第1話 継承の日
朝の山は、静かだった。
静か、と言っても、何も聞こえないわけではない。
遠くで鳥が鳴いている。
まだ夜の名残を抱えた木々のあいだから、湿った風がゆっくりと流れてくる。葉と葉がこすれる音。どこかで小さな獣が草を踏む音。家の軒先から落ちた朝露が、ぽたり、と土に吸い込まれる音。
そういう小さな音が、いくつも重なっていた。
山の奥。
地図にも載らない場所。
外の世界から隔てられた、ひっそりとした土地に、その家は建っていた。
古びた木造の家だった。大きくはない。けれど、人が暮らすには十分で、冬の寒さにも、夏の湿気にも耐えてきた跡がある。柱には細かな傷があり、床板はところどころ色が濃い。台所からは、薪の匂いと、温め直したスープの匂いがしていた。
アリシアは、寝台の上で目を覚ました。
黒い髪が、頬に少し張りついている。
しばらく天井を見上げていた。
今日が何の日なのか、分かっていた。
だから、目を開けた瞬間から、胸の奥が落ち着かなかった。
「……起きなきゃ」
小さく呟く。
けれど、声は部屋の中に吸い込まれただけだった。
アリシアはゆっくり体を起こした。黒い瞳が、窓の外を見る。朝日がまだ弱く、山の輪郭は淡く霞んでいる。
いつもと同じ朝。
けれど、同じではない朝。
十六歳。
今日、アリシアは十六歳になる。
祖父は、昨日の夜から少しだけ口数が少なかった。
普段から多く喋る人ではない。けれど、それでもアリシアには分かった。長く一緒に暮らしていれば、声の間や、息の落とし方で、相手の心の重さくらいは伝わってくる。
祖父は何かを決めている。
そして、それはきっと、自分に関係がある。
アリシアは布団を畳み、着替えを済ませた。
黒髪を手櫛で整え、いつもの紐で緩くまとめる。鏡の中の自分は、少し頼りなく見えた。
細い肩。
白い肌。
黒い瞳。
山の外の人間を、アリシアはほとんど知らない。だから自分の容姿がどう見えるのかも、よく分からない。
ただ、祖父にはよく言われた。
背筋を伸ばせ。
目を伏せすぎるな。
声を腹から出せ。
アリシアは鏡の前で、少しだけ背筋を伸ばした。
「お、おはようございます……」
練習のつもりで言ってみる。
声が小さい。
アリシアは自分で自分に少し落ち込んだ。
「……もう一回」
息を吸う。
「おはようございます」
さっきよりは、少しだけましだった。
それでよしとすることにした。
部屋を出ると、台所の方から器を置く音が聞こえた。
祖父はすでに起きていた。
白髪混じりの髪を後ろで束ね、背筋は年齢を感じさせないほど真っ直ぐだった。顔には深い皺が刻まれている。けれど、その目は濁っていない。静かで、鋭くて、時々とても優しい。
「起きたか、アリシア」
「お、おはよう……おじいちゃん」
「ああ。おはよう」
祖父はいつものように頷いた。
その声を聞いて、アリシアの胸の緊張が少しだけ緩む。
この家で聞く祖父の声は、アリシアにとって世界そのものだった。
外の世界を知らない。
大きな街も、人で溢れた市場も、学園という場所も、本の中でしか知らない。
けれど、この家には祖父がいた。
だから、寂しいと思ったことは少なかった。
少なかった、はずだった。
「座りなさい。冷める」
「う、うん」
アリシアは椅子に腰を下ろした。
木の椅子は少し軋んだ。テーブルには、硬めのパンと、野菜のスープ、それから焼いた山菜が並んでいる。豪華ではない。けれど、祖父が作る朝食はいつも温かかった。
二人は向かい合って食べ始めた。
いつもなら、アリシアは昨日読んだ本の話を少しする。
祖父は「そうか」と短く返し、時々、昔の話を少しだけ混ぜる。
けれど今日は、言葉がうまく出てこなかった。
スプーンでスープをすくう。
口に運ぶ。
温かい。
なのに、胸の奥は少し冷えていた。
祖父もまた、しばらく黙っていた。
沈黙は重くはなかった。
ただ、いつもより深かった。
火のはぜる音が、やけに大きく聞こえる。
窓の外で鳥が鳴いた。
アリシアは何か言おうとして、けれど言えず、スープの器を見つめた。
その時、祖父が口を開いた。
「アリシア」
「は、はい」
思わず背筋が伸びた。
祖父は少しだけ目を細めた。
「今日は、お前の十六の誕生日だ」
「……うん」
「おめでとう」
短い言葉だった。
けれど、その声はとても穏やかだった。
アリシアは胸がじんわり温かくなるのを感じた。
「あ、ありがとう……おじいちゃん」
「あっという間だったな」
「そう、かな」
「そうだ。ついこの間まで、転んでは泣き、木の根に足を引っかけては泣き、夜の物音に怯えて布団をかぶっていた」
「そ、それは……小さい頃の話で……」
