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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第3話 初めての宿場町



 街道は、山道よりもずっと広かった。


 アリシアがこれまで歩いてきた道は、木々の間に細く伸びる獣道や、祖父と二人で踏み固めた土の小径ばかりだった。足元には木の根があり、石があり、濡れた落ち葉が積もっていて、歩く時には自然と下を見る癖がついていた。


 けれど、今立っている道は違う。


 人が通るための道だった。


 馬車の車輪が何度も通った跡が、土の上に深く残っている。ところどころ乾いた泥が割れ、蹄の跡が重なり、道端には旅人が休んだのか、踏み潰された草の跡もあった。


 人がいる。


 人が通っている。


 人の生活が、この道の上に残っている。


 その当たり前の事実が、アリシアにはとても大きく感じられた。


「……広い」


 ぽつりと呟くと、隣を歩いていたノアが尻尾を揺らした。


「これで広いなんて言っていたら、中央都市に着いた瞬間倒れるわよ」


「た、倒れるかな」


「倒れないように蹴るわ」


「蹴る前提なんだ……」


「必要ならね」


 ノアの声はいつも通りだった。


 少し冷たくて、遠慮がなくて、それなのに不思議と安心する。


 アリシアは胸元の守り袋にそっと触れた。服の下にある小さな木片の感触が、指先に返ってくる。


 祖父の言葉を思い出す。


 一歩進めば、次の一歩が見える。


 アリシアは小さく息を吸って、また歩き出した。


 街道を歩いていると、時折、人とすれ違った。


 荷車を押す男。


 背中に大きな荷物を背負った旅人。


 馬に乗った商人らしき中年の女性。


 数人でまとまって歩く冒険者風の若者たち。


 そのたびに、アリシアの体はわずかに強張った。


 相手がこちらを見る。


 黒髪の少女。


 黒い瞳。


 華奢な体。


 腰には木刀。


 足元には黒猫。


 見慣れない組み合わせなのだろう。すれ違う人の多くが、ちらりと視線を向けた。


 悪意はない。


 分かっている。


 ただ珍しいものを見ただけだ。


 けれど、視線が自分に触れるたび、アリシアは胸が縮んだ。


「会釈」


 ノアが小さく言う。


「あっ」


 アリシアは慌てて頭を下げる。


 深すぎる。


 すれ違った旅人が少し驚き、すぐに笑った。


「お嬢ちゃん、そんなにかしこまらなくてもいいよ」


「ひゃ……あ、す、すみま……」


「謝らない」


 ノアが足元で低く言った。


 アリシアは言葉を途中で飲み込んだ。


「……こ、こんにちは」


 声は小さかった。


 けれど、言えた。


 旅人はさらに笑みを深めた。


「ああ、こんにちは。気をつけてな」


 旅人が通り過ぎていく。


 アリシアはしばらくその背中を見送った。


 心臓がうるさい。


 でも、前よりは少しだけましだった。


「今のは?」


 ノアが見上げてくる。


「えっと……謝りかけたけど、挨拶できた」


「六十点」


「ろ、六十点……」


「初対面で逃げなかったから加点。謝りかけたから減点。声が虫みたいだったからさらに減点」


「虫……」


「でも、挨拶できたから六十点」


「……そっか」


 アリシアは少しだけ口元を緩めた。


 六十点。


 高いのか低いのか分からない。


 けれど、ゼロではない。


「次は七十点を目指しなさい」


「う、うん」


「声を少し大きくするだけでいいわ」


「少し……」


「そう。いきなり歌劇場の役者みたいに声を張れとは言わないから」


「それは無理……」


「分かってるわよ」


 ノアは何でもないように歩き続けた。


 アリシアもその隣を歩く。


