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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第2話 世界へ



 荷造りというものを、アリシアはほとんどしたことがなかった。


 旅に出たことがない。


 山を下りたことも、数えるほどしかない。


 それも祖父と一緒に、近くの小さな集落へ必要なものを受け取りに行く程度だった。知らない人の声が少し聞こえるだけで胸が縮み、店の人に「こんにちは」と言われただけで声が裏返った。


 だから、外の世界へ行くための荷造りなど、何から手をつければいいのか分からない。


 アリシアは自室の真ん中に座り込んでいた。


 膝の前には、開いたままの布袋がある。


 その周りに、服、本、古いノート、小さな裁縫箱、木の櫛、干し果物を入れる小袋などが散らばっていた。


 何を持っていけばいいのか分からない。


 何を置いていけばいいのかも分からない。


 分からないから、結局、全部必要な気がしてくる。


「……これも、いるかな」


 アリシアは古びた本を手に取った。


 表紙は擦り切れて、角が少し丸くなっている。昔、祖父がくれた文字の練習用の本だった。もう中身はほとんど覚えている。持っていく必要はない。


 ない、はずなのに。


 指が離れなかった。


「それはいらないわね」


 背後から声がした。


「ひゃっ」


 アリシアは肩を跳ねさせた。


 振り返ると、窓際にノアが座っていた。


 黒い毛並みに朝の光が当たり、輪郭だけが柔らかく浮かんでいる。金色の瞳が、散らかった部屋をじっと見ていた。


「ど、どうしてそこに……」


「歩いてきたのよ」


「扉、閉まってたよ……?」


「猫は通れるの」


「猫じゃないって言ってたのに……」


 思わず口にしてしまってから、アリシアは慌てて両手で口を押さえた。


 ノアの耳がぴくりと動く。


 じろり、と見られる。


「言うようになったじゃない」


「ご、ごめ……じゃなくて……えっと……」


「そこで詰まるのがあんたらしいわね」


 ノアは窓枠から床へ飛び降りた。


 音もなく着地し、散らばった荷物のあいだをゆっくり歩く。


 その足取りは、ここが自分の家であるかのように自然だった。


 アリシアは少し不思議な気持ちになった。


 ノアと出会って、まだ半日も経っていない。


 それなのに、部屋の中にノアがいることが、妙にしっくりくる。


 前からいたような。


 いなかったことの方が不自然だったような。


 そんな感覚があった。


「で、あんたは何をしているの?」


「荷造り……の、つもり」


「つもりね」


 ノアは床を見渡した。


「これは荷造りじゃなくて、思い出の発掘作業よ」


「う……」


「外に行くのに、そんな古い本を何冊も抱えてどうするの」


「で、でも、これはおじいちゃんがくれた本で……」


「置いていきなさい」


「で、でも……」


「帰ってくればまた読めるでしょう」


 帰ってくれば。


 その言葉に、アリシアの手が止まった。


 帰ってくる。


 そうだ。


 別に、永遠にここを離れるわけではない。


 祖父も言っていた。


 帰る場所はここにある、と。


 それなのに、アリシアの胸はずっと落ち着かなかった。何かを置いていくことが、そのまま失うことのように思えていた。


 ノアはアリシアを見上げた。


「あんた、今、全部最後みたいな顔してるわよ」


「……そんな顔、してる?」


「してる」


「……」


「まったく。十六歳にもなって、荷物と別れの区別もつかないの?」


「うぅ……」


 言い方はきつい。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 ノアはアリシアの膝の前に座った。


「いい? 外に持っていくものは三つに分けなさい」


「三つ?」


「必要なもの。役に立つもの。心が折れそうな時に握るもの」


 アリシアは瞬きをした。


 思っていたより、ちゃんとした助言だった。


 ノアは尻尾を揺らす。


「服は必要なもの。本は必要ない。裁縫箱は役に立つ。干し果物も役に立つ。古い練習帳は……」


 ノアは本を一瞥した。


「心が折れそうな時に握るもの、に入れてもいいわ」


「え……いいの?」


「一冊だけならね」


 アリシアは本を胸に抱いた。


「ありがとう、ノア」


「礼を言うほどじゃないわ」


「でも、嬉しい」


「……そう」


 ノアは顔をそらした。


 耳の先がほんの少しだけ動いている。


 怒っているわけではなさそうだった。


 アリシアは少し笑いそうになり、慌てて表情を整えた。笑ったらまた何か言われる気がしたからだ。


 それから、二人で荷物を分け始めた。


 服は二組。


 薄手の上着。


 祖父が用意してくれた丈夫な靴下。


 小さな裁縫箱。


 薬草を乾かした袋。


 干し果物。


 水筒。


 祖父が削ってくれた木の櫛。


 そして、古い練習帳を一冊。


 それでも袋はすぐに膨らんだ。


「多い?」


「初めての旅ならこんなものね」


「ノアは何か持っていかなくていいの?」


「私は身一つで十分よ」


「すごい……」


「まあ、あんたと違って無駄に不安を詰め込まないからね」


「う……」


 アリシアは布袋の口を結んだ。


 ぎゅっと力を入れる。


 結び目を見つめる。


 たったそれだけのことなのに、胸の奥がまた重くなった。


 荷造りが終わってしまった。


 終わらなければ、まだ出発しなくて済む気がしていた。


 けれど、終わってしまった。


 ノアは何も言わず、そっとアリシアの隣に座った。


 その沈黙が、さっきまでの軽口よりも優しかった。


 アリシアは布袋の上に手を置いた。


「……本当に、行くんだね」


「そうね」


「私、ちゃんとできるかな」


「できるかどうかじゃないわ」


「え?」


「やるのよ」


 ノアは正面を向いたまま言った。


「できるようになるまで、やるの」


 アリシアはその横顔を見た。


 小さな黒猫なのに、その言葉は不思議と大きく聞こえた。


「……うん」


「声が小さい」


「うん」


「まだ小さい」


「うんっ」


「よろしい」


 ノアは満足そうに頷いた。


 その時、部屋の外から祖父の声が聞こえた。


「アリシア」


「は、はい」


「準備はできたか」