「今でも夜の風の音に驚くだろう」
「う……」
アリシアは言い返せなかった。
祖父はかすかに笑った。
その笑い方が、いつもより少しだけ寂しく見えた。
「だが、大きくなった」
「……本当に?」
「ああ」
祖父は迷わず答えた。
「お前は、強くなった」
その言葉に、アリシアはスプーンを持つ手を止めた。
強い。
自分には似合わない言葉だと思った。
人と話すのは苦手。
すぐに声が震える。
知らない相手を前にすると、目も合わせられない。
山の獣にさえ、最初は謝ってしまう。
そんな自分が、強い。
アリシアには、どうしても信じられなかった。
「わ、私は……そんなに強くないよ」
「そうか」
「うん……すぐ緊張するし、怖いし、失敗するし……おじいちゃんがいないと、たぶん何もできないし……」
言葉にしているうちに、自分で自分が情けなくなった。
視線が落ちる。
祖父は、急かさなかった。
責めもしなかった。
ただ、アリシアの言葉が終わるまで待っていた。
その沈黙が、逆に優しかった。
「アリシア」
「……はい」
「怖いと思える者は、無謀にはならん」
祖父の声は静かだった。
「自分を弱いと思える者は、学ぶことをやめん」
「……」
「失敗を怖がる者は、誰かの痛みに気づける」
アリシアは顔を上げた。
祖父はまっすぐにこちらを見ていた。
「お前は弱くない。臆病なだけでもない。ただ、人より少し慎重で、人より少し優しすぎる」
「優し……すぎる?」
「そうだ」
祖父はスープを一口飲んだ。
そして、ゆっくり器を置く。
「だが、それは悪いことではない」
アリシアの胸の奥が、少しだけ震えた。
褒められたのかもしれない。
そう思うと、顔が熱くなった。
「……ありがとう」
「礼を言うことではない。事実だ」
祖父は当たり前のように言った。
その言い方に、アリシアは小さく笑ってしまった。
笑った自分に気づいて、少しだけ恥ずかしくなる。
祖父も、それ以上は何も言わなかった。
二人はまた朝食を食べた。
けれど、さっきまでの沈黙とは少し違っていた。
同じ静けさでも、ほんの少しだけ温かい。
食事を終え、器を片付ける。
アリシアが台所に立とうとすると、祖父がそれを止めた。
「今日はいい」
「で、でも」
「今日は、儀がある」
その言葉で、空気が変わった。
アリシアは息を飲んだ。
儀。
祖父が何度か口にしていた言葉。
けれど、詳しいことは教えてくれなかった。
十六になった日に行う。
一族に伝わるものを受け継ぐ。
それだけ。
アリシアは、それが何なのか、ずっと気になっていた。
けれど聞くたびに、祖父は「その時が来れば分かる」としか言わなかった。
その時が、今日来た。
「おじいちゃん」
「何だ」
「私……ちゃんとできるかな」
声が自然と小さくなった。
祖父はアリシアを見た。
「できる」
「失敗したら?」
「失敗はせん」
「で、でも、私、こういう大事な時に限って……」
「アリシア」
祖父の声が少し強くなった。
アリシアは肩を揺らした。
怒られたと思った。
けれど祖父の目は、怒っていなかった。
「儀は、お前が何かを上手くこなすためのものではない」
「……え?」
「お前がお前であることを、示すためのものだ」
アリシアは意味が分からず、瞬きをした。
「わ、私であること……?」
「ああ」
祖父は立ち上がった。
「だから、飾るな。強がるな。嘘をつくな。ただ名を告げればいい」
「名前を?」
「そうだ」
祖父は壁に掛けてあった古い外套を取った。
アリシアも慌てて自分の外套を手に取る。
外へ出ると、朝の空気が肌を撫でた。
冷たい。
けれど、痛いほどではない。
山の朝の匂いがした。
濡れた土。
木の皮。
草。
遠くの水音。
アリシアは小さく息を吸った。
ここが自分の世界だった。
祖父の背中を追って、家の裏手へ向かう。
普段あまり通らない道だった。
木々が密集し、日差しがまだほとんど届かない。足元には苔むした石があり、歩くたびに柔らかな感触が靴底へ伝わる。
祖父は迷いなく進んでいく。
アリシアは少し遅れながら、その後を追った。
胸がまた高鳴り始める。
怖い。
でも、逃げたいわけではなかった。
知りたい。
自分が何を受け継ぐのか。
祖父が何を守ってきたのか。
この山奥で、二人きりで暮らしてきた理由。
それらの答えが、今日の先にある気がした。
「アリシア」
祖父が歩きながら言った。
「はい」
「これから見るものを、すべて今すぐ理解しようとしなくていい」
「……うん」
「分からないことは、分からないままでいい」
「でも、それでいいの?」
「いい。人は、一度にすべてを背負うことはできん」
祖父の背中は大きかった。
