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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第6話 新入生説明会


 夕刻の鐘は、山で聞いていた鳥の声よりもずっと大きかった。


 ごうん、と空気を震わせるような音が、学園の敷地全体へ広がっていく。


 一度目。


 二度目。


 三度目。


 鐘の響きは白い校舎の壁に反射し、寮の窓を揺らし、アリシアの胸の奥まで届いた。


 部屋の中で聞くその音は、知らない世界に呼ばれているようだった。


 アリシアは扉の前に立ち、布袋から取り出した案内紙を握りしめていた。


 第一講堂。


 新入生説明会。


 夕刻の鐘の後、速やかに集合。


 文字は読める。


 意味も分かる。


 けれど、心がついてこない。


「……速やかに、ってどれくらい?」


 アリシアが小さく呟くと、窓辺に座っていたノアが呆れたように尻尾を揺らした。


「今すぐ、という意味よ」


「だ、だよね……」


「分かってるなら動きなさい」


「うん……」


 アリシアは小さく頷いた。


 部屋にはまだ、自分の匂いがなかった。


 机も、寝台も、本棚も、どこかよそよそしい。荷物を置いただけでは、場所はまだ自分のものにならないのだと初めて知った。


 山の家の自室は、何もしなくても落ち着いた。


 床の音も、窓から見える木の影も、寝台の硬さも、全部が体に馴染んでいた。


 けれど、この部屋は違う。


 新しい。


 整っている。


 清潔で、不便はない。


 それでも、まだ心が居場所を見つけられない。


 アリシアは胸元の守り袋に触れた。


 祖父が彫ってくれた木片の感触が、服越しに指へ伝わる。


 大丈夫。


 帰る場所はある。


 でも、今はここで歩く。


「ノア」


「何?」


「説明会……人、たくさんいるよね」


「新入生全員が集まるなら当然ね」


「全員……」


 その言葉だけで、足が重くなった。


 受付や寮登録の時でさえ、あれほど人がいた。


 第一講堂には、もっと多くの新入生がいるのだろう。


 火の国。


 水の国。


 風の国。


 土の国。


 光の国。


 中央都市。


 さまざまな場所から集まった若者たち。


 その中に、自分も入る。


 家名もなく、属性も言えず、黒猫を連れ、木刀を腰に差した少女として。


「帰りたい顔してるわよ」


 ノアが言った。


「まだ、そこまでは……」


「半分くらい?」


「……うん」


「正直でよろしい」


 ノアは窓辺から軽く飛び降りた。


 床に音もなく着地し、アリシアの足元まで歩いてくる。


 首には登録札のついた黒い首輪。


 本人は屈辱と言っていたが、黒い毛並みに小さな銀の札がよく映えていた。


 言ったら怒られるので、アリシアは黙っている。


「行くわよ」


「うん」


「背筋」


「あっ」


 アリシアは慌てて背筋を伸ばした。


「目線」


「えっと……前」


「よろしい」


 ノアは満足げに頷く。


 アリシアは扉を開けた。


 廊下には、すでに新入生たちが何人も出ていた。


 隣の二〇七号室の扉も開き、メリルが顔を出す。


「あ、アリシアちゃん」


「メ、メリルさん」


 お互い、少しほっとした顔になる。


 メリルも手に案内紙を持っていた。杖は背中に固定している。髪を少し整えたのか、馬車の中よりもきちんとして見えた。


「説明会、一緒に行こう」


「うん……」


 アリシアは頷く。


 ノアは当然のようにアリシアの足元を歩き始めた。


 メリルが微笑む。


「ノアちゃんも一緒だね」


「うん。登録は済んだから……たぶん大丈夫」


「よかった。講堂でも膝の上?」


「たぶん……」


 アリシアがノアを見ると、ノアはちらりとこちらを見上げた。


 当然でしょう。


 そう言っている顔だった。


 寮の廊下は、新入生たちの声で満ちていた。


「第一講堂ってどっち?」


「案内板に書いてあっただろ」


