第3話 初めての宿場町
街道は、山道よりもずっと広かった。
アリシアがこれまで歩いてきた道は、木々の間に細く伸びる獣道や、祖父と二人で踏み固めた土の小径ばかりだった。足元には木の根があり、石があり、濡れた落ち葉が積もっていて、歩く時には自然と下を見る癖がついていた。
けれど、今立っている道は違う。
人が通るための道だった。
馬車の車輪が何度も通った跡が、土の上に深く残っている。ところどころ乾いた泥が割れ、蹄の跡が重なり、道端には旅人が休んだのか、踏み潰された草の跡もあった。
人がいる。
人が通っている。
人の生活が、この道の上に残っている。
その当たり前の事実が、アリシアにはとても大きく感じられた。
「……広い」
ぽつりと呟くと、隣を歩いていたノアが尻尾を揺らした。
「これで広いなんて言っていたら、中央都市に着いた瞬間倒れるわよ」
「た、倒れるかな」
「倒れないように蹴るわ」
「蹴る前提なんだ……」
「必要ならね」
ノアの声はいつも通りだった。
少し冷たくて、遠慮がなくて、それなのに不思議と安心する。
アリシアは胸元の守り袋にそっと触れた。服の下にある小さな木片の感触が、指先に返ってくる。
祖父の言葉を思い出す。
一歩進めば、次の一歩が見える。
アリシアは小さく息を吸って、また歩き出した。
街道を歩いていると、時折、人とすれ違った。
荷車を押す男。
背中に大きな荷物を背負った旅人。
馬に乗った商人らしき中年の女性。
数人でまとまって歩く冒険者風の若者たち。
そのたびに、アリシアの体はわずかに強張った。
相手がこちらを見る。
黒髪の少女。
黒い瞳。
華奢な体。
腰には木刀。
足元には黒猫。
見慣れない組み合わせなのだろう。すれ違う人の多くが、ちらりと視線を向けた。
悪意はない。
分かっている。
ただ珍しいものを見ただけだ。
けれど、視線が自分に触れるたび、アリシアは胸が縮んだ。
「会釈」
ノアが小さく言う。
「あっ」
アリシアは慌てて頭を下げる。
深すぎる。
すれ違った旅人が少し驚き、すぐに笑った。
「お嬢ちゃん、そんなにかしこまらなくてもいいよ」
「ひゃ……あ、す、すみま……」
「謝らない」
ノアが足元で低く言った。
アリシアは言葉を途中で飲み込んだ。
「……こ、こんにちは」
声は小さかった。
けれど、言えた。
旅人はさらに笑みを深めた。
「ああ、こんにちは。気をつけてな」
旅人が通り過ぎていく。
アリシアはしばらくその背中を見送った。
心臓がうるさい。
でも、前よりは少しだけましだった。
「今のは?」
ノアが見上げてくる。
「えっと……謝りかけたけど、挨拶できた」
「六十点」
「ろ、六十点……」
「初対面で逃げなかったから加点。謝りかけたから減点。声が虫みたいだったからさらに減点」
「虫……」
「でも、挨拶できたから六十点」
「……そっか」
アリシアは少しだけ口元を緩めた。
六十点。
高いのか低いのか分からない。
けれど、ゼロではない。
「次は七十点を目指しなさい」
「う、うん」
「声を少し大きくするだけでいいわ」
「少し……」
「そう。いきなり歌劇場の役者みたいに声を張れとは言わないから」
「それは無理……」
「分かってるわよ」
ノアは何でもないように歩き続けた。
アリシアもその隣を歩く。
少し前まで、知らない人に挨拶するだけで膝が震えていた。
今も震えている。
でも、ノアが点数をつけるせいで、怖さの中に少しだけ別のものが混ざった。
次はもう少し上手くできるかもしれない。
そんな、頼りない期待。
それだけで、一歩は少し軽くなった。
しばらく歩くと、遠くに屋根が見え始めた。
山間の道の先に、小さな集落が広がっている。
煙突から細い煙が上がり、柵で囲われた家畜小屋のようなものも見える。道の両側には木造の建物が並び、入口には看板が吊られていた。
アリシアは足を止めた。
「あれが……宿場町?」
「そうでしょうね」
「人が……いっぱいいる……」
「まだ入口よ」
「入口でこれ……?」
アリシアの顔から血の気が少し引いた。