 少し前まで、知らない人に挨拶するだけで膝が震えていた。


 今も震えている。


 でも、ノアが点数をつけるせいで、怖さの中に少しだけ別のものが混ざった。


 次はもう少し上手くできるかもしれない。


 そんな、頼りない期待。


 それだけで、一歩は少し軽くなった。


 しばらく歩くと、遠くに屋根が見え始めた。


 山間の道の先に、小さな集落が広がっている。


 煙突から細い煙が上がり、柵で囲われた家畜小屋のようなものも見える。道の両側には木造の建物が並び、入口には看板が吊られていた。


 アリシアは足を止めた。


「あれが……宿場町?」


「そうでしょうね」


「人が……いっぱいいる……」


「まだ入口よ」


「入口でこれ……?」


 アリシアの顔から血の気が少し引いた。


 ノアは呆れたように見上げる。


「山奥基準で世界を見るのをやめなさい」


「だ、だって……」


 宿場町の入口には、数台の荷車が停まっていた。


 旅人が荷物を下ろし、馬に水を飲ませている。店先では女の人が籠に入った果物を並べ、子どもがその周りを走り回っていた。


 人の声。


 馬の鳴き声。


 車輪のきしむ音。


 誰かが笑う声。


 鍋を叩くような金属音。


 知らない音が、いくつも重なっている。


 山の音とは違う。


 葉擦れや水音ではなく、人が作る音。


 アリシアは思わず半歩下がった。


 その瞬間、ノアの尻尾がアリシアの足首に巻きついた。


「逃げない」


「ま、まだ逃げてない……」


「半歩下がった」


「半歩だけ……」


「一歩になる前に止めたのよ」


「うぅ……」


 ノアは尻尾を離した。


「いい? まず宿場町に入る。次に乗合馬車の場所を聞く。それから切符を買う」


「聞く……?」


 アリシアは青ざめた。


「誰に?」


「人に」


「ひ、人に……」


「犬に聞くつもり?」


「ノアが聞いてくれるとか……」


「私が喋ったら騒ぎになるでしょう」


「そ、そうだよね……」


「だから、あんたが聞く」


 アリシアは胸元を握った。


 守り袋の感触。


 大丈夫。


 怖いだけ。


 死ぬわけではない。


 たぶん。


「聞き方は?」


 ノアが言った。


「え、えっと……す、すみません……乗合馬車はどこですか……?」


「声」


「すみません、乗合馬車はどこですか……?」


「まだ小さい」


「すみません、乗合馬車はどこですか」


「まあいいわ」


 ノアは頷いた。


「噛んだら?」


「言い直す……」


「相手が聞き返したら?」


「もう一回言う……」


「相手が怖そうだったら?」


「……逃げる?」


「蹴るわよ」


「聞く……」


「よろしい」


 ノアの確認は厳しかった。


 けれど、何をすればいいのか分かると、少しだけ呼吸がしやすくなる。


 アリシアは小さく頷いた。


 宿場町に入る。


 道の両側に並ぶ店や家が、急に近くなった。


 人の匂いがする。


 焼いたパンの匂い。


 馬の匂い。


 革の匂い。


 湯気の上がるスープの匂い。


 果物の甘い匂い。


 全部が一度に押し寄せてきて、アリシアは目を回しそうになった。


「目が泳いでる」


「だ、だって……匂いがいっぱい……音もいっぱい……人もいっぱい……」


「情報に溺れてるわね」


「溺れる……」


「呼吸」


「すぅ……はぁ……」


「もう一回」


「すぅ……はぁ……」


 深呼吸を二回すると、少しだけ落ち着いた。


 ノアはアリシアの足元で前を向く。


「まずはあの店の人に聞きなさい」


 ノアが示した先には、果物を並べている中年の女性がいた。


 ふくよかで、優しそうな顔をしている。


 旅人相手に慣れているのか、通りかかる人へ明るく声をかけていた。


 アリシアは足が止まる。


