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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第67話 線のない「在」


 翌朝。


 アリシアは、誰かの声で目を覚ました。


 近い声ではなかった。


 扉の向こう。


 まだ朝の支度を始めたばかりの寮の廊下を、二人か三人の女子生徒が歩きながら話している。


「昨日、見た?」


「六人の訓練でしょ。見たよ。あの黒髪の子、思ったより声が通るんだね」


「“レオンさん、戻れ”って言った時、ちょっとびっくりした。いつも俯いてる感じだったから」


「でも、あれで赤髪の子が本当に戻ったんだよね」


 足音と声は、ゆっくり遠ざかっていった。


 廊下の角を曲がったのだろう。


 やがて、話の続きは聞こえなくなる。


 アリシアは、掛け布の中で動けずにいた。


 胸の奥に、冷たい反応はない。


 水音もない。


 ただ、顔が熱い。


 昨日の見学者。


 演習室の端にいた生徒たち。


 訓練が終わった後、知らない女子生徒から「声がちゃんと聞こえました」と言われた。


 その時は、嬉しかった。


 今も、嬉しくないわけではない。


 けれど。


 自分の声が、昨日の演習室だけに留まらず。


 寮の朝の会話にまでなっている。


 そう知ると、布団の中へ戻りたくなる。


「頭まで隠しても、昨日の声は消えないわよ」


 ノアの声がした。


 アリシアは、自分が掛け布を鼻先まで引き上げていたことに気づいた。


「隠れてない」


「では、何をしているの」


「……寒いから」


「顔だけ?」


「顔も寒い時ある」


 ノアは窓辺から寝台へ飛び乗った。


 柔らかな掛け布が少し沈む。


 金色の瞳が、布団の端から覗くアリシアを見下ろした。


「噂になってるわね」


「うん」


「嫌?」


 アリシアはすぐには答えなかった。


 廊下で聞いた言葉を、もう一度思い返す。


 怖い。


 恥ずかしい。


 見られたくない。


 でも。


 黒い力が暴れた。


 不気味な反応が出た。


 そういう噂ではなかった。


 声が通った。


 仲間を戻した。


 六人で動いていた。


 その話だった。


「少し嫌」


「少し?」


「かなり恥ずかしい。でも……前よりは、嫌じゃない」


「理由は」


「悪いことをしたって話じゃないから」


 アリシアは掛け布を下げた。


 天井が見える。


 薄い朝の光。


 木の梁。


 見慣れた部屋。


「前だったら、何を言われてても、全部怖かったと思う」


「今は違う?」


「昨日の私を見て、話してるから」


 噂。


 勝手に広がるもの。


 全部を止めることはできない。


 でも、その中身が。


 自分が実際にしたことと、それほど離れていない。


 それなら。


 少しだけ受け止められる。


 ノアは前足を掛け布の上へ置いた。


「起きなさい」


「もう少し」


「生活基礎の前に、廊下の噂から逃げる基礎をやるつもり?」


「逃げる基礎……」


「そんな授業はないわ」


「隠れる基礎なら得意」


「知ってる」


 毒舌なのに。


 声は少し柔らかかった。


 アリシアはようやく寝台から起き上がった。


 胸を確認する。


 水音なし。


 痛みなし。


 冷えなし。


 深さも変わらない。


 机へ向かい、練習帳を開いた。


『朝、廊下で昨日の訓練について話す声を聞いた。「黒髪の子の声が通った」「レオンさんを戻した」と話していた。恥ずかしい。少し隠れたい。でも、実際にしたことから大きく離れた噂ではない』


