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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第4話 中央都市の門



 馬車の揺れは、思っていたよりも体に響いた。


 最初のうちは、窓の外を流れていく景色を見るだけで胸がいっぱいだった。宿場町の屋根が遠ざかり、道の両側に広がる畑や草地、遠くに続く低い丘、空を横切る鳥の影。


 山の中では見たことのない広さだった。


 森は視界を遮る。


 木々は空を細く切り取り、道はいつも曲がっていて、少し先の景色しか見えない。


 けれど、ここは違う。


 道の向こうが見える。


 そのさらに向こうに、空がある。


 その空の下に、自分の知らない世界がどこまでも続いている。


 アリシアは、それだけで胸が詰まりそうだった。


 怖い。


 でも、目を逸らせない。


 窓の外へ視線を向けたまま、膝の上のノアをそっと撫でる。


 ノアは普通の猫のふりをしたまま、目を閉じていた。


 馬車内では喋れない。


 それは分かっている。


 けれど、手のひらの下にある温もりが、何よりも心強かった。


 車輪が石を踏むたび、馬車が小さく跳ねる。


「ひゃっ」


 アリシアは思わず声を漏らした。


 向かいに座っていた年配の女性が、くすりと笑う。


「大丈夫かい?」


「あ、は、はい……大丈夫です」


「初めての馬車かね」


「はい……」


「なら、最初は驚くよ。道の悪いところだと、もっと揺れるからねぇ」


「もっと……」


 アリシアは少し青ざめた。


 女性の隣で年配の男性が笑う。


「中央都市へ着く頃には慣れるさ」


「そ、そうでしょうか……」


「慣れなかったら、降りた時に足がふらふらするだけだ」


「ふらふら……」


 全然安心できなかった。


 けれど、二人の声は柔らかかった。


 馬鹿にしているわけではない。


 旅に慣れていない少女を、少し面白がりながらも、優しく見てくれている。


 それが分かるから、アリシアは余計にどう返していいか分からなかった。


 膝の上のノアの尻尾が、アリシアの手首を軽く叩く。


 挨拶。


 返事。


 会話。


 たぶん、そういう意味だ。


 アリシアは小さく息を吸った。


「お、お二人は……中央都市へ?」


 声は小さい。


 でも、聞こえるくらいには出た。


 年配の女性が目を細める。


「ああ。息子夫婦が中央都市で店をやっていてね。孫の顔を見に行くのさ」


「お孫さん……」


「まだ三つでねぇ。これがまあ、よく喋る子で」


 女性の表情が一気に柔らかくなった。


 男性も隣で頷く。


「会うたびに大きくなっている。子どもの成長は早い」


「……そうなんですね」


 アリシアは少しだけ祖父のことを思い出した。


 祖父も、今朝言っていた。


 あっという間だった、と。


 ついこの間まで、転んでは泣いていた、と。


 自分では長い時間だった。


 けれど、祖父にとっては一瞬だったのかもしれない。


 そう思うと、胸がまた痛くなる。


 窓の外を見る。


 山はもう遠い。


 あの山の奥に、祖父がいる。


 今頃、家に戻っているだろうか。


 それとも、まだあの別れの場所に立っているのだろうか。


 考えると、喉が締めつけられた。


「お嬢ちゃんは、学園かい?」


 女性が尋ねた。


 アリシアは慌てて顔を戻す。


「は、はい」


「そうかい。すごいねぇ。中央学園なんて、誰でも入れる場所じゃないよ」


「え……そうなんですか?」


 思わず聞き返してしまった。


 女性は驚いたように瞬きをした。


「知らずに行くのかい?」


「あ、えっと……祖父が手続きをしてくれて……」


「ほう」


 年配の男性が興味深そうにアリシアを見た。


「推薦か」


「す、推薦……?」


「中央学園には試験で入る者もいれば、各国や有力者の推薦で入る者もいる。どちらにしても、ただ者ではない」


 ただ者ではない。


 その言葉に、アリシアは居心地が悪くなった。


 自分はただ者だ。


 少なくとも、自分ではそう思っている。