「や、優しそうだけど……」


「なら聞きやすいでしょう」


「優しそうだから余計に迷惑かけたら……」


「はい、面倒な思考開始」


 ノアがぴしゃりと言った。


「道を聞くくらいで迷惑なら、宿場町の店なんてできないわよ」


「そ、そうかな」


「そうよ。ほら、行く」


「うぅ……」


 アリシアは一歩進んだ。


 また一歩。


 女性の店先に近づく。


 女性がこちらに気づいた。


「あら、いらっしゃい。果物かい?」


「ひゃ……」


 声をかけられた瞬間、アリシアの肩が跳ねた。


 女性は目を丸くした。


 ノアが足元で小さく言う。


「七十点の機会よ」


 アリシアはぎゅっと拳を握った。


「あ、あの……」


「うん?」


「す、すみません……乗合馬車は……どこですか……?」


 最後が少し消えた。


 でも、言えた。


 女性はにっこり笑った。


「乗合馬車かい? 中央都市行きなら、通りをまっすぐ行って右手の広場だよ。大きな鐘の下に馬車が集まってるから、すぐ分かるさ」


「お、大きな鐘……右手の広場……」


「そうそう。初めてかい?」


「は、はい……」


「そうかい。中央都市まで行くなら、早めに切符を買うといいよ。昼前の便は混むからね」


「混む……」


 その言葉でアリシアの顔が少し強張った。


 女性はそれに気づいたのか、優しく笑った。


「大丈夫。係の人に行き先を言えばいいだけだよ」


「は、はい……ありがとうございます」


 アリシアはぺこりと頭を下げた。


 今度は深すぎなかった。


 たぶん。


 女性は店先の籠から赤い果物を一つ取り、アリシアへ差し出した。


「はい、これ。旅の途中で食べな」


「えっ、で、でも……」


「おまけだよ。可愛い旅人さんへの応援」


「か、可愛い……」


 アリシアの顔が真っ赤になった。


 どうしていいか分からず、両手を空中で迷わせる。


 ノアが足元で呟いた。


「受け取りなさい」


「あ、ありがとうございます……」


 アリシアは果物を受け取った。


 女性は足元のノアを見て、目を細める。


「きれいな黒猫だねぇ。旅のお供かい?」


「えっ、あ、はい……」


 ノアがちらりとアリシアを見る。


 余計なことを言うな、という目だった。


 アリシアは慌てて続けた。


「大切な……子です」


 姉、とは言わなかった。


 言ったら、きっと変に思われる。


 でも、大切な子、という言葉は自然に出た。


 ノアは何も言わなかった。


 女性は嬉しそうに笑った。


「そうかいそうかい。仲良く行くんだよ」


「はい」


 アリシアはもう一度頭を下げ、店を離れた。


 角を曲がる前に振り返ると、女性が手を振ってくれた。


 アリシアは小さく手を振り返した。


 そして、少し離れたところで大きく息を吐いた。


「で、できた……」


「七十五点」


「七十五点!」


 思わず声が大きくなった。


 通りすがりの人が少し振り返る。


 アリシアはすぐに口を押さえた。


 ノアは尻尾を揺らす。


「道を聞けた。礼も言えた。頭の下げ方もさっきよりまし。果物も受け取れた」


「うん……」


「ただし、可愛いと言われた時に固まりすぎ」


「だ、だって、言われ慣れてないし……」


「慣れなさい」


「そんな簡単に……」


「外では言われるかもしれないでしょう」


「言われないと思う……」


「自覚がないのも面倒ね」


 ノアはため息をついた。


 アリシアは首を傾げた。


 自分の容姿について、アリシアはよく分かっていない。山では比べる相手がいなかったし、祖父は外見を褒めるよりも姿勢や剣の振り方を指摘する人だった。


 可愛い。


 そう言われると、胸がむずむずして落ち着かない。


「行くわよ」


「う、うん」


 アリシアは果物を布袋の中にしまい、教えられた通り通りを進んだ。


