第6話 新入生説明会
夕刻の鐘は、山で聞いていた鳥の声よりもずっと大きかった。
ごうん、と空気を震わせるような音が、学園の敷地全体へ広がっていく。
一度目。
二度目。
三度目。
鐘の響きは白い校舎の壁に反射し、寮の窓を揺らし、アリシアの胸の奥まで届いた。
部屋の中で聞くその音は、知らない世界に呼ばれているようだった。
アリシアは扉の前に立ち、布袋から取り出した案内紙を握りしめていた。
第一講堂。
新入生説明会。
夕刻の鐘の後、速やかに集合。
文字は読める。
意味も分かる。
けれど、心がついてこない。
「……速やかに、ってどれくらい?」
アリシアが小さく呟くと、窓辺に座っていたノアが呆れたように尻尾を揺らした。
「今すぐ、という意味よ」
「だ、だよね……」
「分かってるなら動きなさい」
「うん……」
アリシアは小さく頷いた。
部屋にはまだ、自分の匂いがなかった。
机も、寝台も、本棚も、どこかよそよそしい。荷物を置いただけでは、場所はまだ自分のものにならないのだと初めて知った。
山の家の自室は、何もしなくても落ち着いた。
床の音も、窓から見える木の影も、寝台の硬さも、全部が体に馴染んでいた。
けれど、この部屋は違う。
新しい。
整っている。
清潔で、不便はない。
それでも、まだ心が居場所を見つけられない。
アリシアは胸元の守り袋に触れた。
祖父が彫ってくれた木片の感触が、服越しに指へ伝わる。
大丈夫。
帰る場所はある。
でも、今はここで歩く。
「ノア」
「何?」
「説明会……人、たくさんいるよね」
「新入生全員が集まるなら当然ね」
「全員……」
その言葉だけで、足が重くなった。
受付や寮登録の時でさえ、あれほど人がいた。
第一講堂には、もっと多くの新入生がいるのだろう。
火の国。
水の国。
風の国。
土の国。
光の国。
中央都市。
さまざまな場所から集まった若者たち。
その中に、自分も入る。
家名もなく、属性も言えず、黒猫を連れ、木刀を腰に差した少女として。
「帰りたい顔してるわよ」
ノアが言った。
「まだ、そこまでは……」
「半分くらい?」
「……うん」
「正直でよろしい」
ノアは窓辺から軽く飛び降りた。
床に音もなく着地し、アリシアの足元まで歩いてくる。
首には登録札のついた黒い首輪。
本人は屈辱と言っていたが、黒い毛並みに小さな銀の札がよく映えていた。
言ったら怒られるので、アリシアは黙っている。
「行くわよ」
「うん」
「背筋」
「あっ」
アリシアは慌てて背筋を伸ばした。
「目線」
「えっと……前」
「よろしい」
ノアは満足げに頷く。
アリシアは扉を開けた。
廊下には、すでに新入生たちが何人も出ていた。
隣の二〇七号室の扉も開き、メリルが顔を出す。
「あ、アリシアちゃん」
「メ、メリルさん」
お互い、少しほっとした顔になる。
メリルも手に案内紙を持っていた。杖は背中に固定している。髪を少し整えたのか、馬車の中よりもきちんとして見えた。
「説明会、一緒に行こう」
「うん……」
アリシアは頷く。
ノアは当然のようにアリシアの足元を歩き始めた。
メリルが微笑む。
「ノアちゃんも一緒だね」
「うん。登録は済んだから……たぶん大丈夫」
「よかった。講堂でも膝の上?」
「たぶん……」
アリシアがノアを見ると、ノアはちらりとこちらを見上げた。
当然でしょう。
そう言っている顔だった。
寮の廊下は、新入生たちの声で満ちていた。
「第一講堂ってどっち?」
「案内板に書いてあっただろ」
「制服まだなのに説明会あるんだな」
「先生たちって厳しいのかな」
「寮の部屋、意外と広かった!」
「隣のやつ、貴族っぽかったんだけど……」