 書きながら、少し迷う。


『見られたことは怖い。でも、黒い力だけではなく、声と連携を見られたことは嬉しい』


 ノアが頁を覗く。


「今日は正直ね」


「昨日も正直だったよ」


「昨日は百点をもらう前提で少し綺麗に書いていた」


「そんなことしてない」


「本当に?」


「……少しは、良いことを書きたくなる時もある」


「それも書きなさい」


 アリシアは少し唇を尖らせた。


 それでも余白へ書く。


『練習帳にも、良く見えることを書きたくなる時がある。今日は、隠れたい気持ちも残す』


 ノアは満足そうに頷いた。


「九十九点」


「減点は?」


「布団の中で、噂が消えるまで待とうとした」


「待ってない」


「三分は待った」


「数えてたの?」


「当然」


 アリシアは小さく笑った。


 制服へ着替える。


 鏡の前へ立つ。


 今日は。


 黒髪の自分を見ると、昨日の演習室にいた知らない生徒たちの視線が浮かぶ。


 胸が少し狭くなる。


 けれど。


 鏡の中の自分は、昨日と同じ。


 声を出した後も。


 噂になった朝も。


 消えてはいない。


「背筋」


 ノアが言う。


 アリシアは背筋を伸ばした。


「今日は、見られてることを考えすぎない」


「無理ね」


「……じゃあ、考えても歩く」


「それでいい」


 ◇


 扉を開けると。


 メリルが、いつもの場所で待っていた。


 ただし。


 今日は一人ではなかった。


 少し離れた壁際に、昨日アリシアへ声をかけた女子生徒が立っている。


 淡い茶色の髪を肩で切り揃えた、小柄な少女。


 昨日は演習着だったため分からなかったが、制服の襟章を見ると同学年らしい。


 彼女はアリシアを見ると、少し姿勢を固くした。


 逃げたい。


 一瞬、そう思った。


 でも。


 相手の方が緊張している。


 アリシアは扉の前で立ち止まり、メリルを見る。


 メリルは、説明するようにゆっくり言った。


「この子、昨日の演習室で声をかけてくれた子。朝、廊下で会って……アリシアちゃんに少し聞きたいことがあるって」


 知らない女子生徒は、慌てて頭を下げた。


「すみません。朝から急に。私、普通科のエマ・ローディです」


「アリシアです」


 名乗った。


 声は小さい。


 でも届いた。


 エマは少し安心したように顔を上げた。


「昨日の共有語って、あの……六人だけで使うものですか?」


 予想していなかった質問だった。


 アリシアは少し迷う。


 訓練内容。


 話していい範囲。


 共有語そのものは、見学者も聞いていた。


 秘密ではない。


「今は、六人の合同訓練用です」


「そうですよね」


 エマは少し残念そうに笑った。


 その表情を見て。


 アリシアは、質問の続きがあると感じた。


「どうして聞いたんですか」


 こちらから聞く。


 以前なら、相手が黙れば安心して会話を終わらせていた。


 でも今日は。


 少しだけ踏み込んだ。


 エマは、すぐには答えなかった。


 廊下を通る生徒たちが、ちらりとこちらを見る。


 黒髪の少女。


 黒猫。


 昨日の訓練。


 視線が集まる。


 エマはそれにも気づいたらしく、声を落とした。


「私、治癒補助の授業で……助けてほしい時に、うまく言えないことがあって」


 言葉を探すように、指先を組み直す。


「まだ大丈夫だと思って。あと少しなら一人でできるって思って。でも、気づいたら魔力を使いすぎて、先生に止められることが多いんです」


 レオンと似ている。


 支援を呼ぶのが遅れた。


 まだいけると思った。


 助けを呼ぶことが、負けのように感じた。


 アリシアは黙って聞く。


 エマは続けた。


「昨日、“支援”って一言で誰かが動いたのを見て……あれなら、私にも言えるかなって思いました。でも、皆さんの言葉を勝手に使うのはよくないと思って」


 アリシアの胸に。


 小さな温かさが広がった。


 自分たちが作った言葉。


 一人で抱え込まないための言葉。


 それを。


 知らない誰かが見て。


 自分にも使えるかもしれないと思った。


 アリシアは何を言えばいいか迷った。


 六人の共有語を、そのまま渡していいのか。


 訓練条件も違う。


 役割も違う。


「そのまま使えるかは、先生に聞いた方がいいと思います」


 正直に言う。


 エマの表情が少し曇る。


 拒まれたと思わせたかもしれない。