 宿場町の中は、外から見たよりもずっと賑やかだった。


 店先でパンを焼く匂い。


 鍛冶屋のような場所から響く金属音。


 旅人たちの笑い声。


 宿の前で荷物を運ぶ少年。


 馬の手綱を引く男。


 子どもが数人、木の輪を転がして遊んでいる。


 そのうちの一人がノアを見つけた。


「あ、黒猫!」


 声が上がる。


 アリシアはびくっとした。


 子どもたちの視線が一斉にノアへ集まる。


「ほんとだ!」


「きれー!」


「触っていい?」


「ひゃ……」


 アリシアは反射的にノアの前に立とうとした。


 けれど、ノアは淡々としていた。


「落ち着きなさい。相手は子どもよ」


「で、でも、ノアが触られるの嫌かもって……」


「嫌よ」


「じゃ、じゃあ……」


「断りなさい」


「私が!?」


「他に誰がいるの」


 子どもたちは期待した目でこちらを見ている。


 アリシアの喉が詰まった。


 断る。


 相手に嫌な顔をさせるかもしれない。


 怒らせるかもしれない。


 でも、ノアは嫌だと言った。


 なら、言わなければ。


 アリシアは膝の横で手を握り、子どもたちを見た。


「あ、あの……ごめんね。この子、人見知りで……」


 言った瞬間、ノアの耳が動いた。


 アリシアは続ける。


「触られるの、ちょっと苦手なの」


 子どもたちは少し残念そうな顔をした。


「そっかぁ」


「だめかぁ」


 アリシアの胸が痛んだ。


 でも、一番小さな女の子がノアに向かって手を振った。


「じゃあ、見るだけ!」


 ノアは尻尾を一度揺らした。


 子どもたちは「振った!」と喜び、そのまま駆けていった。


 アリシアは力が抜けたように息を吐いた。


「い、言えた……」


「八十点」


「えっ」


「今のは良かったわ」


 ノアは前を向いたまま言った。


「相手を傷つけず、私の意思も守った」


「……うん」


「ただし、私を人見知り扱いしたのは減点」


「あ、ご、ごめ……」


「謝らない」


「うぅ……」


「でも、まあいいわ」


 ノアは少しだけアリシアに体を寄せた。


 ほんの少し。


 それだけだった。


 けれどアリシアには、ノアが「ありがとう」と言ったように感じた。


 胸が温かくなる。


「ノア」


「何?」


「私、断るの苦手」


「見れば分かるわ」


「でも……言わないといけない時もあるんだね」


「そうよ」


 ノアの声は静かだった。


「優しいことと、何でも受け入れることは違うわ」


「……うん」


「嫌なものは嫌。守りたいものは守る。それを言えない優しさは、いつか自分も相手も傷つける」


 アリシアはその言葉を胸の中で繰り返した。


 優しいこと。


 何でも受け入れること。


 違う。


 祖父も似たようなことを言っていた気がする。


 怖いと思える者は、無謀にならない。


 自分を弱いと思える者は、学ぶことをやめない。


 アリシアはまだ、外の世界をほとんど知らない。


 けれど、今日だけでいくつも学んでいる気がした。


 道を聞くこと。


 挨拶すること。


 断ること。


 どれも小さなことかもしれない。


 でも、アリシアにとっては全部が初めての戦いだった。


 やがて、通りの先に広場が見えた。


 中央に大きな鐘が立っている。


 その周りに、何台もの馬車が並んでいた。


 人も多い。


 荷物を積む者。


 切符を買う者。


 行き先を確認する者。


 大声で客を呼ぶ係員。


 馬の世話をする少年。


 広場は、宿場町の中でも特に賑やかだった。


 アリシアは足を止めた。


「ノア……」


「何よ」


「人が……さっきより、ずっと……」


「馬車乗り場だから当然ね」


「帰りたい……」