 山奥で祖父と暮らし、人と話すのが苦手で、今も馬車の中だけでいっぱいいっぱいの少女。


 そんな自分が、ただ者ではないと言われても困る。


「わ、私は……そんな、すごくないです」


 アリシアは小さく言った。


 男性は少し笑う。


「本当にすごい者ほど、そう言うものだ」


「い、いえ、本当に……」


「そういうことにしておこう」


 困った。


 否定しても、うまく伝わらない。


 アリシアは膝の上のノアを撫でる。


 ノアの耳がわずかに動いた。


 きっと心の中で何か言っている。


 たぶん、「挙動不審すぎ」とか、「自分を下げすぎ」とか。


 アリシアは少しだけ眉を下げた。


 向かいの眠そうな少年が、片目を開けた。


「中央学園って、強いやつ多いんでしょ」


「えっ」


「俺の兄貴、去年落ちた」


 少年は眠そうな声のまま言った。


「筆記は良かったけど、魔法実技でだめだったって」


「魔法……」


 アリシアの胸がまた重くなる。


 魔法。


 学園では、きっと当たり前に使うもの。


 祖父から基礎的な知識は教わった。


 けれど、アリシアは一般的な属性魔法をほとんど扱えない。


 火も、水も、風も、土も、光も。


 本で読んだ形は知っている。


 術式も少しは覚えている。


 でも、自分の中にあるものは、そのどれとも違った。


 暗い。


 静か。


 深い。


 それが何なのか、アリシアはまだ説明できない。


「お姉さん、属性は?」


 少年が聞いた。


 アリシアの体が強張った。


 属性。


 火、水、風、土、光。


 この世界で人が扱う魔法の基本。


 でも、アリシアはどれでもない。


 闇。


 そう言っていいのか分からない。


 祖父は、外では簡単に言うなと言った。


 ノアも、今は余計なことを話すなという目をしていた。


 アリシアは言葉を探した。


「あ……えっと……まだ、はっきりとは……」


「まだ分からないの?」


 少年が不思議そうに首を傾げた。


 その声には悪気がない。


 だから余計に、胸がちくりとした。


 中央学園へ行く年齢なら、普通は自分の属性くらい分かっているのだろう。


 アリシアは視線を落とした。


「……はい」


 馬車内に、ほんの少しだけ沈黙が落ちた。


 その沈黙が、アリシアにはとても長く感じられた。


 変に思われただろうか。


 学園に行くのに属性が分からないなんて、と笑われるだろうか。


 肩が縮む。


 膝の上のノアの尻尾が、アリシアの手を強めに叩いた。


 下を向くな。


 そう言われた気がした。


 アリシアはゆっくり顔を上げる。


 年配の女性が、穏やかな声で言った。


「まあ、学園に行けば先生方が見てくれるさ」


「……はい」


「分からないことを学びに行くのが学園だろう?」


 その言葉に、胸の奥が少し緩んだ。


 アリシアは小さく頷いた。


「はい……ありがとうございます」


 少年も特に気にしていない様子で、また目を閉じた。


「ふーん。まあ、頑張って」


「あ……うん。ありがとう」


 同年代くらいの相手に返事をするのは、年配の人と話すより少し緊張した。


 それでも、言えた。


 アリシアは膝の上のノアを撫でながら、小さく息を吐く。


 馬車は進む。


 車輪の音が一定の調子で続く。


 がたん。


 ごとん。


 がたん。


 ごとん。


 最初は不規則に感じた揺れも、しばらくすると少しだけ体に馴染んできた。


 アリシアは窓の外へ目を向けた。


 宿場町を出てからしばらくは畑が続いていた。


 小麦らしき黄金色の穂が風に揺れ、遠くで農夫たちが作業をしている。水路のそばには白い鳥が立ち、馬車が近づくとゆっくり飛び立った。


 さらに進むと、景色は少しずつ変わっていく。


 道幅が広くなり、すれ違う馬車の数も増えた。


 大きな荷車。


 護衛を連れた商隊。


 立派な馬に乗った騎士風の人。


 布で覆われた荷台から、子どもの笑い声が聞こえる馬車。


 人。


 人。


 人。


 世界には、こんなにもたくさんの人がいる。


 アリシアは今さらのように、その事実に圧倒された。


 山では、世界は静かだった。


 祖父の声。


 自分の声。


 風と水と鳥の音。


