第5話 中央学園
中央都市の中は、歩くだけで息が詰まりそうだった。
山の道は、静かだった。
宿場町は、賑やかだった。
けれど中央都市は、そのどちらとも違った。
ここには、人の流れがあった。
大通りを行き交う人々は、誰もがどこかへ向かっている。迷っているように見える者でさえ、アリシアからすれば十分に堂々としていた。
革鎧を着た冒険者らしき男たち。
荷車を引く商人。
花を抱えた少女。
書類束を抱えて早足で進む役人。
白い法衣をまとった神官。
貴族らしき華やかな服装の少年少女。
荷物を背負った旅人。
人。
人。
人。
その全てが、アリシアの知らない生活を持っている。
道の両側には、背の高い建物が並んでいた。石造りの壁には美しい窓枠がはめ込まれ、店先には色鮮やかな布や金属細工、焼き菓子、薬草、書物、武具が並んでいる。
看板も多かった。
剣の絵。
杖の絵。
鳥の絵。
蛇の絵。
読める文字もあれば、初めて見る意匠もある。
空を見上げれば、建物と建物の間から青い空がのぞく。
山の空とは違う。
切り取られているのに、ずっと広い場所へ繋がっている気がした。
アリシアは案内札を両手で握りしめ、メリルの少し後ろを歩いていた。
腕の中にはノアがいる。
ノアは、今は普通の黒猫として大人しく抱かれていた。
大人しい。
少なくとも、見た目だけは。
けれどアリシアには分かる。
ノアは周囲を見ている。
通りの人の流れ。
建物の配置。
兵士の位置。
看板。
路地。
アリシアがぼんやり圧倒されているあいだにも、ノアは全てを静かに確認している。
その金色の瞳は、時々細くなった。
何かを考えている。
でも、ここでは話せない。
アリシアはノアを抱く腕に少し力を込めた。
するとノアの尻尾が、アリシアの手首を軽く叩く。
強く抱きすぎ。
そう言われた気がして、アリシアは慌てて力を緩めた。
「ご、ごめん……」
小さく呟く。
メリルが振り返った。
「どうしたの?」
「あっ、ううん。なんでもない」
「ノアちゃん、苦しかった?」
「た、たぶん……少し」
メリルはくすりと笑った。
「アリシアちゃん、ノアちゃんのこと本当に大事なんだね」
「うん……大事」
その言葉は、自然に出た。
言ってから、アリシアは少し照れた。
ノアの耳がぴくりと動く。
正面を向いたまま、何も反応しない。
けれど、尻尾が少しだけアリシアの腕に絡んだ。
アリシアは、それだけで胸が温かくなった。
「東口って、あっちかな?」
メリルが案内札を見ながら言う。
アリシアも同じ紙を見る。
簡単な地図が描かれていた。
中央馬車場。
東口。
巡回馬車乗り場。
学園方面。
文字は読める。
けれど、現実の景色と地図を結びつけるのは難しかった。
「あ、えっと……たぶん……あっち?」
アリシアは自信なさげに通りの向こうを指差した。
メリルも同じ方向を見る。
「看板、あるね。学園巡回馬車って書いてある」
「あ、本当……」
大きな看板が柱に吊るされていた。
白い板に青い文字。
学園巡回馬車。
その下には、同じように案内札を持った若者たちが何人も集まっている。
アリシアは足を止めた。
若者たち。
自分と同じくらいの年齢の者たち。
彼らは、きっと中央学園の新入生だ。
男子も女子もいる。
旅装の者。
高そうな服を着た者。
鎧を身につけた者。
杖を持つ者。
剣を持つ者。
弓を背負う者。
周囲の空気が、宿場町の旅人たちとは少し違った。
若さと緊張。
期待と不安。
それから、どこか競い合うような視線。
アリシアは思わず一歩後ろへ下がった。
すぐにノアの尻尾が手首を叩く。
下がらない。
アリシアは小さく息を吸って、踏みとどまった。
メリルはそんなアリシアに気づいたのか、少し声を落とした。
「人、多いね」
「うん……」
「私も、ちょっと緊張してきた」
「メリルさんも?」
「うん。さっきまで一緒に話してたから平気だったけど、ああいうの見ると、いよいよなんだなって思う」
メリルは杖を抱え直した。
その指先にも、少し力が入っている。
アリシアはそれを見て、ほんの少し安心した。
自分だけではない。
何度もそう思っている。
けれど、そのたびに心は少し軽くなる。
「一緒に、行こう」
アリシアは小さく言った。
自分から言った。
言った後、顔が熱くなる。
メリルはすぐに笑った。
「うん」
二人は巡回馬車乗り場へ向かった。
係員らしき青年が、集まった新入生たちへ声を張っている。
「中央学園行き巡回馬車はこちらです! 案内札を確認しますので、順にお見せください!」
新入生たちが列を作っている。
アリシアとメリルも、その最後尾に並んだ。
前に並んでいる少年たちの会話が聞こえる。
「お前、どこの推薦?」
「火の国の騎士団推薦。親父が騎士だからな」
「へぇ。俺は商会推薦だ。魔法科だけど」
「属性は?」
「土。お前は見たまま火だろ」
「まあな」
火。
土。
属性の話が、当たり前のように交わされている。
アリシアは胸がざわついた。
