第2話 世界へ
荷造りというものを、アリシアはほとんどしたことがなかった。
旅に出たことがない。
山を下りたことも、数えるほどしかない。
それも祖父と一緒に、近くの小さな集落へ必要なものを受け取りに行く程度だった。知らない人の声が少し聞こえるだけで胸が縮み、店の人に「こんにちは」と言われただけで声が裏返った。
だから、外の世界へ行くための荷造りなど、何から手をつければいいのか分からない。
アリシアは自室の真ん中に座り込んでいた。
膝の前には、開いたままの布袋がある。
その周りに、服、本、古いノート、小さな裁縫箱、木の櫛、干し果物を入れる小袋などが散らばっていた。
何を持っていけばいいのか分からない。
何を置いていけばいいのかも分からない。
分からないから、結局、全部必要な気がしてくる。
「……これも、いるかな」
アリシアは古びた本を手に取った。
表紙は擦り切れて、角が少し丸くなっている。昔、祖父がくれた文字の練習用の本だった。もう中身はほとんど覚えている。持っていく必要はない。
ない、はずなのに。
指が離れなかった。
「それはいらないわね」
背後から声がした。
「ひゃっ」
アリシアは肩を跳ねさせた。
振り返ると、窓際にノアが座っていた。
黒い毛並みに朝の光が当たり、輪郭だけが柔らかく浮かんでいる。金色の瞳が、散らかった部屋をじっと見ていた。
「ど、どうしてそこに……」
「歩いてきたのよ」
「扉、閉まってたよ……?」
「猫は通れるの」
「猫じゃないって言ってたのに……」
思わず口にしてしまってから、アリシアは慌てて両手で口を押さえた。
ノアの耳がぴくりと動く。
じろり、と見られる。
「言うようになったじゃない」
「ご、ごめ……じゃなくて……えっと……」
「そこで詰まるのがあんたらしいわね」
ノアは窓枠から床へ飛び降りた。
音もなく着地し、散らばった荷物のあいだをゆっくり歩く。
その足取りは、ここが自分の家であるかのように自然だった。
アリシアは少し不思議な気持ちになった。
ノアと出会って、まだ半日も経っていない。
それなのに、部屋の中にノアがいることが、妙にしっくりくる。
前からいたような。
いなかったことの方が不自然だったような。
そんな感覚があった。
「で、あんたは何をしているの?」
「荷造り……の、つもり」
「つもりね」
ノアは床を見渡した。
「これは荷造りじゃなくて、思い出の発掘作業よ」
「う……」
「外に行くのに、そんな古い本を何冊も抱えてどうするの」
「で、でも、これはおじいちゃんがくれた本で……」
「置いていきなさい」
「で、でも……」
「帰ってくればまた読めるでしょう」
帰ってくれば。
その言葉に、アリシアの手が止まった。
帰ってくる。
そうだ。
別に、永遠にここを離れるわけではない。
祖父も言っていた。
帰る場所はここにある、と。
それなのに、アリシアの胸はずっと落ち着かなかった。何かを置いていくことが、そのまま失うことのように思えていた。
ノアはアリシアを見上げた。
「あんた、今、全部最後みたいな顔してるわよ」
「……そんな顔、してる?」
「してる」
「……」
「まったく。十六歳にもなって、荷物と別れの区別もつかないの?」
「うぅ……」
言い方はきつい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
ノアはアリシアの膝の前に座った。
「いい? 外に持っていくものは三つに分けなさい」
「三つ?」
「必要なもの。役に立つもの。心が折れそうな時に握るもの」
アリシアは瞬きをした。
思っていたより、ちゃんとした助言だった。
ノアは尻尾を揺らす。
「服は必要なもの。本は必要ない。裁縫箱は役に立つ。干し果物も役に立つ。古い練習帳は……」
ノアは本を一瞥した。
「心が折れそうな時に握るもの、に入れてもいいわ」
「え……いいの?」
「一冊だけならね」
アリシアは本を胸に抱いた。
「ありがとう、ノア」
「礼を言うほどじゃないわ」
「でも、嬉しい」
「……そう」
ノアは顔をそらした。
耳の先がほんの少しだけ動いている。
怒っているわけではなさそうだった。
アリシアは少し笑いそうになり、慌てて表情を整えた。笑ったらまた何か言われる気がしたからだ。
それから、二人で荷物を分け始めた。
服は二組。
薄手の上着。
祖父が用意してくれた丈夫な靴下。
小さな裁縫箱。
薬草を乾かした袋。
干し果物。
水筒。
祖父が削ってくれた木の櫛。
そして、古い練習帳を一冊。
それでも袋はすぐに膨らんだ。
「多い?」
「初めての旅ならこんなものね」
「ノアは何か持っていかなくていいの?」
「私は身一つで十分よ」
「すごい……」
「まあ、あんたと違って無駄に不安を詰め込まないからね」
「う……」
アリシアは布袋の口を結んだ。
ぎゅっと力を入れる。
結び目を見つめる。
たったそれだけのことなのに、胸の奥がまた重くなった。
荷造りが終わってしまった。
終わらなければ、まだ出発しなくて済む気がしていた。
けれど、終わってしまった。
ノアは何も言わず、そっとアリシアの隣に座った。
その沈黙が、さっきまでの軽口よりも優しかった。
アリシアは布袋の上に手を置いた。
「……本当に、行くんだね」
「そうね」
「私、ちゃんとできるかな」
「できるかどうかじゃないわ」
「え?」
「やるのよ」
ノアは正面を向いたまま言った。
「できるようになるまで、やるの」
アリシアはその横顔を見た。
小さな黒猫なのに、その言葉は不思議と大きく聞こえた。
「……うん」
「声が小さい」
「うん」
「まだ小さい」
「うんっ」
「よろしい」
ノアは満足そうに頷いた。
その時、部屋の外から祖父の声が聞こえた。
「アリシア」
「は、はい」
「準備はできたか」
アリシアは布袋を見た。
それからノアを見た。
ノアが顎を少し上げる。