ノアは呆れたように見上げる。
「山奥基準で世界を見るのをやめなさい」
「だ、だって……」
宿場町の入口には、数台の荷車が停まっていた。
旅人が荷物を下ろし、馬に水を飲ませている。店先では女の人が籠に入った果物を並べ、子どもがその周りを走り回っていた。
人の声。
馬の鳴き声。
車輪のきしむ音。
誰かが笑う声。
鍋を叩くような金属音。
知らない音が、いくつも重なっている。
山の音とは違う。
葉擦れや水音ではなく、人が作る音。
アリシアは思わず半歩下がった。
その瞬間、ノアの尻尾がアリシアの足首に巻きついた。
「逃げない」
「ま、まだ逃げてない……」
「半歩下がった」
「半歩だけ……」
「一歩になる前に止めたのよ」
「うぅ……」
ノアは尻尾を離した。
「いい? まず宿場町に入る。次に乗合馬車の場所を聞く。それから切符を買う」
「聞く……?」
アリシアは青ざめた。
「誰に?」
「人に」
「ひ、人に……」
「犬に聞くつもり?」
「ノアが聞いてくれるとか……」
「私が喋ったら騒ぎになるでしょう」
「そ、そうだよね……」
「だから、あんたが聞く」
アリシアは胸元を握った。
守り袋の感触。
大丈夫。
怖いだけ。
死ぬわけではない。
たぶん。
「聞き方は?」
ノアが言った。
「え、えっと……す、すみません……乗合馬車はどこですか……?」
「声」
「すみません、乗合馬車はどこですか……?」
「まだ小さい」
「すみません、乗合馬車はどこですか」
「まあいいわ」
ノアは頷いた。
「噛んだら?」
「言い直す……」
「相手が聞き返したら?」
「もう一回言う……」
「相手が怖そうだったら?」
「……逃げる?」
「蹴るわよ」
「聞く……」
「よろしい」
ノアの確認は厳しかった。
けれど、何をすればいいのか分かると、少しだけ呼吸がしやすくなる。
アリシアは小さく頷いた。
宿場町に入る。
道の両側に並ぶ店や家が、急に近くなった。
人の匂いがする。
焼いたパンの匂い。
馬の匂い。
革の匂い。
湯気の上がるスープの匂い。
果物の甘い匂い。
全部が一度に押し寄せてきて、アリシアは目を回しそうになった。
「目が泳いでる」
「だ、だって……匂いがいっぱい……音もいっぱい……人もいっぱい……」
「情報に溺れてるわね」
「溺れる……」
「呼吸」
「すぅ……はぁ……」
「もう一回」
「すぅ……はぁ……」
深呼吸を二回すると、少しだけ落ち着いた。
ノアはアリシアの足元で前を向く。
「まずはあの店の人に聞きなさい」
ノアが示した先には、果物を並べている中年の女性がいた。
ふくよかで、優しそうな顔をしている。
旅人相手に慣れているのか、通りかかる人へ明るく声をかけていた。
アリシアは足が止まる。
「や、優しそうだけど……」
「なら聞きやすいでしょう」
「優しそうだから余計に迷惑かけたら……」
「はい、面倒な思考開始」
ノアがぴしゃりと言った。
「道を聞くくらいで迷惑なら、宿場町の店なんてできないわよ」
「そ、そうかな」
「そうよ。ほら、行く」
「うぅ……」
アリシアは一歩進んだ。
また一歩。
女性の店先に近づく。
女性がこちらに気づいた。
「あら、いらっしゃい。果物かい?」
「ひゃ……」
声をかけられた瞬間、アリシアの肩が跳ねた。
女性は目を丸くした。
ノアが足元で小さく言う。
「七十点の機会よ」
アリシアはぎゅっと拳を握った。
「あ、あの……」
「うん?」
「す、すみません……乗合馬車は……どこですか……?」
最後が少し消えた。
でも、言えた。
女性はにっこり笑った。
「乗合馬車かい? 中央都市行きなら、通りをまっすぐ行って右手の広場だよ。大きな鐘の下に馬車が集まってるから、すぐ分かるさ」
「お、大きな鐘……右手の広場……」
「そうそう。初めてかい?」
「は、はい……」
「そうかい。中央都市まで行くなら、早めに切符を買うといいよ。昼前の便は混むからね」
「混む……」
その言葉でアリシアの顔が少し強張った。
女性はそれに気づいたのか、優しく笑った。
「大丈夫。係の人に行き先を言えばいいだけだよ」