 アリシアは布袋を見た。


 それからノアを見た。


 ノアが顎を少し上げる。


「行きなさい」


「……うん」


 アリシアは布袋を抱え、部屋を出た。


 廊下の木の床が、ぎし、と小さく鳴る。


 この音も、何度も聞いてきた。


 朝も、昼も、夜も。


 眠れない夜、祖父の部屋へ向かった時も。


 転んで膝を擦りむき、泣きながら戻ってきた時も。


 祖父に褒められて、嬉しさを隠しきれずに駆け込んだ時も。


 全部、この床の音があった。


 アリシアは思わず足を止めた。


 ノアが隣に来る。


「今度は何?」


「……床の音、覚えておこうと思って」


 ノアは呆れたような、でも少しだけ柔らかいような顔をした。


「本当に面倒な子ね」


「ごめ……」


「謝らない」


「……うん」


「覚えたいなら覚えなさい。そういうのは、荷物にならないから」


 アリシアはノアを見下ろした。


 胸の奥が少し温かくなった。


「うん」


 居間に行くと、祖父は椅子に座っていた。


 机の上には、広げられた地図と、小さな革袋が置かれている。


 地図は古そうだった。


 アリシアが本で見たどの地図よりも細かく、そして見慣れない線がいくつも引かれている。


 祖父はアリシアを見ると、黙って向かいの椅子を示した。


 アリシアは座った。


 ノアは迷わず机の上に飛び乗ろうとした。


「ノア」


 アリシアが小さく呼ぶ。


 ノアは動きを止めた。


「テーブルの上は、今日だけって……」


「まだ今日よ」


「た、確かに……」


「甘いわね、アリシア」


 ノアは堂々と机の端に座った。


 祖父は何か言いたげに見たが、結局黙った。


 昨日までなら、アリシアはそんな光景を想像もしなかっただろう。


 祖父と、自分と、喋る黒猫。


 それが今、当たり前のように同じ机を囲んでいる。


 不思議で、少しおかしくて、けれど胸が締めつけられるほど大切に思えた。


「アリシア」


 祖父が地図を指差した。


「ここが、今いる山だ」


 アリシアは地図を覗き込んだ。


 細い山脈が連なり、その奥に小さな印がついている。


「こんなところに……」


「外の者には見えん場所だ」


「見えない?」


「結界がある」


 祖父は静かに言った。


 アリシアは息を飲んだ。


 結界。


 本で読んだことはある。


 特別な場所や建物を隠したり、守ったりする術だ。


 でも、それが自分の暮らしてきた場所に張られているなど、考えたこともなかった。


「だから、誰もここに来なかったの?」


「ああ」


「私たちだけだったのも……?」


「そうだ」


 祖父の答えは短かった。


 けれど、その短さの中に長い時間があった。


 アリシアは地図を見つめる。


 自分が知っている世界は、この小さな印の中だけだった。


 けれど地図は、その何十倍、何百倍もの広さを持っている。


 山の外には森があり、街道があり、川があり、国境があり、大きな都市がある。


 そして、五つの大国。


 地図の上で、それらは星の形を描くように配置されていた。


 火。


 水。


 風。


 土。


 光。


 それぞれの国の名は、アリシアも本で読んだことがある。


 けれど、祖父から直接教わると、紙の上の文字ではなく、本当に存在するものとして迫ってくる。


「五つの大国は、千年前に建てられた」


「六聖人……だよね」


 アリシアは小さく言った。


 祖父に教わった歴史。


 魔族との大きな戦い。


 神々に選ばれた聖人たち。


 人類を導き、魔王を退けた英雄。


 けれど、外の本には五聖人と書かれていた。


 祖父は必ず、六聖人と言った。


 幼い頃のアリシアは、それを不思議に思いながらも、深くは聞かなかった。


 祖父が言うなら、きっとそうなのだろう。


 その程度にしか考えていなかった。


 今になって、その違いが重みを持つ。


「外の世界では、五聖人と教えられている」


 祖父が言った。


「……うん」


「五つの神器。五つの神獣。五つの大国。それが常識だ」


 アリシアはノアを見る。


 ノアは黙っていた。


 いつもの皮肉もない。


 金色の瞳が、地図をじっと見つめている。


「だが、実際には六つあった」


 祖父はアリシアを見た。


「お前が継いだものが、その六つ目だ」


 アリシアの手が膝の上で強く握られた。


 分かっていた。


 昨日の儀で、何か特別なものを受け継いだのだと。


 けれど、言葉にされると、怖さが増した。


「私が……六つ目……」


「そうだ」


「でも、外では知られてないんだよね」


「ああ」


「じゃあ……私が行ったら、変に思われる?」


 祖父はすぐには答えなかった。


 それが答えだった。


 アリシアの肩が少し落ちる。


 ノアが尻尾で机を軽く叩いた。


「変に思われるどころじゃないわね」


「ノア……」


「でも、あんたは最初から神器を見せるわけじゃない」


「神器……」


 アリシアは首を傾げた。


「そういえば、継承の儀で何も出なかったよね」


「当然よ」


「当然なの?」


「今のあんたに扱わせるわけないでしょう」


「う……」


 ノアの言葉は容赦なかった。


 けれど、祖父も否定しない。


「お前は、契約を継いだ」


 祖父が言う。


「だが、神器そのものはまだ眠っている」


「眠ってる……」


「お前がいずれ、その器になった時に目覚める」


「器……」


 アリシアには難しかった。


 器になる。


 つまり、今の自分では足りないということだ。


 不思議と、悔しさより安心が勝った。


 今すぐ伝説の武器を渡されても、どうしていいか分からない。


 ノアが言う通り、きっと振り回されるだけだ。


「じゃあ、私は学園で……何をすればいいの?」


「学びなさい」


 祖父は言った。


「外の世界を。人を。魔法を。歴史を。そして、自分自身を」


「自分自身……」


「お前は山で育った。剣は教えた。生きる術も教えた。だが、人の中で生きる術は、ここでは教えきれん」


 アリシアは俯いた。


 それは、自分でも分かっていた。


 祖父となら話せる。


 ノアとも、なぜか話せる。


 けれど知らない人は怖い。


 自分が何を言えばいいのか分からない。


 相手が何を考えているのかも分からない。


 笑われるかもしれない。


 嫌われるかもしれない。


 迷惑をかけるかもしれない。


 考えれば考えるほど、言葉が喉で詰まる。