「制服まだなのに説明会あるんだな」


「先生たちって厳しいのかな」


「寮の部屋、意外と広かった!」


「隣のやつ、貴族っぽかったんだけど……」


 言葉が飛び交う。


 期待に弾む声。


 不安を隠せない声。


 無理に明るくしている声。


 アリシアはそれらを聞きながら、廊下の端を歩いた。


 人の流れに乗る。


 それだけのことなのに、難しい。


 前の人が急に止まるとぶつかりそうになる。


 後ろから誰かが近づくと焦る。


 横を通り抜ける生徒の肩がかすめるだけで、心臓が跳ねる。


 そのたびにノアが足元から短く指示を出す。


「少し右」


「うん」


「前見なさい」


「うん」


「止まらない」


「うん……」


 メリルはそんなアリシアを気にしながら、歩幅を合わせてくれていた。


 それがありがたくて、同時に申し訳なくなる。


「あ、あの……メリルさん、私に合わせなくても……」


「ううん。私も一人じゃ不安だから」


「でも……」


「一緒に行きたいの。だから大丈夫」


 メリルはそう言って笑った。


 アリシアは胸がきゅっと温かくなった。


 人と一緒にいることは、迷惑をかけることだと思っていた。


 でも、もしかしたら違うのかもしれない。


 誰かが自分と一緒にいたいと思ってくれることもある。


 そんな当たり前のことを、アリシアはまだ上手く信じられなかった。


「……ありがとう」


「うん」


 寮を出ると、外は夕暮れに染まっていた。


 空の西側が淡い橙色に輝き、学園の白い建物を柔らかく照らしている。


 昼間よりも少し風が涼しい。


 中庭の噴水には夕日が反射し、水面が金色に揺れていた。


 その周りを、新入生たちが第一講堂へ向かって歩いている。


 まるで大きな流れだった。


 アリシアはその流れの端に入り、メリルと並んで進む。


 途中、訓練場の方からまだ大きな声が聞こえた。


「おい、ガレス! もう説明会だぞ!」


「分かってる! あと一振りだ!」


 赤髪の少年の声だった。


 アリシアは反射的にそちらを見る。


 遠くの訓練場で、ガレスが巨大な模擬剣を肩に担いでいた。


 周囲の生徒たちより頭一つ大きい。


 夕日を受けた赤髪が、本当に炎のように見える。


 彼は汗を拭いもせず、豪快に笑っている。


「すごいね、あの人」


 メリルが呟く。


「うん……」


「同じ一年生なんだよね」


「たぶん……」


「たぶんって言いたくなる気持ち、分かる」


 メリルが苦笑する。


 ガレスの周囲には、すでに何人かの新入生が集まっていた。彼の力を間近で見た者たちだろう。羨望、驚き、少しの恐れ。


 その視線を受けても、ガレスはまったく怯まない。


 むしろ視線を力に変えているようにさえ見える。


 アリシアは自分の手を見た。


 細い指。


 木刀を握る手。


 同じ新入生なのに、どうしてこんなにも違うのだろう。


 また比べそうになった時、ノアが足元で低く言った。


「見すぎ」


「……うん」


「縮まない」


「うん」


 アリシアは視線を前へ戻した。


 第一講堂は、学園の中央校舎の横に建っていた。


 高い三角屋根。


 大きな扉。


 白い石壁。


 正面には五つの紋章が横一列に並んでいる。


 火の鳥。


 水の蛇。


 風の狼。


 土の亀。


 光の白猫。


 やはり、六つ目はない。


 アリシアはその紋章を見るたび、胸の奥が少し沈む。


 ノアは何も言わなかった。


 けれど、歩く速度がほんの少しだけ遅くなった。


 気のせいかもしれない。


 でも、アリシアには分かった。


 ノアも見ている。


 この世界にないものとして扱われている、自分たちの場所を。


 第一講堂の入口では、上級生たちが新入生を案内していた。


「一年生は前方から順に着席してください!」


「従魔連れの方は通路側の席へ!」


「私語は控えてください!」


「案内紙はしまって大丈夫です!」


 声が響く。


 大きな扉をくぐると、アリシアは思わず足を止めた。


 広い。