言葉が飛び交う。
期待に弾む声。
不安を隠せない声。
無理に明るくしている声。
アリシアはそれらを聞きながら、廊下の端を歩いた。
人の流れに乗る。
それだけのことなのに、難しい。
前の人が急に止まるとぶつかりそうになる。
後ろから誰かが近づくと焦る。
横を通り抜ける生徒の肩がかすめるだけで、心臓が跳ねる。
そのたびにノアが足元から短く指示を出す。
「少し右」
「うん」
「前見なさい」
「うん」
「止まらない」
「うん……」
メリルはそんなアリシアを気にしながら、歩幅を合わせてくれていた。
それがありがたくて、同時に申し訳なくなる。
「あ、あの……メリルさん、私に合わせなくても……」
「ううん。私も一人じゃ不安だから」
「でも……」
「一緒に行きたいの。だから大丈夫」
メリルはそう言って笑った。
アリシアは胸がきゅっと温かくなった。
人と一緒にいることは、迷惑をかけることだと思っていた。
でも、もしかしたら違うのかもしれない。
誰かが自分と一緒にいたいと思ってくれることもある。
そんな当たり前のことを、アリシアはまだ上手く信じられなかった。
「……ありがとう」
「うん」
寮を出ると、外は夕暮れに染まっていた。
空の西側が淡い橙色に輝き、学園の白い建物を柔らかく照らしている。
昼間よりも少し風が涼しい。
中庭の噴水には夕日が反射し、水面が金色に揺れていた。
その周りを、新入生たちが第一講堂へ向かって歩いている。
まるで大きな流れだった。
アリシアはその流れの端に入り、メリルと並んで進む。
途中、訓練場の方からまだ大きな声が聞こえた。
「おい、ガレス! もう説明会だぞ!」
「分かってる! あと一振りだ!」
赤髪の少年の声だった。
アリシアは反射的にそちらを見る。
遠くの訓練場で、ガレスが巨大な模擬剣を肩に担いでいた。
周囲の生徒たちより頭一つ大きい。
夕日を受けた赤髪が、本当に炎のように見える。
彼は汗を拭いもせず、豪快に笑っている。
「すごいね、あの人」
メリルが呟く。
「うん……」
「同じ一年生なんだよね」
「たぶん……」
「たぶんって言いたくなる気持ち、分かる」
メリルが苦笑する。
ガレスの周囲には、すでに何人かの新入生が集まっていた。彼の力を間近で見た者たちだろう。羨望、驚き、少しの恐れ。
その視線を受けても、ガレスはまったく怯まない。
むしろ視線を力に変えているようにさえ見える。
アリシアは自分の手を見た。
細い指。
木刀を握る手。
同じ新入生なのに、どうしてこんなにも違うのだろう。
また比べそうになった時、ノアが足元で低く言った。
「見すぎ」
「……うん」
「縮まない」
「うん」
アリシアは視線を前へ戻した。
第一講堂は、学園の中央校舎の横に建っていた。
高い三角屋根。
大きな扉。
白い石壁。
正面には五つの紋章が横一列に並んでいる。
火の鳥。
水の蛇。
風の狼。
土の亀。
光の白猫。
やはり、六つ目はない。
アリシアはその紋章を見るたび、胸の奥が少し沈む。
ノアは何も言わなかった。
けれど、歩く速度がほんの少しだけ遅くなった。
気のせいかもしれない。
でも、アリシアには分かった。
ノアも見ている。
この世界にないものとして扱われている、自分たちの場所を。
第一講堂の入口では、上級生たちが新入生を案内していた。
「一年生は前方から順に着席してください!」
「従魔連れの方は通路側の席へ!」
「私語は控えてください!」
「案内紙はしまって大丈夫です!」
声が響く。
大きな扉をくぐると、アリシアは思わず足を止めた。
広い。
宿場町の広場よりも、寮の玄関ホールよりも、ずっと広い。