「私……友達とか、できるかな」


 自然とそんな言葉がこぼれた。


 言ってから、恥ずかしくなる。


 十六歳にもなって、何を言っているのだろう。


 けれど祖父は笑わなかった。


 ノアも、からかわなかった。


 祖父は少しだけ目を細めた。


「できる」


「本当に?」


「ああ」


「でも、私……」


「アリシア」


 祖父の声が穏やかに遮った。


「友とは、上手く話せる者だけが得るものではない」


「……」


「不器用でも、誠実であればいい」


 アリシアは膝の上の手を見つめた。


 誠実。


 自分にできるだろうか。


 上手く話すことはできない。


 気の利いた言葉も言えない。


 でも、嘘をつかないことならできるかもしれない。


 相手を傷つけたくないと思うことなら、できるかもしれない。


「まあ、最初は盛大に噛むでしょうね」


 ノアが言った。


 アリシアは顔を上げる。


「ノア……」


「自己紹介で名前を言うだけで固まるに一票」


「ひどい……」


「現実的と言いなさい」


「うぅ……」


「でも、それでいいのよ」


 ノアは尻尾を揺らした。


「完璧な初対面なんて、後から思い出しても面白くないわ」


「面白さ、いるの……?」


「いるわよ。私が退屈しない」


「ノアのため?」


「そう」


 堂々と言い切るノアに、アリシアは困った顔をした。


 けれど、胸の重さは少しだけ軽くなっていた。


 祖父は地図の中央を指した。


 五大国を結ぶ線の交点。


 星の中心。


「ここが中央都市だ」


「中央都市……」


「どの国にも属さぬ中立地。五大国が共同で守り、共同で運営している」


「そこに、学園があるんだよね」


「ああ。中央学園。各国から、選ばれた若者が集まる場所だ」


 選ばれた若者。


 アリシアの胸がまた少し縮む。


 そんな人たちの中に、自分が入る。


 想像しただけで、足元がふわつきそうだった。


「私、本当に入れるの?」


「入学の手続きは済ませてある」


「えっ」


 アリシアは思わず祖父を見た。


「いつの間に?」


「前からだ」


「前から……」


 つまり、祖父はずっと決めていた。


 アリシアが十六になったら継承の儀を行い、学園へ送ることを。


 それを知らなかったのは、自分だけだった。


 少し寂しいような。


 少し腹立たしいような。


 でも、それ以上に、祖父がどれほど長く準備してくれていたのかを思って、胸が詰まった。


「どうやって……?」


「古い伝手がある」


「おじいちゃん、外に知り合いがいたの?」


「少しはな」


「知らなかった……」


「話していなかった」


「……」


 アリシアは祖父をじっと見た。


 祖父には、アリシアの知らない顔がたくさんある。


 当たり前だ。


 祖父はアリシアが生まれる前から生きている。


 長い時間を、ひとりで、あるいは誰かと共に過ごしてきた。


 そのすべてをアリシアが知っているはずがない。


 それでも、今日になってそのことを強く感じる。


 少し寂しい。


 祖父が遠く見える。


「むくれない」


 ノアが言った。


「む、むくれてない」


「むくれてるわよ」


「だって……」


「言いなさい」


 アリシアは少し迷った。


 祖父を見る。


 祖父は黙って待っていた。


 アリシアは膝の上で手を握り、言った。


「私だけ……知らなかったんだなって」


 声は小さい。


 でも、消えなかった。


「おじいちゃんは、ずっと準備してくれてたのに……私は、何も知らなくて……」


「そうだな」


 祖父は認めた。


 言い訳をしなかった。


 それがまた、胸に響いた。


「すまなかった」


「え……」


 アリシアは顔を上げた。


 祖父が頭を下げていた。


 ほんのわずかに。


 けれど確かに。


「お、おじいちゃん、やめて……」


「知らせるべきこともあった。だが、幼いお前に背負わせるには重すぎた」


「……」


「私は、お前を守りたかった」


 祖父の声は静かだった。


「だが、守ることと隠すことは、時に同じではない」


 アリシアは何も言えなかった。


 怒りたいわけではない。


 責めたいわけでもない。


 ただ、自分が知らなかったことが寂しかった。


 祖父が自分を守ろうとしてくれていたことも分かる。


 だから余計に、何を言えばいいか分からない。


 沈黙が落ちた。


 ノアも何も言わなかった。


 机の上の地図が、窓から入る風でわずかに揺れる。


 外では鳥が鳴いている。


 いつもの山の音。


 でも、部屋の中の空気は、昨日までとは違った。


 アリシアはゆっくり息を吸った。


「……私、怒ってないよ」


「そうか」


「でも……ちょっと寂しかった」


 言えた。


 言った瞬間、胸の奥が少し痛んだ。


 祖父は目を伏せた。


「そうか」


「うん」


「覚えておく」


 その言葉が祖父らしかった。


 大げさな謝罪でも、慰めでもない。


 ただ、覚えておく。


 それだけ。


 けれどアリシアには、その言葉が嬉しかった。


 ノアが小さく息を吐く。


「ちゃんと言えたじゃない」


「……うん」


「上出来」


 アリシアはノアを見る。


「今度は聞こえた」


「わざと言ったのよ」


「そ、そうなんだ」


「褒められたら素直に受け取りなさい」


「……ありがとう」


 ノアは顔をそらした。


「別に」


 その仕草に、アリシアの口元が少し緩む。


 するとノアがすぐに振り返った。


「何笑ってるの」


「笑ってない」


「笑ってた」


「笑ってない……と思う」


「弱いわね、否定が」


 アリシアは困って、また少し笑った。


 祖父は地図を折り畳み、革袋をアリシアの方へ押した。


「これを持っていきなさい」


「これは?」


「路銀だ」


「お金……?」


「ああ。中央都市までの旅費と、しばらくの生活費だ」


 アリシアは革袋を両手で受け取った。


 ずしりとした重みがあった。


 思っていたより重い。


「こんなに……」


「必要になる」


「でも、おじいちゃんは……」


「私は困らん」


「本当に?」


「ああ」


 祖父の返答は揺るがなかった。


 けれどアリシアは不安だった。


 自分がいなくなった後、祖父はひとりになる。


 食事は?


 薪は?


 体調を崩したら?