 宿場町の広場よりも、寮の玄関ホールよりも、ずっと広い。


 講堂の天井は高く、木の梁が美しく組まれている。壁には歴代の学園長らしき肖像画が並び、正面奥には大きな壇がある。


 壇の背後には、また五つの紋章。


 そして中央には、学園章。


 客席は階段状になっており、すでに多くの新入生が座っていた。


 ざわめきが波のように広がっている。


 椅子の軋む音。


 話し声。


 笑い声。


 緊張した咳払い。


 紙の擦れる音。


 アリシアの耳には、すべてが大きく響いた。


「アリシアちゃん、大丈夫?」


 メリルが小声で聞く。


 アリシアは頷こうとして、うまく動けなかった。


 人が多い。


 あまりにも多い。


 しかも全員が同じ新入生。


 これから同じ学園で学ぶ人たち。


 自分を見ているわけではないと分かっている。


 でも、視線が全部こちらに向いているような錯覚に襲われる。


 息が浅くなる。


 足が止まる。


 その瞬間、ノアがアリシアの足に体を押しつけた。


 温かい。


 アリシアははっとした。


 ノアが見上げている。


 金色の瞳。


 落ち着きなさい。


 今は歩くだけ。


 アリシアは胸元の守り袋に触れた。


 祖父の言葉。


 一歩だけ。


 アリシアは息を吸う。


 吐く。


 そして、メリルに小さく言った。


「……大丈夫。行ける」


 メリルは安心したように微笑んだ。


「うん」


 二人は上級生に案内され、通路側の席へ向かった。


 ノアがいるため、アリシアは端の席に座ることになった。


 隣にメリル。


 その向こうにも新入生たち。


 ノアはアリシアの膝の上へ飛び乗り、丸くなった。


 登録札が小さく揺れる。


 近くの席にいた少年が、ちらりとノアを見た。


「黒猫か」


 小さな声だった。


 隣の友人らしき少年が囁く。


「従魔かな?」


「でも魔力薄そうじゃない?」


「普通の猫じゃね?」


「学園に猫連れてくるやついるんだな」


 アリシアの肩が強張る。


 悪意はない。


 ただ珍しがっているだけ。


 分かっている。


 でも、胸が縮む。


 ノアは膝の上で目を閉じたままだった。


 まったく気にしていないように見える。


 アリシアはその背をそっと撫でた。


 ノアが尻尾で手首を軽く叩く。


 気にするな。


 そういう意味だ。


 アリシアは小さく頷いた。


 やがて、講堂内のざわめきが少しずつ大きくなった。


 入口の方で人だかりができている。


 アリシアもそちらを見る。


 ガレスが入ってきた。


 赤髪。


 大柄な体。


 人の流れの中にいても、すぐ分かる。


 彼は周囲から向けられる視線を気にせず、空いている席を探している。


「ガレス様だ」


「火の国の継承者候補……」


「近くで見ると本当に大きいな」


「大剣使いらしいぞ」


 ざわめきが広がる。


 ガレスはその声に気づいたのか、にっと笑った。


「おう、邪魔するぞ!」


 声が大きい。


 講堂の数列先まで聞こえた。


 何人かが驚き、何人かが笑う。


 彼の周囲だけ、空気が明るくなる。


 アリシアは少し眩しいものを見るような気持ちで、その姿を見た。


 続いて、別の入口付近で静かなざわめきが起こる。


 リーネが入ってきた。


 青髪のショート。


 眼鏡。


 手には本。


 周囲がひそひそと名前を囁いても、彼女は表情を変えない。


 受付で受け取った案内紙を一瞥し、空いている席へ迷いなく向かう。


「リーネ様だ」


「水の国の主席候補」


「入学前の予備試験、満点だったって」


「本を読みながら歩いてる……」


 リーネは席に着くと、すぐに本を開いた。


 周囲の視線など、存在しないかのようだった。


 アリシアは小さく息を漏らす。


 すごい。


 堂々としている。


 それはガレスとは違う強さだった。


 さらに少し遅れて、講堂の後方から軽い笑い声が聞こえた。


 緑色の長い髪をポニーテールにした細身の少年が、ゆっくり入ってくる。