 それだけで一日が過ぎた。


 けれど外の世界は、ずっと賑やかだ。


 誰かがどこかへ向かっている。


 誰かが誰かと話している。


 誰かが荷物を運び、誰かが笑い、誰かが怒り、誰かが急いでいる。


 みんな、それぞれの理由で生きている。


 その中に、自分も入っていく。


 アリシアは胸元の守り袋を握った。


 怖い。


 けれど、少しだけ知りたいとも思った。


 この人たちは、どこへ行くのだろう。


 何を大切にしているのだろう。


 何を怖がって、何を楽しみにしているのだろう。


 そう考えていると、不安の中にほんの小さな好奇心が混ざった。


 自分でも驚いた。


 怖いだけではないのだ。


 外の世界は、怖くて、広くて、知らないことばかりで。


 でも、少しだけ眩しい。


 その時、馬車が急に大きく揺れた。


「ひゃあっ」


 アリシアは座席から跳ねそうになり、慌ててノアを抱きしめた。


 向かいの少年も目を開ける。


 杖を持った少女が小さく悲鳴を上げ、商人らしき男が荷物を押さえた。


 御者の声が外から響く。


「すまん、石を踏んだ!」


 馬車内に小さなざわめきが起きる。


「び、びっくりした……」


 アリシアはノアを抱いたまま息を吐いた。


 ノアは腕の中で目を細めている。


 普通の猫のふりをしているが、明らかに不満そうだった。


 きっと喋れるなら、「もっとしっかり押さえなさい」と言っていただろう。


 アリシアは小声で囁いた。


「ごめんね、ノア」


 ノアは耳だけを動かした。


 その時、隣に座っていた杖の少女が話しかけてきた。


「あの……猫ちゃん、大丈夫?」


 アリシアは振り向いた。


 少女はアリシアと同じくらいの年頃に見えた。


 淡い茶色の髪を肩で切りそろえ、膝の上に大きな杖を置いている。服は旅装だが、きちんと手入れされていて、どこか育ちの良さを感じさせた。


 アリシアは一瞬、言葉に詰まる。


 同年代の少女。


 それだけで、急に緊張が増した。


「あ、えっと……大丈夫、です」


「よかった。すごく綺麗な猫だね」


「あ、ありがとう……ございます」


 敬語になってしまう。


 相手は同年代かもしれないのに。


 でも、どう話せばいいか分からない。


 少女は気にした様子もなく微笑んだ。


「中央都市まで行くの?」


「は、はい」


「私も。学園の入学式、近いもんね」


 やはり学園生だった。


 アリシアの胸が一気に高鳴る。


 初めて出会う、学園へ行く同年代の少女。


 どうしよう。


 何を話せばいい。


 名前を言うべきだろうか。


 でも、急に名乗ったら変だろうか。


 アリシアが混乱していると、少女は先に名乗った。


「私はメリル。風属性なの」


「か、風……」


「うん。といっても、まだ簡単な風を起こせるくらいだけどね」


 メリルは少し照れたように笑った。


 その笑顔は柔らかく、話しやすそうだった。


 アリシアは膝の上のノアをそっと撫でる。


 名乗る。


 ここで。


 今なら、できるかもしれない。


「あ、あの……私は……」


 声が小さくなる。


 喉が詰まりそうになる。


 けれど、ノアの尻尾が手首を軽く叩いた。


 言いなさい。


 アリシアは息を吸った。


「アリシア、です」


 言えた。


 メリルはにこっと笑った。


「アリシアちゃん。よろしくね」


「よ、よろしく……お願いします」


「敬語じゃなくていいよ。同じ新入生でしょ?」


「えっ、あ……うん……」


 急に砕けた言葉にしようとして、アリシアの口が迷う。


「よ、よろしく……ね?」


 最後が疑問形になってしまった。


 メリルは少しきょとんとした後、楽しそうに笑った。


「うん、よろしく」


 笑われた。


 でも、嫌な笑いではない。


 アリシアは顔を赤くしながら俯きかけた。


 ノアの尻尾がまた手首を叩く。


 下を向きすぎ。


 アリシアは慌てて顔を上げた。


 メリルはノアを見ていた。


「この子の名前は?」


「あ……ノア」


「ノアちゃんかぁ。いい名前」


 その言葉に、アリシアの胸が小さく弾んだ。


 自分がつけた名前を褒められた。


