアが小さく言う。
「八十点」
アリシアはノアを見る。
褒められた。
たぶん、とても。
ガレスはノアに視線を移した。
「その黒猫、ノアだったか?」
「あ、はい」
「賢そうだな!」
ノアは普通の猫らしく、静かにガレスを見上げた。
ガレスは楽しそうに笑う。
「目つきが強い! いいな!」
ノアの尻尾が少し動いた。
褒められているのか、判断に迷っているようだった。
アリシアは少し笑いそうになる。
その時、また賑やかな声が近づいてきた。
「あー! ガレス、ここにいた!」
黄髪の少女が、トレーを持ってこちらへ歩いてきた。
ミランダだった。
昼間、講堂で見た時と同じく、明るい空気をまとっている。
彼女のトレーにも、肉料理がしっかり載っていた。
ガレスが顔を上げる。
「おう、ミランダ!」
「席探してたんだよ。隣、空いてる?」
「空いてるぞ!」
ミランダはアリシアたちを見る。
にっこり笑った。
「座ってもいい?」
明るい。
近い。
勢いがある。
アリシアは一瞬固まったが、メリルが先に答えた。
「どうぞ」
「ありがと!」
ミランダはガレスの隣に座った。
四人掛けのテーブルに四人。
アリシア、メリル、ガレス、ミランダ。
ノア。
急に、テーブルがとても賑やかになった。
ミランダはアリシアを見て、目を輝かせた。
「わ、黒猫! かわいい!」
ノアの耳がぴくっと動く。
アリシアは内心で冷や汗をかいた。
かわいいは禁止。
ついさっき、そう言われたばかりだ。
ミランダは身を乗り出す。
「触ってもいい?」
アリシアは息を飲んだ。
まただ。
子どもたちの時と同じ。
ノアは嫌がるだろう。
断らないといけない。
でも相手はミランダ。
土の継承者。
明るくて、悪気がなくて、周囲から注目される少女。
断ったら、嫌な気持ちにさせるかもしれない。
アリシアは膝の上で手を握る。
ノアは椅子の上でアリシアを見ていた。
自分で言いなさい。
アリシアは息を吸った。
「あ、あの……ノアは、触られるのが少し苦手で……ごめ……じゃなくて……見るだけなら」
言えた。
途中で謝りかけたが、止めた。
ミランダは少し残念そうにしたが、すぐに笑った。
「そっか! じゃあ見るだけにする!」
そして本当に、手を出さずにノアを眺めた。
「目が綺麗だねぇ」
ノアは静かに座っている。
ミランダは満足そうに頷いた。
「うん。いい子だ」
ノアの尻尾が、ほんの少しだけ揺れた。
アリシアはほっと息を吐いた。
ガレスが肉を食べながら言う。
「ミランダ、猫好きだったのか?」
「好き! でも実家の亀が猫を怖がるから飼えなかった!」
「亀が猫を怖がるのか?」
「うちの子、繊細なんだよ!」
土の神獣は亀。
アリシアは思わずミランダを見る。
実家の亀。
それは普通の亀なのか、それとも神獣に関係するものなのか。
聞けるはずもない。
ミランダは豪快に肉を食べた。
「うん、おいしい!」
「だろ!」
なぜかガレスが自慢げに言う。
「ガレスが作ったわけじゃないでしょ」
メリルが思わず言うと、ガレスは大きく笑った。
「確かに!」
テーブルに笑いが起きた。
アリシアも、少しだけ笑った。
その笑いは小さかったが、確かに自然だった。
ミランダはそれに気づいたのか、アリシアを見る。
「あなた、アリシアだよね? さっきガレスが話してた子!」
「は、はい……」
「私はミランダ! よろしく!」
「よ、よろしくお願いします……」
「敬語じゃなくていいよ!」
「う……」
今日何度目だろう。
敬語じゃなくていいと言われる。
アリシアは困った。
ガレスもミランダも、距離を詰めるのが早い。
嫌ではない。
ただ、心の準備が追いつかない。
「よ、よろしく……ミランダ、さん」
「さんもいらないよ!」
「そ、それは難しい……」
「難しいのかぁ」
ミランダは真剣に考え込む。
そして、ぱっと顔を上げた。
「じゃあ、慣れたらでいいよ!」
「あ……うん」
その一言に、アリシアは少し救われた。
急がなくていい。
そう言われた気がしたから。
ガレスはパンをちぎりながら言う。
「アリシアは木刀使うんだよな?」
「は、はい」
「剣術科か?」
「えっと……まだ、分からなくて……」