 夜、誰が話し相手になるのだろう。


 そこまで考えて、アリシアは胸が苦しくなった。


「おじいちゃん、ひとりで大丈夫?」


 祖父は少し意外そうに瞬きをした。


 それから、かすかに笑った。


「それは私の台詞だ」


「でも……」


「私は長くひとりで生きてきた」


「それでも……」


 アリシアは言葉を詰まらせた。


 祖父は強い。


 何でもできる。


 アリシアよりずっと、ずっと大丈夫な人だ。


 それでも、心配だった。


 置いていくようで。


 ひとりにしてしまうようで。


 祖父はゆっくり手を伸ばし、アリシアの頭に置いた。


 大きな手だった。


 硬く、節くれ立っていて、何度も剣を握り、薪を割り、土を掘ってきた手。


 幼い頃から、泣いた時も、熱を出した時も、褒めてくれた時も、この手が頭に置かれた。


 アリシアは目を閉じた。


「私は大丈夫だ」


「……うん」


「だから、お前は自分の心配をしなさい」


「……うん」


「困ったら、ノアを頼れ」


 ノアが尻尾を揺らす。


「当然ね」


「ノア、頼っていいの?」


「頼られすぎるのは面倒だけど、倒れるまで我慢されるよりはましね」


「……それは、頼っていいってこと?」


「そう言ってるでしょう」


「分かりにくい……」


「慣れなさい」


 アリシアは小さく頷いた。


 祖父は手を離した。


 その瞬間、頭の上が少し寒くなったように感じた。


「出発は明日の朝だ」


 祖父が言った。


 アリシアは息を飲んだ。


「明日……」


「ああ」


 早い。


 そう思った。


 でも、今日中に出発しないだけまだ猶予があるとも思った。


 明日。


 明日の朝には、この家を出る。


 この山を下りる。


 祖父と別れる。


 言葉にすると、現実が少しずつ形を持ち始めた。


「今日は、準備をしなさい」


「……うん」


「それと、よく見ておきなさい」


「え?」


「この家を。この山を。自分の帰る場所を」


 アリシアは祖父を見た。


 祖父の目は穏やかだった。


「忘れないためではない。迷った時に、思い出せるように」


「……うん」


 アリシアは頷いた。


 その日は、不思議な一日だった。


 何か特別なことをしたわけではない。


 荷物を整え、服を畳み、必要なものを確認した。


 祖父と一緒に昼食を食べた。


 ノアは当たり前のようにアリシアの椅子の隣に座り、干し肉を少しだけもらっていた。


「神獣って、干し肉食べるんだ……」


 アリシアが呟くと、ノアは当然のように言った。


「食べるわよ。美味しいもの」


「神獣なのに?」


「神獣だからって霞だけ食べて生きてると思った?」


「ちょっと……思ってた」


「本の読みすぎね」


 アリシアは恥ずかしくなって、スープに視線を落とした。


 祖父は静かに干し肉をもう一切れノアの皿に置いた。


「おじいちゃん、甘い」


「出発前だからな」


「ノアが太ったらどうするの?」


「誰が太るって?」


「ご、ごめんなさい」


「ほらまた謝る」


 そんなやり取りをしながら、時間はゆっくり過ぎていった。


 夕方、アリシアは家の周りを歩いた。


 ノアも隣を歩く。


 祖父は来なかった。


 行ってきなさい、とだけ言った。


 アリシアは、いつも通る小道を歩いた。


 水を汲みに行く道。


 薬草を摘みに行く道。


 幼い頃、迷子になりかけて泣いた場所。


 木の根につまずいて転んだ場所。


 祖父に初めて褒められた広場。


 どこも特別な景色ではない。


 でも、アリシアには全部が大切だった。


 夕日が木々の間から差し込み、地面に長い影を落としている。


 風が吹くと、葉がざわめいた。


 山はいつも通りだった。


 アリシアが旅立とうが、泣きそうになろうが、怖がろうが、山は変わらない。


 それが少し寂しく、同時に少し安心した。


「静かな場所ね」


 ノアが言った。


「うん」


「悪くないわ」


「ノアは、ここを知ってたの?」


「知っていた、とも言えるし、知らなかったとも言えるわね」


「難しい……」


「今のあんたにはね」


「またそれ……」


「事実よ」


 ノアは前を向いたまま歩く。


 アリシアはその隣を歩く。


 並んで歩く相手がいる。


 それだけで、山道が少し違って見えた。


「ノア」


「何?」


「私が小さい頃から、ノアはいたの?」


 ノアは少しだけ足を止めた。


 アリシアも立ち止まる。


 夕日がノアの黒い毛並みを照らしている。


 ノアはしばらく黙っていた。


「見てはいたわ」


「見てた?」


「ずっとではないけれどね」


「じゃあ、私が転んで泣いてたのも?」


「見たことはあるわね」


「えぇ……」


 アリシアは顔を赤くした。


「夜の風の音で布団かぶってたのも?」


「それは知らないわ」


「よかった……」


「でも今聞いたわ」


「あっ」


 ノアがにやりとしたように見えた。


 アリシアは両手で顔を覆う。


「忘れて……」


「考えておくわ」


「絶対忘れないやつ……」


「よく分かってるじゃない」


 ノアの声には、少し楽しげな響きがあった。


 アリシアは恥ずかしかったが、不思議と嫌ではなかった。


 見られていた。


 弱いところも、情けないところも。


 それでもノアは契約した。


 名前を受け取ってくれた。


 そのことが、ほんの少しだけアリシアを支えていた。


「じゃあ……ノアは、私のこと嫌じゃないの?」


 言ってから、アリシアはしまったと思った。


 面倒なことを聞いてしまった気がした。


 でも、聞きたかった。