 それが、思っていた以上に嬉しかった。


「ありがとう……」


「アリシアちゃんがつけたの?」


「うん……昨日」


「昨日?」


 メリルが首を傾げる。


 アリシアはしまったと思った。


 昨日、継承の儀で神獣に名を与えた。


 そんなことは言えない。


 普通の猫に昨日名前をつけたと言えば、それはそれで不自然かもしれない。


 アリシアは慌てて言葉を探した。


「えっと……昨日から、一緒に旅をすることになって……」


「そうなんだ」


 メリルはそれ以上深く聞かなかった。


 アリシアは内心でほっとする。


 ノアの耳が少しだけ動いた。


 たぶん、後で説教される。


 うっかりしすぎ、とか。


 気を抜くな、とか。


 アリシアは心の中で小さく謝った。


 馬車は進む。


 しばらく、メリルと少しずつ話した。


 会話はぎこちなかった。


 メリルが話し、アリシアが相槌を打つ。


 時々質問され、アリシアが短く答える。


 それだけ。


 でも、アリシアにとっては大きな出来事だった。


「アリシアちゃんは、どこの出身?」


「えっと……山の方……」


「山?」


「うん……小さなところで……」


「そっか。私は西の風車町。風が強くて、洗濯物がよく飛ばされるんだ」


「洗濯物……」


「うん。小さい頃、隣の家の屋根まで飛んでいったことがあってね」


 メリルは楽しそうに話す。


 アリシアはその話を聞きながら、少しだけ笑った。


 知らない町。


 知らない暮らし。


 風車が回り、洗濯物が飛ぶ町。


 想像すると、少し面白かった。


「アリシアちゃん、笑った」


「えっ」


 アリシアは慌てた。


「ご、ごめ……」


 謝りかけて、ノアの尻尾が動く前に止める。


「ごめんじゃなくて……えっと……面白かったから」


 メリルは嬉しそうに笑った。


「よかった。アリシアちゃん、最初ずっと緊張してたから」


「う……分かる?」


「うん。手、ずっとノアちゃん撫でてる」


 アリシアは自分の手を見た。


 確かに、ずっとノアの背を撫でている。


 ノアは普通の猫のふりをしながら、完全に撫でられるままになっていた。


 アリシアは顔を赤くする。


「ノアがいると、落ち着くから……」


「いいなぁ。私も連れてくればよかったな。うちにも犬がいるの」


「犬……」


「うん。大きくて、よく食べて、よく寝るの。名前はマロ」


「マロ……」


 アリシアは少し笑った。


 メリルも笑う。


 馬車内の空気が、少しだけ柔らかくなった。


 年配の女性が二人の会話を微笑ましそうに見ている。


 少年はまた眠っている。


 商人は荷物を確認しながら、時々窓の外を見ている。


 アリシアはふと、不思議な気持ちになった。


 さっきまで、馬車の中は知らない人だらけの怖い空間だった。


 今も怖さはある。


 でも、その中に少しだけ顔を知っている人ができた。


 メリル。


 風車町から来た、風属性の少女。


 同じ学園へ向かう新入生。


 友達、と呼ぶにはまだ早い。


 でも、名前を知っている。


 話をした。


 笑った。


 それだけで、馬車内の景色がほんの少し変わった。


 人がいる場所は怖い。


 でも、人と話すと、怖さが少し薄まることもある。


 アリシアはそのことに、初めて気づいた。


 やがて馬車は休憩所に止まった。


 御者が声を張る。


「少し休むぞ! 水を飲むなり足を伸ばすなりしてくれ! 四半刻で出る!」


 乗客たちが馬車を降り始める。


 アリシアもノアを抱いて外へ出た。


 地面に足をつけた瞬間、膝が少しふらつく。


「わ……」


 隣でメリルが笑った。


「大丈夫?」


「う、うん……足が変な感じ」


「最初の馬車ってそうなるよね」


 メリルは慣れているのか、軽く伸びをした。


 アリシアも真似して伸びをしようとして、ノアを抱いていることに気づき、途中で固まる。


 ノアは腕の中でじっと見上げていた。


 何をしているの、という目だった。


 アリシアは小声で言った。


「ごめん、降ろすね」


 ノアを地面に下ろす。


 ノアは周囲を確認するように歩き、誰にも聞こえないくらいの小声で言った。