自分は、何と答えればいいのだろう。
もし学園で聞かれたら。
闇、と言うのか。
それとも、まだ分からないと言うのか。
祖父は、必要になるまで言うなと言った。
ノアもきっと同じ意見だ。
だが、学園で属性を隠し通せるのだろうか。
魔法の授業が始まれば、すぐに分かってしまうのではないか。
不安が膨らみ始める。
その時、腕の中のノアが身じろぎした。
アリシアは視線を落とす。
ノアは普通の猫のふりをしたまま、金色の瞳だけでアリシアを見上げていた。
今考えても仕方ない。
そう言われている気がした。
アリシアは唇を引き結ぶ。
そうだ。
今は、案内札を見せて馬車に乗る。
それだけ。
一度に全部考えない。
祖父も言った。
人は、一度にすべてを背負うことはできない。
今は、目の前の一歩。
列が進む。
メリルが先に案内札を見せる。
「はい、確認しました。次の馬車に乗ってください」
「ありがとうございます」
メリルは自然に礼を言った。
アリシアの番になった。
係員の青年がこちらを見る。
「案内札をお願いします」
「あ、はい……」
アリシアは両手で札を差し出した。
青年は札を確認し、すぐに頷いた。
「確認しました。中央学園ですね」
「は、はい」
「その猫は?」
アリシアの体が少し固まる。
まただ。
ノアの扱い。
中央学園では使い魔や小型の従魔の登録ができると案内所の女性は言っていた。
だが、ノアは使い魔でも従魔でもない。
神獣だ。
けれど、そんなことは言えない。
「一緒に……連れていきたいです」
アリシアは少し緊張しながら言った。
青年はノアを見た。
ノアは完璧な猫の顔をしている。
丸く、静かで、賢そうだがただの猫に見える。
「大人しいなら問題ありません。学園到着後、受付で従魔登録の確認をしてください」
「あ、ありがとうございます」
「次の馬車へどうぞ」
アリシアは札を受け取り、深く頭を下げそうになった。
けれど途中で止める。
適度に。
ノアから学んだ。
係員はにこやかに次の生徒を呼んだ。
アリシアはほっと息を吐き、メリルの隣へ戻る。
「大丈夫だったね」
「うん……」
「ノアちゃん、本当に大人しいね」
「う、うん。今は……」
「今は?」
「あっ、えっと……普段も、大人しい……と思う」
アリシアは目を泳がせた。
ノアの尻尾が腕の中でぴくりと動く。
後で絶対に何か言われる。
アリシアは心の中でまた小さく謝った。
巡回馬車は、先ほど乗ってきた乗合馬車よりもずっと綺麗だった。
白と青を基調にした車体で、側面には五つの紋章が描かれている。
火の鳥。
水の蛇。
風の狼。
土の亀。
光の白猫。
やはり、そこに黒猫はいない。
アリシアはその紋章を見つめ、胸の奥に小さな影が落ちるのを感じた。
腕の中のノアが、ほんの少しだけ身を固くした。
アリシアはノアを抱く腕を緩め、そっと撫でた。
ノアは何も言わない。
言えない。
でも、その沈黙がいつもより重く感じられた。
メリルが首を傾げる。
「アリシアちゃん?」
「あ……ううん。なんでもない」
「そっか」
二人は馬車に乗り込んだ。
すでに何人かの新入生が座っている。
先ほど列で話していた少年たち。
高価そうな白い制服風の服を着た少女。
無口そうな大柄の少年。
革の手袋をはめた弓持ちの少女。
それぞれがちらりとアリシアとノアを見る。
黒猫連れは珍しいのだろう。
加えて、腰にあるのは木刀。
周囲の視線が少し集まる。
アリシアの肩が縮みそうになる。
しかし、ノアの尻尾がすぐに手を叩いた。
背筋。
アリシアは心の中で返事をし、背筋を伸ばした。
メリルが隣に座る。
アリシアはその横に腰を下ろした。
ノアは膝の上。
馬車内は、先ほどの乗合馬車よりも若い声で満ちていた。
「中央学園って寮が属性ごとに分かれてるって本当か?」
「いや、学科別って聞いたぞ」
「魔法実技って最初から厳しいのかな」
「生徒会の人たちが迎えに来るって噂あるよ」
「五大国の貴族も普通にいるらしいぜ」
「本物の神器継承者がいるって聞いたけど?」
その言葉に、アリシアの指が止まった。
神器継承者。
馬車内の空気が少し変わる。
数人がその話題に反応した。
「本物って、五大国の?」
「そうそう。火とか水とか、各国の名家から一人ずつ出るって」
「でも神器なんて、王宮か神殿にあるんじゃないの?」
「継承者は学園で育てるんだってさ。俺の兄貴が言ってた」
「へぇ……じゃあ同じ学年にいるかもしれないってこと?」
「いるかもな。まあ、俺たちとは別格だろうけど」
アリシアは息を潜めた。
五つの神器の継承者。
火、水、風、土、光。
彼らは存在を知られている。
噂になるほどに。
期待されている。
学園でも特別に扱われるのだろう。
だが、自分は違う。
六つ目の神器。
忘れられた闇。
誰も知らない。
誰も期待していない。
むしろ、知られてはいけない。
膝の上のノアが、そっと尻尾をアリシアの手に絡めた。
いつもより優しい動きだった。