アリシアが幼い頃から見てきた背中。
迷った時は、その背中を追えばよかった。
怖い夜は、その背中に隠れればよかった。
けれど今日は、少し違う。
その背中が、遠くなるような気がした。
アリシアは胸元をぎゅっと握った。
「おじいちゃん」
「何だ」
「今日が終わったら……何か変わるの?」
祖父はすぐには答えなかった。
足音だけが続いた。
ざく、ざく、と落ち葉を踏む音。
やがて祖父は立ち止まらずに言った。
「変わる」
アリシアの胸がきゅっと縮んだ。
「……そっか」
「だが、何もかもが失われるわけではない」
「え?」
「お前はお前のままだ。私は私のままだ」
祖父は少しだけ振り返った。
「それだけは、変わらん」
アリシアは、何かを言おうとした。
けれど喉が詰まった。
うん、と小さく頷くことしかできなかった。
やがて、木々が途切れた。
そこには、古い石造りの建物があった。
大きくはない。
けれど、不思議な存在感があった。
森の中に沈むように建っているのに、朽ちていない。苔に覆われた壁。風雨に削られた石段。入口の両脇には、読めない文字が刻まれた柱が立っている。
アリシアは息を忘れた。
何度もこの森には来たことがある。
けれど、こんな建物があることは知らなかった。
いや、見えていなかったのかもしれない。
そう思わせるほど、その場所は周囲の景色に溶け込んでいた。
「ここは……?」
「神殿だ」
「神殿……」
アリシアはその言葉を繰り返した。
声が石壁に吸い込まれる。
祖父は石段を上がった。
アリシアも続く。
一段、一段。
足を乗せるたびに、空気が変わっていくようだった。
冷たい。
静か。
けれど、嫌な感じはしない。
むしろ、どこか懐かしい。
入口の前で祖父が立ち止まった。
「ここから先は、儀の場だ」
「……うん」
「怖いか」
アリシアは迷った。
怖くない、と言いたかった。
祖父を安心させたかった。
けれど、祖父はさっき言った。
飾るな。
強がるな。
嘘をつくな。
だから、アリシアは小さく頷いた。
「……怖い」
「そうか」
「でも……逃げたくはない」
自分で言って、少し驚いた。
声は震えていた。
でも、その言葉だけは本当だった。
祖父の口元が、ほんの少し緩んだ。
「ならば十分だ」
そう言って、祖父は扉に手をかけた。
重い石の扉が、ゆっくりと開く。
音はほとんどしなかった。
中は薄暗かった。
けれど、真っ暗ではない。
壁に埋め込まれた石が淡く光っている。青でも白でもない。月明かりに似た、冷たく柔らかな光だった。
神殿の奥には、円形の広間があった。
床には大きな紋様が刻まれている。
見たことのない線。
重なり合う円。
その中心に、小さな台座があった。
何も置かれていない。
アリシアは不思議に思った。
何か大切なものを受け継ぐのなら、そこに何かがあると思っていた。
剣とか。
本とか。
指輪とか。
本で読んだ物語では、そういうものがよく出てきた。
けれど、台座は空だった。
「おじいちゃん……何もないよ?」
「今はな」
「今は?」
祖父は答えず、広間の中心へ進んだ。
アリシアも後を追う。
床の紋様の上に立つと、不思議と足元から冷たさが消えた。
代わりに、胸の奥で何かが静かに脈打つような感覚があった。
どくん。
どくん。
自分の鼓動なのか、それとも別の何かなのか分からない。
アリシアは手を胸に当てた。
「アリシア」
「は、はい」
「これより、継承の儀を行う」
祖父の声が神殿に響いた。
いつもの祖父の声ではなかった。
もっと遠く、もっと古いものに届かせるような声だった。
アリシアは唾を飲み込んだ。
「この儀は、我らが一族に受け継がれてきたものだ」
「……うん」
「お前は今日、その役目を継ぐ」
「役目……」
「だが、今すぐすべてを知る必要はない」
祖父はアリシアの前に立った。
「まずは、名を告げなさい」
「名前を……」
「ああ」
祖父は静かに頷いた。
「お前の名を、この場に」
アリシアは一歩、前に出た。
足が震えている。
自分でも分かった。
広間は静かだった。
鳥の声も、風の音も、ここまでは届かない。
世界に自分と祖父しかいないような感覚。
いや。
違う。
何かがいる。
まだ姿は見えない。
けれど、どこかから見られている。
試されている。
そんな気がした。
怖い。
胸が苦しい。
逃げたい気持ちが、ほんの少しだけ首をもたげる。
でも。
アリシアは祖父の言葉を思い出した。
飾るな。
強がるな。
嘘をつくな。
ただ、名を告げればいい。
アリシアは息を吸った。
声が震えないように、ではない。
震えてもいいから、ちゃんと届くように。
「……アリシア」
小さな声だった。