 アリシアは慌てず。


 続きを言った。


「私たちも、最初は意味がずれました。支援って言っても、誰が動くのか。いつ言うのか。決めてないと、逆に危ないことがあります」


「はい」


「でも……助けてほしい時の短い言葉を、班で決めるのはいいと思います」


 エマの顔が上がる。


「私たちの班で?」


「はい。六人の言葉をそのまま使うんじゃなくて。エマさんたちが言いやすくて、みんなが分かる言葉を」


 自分がこういうことを言う。


 少し不思議だった。


 言葉を教える。


 助けを求める形を。


 以前の自分なら、誰よりもできなかったのに。


 エマは、しばらくアリシアを見た。


 そして。


 深く頭を下げた。


「ありがとうございます。今日、先生に相談してみます」


「はい」


「それと……昨日、すごかったです。大きい声っていうより、本当に必要な人へ届いてる感じがして」


 また顔が熱くなる。


「ありがとうございます」


「朝から引き止めてすみません」


「大丈夫です」


 エマはメリルにも会釈し、廊下の向こうへ歩いていった。


 その背中を、アリシアはしばらく見送った。


 メリルが隣で言う。


「共有語、六人の外にも届いたね」


「うん」


「嬉しい?」


「うん。すごく」


「でも?」


「怖い。自分たちが作った言葉を、誰かが使って怪我したらって考えた」


 メリルは、少し驚いたようにアリシアを見る。


「だから、そのまま使っていいって言わなかったんだね」


「うん。意味を共有しないと危ないから」


「良い言い方だったと思う」


 アリシアは息を吐いた。


 廊下の視線。


 まだある。


 でも。


 今は隠れたい気持ちより。


 エマの班が、助けを呼べる言葉を作れるといい。


 その気持ちの方が少し強かった。


 ◇


 食堂へ入ると。


 いつもの席の周囲が、昨日までより少し騒がしかった。


 直接話しかけてくる者はいない。


 しかし。


 近くの席へ座る生徒が増えている。


 六人の会話を聞こうとしているわけではないだろう。


 たぶん。


 そう思いたい。


 それでも、視線は多い。


 レオンはすでにパンを食べていた。


 アリシアを見ると。


 普通の声量で言う。


「おはよう、アリシア」


 リーネが点数をつける前に。


 近くの席から、小さな声がした。


「声量、今日はどうかな」


 誰かが笑いをこらえている。


 レオンの顔が赤くなる。


「聞かれてる……」


 シオンがパンをちぎりながら言う。


「昨日から採点まで見られてたからね」


「もうやめるか?」


 レオンが本気で悩む。


 リーネは少し考えた。


 手帳を開かない。


「本人が嫌なら、公開の場ではやめます」


 その言葉に。


 レオンは、すぐには答えなかった。


 いつもなら。


 やめない。


 百点を目指す。


 そう言うと思った。


 けれど。


 周囲に聞かれている。


 笑われる可能性。


 真似されるかもしれない。


 レオンはパンを置いた。


「……少し恥ずかしい」


 短い言葉ではあった。


 でも。


 顔を上げたまま言った。


「自分たちの席だけなら平気だった。でも、周りが点数を待ってる感じになると……訓練じゃなくて見世物みたいで嫌だ」


 食卓が静かになる。


 周囲のざわめきも。


 完全には消えないが、少し遠のいたように感じる。


 リーネは、ゆっくり頷いた。


「分かりました。声量採点は、公開の食堂では中止します」


「でも、俺はまだ声量を直したい」


「個別に確認します」


「それならいい」


 レオンの肩が少し下がる。


 アリシアは、その会話を聞きながら思った。


 昨日まで。


 採点は笑いになっていた。


 レオン自身も楽しんでいた。


 でも。


 見られる人が増えると。


 同じことでも意味が変わる。


 皆の内側の練習。


 外から見れば、面白い習慣。


 境界。


 共有する相手。


 言葉と同じ。


「エマさんに話しかけられました」


 アリシアが言った。


 視線が五人へ集まる。


「昨日の子?」


 ミランダが聞く。


「はい。治癒補助で、助けを呼ぶのが遅れることがあるって。共有語を使っていいか聞かれました」


 リーネの表情が引き締まる。


「何と答えましたか」


「そのまま使うんじゃなくて、班で意味を決めた方がいいって。先生にも相談してって」