「行きなさい」
「……うん」
アリシアは布袋を抱え、部屋を出た。
廊下の木の床が、ぎし、と小さく鳴る。
この音も、何度も聞いてきた。
朝も、昼も、夜も。
眠れない夜、祖父の部屋へ向かった時も。
転んで膝を擦りむき、泣きながら戻ってきた時も。
祖父に褒められて、嬉しさを隠しきれずに駆け込んだ時も。
全部、この床の音があった。
アリシアは思わず足を止めた。
ノアが隣に来る。
「今度は何?」
「……床の音、覚えておこうと思って」
ノアは呆れたような、でも少しだけ柔らかいような顔をした。
「本当に面倒な子ね」
「ごめ……」
「謝らない」
「……うん」
「覚えたいなら覚えなさい。そういうのは、荷物にならないから」
アリシアはノアを見下ろした。
胸の奥が少し温かくなった。
「うん」
居間に行くと、祖父は椅子に座っていた。
机の上には、広げられた地図と、小さな革袋が置かれている。
地図は古そうだった。
アリシアが本で見たどの地図よりも細かく、そして見慣れない線がいくつも引かれている。
祖父はアリシアを見ると、黙って向かいの椅子を示した。
アリシアは座った。
ノアは迷わず机の上に飛び乗ろうとした。
「ノア」
アリシアが小さく呼ぶ。
ノアは動きを止めた。
「テーブルの上は、今日だけって……」
「まだ今日よ」
「た、確かに……」
「甘いわね、アリシア」
ノアは堂々と机の端に座った。
祖父は何か言いたげに見たが、結局黙った。
昨日までなら、アリシアはそんな光景を想像もしなかっただろう。
祖父と、自分と、喋る黒猫。
それが今、当たり前のように同じ机を囲んでいる。
不思議で、少しおかしくて、けれど胸が締めつけられるほど大切に思えた。
「アリシア」
祖父が地図を指差した。
「ここが、今いる山だ」
アリシアは地図を覗き込んだ。
細い山脈が連なり、その奥に小さな印がついている。
「こんなところに……」
「外の者には見えん場所だ」
「見えない?」
「結界がある」
祖父は静かに言った。
アリシアは息を飲んだ。
結界。
本で読んだことはある。
特別な場所や建物を隠したり、守ったりする術だ。
でも、それが自分の暮らしてきた場所に張られているなど、考えたこともなかった。
「だから、誰もここに来なかったの?」
「ああ」
「私たちだけだったのも……?」
「そうだ」
祖父の答えは短かった。
けれど、その短さの中に長い時間があった。
アリシアは地図を見つめる。
自分が知っている世界は、この小さな印の中だけだった。
けれど地図は、その何十倍、何百倍もの広さを持っている。
山の外には森があり、街道があり、川があり、国境があり、大きな都市がある。
そして、五つの大国。
地図の上で、それらは星の形を描くように配置されていた。
火。
水。
風。
土。
光。
それぞれの国の名は、アリシアも本で読んだことがある。
けれど、祖父から直接教わると、紙の上の文字ではなく、本当に存在するものとして迫ってくる。
「五つの大国は、千年前に建てられた」
「六聖人……だよね」
アリシアは小さく言った。
祖父に教わった歴史。
魔族との大きな戦い。
神々に選ばれた聖人たち。
人類を導き、魔王を退けた英雄。
けれど、外の本には五聖人と書かれていた。
祖父は必ず、六聖人と言った。
幼い頃のアリシアは、それを不思議に思いながらも、深くは聞かなかった。
祖父が言うなら、きっとそうなのだろう。
その程度にしか考えていなかった。
今になって、その違いが重みを持つ。
「外の世界では、五聖人と教えられている」
祖父が言った。
「……うん」
「五つの神器。五つの神獣。五つの大国。それが常識だ」
アリシアはノアを見る。
ノアは黙っていた。
いつもの皮肉もない。
金色の瞳が、地図をじっと見つめている。
「だが、実際には六つあった」
祖父はアリシアを見た。
「お前が継いだものが、その六つ目だ」
アリシアの手が膝の上で強く握られた。
分かっていた。
昨日の儀で、何か特別なものを受け継いだのだと。
けれど、言葉にされると、怖さが増した。
「私が……六つ目……」
「そうだ」
「でも、外では知られてないんだよね」
「ああ」
「じゃあ……私が行ったら、変に思われる?」
祖父はすぐには答えなかった。
それが答えだった。
アリシアの肩が少し落ちる。
ノアが尻尾で机を軽く叩いた。
「変に思われるどころじゃないわね」
「ノア……」
「でも、あんたは最初から神器を見せるわけじゃない」
「神器……」
アリシアは首を傾げた。
「そういえば、継承の儀で何も出なかったよね」
「当然よ」
「当然なの?」
「今のあんたに扱わせるわけないでしょう」
「う……」
ノアの言葉は容赦なかった。
けれど、祖父も否定しない。
「お前は、契約を継いだ」
祖父が言う。
「だが、神器そのものはまだ眠っている」
「眠ってる……」
「お前がいずれ、その器になった時に目覚める」
「器……」
アリシアには難しかった。
器になる。
つまり、今の自分では足りないということだ。
不思議と、悔しさより安心が勝った。
今すぐ伝説の武器を渡されても、どうしていいか分からない。
ノアが言う通り、きっと振り回されるだけだ。
「じゃあ、私は学園で……何をすればいいの?」
「学びなさい」
祖父は言った。
「外の世界を。人を。魔法を。歴史を。そして、自分自身を」
「自分自身……」
「お前は山で育った。剣は教えた。生きる術も教えた。だが、人の中で生きる術は、ここでは教えきれん」
アリシアは俯いた。
それは、自分でも分かっていた。
祖父となら話せる。
ノアとも、なぜか話せる。
けれど知らない人は怖い。
自分が何を言えばいいのか分からない。
相手が何を考えているのかも分からない。
笑われるかもしれない。
嫌われるかもしれない。
迷惑をかけるかもしれない。
考えれば考えるほど、言葉が喉で詰まる。