講堂の天井は高く、木の梁が美しく組まれている。壁には歴代の学園長らしき肖像画が並び、正面奥には大きな壇がある。
壇の背後には、また五つの紋章。
そして中央には、学園章。
客席は階段状になっており、すでに多くの新入生が座っていた。
ざわめきが波のように広がっている。
椅子の軋む音。
話し声。
笑い声。
緊張した咳払い。
紙の擦れる音。
アリシアの耳には、すべてが大きく響いた。
「アリシアちゃん、大丈夫?」
メリルが小声で聞く。
アリシアは頷こうとして、うまく動けなかった。
人が多い。
あまりにも多い。
しかも全員が同じ新入生。
これから同じ学園で学ぶ人たち。
自分を見ているわけではないと分かっている。
でも、視線が全部こちらに向いているような錯覚に襲われる。
息が浅くなる。
足が止まる。
その瞬間、ノアがアリシアの足に体を押しつけた。
温かい。
アリシアははっとした。
ノアが見上げている。
金色の瞳。
落ち着きなさい。
今は歩くだけ。
アリシアは胸元の守り袋に触れた。
祖父の言葉。
一歩だけ。
アリシアは息を吸う。
吐く。
そして、メリルに小さく言った。
「……大丈夫。行ける」
メリルは安心したように微笑んだ。
「うん」
二人は上級生に案内され、通路側の席へ向かった。
ノアがいるため、アリシアは端の席に座ることになった。
隣にメリル。
その向こうにも新入生たち。
ノアはアリシアの膝の上へ飛び乗り、丸くなった。
登録札が小さく揺れる。
近くの席にいた少年が、ちらりとノアを見た。
「黒猫か」
小さな声だった。
隣の友人らしき少年が囁く。
「従魔かな?」
「でも魔力薄そうじゃない?」
「普通の猫じゃね?」
「学園に猫連れてくるやついるんだな」
アリシアの肩が強張る。
悪意はない。
ただ珍しがっているだけ。
分かっている。
でも、胸が縮む。
ノアは膝の上で目を閉じたままだった。
まったく気にしていないように見える。
アリシアはその背をそっと撫でた。
ノアが尻尾で手首を軽く叩く。
気にするな。
そういう意味だ。
アリシアは小さく頷いた。
やがて、講堂内のざわめきが少しずつ大きくなった。
入口の方で人だかりができている。
アリシアもそちらを見る。
ガレスが入ってきた。
赤髪。
大柄な体。
人の流れの中にいても、すぐ分かる。
彼は周囲から向けられる視線を気にせず、空いている席を探している。
「ガレス様だ」
「火の国の継承者候補……」
「近くで見ると本当に大きいな」
「大剣使いらしいぞ」
ざわめきが広がる。
ガレスはその声に気づいたのか、にっと笑った。
「おう、邪魔するぞ!」
声が大きい。
講堂の数列先まで聞こえた。
何人かが驚き、何人かが笑う。
彼の周囲だけ、空気が明るくなる。
アリシアは少し眩しいものを見るような気持ちで、その姿を見た。
続いて、別の入口付近で静かなざわめきが起こる。
リーネが入ってきた。
青髪のショート。
眼鏡。
手には本。
周囲がひそひそと名前を囁いても、彼女は表情を変えない。
受付で受け取った案内紙を一瞥し、空いている席へ迷いなく向かう。
「リーネ様だ」
「水の国の主席候補」
「入学前の予備試験、満点だったって」
「本を読みながら歩いてる……」
リーネは席に着くと、すぐに本を開いた。
周囲の視線など、存在しないかのようだった。
アリシアは小さく息を漏らす。
すごい。
堂々としている。
それはガレスとは違う強さだった。
さらに少し遅れて、講堂の後方から軽い笑い声が聞こえた。
緑色の長い髪をポニーテールにした細身の少年が、ゆっくり入ってくる。
歩き方は軽い。
だが、目は鋭い。
彼は周囲の視線を受けながら、どこか面倒くさそうに肩をすくめていた。
「あれ、シオンじゃない?」