「特別推薦って言ってたもんね」
メリルが補足する。
ミランダの目が輝いた。
「特別推薦!? すごい!」
「す、すごくないです……」
「すごいよ! だって特別なんでしょ?」
「でも、私は……」
アリシアは言葉に詰まる。
自分がすごいとは思えない。
そう言おうとした。
けれど、ノアの尻尾が椅子の上からアリシアの足に触れた。
自分を下げすぎない。
今日、何度も注意されている。
アリシアは言葉を飲み込んだ。
「……まだ、分からないことばかりだから、頑張ります」
少し変な返しだったかもしれない。
でも、自分を否定しすぎずに言えた。
ミランダは満足そうに頷く。
「うん! 頑張るの大事!」
ガレスも頷いた。
「そうだな! 分からないなら鍛えればいい!」
「全部鍛える方向なんだ……」
メリルが呟く。
ガレスは真顔で頷く。
「大体のことは鍛えれば何とかなる!」
「ならないこともあると思う」
「その時はもっと鍛える!」
メリルが苦笑し、ミランダが楽しそうに笑う。
アリシアはその会話を聞きながら、少し肩の力を抜いた。
この二人は、強い。
たぶん、とても。
でも、怖いだけではない。
ガレスは声が大きくて迫力があるけれど、こちらの言葉を聞いて声を抑えてくれた。
ミランダは勢いがあるけれど、ノアに触るのを我慢してくれた。
それだけで、アリシアの中の怖さは少し形を変える。
知らない人。
すごい人。
遠い人。
それだけではなくなっていく。
食事は賑やかに進んだ。
ガレスとミランダはよく食べた。
本当によく食べた。
メリルはその量に目を丸くし、アリシアは途中から少し圧倒された。
「二人とも……そんなに食べられるの?」
アリシアが小さく聞くと、ミランダが笑顔で答えた。
「食べられるよ! 動くから!」
「動くから……」
「そう! 食べないと斧が振れない!」
ガレスも頷く。
「剣も振れない!」
似ている。
火と土。
属性は違うが、二人はどこか同じ方向を向いている気がした。
ノアが小声で言う。
「脳筋が二人」
アリシアはスープを吹き出しそうになった。
慌てて口元を押さえる。
メリルが心配そうに見る。
「大丈夫?」
「う、うん……スープが熱くて」
「気をつけてね」
ノアは椅子の上で涼しい顔をしている。
ずるい。
アリシアは少しだけノアを睨んだ。
ノアは目だけで返してくる。
何よ。
アリシアはすぐに目を逸らした。
勝てない。
食堂の別の席では、リーネが一人で静かに食事をしていた。
食事をしながらも本を開いている。
周囲に話しかけたそうな生徒はいるが、声をかけるタイミングを見つけられないようだった。
シオンは少し離れた席で、数人の生徒に囲まれている。
笑っているが、どこか距離がある。
時々何かを言うたび、周囲が笑ったり、困ったりしていた。
ルシアンはさらに奥の席で、上級生らしき生徒と落ち着いて話している。
食堂の中でも、彼だけ周囲の空気が穏やかに整っているように見えた。
アリシアは遠くからその姿を見ていた。
その時、ルシアンがふと顔を上げた。
また。
一瞬だけ、視線がこちらへ向いた気がした。
アリシアは慌てて目を逸らした。
心臓が跳ねる。
気のせい。
たぶん、気のせい。
でも、膝の下でノアの尻尾が少しだけ動いた。
アリシアは小声で聞く。
「ノア……?」
「今は気にしない」
ノアの声は低かった。
アリシアはそれ以上聞けなかった。
食事を終える頃には、最初の緊張は少し薄れていた。
もちろん疲れはある。
人の多さにも慣れたわけではない。
でも、席に座り、料理を食べ、誰かと話し、笑うことができた。
それだけで、食堂は恐ろしい場所から、少しだけ知っている場所へ変わった。
ガレスが最後のパンを食べ終え、満足そうに息を吐く。
「うまかった!」
「声、戻ってる」
メリルが言うと、ガレスははっとしてアリシアを見る。
「すまん、また大きかったか?」
アリシアは少し驚いた。
覚えていてくれたのだ。
アリシアは首を横に振る。
「今のは……少し、慣れました」
「そうか!」
ガレスは嬉しそうに笑った。
その声はまた大きかった。
でも、アリシアは少しだけ笑えた。
ミランダが椅子から立ち上がる。
「明日、属性測定だよね! 楽しみ!」