「私……友達とか、できるかな」
自然とそんな言葉がこぼれた。
言ってから、恥ずかしくなる。
十六歳にもなって、何を言っているのだろう。
けれど祖父は笑わなかった。
ノアも、からかわなかった。
祖父は少しだけ目を細めた。
「できる」
「本当に?」
「ああ」
「でも、私……」
「アリシア」
祖父の声が穏やかに遮った。
「友とは、上手く話せる者だけが得るものではない」
「……」
「不器用でも、誠実であればいい」
アリシアは膝の上の手を見つめた。
誠実。
自分にできるだろうか。
上手く話すことはできない。
気の利いた言葉も言えない。
でも、嘘をつかないことならできるかもしれない。
相手を傷つけたくないと思うことなら、できるかもしれない。
「まあ、最初は盛大に噛むでしょうね」
ノアが言った。
アリシアは顔を上げる。
「ノア……」
「自己紹介で名前を言うだけで固まるに一票」
「ひどい……」
「現実的と言いなさい」
「うぅ……」
「でも、それでいいのよ」
ノアは尻尾を揺らした。
「完璧な初対面なんて、後から思い出しても面白くないわ」
「面白さ、いるの……?」
「いるわよ。私が退屈しない」
「ノアのため?」
「そう」
堂々と言い切るノアに、アリシアは困った顔をした。
けれど、胸の重さは少しだけ軽くなっていた。
祖父は地図の中央を指した。
五大国を結ぶ線の交点。
星の中心。
「ここが中央都市だ」
「中央都市……」
「どの国にも属さぬ中立地。五大国が共同で守り、共同で運営している」
「そこに、学園があるんだよね」
「ああ。中央学園。各国から、選ばれた若者が集まる場所だ」
選ばれた若者。
アリシアの胸がまた少し縮む。
そんな人たちの中に、自分が入る。
想像しただけで、足元がふわつきそうだった。
「私、本当に入れるの?」
「入学の手続きは済ませてある」
「えっ」
アリシアは思わず祖父を見た。
「いつの間に?」
「前からだ」
「前から……」
つまり、祖父はずっと決めていた。
アリシアが十六になったら継承の儀を行い、学園へ送ることを。
それを知らなかったのは、自分だけだった。
少し寂しいような。
少し腹立たしいような。
でも、それ以上に、祖父がどれほど長く準備してくれていたのかを思って、胸が詰まった。
「どうやって……?」
「古い伝手がある」
「おじいちゃん、外に知り合いがいたの?」
「少しはな」
「知らなかった……」
「話していなかった」
「……」
アリシアは祖父をじっと見た。
祖父には、アリシアの知らない顔がたくさんある。
当たり前だ。
祖父はアリシアが生まれる前から生きている。
長い時間を、ひとりで、あるいは誰かと共に過ごしてきた。
そのすべてをアリシアが知っているはずがない。
それでも、今日になってそのことを強く感じる。
少し寂しい。
祖父が遠く見える。
「むくれない」
ノアが言った。
「む、むくれてない」
「むくれてるわよ」
「だって……」
「言いなさい」
アリシアは少し迷った。
祖父を見る。
祖父は黙って待っていた。
アリシアは膝の上で手を握り、言った。
「私だけ……知らなかったんだなって」
声は小さい。
でも、消えなかった。
「おじいちゃんは、ずっと準備してくれてたのに……私は、何も知らなくて……」
「そうだな」
祖父は認めた。
言い訳をしなかった。
それがまた、胸に響いた。
「すまなかった」
「え……」
アリシアは顔を上げた。
祖父が頭を下げていた。
ほんのわずかに。
けれど確かに。
「お、おじいちゃん、やめて……」
「知らせるべきこともあった。だが、幼いお前に背負わせるには重すぎた」
「……」
「私は、お前を守りたかった」
祖父の声は静かだった。
「だが、守ることと隠すことは、時に同じではない」
アリシアは何も言えなかった。
怒りたいわけではない。
責めたいわけでもない。
ただ、自分が知らなかったことが寂しかった。
祖父が自分を守ろうとしてくれていたことも分かる。
だから余計に、何を言えばいいか分からない。
沈黙が落ちた。
ノアも何も言わなかった。
机の上の地図が、窓から入る風でわずかに揺れる。
外では鳥が鳴いている。
いつもの山の音。
でも、部屋の中の空気は、昨日までとは違った。
アリシアはゆっくり息を吸った。
「……私、怒ってないよ」
「そうか」
「でも……ちょっと寂しかった」
言えた。
言った瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
祖父は目を伏せた。
「そうか」
「うん」
「覚えておく」
その言葉が祖父らしかった。
大げさな謝罪でも、慰めでもない。
ただ、覚えておく。
それだけ。
けれどアリシアには、その言葉が嬉しかった。
ノアが小さく息を吐く。
「ちゃんと言えたじゃない」
「……うん」
「上出来」
アリシアはノアを見る。
「今度は聞こえた」
「わざと言ったのよ」
「そ、そうなんだ」
「褒められたら素直に受け取りなさい」
「……ありがとう」
ノアは顔をそらした。
「別に」
その仕草に、アリシアの口元が少し緩む。
するとノアがすぐに振り返った。
「何笑ってるの」
「笑ってない」
「笑ってた」
「笑ってない……と思う」
「弱いわね、否定が」
アリシアは困って、また少し笑った。
祖父は地図を折り畳み、革袋をアリシアの方へ押した。
「これを持っていきなさい」
「これは?」
「路銀だ」
「お金……?」
「ああ。中央都市までの旅費と、しばらくの生活費だ」
アリシアは革袋を両手で受け取った。
ずしりとした重みがあった。
思っていたより重い。
「こんなに……」
「必要になる」
「でも、おじいちゃんは……」
「私は困らん」
「本当に?」
「ああ」
祖父の返答は揺るがなかった。
けれどアリシアは不安だった。
自分がいなくなった後、祖父はひとりになる。
食事は?