けれど、神殿はその声を受け止めた。
アリシアはもう一度、少しだけ強く言った。
「私の名前は、アリシアです」
その瞬間。
床の紋様が淡く光った。
「っ……」
アリシアは思わず後ずさりしそうになった。
けれど祖父が片手を上げた。
大丈夫だ、と言うように。
光は白くなかった。
金でも、赤でも、青でもない。
黒。
けれど、それは闇というより、夜空の色に近かった。
深く、静かで、底が見えない。
黒い光。
ありえないはずのものが、足元からゆっくり広がっていく。
アリシアは目を見開いた。
怖いのに、なぜか目を離せなかった。
黒い光は台座へ集まり、渦を巻いた。
空気が震える。
髪がふわりと揺れる。
神殿の壁に刻まれた文字が、ひとつ、またひとつと灯っていく。
祖父は黙って見ていた。
その横顔は、祈るようでもあり、見届けるようでもあった。
やがて、台座の上に小さな影が生まれた。
最初は煙のようだった。
それが少しずつ形を持つ。
耳。
尾。
しなやかな体。
四つの足。
金色の瞳。
台座の上に、一匹の黒猫が座っていた。
艶のある黒い毛並み。
夜そのものを切り取ったような姿。
アリシアは固まった。
黒猫もまた、じっとアリシアを見ていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
沈黙が落ちる。
アリシアの喉が小さく鳴った。
猫。
どう見ても猫。
でも、普通の猫ではない。
分かる。
分かるけれど、理解が追いつかない。
黒猫は台座の上で尻尾を一度ゆらした。
そして、当然のように口を開いた。
「……あんたが、今回の継承者?」
アリシアの思考が止まった。
目の前の猫が喋った。
普通に。
はっきり。
人の言葉で。
アリシアは口を開けたまま固まった。
祖父を見る。
祖父は黙っている。
黒猫を見る。
黒猫は眉があるわけでもないのに、呆れたような顔をしている。
アリシアはようやく声を絞り出した。
「ね、猫がしゃべったぁ!?」
神殿に声が響いた。
自分でも驚くくらい大きな声だった。
黒猫の耳がぴくりと動いた。
「失礼ね。猫じゃなくてよ」
「え?」
アリシアは瞬きをした。
黒猫は深く、深くため息をついた。
「……先が思いやられるわ」
その言い方があまりにも人間らしくて、アリシアはさらに混乱した。
「え、えっと……ご、ごめんなさい……?」
「そこで謝るの?」
「だ、だって、失礼って……」
「まあ失礼ではあったわね」
「ごめんなさい……」
「だからすぐ謝るんじゃないわよ」
「ご、ごめ……あっ」
アリシアは慌てて口を押さえた。
黒猫はじっとアリシアを見た。
金色の瞳。
怖いわけではない。
でも、すべてを見透かされているような気がした。
アリシアは目を合わせ続けられず、少し視線を下げた。
「ふぅん」
黒猫が言った。
「なるほどね」
「な、何が……?」
「声は小さい。目は泳ぐ。すぐ謝る。背筋は曲がり気味。緊張すると指先を握る癖がある」
「ひゃ……」
「でも」
黒猫の声が少しだけ低くなった。
アリシアは顔を上げた。
「逃げなかった」
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
「……」
「怖がりだけど、逃げない。弱そうに見えるけど、芯は折れてない」
黒猫は台座からふわりと降りた。
音もなく床に着地する。
そして、アリシアの足元まで歩いてきた。
小さい。
手を伸ばせば抱き上げられそうなくらい。
それなのに、存在感は祖父にも負けていなかった。
黒猫はアリシアの周りをゆっくり一周した。
「ちょ、ちょっと……」
「動かない」
「は、はい」
「返事だけはいいわね」
「す、すみ……」
アリシアはまた口を押さえた。
黒猫は尻尾でアリシアの足首を軽く叩いた。
「まったく」
その仕草が少しだけ可愛くて、けれど今それを言ったら怒られそうで、アリシアは黙った。
祖父がようやく口を開いた。
「アリシア」
「は、はい」
「その子は、お前が今日から共に歩む存在だ」
「共に……」
「名を与えなさい」
アリシアは黒猫を見た。
「名前……?」
黒猫は当然という顔で座った。
「そうよ」
「私が……つけるの?」
「他に誰がいるの」
「で、でも、私、名前をつけたことなんて……」
「今つければ初めてになるわね」
「そ、そんな簡単に……」
「簡単じゃないわよ」
黒猫の声が少し変わった。
軽口の奥に、静かな重みが混ざる。
「名前は、ただの音じゃない。呼ぶたびに結ばれるものよ。呼ばれるたびに刻まれるものよ」
アリシアは息を止めた。
黒猫は続けた。
「だから、ちゃんと考えなさい」
「……」