アリシアは、そっとノアの背を撫でた。
メリルが小声で言う。
「神器継承者って、本当にいるんだね」
「……うん」
「会えるかな」
「どうだろう……」
「ちょっと怖いけど、見てみたいな。伝説みたいな人たちでしょ?」
アリシアは答えに迷った。
自分も、その一人なのだろうか。
でも、伝説みたいではない。
今も人の視線に怯え、馬車の中で膝の上の黒猫を撫でているだけの少女だ。
アリシアは小さく言った。
「きっと……普通の人かもしれない」
「え?」
「その……選ばれてても、怖かったり、不安だったり……するかも」
メリルは少し驚いた顔をした。
それから、柔らかく笑った。
「そっか。そうだよね。神器継承者でも、同じ歳くらいなんだもんね」
「うん……たぶん」
「アリシアちゃんって、優しいね」
「えっ」
突然言われて、アリシアは固まった。
「や、優しい……?」
「うん。普通なら、すごい人だって思って終わりそうなのに、その人たちの不安まで考えられるんだなって」
「そ、そんな……ただ、思っただけで……」
「そういうところだよ」
メリルはにこっと笑った。
アリシアは顔が熱くなった。
褒められることに、まだ慣れていない。
祖父の言葉なら受け取れる。
ノアの分かりにくい褒め言葉も、少しずつ分かってきた。
でも、同年代の少女から真っ直ぐ褒められると、どうしていいか分からない。
アリシアは膝の上のノアを見る。
助けてほしい。
けれどノアは目を閉じて、完全にただの猫のふりをしていた。
こういう時に限って助けてくれない。
アリシアは小さく息を吸った。
「あ……ありがとう」
言えた。
褒め言葉を否定しなかった。
それだけで、少しだけ前進した気がした。
ノアの尻尾が、アリシアの手首を軽く叩いた。
上出来。
そう言われた気がした。
巡回馬車が動き出した。
中央都市の大通りを抜け、学園方面へ向かう。
窓の外では、街の景色が少しずつ変わっていった。
商店が並ぶ賑やかな区画を抜けると、建物の間隔が広くなり、石造りの大きな施設が増えた。
図書館のような建物。
訓練場らしき広場。
白い尖塔を持つ神殿。
五大国の旗が並ぶ広場。
その全てが、アリシアには大きすぎた。
山の家なら、入口から台所まで数歩で行ける。
ここでは、一つの建物だけで山の家が何軒も入りそうだった。
馬車内の新入生たちも、少しずつ静かになっていく。
皆、窓の外を見ていた。
期待。
緊張。
誇り。
不安。
いろいろな表情がある。
アリシアは、その中で自分だけが特別に怯えているわけではないことに気づいた。
隣のメリルも、杖を握る手に力が入っている。
前の席の少年も、さっきより口数が少ない。
高そうな服の少女も、窓の外を見つめたまま唇を結んでいる。
みんな、何かを抱えている。
そう思うと、ほんの少しだけ心が落ち着いた。
やがて、馬車が大きな坂道を上り始めた。
石畳の道の両側に、白い柱が並んでいる。
その柱には五つの紋章が刻まれていた。
火。
水。
風。
土。
光。
そして坂の先に、巨大な門が見えた。
中央都市の門よりは小さい。
けれど、別の意味で圧倒的だった。
白い石で造られた門。
上部には、五つの紋章を組み合わせた学園章が掲げられている。
その向こうに、広大な敷地が広がっていた。
芝生。
噴水。
長い通路。
高い校舎。
訓練場。
塔。
寮らしき建物。
中央にそびえる大きな時計塔。
そこが、中央学園だった。
馬車内から、誰かが息を飲む音が聞こえた。
メリルも小さく呟く。
「ここが……」
アリシアは言葉を失った。
学園。
本で読んだ場所。
祖父が向かえと言った場所。
世界の中心にある、五大国共同の学び舎。
そこが、今、目の前にある。
大きすぎる。
綺麗すぎる。
そして、遠すぎる。
自分がここに入っていいのか。
そんな気持ちが、胸の奥から湧いてくる。
アリシアは無意識に木刀へ触れた。
腰に差した木刀。
祖父からもらったもの。
これだけが、自分が自分であることを確かめさせてくれる。
ノアが膝の上で目を開けた。
金色の瞳が、門を見ている。
その横顔は、いつもの毒舌な姉のようなノアではなく、どこか遠いものを見ている神獣のようだった。
馬車が門をくぐる。
その瞬間、アリシアの胸元がかすかに熱を持った。
「……っ」
アリシアは息を止めた。
守り袋ではない。
もっと奥。
継承の儀で結ばれた何か。
胸の内側に刻まれた見えない印が、ほんの一瞬だけ震えた気がした。
ノアの耳も、わずかに動いた。
メリルが気づいた様子はない。
他の生徒たちも、ただ学園の景色に圧倒されている。
アリシアは小声で囁く。
「ノア……今……」
ノアは答えなかった。
答えられない。
けれど、尻尾がアリシアの手を軽く押さえた。
落ち着きなさい。
今は騒がない。
アリシアは唇を結び、頷いた。
馬車は学園の入口広場で止まった。
扉が開き、係員の声が響く。
「新入生の皆さん、到着です! 荷物を持って、受付へ進んでください!」