「早い」


「でも……」


「アリシア」


 ノアの声が少し低くなった。


 アリシアはびくりとする。


「ここまで来た」


「……うん」


「道も聞いた。礼も言えた。断ることもできた」


「うん……」


「次は切符を買うだけ」


「だけ……」


「そう。だけよ」


 ノアはアリシアを見上げた。


「ここで立ち止まったら、さっきできたことまで全部なかったことにする気?」


「……それは、嫌」


「なら行く」


 アリシアは唇を噛んだ。


 怖い。


 でも、嫌だ。


 せっかくここまで来た。


 祖父に行ってきますと言った。


 ノアも隣にいる。


 ここで山に戻ったら、きっと自分が自分を許せない。


「……行く」


「よろしい」


 アリシアは広場へ足を踏み入れた。


 音が一気に近くなる。


「中央都市行きはこっちだよ!」


「西の鉱山町行き、あと二名!」


「荷物はこっちに積んでくれ!」


「切符をなくすなよ!」


 声。


 声。


 声。


 アリシアの耳が追いつかない。


 どれが自分に関係ある声なのか分からない。


 目も忙しい。


 馬車があり、人があり、荷物があり、看板があり、係員がいる。


 アリシアは立ち尽くしかけた。


 その時、ノアが足元で言った。


「中央都市行き。左奥」


「え?」


「看板に書いてある」


 アリシアは必死に視線を動かした。


 左奥。


 そこに、青い板の看板があった。


 文字が見える。


 中央都市行き。


「あった……」


「行くわよ」


「うん」


 アリシアは人の流れを避けながら、左奥の馬車へ向かった。


 途中で大きな荷物を背負った男とぶつかりそうになり、慌てて横へ避ける。


「す、すみ……」


「謝らない」


「あっ……」


 男は気づいていなかったようで、そのまま歩いていった。


 アリシアは胸を押さえる。


 いちいち心臓が跳ねる。


 このまま中央都市まで心臓がもつのだろうか。


 そんなことを考えながら進むと、中央都市行きの馬車の前に着いた。


 そこには若い係員の女性がいた。


 茶色の髪を後ろで束ね、手元の板に何かを書き込んでいる。


 アリシアが近づくと、女性が顔を上げた。


「中央都市行きかい?」


「ひゃ……」


 また肩が跳ねた。


 ノアが足元でじろりと見る。


 アリシアは慌てて姿勢を正した。


「は、はい。中央都市まで……一人……です」


 女性は手元の板を確認した。


「一人ね。荷物はその袋だけ?」


「はい」


「猫は?」


「ね、猫……」


 アリシアはノアを見る。


 ノアは何も言わない。


 当然だ。


 ここで喋ったら騒ぎになる。


 アリシアは一瞬迷ってから、言った。


「一緒に……乗せてもらえますか?」


「大人しいかい?」


 女性がノアを見る。


 ノアは完璧に普通の猫の顔をしていた。


 丸い目。


 静かな姿勢。


 何も分かっていない無垢な猫、という顔。


 アリシアは思わず見つめた。


 演技が上手すぎる。


「大人しい……です」


 普段は口が悪いけれど。


 足を蹴るけれど。


 すぐ減点してくるけれど。


 でも、今は大人しい。


 嘘ではない、はず。


 女性は頷いた。


「なら膝の上に乗せておいてくれればいいよ。追加料金はいらない」


「あ、ありがとうございます」


「中央都市までなら銀貨三枚」


 アリシアは革袋を取り出した。


 手が少し震える。


 銀貨。


 祖父から教わっていたが、実際に使うのは初めてに近い。


 袋の中を確認し、銀貨を三枚取り出す。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 数え間違えていないか不安で、もう一度数えた。