「でも、考えすぎて黙り込むのはやめなさい。あんた、放っておくと日が暮れるまで悩みそうだもの」
「そ、そんなこと……」
あるかもしれない。
アリシアは反論できなかった。
祖父が小さく咳払いをした。
笑ったのを誤魔化したようにも見えた。
アリシアは黒猫の前にしゃがんだ。
近くで見ると、黒猫の瞳は本当に綺麗だった。
金色。
でも、冷たい金ではない。
灯火のような、月に照らされた麦のような、どこか温かい色。
黒い毛並みは艶やかで、触れたら柔らかそうだった。
けれど、まだ触っていいか分からない。
アリシアは膝の上で手を握った。
名前。
この子の名前。
今日、初めて会った。
けれど、初めてではないような気もする。
儀の時に感じた、胸の奥の鼓動。
黒い光。
怖くて、でも懐かしかった感覚。
この黒猫は、その中心にいた。
これから共に歩む存在。
祖父がそう言った。
なら、適当にはつけられない。
でも、立派すぎる名前も違う気がした。
この子はきっと、立派な存在なのだろう。
けれど今、アリシアの前にいるのは、小さな黒猫だった。
口は少し悪い。
態度も大きい。
でも、アリシアのことをちゃんと見てくれている。
怖がりだと見抜いても、逃げなかったと言ってくれた。
アリシアは胸の奥で、その言葉をそっと抱いた。
「……ノア」
声が自然に出た。
黒猫の耳が動いた。
「ノア?」
アリシアは頷いた。
「うん……ノア」
「理由は?」
「えっ」
「名前をつけるなら、理由くらいあるでしょう」
「り、理由……」
アリシアは困った。
正直、はっきりした理由があったわけではない。
ふっと浮かんだ。
けれど、それではだめな気がして、必死に言葉を探す。
「えっと……」
「ほら、また目が泳いでる」
「うぅ……」
「いいから言いなさい。笑わないから」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん……」
アリシアは少しだけ唇を尖らせた。
自分でも珍しいと思った。
黒猫――まだノアではない黒猫は、それを見てほんの少し目を細めた。
アリシアは膝の上の手を見つめながら、ゆっくり言った。
「なんとなく……夜みたいだなって」
「夜?」
「うん。暗いけど、怖いだけじゃなくて……静かで、落ち着いてて……」
言葉を探す。
「それに、夜があるから、朝が来るって……おじいちゃんが昔、言ってたから」
祖父の方を見る。
祖父は黙っていた。
でも、その目は優しかった。
「だから……あなたがいてくれたら、怖い夜も少し大丈夫になる気がして……」
アリシアは黒猫を見た。
「ノア、って……呼びたいなって、思いました」
言い終えると、急に恥ずかしくなった。
変なことを言ったかもしれない。
子どもっぽかったかもしれない。
笑われるかもしれない。
アリシアは肩を縮めた。
黒猫は黙っていた。
その沈黙が長く感じた。
神殿の光が静かに揺れる。
アリシアの鼓動だけがうるさい。
やがて黒猫は、ふっと鼻を鳴らした。
「悪くないわ」
アリシアは顔を上げた。
「え……」
「ノア。悪くない名前よ」
「ほ、本当に?」
「嘘を言ってどうするの」
「よ、よかった……」
アリシアは胸を撫で下ろした。
その瞬間、黒猫の体が淡く光った。
黒い光。
けれど、さっきよりもずっと穏やかだった。
アリシアの胸元にも、同じ光が灯る。
「っ……」
熱くはない。
痛くもない。
けれど、何かが結ばれる感覚があった。
糸ではない。
鎖でもない。
もっと柔らかくて、もっと深いもの。
名前を呼ぶ。
呼ばれる。
それだけで、遠く離れても見失わないような、そんな繋がり。
黒猫――ノアは、アリシアを見上げた。
「契約は成立ね」
「契約……」
「そう。今日から私はノア」
ノアは尻尾をゆらした。
「そして、あんたは私の契約者」
アリシアは胸元に手を当てた。
服の下で、何かが淡く光っている気がした。
見えない。
けれど、確かにある。
「私が……契約者……」
「そうよ」
ノアは言った。
「しっかりしなさい、アリシア」
初めて名前を呼ばれた。
その瞬間、アリシアの胸が強く震えた。
不思議だった。
祖父に呼ばれる名前とは違う。
同じ名前なのに、違う響きに聞こえた。
まるで、今日から自分の名前に新しい意味が加わったようだった。
「……はい」
「声が小さい」
「は、はい」
「まだ小さい」
「はいっ」
神殿にアリシアの声が響いた。
自分でも驚いた。
ノアは満足そうに頷く。
「まあ、最初はそんなものね」
「き、厳しい……」
「厳しくしないと、あんたすぐ縮こまるでしょう」
「う……」
「ほら、また縮こまった」
ノアの言葉は刺さる。