薪は?
体調を崩したら?
夜、誰が話し相手になるのだろう。
そこまで考えて、アリシアは胸が苦しくなった。
「おじいちゃん、ひとりで大丈夫?」
祖父は少し意外そうに瞬きをした。
それから、かすかに笑った。
「それは私の台詞だ」
「でも……」
「私は長くひとりで生きてきた」
「それでも……」
アリシアは言葉を詰まらせた。
祖父は強い。
何でもできる。
アリシアよりずっと、ずっと大丈夫な人だ。
それでも、心配だった。
置いていくようで。
ひとりにしてしまうようで。
祖父はゆっくり手を伸ばし、アリシアの頭に置いた。
大きな手だった。
硬く、節くれ立っていて、何度も剣を握り、薪を割り、土を掘ってきた手。
幼い頃から、泣いた時も、熱を出した時も、褒めてくれた時も、この手が頭に置かれた。
アリシアは目を閉じた。
「私は大丈夫だ」
「……うん」
「だから、お前は自分の心配をしなさい」
「……うん」
「困ったら、ノアを頼れ」
ノアが尻尾を揺らす。
「当然ね」
「ノア、頼っていいの?」
「頼られすぎるのは面倒だけど、倒れるまで我慢されるよりはましね」
「……それは、頼っていいってこと?」
「そう言ってるでしょう」
「分かりにくい……」
「慣れなさい」
アリシアは小さく頷いた。
祖父は手を離した。
その瞬間、頭の上が少し寒くなったように感じた。
「出発は明日の朝だ」
祖父が言った。
アリシアは息を飲んだ。
「明日……」
「ああ」
早い。
そう思った。
でも、今日中に出発しないだけまだ猶予があるとも思った。
明日。
明日の朝には、この家を出る。
この山を下りる。
祖父と別れる。
言葉にすると、現実が少しずつ形を持ち始めた。
「今日は、準備をしなさい」
「……うん」
「それと、よく見ておきなさい」
「え?」
「この家を。この山を。自分の帰る場所を」
アリシアは祖父を見た。
祖父の目は穏やかだった。
「忘れないためではない。迷った時に、思い出せるように」
「……うん」
アリシアは頷いた。
その日は、不思議な一日だった。
何か特別なことをしたわけではない。
荷物を整え、服を畳み、必要なものを確認した。
祖父と一緒に昼食を食べた。
ノアは当たり前のようにアリシアの椅子の隣に座り、干し肉を少しだけもらっていた。
「神獣って、干し肉食べるんだ……」
アリシアが呟くと、ノアは当然のように言った。
「食べるわよ。美味しいもの」
「神獣なのに?」
「神獣だからって霞だけ食べて生きてると思った?」
「ちょっと……思ってた」
「本の読みすぎね」
アリシアは恥ずかしくなって、スープに視線を落とした。
祖父は静かに干し肉をもう一切れノアの皿に置いた。
「おじいちゃん、甘い」
「出発前だからな」
「ノアが太ったらどうするの?」
「誰が太るって?」
「ご、ごめんなさい」
「ほらまた謝る」
そんなやり取りをしながら、時間はゆっくり過ぎていった。
夕方、アリシアは家の周りを歩いた。
ノアも隣を歩く。
祖父は来なかった。
行ってきなさい、とだけ言った。
アリシアは、いつも通る小道を歩いた。
水を汲みに行く道。
薬草を摘みに行く道。
幼い頃、迷子になりかけて泣いた場所。
木の根につまずいて転んだ場所。
祖父に初めて褒められた広場。
どこも特別な景色ではない。
でも、アリシアには全部が大切だった。
夕日が木々の間から差し込み、地面に長い影を落としている。
風が吹くと、葉がざわめいた。
山はいつも通りだった。
アリシアが旅立とうが、泣きそうになろうが、怖がろうが、山は変わらない。
それが少し寂しく、同時に少し安心した。
「静かな場所ね」
ノアが言った。
「うん」
「悪くないわ」
「ノアは、ここを知ってたの?」
「知っていた、とも言えるし、知らなかったとも言えるわね」
「難しい……」
「今のあんたにはね」
「またそれ……」
「事実よ」
ノアは前を向いたまま歩く。
アリシアはその隣を歩く。
並んで歩く相手がいる。
それだけで、山道が少し違って見えた。
「ノア」
「何?」
「私が小さい頃から、ノアはいたの?」
ノアは少しだけ足を止めた。
アリシアも立ち止まる。
夕日がノアの黒い毛並みを照らしている。
ノアはしばらく黙っていた。
「見てはいたわ」
「見てた?」
「ずっとではないけれどね」
「じゃあ、私が転んで泣いてたのも?」
「見たことはあるわね」
「えぇ……」
アリシアは顔を赤くした。
「夜の風の音で布団かぶってたのも?」
「それは知らないわ」
「よかった……」
「でも今聞いたわ」
「あっ」
ノアがにやりとしたように見えた。
アリシアは両手で顔を覆う。
「忘れて……」
「考えておくわ」
「絶対忘れないやつ……」
「よく分かってるじゃない」
ノアの声には、少し楽しげな響きがあった。
アリシアは恥ずかしかったが、不思議と嫌ではなかった。
見られていた。
弱いところも、情けないところも。
それでもノアは契約した。
名前を受け取ってくれた。
そのことが、ほんの少しだけアリシアを支えていた。