 女性は急かさず待ってくれている。


 アリシアは銀貨を差し出した。


「こ、これで……」


「はい、確かに」


 女性は切符代わりの小さな木札を渡してくれた。


「なくさないようにね。出発は半刻後。あの馬車に乗っておいて」


「はい……ありがとうございます」


 アリシアは木札を両手で受け取った。


 また深く頭を下げそうになったが、途中で止める。


 適度に。


 たぶん適度に。


 女性は笑った。


「初めての旅?」


「えっ……はい」


「緊張してるね」


「す、すみ……」


 アリシアは口を押さえた。


 女性は少し目を丸くし、それから笑った。


「謝らなくていいよ。誰でも最初はそんなものさ」


「……はい」


「中央都市は広いけど、案内所もある。困ったら制服を着た案内役に聞くんだよ」


「案内役……」


「学園へ行く子なら、時期的に他にもいるだろうしね」


 学園。


 その言葉に、アリシアの胸がまた鳴った。


「学園生って、分かるんですか……?」


「この時期に中央都市へ行く若い子は、大体そうさ」


 女性はアリシアの腰の木刀を見た。


「木刀持ちの学園生は珍しいけどね」


「う……」


 アリシアは反射的に木刀を押さえた。


 笑われるだろうか。


 変だと思われるだろうか。


 不安になったが、女性は馬鹿にしたような顔はしなかった。


「大切なものかい?」


「……はい」


「なら、なくさないように」


「はい」


 アリシアは小さく頷いた。


 女性は次の客に声をかけ始めた。


 アリシアは馬車へ向かって数歩歩き、そこでようやく息を吐いた。


「買えた……」


「八十五点」


「上がった……!」


「支払いもできた。行き先も言えた。木札も受け取った。謝りかけたけど飲み込んだ」


「うん」


「ただし、銀貨を数える手が震えすぎ。見てるこっちが不安になったわ」


「初めてだったから……」


「初めてにしては上出来よ」


 ノアのその言葉に、アリシアは胸が温かくなった。


 今日はたくさん褒められている。


 ノアの褒め方は分かりにくいけれど、それでもちゃんと届く。


 アリシアは木札を大切に握った。


「ノア、私……切符買えた」


「見てたわよ」


「一人で」


「私は足元にいたけどね」


「でも、喋ったのは私」


「そうね」


「……ちょっと嬉しい」


 ノアはアリシアを見上げ、ふっと目を細めた。


「覚えておきなさい」


「え?」


「その、ちょっと嬉しいって感覚」


 ノアは馬車の方へ歩き出す。


「怖くてもやった後には、それが残ることもあるのよ」


 アリシアはノアの背中を見た。


 黒い小さな背中。


 でも、とても頼もしい。


「うん」


 アリシアは頷き、馬車へ向かった。


 中央都市行きの乗合馬車は、アリシアが思っていたより大きかった。


 木製の箱型の車体に、横長の座席が向かい合わせに並んでいる。窓には布の覆いがあり、天井には荷物を置く棚のようなものがついていた。


 すでに何人か乗っていた。


 商人らしき男性。


 年配の夫婦。


 眠そうな顔の少年。


 大きな杖を持った少女。


 剣を腰に下げた青年。


 その視線が、入口に立ったアリシアへ向いた。


 アリシアは固まった。


 狭い空間。


 知らない人。


 逃げ場が少ない。


 山の広い空気とは違う、人の気配が詰まった場所。


 足が止まる。


 ノアが後ろから言った。


「入る」


「う……」


「後ろがつかえるわ」


 確かに、後ろから別の乗客が来ていた。


 アリシアは慌てて中へ入る。


 空いている端の席を見つけ、そこに腰を下ろした。


 布袋を膝の横に置き、木刀を邪魔にならないように押さえる。


 ノアは軽やかに膝の上へ飛び乗った。


 アリシアは両手でノアを支える。


 膝の上の温もりに、少し落ち着いた。


 向かいに座っていた年配の女性が微笑んだ。


「可愛い猫ちゃんね」


「あ、ありがとうございます……」


 アリシアは小さく答えた。