「は、はい……ありがとうございます」
アリシアはぺこりと頭を下げた。
今度は深すぎなかった。
たぶん。
女性は店先の籠から赤い果物を一つ取り、アリシアへ差し出した。
「はい、これ。旅の途中で食べな」
「えっ、で、でも……」
「おまけだよ。可愛い旅人さんへの応援」
「か、可愛い……」
アリシアの顔が真っ赤になった。
どうしていいか分からず、両手を空中で迷わせる。
ノアが足元で呟いた。
「受け取りなさい」
「あ、ありがとうございます……」
アリシアは果物を受け取った。
女性は足元のノアを見て、目を細める。
「きれいな黒猫だねぇ。旅のお供かい?」
「えっ、あ、はい……」
ノアがちらりとアリシアを見る。
余計なことを言うな、という目だった。
アリシアは慌てて続けた。
「大切な……子です」
姉、とは言わなかった。
言ったら、きっと変に思われる。
でも、大切な子、という言葉は自然に出た。
ノアは何も言わなかった。
女性は嬉しそうに笑った。
「そうかいそうかい。仲良く行くんだよ」
「はい」
アリシアはもう一度頭を下げ、店を離れた。
角を曲がる前に振り返ると、女性が手を振ってくれた。
アリシアは小さく手を振り返した。
そして、少し離れたところで大きく息を吐いた。
「で、できた……」
「七十五点」
「七十五点!」
思わず声が大きくなった。
通りすがりの人が少し振り返る。
アリシアはすぐに口を押さえた。
ノアは尻尾を揺らす。
「道を聞けた。礼も言えた。頭の下げ方もさっきよりまし。果物も受け取れた」
「うん……」
「ただし、可愛いと言われた時に固まりすぎ」
「だ、だって、言われ慣れてないし……」
「慣れなさい」
「そんな簡単に……」
「外では言われるかもしれないでしょう」
「言われないと思う……」
「自覚がないのも面倒ね」
ノアはため息をついた。
アリシアは首を傾げた。
自分の容姿について、アリシアはよく分かっていない。山では比べる相手がいなかったし、祖父は外見を褒めるよりも姿勢や剣の振り方を指摘する人だった。
可愛い。
そう言われると、胸がむずむずして落ち着かない。
「行くわよ」
「う、うん」
アリシアは果物を布袋の中にしまい、教えられた通り通りを進んだ。
宿場町の中は、外から見たよりもずっと賑やかだった。
店先でパンを焼く匂い。
鍛冶屋のような場所から響く金属音。
旅人たちの笑い声。
宿の前で荷物を運ぶ少年。
馬の手綱を引く男。
子どもが数人、木の輪を転がして遊んでいる。
そのうちの一人がノアを見つけた。
「あ、黒猫!」
声が上がる。
アリシアはびくっとした。
子どもたちの視線が一斉にノアへ集まる。
「ほんとだ!」
「きれー!」
「触っていい?」
「ひゃ……」
アリシアは反射的にノアの前に立とうとした。
けれど、ノアは淡々としていた。
「落ち着きなさい。相手は子どもよ」
「で、でも、ノアが触られるの嫌かもって……」
「嫌よ」
「じゃ、じゃあ……」
「断りなさい」
「私が!?」
「他に誰がいるの」
子どもたちは期待した目でこちらを見ている。
アリシアの喉が詰まった。
断る。
相手に嫌な顔をさせるかもしれない。
怒らせるかもしれない。
でも、ノアは嫌だと言った。
なら、言わなければ。
アリシアは膝の横で手を握り、子どもたちを見た。
「あ、あの……ごめんね。この子、人見知りで……」
言った瞬間、ノアの耳が動いた。
アリシアは続ける。
「触られるの、ちょっと苦手なの」
子どもたちは少し残念そうな顔をした。
「そっかぁ」
「だめかぁ」
アリシアの胸が痛んだ。
でも、一番小さな女の子がノアに向かって手を振った。
「じゃあ、見るだけ!」
ノアは尻尾を一度揺らした。
子どもたちは「振った!」と喜び、そのまま駆けていった。
アリシアは力が抜けたように息を吐いた。
「い、言えた……」
「八十点」
「えっ」
「今のは良かったわ」
ノアは前を向いたまま言った。
「相手を傷つけず、私の意思も守った」
「……うん」
「ただし、私を人見知り扱いしたのは減点」