「風の国の?」
「皮肉屋で有名って聞いた」
「綺麗な顔してるな……」
シオンと呼ばれた少年は、誰かに手を振られ、薄く笑った。
「そんなに見られると穴が空きそうだね。見るならせめて入場料を取ろうかな」
近くの生徒たちが一瞬きょとんとし、それから笑った。
アリシアはそのやり取りを遠くから見て、少し身を引いた。
皮肉屋。
噂通りなのかもしれない。
でも、嫌な感じだけではない。
人を近づけすぎないための軽口のようにも見えた。
その後、ひときわ明るい声が響いた。
「わぁ! ここ広いね!」
黄髪の少女が、元気よく講堂へ入ってきた。
背が高めで、体つきは健康的で華やか。動くたびに周囲の視線を集めるが、本人はまったく気にしていない。
彼女は大きな荷物を軽々と担ぎ、きょろきょろと周囲を見回している。
「ミランダ様だ」
「土の国の豪族の娘さんだっけ」
「斧を振り回すって本当かな」
「すごく元気そう……」
ミランダは近くの生徒に笑顔で話しかけていた。
「ここ空いてる? ありがと!」
声が明るい。
ガレスとは別の意味で、周囲を巻き込む力がある。
アリシアは思わず目を奪われた。
そして最後に、講堂の空気が少し変わった。
白髪の少年が入ってきた。
騒がしくはない。
大柄でもない。
けれど、歩くだけで周囲の視線が自然と集まる。
柔らかな白髪。
穏やかな微笑み。
品のある立ち振る舞い。
少年は周囲に軽く会釈しながら進んでいた。
誰かが囁く。
「ルシアン様……」
「光の国の神殿推薦だって」
「優しそう」
「もう上級生とも知り合いらしいよ」
「白猫の神獣に縁がある家系って聞いた」
ルシアン。
光の継承者。
アリシアはその姿を見た瞬間、なぜかノアを抱く腕に少し力が入った。
ルシアンは優しそうだった。
穏やかで、物知りで、誰にでも丁寧に接しそうな雰囲気がある。
でも、なぜだろう。
その笑顔の奥が見えなかった。
柔らかいのに、底が深い。
まるで、静かな水面の下に何かが沈んでいるようだった。
ノアの耳が、ほんのわずかに動いた。
アリシアはそれに気づく。
「ノア……?」
小声で呼ぶ。
ノアは答えない。
ただ、目を細くしてルシアンの方を見ていた。
ルシアンはふと、何かに気づいたように視線を動かした。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
アリシアのいる方を見た気がした。
目が合ったわけではない。
たぶん、気のせい。
けれどアリシアは心臓が跳ねた。
ルシアンはすぐに微笑みを戻し、席へ向かった。
アリシアは膝の上のノアを撫でる。
ノアの体が、少しだけ硬かった。
五人。
火のガレス。
水のリーネ。
風のシオン。
土のミランダ。
光のルシアン。
五つの国に知られた、五つの属性の継承者たち。
その姿を見ただけで、講堂の空気は変わっていた。
周囲の新入生たちは彼らを見て、期待や憧れを滲ませる。
同じ学園にいる。
同じ説明会に参加している。
それだけで、ざわめきが起こる。
アリシアは、自分の手を見る。
誰も自分を知らない。
自分のことを、継承者だとは思わない。
それどころか、今のアリシアは従魔登録をした黒猫連れの特別推薦生、という程度の存在だろう。
それでいい。
そう思う。
目立ちたくない。
知られたくない。
でも、胸の奥にほんの小さな寂しさもあった。
六つ目は、ない。
ここでも、ない。
祖父とノアが知っているだけ。
それが安全なのだとしても、少しだけ息苦しかった。
講堂の前方で、鐘の音が小さく鳴った。
ざわめきがゆっくりと収まっていく。
壇の横から、数人の教師らしき人物が現れた。
ローブをまとった女性。