 ノアは普通の猫のふりをして、目を細めている。


 完璧だった。


 その隣の年配の男性が言う。


「お嬢さん、中央都市へ?」


「は、はい」


「学園かね?」


「……はい」


「そうかそうか。若いのに偉いねぇ」


「い、いえ、そんな……」


 アリシアは顔を赤くして俯いた。


 どう返せばいいのか分からない。


 すると隣に座っていた眠そうな少年が、半分閉じた目でこちらを見た。


「木刀で学園行くの?」


 その声は悪意というより、純粋な疑問に近かった。


 けれど馬車内の数人が、ちらりとアリシアの腰元を見た。


 アリシアの体が強張る。


 木刀。


 やはり珍しいのだ。


 普通は剣や杖を持つのだろう。


 アリシアは木刀に手を添えた。


「これは……祖父が、くれたものなので……」


「ふーん」


 少年はそれだけ言うと、また眠そうに目を閉じた。


 馬鹿にされたわけではなかった。


 でも、他の乗客の視線が残っている気がして、アリシアは俯いた。


 膝の上のノアが、爪を立てない程度に前足でアリシアの手を押した。


 下を向きすぎ。


 そう言われた気がした。


 アリシアは少しだけ顔を上げる。


 窓の外を見るふりをした。


 広場ではまだ人が忙しく動いている。


 馬が鼻を鳴らし、係員が荷物を積み込んでいる。


 その景色を見ているだけで、少し気が紛れた。


 やがて、御者の声が響いた。


「中央都市行き、まもなく出るぞ!」


 馬車内が少しざわつく。


 遅れて乗り込んできた商人が荷物を棚に上げ、杖を持った少女が席を詰める。


 アリシアは膝の上のノアを抱き直した。


「ノア……」


 声に出さないよう、唇だけで小さく呼ぶ。


 ノアは普通の猫のふりをしたまま、アリシアの手に尻尾を絡めた。


 大丈夫。


 そう言われた気がした。


 馬車が揺れた。


 車輪が回り始める。


 ぎし、と木が鳴る。


 外の景色がゆっくり動き出す。


 宿場町の広場。


 果物屋の通り。


 子どもたちの声。


 大きな鐘。


 全部が少しずつ後ろへ流れていく。


 アリシアは窓の外を見つめた。


 初めての宿場町が遠ざかる。


 怖かった。


 何度も帰りたくなった。


 でも、道を聞けた。


 挨拶できた。


 断れた。


 切符を買えた。


 馬車に乗れた。


 小さなことばかり。


 けれど、アリシアにとっては全部が大きかった。


 馬車が町を抜け、広い街道へ出る。


 空が大きく広がった。


 アリシアは胸元の守り袋に触れた。


 そして、膝の上のノアを見る。


 ノアは猫のふりをしながら目を閉じていた。


 けれど、尻尾だけはアリシアの手に触れたままだった。


 アリシアは小さく息を吐く。


 少しだけ、笑った。


 外の世界は怖い。


 人は多い。


 声は大きい。


 分からないことばかり。


 でも、一歩ずつなら歩ける。


 そう思えた。


 馬車は中央都市へ向かって進んでいく。


 その先にある学園で、何が待っているのか。


 アリシアはまだ知らない。


 火のように真っ直ぐな少年も。


 水のように冷静な少女も。


 風のように皮肉な少年も。


 土のように明るい少女も。


 光のように優しく、けれど底の見えない少年も。


 まだ、誰とも出会っていない。


 今のアリシアが知っているのは、膝の上の黒猫の温もりと、祖父がくれた守り袋の重みだけ。


 それでも、馬車は進む。


 道は続く。


 世界は、少しずつ近づいてくる。


 アリシアは窓の外を見つめながら、小さく呟いた。


「……行ってきます」


 その声は、馬車の音に紛れて誰にも届かなかった。


 けれど、膝の上のノアの耳だけが、ほんの少し動いた。


 ノアは目を閉じたまま、小さく尻尾を揺らした。


 まるで、こう返すように。


 行きなさい。


 ちゃんと、見ていてあげるから。

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