「楽しみなんだ……」
メリルが不安そうに言う。
「だって、自分の力をちゃんと見てもらえるんだよ? わくわくする!」
「私は緊張するなぁ」
「緊張もする! でも楽しみ!」
ミランダらしい答えだった。
ガレスも頷く。
「俺も楽しみだな! 火がどれくらい出るか試したい!」
アリシアは黙っていた。
属性測定。
その言葉が出るたび、胸の奥が冷える。
メリルがそれに気づいたのか、そっと声をかけてくれた。
「アリシアちゃんは?」
「え……」
「明日の属性測定、不安?」
アリシアは少し迷った。
ガレスとミランダもこちらを見ている。
本当のことは言えない。
でも、嘘もつきたくない。
アリシアは膝の上で手を握った。
「……不安、です」
小さく答えた。
「自分が、ちゃんとできるか……分からないから」
それは本当だった。
闇とは言わない。
神器とも言わない。
でも、不安なのは本当だ。
ミランダは真剣な顔で頷いた。
「そっか。不安かぁ」
ガレスも腕を組む。
「なら、飯を食って寝るのが一番だな!」
「それ、解決になる?」
メリルが苦笑する。
「なるぞ! 寝不足だと力が出ない!」
それは、少し正しい気がした。
ミランダも頷く。
「うん! 寝るの大事!」
ノアが小声で呟く。
「脳筋にしては正論ね」
アリシアはまた笑いそうになり、必死に堪えた。
ガレスはアリシアに向かって、真っ直ぐ言った。
「大丈夫だ。できなかったら、できるようにすればいい」
アリシアは目を瞬かせた。
ガレスは続ける。
「最初から全部できるやつなんて、つまらんだろ」
「……つまらない?」
「おう! できないことがあるから鍛えられる!」
その考え方は、アリシアにはなかった。
できないことは怖い。
失敗は恥ずかしい。
そう思っていた。
でもガレスは、できないことを前向きに見ている。
鍛える余地がある。
そう考えている。
アリシアは少しだけ胸が軽くなった。
「……ありがとう」
「おう!」
ミランダも笑う。
「困ったら一緒に頑張ろ! 私も座学はたぶんだめ!」
「そこは頑張ろうね」
メリルが優しく言う。
「うん! 教えて!」
「早い」
四人の間にまた笑いが生まれた。
アリシアはその笑いの中に、自分も少しだけ混ざれている気がした。
食事を終え、食器を返却口へ持っていく。
流れは最初より分かっていた。
前の人を見る。
同じように置く。
職員に軽く頭を下げる。
「ごちそうさまでした」
声は小さかったが、言えた。
職員がにこりと笑う。
「はい、お粗末さま」
それだけで、アリシアは少し嬉しくなった。
食堂を出ると、夜風が涼しかった。
空には星が出始めている。
山で見る星よりは少ない。
中央都市の灯りが明るいからだろう。
それでも、星は確かにあった。
アリシアは空を見上げる。
祖父も、同じ空を見ているだろうか。
山の空は、もっと星が多い。
きっと今頃、家の前で夜風に当たっているかもしれない。
少し寂しくなった。
けれど、昼間ほど胸は苦しくなかった。
今日、自分は食堂でご飯を食べた。
メリルと話した。
ガレスと話した。
ミランダとも話した。
ノアに支えられながら。
それを祖父に話したいと思った。
寂しさの中に、報告したい出来事ができた。
それが少し嬉しかった。
「アリシアちゃん、寮に戻る?」
メリルが聞く。
「うん……明日も早いし」
「そうだね。属性測定……」
メリルは少し緊張した顔になる。
アリシアも頷く。
「頑張ろうね」
メリルが言った。
アリシアは、少しだけ間を置いてから答えた。
「うん。頑張ろう」
自分から、そう言えた。
ガレスが大きく手を振る。
「また明日な!」
アリシアは少し驚きながらも、手を小さく振り返した。
「ま、また明日……」
ミランダも元気よく手を振る。
「アリシア、メリル、またね!」
「うん、またね」
メリルが返す。
アリシアも小さく言う。
「また……ね」
その言葉が、不思議だった。
またね。
次がある言葉。
今日だけで終わらない言葉。
山では祖父にしか使わなかった言葉。
それを、学園で出会った人たちに言った。
胸の奥がくすぐったい。
けれど、嫌ではない。
寮へ戻る道で、ノアがアリシアの隣を歩いた。