 ノアはアリシアを見上げた。


「嫌だったら契約しないわよ」


「そ、そうだよね」


「ほんと、面倒な子」


「ごめ……」


「謝らない」


「……うん」


 ノアは少し歩いてから、ぽつりと言った。


「あんたは手がかかりそうだけど」


「うん……」


「退屈はしなさそうね」


 アリシアはノアを見た。


 それは褒め言葉なのか分からない。


 けれど、少し嬉しかった。


「……ありがとう」


「別に褒めてないわよ」


「でも、嬉しかったから」


「変な子」


 ノアは尻尾を立てて歩き出した。


 アリシアはその後を追った。


 夕暮れの山道を、二人で歩く。


 明日には、この道を通って山を下りる。


 それを思うと、胸がまた締めつけられる。


 でも、ノアがいる。


 ひとりではない。


 その事実を、アリシアは何度も胸の中で繰り返した。


 夜。


 家の中は、いつもより静かだった。


 夕食は祖父が作った。


 山菜の煮込みと、焼いた魚。


 アリシアの好物だった。


 食卓にはノアもいた。


 祖父は最初からノアの分の小皿を用意していた。


 ノアはそれを見て、少しだけ目を細めた。


「気が利くわね」


「客人だからな」


「客人扱いなの?」


 アリシアが聞くと、祖父は少し考えて言った。


「家族扱いでもいい」


 その言葉に、アリシアの手が止まった。


 ノアもまた、一瞬だけ動きを止めた。


 ほんの一瞬。


 けれどアリシアには分かった。


 ノアは何かを感じた。


 けれど、すぐにそっぽを向いた。


「なら、干し魚をもう少しもらってもいいかしら」


「ノア……」


「家族なら遠慮はいらないでしょう」


 祖父は静かに干し魚を追加した。


 アリシアは少し笑った。


 笑うと、寂しさがこぼれそうになった。


 だから、慌てて魚を口に運ぶ。


 味がした。


 いつもの味。


 祖父の料理。


 明日からは、しばらく食べられない味。


 そう思った瞬間、喉が詰まった。


 アリシアは必死に飲み込んだ。


 涙が出ないように、器を見つめる。


 祖父は何も言わなかった。


 ノアも、何も言わなかった。


 ただ、三人で食事を続けた。


 その沈黙は、温かくて、苦しかった。


 食後、祖父はアリシアに小さな包みを渡した。


「これは?」


「守り袋だ」


 布で作られた小さな袋だった。


 中に何か硬いものが入っている。


「開けてもいい?」


「ああ」


 アリシアは慎重に紐をほどいた。


 中に入っていたのは、小さな木片だった。


 ただの木片ではない。


 表面に、細かな文様が彫られている。


 祖父の手で彫られたものだと、すぐに分かった。


「これは……」


「迷わぬための印だ」


「お守り?」


「そう思っていい」


 アリシアは木片を両手で包んだ。


 温かい気がした。


 祖父の手の温もりが残っているようだった。


「ありがとう……」


「肌身離さず持っていなさい」


「うん」


「困った時、怖くなった時、帰る場所が分からなくなった時は、それを握れ」


 アリシアは頷いた。


 言葉にすると泣きそうだった。


 だから、頷くだけにした。


 ノアが木片を覗き込む。


「丁寧な仕事ね」


「昔取った杵柄だ」


「ふぅん」


 ノアはそれ以上何も言わなかった。


 けれど、その目はどこか真剣だった。


 夜が深くなる。


 アリシアは自室に戻った。


 布袋は扉の近くに置いてある。


 明日の朝、すぐに持って出られるように。


 それを見るたび、胸がざわつく。


 寝台に座ると、ノアが当然のように枕元へ飛び乗った。


「ノア、ここで寝るの?」


「他にどこで寝るの」


「えっと……客間?」


「私をひとりで寝かせる気?」


「そ、そんなつもりじゃ……」


「ならここね」


 ノアは丸くなった。


 アリシアは少し戸惑いながらも、布団に入った。


 枕元にノアがいる。


 黒い小さな背中が、規則正しく上下している。


 それを見ていると、不安が少し和らいだ。


「ノア」


「何?」


「明日……起きられるかな」


「そこ?」


「だって、寝られないかも」


「寝なさい」


「でも……」


「寝不足で山を下りる気?」


「う……」


「目を閉じる」


「はい……」


 アリシアは目を閉じた。


 けれど、すぐには眠れなかった。


 明日のことが頭の中を回る。


 山を下りる。


 知らない道を歩く。


 人のいる場所へ行く。


 中央都市。


 学園。


 友達。


 授業。


 知らない人たち。


 祖父と離れる。


 胸が苦しくなって、アリシアは目を開けた。


 すると、ノアがこちらを見ていた。


「眠れない顔ね」


「……うん」


「まったく」


 ノアは立ち上がり、アリシアの胸元まで歩いてきた。


 そして、布団の上に丸くなった。


 小さな重みが胸に乗る。


 温かい。


「これで寝なさい」


「重くないよ」


「失礼ね。重いとは言ってないでしょう」


「ふふ……」


「何笑ってるの」


「なんでもない」


「変な子」


 ノアはそう言いながらも、動かなかった。


 アリシアはノアの背にそっと手を置いた。


 柔らかい。


 温かい。


 心臓の音が少し落ち着いていく。


「ノア」


「今度は何?」


「明日、怖くなったら……」


「蹴るわよ」


「えっ」


「足が止まったら、後ろから蹴る」


「ひどい……」


「倒れそうなら支える。泣きそうなら待つ。でも、逃げるために立ち止まるなら蹴る」


 ノアの声は静かだった。


「それが私の役目よ」