「適切です」


 ルシアンも静かに頷いた。


「言葉だけを渡しても、運用条件が違います」


 レオンが少し考え。


「でも、支援って言葉は俺も言いやすかった」


 と話す。


「無理とか助けてより、支援の方が……まだ戦ってる途中って感じがする」


 シオンが言う。


「だから使えたんだろうね」


 ミランダも頷く。


「私も、助けてって言うより言いやすい!」


 リーネは少し考え込んでいた。


 やがて。


「共有語そのものより、短い状況語を決める考え方は、他班でも使える可能性があります」


「広める?」


 レオンが聞く。


「今すぐではありません」


 リーネは答える。


「教員側の検証が必要です。昨日の訓練で機能したとはいえ、六人の役割を前提に作っています」


 アリシアは、朝エマへ答えたことが間違っていなかったと分かり、少し安心した。


 ルシアンが紅茶へ視線を落としながら言う。


「昨日から、僕たちの言葉が注目されています。訓練の中身だけでなく、食堂での会話まで見られ始めている」


 少し間を置く。


「どこまでを外へ見せるか、考える必要がありますね」


 アリシアは、朝の噂。


 レオンの採点。


 エマの相談。


 全部が繋がる。


 見られること。


 届くこと。


 広がること。


 嬉しいだけではない。


「六人の言葉を、六人だけのものにしたいわけじゃない」


 アリシアはゆっくり言った。


「でも、意味がずれたまま広がるのは怖いです」


 リーネが頷く。


「その線で整理しましょう」


 シオンが少し笑う。


「今日は朝食から会議になってる」


 ミランダがパンを持ち上げる。


「じゃあ、一回食べよう!」


 ノアも言う。


「ようやくね」


 アリシアは自分のパンを見る。


 今日は、柔らかい。


 ゆっくりちぎる。


 ノアは点数をつけなかった。


 周囲に聞かれているからか。


 アリシアは少しだけ寂しく感じた。


 でも。


 今はそれでいい。


 皆の内側だけで使っていたものを。


 無理に外へ見せなくていい。


 ノアは、誰にも聞こえないほど小さな声で言った。


「九十五点」


 アリシアは目を瞬く。


「聞こえた」


「あなたにだけ届けばいい」


 胸が温かくなった。


 ◇


 生活基礎の授業。


 セリア先生は、黒板へ大きく書いた。


『広がった言葉は、意味が変わる』


 教室の空気が、少しざわめく。


 昨日の訓練。


 共有語。


 学園の中で話題になっている。


 この授業内容も。


 それを受けているのかもしれない。


 セリア先生は、生徒たちの反応を見ながら穏やかに言った。


「一人と一人の間で使っていた言葉が、集団へ広がることがあります」


 黒板に三つの円を書く。


 一人。


 小さな班。


 大きな集団。


「小さな班では分かっていた意味も、外へ出ると違って受け取られることがあります」


 アリシアは、レオンの声量採点を思い出す。


 六人の食卓。


 笑いながら続けていた。


 外から見れば。


 点数を待つ見世物。


 あるいは、レオンを笑う習慣に見えるかもしれない。


「言葉を広げる時は、意味だけでなく、使う条件も伝える必要があります」


 共有語。


 支援。


 開ける。


 戻る。


 その一語だけでは足りない。


 いつ。


 誰が。


 どう動く。


 意味を共有する。


「逆に、外から見た人が、意味を知らず真似をすることもあります」


 アリシアはノートへ書く。


『真似されることも考える』


「良いものだから広めたい。役に立ったから他の人にも使ってほしい。そう思うことは自然です」


 エマ。


 助けを呼ぶのが遅れる。


 共有語なら言えるかもしれない。


 役に立つ可能性。


「ですが、役に立つ言葉ほど、丁寧に渡してください」


 班練習では。


 班の中だけで使っている言葉を、別の班へ伝える例を考えた。


 トマの班では「赤」が危険。


 別の班では「赤」が前進。


 同じ言葉。


 逆の意味。


 ミーナが言う。


「意味が違う班同士で一緒になったら危ないわね」


 メリルが頷く。


「だから、始める前に確認する」


 アリシアは、少し考えて口を開く。


「私たちの『戻る』も、普通なら後ろへ下がる意味に聞こえます。でも、前へ戻る時もある」


 トマが首を傾げる。


「前に戻る?」