騎士のような体格の男性。
白髪の老教師。
そして最後に、一人の老人が壇上へ上がった。
長い白髭。
深い青のローブ。
背は高くないが、講堂の空気がその人の登場だけでぴんと張った。
学園長。
誰かが小さく囁いた。
老人は壇上の中央に立ち、講堂全体を見渡した。
その目が、遠くの席まで届くような気がした。
アリシアは思わず背筋を伸ばす。
ノアも膝の上で静かに座り直した。
学園長が口を開いた。
「新入生諸君。中央学園へようこそ」
声は大きすぎない。
けれど、不思議と講堂の隅まで届いた。
「君たちは今日、この学園の門をくぐった。五大国のいずれかより、あるいは中央都市より、あるいは遠き地より、それぞれの思いを胸にここへ来た」
アリシアの胸が少し震えた。
遠き地。
それは自分のことにも聞こえた。
「この学園では、家柄も、出身も、財も、過去の評価も、すべてが絶対ではない」
講堂が静かになる。
「重要なのは、何を学び、何を選び、何を守る者になるかだ」
守る者。
その言葉に、アリシアは祖父を思い出した。
誰かが戦い続けるなら、誰かが支え続けなければならない。
まだ聞いたことのない言葉のようで、なぜか胸に浮かんだ。
「力は、誇るためだけのものではない。知識は、他者を見下すためのものではない。魔法は、己を飾るためのものではない」
学園長の声は静かだった。
でも、重かった。
「君たちは、学ぶ。失敗する。傷つく。時には、自分の小ささを知るだろう」
アリシアは膝の上の手を握った。
すでに知っている。
自分が小さいことなら、嫌というほど。
だが、学園長は続けた。
「だが、それを恐れるな。己の小ささを知る者だけが、広い世界を知ることができる」
アリシアは顔を上げた。
広い世界。
今日見たばかりの世界。
宿場町。
馬車。
中央都市。
学園。
そのどれもが、自分には大きすぎた。
「この学園は、強者だけの場所ではない。完成された者だけの場所でもない。未熟であることを認め、それでも前へ進もうとする者のための場所だ」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
自分は未熟だ。
怖がりで、人見知りで、すぐ謝ってしまう。
でも、前へ進もうとしている。
それなら。
自分もここにいていいのだろうか。
ほんの少しだけ、そう思えた。
学園長は講堂を見渡した。
「そして、この学園には古き使命がある。五大国を結ぶ場所として、次代を担う者たちを育てること」
五大国。
やはり六つ目はない。
アリシアは胸の奥が少し冷える。
「火は情熱を。水は知恵を。風は自由を。土は忍耐を。光は慈愛を。それぞれが世界を支えてきた」
講堂の前方にある五つの紋章が、魔法の光を受けて淡く輝いた。
新入生たちの視線がそこへ集まる。
美しい光景だった。
荘厳で、誇らしく、誰もが当たり前のように受け入れている歴史。
アリシアは、膝の上のノアを撫でる。
では、闇は。
闇は何を支えてきたのだろう。
忘れられた六つ目は、何のためにあったのだろう。
ノアは沈黙している。
その沈黙が、答えをまだ教えないと言っているようだった。
学園長は一呼吸置いた。
「だが、覚えておきなさい。歴史とは、ただ暗記するものではない。受け継ぎ、問い直し、未来へ繋ぐものだ」
アリシアは思わず学園長を見つめた。
問い直す。
その言葉が、胸の奥に深く落ちた。
学園長は続ける。
「諸君が学ぶ中で、常識に疑問を持つこともあるだろう。教えられた答えだけでは足りない日も来るだろう。その時こそ、学びの真価が問われる」
講堂内は静まり返っていた。
誰も私語を挟まない。
ガレスも腕を組んで真剣に聞いている。