「あ、ご、ごめ……」
「謝らない」
「うぅ……」
「でも、まあいいわ」
ノアは少しだけアリシアに体を寄せた。
ほんの少し。
それだけだった。
けれどアリシアには、ノアが「ありがとう」と言ったように感じた。
胸が温かくなる。
「ノア」
「何?」
「私、断るの苦手」
「見れば分かるわ」
「でも……言わないといけない時もあるんだね」
「そうよ」
ノアの声は静かだった。
「優しいことと、何でも受け入れることは違うわ」
「……うん」
「嫌なものは嫌。守りたいものは守る。それを言えない優しさは、いつか自分も相手も傷つける」
アリシアはその言葉を胸の中で繰り返した。
優しいこと。
何でも受け入れること。
違う。
祖父も似たようなことを言っていた気がする。
怖いと思える者は、無謀にならない。
自分を弱いと思える者は、学ぶことをやめない。
アリシアはまだ、外の世界をほとんど知らない。
けれど、今日だけでいくつも学んでいる気がした。
道を聞くこと。
挨拶すること。
断ること。
どれも小さなことかもしれない。
でも、アリシアにとっては全部が初めての戦いだった。
やがて、通りの先に広場が見えた。
中央に大きな鐘が立っている。
その周りに、何台もの馬車が並んでいた。
人も多い。
荷物を積む者。
切符を買う者。
行き先を確認する者。
大声で客を呼ぶ係員。
馬の世話をする少年。
広場は、宿場町の中でも特に賑やかだった。
アリシアは足を止めた。
「ノア……」
「何よ」
「人が……さっきより、ずっと……」
「馬車乗り場だから当然ね」
「帰りたい……」
「早い」
「でも……」
「アリシア」
ノアの声が少し低くなった。
アリシアはびくりとする。
「ここまで来た」
「……うん」
「道も聞いた。礼も言えた。断ることもできた」
「うん……」
「次は切符を買うだけ」
「だけ……」
「そう。だけよ」
ノアはアリシアを見上げた。
「ここで立ち止まったら、さっきできたことまで全部なかったことにする気?」
「……それは、嫌」
「なら行く」
アリシアは唇を噛んだ。
怖い。
でも、嫌だ。
せっかくここまで来た。
祖父に行ってきますと言った。
ノアも隣にいる。
ここで山に戻ったら、きっと自分が自分を許せない。
「……行く」
「よろしい」
アリシアは広場へ足を踏み入れた。
音が一気に近くなる。
「中央都市行きはこっちだよ!」
「西の鉱山町行き、あと二名!」
「荷物はこっちに積んでくれ!」
「切符をなくすなよ!」
声。
声。
声。
アリシアの耳が追いつかない。
どれが自分に関係ある声なのか分からない。
目も忙しい。
馬車があり、人があり、荷物があり、看板があり、係員がいる。
アリシアは立ち尽くしかけた。
その時、ノアが足元で言った。
「中央都市行き。左奥」
「え?」
「看板に書いてある」
アリシアは必死に視線を動かした。
左奥。
そこに、青い板の看板があった。
文字が見える。
中央都市行き。
「あった……」
「行くわよ」
「うん」
アリシアは人の流れを避けながら、左奥の馬車へ向かった。
途中で大きな荷物を背負った男とぶつかりそうになり、慌てて横へ避ける。
「す、すみ……」
「謝らない」
「あっ……」
男は気づいていなかったようで、そのまま歩いていった。
アリシアは胸を押さえる。
いちいち心臓が跳ねる。
このまま中央都市まで心臓がもつのだろうか。
そんなことを考えながら進むと、中央都市行きの馬車の前に着いた。
そこには若い係員の女性がいた。
茶色の髪を後ろで束ね、手元の板に何かを書き込んでいる。
アリシアが近づくと、女性が顔を上げた。
「中央都市行きかい?」
「ひゃ……」
また肩が跳ねた。
ノアが足元でじろりと見る。
アリシアは慌てて姿勢を正した。
「は、はい。中央都市まで……一人……です」
女性は手元の板を確認した。
「一人ね。荷物はその袋だけ?」
「はい」
「猫は?」
「ね、猫……」
アリシアはノアを見る。
ノアは何も言わない。
当然だ。
ここで喋ったら騒ぎになる。
アリシアは一瞬迷ってから、言った。