 アリシアは目を閉じた。


 胸が温かかった。


「……ありがとう」


「だから礼を言うほどじゃないわ」


「でも、言いたいから」


「好きにしなさい」


「うん」


 今度こそ、眠気が少しずつ近づいてきた。


 ノアの温もり。


 祖父の守り袋。


 家の匂い。


 山の夜の静けさ。


 全部を抱えたまま、アリシアは眠りに落ちた。


 翌朝。


 空はまだ薄く白んだばかりだった。


 アリシアは、思っていたよりもすぐに目を覚ました。


 眠りが浅かったのかもしれない。


 けれど、不思議と頭は重くなかった。


 胸は緊張している。


 でも、昨日ほど足元が崩れるような感じはない。


 枕元を見ると、ノアがこちらを見ていた。


「起きた?」


「うん……おはよう、ノア」


「おはよう」


 自然に挨拶が返ってきた。


 それだけで、アリシアの胸が少し軽くなる。


 着替えを済ませ、髪を結ぶ。


 守り袋を首から下げる。


 服の下にしまうと、胸元に小さな重みが残った。


 布袋を肩にかける。


 重い。


 けれど、持てないほどではない。


 部屋を見回す。


 寝台。


 机。


 本棚。


 窓。


 昨日まで当たり前だった景色。


 アリシアはゆっくり息を吸った。


「……行ってきます」


 小さく言った。


 誰に向けたのか、自分でも分からなかった。


 部屋に。


 昨日までの自分に。


 それとも、ここで過ごした時間に。


 ノアは何も言わず、扉の方へ歩いた。


 居間には祖父がいた。


 すでに支度を済ませている。


 机には朝食が並んでいた。


 簡単なものだった。


 パンとスープ。


 けれど、スープにはアリシアの好きな山菜が入っていた。


 アリシアは椅子に座る。


 祖父も座る。


 ノアも椅子の上に飛び乗る。


 三人で朝食を食べた。


 会話は少なかった。


 でも、それでよかった。


 言葉を増やせば、何かがこぼれてしまいそうだった。


 スープを飲む。


 温かい。


 祖父の味。


 アリシアはゆっくり噛みしめた。


 食事が終わると、祖父は立ち上がった。


「行くか」


 その一言で、時間が動いた。


 アリシアも立ち上がる。


 布袋を肩にかける。


 ノアはアリシアの足元に来た。


 家を出る前に、アリシアはもう一度中を振り返った。


 机。


 椅子。


 台所。


 壁にかかった道具。


 窓から差し込む朝の光。


 全部が、昨日までと同じ。


 アリシアは唇を噛んだ。


 泣きそうになる。


 でも、まだ泣かない。


「アリシア」


 祖父が呼んだ。


「……うん」


 外へ出る。


 朝の空気が冷たかった。


 山道には薄い霧がかかっている。


 鳥が鳴いていた。


 昨日と同じ音。


 でも今日は、旅立ちの日の音だった。


 祖父は家の前に立ち、アリシアに向き直った。


「ここから先、私は途中までしか送らん」


「うん」


「山を下りれば、街道に出る。そこを東へ進めば、小さな宿場町がある」


「宿場町……」


「そこで乗合馬車に乗りなさい。中央都市へ向かう便がある」


「ひ、一人で乗れるかな」


「乗れる」


 祖父は即答した。


 ノアも言う。


「乗れなかったら、私が喋るわ」


「それはそれで騒ぎにならない?」


「なら、あんたが喋りなさい」


「うぅ……」


「練習ね」


 アリシアは不安になった。


 でも、少しだけ笑った。


 祖父は歩き始めた。


 アリシアはその隣ではなく、少し後ろを歩いた。


 いつもの距離。


 幼い頃からずっとそうだった。


 祖父の背中を見て歩く。


 安心できる距離。


 けれど今日、その背中を見ていると胸が痛くなる。


 この背中を、いつまで見られるのだろう。


 山道を下る。


 木々の間を抜ける。


 朝露に濡れた草が靴に触れる。


 小さな虫が飛び、遠くで水の音がする。


 ノアはアリシアの隣を歩いていた。


 時々、足場の悪い場所で立ち止まり、アリシアを振り返る。


「そこ、滑るわよ」


「うん」


「右の石に足を乗せなさい」


「うん」


「荷物に振られすぎ」


「うぅ……」


 口調は厳しい。


 でも、ずっと見てくれている。


 アリシアはそれが嬉しかった。


 しばらく歩くと、森が少し開けた場所に出た。


 そこは、アリシアが小さい頃から何度も来たことのある場所だった。


 山の外へ続く道の手前。


 祖父はそこで足を止めた。


 アリシアも止まった。


 分かった。


 ここまでだ。


 この先は、アリシアが進む道。


 祖父は振り返った。


 朝の光が祖父の白髪を照らしている。


 いつもより年老いて見えた。


 そう思った瞬間、胸がぎゅっと痛んだ。


「アリシア」


「……はい」


「ここで別れだ」


 覚悟していた。


 それでも、言葉にされると涙が込み上げた。


 アリシアは必死に堪えようとした。


 けれど、視界が滲む。


「おじいちゃん……」


「何だ」


「私……」


 言葉が詰まった。


 言いたいことはたくさんあった。


 ありがとう。


 行ってきます。


 怖い。


 寂しい。


 置いていきたくない。


 ちゃんと帰ってくる。


 全部が喉の奥で絡まって、声にならない。


 祖父は待っていた。


 急かさず。


 責めず。


 いつものように。


 アリシアは袖で目元を押さえた。


「私……ちゃんと、行ってくる」


「ああ」


「ちゃんと、学ぶ」


「ああ」


「たぶん、いっぱい失敗する」


「するだろうな」