「復帰点が前へ変わった時。でも、まだ正式には決めてません」


「ややこしいな」


「うん。だから、今は外で使わない方がいい」


 自分で言う。


 広がることへの線。


 メリルは隣で小さく笑った。


 ◇


 戦闘基礎の時間。


 六人は、昨日の演習室ではなく。


 少し小さな調整室へ集められた。


 今日は魔導人形を使わない。


 声と動きの確認のみ。


 エレナ教官。


 グラン先生。


 そして教務主任。


 机の上には。


 昨日の訓練記録。


 見学者からの感想。


 各担当教員の観測。


 エレナ教官が言う。


「共有語を他班が使いたいと申し出た」


 朝のエマ。


 すでに先生へ相談したのだろう。


 アリシアの胸が少し動く。


「許可するんですか」


 リーネが尋ねる。


「そのままでは許可しない」


 エレナ教官は即答した。


「六人の役割を前提にした言葉だ。他班へ持ち込めば、意味がずれる」


 アリシアは安心した。


 でも。


 少し残念でもある。


 役に立つかもしれないのに。


 教務主任が続けた。


「ただし、短い状況語を班ごとに決めるという考え方は、基礎訓練へ取り入れる価値があります」


 リーネの目が少し鋭くなる。


「共有語の方法のみを一般化する?」


「そうです」


「具体的な言葉は各班で決める」


「その通りです」


 アリシアは、朝エマへ言ったことと同じだと思った。


 そのまま渡さない。


 考え方を渡す。


 エレナ教官は六人を見る。


「昨日の共有語試験は成功した。だが、言葉だけが成功したわけではない」


 資料を一枚持ち上げる。


「役割配置。互いの声の識別。復帰点。検知役。中央管理。これらがあって機能した」


「はい」


「言葉が特別なのではない。準備が機能した」


 少しだけ。


 アリシアの胸が寂しくなる。


 六人の言葉。


 特別だと思っていた。


 でも。


 エレナ教官は続けた。


「ただし」


 視線が、アリシアたちを一人ずつ通る。


「準備を言葉へまとめたのは、お前たちだ。それは評価する」


 寂しさの隣へ。


 静かな誇らしさが置かれる。


 言葉だけではない。


 六人で考え。


 失敗し。


 直し。


 意味を揃えた。


 それが大事。


「今日は、言葉を使わず動け」


 全員が少し驚く。


 レオンが聞く。


「共有語の訓練じゃないのか?」


「共有語へ頼りすぎていないか確認する」


 エレナ教官は床に六人の配置を示す円を置いた。


「声は禁止しない。ただし、最初の一分は要求語禁止」


 支援。


 開ける。


 戻る。


 使えない。


 状況を見る。


 相手を見る。


 昨日までの言葉がない。


 アリシアは少し不安になった。


 言葉を作ったばかりなのに。


 使わない。


「怖いか」


 エレナ教官が尋ねる。


「少し」


「なぜ」


「昨日、言葉があると動きやすかったから」


「それで言葉しか見なくなれば、逆に弱くなる」


「はい」


「昨日の訓練で、お前たちは言葉が届かない時も補った。今日はそれを確認する」


 六人が配置につく。


 魔導人形はいない。


 教員たちが、色札と歩行経路で負荷を示す。


 赤札が正面。


 青札が右。


 白札が左。


 複数の札を上げ。


 どこが薄いか。


 どこへ移るか。


 六人が声を使わず、視線と動きだけで合わせる。


 ◇


 最初の一分。


 要求語は禁止。


 赤札。


 正面。


 レオンが前へ。


 青札。


 右。


 ミランダが移る。


 白札が二枚。


 左が強い。


 シオンが風を作る動作。


 アリシアは復帰点から見る。


 左。


 支援が必要。


 しかし、「左、支援」と言えない。


 シオンを見る。


 彼は片手を肩より上へ一度。


 昨日決めた無言合図。


 状態を見て。


 アリシアは左へ入る。


 木刀を置く動作。


 シオンは一歩下がる。


 風を作り直す。


 言葉はない。


 でも。


 意味は通じた。


 アリシアは復帰点へ戻ろうとする。


 リーネが中央後方で、手のひらを基準点へ向ける。


 道を示す。


 ミランダが右を維持。


 レオンが正面を押さえる。


 戻る。


 言葉がなくても。


 動けた。


 次。


 教務主任が右側へ三枚の札を上げる。


 右が厚い。


 ミランダが押される。