ざわめきが広がる。
新入生たちが次々に立ち上がった。
アリシアも布袋を持とうとして、膝の上のノアと木刀と案内札とで手が足りなくなり、少し慌てた。
「アリシアちゃん、袋持とうか?」
メリルが言う。
「あ、だ、大丈夫……ありがとう」
アリシアは何とか布袋を肩にかけ、ノアを抱き直した。
馬車を降りると、学園の空気が一気に押し寄せてきた。
中央都市の雑踏とは違う。
広く、整っていて、けれど緊張感がある。
入口広場には多くの新入生が集まっていた。
受付用の長い机がいくつも並び、その後ろには学園の制服を着た上級生や職員が立っている。
白と紺を基調にした制服。
胸には五つの紋章を組み合わせた学園章。
上級生たちは慣れた様子で新入生を誘導していた。
「案内札を準備してください!」
「推薦状のある方はこちら!」
「寮希望者は受付後、右手の寮登録へ!」
「使い魔・従魔を連れている方は、登録確認を忘れないように!」
声が飛び交う。
アリシアはまた固まりそうになる。
その時、メリルが横から言った。
「まず受付だね」
「う、うん」
「一緒に並ぼう」
「うん……」
メリルがいてくれてよかった。
もし一人だったら、どの列に並べばいいか分からず、その場で立ち尽くしていたかもしれない。
二人は新入生の列に並んだ。
前には十人ほどいる。
後ろにも次々と生徒が並んでいく。
周囲の会話が聞こえた。
「すごいな、本当に広い」
「寮ってどこだろう」
「実技試験って入学後にもあるらしいぞ」
「え、聞いてないんだけど」
「制服合わせも今日?」
「火の国の継承者、もう来てるらしいぞ」
「嘘、本当に?」
継承者。
またその言葉。
アリシアは視線を少しだけ上げた。
入口広場の向こう側に、少し人だかりができている。
中心に、ひときわ目立つ赤髪の少年がいた。
遠目でも分かるほど背が高い。
肩幅が広く、制服らしき服をまだ着ていないのに、立っているだけで周囲より大きく見える。
赤い髪は陽光を受けて燃えるようだった。
その少年は何かを豪快に笑っている。
周囲の生徒たちが少し圧倒されながらも、彼の話に耳を傾けていた。
「火の国の……」
誰かが囁く。
「あれがガレス様?」
「すごい体格……本当に一年生?」
「神器継承者候補って聞いた」
ガレス。
火の継承者。
アリシアは遠くからその姿を見た。
自分とは、まるで違う。
堂々としている。
人の中心にいても揺らがない。
声も大きく、笑い方もまっすぐで、周囲の視線を恐れていない。
アリシアは思わず自分の肩を縮めそうになった。
ノアの尻尾が腕を叩く。
縮まない。
アリシアは小さく息を吸い、背筋を伸ばした。
だがその時、別の方向から静かなざわめきが起きた。
青髪の少女が、受付の別列に立っている。
短く切りそろえられた青い髪。
眼鏡。
手元には分厚い本。
姿勢はまっすぐで、周囲を観察する目は冷静だった。
彼女の近くでも、ひそひそ声が聞こえる。
「水の国のリーネ様だって」
「成績首席候補らしいよ」
「もう教本読んでる……」
リーネ。
水の継承者。
アリシアは、その静かな横顔にも目を奪われた。
堂々としているのは、ガレスとは違う形だった。
大声ではない。
笑ってもいない。
けれど、自分の立つ場所を知っている人の落ち着きがあった。
アリシアはますます自分が小さく感じられた。
火のような少年。
水のような少女。
きっと、他にもいる。
風。
土。
光。
五つの継承者たち。
彼らは最初から世界に知られている。
自分とは違う。
けれど。
腕の中のノアが、アリシアの手に尻尾を絡めた。
比べるな。
そう言われた気がした。
アリシアはノアを見下ろす。
ノアは普通の猫の顔をしていた。
でも、その目だけはまっすぐアリシアを見ている。
アリシアは小さく頷いた。
今は、受付。
それだけ。
列が進む。
メリルの番になった。
受付の上級生は、淡い茶髪の男子生徒だった。
優しそうな雰囲気で、手元の名簿を確認している。
「お名前をお願いします」
「メリル・ファーレンです」
「メリル・ファーレンさん。風属性基礎科ですね。案内札と推薦状をお願いします」
「はい」
メリルは落ち着いて書類を渡した。
少し緊張しているようだったが、受け答えはしっかりしていた。
受付が終わり、メリルは寮登録の案内紙を受け取る。
「次の方」
アリシアの番だった。
心臓が大きく鳴る。
前へ出る。
上級生の男子が顔を上げた。
「お名前をお願いします」
アリシアは喉が詰まりそうになった。
名を告げる。
継承の儀の時と同じ。
あの時も怖かった。
でも、言えた。
ここでも言う。
「ア、アリシア……です」
声が少し震えた。
男子生徒は優しく微笑む。
「アリシアさんですね。家名はありますか?」
家名。
アリシアは固まった。
祖父から、受付では名前だけでいいと言われていた。
家名を聞かれるかもしれないとも言われた。
その時は、ない、と答えなさい。