 歩き方は軽い。


 だが、目は鋭い。


 彼は周囲の視線を受けながら、どこか面倒くさそうに肩をすくめていた。


「あれ、シオンじゃない?」


「風の国の?」


「皮肉屋で有名って聞いた」


「綺麗な顔してるな……」


 シオンと呼ばれた少年は、誰かに手を振られ、薄く笑った。


「そんなに見られると穴が空きそうだね。見るならせめて入場料を取ろうかな」


 近くの生徒たちが一瞬きょとんとし、それから笑った。


 アリシアはそのやり取りを遠くから見て、少し身を引いた。


 皮肉屋。


 噂通りなのかもしれない。


 でも、嫌な感じだけではない。


 人を近づけすぎないための軽口のようにも見えた。


 その後、ひときわ明るい声が響いた。


「わぁ! ここ広いね!」


 黄髪の少女が、元気よく講堂へ入ってきた。


 背が高めで、体つきは健康的で華やか。動くたびに周囲の視線を集めるが、本人はまったく気にしていない。


 彼女は大きな荷物を軽々と担ぎ、きょろきょろと周囲を見回している。


「ミランダ様だ」


「土の国の豪族の娘さんだっけ」


「斧を振り回すって本当かな」


「すごく元気そう……」


 ミランダは近くの生徒に笑顔で話しかけていた。


「ここ空いてる? ありがと!」


 声が明るい。


 ガレスとは別の意味で、周囲を巻き込む力がある。


 アリシアは思わず目を奪われた。


 そして最後に、講堂の空気が少し変わった。


 白髪の少年が入ってきた。


 騒がしくはない。


 大柄でもない。


 けれど、歩くだけで周囲の視線が自然と集まる。


 柔らかな白髪。


 穏やかな微笑み。


 品のある立ち振る舞い。


 少年は周囲に軽く会釈しながら進んでいた。


 誰かが囁く。


「ルシアン様……」


「光の国の神殿推薦だって」


「優しそう」


「もう上級生とも知り合いらしいよ」


「白猫の神獣に縁がある家系って聞いた」


 ルシアン。


 光の継承者。


 アリシアはその姿を見た瞬間、なぜかノアを抱く腕に少し力が入った。


 ルシアンは優しそうだった。


 穏やかで、物知りで、誰にでも丁寧に接しそうな雰囲気がある。


 でも、なぜだろう。


 その笑顔の奥が見えなかった。


 柔らかいのに、底が深い。


 まるで、静かな水面の下に何かが沈んでいるようだった。


 ノアの耳が、ほんのわずかに動いた。


 アリシアはそれに気づく。


「ノア……?」


 小声で呼ぶ。


 ノアは答えない。


 ただ、目を細くしてルシアンの方を見ていた。


 ルシアンはふと、何かに気づいたように視線を動かした。


 一瞬。


 本当に一瞬だけ。


 アリシアのいる方を見た気がした。


 目が合ったわけではない。


 たぶん、気のせい。


 けれどアリシアは心臓が跳ねた。


 ルシアンはすぐに微笑みを戻し、席へ向かった。


 アリシアは膝の上のノアを撫でる。


 ノアの体が、少しだけ硬かった。


 五人。


 火のガレス。


 水のリーネ。


 風のシオン。


 土のミランダ。


 光のルシアン。


 五つの国に知られた、五つの属性の継承者たち。


 その姿を見ただけで、講堂の空気は変わっていた。


 周囲の新入生たちは彼らを見て、期待や憧れを滲ませる。


 同じ学園にいる。


 同じ説明会に参加している。


 それだけで、ざわめきが起こる。


 アリシアは、自分の手を見る。


 誰も自分を知らない。


 自分のことを、継承者だとは思わない。


 それどころか、今のアリシアは従魔登録をした黒猫連れの特別推薦生、という程度の存在だろう。


 それでいい。


 そう思う。


 目立ちたくない。


 知られたくない。


 でも、胸の奥にほんの小さな寂しさもあった。


 六つ目は、ない。


 ここでも、ない。


 祖父とノアが知っているだけ。


 それが安全なのだとしても、少しだけ息苦しかった。


 講堂の前方で、鐘の音が小さく鳴った。


 ざわめきがゆっくりと収まっていく。


 壇の横から、数人の教師らしき人物が現れた。