 支援の言葉は使えない。


 ミランダは無言合図を出そうとする。


 しかし。


 土を固定する動作で両手が塞がっている。


 合図できない。


 アリシアは、表情と足元を見る。


 動けない。


 支援条件。


 動く。


 右へ。


 だが。


 同時にシオンも動いた。


 二人が右へ入る。


 左が空く。


 ルシアンが後方で左を指す。


 リーネがシオンへ視線を送る。


 シオンが戻る。


 アリシアだけが右へ残る。


 言葉がなくても修正。


 でも。


 一瞬の遅れ。


 エレナ教官が赤札を左へ出す。


 左が危険。


 レオンが正面から少し左へ寄る。


 シオンが戻る。


 崩れない。


 一分。


 長い。


 言葉を使わないだけで、心の負担が増える。


 相手の顔。


 手。


 足。


 全部を見る。


 やがて。


 エレナ教官の声。


「要求語、使用可」


 その瞬間。


 六人の呼吸が少し変わった。


 使える。


 でも。


 すぐには誰も言わない。


 必要な時だけ。


 アリシアは、そのことが嬉しかった。


 言葉が戻ったから安心した。


 それでも。


 言葉がなくても動けた。


 ◇


 赤札二枚。


 正面が強い。


 レオンが受ける。


 まだ維持できる。


 でも。


 別の動きへ移れない。


 レオンは、一呼吸遅らせて。


「正面、支援」


 声を出す。


 今度は叫ばない。


 必要な人へ届く。


 アリシアが前へ。


 ミランダが足元を固定。


 支援。


 動きで返す。


 次。


 教務主任が中央の通路を塞ぐ札を出す。


 白い円までの道がない。


 リーネが全体を見る。


「中央、開ける」


 レオンが正面を押す。


 ミランダが右を固定。


 シオンが左を流す。


 ルシアンが言う。


「右、薄い」


 アリシアが右を補う。


 道が開く。


 言葉。


 でも。


 動きが先に準備されている。


 最後。


 アリシアが右へ入ったまま、基準復帰点への道が塞がれる。


 ルシアンが左を確認。


 リーネが言う。


「左、戻る」


 シオンが左の風を薄く開く。


 アリシアが戻る。


 成功。


「止め」


 エレナ教官の声。


 全員が息を吐いた。


 言葉を使った時間より。


 最初の一分の方が疲れた。


 アリシアは肩で息をしながら思う。


 言葉は楽にする。


 でも。


 言葉がなくても見る。


 それができなければ。


 共有語はただの合図になる。


 エレナ教官が言う。


「言葉なしで動けたところ」


 リーネが答える。


「シオンさんの無言合図。アリシアさんの支援。復帰路の確保」


「失敗したところ」


 シオンが言う。


「ミランダの支援へ、僕とアリシアが重なった」


「理由」


「言葉がなかったから、互いの判断が見えなかった」


 エレナ教官が頷く。


「つまり」


 アリシアが答える。


「言葉は、判断を知らせるために必要」


「そうだ」


「言葉がなくても動ける。でも、複数人が同じ判断をすると重なる」


「良い」


 教務主任が続ける。


「共有語の価値は、動きを命令することだけではありません。自分が何を判断したかを、他者へ見せることにあります」


 アリシアの胸に。


 静かに落ちる。


「右、支援」


 助けて。


 だけではない。


 私は右を支える必要があると判断した。


 それを皆へ知らせる。


「中央、開ける」


 道を作って。


 だけではない。


 私は中央を通る必要があると判断した。


 知らせる。


「戻る」


 怖いから逃げる。


 ではなく。


 今、復帰が必要だと判断した。


 知らせる。


 言葉は。


 判断を見せるもの。


 ◇


 訓練が終わった後。


 教務主任は、一枚の紙を机へ置いた。


「もう一つ、報告があります」


 アリシアの胸が少し動く。


 紙。


 古い表示。


『在』。


 グラン先生が、紙を六人の前へ回した。


 そこには。


 昨日の水晶表示を写し取った図。


 古い管理盤の『在』。


 そして。


 もう一つ。


 接続線のない『在』。


 三つの図が並んでいた。


 アリシアの呼吸が少し浅くなる。


「照合結果ですか」


「中間結果です」


 グラン先生が答える。