そう言われていた。
アリシアは膝の横で手を握った。
「ありません……」
男子生徒は少しだけ目を動かしたが、すぐに頷いた。
「分かりました。アリシアさん。案内札と推薦状はありますか?」
「は、はい」
アリシアは布袋から祖父に渡された封筒を取り出した。
推薦状。
封は閉じられている。
誰の名前で出されたものなのか、アリシアは知らない。
祖父は、受付に渡せばいいとだけ言った。
男子生徒は封筒を受け取り、表面を見た。
その瞬間、彼の表情がほんの少し変わった。
驚き。
困惑。
そして、慎重さ。
アリシアはそれに気づき、胸が縮んだ。
何かおかしかったのだろうか。
推薦状に不備があったのだろうか。
男子生徒はすぐに表情を整えた。
「少々お待ちください」
「は、はい……」
彼は隣にいた職員らしき女性へ封筒を見せた。
女性も表面を見る。
そして、一瞬だけ目を細めた。
小声で何かを確認し、封を開ける。
中の書面に目を通す。
アリシアは立ったまま、息をするのも忘れそうになった。
後ろには他の新入生が並んでいる。
視線を感じる。
長く待たされている自分。
家名のない自分。
黒猫を抱いた木刀の少女。
変に思われているかもしれない。
アリシアの指が震える。
ノアが腕の中で身じろぎし、アリシアの手首を尻尾で押さえた。
落ち着きなさい。
アリシアは唇を噛み、頷く。
しばらくして、職員の女性が戻ってきた。
表情は柔らかい。
けれど、どこか丁寧すぎるようにも見えた。
「お待たせしました、アリシアさん」
「は、はい」
「推薦状は正式なものです。入学手続きに問題はありません」
アリシアは大きく息を吐きそうになり、慌てて堪えた。
「よ、よかった……」
女性は微笑む。
「あなたは特別推薦枠での入学になります。詳しい説明は後ほど担任よりありますので、まずは寮登録へ進んでください」
「特別……推薦……」
言葉の意味が分からない。
普通の推薦と何が違うのだろう。
アリシアが戸惑っていると、女性は続けた。
「それと、その黒猫についてですが」
アリシアはノアを抱く腕に力が入りかけ、慌てて緩めた。
「従魔登録が必要になります。寮登録の前に、右奥の小型従魔受付へ向かってください」
「わ、分かりました」
「大人しい子ですね」
「は、はい……大人しい……です」
アリシアの声が少し上ずった。
ノアは完璧な猫の顔をしている。
職員の女性は何も気づかず、登録用の小さな札を渡してくれた。
「こちらを持っていってください」
「あ、ありがとうございます」
アリシアは札を受け取り、何度も頭を下げそうになって、また途中で止めた。
受付を離れると、メリルが少し心配そうに待っていた。
「大丈夫だった?」
「うん……たぶん」
「少し時間かかってたね」
「推薦状の確認……みたい」
「特別推薦って聞こえたけど、すごいね」
「す、すごいのかな……」
「たぶんすごいよ」
アリシアは困った顔をした。
すごいと言われても困る。
自分は何も知らない。
ただ祖父に渡された推薦状を出しただけだ。
それなのに、周囲の何人かがこちらを見ている気がした。
特別推薦。
家名なし。
黒猫連れ。
木刀。
目立ちたくないのに、目立つ要素ばかりが積み重なっている。
アリシアは半泣きになりそうだった。
その時、ノアが小さく耳を動かした。
小声で、ぎりぎりアリシアにだけ聞こえる声が落ちた。
「泣くには早いわよ」
アリシアはびくっとした。
メリルには聞こえていないようだった。
アリシアはノアを見る。
ノアは何事もなかったように猫の顔をしている。
「……うん」
アリシアは小さく頷いた。
メリルが首を傾げる。
「どうしたの?」
「ううん……まず、ノアの登録に行ってくるね」
「あ、私も一緒に行こうか?」
「で、でも、メリルさんは寮登録……」
「急がなくても大丈夫そうだし。私も従魔登録ってどんなのか見てみたい」
「う、うん……ありがとう」
一人ではなかった。
そのことが、何度もアリシアを救っていた。
二人は右奥の小型従魔受付へ向かった。
そこには、犬や鳥、小さな蜥蜴のような生き物を連れた新入生たちが数人並んでいた。
係の職員は、丸眼鏡をかけた小柄な女性だった。
机の上には書類と、水晶のような小さな球が置かれている。
前の生徒が連れていた白い小鳥に水晶を近づけると、水晶が淡く緑に光った。
「風属性の小型従魔ですね。危険性低。寮内同伴可です」
職員が淡々と言う。
次はアリシアの番だった。
「登録する従魔をこちらへ」
「あ、はい……」
アリシアはノアを机の上に乗せた。
ノアは静かに座る。
職員は少し目を細めた。
「黒猫ですか。名前は?」
「ノアです」
「性別は?」
「女の子……です」
「年齢は?」
「えっ」
アリシアは固まった。
年齢。
ノアの年齢。
知らない。
神獣だから、きっとものすごく長く生きている。
でも、何歳など言えるはずがない。
アリシアは助けを求めるようにノアを見る。
ノアは猫の顔のまま、何も言わない。