「じゃあ……ノアは、私のこと嫌じゃないの?」
言ってから、アリシアはしまったと思った。
面倒なことを聞いてしまった気がした。
でも、聞きたかった。
ノアはアリシアを見上げた。
「嫌だったら契約しないわよ」
「そ、そうだよね」
「ほんと、面倒な子」
「ごめ……」
「謝らない」
「……うん」
ノアは少し歩いてから、ぽつりと言った。
「あんたは手がかかりそうだけど」
「うん……」
「退屈はしなさそうね」
アリシアはノアを見た。
それは褒め言葉なのか分からない。
けれど、少し嬉しかった。
「……ありがとう」
「別に褒めてないわよ」
「でも、嬉しかったから」
「変な子」
ノアは尻尾を立てて歩き出した。
アリシアはその後を追った。
夕暮れの山道を、二人で歩く。
明日には、この道を通って山を下りる。
それを思うと、胸がまた締めつけられる。
でも、ノアがいる。
ひとりではない。
その事実を、アリシアは何度も胸の中で繰り返した。
夜。
家の中は、いつもより静かだった。
夕食は祖父が作った。
山菜の煮込みと、焼いた魚。
アリシアの好物だった。
食卓にはノアもいた。
祖父は最初からノアの分の小皿を用意していた。
ノアはそれを見て、少しだけ目を細めた。
「気が利くわね」
「客人だからな」
「客人扱いなの?」
アリシアが聞くと、祖父は少し考えて言った。
「家族扱いでもいい」
その言葉に、アリシアの手が止まった。
ノアもまた、一瞬だけ動きを止めた。
ほんの一瞬。
けれどアリシアには分かった。
ノアは何かを感じた。
けれど、すぐにそっぽを向いた。
「なら、干し魚をもう少しもらってもいいかしら」
「ノア……」
「家族なら遠慮はいらないでしょう」
祖父は静かに干し魚を追加した。
アリシアは少し笑った。
笑うと、寂しさがこぼれそうになった。
だから、慌てて魚を口に運ぶ。
味がした。
いつもの味。
祖父の料理。
明日からは、しばらく食べられない味。
そう思った瞬間、喉が詰まった。
アリシアは必死に飲み込んだ。
涙が出ないように、器を見つめる。
祖父は何も言わなかった。
ノアも、何も言わなかった。
ただ、三人で食事を続けた。
その沈黙は、温かくて、苦しかった。
食後、祖父はアリシアに小さな包みを渡した。
「これは?」
「守り袋だ」
布で作られた小さな袋だった。
中に何か硬いものが入っている。
「開けてもいい?」
「ああ」
アリシアは慎重に紐をほどいた。
中に入っていたのは、小さな木片だった。
ただの木片ではない。
表面に、細かな文様が彫られている。
祖父の手で彫られたものだと、すぐに分かった。
「これは……」
「迷わぬための印だ」
「お守り?」
「そう思っていい」
アリシアは木片を両手で包んだ。
温かい気がした。
祖父の手の温もりが残っているようだった。
「ありがとう……」
「肌身離さず持っていなさい」
「うん」
「困った時、怖くなった時、帰る場所が分からなくなった時は、それを握れ」
アリシアは頷いた。
言葉にすると泣きそうだった。
だから、頷くだけにした。
ノアが木片を覗き込む。
「丁寧な仕事ね」
「昔取った杵柄だ」
「ふぅん」
ノアはそれ以上何も言わなかった。
けれど、その目はどこか真剣だった。
夜が深くなる。
アリシアは自室に戻った。
布袋は扉の近くに置いてある。
明日の朝、すぐに持って出られるように。
それを見るたび、胸がざわつく。
寝台に座ると、ノアが当然のように枕元へ飛び乗った。
「ノア、ここで寝るの?」
「他にどこで寝るの」
「えっと……客間?」
「私をひとりで寝かせる気?」
「そ、そんなつもりじゃ……」
「ならここね」
ノアは丸くなった。
アリシアは少し戸惑いながらも、布団に入った。
枕元にノアがいる。
黒い小さな背中が、規則正しく上下している。
それを見ていると、不安が少し和らいだ。
「ノア」
「何?」
「明日……起きられるかな」
「そこ?」
「だって、寝られないかも」
「寝なさい」
「でも……」
「寝不足で山を下りる気?」
「う……」
「目を閉じる」
「はい……」
アリシアは目を閉じた。
けれど、すぐには眠れなかった。
明日のことが頭の中を回る。
山を下りる。
知らない道を歩く。
人のいる場所へ行く。
中央都市。
学園。
友達。
授業。
知らない人たち。
祖父と離れる。
胸が苦しくなって、アリシアは目を開けた。
すると、ノアがこちらを見ていた。
「眠れない顔ね」
「……うん」
「まったく」
ノアは立ち上がり、アリシアの胸元まで歩いてきた。
そして、布団の上に丸くなった。
小さな重みが胸に乗る。
温かい。
「これで寝なさい」
「重くないよ」
「失礼ね。重いとは言ってないでしょう」
「ふふ……」
「何笑ってるの」
「なんでもない」
「変な子」
ノアはそう言いながらも、動かなかった。
アリシアはノアの背にそっと手を置いた。
柔らかい。
温かい。
心臓の音が少し落ち着いていく。
「ノア」
「今度は何?」
「明日、怖くなったら……」
「蹴るわよ」
「えっ」