「さっきの『昨日』は危なかったわよ」


「やっぱり……」


「気を抜くとすぐ余計なことを言うわね」


「ごめ……」


「謝るなら次から気をつける」


「うん……」


 メリルが少し離れた場所で水筒に水を入れている。


 他の乗客も思い思いに休んでいた。


 ここなら、小声であればノアと話せる。


 アリシアはノアの前にしゃがんだ。


「でも、メリルさん……優しそうだった」


「そうね」


「同じ学園なんだって」


「聞いていたわ」


「……友達に、なれるかな」


 ノアはアリシアを見た。


「なりたいの?」


「え……」


 アリシアは答えに詰まった。


 なりたい。


 たぶん、そうだ。


 でも、言うのが恥ずかしい。


 友達が欲しい、と口にすると、自分がすごく寂しい人間のように思える。


 実際、祖父以外に友達と呼べる相手はいなかった。


 それを認めるのが少し怖かった。


 ノアはそんなアリシアの心を見透かしたように言う。


「なりたいなら、そう思っておきなさい」


「でも……迷惑かも」


「またそれ」


「だって……」


「友達になりたいと思うことは迷惑じゃないわ。押しつけたら迷惑になるだけ」


「押しつける……」


「相手の話を聞く。自分のことも少し話す。無理に距離を詰めようとしない。それでいいのよ」


 ノアの言葉は、いつも分かりやすかった。


 厳しいけれど、道を示してくれる。


 アリシアは小さく頷いた。


「少し話す……」


「そう」


「何を話せばいいかな」


「まずは、学園が楽しみか不安かでも聞けば?」


「それ、聞いていいの?」


「同じ新入生なら自然でしょう」


「そっか……」


 アリシアは遠くのメリルを見る。


 メリルは水筒をしまい、杖を抱えて馬車の方へ戻ってきていた。


 アリシアは緊張で手を握る。


 ノアが尻尾で足首を軽く叩いた。


「七十点以上を目指しなさい」


「う、うん」


 メリルが近づいてくる。


「アリシアちゃん、ノアちゃんと休めた?」


「あ、うん……」


 ここだ。


 聞くなら今。


 アリシアは息を吸った。


「あ、あの……メリルさんは……学園、楽しみ?」


 言えた。


 少し不自然だったかもしれない。


 でも、言えた。


 メリルは一瞬目を丸くし、それから少し照れたように笑った。


「楽しみだけど、ちょっと怖いかな」


「怖い……?」


「うん。周りはすごい人ばっかりだろうし、授業についていけるか分からないし、友達できるかも不安だし」


 アリシアは驚いた。


 メリルも、不安なのだ。


 明るくて、話しやすくて、風属性も分かっていて、自分よりずっと外の世界に慣れていそうなのに。


「メリルさんも……怖いの?」


「怖いよ」


 メリルは笑った。


「顔には出さないようにしてるけどね」


「すごい……」


「すごくないよ。家を出る前、泣いたし」


「え……」


「お母さんに抱きついて、行きたくないって言った」


 アリシアは言葉を失った。


 昨日の自分と同じだ。


 祖父に抱きついて、行きたくないと言った自分。


 恥ずかしいと思っていた。


 弱いと思っていた。


 けれど、メリルもそうだった。


「私も……」


 アリシアは小さく言った。


 メリルが見る。


 アリシアは少し迷ってから続けた。


「私も、今朝……おじいちゃんと別れる時、泣いた」


 言った瞬間、胸がきゅっと痛んだ。


 でも、言えたことに少し驚いた。


 メリルは優しく笑った。


「そっか。じゃあ一緒だね」


「……うん」


 一緒。


 その言葉が、こんなにも心を軽くするとは思わなかった。


 怖いのは自分だけではない。


 泣いたのも自分だけではない。


 外へ出ることを不安に思うのも、自分だけではない。


 アリシアは少しだけ肩の力を抜いた。


 御者の声が響く。


「そろそろ出るぞ!」


 乗客たちが馬車へ戻り始める。


 メリルがアリシアに笑いかけた。


「隣、座ってもいい?」


「えっ」


 アリシアの心臓が跳ねた。


 隣。


 馬車の中で、隣に座る。


 それはつまり、話す距離が近いということ。


 緊張する。


 でも、嫌ではない。