リーネは本を閉じ、学園長を見ている。
シオンは頬杖をつきながらも目だけは鋭い。
ミランダは背筋を伸ばし、目を輝かせている。
ルシアンは穏やかに微笑みながら、静かに耳を傾けている。
アリシアもまた、息を潜めて聞いた。
「ようこそ、中央学園へ。君たちの未熟さを、我々は歓迎する」
その言葉の後、講堂に拍手が起きた。
最初は小さく。
やがて大きく。
新入生たちが一斉に手を叩く。
アリシアも慌てて手を動かした。
ノアが膝の上にいるため、少しぎこちない拍手になった。
メリルは隣で目を輝かせていた。
「なんか……すごかったね」
「うん……」
アリシアは小さく頷いた。
すごかった。
それ以外の言葉が見つからない。
学園長の話は、怖さを消してくれたわけではない。
明日から急に堂々とできるわけでもない。
でも、胸のどこかに、小さな場所を作ってくれた。
未熟でもいい。
そう言われた気がした。
拍手が収まると、次に教務主任らしき女性教師が壇上に立った。
今度は実務的な説明だった。
明日の予定。
制服採寸。
属性測定。
基礎能力確認。
学科分け。
寮生活の規則。
食堂の利用時間。
訓練場の使用許可。
従魔同伴時の注意事項。
情報量が一気に増え、アリシアの頭はまた少し混乱した。
メリルは案内紙の裏に必死にメモを取っている。
アリシアも真似しようとしたが、ノアを膝に乗せたままだと少し書きにくい。
するとノアが小さく体勢を変え、アリシアの左腕を空けてくれた。
アリシアは小声で言う。
「ありがとう」
ノアは目を閉じたまま、尻尾だけを揺らした。
アリシアはメモを取った。
字は少し震えていた。
けれど、書けた。
属性測定。
その文字を書いた時、手が止まった。
明日。
明日、属性測定がある。
火、水、風、土、光。
その中に、自分の反応は出るのだろうか。
もし何も出なかったら。
もし、闇が出たら。
もし、測定具が壊れたら。
考えれば考えるほど、胸が重くなる。
ノアの尻尾が手首を叩いた。
今は書く。
アリシアは唇を結び、続きを書いた。
説明はしばらく続いた。
講堂内の新入生たちも、最初の緊張から少しずつ疲れが見え始める。
誰かが小さくあくびを噛み殺す。
後ろの方で椅子が軋む。
メモを落とした生徒が慌てて拾う。
教師が軽く咳払いをすると、ざわめきがすぐに静まる。
アリシアは、その空気にも驚いた。
ここでは、全員が学ぶために集まっている。
当たり前のようでいて、山では想像できなかった場所だ。
最後に、生活指導担当の男性教師が壇上に立った。
大柄で、厳しそうな顔をしている。
「最後に一つ」
低い声が響いた。
「中央学園では、許可なき私闘を禁じる」
講堂内の空気が少し引き締まる。
「新入生の中には、自分の力を試したい者もいるだろう。家名を背負う者、推薦を受けた者、すでに名を知られた者もいる」
数人の視線が、自然とガレスたちへ向いた。
ガレスは腕を組んだまま、真面目な顔で聞いている。
「だが、力を示したければ正式な場で示せ。訓練場、授業、試験、ランキング戦。機会はいくらでもある」
ランキング戦。
その言葉に、講堂の一部がざわついた。
アリシアもメモを取る手を止める。
ランキング戦。
何だろう。
字面だけで、怖い。
ノアが耳を動かした。
「私怨、侮辱、挑発による争いは処罰対象となる。相手が貴族であろうと平民であろうと関係ない。学園内では、学園の規則が優先される」
男性教師の視線が講堂を一巡する。
「覚えておけ。強い者ほど、力を振るう理由を問われる」
アリシアはその言葉を、深く胸に留めた。
強い者。
自分は強くない。
そう思う。
でも、祖父は言った。