 ローブをまとった女性。


 騎士のような体格の男性。


 白髪の老教師。


 そして最後に、一人の老人が壇上へ上がった。


 長い白髭。


 深い青のローブ。


 背は高くないが、講堂の空気がその人の登場だけでぴんと張った。


 学園長。


 誰かが小さく囁いた。


 老人は壇上の中央に立ち、講堂全体を見渡した。


 その目が、遠くの席まで届くような気がした。


 アリシアは思わず背筋を伸ばす。


 ノアも膝の上で静かに座り直した。


 学園長が口を開いた。


「新入生諸君。中央学園へようこそ」


 声は大きすぎない。


 けれど、不思議と講堂の隅まで届いた。


「君たちは今日、この学園の門をくぐった。五大国のいずれかより、あるいは中央都市より、あるいは遠き地より、それぞれの思いを胸にここへ来た」


 アリシアの胸が少し震えた。


 遠き地。


 それは自分のことにも聞こえた。


「この学園では、家柄も、出身も、財も、過去の評価も、すべてが絶対ではない」


 講堂が静かになる。


「重要なのは、何を学び、何を選び、何を守る者になるかだ」


 守る者。


 その言葉に、アリシアは祖父を思い出した。


 誰かが戦い続けるなら、誰かが支え続けなければならない。


 まだ聞いたことのない言葉のようで、なぜか胸に浮かんだ。


「力は、誇るためだけのものではない。知識は、他者を見下すためのものではない。魔法は、己を飾るためのものではない」


 学園長の声は静かだった。


 でも、重かった。


「君たちは、学ぶ。失敗する。傷つく。時には、自分の小ささを知るだろう」


 アリシアは膝の上の手を握った。


 すでに知っている。


 自分が小さいことなら、嫌というほど。


 だが、学園長は続けた。


「だが、それを恐れるな。己の小ささを知る者だけが、広い世界を知ることができる」


 アリシアは顔を上げた。


 広い世界。


 今日見たばかりの世界。


 宿場町。


 馬車。


 中央都市。


 学園。


 そのどれもが、自分には大きすぎた。


「この学園は、強者だけの場所ではない。完成された者だけの場所でもない。未熟であることを認め、それでも前へ進もうとする者のための場所だ」


 胸の奥が、じんわりと熱くなった。


 自分は未熟だ。


 怖がりで、人見知りで、すぐ謝ってしまう。


 でも、前へ進もうとしている。


 それなら。


 自分もここにいていいのだろうか。


 ほんの少しだけ、そう思えた。


 学園長は講堂を見渡した。


「そして、この学園には古き使命がある。五大国を結ぶ場所として、次代を担う者たちを育てること」


 五大国。


 やはり六つ目はない。


 アリシアは胸の奥が少し冷える。


「火は情熱を。水は知恵を。風は自由を。土は忍耐を。光は慈愛を。それぞれが世界を支えてきた」


 講堂の前方にある五つの紋章が、魔法の光を受けて淡く輝いた。


 新入生たちの視線がそこへ集まる。


 美しい光景だった。


 荘厳で、誇らしく、誰もが当たり前のように受け入れている歴史。


 アリシアは、膝の上のノアを撫でる。


 では、闇は。


 闇は何を支えてきたのだろう。


 忘れられた六つ目は、何のためにあったのだろう。


 ノアは沈黙している。


 その沈黙が、答えをまだ教えないと言っているようだった。


 学園長は一呼吸置いた。


「だが、覚えておきなさい。歴史とは、ただ暗記するものではない。受け継ぎ、問い直し、未来へ繋ぐものだ」


 アリシアは思わず学園長を見つめた。


 問い直す。


 その言葉が、胸の奥に深く落ちた。


 学園長は続ける。


「諸君が学ぶ中で、常識に疑問を持つこともあるだろう。教えられた答えだけでは足りない日も来るだろう。その時こそ、学びの真価が問われる」


 講堂内は静まり返っていた。


 誰も私語を挟まない。


 ガレスも腕を組んで真剣に聞いている。


 リーネは本を閉じ、学園長を見ている。


 シオンは頬杖をつきながらも目だけは鋭い。


 ミランダは背筋を伸ばし、目を輝かせている。