 アリシアは少し赤くなりながら頷いた。


「う、うん」


「ありがとう」


 馬車へ戻ると、メリルはアリシアの隣に座った。


 ノアはアリシアの膝の上へ戻る。


 乗客たちが席に着き、馬車が再び動き出した。


 さっきまでより、少しだけ馬車内が狭く感じる。


 でも、それは嫌な狭さではなかった。


 隣にメリルがいる。


 膝にノアがいる。


 向かいには年配の夫婦。


 知らない人ばかりだった空間が、少しだけ知っている場所になった。


 午後になると、空の色が少し変わった。


 日差しが強くなり、窓から入る風が温かくなる。


 馬車の揺れにも慣れてきたのか、アリシアは少し眠くなった。


 メリルも時々あくびをしている。


 ノアは膝の上で丸くなっていた。


 外の景色は、さらに人の気配を増していく。


 道沿いには小さな村が現れ、石造りの橋を渡り、遠くには見張り塔のような建物も見えた。


 そして、夕方近く。


 馬車内にいた商人が窓の外を見て言った。


「見えてきたな」


 その一言で、何人かが窓の外を覗いた。


 アリシアも顔を上げる。


「え……」


 声がこぼれた。


 遠く。


 夕日に照らされた地平の先に、巨大な壁が見えた。


 山ではない。


 岩でもない。


 人工の壁。


 空を切るように、長く、どこまでも続いている。


 その背後には、いくつもの塔が立っていた。


 高い塔。


 白い屋根。


 旗。


 夕日の光を受けて、まるで街全体が淡く輝いているように見える。


 アリシアは息を忘れた。


「あれが……中央都市……?」


 隣のメリルが頷く。


「たぶん。私も初めて見た……すごいね」


「うん……」


 すごい。


 その言葉しか出てこない。


 山の中の家。


 宿場町。


 街道。


 それらとは何もかも違う。


 大きすぎる。


 広すぎる。


 人がこんなものを作れるのかと、信じられない気持ちになる。


 馬車が近づくにつれ、壁はさらに大きくなる。


 門が見えてきた。


 巨大な門。


 何台もの馬車が並んでいる。


 門の両脇には鎧を着た兵士が立ち、出入りする人々を確認していた。


 人の列。


 馬車の列。


 荷物の山。


 旗。


 声。


 蹄の音。


 中央都市の門前は、宿場町の広場よりもはるかに賑やかだった。


 アリシアの体が固まる。


「ノア……」


 声が震える。


 ノアは膝の上で目を開けた。


 猫のふりをしたまま、アリシアの手に尻尾を絡める。


 大丈夫。


 ここまで来た。


 そう言われている気がした。


 馬車が列に並ぶ。


 順番を待つ間、アリシアは窓の外から目を離せなかった。


 門を通る人々は、さまざまだった。


 商人。


 旅人。


 騎士。


 魔法使いらしきローブ姿の人。


 小さな子どもを連れた家族。


 荷車を押す職人。


 そして、自分たちと同じくらいの年齢の若者たち。


 その中には、立派な剣を腰に下げた少年や、美しい杖を持つ少女もいた。


 学園の新入生だろうか。


 アリシアは自分の木刀に触れた。


 急に、心細くなった。


 周りは、きっとすごい人ばかりだ。


 魔法も使えて、堂々としていて、声も大きくて、自分の属性も分かっている。


 その中に、自分が入る。


 黒髪で、黒目で、人見知りで、木刀しか持っていない自分が。


 膝の上のノアが、尻尾で強めに手を叩いた。


 アリシアははっとする。


 下を向いていた。


 まただ。


 アリシアはゆっくり顔を上げる。


 門の上には、五つの紋章が掲げられていた。


 火の鳥。


 水の蛇。


 風の狼。


 土の亀。


 光の白猫。


 五大国の象徴。


 中央都市は、五つの国が支える都市。


 外の世界では、それがすべてだ。


 そこに、闇はない。


 黒猫の紋章もない。


 六つ目は、どこにもない。


 アリシアは胸の奥が静かに冷えるのを感じた。


 自分は、この世界にとって何なのだろう。


 継承者。


 祖父はそう言った。


 ノアは契約者と呼んだ。


 でも、世界は自分の存在を知らない。


 知らないどころか、存在しないものとして進んでいる。