「一緒に……乗せてもらえますか?」
「大人しいかい?」
女性がノアを見る。
ノアは完璧に普通の猫の顔をしていた。
丸い目。
静かな姿勢。
何も分かっていない無垢な猫、という顔。
アリシアは思わず見つめた。
演技が上手すぎる。
「大人しい……です」
普段は口が悪いけれど。
足を蹴るけれど。
すぐ減点してくるけれど。
でも、今は大人しい。
嘘ではない、はず。
女性は頷いた。
「なら膝の上に乗せておいてくれればいいよ。追加料金はいらない」
「あ、ありがとうございます」
「中央都市までなら銀貨三枚」
アリシアは革袋を取り出した。
手が少し震える。
銀貨。
祖父から教わっていたが、実際に使うのは初めてに近い。
袋の中を確認し、銀貨を三枚取り出す。
一枚。
二枚。
三枚。
数え間違えていないか不安で、もう一度数えた。
女性は急かさず待ってくれている。
アリシアは銀貨を差し出した。
「こ、これで……」
「はい、確かに」
女性は切符代わりの小さな木札を渡してくれた。
「なくさないようにね。出発は半刻後。あの馬車に乗っておいて」
「はい……ありがとうございます」
アリシアは木札を両手で受け取った。
また深く頭を下げそうになったが、途中で止める。
適度に。
たぶん適度に。
女性は笑った。
「初めての旅?」
「えっ……はい」
「緊張してるね」
「す、すみ……」
アリシアは口を押さえた。
女性は少し目を丸くし、それから笑った。
「謝らなくていいよ。誰でも最初はそんなものさ」
「……はい」
「中央都市は広いけど、案内所もある。困ったら制服を着た案内役に聞くんだよ」
「案内役……」
「学園へ行く子なら、時期的に他にもいるだろうしね」
学園。
その言葉に、アリシアの胸がまた鳴った。
「学園生って、分かるんですか……?」
「この時期に中央都市へ行く若い子は、大体そうさ」
女性はアリシアの腰の木刀を見た。
「木刀持ちの学園生は珍しいけどね」
「う……」
アリシアは反射的に木刀を押さえた。
笑われるだろうか。
変だと思われるだろうか。
不安になったが、女性は馬鹿にしたような顔はしなかった。
「大切なものかい?」
「……はい」
「なら、なくさないように」
「はい」
アリシアは小さく頷いた。
女性は次の客に声をかけ始めた。
アリシアは馬車へ向かって数歩歩き、そこでようやく息を吐いた。
「買えた……」
「八十五点」
「上がった……!」
「支払いもできた。行き先も言えた。木札も受け取った。謝りかけたけど飲み込んだ」
「うん」
「ただし、銀貨を数える手が震えすぎ。見てるこっちが不安になったわ」
「初めてだったから……」
「初めてにしては上出来よ」
ノアのその言葉に、アリシアは胸が温かくなった。
今日はたくさん褒められている。
ノアの褒め方は分かりにくいけれど、それでもちゃんと届く。
アリシアは木札を大切に握った。
「ノア、私……切符買えた」
「見てたわよ」
「一人で」
「私は足元にいたけどね」
「でも、喋ったのは私」
「そうね」
「……ちょっと嬉しい」
ノアはアリシアを見上げ、ふっと目を細めた。
「覚えておきなさい」
「え?」
「その、ちょっと嬉しいって感覚」
ノアは馬車の方へ歩き出す。
「怖くてもやった後には、それが残ることもあるのよ」
アリシアはノアの背中を見た。
黒い小さな背中。
でも、とても頼もしい。
「うん」
アリシアは頷き、馬車へ向かった。
中央都市行きの乗合馬車は、アリシアが思っていたより大きかった。
木製の箱型の車体に、横長の座席が向かい合わせに並んでいる。窓には布の覆いがあり、天井には荷物を置く棚のようなものがついていた。
すでに何人か乗っていた。
商人らしき男性。
年配の夫婦。
眠そうな顔の少年。
大きな杖を持った少女。
剣を腰に下げた青年。
その視線が、入口に立ったアリシアへ向いた。
アリシアは固まった。
狭い空間。
知らない人。
逃げ場が少ない。
山の広い空気とは違う、人の気配が詰まった場所。
足が止まる。
ノアが後ろから言った。
「入る」