「昨日の水晶に現れた文字は、古い管理盤の標準表示『在』とは完全一致しません」


 分かっていた可能性。


 それでも。


 少し胸が沈む。


「下部接続線がない」


 リーネが紙を見る。


「はい」


 グラン先生は頷く。


「ただし。接続線のない『在』も、別時代の記録に存在しました」


 アリシアの目が上がる。


 マリナ先生が、別の記録片を置いた。


『未識別対象在り』


 短い記録。


 その下に説明。


『接続対象を検知したが、既存登録と一致せず。名称、所属、機能を識別できない場合、接続線を欠く「在」を表示』


 部屋が静かになる。


 アリシアは。


 一文字ずつ読む。


 接続対象を検知。


 既存登録と一致せず。


 名称。


 所属。


 機能。


 識別できない。


 接続線のない『在』。


「昨日の文字と……」


 ミランダが声を落とす。


「近い」


 グラン先生が答える。


「形状は、標準表示よりこちらに近いです」


 レオンが紙へ身を乗り出す。


「じゃあ、何かは在る。でも、何か分からない?」


 教務主任が答える。


「この表示形式と同じ仕組みであれば、そう読めます」


 同じ仕組みであれば。


 まだ仮説。


 でも。


 輪郭が変わる。


 存在確認。


 ただし。


 対象不明。


 名前なし。


 所属なし。


 機能不明。


 アリシアの胸の奥が深くなる。


 水音はない。


 痛みもない。


 冷えもない。


 ただ。


 寂しい。


 とても。


 何かがある。


 でも。


 名前が分からない。


 誰なのか分からない。


 どこに属するのかも分からない。


 忘れられた六つ目。


 黒月。


 闇。


 自分。


 様々なものへ、すぐ繋げたくなる。


「今」


 グラン先生が静かに言う。


「何を考えましたか」


 アリシアは息を吸う。


 吐く。


「私かもしれないって」


 正直に言った。


「既存登録と一致しない。名前も、所属も、機能も分からない。私が学園へ来た時も……何の属性か分からなかったから」


 教務主任は否定しない。


 グラン先生も。


 ノアは足元で黙っている。


「他には」


 グラン先生が尋ねる。


「第六補助点。闇の神器。古い残響。全部、考えました」


「事実は」


 アリシアは紙を見る。


「昨日の文字が、接続線のない『在』に近い」


「はい」


「その表示は、未識別対象を検知した時に使われた記録がある」


「はい」


「でも、同じ仕組みかは未確認」


「はい」


「何を検知したかも不明」


「良いです」


 グラン先生は記録する。


 アリシアは練習帳を開き。


 手が震える前に書く。


『中間照合:水晶表示は、標準の在より、接続線のない在に近い』


『接続線なし在:対象を検知したが既存登録と一致せず、名称・所属・機能を識別できない場合に表示された記録あり』


『未確認:昨日と同一表示系統か。対象。原因』


『感情:寂しい。自分に似ていると感じた』


 リーネが紙を見つめたまま言う。


「未識別対象……」


 普段なら。


 すぐに仮説を並べる。


 でも今日は。


 声が少し重い。


 ルシアンが静かに言った。


「“存在しない”のではなく、“分からない”という表示なのですね」


「そうです」


 マリナ先生が答える。


「少なくとも、この記録では」


 シオンは椅子へ少し深く座った。


「何かある。でも、管理側が名前を知らない」


 レオンが言う。


「だったら、調べれば名前が分かるかもしれない」


 ミランダは、紙の一文字を見つめながら。


「名前がなくても、在るって分かったんだよね」


 全員の言葉が。


 アリシアの胸へ入ってくる。


 寂しい。


 でも。


 完全な無ではない。


 識別できない。


 でも。


 検知された。


 何かは。


 在る。


「これ、返事だったんですか」


 アリシアが尋ねる。


 グラン先生は、すぐには答えなかった。


 少し長い沈黙。


 その後。


「今までより、状態表示である可能性は高まりました」


「はい」


「しかし、なぜ記録文を読んだ後に表示されたか。なぜアリシアさんの復帰宣言で消えたか。その二点は説明できていません」


「はい」


「したがって、“単なる設備表示”とも断定しません」


 返事ではないかもしれない。


 でも。