「足が止まったら、後ろから蹴る」
「ひどい……」
「倒れそうなら支える。泣きそうなら待つ。でも、逃げるために立ち止まるなら蹴る」
ノアの声は静かだった。
「それが私の役目よ」
アリシアは目を閉じた。
胸が温かかった。
「……ありがとう」
「だから礼を言うほどじゃないわ」
「でも、言いたいから」
「好きにしなさい」
「うん」
今度こそ、眠気が少しずつ近づいてきた。
ノアの温もり。
祖父の守り袋。
家の匂い。
山の夜の静けさ。
全部を抱えたまま、アリシアは眠りに落ちた。
翌朝。
空はまだ薄く白んだばかりだった。
アリシアは、思っていたよりもすぐに目を覚ました。
眠りが浅かったのかもしれない。
けれど、不思議と頭は重くなかった。
胸は緊張している。
でも、昨日ほど足元が崩れるような感じはない。
枕元を見ると、ノアがこちらを見ていた。
「起きた?」
「うん……おはよう、ノア」
「おはよう」
自然に挨拶が返ってきた。
それだけで、アリシアの胸が少し軽くなる。
着替えを済ませ、髪を結ぶ。
守り袋を首から下げる。
服の下にしまうと、胸元に小さな重みが残った。
布袋を肩にかける。
重い。
けれど、持てないほどではない。
部屋を見回す。
寝台。
机。
本棚。
窓。
昨日まで当たり前だった景色。
アリシアはゆっくり息を吸った。
「……行ってきます」
小さく言った。
誰に向けたのか、自分でも分からなかった。
部屋に。
昨日までの自分に。
それとも、ここで過ごした時間に。
ノアは何も言わず、扉の方へ歩いた。
居間には祖父がいた。
すでに支度を済ませている。
机には朝食が並んでいた。
簡単なものだった。
パンとスープ。
けれど、スープにはアリシアの好きな山菜が入っていた。
アリシアは椅子に座る。
祖父も座る。
ノアも椅子の上に飛び乗る。
三人で朝食を食べた。
会話は少なかった。
でも、それでよかった。
言葉を増やせば、何かがこぼれてしまいそうだった。
スープを飲む。
温かい。
祖父の味。
アリシアはゆっくり噛みしめた。
食事が終わると、祖父は立ち上がった。
「行くか」
その一言で、時間が動いた。
アリシアも立ち上がる。
布袋を肩にかける。
ノアはアリシアの足元に来た。
家を出る前に、アリシアはもう一度中を振り返った。
机。
椅子。
台所。
壁にかかった道具。
窓から差し込む朝の光。
全部が、昨日までと同じ。
アリシアは唇を噛んだ。
泣きそうになる。
でも、まだ泣かない。
「アリシア」
祖父が呼んだ。
「……うん」
外へ出る。
朝の空気が冷たかった。
山道には薄い霧がかかっている。
鳥が鳴いていた。
昨日と同じ音。
でも今日は、旅立ちの日の音だった。
祖父は家の前に立ち、アリシアに向き直った。
「ここから先、私は途中までしか送らん」
「うん」
「山を下りれば、街道に出る。そこを東へ進めば、小さな宿場町がある」
「宿場町……」
「そこで乗合馬車に乗りなさい。中央都市へ向かう便がある」
「ひ、一人で乗れるかな」
「乗れる」
祖父は即答した。
ノアも言う。
「乗れなかったら、私が喋るわ」
「それはそれで騒ぎにならない?」
「なら、あんたが喋りなさい」
「うぅ……」
「練習ね」
アリシアは不安になった。
でも、少しだけ笑った。
祖父は歩き始めた。
アリシアはその隣ではなく、少し後ろを歩いた。
いつもの距離。
幼い頃からずっとそうだった。
祖父の背中を見て歩く。
安心できる距離。
けれど今日、その背中を見ていると胸が痛くなる。
この背中を、いつまで見られるのだろう。
山道を下る。
木々の間を抜ける。
朝露に濡れた草が靴に触れる。
小さな虫が飛び、遠くで水の音がする。
ノアはアリシアの隣を歩いていた。
時々、足場の悪い場所で立ち止まり、アリシアを振り返る。
「そこ、滑るわよ」
「うん」
「右の石に足を乗せなさい」
「うん」
「荷物に振られすぎ」
「うぅ……」
口調は厳しい。
でも、ずっと見てくれている。
アリシアはそれが嬉しかった。
しばらく歩くと、森が少し開けた場所に出た。
そこは、アリシアが小さい頃から何度も来たことのある場所だった。
山の外へ続く道の手前。
祖父はそこで足を止めた。
アリシアも止まった。
分かった。
ここまでだ。
この先は、アリシアが進む道。
祖父は振り返った。
朝の光が祖父の白髪を照らしている。
いつもより年老いて見えた。
そう思った瞬間、胸がぎゅっと痛んだ。
「アリシア」
「……はい」
「ここで別れだ」
覚悟していた。
それでも、言葉にされると涙が込み上げた。
アリシアは必死に堪えようとした。
けれど、視界が滲む。
「おじいちゃん……」
「何だ」
「私……」
言葉が詰まった。
言いたいことはたくさんあった。
ありがとう。
行ってきます。
怖い。
寂しい。
置いていきたくない。
ちゃんと帰ってくる。
全部が喉の奥で絡まって、声にならない。
祖父は待っていた。
急かさず。
責めず。
いつものように。
アリシアは袖で目元を押さえた。
「私……ちゃんと、行ってくる」