お前は強くなった、と。
ノアも言った。
逃げなかった、と。
なら、自分もいつか力を振るう時が来るのだろうか。
その時、自分は理由を答えられるだろうか。
説明会が終わった時、外はすっかり夜の色になり始めていた。
講堂の窓の向こうには、紫がかった空が広がり、校舎の灯りがひとつずつ灯っている。
教師たちが退場すると、新入生たちは一斉に立ち上がった。
ざわめきが戻る。
「疲れたー」
「属性測定明日だってよ」
「ランキング戦っていつからだろ」
「ガレス様、絶対上位だろうな」
「リーネ様もすごそう」
「寮の食堂、もう開いてるかな」
人の波が出口へ向かう。
アリシアは立ち上がろうとして、膝の上のノアを抱き直した。
長く座っていたせいで、足が少ししびれている。
「大丈夫?」
メリルが聞く。
「うん……ちょっと、足が」
「私も。説明多かったね」
「うん……」
アリシアはメモを握りしめた。
字がところどころ歪んでいる。
でも、必要なことは書けたはずだ。
たぶん。
人の流れに乗って出口へ向かう。
その途中、近くで大きな声が聞こえた。
「腹減ったな!」
ガレスだった。
彼は数人の新入生に囲まれながら、堂々と通路を歩いている。
「食堂どっちだ? 肉あるか?」
「ガレス、声が大きい」
誰かが苦笑する。
ガレスは気にせず笑った。
「飯は大事だろ!」
アリシアはその声に少し驚き、肩を跳ねさせた。
すると、偶然ガレスの視線がこちらへ向いた。
一瞬。
目が合った。
赤い瞳。
強い視線。
アリシアの体が固まる。
ガレスはアリシアを見て、次に膝元のノア、腰の木刀へ視線を動かした。
そして、にっと笑った。
「お、黒猫連れか! 珍しいな!」
声が大きい。
近くの生徒たちが一斉にこちらを見る。
アリシアの頭が真っ白になった。
「ひゃ……」
情けない声が出た。
メリルが驚き、ノアの耳がぴくりと動く。
ガレスは悪気なく近づいてくる。
「その木刀、お前のか?」
お前。
近い。
大きい。
声が響く。
周囲が見ている。
アリシアは口を開いた。
何か答えなければ。
でも、声が出ない。
木刀。
祖父からもらったもの。
大切なもの。
聞かれているだけ。
答えればいい。
たったそれだけ。
なのに、喉が固まった。
「あ、え……」
言葉が崩れる。
周囲の数人が不思議そうに見る。
アリシアの顔が熱くなる。
逃げたい。
下を向きたい。
その瞬間、ノアが腕の中で小さく体を動かし、アリシアの胸元を前足で押した。
ほんの少し。
でも、確かな力。
前を見なさい。
アリシアは息を吸った。
「は、はい……私の、です」
声は震えた。
でも、出た。
ガレスは目を輝かせた。
「そうか! いいな、それ!」
「え……」
アリシアは予想外の反応に固まった。
笑われると思った。
木刀なんて、と言われるかと思った。
けれどガレスは本当に嬉しそうだった。
「俺も木剣好きだぞ! 刃がない分、思いっきり振れるからな!」
「お、思いっきり……」
「おう! 訓練には最高だ!」
周囲の生徒の何人かが苦笑した。
「ガレスは何でも力任せだろ」
「違うぞ! 力を込めるのも技術だ!」
ガレスは堂々と言い返した。
それからまたアリシアを見る。
「名前は?」
アリシアの心臓が跳ねる。
名乗る。
今日、何度もしてきたこと。
でも相手はガレス。
火の継承者。
周囲の視線もある。
喉が震える。
「ア、アリシア……です」
「アリシアか! 俺はガレスだ!」
知っている。
周囲の噂で聞いていた。
でも、本人から名乗られると、その存在感に圧倒される。
「よ、よろしく……お願いします」
「おう! よろしくな!」
ガレスは豪快に笑った。
それだけ言うと、誰かに呼ばれて食堂の方へ歩いていった。