アリシアは汗が出そうになった。
「えっと……拾ったばかりで……詳しくは……」
職員は頷いた。
「不明ですね」
「あ、はい」
「では魔力反応を確認します」
職員が水晶をノアへ近づけた。
アリシアは息を止める。
ノアは動かない。
水晶が近づく。
あと少し。
その時、水晶が淡く光った。
けれど、色ははっきりしなかった。
黒。
ではなかった。
灰色に近い、薄い光。
職員が眉をひそめる。
「……珍しいですね」
アリシアの心臓が跳ねる。
「珍しい……ですか?」
「魔力反応がかなり薄いです。一般的な従魔というより、魔力をほとんど持たない普通の猫に近い」
アリシアはノアを見る。
ノアは澄ました顔をしている。
隠した。
たぶん、隠したのだ。
「ただ、完全にゼロではありませんね。契約反応も微弱にあります」
「け、契約……」
「あなたに懐いているという程度かもしれません。危険性は低いでしょう」
職員は書類に何かを書き込む。
「寮内同伴可。ただし、授業中は担当教員の許可が必要です。食堂では膝か専用籠の上。施設を破損した場合は飼い主責任になります」
「は、はい」
「ノア用の登録札です。首輪につけますか?」
職員が小さな金属札を見せた。
そこには学園章と、登録番号が刻まれている。
アリシアは少し迷った。
ノアは神獣だ。
首輪をつけるなんて、失礼かもしれない。
しかし、登録しなければ一緒にいられない。
アリシアが悩んでいると、ノアが机の上で首を少し傾けた。
許す。
たぶん、そういう意味だった。
「お、お願いします」
職員は手慣れた様子で、細い黒革の首輪に登録札をつけ、ノアの首へ通した。
ノアは一切抵抗しなかった。
だが、その顔はどこか不満そうだった。
アリシアは心の中で震えた。
後で何を言われるのだろう。
「終わりました。大人しい良い子ですね」
「あ、ありがとうございます」
アリシアはノアを抱き上げた。
登録札が小さく揺れる。
ノアはアリシアの腕の中で、ほんの小さく息を吐いた。
メリルが隣で笑う。
「ノアちゃん、首輪似合うね」
ノアの耳がぴくりと動いた。
アリシアは慌てて言う。
「う、うん……可愛い……と思う」
ノアの尻尾がアリシアの腕を軽く叩いた。
余計なことを言うな。
たぶんそうだ。
アリシアは口を閉じた。
次は寮登録だった。
寮登録の列は、受付よりもさらに長かった。
新入生たちが不安そうに待っている。
職員が順に説明していた。
「中央学園の一年生は、原則として第一寮から第五寮に分かれます。属性、学科、人数の均衡を見て部屋を割り振ります。貴族・平民の区別はありません」
貴族。
平民。
アリシアはその言葉を聞いて、少し身を固くした。
自分は何なのだろう。
山の隠れ里で祖父と暮らしていた少女。
家名もない。
貴族ではない。
平民と呼ぶには、普通の村や町にも属していない。
どこにも当てはまらない気がした。
メリルが隣で小声で言う。
「貴族の人も同じ寮なんだね。緊張するなぁ」
「うん……」
「でも、同じ学園生ってことだもんね」
「同じ……」
アリシアはその言葉を小さく繰り返した。
同じ。
本当にそうだろうか。
ガレスやリーネのような継承者。
貴族の子女。
魔法に慣れた者たち。
そして、自分。
同じ学園生。
その言葉を信じたい気持ちと、信じきれない気持ちが胸の中で揺れた。
列が進む。
メリルが先に登録を受ける。
「メリル・ファーレンさん。第一寮、二階、二〇七号室です」
「はい」
メリルは鍵と案内紙を受け取った。
次はアリシア。
職員が名簿を確認する。
「アリシアさん。特別推薦枠……ですね」
また、その言葉。
アリシアは小さく頷く。
「はい……」
「第一寮、二階、二〇八号室です」
「え……」
アリシアは思わず声を漏らした。
メリルが隣で目を丸くする。
「隣だ」
職員が微笑む。
「知り合いでしたか?」
「あ、はい……馬車で……」
「それはよかったですね。第一寮は新入生が多いので、知り合いが近いと安心でしょう」
「はい……」
アリシアは鍵を受け取った。
小さな銀色の鍵。
二〇八。
自分の部屋。
学園で暮らす場所。
その重みが、掌に乗る。
メリルが嬉しそうに言った。
「隣だね、アリシアちゃん」
「うん……よかった」
本当に、そう思った。
一人ではない。
知らない寮で、隣に知っている人がいる。
それだけで、不安が少し和らいだ。
ノアが腕の中で小さく鼻を鳴らした。
まったく、運がいいわね。
そう言いたそうだった。
寮登録を終えると、職員が全体へ向けて説明した。
「本日の流れです。寮の部屋へ荷物を置いた後、夕刻に第一講堂で新入生説明会があります。制服の採寸は明日午前。入学式は明後日です。案内紙を必ず確認してください」
説明会。
制服。
入学式。
言葉だけで、アリシアの頭はいっぱいになった。
メリルも案内紙を見ながら少し困った顔をしている。
「覚えること多いね」
「うん……」
「でも、まずは部屋だね」