「ああ」
「ちゃんと、学ぶ」
「ああ」
「たぶん、いっぱい失敗する」
「するだろうな」
「そこは否定してほしかった……」
涙声のまま言うと、祖父は少し笑った。
「失敗していい」
「うん……」
「泣いてもいい」
「うん……」
「だが、逃げて終わるな」
祖父の声が、静かに胸へ届く。
「怖くても、一歩だけ進みなさい」
「……うん」
「一歩進めば、次の一歩が見える」
アリシアは頷いた。
涙がこぼれた。
もう止められなかった。
祖父は大きな手を伸ばし、アリシアの頭に置いた。
昨日と同じ手。
温かい。
ずっと、自分を守ってくれた手。
「お前は、私の自慢の孫だ」
その一言で、アリシアは泣いた。
声を出さないようにしていたのに、堪えきれなかった。
「おじいちゃん……っ」
アリシアは祖父に抱きついた。
布袋が肩からずれた。
祖父の胸は硬く、温かかった。
幼い頃から何度も抱きしめてくれた腕が、今日もアリシアの背に回る。
強くはない。
けれど、確かに包んでくれる。
「行きたくない……」
思わず言ってしまった。
言ってはいけないと思っていた。
でも、言葉がこぼれた。
「怖い……離れたくない……」
祖父は黙って聞いていた。
ノアも何も言わなかった。
山の風だけが、二人の周りを通り過ぎる。
「それでも、行くんだな」
祖父が言った。
アリシアは泣きながら頷いた。
「……行く」
「そうか」
「行って……ちゃんと帰ってくる」
「ああ」
「絶対、帰ってくる」
「ああ。待っている」
待っている。
その言葉が、アリシアの背中を支えた。
帰る場所がある。
待っていてくれる人がいる。
それだけで、足は少しだけ前へ動ける。
アリシアはゆっくり祖父から離れた。
涙を拭う。
目元は赤いだろう。
顔もぐしゃぐしゃかもしれない。
でも、もういいと思った。
ノアが近づいてきた。
「ひどい顔」
「うぅ……」
「でも、悪くないわ」
「……それ、褒めてる?」
「少しね」
アリシアは泣きながら笑った。
ノアは祖父を見た。
「この子は私が見るわ」
その声は、いつもの軽口ではなかった。
静かで、まっすぐだった。
祖父はノアに向かって深く頷いた。
「頼む」
「頼まれたわ」
短い言葉。
けれど、そのやり取りには、アリシアの知らない重みがあった。
神獣と、祖父。
きっと二人には、アリシアが知らない何かがある。
けれど今は、聞かなかった。
祖父はアリシアに小さな木刀を渡した。
旅用に少し短く調整されたものだった。
アリシアが長年使ってきた稽古用の木刀ではない。
けれど、握った瞬間、手になじむのが分かった。
「これは……」
「持っていきなさい」
「いいの?」
「ああ」
「でも、学園には本物の剣とか、魔法とか……」
「お前の剣は、まずそれでいい」
祖父は言った。
「刃を持つ前に、己を持て」
「……うん」
アリシアは木刀を抱きしめた。
少し恥ずかしかった。
でも、そうしたかった。
「ありがとう」
祖父は頷いた。
「行きなさい」
その言葉で、別れの時間が終わった。
アリシアは布袋を肩にかけ直した。
木刀を腰に差す。
守り袋が胸元で揺れる。
ノアが隣に立つ。
アリシアは祖父を見た。
「行ってきます」
声は震えていた。
けれど、昨日よりも少しだけ大きかった。
祖父は静かに言った。
「行ってこい、アリシア」
アリシアは一歩、踏み出した。
山の外へ続く道へ。
二歩目。
三歩目。
振り返りたくなる。
すぐにでも駆け戻りたくなる。
けれど、ノアが隣を歩いている。
「背筋」
小さな声。
アリシアは涙を拭い、背筋を伸ばした。
少し歩いてから、どうしても我慢できずに振り返った。
祖父はまだそこにいた。
まっすぐ立って、こちらを見ていた。
アリシアは大きく手を振った。
祖父も、小さく手を上げた。
それだけだった。
でも、それで十分だった。
アリシアは前を向いた。
道は下へ続いている。
木々の間から、山の外の光が見えた。
今まで見ていた森の光とは違う。
広く、眩しく、少し怖い光。
アリシアは息を吸った。
「ノア」
「何?」
「足、震えてる」
「見れば分かるわ」
「どうしよう」
「歩きなさい」
「うん……」
「震えながらでも歩けるでしょ」
アリシアは自分の足を見た。
確かに震えている。
でも、歩ける。
一歩。
また一歩。
祖父の言葉を思い出す。
一歩進めば、次の一歩が見える。
アリシアは山道を下り始めた。
道は思っていたより長かった。
木々の密度が少しずつ変わっていく。
空が広くなる。
風の匂いも変わる。
山の湿った匂いに、乾いた土と遠い煙の匂いが混ざり始めた。
人の暮らす場所が近いのだと、アリシアは感じた。
そのたびに胸がどきどきする。
ノアは時々、何でもない話をした。
「宿場町に着いたら、まず食事ね」
「えっ、もう?」
「旅は食べられる時に食べるものよ」
「そうなんだ……」
「あと、知らない人に荷物を預けない」
「うん」
「声をかけられても、すぐについていかない」
「うん」
「お菓子を出されても警戒しなさい」
「え……お菓子も?」