 ルシアンは穏やかに微笑みながら、静かに耳を傾けている。


 アリシアもまた、息を潜めて聞いた。


「ようこそ、中央学園へ。君たちの未熟さを、我々は歓迎する」


 その言葉の後、講堂に拍手が起きた。


 最初は小さく。


 やがて大きく。


 新入生たちが一斉に手を叩く。


 アリシアも慌てて手を動かした。


 ノアが膝の上にいるため、少しぎこちない拍手になった。


 メリルは隣で目を輝かせていた。


「なんか……すごかったね」


「うん……」


 アリシアは小さく頷いた。


 すごかった。


 それ以外の言葉が見つからない。


 学園長の話は、怖さを消してくれたわけではない。


 明日から急に堂々とできるわけでもない。


 でも、胸のどこかに、小さな場所を作ってくれた。


 未熟でもいい。


 そう言われた気がした。


 拍手が収まると、次に教務主任らしき女性教師が壇上に立った。


 今度は実務的な説明だった。


 明日の予定。


 制服採寸。


 属性測定。


 基礎能力確認。


 学科分け。


 寮生活の規則。


 食堂の利用時間。


 訓練場の使用許可。


 従魔同伴時の注意事項。


 情報量が一気に増え、アリシアの頭はまた少し混乱した。


 メリルは案内紙の裏に必死にメモを取っている。


 アリシアも真似しようとしたが、ノアを膝に乗せたままだと少し書きにくい。


 するとノアが小さく体勢を変え、アリシアの左腕を空けてくれた。


 アリシアは小声で言う。


「ありがとう」


 ノアは目を閉じたまま、尻尾だけを揺らした。


 アリシアはメモを取った。


 字は少し震えていた。


 けれど、書けた。


 属性測定。


 その文字を書いた時、手が止まった。


 明日。


 明日、属性測定がある。


 火、水、風、土、光。


 その中に、自分の反応は出るのだろうか。


 もし何も出なかったら。


 もし、闇が出たら。


 もし、測定具が壊れたら。


 考えれば考えるほど、胸が重くなる。


 ノアの尻尾が手首を叩いた。


 今は書く。


 アリシアは唇を結び、続きを書いた。


 説明はしばらく続いた。


 講堂内の新入生たちも、最初の緊張から少しずつ疲れが見え始める。


 誰かが小さくあくびを噛み殺す。


 後ろの方で椅子が軋む。


 メモを落とした生徒が慌てて拾う。


 教師が軽く咳払いをすると、ざわめきがすぐに静まる。


 アリシアは、その空気にも驚いた。


 ここでは、全員が学ぶために集まっている。


 当たり前のようでいて、山では想像できなかった場所だ。


 最後に、生活指導担当の男性教師が壇上に立った。


 大柄で、厳しそうな顔をしている。


「最後に一つ」


 低い声が響いた。


「中央学園では、許可なき私闘を禁じる」


 講堂内の空気が少し引き締まる。


「新入生の中には、自分の力を試したい者もいるだろう。家名を背負う者、推薦を受けた者、すでに名を知られた者もいる」


 数人の視線が、自然とガレスたちへ向いた。


 ガレスは腕を組んだまま、真面目な顔で聞いている。


「だが、力を示したければ正式な場で示せ。訓練場、授業、試験、ランキング戦。機会はいくらでもある」


 ランキング戦。


 その言葉に、講堂の一部がざわついた。


 アリシアもメモを取る手を止める。


 ランキング戦。


 何だろう。


 字面だけで、怖い。


 ノアが耳を動かした。


「私怨、侮辱、挑発による争いは処罰対象となる。相手が貴族であろうと平民であろうと関係ない。学園内では、学園の規則が優先される」


 男性教師の視線が講堂を一巡する。


「覚えておけ。強い者ほど、力を振るう理由を問われる」


 アリシアはその言葉を、深く胸に留めた。


 強い者。


 自分は強くない。


 そう思う。


 でも、祖父は言った。


 お前は強くなった、と。


 ノアも言った。


 逃げなかった、と。


 なら、自分もいつか力を振るう時が来るのだろうか。


 その時、自分は理由を答えられるだろうか。