 その大きな門の前で、アリシアは初めて、自分の背負ったものの一端を感じた。


 重い。


 まだ意味も分からないのに、重い。


 すると隣のメリルが、小さく言った。


「緊張するね」


 アリシアはメリルを見た。


 メリルも門を見上げていた。


 その手は、膝の上の杖をぎゅっと握っている。


 堂々としているように見えた彼女も、緊張している。


 アリシアは少しだけ息を吸った。


「うん……すごく」


 正直に言えた。


 メリルは笑った。


「でも、ここまで来ちゃったね」


「……うん」


「もう、入るしかないね」


 アリシアは門を見た。


 もう、入るしかない。


 その言葉は少し乱暴だけれど、不思議と背中を押した。


 引き返す道はある。


 でも、今のアリシアは引き返したくなかった。


 怖い。


 それでも、ここまで来た。


 祖父に行ってきますと言った。


 ノアと一緒に歩いた。


 宿場町で道を聞き、馬車に乗り、メリルと話した。


 一歩ずつ進んできた。


 なら、次の一歩はこの門だ。


 馬車がゆっくり進む。


 兵士が中を確認する。


 御者が通行証を見せる。


 やがて、重厚な門の影が馬車を包んだ。


 アリシアは息を止めた。


 暗い門の下。


 石の壁に囲まれた短い通路。


 車輪の音が反響する。


 がたん。


 ごとん。


 がたん。


 ごとん。


 まるで、別の世界へ入っていく音のようだった。


 そして次の瞬間、馬車は門を抜けた。


 光が広がる。


 アリシアは目を見開いた。


 そこには、街があった。


 宿場町とは比べものにならない。


 広い石畳の通り。


 左右に並ぶ大きな建物。


 色とりどりの看板。


 人の波。


 遠くまで続く街路樹。


 空に向かって伸びる白い塔。


 中央には、さらに高い建物が見えた。


 その先に、学園があるのだろうか。


 鐘の音が鳴る。


 どこかで楽器の音がする。


 露店の呼び声。


 馬車の車輪。


 人々の会話。


 笑い声。


 祈りの鐘。


 すべてが重なり、巨大な生き物の鼓動のように街全体を満たしていた。


 アリシアは圧倒されて、言葉を失った。


 山の静けさとは違う。


 宿場町の賑わいとも違う。


 ここには、世界が集まっている。


 そう思った。


「すごい……」


 隣でメリルが呟いた。


 アリシアも、かすかに頷いた。


 声が出なかった。


 ノアは膝の上で目を細め、街を見ていた。


 普通の猫のふりをしている。


 けれどアリシアには分かる。


 ノアも、この街を見ている。


 五つの紋章が掲げられた街。


 六つ目を知らない街。


 これから自分たちが歩く街。


 馬車は中央都市の中を進んでいく。


 しばらくして、御者が声を上げた。


「中央馬車場に着くぞ! 降りる準備をしてくれ!」


 乗客たちが荷物をまとめ始める。


 アリシアも慌てて布袋を持ち直した。


 手が震えている。


 ノアを抱き、木刀を確認し、守り袋に触れる。


 大丈夫。


 怖い。


 でも、大丈夫。


 馬車が止まった。


 乗客たちが次々に降りていく。


 メリルが先に立ち、アリシアへ手を差し出した。


「降りる時、気をつけて」


「あ……ありがとう」


 アリシアはその手を借りて、馬車を降りた。


 地面に足がついた瞬間、膝が少し揺れる。


 馬車の揺れが、まだ体に残っている。


「う……」


「大丈夫?」


「うん……少し、ふらふらする」


「私も」


 メリルが笑う。


 アリシアも小さく笑った。


 中央馬車場は、とても広かった。


 何台もの馬車が並び、係員が荷物を運び、旅人たちが行き交っている。


 天井の高い屋根が一部にかかっており、柱には行き先ごとの札が吊るされている。


 どこを見ても人がいる。


 アリシアはまた固まりかけた。


 するとノアが腕の中で小さく囁いた。


「案内所」


「え?」


「さっき言われたでしょう。困ったら案内所」


「あ、うん……」


 アリシアは周囲を見回した。


 人が多くて、何がどこにあるのか分からない。