「あんたならお菓子で釣られそうだから」
「釣られないよ……たぶん」
「たぶんが余計」
そんな会話をしながら進むうちに、アリシアの涙は乾いていった。
寂しさは消えない。
でも、歩いていると、ほんの少しだけ前を見る余裕が生まれる。
山道の終わりに近づいた時、アリシアは足を止めた。
目の前に、広い道があった。
街道。
本で見たことのある言葉が、現実として目の前に広がっている。
土が踏み固められた幅の広い道。
轍の跡。
馬の蹄の跡。
遠くに、小さな人影が見える。
荷車を引く人。
旅人らしき人。
アリシアは息を止めた。
人がいる。
知らない人。
それも、一人ではない。
胸が急に縮こまる。
「ノ、ノア……」
「何」
「人がいる……」
「いるわね」
「どうしよう」
「どうもしないわよ。街道なんだから人くらいいる」
「で、でも、見られたら……」
「見られるでしょうね」
「ひゃ……」
アリシアは木の陰に隠れかけた。
その瞬間、ノアが後ろ足でアリシアの足首を軽く蹴った。
「痛っ」
「隠れない」
「で、でも……」
「背筋」
「うぅ……」
アリシアは背筋を伸ばした。
震えながら。
ノアは満足そうに頷いた。
「いい? まず街道に出る。それから宿場町へ向かう。人とすれ違ったら、軽く会釈。それだけ」
「会釈……」
「声を出さなくてもいいわ」
「本当?」
「最初はね」
「よかった……」
「そのうち声も出すのよ」
「うぅ……」
アリシアは深呼吸した。
一度。
二度。
三度。
それでも心臓はうるさい。
でも、祖父の顔を思い出した。
待っている。
そう言ってくれた。
アリシアは守り袋を服の上から握った。
木片の感触が指に伝わる。
大丈夫。
怖い。
でも、大丈夫。
「行こう、ノア」
「ええ」
アリシアは山の影から一歩踏み出した。
街道に出る。
土の感触が少し違った。
踏み固められていて、たくさんの人が通った跡がある。
アリシアはその道の上に立った。
初めて、自分の足で外の世界へ出た。
遠くから、荷車を引いた男が近づいてくる。
アリシアの体が固まる。
男は大きな荷物を積んだ車を引きながら、ちらりとアリシアを見た。
山から出てきた黒髪の少女。
腰に木刀。
足元に黒猫。
珍しく見えたのか、男は少し目を丸くした。
アリシアは息を止める。
ノアが小さく言った。
「会釈」
「あっ」
アリシアはぎこちなく頭を下げた。
角度が深すぎた。
ほとんど礼のようになった。
男は一瞬きょとんとした後、笑った。
「おう、旅かい。気をつけな」
明るい声だった。
怒っていない。
笑われたような気もするけれど、嫌な笑いではない。
アリシアは慌てて顔を上げた。
「あ、え、えっと……あ、ありがとうございます……」
声は小さく、途中で少し裏返った。
男には聞こえたのか分からない。
けれど男は片手を上げ、そのまま通り過ぎていった。
荷車の音が遠ざかる。
アリシアはその場で固まった。
「……しゃべれた」
小さく呟く。
ノアが横を見る。
「噛んでないわね」
「うん……」
「声は小さかったけど」
「うん……」
「でも、初回にしては上出来」
アリシアはノアを見た。
「本当?」
「ええ」
胸が、じんわり温かくなった。
知らない人と話せた。
たった一言。
それだけ。
でも、アリシアにとっては、とても大きな一歩だった。
「ノア」
「何?」
「私……ちょっとだけ、進めた?」
ノアは少し間を置いた。
それから、尻尾を揺らして言った。
「一歩分くらいはね」
「そっか」
「だから止まらない」
「うん」
アリシアは前を見る。
街道は遠くまで続いている。
その先に宿場町があり、馬車があり、中央都市があり、学園がある。
まだ見えない。
想像もつかない。
けれど、道は繋がっている。
アリシアはもう一度、守り袋に触れた。
祖父の手。
家の温もり。
山の匂い。
ノアの声。
全部を胸に抱いて、アリシアは歩き出した。
山の奥で育った少女は、まだ世界を知らない。
自分が何を継いだのかも、本当の意味では知らない。
五大国のことも。
六つ目の存在が何を意味するのかも。
学園で誰と出会うのかも。
何も知らない。
ただ、怖がりで、人見知りで、すぐ謝ってしまう少女が、黒猫の神獣と共に、初めて世界へ踏み出した。
足はまだ震えている。
声もまだ小さい。
それでも。
アリシアは歩いていた。
「ねえ、ノア」
「今度は何?」
「宿場町って……人、いっぱいいる?」
「いるでしょうね」
「……帰りたくなってきた」
「早い」
「だって……」
「蹴るわよ」
「歩きます……」
「よろしい」
ノアの声に背中を押されながら、アリシアは街道を進んだ。
空は高く、知らない世界は広かった。
そしてその広さに怯えながらも、アリシアの胸の奥には、小さな光が灯っていた。
帰る場所がある。
待っていてくれる人がいる。
隣には、口の悪い黒猫がいる。
だから、進める。
一歩だけ。
次の一歩だけ。
その繰り返しで、きっとどこかへ辿り着ける。
アリシアはそう信じて、初めての道を歩き続けた。