「う……」
「後ろがつかえるわ」
確かに、後ろから別の乗客が来ていた。
アリシアは慌てて中へ入る。
空いている端の席を見つけ、そこに腰を下ろした。
布袋を膝の横に置き、木刀を邪魔にならないように押さえる。
ノアは軽やかに膝の上へ飛び乗った。
アリシアは両手でノアを支える。
膝の上の温もりに、少し落ち着いた。
向かいに座っていた年配の女性が微笑んだ。
「可愛い猫ちゃんね」
「あ、ありがとうございます……」
アリシアは小さく答えた。
ノアは普通の猫のふりをして、目を細めている。
完璧だった。
その隣の年配の男性が言う。
「お嬢さん、中央都市へ?」
「は、はい」
「学園かね?」
「……はい」
「そうかそうか。若いのに偉いねぇ」
「い、いえ、そんな……」
アリシアは顔を赤くして俯いた。
どう返せばいいのか分からない。
すると隣に座っていた眠そうな少年が、半分閉じた目でこちらを見た。
「木刀で学園行くの?」
その声は悪意というより、純粋な疑問に近かった。
けれど馬車内の数人が、ちらりとアリシアの腰元を見た。
アリシアの体が強張る。
木刀。
やはり珍しいのだ。
普通は剣や杖を持つのだろう。
アリシアは木刀に手を添えた。
「これは……祖父が、くれたものなので……」
「ふーん」
少年はそれだけ言うと、また眠そうに目を閉じた。
馬鹿にされたわけではなかった。
でも、他の乗客の視線が残っている気がして、アリシアは俯いた。
膝の上のノアが、爪を立てない程度に前足でアリシアの手を押した。
下を向きすぎ。
そう言われた気がした。
アリシアは少しだけ顔を上げる。
窓の外を見るふりをした。
広場ではまだ人が忙しく動いている。
馬が鼻を鳴らし、係員が荷物を積み込んでいる。
その景色を見ているだけで、少し気が紛れた。
やがて、御者の声が響いた。
「中央都市行き、まもなく出るぞ!」
馬車内が少しざわつく。
遅れて乗り込んできた商人が荷物を棚に上げ、杖を持った少女が席を詰める。
アリシアは膝の上のノアを抱き直した。
「ノア……」
声に出さないよう、唇だけで小さく呼ぶ。
ノアは普通の猫のふりをしたまま、アリシアの手に尻尾を絡めた。
大丈夫。
そう言われた気がした。
馬車が揺れた。
車輪が回り始める。
ぎし、と木が鳴る。
外の景色がゆっくり動き出す。
宿場町の広場。
果物屋の通り。
子どもたちの声。
大きな鐘。
全部が少しずつ後ろへ流れていく。
アリシアは窓の外を見つめた。
初めての宿場町が遠ざかる。
怖かった。
何度も帰りたくなった。
でも、道を聞けた。
挨拶できた。
断れた。
切符を買えた。
馬車に乗れた。
小さなことばかり。
けれど、アリシアにとっては全部が大きかった。
馬車が町を抜け、広い街道へ出る。
空が大きく広がった。
アリシアは胸元の守り袋に触れた。
そして、膝の上のノアを見る。
ノアは猫のふりをしながら目を閉じていた。
けれど、尻尾だけはアリシアの手に触れたままだった。
アリシアは小さく息を吐く。
少しだけ、笑った。
外の世界は怖い。
人は多い。
声は大きい。
分からないことばかり。
でも、一歩ずつなら歩ける。
そう思えた。
馬車は中央都市へ向かって進んでいく。
その先にある学園で、何が待っているのか。
アリシアはまだ知らない。
火のように真っ直ぐな少年も。
水のように冷静な少女も。
風のように皮肉な少年も。
土のように明るい少女も。
光のように優しく、けれど底の見えない少年も。
まだ、誰とも出会っていない。
今のアリシアが知っているのは、膝の上の黒猫の温もりと、祖父がくれた守り袋の重みだけ。
それでも、馬車は進む。
道は続く。
世界は、少しずつ近づいてくる。
アリシアは窓の外を見つめながら、小さく呟いた。
「……行ってきます」
その声は、馬車の音に紛れて誰にも届かなかった。
けれど、膝の上のノアの耳だけが、ほんの少し動いた。
ノアは目を閉じたまま、小さく尻尾を揺らした。
まるで、こう返すように。
行きなさい。
ちゃんと、見ていてあげるから。