でも、不思議と嫌ではなかった。
祖父とは違う。
優しく包むのではなく、背中を軽く蹴るような言い方。
けれど、その奥に冷たさはなかった。
アリシアは小さく笑った。
ノアがそれに気づく。
「何笑ってるの」
「えっ、あ、えっと……」
「変な子ね」
「ご、ごめ……じゃなくて……」
アリシアは慌てて言い直した。
「なんでもないです」
「よろしい」
祖父が静かに息を吐いた。
アリシアが見ると、祖父は少しだけ目を細めていた。
その表情は、安心しているようにも見えた。
「おじいちゃん……?」
「いや」
祖父は首を横に振った。
「無事に終わった」
その声には、深い疲れと、深い安堵が混ざっていた。
アリシアはそこで初めて、祖父がどれほど緊張していたのかに気づいた。
祖父はいつも落ち着いている。
何が起きても慌てない。
山で魔物に遭遇した時も、嵐で屋根が壊れた時も、アリシアが熱を出した時でさえ、祖父は静かだった。
その祖父が、今、安堵している。
この儀は、それほど大きなものだったのだ。
アリシアは胸元を握った。
「おじいちゃん」
「何だ」
「私……ちゃんと、できた?」
祖父はアリシアを見た。
それからノアを見た。
ノアは当然のように言った。
「ぎりぎりね」
「ぎ、ぎりぎり……」
「最初から満点を期待されても困るでしょう」
「それは、そうだけど……」
ノアは軽く鼻を鳴らした。
「でも、逃げなかった。名も告げた。私に名前もくれた」
金色の瞳が、まっすぐアリシアを見る。
「なら、契約者としては十分よ」
アリシアは言葉を失った。
褒められた。
たぶん。
とても分かりにくいけれど。
胸がまた熱くなる。
祖父も頷いた。
「よくやった、アリシア」
「……うん」
アリシアの声が震えた。
泣きそうだった。
なぜ泣きそうなのか、自分でもよく分からない。
怖かったからか。
安心したからか。
祖父に褒められたからか。
ノアに認められたからか。
きっと全部だった。
涙が滲みそうになり、慌てて目を擦ろうとした。
その前に、ノアが言った。
「泣くのは後にしなさい」
「な、泣いてない……」
「目が潤んでる」
「潤んでるだけ……」
「同じよ」
「違うもん……」
小さな反論だった。
けれど、言えた。
ノアは少しだけ目を丸くしたあと、ふっと笑ったように見えた。
「そう。なら、そういうことにしておいてあげる」
アリシアは頬を赤くした。
祖父は静かに二人を見ていた。
神殿の光が、少しずつ落ち着いていく。
床の紋様も、台座の黒い光も、ゆっくりと消えていく。
儀は終わった。
けれど、何かが始まった。
アリシアにはそれが分かった。
うまく言葉にはできない。
けれど、分かった。
今日から、自分は昨日までの自分ではない。
それでも、祖父が言った通り、自分は自分のままだ。
怖がりで。
すぐ謝って。
声が小さくて。
でも、逃げなかった自分。
ノアがアリシアの足元に歩み寄る。
「さて」
「え?」
「抱きなさい」
「……え?」
アリシアは間の抜けた声を出した。
ノアは当然のように見上げてくる。
「聞こえなかった? 抱きなさいと言ったの」
「だ、抱いていいの?」
「許可してるでしょう」
「で、でも……」
「早く」
「は、はい」
アリシアは恐る恐る両手を伸ばした。
ノアの体に触れる。
柔らかかった。
温かかった。
思っていたより軽い。
でも、腕の中に抱いた瞬間、不思議な安心感が胸に広がった。
ノアはアリシアの腕の中で体勢を整え、まるでそこが当然の居場所だと言わんばかりに丸くなった。
「……あったかい」
アリシアが小さく呟く。
「当然よ」
「猫みたい」
「だから猫じゃなくてよ」
「あ、ご、ごめ……」
「また謝る」
「うぅ……」
ノアは尻尾でアリシアの腕を軽く叩いた。
痛くはない。
でも、叱られた気がした。
アリシアは少しだけ笑った。
祖父が歩き出した。
「戻るぞ」
「うん」
「話すことがある」
その一言で、アリシアの胸がまた少しだけ緊張した。
話すこと。
きっと、これからのことだ。
儀は終わった。
けれど、終わりではない。
始まりだ。
アリシアはノアを抱いたまま、祖父の後に続いた。
神殿の外へ出ると、朝日は少し高くなっていた。
森の中に光が差し込み、濡れた葉がきらきらと輝いている。
さっきまでと同じ森。
同じ道。
同じ空気。
けれど、アリシアには少し違って見えた。
腕の中でノアがあくびをする。
「緊張しすぎよ、アリシア」
「だ、だって……」
「だって、じゃない。これからもっと大変になるのよ」
「もっと……?」
アリシアは足を止めそうになった。
ノアが見上げる。
「何よ。今ので終わりだと思ってたの?」
「……少し」