食堂を出てからは、ノアは腕の中ではなく、自分の足で歩いている。
登録札が小さく揺れていた。
「今日は何点?」
アリシアが小声で聞くと、ノアは少し考えた。
「七十五点」
「食堂全体で?」
「ええ」
「思ったより高い……」
「席を確保できた。料理も取れた。断ることもできた。ガレスに怖いと伝えられた。ミランダにもノアを触らせなかった」
「うん……」
「ただし、何度も固まりかけた。ルシアンを見て動揺した。私をかわいいと言った」
「最後も減点なの……?」
「当然」
アリシアは困った顔をした。
けれど、七十五点。
悪くない。
少なくとも、朝の自分よりはずっと進んでいる。
「ノア」
「何?」
「私……今日、少しだけ楽しかった」
ノアは足を止めなかった。
ただ、尻尾だけが少し揺れた。
「そう」
「怖かったけど……楽しかった」
「なら、覚えておきなさい」
「うん」
「怖いだけの日じゃなかったって」
アリシアは頷いた。
夜の学園を、二人と一匹で歩く。
メリルは隣で今日の案内紙を確認している。
ノアは足元で静かに歩いている。
遠くではまだ食堂の明かりが揺れている。
アリシアは胸元の守り袋に触れた。
おじいちゃん。
私、今日、少しだけ楽しかったよ。
心の中でそう呟く。
返事はない。
でも、守り袋の木片は温かい気がした。
第一寮に戻ると、廊下にはまだ多くの新入生がいた。
食堂から戻ってきた者。
明日の話をしている者。
すでに部屋に入った者。
アリシアとメリルは二階へ上がり、それぞれの部屋の前で立ち止まった。
「じゃあ、また明日」
メリルが言う。
「うん。また明日」
アリシアは今度は少しだけ自然に返せた。
メリルが嬉しそうに笑い、自分の部屋へ入っていく。
アリシアも二〇八号室の鍵を開けた。
部屋に入る。
扉を閉める。
静かになった。
食堂の賑わいが嘘のように、部屋の中は静かだった。
アリシアは布袋を椅子に置き、深く息を吐いた。
「疲れた……」
「でしょうね」
ノアが寝台へ飛び乗る。
「でも、よく耐えたわ」
「うん……」
アリシアは机に向かい、祖父に渡された古い練習帳を開いた。
何か書きたくなった。
日記など、これまでほとんど書いたことがない。
でも、今日のことを残しておきたかった。
ペンを持つ。
少し考える。
そして、ゆっくり書いた。
『中央学園に着きました。食堂で、ご飯を食べました。メリルさんと、ガレスさんと、ミランダさんと話しました。怖かったけど、少し楽しかったです』
それだけ書いて、手が止まる。
祖父に見せるわけではない。
でも、いつか帰った時に話すための練習のようだった。
ノアが机の上を覗き込もうとする。
「何を書いてるの?」
「ひゃっ……見ないで」
「見られたくないなら堂々と机で書かない」
「うぅ……」
アリシアは練習帳を閉じた。
ノアはそれ以上追及しなかった。
ただ、寝台の上で丸くなる。
「明日は属性測定よ」
「……うん」
「怖い?」
「怖い」
「そう」
「でも……今日よりは、少しだけ大丈夫かも」
アリシアはそう言って、自分で驚いた。
本当にそう思った。
怖さはある。
でも、今日を越えた自分がいる。
ノアは金色の瞳でアリシアを見た。
「なら、寝なさい」
「うん」
「寝不足で震えるのは減点よ」
「厳しい……」
「当然」
アリシアは小さく笑い、寝支度を始めた。
窓の外には、中央学園の夜が広がっている。
遠くで鐘が鳴った。
山とは違う夜。
知らない部屋。
知らない明日。
それでも、アリシアは布団に入った時、昨日ほど強い孤独を感じなかった。
隣の部屋にはメリルがいる。
食堂で「また明日」と言ってくれた人たちがいる。
そして、枕元にはノアがいる。
毒舌で、厳しくて、すぐ減点してくる黒猫。
けれど、誰よりもそばにいてくれる存在。
「ノア」
「何?」
「おやすみ」
「おやすみ、アリシア」
名前を呼ばれる。
それだけで、胸が少し温かくなる。
アリシアは目を閉じた。
明日は属性測定。
何が起こるか分からない。
それでも、今日の最後に思えた。
怖いだけじゃなかった。
その小さな事実を抱きしめながら、アリシアは静かに眠りへ落ちていった。