「そこは否定してほしかった……」


 涙声のまま言うと、祖父は少し笑った。


「失敗していい」


「うん……」


「泣いてもいい」


「うん……」


「だが、逃げて終わるな」


 祖父の声が、静かに胸へ届く。


「怖くても、一歩だけ進みなさい」


「……うん」


「一歩進めば、次の一歩が見える」


 アリシアは頷いた。


 涙がこぼれた。


 もう止められなかった。


 祖父は大きな手を伸ばし、アリシアの頭に置いた。


 昨日と同じ手。


 温かい。


 ずっと、自分を守ってくれた手。


「お前は、私の自慢の孫だ」


 その一言で、アリシアは泣いた。


 声を出さないようにしていたのに、堪えきれなかった。


「おじいちゃん……っ」


 アリシアは祖父に抱きついた。


 布袋が肩からずれた。


 祖父の胸は硬く、温かかった。


 幼い頃から何度も抱きしめてくれた腕が、今日もアリシアの背に回る。


 強くはない。


 けれど、確かに包んでくれる。


「行きたくない……」


 思わず言ってしまった。


 言ってはいけないと思っていた。


 でも、言葉がこぼれた。


「怖い……離れたくない……」


 祖父は黙って聞いていた。


 ノアも何も言わなかった。


 山の風だけが、二人の周りを通り過ぎる。


「それでも、行くんだな」


 祖父が言った。


 アリシアは泣きながら頷いた。


「……行く」


「そうか」


「行って……ちゃんと帰ってくる」


「ああ」


「絶対、帰ってくる」


「ああ。待っている」


 待っている。


 その言葉が、アリシアの背中を支えた。


 帰る場所がある。


 待っていてくれる人がいる。


 それだけで、足は少しだけ前へ動ける。


 アリシアはゆっくり祖父から離れた。


 涙を拭う。


 目元は赤いだろう。


 顔もぐしゃぐしゃかもしれない。


 でも、もういいと思った。


 ノアが近づいてきた。


「ひどい顔」


「うぅ……」


「でも、悪くないわ」


「……それ、褒めてる?」


「少しね」


 アリシアは泣きながら笑った。


 ノアは祖父を見た。


「この子は私が見るわ」


 その声は、いつもの軽口ではなかった。


 静かで、まっすぐだった。


 祖父はノアに向かって深く頷いた。


「頼む」


「頼まれたわ」


 短い言葉。


 けれど、そのやり取りには、アリシアの知らない重みがあった。


 神獣と、祖父。


 きっと二人には、アリシアが知らない何かがある。


 けれど今は、聞かなかった。


 祖父はアリシアに小さな木刀を渡した。


 旅用に少し短く調整されたものだった。


 アリシアが長年使ってきた稽古用の木刀ではない。


 けれど、握った瞬間、手になじむのが分かった。


「これは……」


「持っていきなさい」


「いいの?」


「ああ」


「でも、学園には本物の剣とか、魔法とか……」


「お前の剣は、まずそれでいい」


 祖父は言った。


「刃を持つ前に、己を持て」


「……うん」


 アリシアは木刀を抱きしめた。


 少し恥ずかしかった。


 でも、そうしたかった。


「ありがとう」


 祖父は頷いた。


「行きなさい」


 その言葉で、別れの時間が終わった。


 アリシアは布袋を肩にかけ直した。


 木刀を腰に差す。


 守り袋が胸元で揺れる。


 ノアが隣に立つ。


 アリシアは祖父を見た。


「行ってきます」


 声は震えていた。


 けれど、昨日よりも少しだけ大きかった。


 祖父は静かに言った。


「行ってこい、アリシア」


 アリシアは一歩、踏み出した。


 山の外へ続く道へ。


 二歩目。


 三歩目。


 振り返りたくなる。


 すぐにでも駆け戻りたくなる。


 けれど、ノアが隣を歩いている。


「背筋」


 小さな声。


 アリシアは涙を拭い、背筋を伸ばした。


 少し歩いてから、どうしても我慢できずに振り返った。


 祖父はまだそこにいた。


 まっすぐ立って、こちらを見ていた。


 アリシアは大きく手を振った。


 祖父も、小さく手を上げた。


 それだけだった。


 でも、それで十分だった。


 アリシアは前を向いた。


 道は下へ続いている。


 木々の間から、山の外の光が見えた。


 今まで見ていた森の光とは違う。


 広く、眩しく、少し怖い光。


 アリシアは息を吸った。


「ノア」


「何?」


「足、震えてる」


「見れば分かるわ」


「どうしよう」


「歩きなさい」


「うん……」


「震えながらでも歩けるでしょ」


 アリシアは自分の足を見た。


 確かに震えている。


 でも、歩ける。


 一歩。


 また一歩。


 祖父の言葉を思い出す。


 一歩進めば、次の一歩が見える。


 アリシアは山道を下り始めた。


 道は思っていたより長かった。


 木々の密度が少しずつ変わっていく。


 空が広くなる。


 風の匂いも変わる。


 山の湿った匂いに、乾いた土と遠い煙の匂いが混ざり始めた。


 人の暮らす場所が近いのだと、アリシアは感じた。


 そのたびに胸がどきどきする。


 ノアは時々、何でもない話をした。


「宿場町に着いたら、まず食事ね」


「えっ、もう?」


「旅は食べられる時に食べるものよ」


「そうなんだ……」


「あと、知らない人に荷物を預けない」


「うん」


「声をかけられても、すぐについていかない」


「うん」


「お菓子を出されても警戒しなさい」


「え……お菓子も?」


「あんたならお菓子で釣られそうだから」


「釣られないよ……たぶん」


「たぶんが余計」