「甘い」
「うぅ……」
「でもまあ、今日はよくやったわ」
その声は小さかった。
アリシアは聞き逃しそうになった。
「え?」
「何でもない」
「今、よくやったって……」
「言ってない」
「言ったよね?」
「言ってない」
「おじいちゃん、言ったよね?」
アリシアが祖父を見る。
祖父は少しだけ口元を緩めた。
「私には聞こえなかったな」
「お、おじいちゃん……」
「ほら、聞こえてないって」
ノアは勝ち誇ったように尻尾を揺らした。
アリシアは頬を膨らませかけて、すぐにやめた。
そんな自分に少し驚く。
今日会ったばかりなのに。
いや、契約したばかりなのに。
ノアと話していると、少しだけ言葉が出やすい。
不思議だった。
祖父とは違う安心。
山の空気とも違う安心。
腕の中にいる小さな存在が、これから自分の隣にいる。
そう思うだけで、怖さが少し薄くなる。
家に戻るまでの道は、来る時よりも短く感じた。
玄関の前に着くと、祖父は一度空を見上げた。
アリシアもつられて見上げる。
青い空が広がっていた。
雲は少ない。
風が穏やかに流れている。
いつもなら、今日は何をしようかと考える時間だった。
薪を割る。
洗濯をする。
本を読む。
祖父の手伝いをする。
けれど今日から、何かが違う。
ノアがアリシアの腕の中で言った。
「アリシア」
「なに?」
「背筋」
「あっ」
アリシアは慌てて背筋を伸ばした。
祖父が扉を開ける。
家の中の空気は、朝食の名残でまだ少し温かかった。
いつもの家。
けれど、腕の中にはノアがいる。
アリシアは一歩、中へ入った。
その瞬間、胸の奥で静かに思った。
今日を、きっと忘れない。
十六歳の誕生日。
祖父に導かれた朝。
古い神殿。
黒い光。
喋る黒猫。
失礼ね、と呆れた声。
ノアという名前。
契約者として呼ばれた、自分の名前。
まだ何も分からない。
これから何が起こるのかも知らない。
けれど、ひとつだけ分かる。
アリシアの世界は、今日、静かに動き始めた。
祖父は椅子に腰を下ろし、アリシアを見た。
ノアは腕の中からするりと抜け出し、テーブルの上に飛び乗った。
「こ、こら、テーブルの上は……」
「私はいいの」
「よくないと思う……」
「細かいわね」
「おじいちゃん……」
助けを求めるように祖父を見る。
祖父はしばらくノアを見て、それから言った。
「……今日だけだ」
「甘いわね、この家」
ノアは満足げに座った。
アリシアは少し困った顔をしながら、けれど笑ってしまった。
祖父もまた、ほんのわずかに笑った。
その小さな笑いが、家の中に広がる。
張り詰めていたものが、少しだけほどけた。
けれど、祖父の目はすぐに真剣なものへ戻った。
「アリシア」
「……はい」
「これから、お前に話さねばならないことがある」
アリシアは椅子に座った。
膝の上で手を握る。
ノアはテーブルの上で尻尾を揺らしている。
祖父の声は静かだった。
それでも、重かった。
「今日、お前は継承者となった」
「うん……」
「だが、これは終わりではない」
分かっていた。
けれど、実際に言葉にされると、胸が締めつけられる。
アリシアは息を整えた。
「これから……何をすればいいの?」
自分から聞けた。
声は小さい。
けれど、聞けた。
ノアがちらりとアリシアを見る。
祖父も、少しだけ目を細めた。
「外の世界へ行く」
アリシアは固まった。
「……外?」
「ああ」
「山の……外?」
「そうだ」
頭では理解できた。
けれど、心が追いつかない。
外の世界。
本でしか知らない場所。
人がたくさんいて、国があって、街があって、学園があって、知らない言葉や知らない習慣がある場所。
アリシアは祖父を見つめた。
「私が?」
「そうだ」
「ひ、一人で……?」
「一人ではない」
祖父の視線がノアへ向く。
ノアは鼻を鳴らした。
「私がいるでしょう」
アリシアはノアを見た。
「ノア……」
「何よ、その不安そうな顔」
「だって……」
「だって、じゃない」
ノアはテーブルの上で立ち上がり、アリシアの方へ歩いた。
そして、前足でアリシアの手を軽く叩く。
「今からそんな顔してどうするの。外に出たら、もっと訳の分からないことだらけよ」
「うぅ……」
「でも、全部一度にできるようになれとは言わないわ」
ノアの声が少し柔らかくなった。
「まずは、立つ。次に、歩く。それだけよ」
アリシアはノアを見つめた。
その言葉は、祖父の言葉に少し似ていた。
人は、一度にすべてを背負えない。
分からないことは、分からないままでいい。
アリシアは小さく頷いた。
「……うん」
祖父は続けた。
「行き先は、中央学園だ」
「学園……」