 だが、少し離れた場所に「案内」と書かれた看板が見えた。


 そこには青い制服を着た若い女性が立っている。


 アリシアは足を向けようとして、隣のメリルを見た。


「メリルさんは……?」


「私も学園の寮に行きたいから、案内所に聞こうと思ってた」


「じゃ、じゃあ……一緒に……」


 言いかけて、声が小さくなる。


 誘う。


 自分から。


 それが恥ずかしくて、怖かった。


 でも、メリルはすぐに笑った。


「うん。一緒に行こう」


「……うん」


 胸が温かくなる。


 一緒に。


 たったそれだけなのに、中央都市の人波が少しだけ怖くなくなった。


 二人と一匹は、案内所へ向かった。


 途中、人とぶつかりそうになり、アリシアは何度も足を止めた。


 ノアが小声で指示する。


「右」


「うん」


「前から荷物」


「ひゃ……」


「止まらない。少し左」


「う、うん」


 メリルが不思議そうにノアを見る。


「ノアちゃん、すごく賢いね」


「う、うん……賢いの」


 アリシアは必死に頷いた。


 ノアは普通の猫の顔をしている。


 けれど、尻尾だけが少し得意げに揺れていた。


 案内所に着くと、制服の女性がにこやかに声をかけてきた。


「ようこそ中央都市へ。どちらへ向かわれますか?」


 アリシアの喉が詰まる。


 だが、隣にメリルがいる。


 ノアもいる。


 アリシアは一歩前に出た。


「あ、あの……中央学園の、寮に行きたいです」


 言えた。


 女性は慣れた様子で頷く。


「新入生ですね。お二人とも?」


「はい」


 メリルが答えた。


 女性は机の上から小さな紙を二枚取った。


「学園行きの巡回馬車が、馬車場の東口から出ています。新入生なら無料で乗れますよ。この案内札を係員に見せてください」


「あ、ありがとうございます」


 アリシアは紙を受け取る。


 深く頭を下げすぎないように気をつけた。


 女性はアリシアの腕の中のノアを見て微笑む。


「猫ちゃんも一緒ですか?」


「は、はい」


「学園寮は使い魔や小型の従魔の登録もできますから、到着したら受付で確認してくださいね」


 使い魔。


 従魔。


 アリシアはノアを見た。


 ノアがほんのわずかに目を細めた。


 私は使い魔じゃないわよ。


 そう言いたそうだった。


 アリシアは慌てて視線を戻す。


「わ、分かりました」


 案内所を離れると、メリルが息を吐いた。


「よかった。分かりやすかったね」


「うん……」


 アリシアは手元の案内札を見つめた。


 中央学園行き。


 ついに、本当に学園へ向かうのだ。


 宿場町から馬車に乗る時とは、また違う緊張があった。


 中央都市に入っただけでも圧倒されたのに、その先に学園がある。


 五大国から若者が集まる場所。


 自分の知らない魔法や剣術を学ぶ場所。


 そして、きっと。


 自分以外の継承者たちもいる場所。


 アリシアはまだ彼らを知らない。


 けれど、胸の奥で何かが静かに揺れた。


 怖い。


 でも、行く。


 ノアが腕の中で小さく言った。


「ほら、背筋」


 アリシアははっとして、背筋を伸ばした。


 メリルが首を傾げる。


「どうしたの?」


「あ、ううん……なんでもない」


「そっか」


 メリルは笑った。


「じゃあ、行こうか。学園へ」


 学園へ。


 その言葉に、アリシアはゆっくり頷いた。


「うん」


 声はまだ小さい。


 足も少し震えている。


 けれど、山を出た時よりは前を向けていた。


 アリシアは案内札を握り、ノアを抱き直し、中央都市の東口へ向かって歩き出した。


 人波は相変わらず大きい。


 音も多い。


 知らない匂いと景色で、頭はいっぱいだ。


 それでも。


 隣にはメリルが歩いている。


 腕の中にはノアがいる。


 胸元には祖父の守り袋がある。


 そして、目の前には学園へ続く道がある。


 アリシアは小さく息を吸った。


 怖い。


 けれど、その怖さの向こうに、何かが待っている。


 そう思えるようになっていた。

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