「うん」
二人は第一寮へ向かうことにした。
学園の敷地は、入口から寮までだけでもかなり広かった。
石畳の道がいくつも分かれ、案内板が立っている。
校舎。
講堂。
図書館。
訓練場。
魔法演習棟。
食堂。
第一寮から第五寮。
それぞれの場所が矢印で示されている。
アリシアは案内板を見上げた。
「迷いそう……」
「私も」
メリルが苦笑する。
ノアが小さく囁く。
「迷う前提で動きなさい」
「うん……」
「案内板を覚える。大きな建物を目印にする。分からなくなったら人に聞く」
「聞く……」
「何度もやってるでしょう」
「うん……」
そうだ。
宿場町で道を聞いた。
馬車場で聞いた。
案内所でも聞いた。
できた。
なら、ここでもきっとできる。
第一寮へ続く道を歩いていると、遠くの訓練場から大きな音が聞こえた。
どん、と地面が揺れるような音。
新入生たちの何人かがそちらを見る。
アリシアも足を止めた。
訓練場の方で、赤髪の少年――ガレスが大きな木剣を振っていた。
いや、木剣というには大きすぎる。
大人でも扱うのが難しそうな巨大な模擬剣を、彼は軽々と振り下ろしている。
その一撃が訓練用の木人に当たり、鈍い音を響かせた。
周囲の上級生らしき者たちがざわめく。
「おい、あれ一年だろ?」
「馬鹿力かよ……」
「火の国のガレスだって」
「やっぱり継承者候補は違うな」
ガレスは周囲の声を気にする様子もなく、豪快に笑った。
「まだ軽いな! もう少し重いのはないのか!」
声が遠くまで響く。
アリシアは目を丸くした。
すごい。
怖いくらいに、まっすぐな力。
木刀を握る自分とは、まるで違う。
すると、その訓練場の端に、青髪の少女――リーネの姿も見えた。
彼女は木人ではなく、手元の本と魔法陣を見比べている。
小さな水球が彼女の指先に浮かび、形を変え、薄い刃のようになり、また球へ戻る。
周囲の生徒が小さく声を上げた。
「あの制御……」
「水球をあんなに薄く?」
「すごい……」
リーネは表情を変えず、何かを記録していた。
力のガレス。
制御のリーネ。
同じ新入生とは思えない。
アリシアは無意識に木刀へ触れた。
自分には、何があるのだろう。
神器はまだ眠っている。
魔法も人前で使えない。
武器は木刀。
人と話すことも苦手。
こんな自分が、本当にここでやっていけるのだろうか。
不安が胸を覆いかける。
その時、ノアの声が耳元で小さく落ちた。
「見すぎ」
「あっ……」
「比べて縮むくらいなら、見るだけ無駄よ」
「でも……すごい」
「すごいわね」
ノアはあっさり認めた。
「でも、あんたはあんたよ」
「……」
「火には火の戦い方がある。水には水の戦い方がある。あんたには、あんたの歩き方がある」
アリシアはノアを見た。
ノアは正面を向いたまま、続ける。
「それを忘れたら、何を持っていても負けるわ」
厳しい言葉だった。
でも、深く胸に届いた。
アリシアは小さく頷いた。
「うん」
メリルが心配そうに見る。
「アリシアちゃん、大丈夫?」
「あ……うん。少し、びっくりしただけ」
「すごかったね。あの赤髪の人」
「うん」
「青髪の人も。私、風属性だけど、あんな制御できる気がしないなぁ」
メリルは少し苦笑した。
彼女も同じように圧倒されている。
でも、アリシアよりずっと自然に受け止めているように見えた。
「行こうか。寮、探さないと」
「うん」
二人は再び歩き出した。
第一寮は、白い壁と青い屋根の大きな建物だった。
三階建て。
正面には広い階段があり、入口の上には第一寮と刻まれた石板がある。
窓がたくさん並び、ところどころに花壇が置かれている。
新入生たちが次々に入っていく。
寮母らしき女性が入口で案内していた。
「一年生は二階と三階です。鍵の番号を確認してください。食堂は一階奥、大浴場は反対側。門限は夜の鐘までです」
大浴場。
門限。
食堂。
また新しい情報が増える。
アリシアは案内紙を見つめながら、必死に覚えようとした。
ノアが腕の中でため息をつく。
「一度に全部覚えようとしない」
「う……」
小声で返事をしかけて、メリルの存在を思い出し、アリシアは口を閉じた。
寮に入ると、木の床と磨かれた石壁が広がっていた。
広い玄関ホール。
掲示板。
階段。
談話スペース。
すでに何人かの生徒が椅子に座って話している。
その視線が、新しく入ってきたアリシアたちへ向いた。
アリシアはまた肩を縮めそうになる。
だが、ここでもノアの尻尾が手首を叩いた。
背筋。
今日だけで、何度言われただろう。
アリシアは少しだけ背筋を伸ばした。
階段を上がる。
二階の廊下は長かった。
扉がずらりと並び、それぞれに番号がついている。
二〇一。
二〇二。
二〇三。
数字が進む。
メリルの部屋は二〇七。
アリシアはその隣の二〇八。
メリルが自分の扉の前で立ち止まった。
「ここだ」
「隣……」
アリシアも二〇八の前に立つ。
鍵を取り出す。
小さな銀色の鍵。