嵐のような数十秒だった。
周囲の視線も少しずつ離れていく。
アリシアはその場で固まったまま、息を吐けずにいた。
メリルが小声で言う。
「アリシアちゃん……今、ガレス様と話したね」
「は、話した……のかな……」
「話してたよ」
「私、変じゃなかった?」
「大丈夫。ちょっと固まってたけど」
「うぅ……」
ノアが腕の中で小さく言った。
「六十五点」
アリシアは目を瞬かせる。
メリルには聞こえていない。
アリシアは小声で返す。
「低い……」
「相手が急に来た割には頑張ったわ。名前も言えた。木刀のことも答えた」
「減点は……?」
「声が震えすぎ。あと、目が途中で死んでた」
「死んで……」
「でも逃げなかった」
ノアの声が少しだけ柔らかくなる。
「そこは加点」
アリシアは胸を撫で下ろした。
ガレスと話した。
ほんの少しだけ。
でも、話した。
そして木刀を笑われなかった。
むしろ、いいと言われた。
それが少しだけ嬉しかった。
講堂の外へ出ると、夜風が頬に触れた。
アリシアは大きく息を吸う。
疲れた。
とても疲れた。
でも、今日一日で、何度も知らない扉を開けた気がする。
宿場町。
馬車。
中央都市。
学園。
受付。
寮。
説明会。
そして、ガレスとの会話。
どれも怖かった。
けれど、全部を通り過ぎて、今ここにいる。
メリルが隣で伸びをした。
「食堂、行く?」
「食堂……」
アリシアのお腹が、小さく鳴った。
自分でも驚いて顔が赤くなる。
メリルが笑った。
「行こう。私もお腹すいた」
「う、うん……」
ノアが腕の中で当然のように言った。
「私も干し肉以外のものが食べたいわ」
「ノア……小声でね」
「分かってるわよ」
アリシアは少しだけ笑った。
怖いことばかり。
知らないことばかり。
でも、食堂に行く。
ご飯を食べる。
明日のことは、その後で考えればいい。
第一講堂の前では、まだ新入生たちのざわめきが続いていた。
その中で、アリシアはメリルと並び、ノアを抱いて歩き出す。
夜の学園は、昼間よりも少し静かで、灯りに照らされた道はどこか幻想的だった。
遠くで、ガレスの大きな笑い声が聞こえる。
別の方向では、リーネが本を抱えて静かに歩いている。
シオンは誰かに話しかけられ、面倒くさそうに肩をすくめていた。
ミランダは食堂の場所を聞いて、元気よく礼を言っている。
ルシアンは上級生と穏やかに言葉を交わしていた。
五人の継承者たち。
そして、誰にも知られていない六人目。
アリシアはまだ、その輪の中に入っていない。
遠くから見ているだけだ。
でも、今日、ガレスと言葉を交わした。
ほんの少しだけ、世界と繋がった。
それだけで、胸の奥に小さな変化があった。
アリシアはノアを抱き直す。
「ノア」
「何?」
「明日も……頑張れるかな」
「頑張るのよ」
「うん……」
「でも今日は、よく歩いたわ」
アリシアは目を丸くした。
ノアがはっきり褒めた。
「今……」
「一度しか言わないわよ」
「うん」
アリシアは小さく笑った。
「ありがとう」
「だから礼はいいって言ってるでしょう」
「でも、言いたいから」
「本当に頑固ね」
ノアは呆れたように言った。
けれど、その声は優しかった。
アリシアは夜の学園を歩く。
足はまだ少し震えている。
人混みは怖い。
明日の属性測定も怖い。
自分がここにいていいのか、まだ分からない。
それでも、今は少しだけ思えた。
一歩ずつなら、きっと進める。
毒舌な黒猫に背中を蹴られながら。
新しくできた友達と隣を歩きながら。
祖父がくれた守り袋を胸に抱きながら。
アリシアの学園生活は、静かに、けれど確かに始まっていた。