 説明会が終わった時、外はすっかり夜の色になり始めていた。


 講堂の窓の向こうには、紫がかった空が広がり、校舎の灯りがひとつずつ灯っている。


 教師たちが退場すると、新入生たちは一斉に立ち上がった。


 ざわめきが戻る。


「疲れたー」


「属性測定明日だってよ」


「ランキング戦っていつからだろ」


「ガレス様、絶対上位だろうな」


「リーネ様もすごそう」


「寮の食堂、もう開いてるかな」


 人の波が出口へ向かう。


 アリシアは立ち上がろうとして、膝の上のノアを抱き直した。


 長く座っていたせいで、足が少ししびれている。


「大丈夫?」


 メリルが聞く。


「うん……ちょっと、足が」


「私も。説明多かったね」


「うん……」


 アリシアはメモを握りしめた。


 字がところどころ歪んでいる。


 でも、必要なことは書けたはずだ。


 たぶん。


 人の流れに乗って出口へ向かう。


 その途中、近くで大きな声が聞こえた。


「腹減ったな!」


 ガレスだった。


 彼は数人の新入生に囲まれながら、堂々と通路を歩いている。


「食堂どっちだ? 肉あるか?」


「ガレス、声が大きい」


 誰かが苦笑する。


 ガレスは気にせず笑った。


「飯は大事だろ!」


 アリシアはその声に少し驚き、肩を跳ねさせた。


 すると、偶然ガレスの視線がこちらへ向いた。


 一瞬。


 目が合った。


 赤い瞳。


 強い視線。


 アリシアの体が固まる。


 ガレスはアリシアを見て、次に膝元のノア、腰の木刀へ視線を動かした。


 そして、にっと笑った。


「お、黒猫連れか! 珍しいな!」


 声が大きい。


 近くの生徒たちが一斉にこちらを見る。


 アリシアの頭が真っ白になった。


「ひゃ……」


 情けない声が出た。


 メリルが驚き、ノアの耳がぴくりと動く。


 ガレスは悪気なく近づいてくる。


「その木刀、お前のか?」


 お前。


 近い。


 大きい。


 声が響く。


 周囲が見ている。


 アリシアは口を開いた。


 何か答えなければ。


 でも、声が出ない。


 木刀。


 祖父からもらったもの。


 大切なもの。


 聞かれているだけ。


 答えればいい。


 たったそれだけ。


 なのに、喉が固まった。


「あ、え……」


 言葉が崩れる。


 周囲の数人が不思議そうに見る。


 アリシアの顔が熱くなる。


 逃げたい。


 下を向きたい。


 その瞬間、ノアが腕の中で小さく体を動かし、アリシアの胸元を前足で押した。


 ほんの少し。


 でも、確かな力。


 前を見なさい。


 アリシアは息を吸った。


「は、はい……私の、です」


 声は震えた。


 でも、出た。


 ガレスは目を輝かせた。


「そうか! いいな、それ!」


「え……」


 アリシアは予想外の反応に固まった。


 笑われると思った。


 木刀なんて、と言われるかと思った。


 けれどガレスは本当に嬉しそうだった。


「俺も木剣好きだぞ! 刃がない分、思いっきり振れるからな!」


「お、思いっきり……」


「おう! 訓練には最高だ!」


 周囲の生徒の何人かが苦笑した。


「ガレスは何でも力任せだろ」


「違うぞ! 力を込めるのも技術だ!」


 ガレスは堂々と言い返した。


 それからまたアリシアを見る。


「名前は?」


 アリシアの心臓が跳ねる。


 名乗る。


 今日、何度もしてきたこと。


 でも相手はガレス。


 火の継承者。


 周囲の視線もある。


 喉が震える。


「ア、アリシア……です」


「アリシアか! 俺はガレスだ!」


 知っている。


 周囲の噂で聞いていた。


 でも、本人から名乗られると、その存在感に圧倒される。


「よ、よろしく……お願いします」


「おう! よろしくな!」


 ガレスは豪快に笑った。


 それだけ言うと、誰かに呼ばれて食堂の方へ歩いていった。


 嵐のような数十秒だった。


 周囲の視線も少しずつ離れていく。