アリシアの胸が、怖さとは別のもので揺れた。
学園。
本で読んだことがある。
多くの若者が集まり、魔法や剣術、歴史や礼法を学ぶ場所。
友人。
授業。
試験。
食堂。
寮。
想像したことはある。
けれど、自分が行くとは思っていなかった。
「私が、学園に……?」
「そうだ」
「で、でも私、知らない人と話すの苦手で……」
「知っている」
「人が多いところも苦手で……」
「知っている」
「魔法も、ちゃんと習ったことないし……」
「それも知っている」
「じゃ、じゃあ……」
なぜ。
そう聞こうとした。
けれど、祖父の目を見て言葉が止まった。
祖父は全部分かっている。
アリシアが何を怖がるか。
何が苦手か。
どれだけ外の世界に怯えているか。
その上で、行けと言っている。
なら、理由がある。
アリシアは唇を噛んだ。
「……行かないと、だめ?」
子どもみたいな声だった。
自分でも分かった。
祖父は少しの間、黙っていた。
その沈黙が、答えだった。
「そうか……」
アリシアは俯いた。
胸が痛い。
まだ何も始まっていないのに、もう寂しかった。
この家を離れる。
祖父と離れる。
山を下りる。
知らない人たちの中へ行く。
怖い。
本当に怖い。
ノアがテーブルからアリシアの膝へ飛び降りた。
軽い重みが乗る。
アリシアは驚いて顔を上げた。
ノアはアリシアの膝の上で丸くなり、何でもないように言った。
「泣くには早いわよ」
「泣いてない……」
「そういうことにしておくわ」
「……」
「でも、怖いなら怖いって言いなさい。無理に平気な顔をする方が面倒だわ」
アリシアはノアの背中にそっと手を置いた。
柔らかな毛の感触が指に触れる。
「……怖い」
「そう」
「すごく、怖い」
「そうね」
「おじいちゃんと離れるのも……知らない場所に行くのも……怖い」
「うん」
ノアは茶化さなかった。
ただ聞いていた。
だから、アリシアは続けられた。
「でも……行かなきゃいけないんだよね」
祖父が頷いた。
「ああ」
アリシアは目を閉じた。
怖い。
怖いけれど。
逃げたくはない。
神殿でそう言った。
それは今も変わらない。
アリシアはノアの背を撫でた。
「……分かった」
声は震えていた。
でも、言えた。
「私、行く」
祖父は深く頷いた。
ノアは小さく息を吐いた。
「上出来よ」
アリシアはノアを見た。
「本当?」
「今のところはね」
「今のところ……」
「調子に乗らない」
「乗ってないよ……」
アリシアは少しだけ笑った。
怖さは消えない。
けれど、胸の奥に小さな灯りがともった気がした。
今日、ノアと出会った。
契約した。
外の世界へ行くことになった。
何もかもが突然で、心は追いついていない。
けれど、祖父がいる。
ノアがいる。
そして、自分は逃げなかった。
それだけで、今は十分なのかもしれない。
祖父が立ち上がった。
「詳しい話は、昼にしよう」
「うん」
「今日は忙しくなる」
「……荷物、まとめるの?」
「ああ」
その言葉で、また少し胸が痛んだ。
けれど今度は、俯かなかった。
ノアが膝の上で言う。
「まずは部屋の片付けね。あんた、本を積みすぎ」
「な、なんで知ってるの?」
「契約者のことくらい分かるわよ」
「えぇ……」
「あと、古い紙を枕元に置くのはやめなさい。寝相が悪いんだから」
「そ、それも分かるの!?」
「分かるわよ」
ノアは得意げだった。
アリシアは顔を真っ赤にした。
「お、おじいちゃん……」
「片付けなさい」
「うぅ……」
祖父の返答は容赦なかった。
ノアが笑った。
いや、猫なので本当に笑ったのかは分からない。
けれど、アリシアには笑ったように見えた。
家の中に、また小さな温かさが戻る。
旅立ちの話をしたばかりなのに。
別れが近づいているのに。
それでも、こうして笑える。
アリシアはそのことが少し不思議で、少し嬉しかった。
そして、ほんの少しだけ、怖かった。
幸せな時間ほど、終わるのが怖い。
けれどノアが膝の上から見上げてくる。
「ほら、立ちなさい」
「うん」
「背筋」
「あっ」
アリシアは背筋を伸ばした。
祖父が静かに見守っている。
窓の外では、朝の光が森を明るく照らしていた。
アリシアはノアを抱き上げる。
ノアは文句を言わず、腕の中に収まった。
その温もりを感じながら、アリシアは自分の部屋へ向かった。
今日、世界は変わった。
でも、まだ終わっていない。
むしろ、始まったばかりだ。
アリシアは小さく息を吸う。
怖い。
それでも、進む。
ノアがいる。
祖父が見ている。
そして、名を告げた自分がいる。
継承の日。
その朝は、静かに、けれど確かに、アリシアの運命を動かし始めていた。