 そんな会話をしながら進むうちに、アリシアの涙は乾いていった。


 寂しさは消えない。


 でも、歩いていると、ほんの少しだけ前を見る余裕が生まれる。


 山道の終わりに近づいた時、アリシアは足を止めた。


 目の前に、広い道があった。


 街道。


 本で見たことのある言葉が、現実として目の前に広がっている。


 土が踏み固められた幅の広い道。


 轍の跡。


 馬の蹄の跡。


 遠くに、小さな人影が見える。


 荷車を引く人。


 旅人らしき人。


 アリシアは息を止めた。


 人がいる。


 知らない人。


 それも、一人ではない。


 胸が急に縮こまる。


「ノ、ノア……」


「何」


「人がいる……」


「いるわね」


「どうしよう」


「どうもしないわよ。街道なんだから人くらいいる」


「で、でも、見られたら……」


「見られるでしょうね」


「ひゃ……」


 アリシアは木の陰に隠れかけた。


 その瞬間、ノアが後ろ足でアリシアの足首を軽く蹴った。


「痛っ」


「隠れない」


「で、でも……」


「背筋」


「うぅ……」


 アリシアは背筋を伸ばした。


 震えながら。


 ノアは満足そうに頷いた。


「いい? まず街道に出る。それから宿場町へ向かう。人とすれ違ったら、軽く会釈。それだけ」


「会釈……」


「声を出さなくてもいいわ」


「本当?」


「最初はね」


「よかった……」


「そのうち声も出すのよ」


「うぅ……」


 アリシアは深呼吸した。


 一度。


 二度。


 三度。


 それでも心臓はうるさい。


 でも、祖父の顔を思い出した。


 待っている。


 そう言ってくれた。


 アリシアは守り袋を服の上から握った。


 木片の感触が指に伝わる。


 大丈夫。


 怖い。


 でも、大丈夫。


「行こう、ノア」


「ええ」


 アリシアは山の影から一歩踏み出した。


 街道に出る。


 土の感触が少し違った。


 踏み固められていて、たくさんの人が通った跡がある。


 アリシアはその道の上に立った。


 初めて、自分の足で外の世界へ出た。


 遠くから、荷車を引いた男が近づいてくる。


 アリシアの体が固まる。


 男は大きな荷物を積んだ車を引きながら、ちらりとアリシアを見た。


 山から出てきた黒髪の少女。


 腰に木刀。


 足元に黒猫。


 珍しく見えたのか、男は少し目を丸くした。


 アリシアは息を止める。


 ノアが小さく言った。


「会釈」


「あっ」


 アリシアはぎこちなく頭を下げた。


 角度が深すぎた。


 ほとんど礼のようになった。


 男は一瞬きょとんとした後、笑った。


「おう、旅かい。気をつけな」


 明るい声だった。


 怒っていない。


 笑われたような気もするけれど、嫌な笑いではない。


 アリシアは慌てて顔を上げた。


「あ、え、えっと……あ、ありがとうございます……」


 声は小さく、途中で少し裏返った。


 男には聞こえたのか分からない。


 けれど男は片手を上げ、そのまま通り過ぎていった。


 荷車の音が遠ざかる。


 アリシアはその場で固まった。


「……しゃべれた」


 小さく呟く。


 ノアが横を見る。


「噛んでないわね」


「うん……」


「声は小さかったけど」


「うん……」


「でも、初回にしては上出来」


 アリシアはノアを見た。


「本当?」


「ええ」


 胸が、じんわり温かくなった。


 知らない人と話せた。


 たった一言。


 それだけ。


 でも、アリシアにとっては、とても大きな一歩だった。


「ノア」


「何?」


「私……ちょっとだけ、進めた?」


 ノアは少し間を置いた。


 それから、尻尾を揺らして言った。


「一歩分くらいはね」


「そっか」


「だから止まらない」


「うん」


 アリシアは前を見る。


 街道は遠くまで続いている。


 その先に宿場町があり、馬車があり、中央都市があり、学園がある。


 まだ見えない。


 想像もつかない。


 けれど、道は繋がっている。


 アリシアはもう一度、守り袋に触れた。


 祖父の手。


 家の温もり。


 山の匂い。


 ノアの声。


 全部を胸に抱いて、アリシアは歩き出した。


 山の奥で育った少女は、まだ世界を知らない。


 自分が何を継いだのかも、本当の意味では知らない。


 五大国のことも。


 六つ目の存在が何を意味するのかも。


 学園で誰と出会うのかも。


 何も知らない。


 ただ、怖がりで、人見知りで、すぐ謝ってしまう少女が、黒猫の神獣と共に、初めて世界へ踏み出した。


 足はまだ震えている。


 声もまだ小さい。


 それでも。


 アリシアは歩いていた。


「ねえ、ノア」


「今度は何?」


「宿場町って……人、いっぱいいる?」


「いるでしょうね」


「……帰りたくなってきた」


「早い」


「だって……」


「蹴るわよ」


「歩きます……」


「よろしい」


 ノアの声に背中を押されながら、アリシアは街道を進んだ。


 空は高く、知らない世界は広かった。


 そしてその広さに怯えながらも、アリシアの胸の奥には、小さな光が灯っていた。


 帰る場所がある。


 待っていてくれる人がいる。


 隣には、口の悪い黒猫がいる。


 だから、進める。


 一歩だけ。


 次の一歩だけ。


 その繰り返しで、きっとどこかへ辿り着ける。


 アリシアはそう信じて、初めての道を歩き続けた。

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