 アリシアはその場で固まったまま、息を吐けずにいた。


 メリルが小声で言う。


「アリシアちゃん……今、ガレス様と話したね」


「は、話した……のかな……」


「話してたよ」


「私、変じゃなかった?」


「大丈夫。ちょっと固まってたけど」


「うぅ……」


 ノアが腕の中で小さく言った。


「六十五点」


 アリシアは目を瞬かせる。


 メリルには聞こえていない。


 アリシアは小声で返す。


「低い……」


「相手が急に来た割には頑張ったわ。名前も言えた。木刀のことも答えた」


「減点は……?」


「声が震えすぎ。あと、目が途中で死んでた」


「死んで……」


「でも逃げなかった」


 ノアの声が少しだけ柔らかくなる。


「そこは加点」


 アリシアは胸を撫で下ろした。


 ガレスと話した。


 ほんの少しだけ。


 でも、話した。


 そして木刀を笑われなかった。


 むしろ、いいと言われた。


 それが少しだけ嬉しかった。


 講堂の外へ出ると、夜風が頬に触れた。


 アリシアは大きく息を吸う。


 疲れた。


 とても疲れた。


 でも、今日一日で、何度も知らない扉を開けた気がする。


 宿場町。


 馬車。


 中央都市。


 学園。


 受付。


 寮。


 説明会。


 そして、ガレスとの会話。


 どれも怖かった。


 けれど、全部を通り過ぎて、今ここにいる。


 メリルが隣で伸びをした。


「食堂、行く?」


「食堂……」


 アリシアのお腹が、小さく鳴った。


 自分でも驚いて顔が赤くなる。


 メリルが笑った。


「行こう。私もお腹すいた」


「う、うん……」


 ノアが腕の中で当然のように言った。


「私も干し肉以外のものが食べたいわ」


「ノア……小声でね」


「分かってるわよ」


 アリシアは少しだけ笑った。


 怖いことばかり。


 知らないことばかり。


 でも、食堂に行く。


 ご飯を食べる。


 明日のことは、その後で考えればいい。


 第一講堂の前では、まだ新入生たちのざわめきが続いていた。


 その中で、アリシアはメリルと並び、ノアを抱いて歩き出す。


 夜の学園は、昼間よりも少し静かで、灯りに照らされた道はどこか幻想的だった。


 遠くで、ガレスの大きな笑い声が聞こえる。


 別の方向では、リーネが本を抱えて静かに歩いている。


 シオンは誰かに話しかけられ、面倒くさそうに肩をすくめていた。


 ミランダは食堂の場所を聞いて、元気よく礼を言っている。


 ルシアンは上級生と穏やかに言葉を交わしていた。


 五人の継承者たち。


 そして、誰にも知られていない六人目。


 アリシアはまだ、その輪の中に入っていない。


 遠くから見ているだけだ。


 でも、今日、ガレスと言葉を交わした。


 ほんの少しだけ、世界と繋がった。


 それだけで、胸の奥に小さな変化があった。


 アリシアはノアを抱き直す。


「ノア」


「何?」


「明日も……頑張れるかな」


「頑張るのよ」


「うん……」


「でも今日は、よく歩いたわ」


 アリシアは目を丸くした。


 ノアがはっきり褒めた。


「今……」


「一度しか言わないわよ」


「うん」


 アリシアは小さく笑った。


「ありがとう」


「だから礼はいいって言ってるでしょう」


「でも、言いたいから」


「本当に頑固ね」


 ノアは呆れたように言った。


 けれど、その声は優しかった。


 アリシアは夜の学園を歩く。


 足はまだ少し震えている。


 人混みは怖い。


 明日の属性測定も怖い。


 自分がここにいていいのか、まだ分からない。


 それでも、今は少しだけ思えた。


 一歩ずつなら、きっと進める。


 毒舌な黒猫に背中を蹴られながら。


 新しくできた友達と隣を歩きながら。


 祖父がくれた守り袋を胸に抱きながら。


 アリシアの学園生活は、静かに、けれど確かに始まっていた。

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