手が少し震える。
鍵穴に差し込む。
一度目はうまく入らなかった。
焦る。
二度目で入った。
回す。
かちり、と音がした。
扉を開ける。
そこには、小さな部屋があった。
山の家の自室より少し狭い。
けれど、清潔だった。
寝台。
机。
椅子。
小さな本棚。
衣装箱。
窓。
壁には学園の簡単な案内図が貼られている。
何もない部屋。
まだ自分の匂いもしない。
でも、今日からここが、アリシアの部屋になる。
アリシアは入口に立ったまま、しばらく動けなかった。
ノアが腕の中で言う。
「入らないの?」
「あ……うん」
アリシアは一歩入った。
床板が小さく鳴る。
荷物を机の上に置く。
ノアを寝台に下ろす。
ノアは部屋の中を見回し、窓枠へ飛び乗った。
「悪くないわね」
ようやく普通に喋った。
扉は閉まっている。
隣のメリルには聞こえないだろう。
アリシアはほっと息を吐いた。
「ノア……さっきの首輪、大丈夫?」
ノアは登録札を揺らし、露骨に嫌そうな顔をした。
「屈辱ね」
「ご、ごめん……」
「でも、必要だったから許すわ」
「本当?」
「ただし、あとで外す」
「で、でも登録札は……」
「部屋の中では外す。外ではつける。それでいいでしょう」
「あ、うん」
アリシアは頷いた。
ノアは窓の外を見る。
そこからは学園の中庭が見えた。
噴水。
歩く生徒たち。
遠くの訓練場。
さらに奥の校舎。
夕方の光が、白い建物を柔らかく染めていた。
アリシアも窓際へ近づく。
遠くで、新入生たちの声がする。
笑い声。
驚く声。
誰かを呼ぶ声。
山にはなかった音。
アリシアは胸元の守り袋に触れた。
「ここで……暮らすんだね」
「そうね」
「私、大丈夫かな」
「今日だけで何回それを言うの」
「だって……」
「大丈夫かどうかは、やってから考えなさい」
ノアは振り返った。
「今日、あんたは宿場町に入った。切符を買った。馬車に乗った。中央都市に入った。学園の受付もした。従魔登録もした。寮の鍵も開けた」
「……うん」
「朝のあんたなら、どれか一つで泣いてたわ」
「そ、そんなこと……」
否定しようとして、アリシアは口を閉じた。
たぶん、泣いていた。
ノアは尻尾を揺らす。
「でも、今ここにいる」
その言葉に、アリシアは部屋を見回した。
何もない部屋。
知らない場所。
怖い場所。
でも、確かに自分はここにいる。
山から出て、ここまで来た。
震えながら。
泣きながら。
何度も帰りたくなりながら。
それでも、ここまで来た。
アリシアの胸の奥に、小さなものが灯った。
自信というには弱い。
誇りというには頼りない。
でも、確かにあった。
「……私、来られたんだ」
「そうよ」
ノアは当然のように言った。
「だから、次も一歩進みなさい」
「次……」
「夕刻の説明会」
「……忘れてた」
「忘れるんじゃないわよ」
ノアが呆れた声を出した。
アリシアは慌てて案内紙を見る。
第一講堂。
夕刻。
新入生説明会。
まだ今日は終わっていない。
胸がまた少し緊張する。
けれど、さっきとは少し違う。
部屋がある。
荷物を置く場所がある。
隣にはメリルがいる。
ノアもいる。
アリシアは小さく息を吸った。
「ノア」
「何?」
「説明会も……一緒にいてくれる?」
「当たり前でしょう」
ノアは即答した。
その言葉に、アリシアは少し泣きそうになった。
けれど、泣かなかった。
代わりに、小さく笑った。
「ありがとう」
「だから、礼を言うほどじゃないわ」
「でも、言いたいから」
「……好きにしなさい」
ノアは窓の外へ視線を戻した。
その横顔は、どこか照れているようにも見えた。
アリシアは部屋の中央に立ち、もう一度周囲を見た。
ここが、今日からの自分の場所。
まだ何も始まっていない。
友達も、授業も、試験も、魔法も、剣も、神器も。
何もかもこれからだ。
怖い。
でも、少しだけ楽しみでもある。
そう思えた自分に、アリシアは少し驚いた。
その時、隣の部屋から控えめなノックの音が聞こえた。
正確には、扉ではなく壁越しに声がした。
「アリシアちゃん、聞こえる?」
メリルの声だった。
アリシアは慌てて扉へ向かう。
開けると、メリルが廊下に立っていた。
「説明会、一緒に行かない?」
アリシアは一瞬だけ言葉を失った。
誘われた。
また、一緒に。
胸が温かくなる。
アリシアはノアを振り返った。
ノアは窓辺からこちらを見ている。
行きなさい。
そういう目だった。
アリシアはメリルへ向き直り、小さく頷いた。
「うん……一緒に、行きたい」
自分の言葉で言えた。
メリルは嬉しそうに笑った。
「よかった。私も一人だと不安だったから」
「私も……」
アリシアは少しだけ笑った。
怖い。
でも、一人ではない。
それだけで、次の一歩は踏み出せる。
窓の外で、夕刻を告げる鐘が鳴り始めた。
中央学園の一日が、ゆっくりと夜へ向かっていく。
そしてアリシアの学園生活は、まだ最初の扉を開けたばかりだった。