 ただの機械的な反応でも説明しきれない。


 まだ。


 中間。


 教務主任が言う。


「新しい調査範囲を追加します」


 リーネの姿勢が変わる。


「未識別表示の使用例。対象登録の仕組み。古い支点台帳の公開可能部分。この三点です」


「現地調査は」


「禁止のまま」


「再試験は」


「当面行いません」


「古い排水線の図面は」


「閲覧不可」


「承知しました」


 境界。


 明確。


 アリシアは少し安心した。


 調べる道は増えた。


 でも。


 動きすぎない。


「それと」


 教務主任は六人を見る。


「共有語が他班でも注目されています。今後、基礎訓練へ“班ごとの短い状況語”を導入する試験を行います」


 六人の空気が少し変わる。


 レオンの顔が明るくなる。


 ミランダも。


 シオンは少し驚き。


 リーネは真剣に聞く。


 ルシアンは静かに頷く。


 アリシアは。


 朝のエマを思い出した。


「六人の言葉を、そのまま使うんですか」


「いいえ」


 教務主任は答える。


「考え方だけです。各班が自分たちの役割に合わせて決める」


 胸の中に。


 嬉しさが広がる。


 自分たちの言葉が。


 形を変え。


 誰かの助けを呼ぶ言葉になるかもしれない。


「皆さんには、使用条件と失敗例の整理を依頼します」


 リーネが即座に答える。


「承知しました」


 シオンが小さく笑う。


「リーネが一番嬉しそう」


「必要な記録です」


「否定しないんだ」


「嬉しいのは事実です」


 少しだけ。


 場の緊張が和らぐ。


 アリシアは紙の上の。


 接続線のない『在』を見た。


 未識別。


 名前が分からない。


 でも。


 在る。


 その文字の隣へ。


 六人の共有語が学園へ広がる話が置かれた。


 一つは。


 名前のない何か。


 もう一つは。


 意味を共有し、名前をつけた言葉。


 対照的だった。


 ◇


 調整室を出た後。


 六人は、すぐには図書館へ向かわなかった。


 廊下の窓辺にある長椅子へ座る。


 昨日と同じように。


 大きな情報を受け取った後。


 少しだけ、日常へ戻る時間。


 レオンが最初に口を開いた。


「未識別でも、在るんだよな」


 リーネが答える。


「表示が同じ仕組みなら」


「分かってる」


 レオンは、以前より慎重になった。


「でも、俺はそう思いたい」


「感情としては良いです」


 ミランダがアリシアを見る。


「自分に似てるって、まだ思う?」


 アリシアは少し考える。


「うん」


 否定しない。


「学園に来た時、私は何なのか分からなかった。闇って言われても、正式な枠がなかった。黒月も、記録から消えてた」


 少し間を置く。


「だから、未識別って言葉が……自分みたいに感じる」


 シオンが窓の外を見る。


「でも今は、未識別じゃない部分も増えたよね」


 アリシアが顔を向ける。


「アリシア。黒月の契約者。ノアの相棒。六人目。復帰点の子。空欄担当」


「復帰点の子は、名前みたいで嫌」


 少し笑いが起きる。


 シオンも笑いながら続ける。


「全部が正式名称じゃなくても、僕たちは分かってる」


 ルシアンが静かに言う。


「管理台帳に登録されていることと、誰かに知られていることは同じではありません」


 リーネも頷く。


「未識別は、無価値という意味ではない。現在の分類で識別できないだけです」


 アリシアは、接続線のない一文字を思い出す。


 自分に似ている。


 でも。


 同じではない。


 その一文字へ。


 自分全部を沈めなくていい。


「まだ名前が分からない何かも、誰かが見つけたから『在』って出たんですよね」


 アリシアが言う。


「表示形式が同じなら」


 リーネが付け加える。


「うん」


 今はそれでいい。


 完全な無ではない。


 分からない。


 でも。


 調べる対象として、そこに置かれた。


 ◇


 図書館では。


 司書が、新しく許可された資料の準備には時間がかかると説明した。


 今日は。


 共有語の使用条件。


 失敗例。


 他班へ渡す時の注意。


 それを整理することになった。


 机の上には。


 二枚の紙。


 一枚は。


 接続線のない『在』の中間照合。


 もう一枚は。


 共有語の一般化案。


 アリシアは、二枚を見た。


 調査へ行きたい気持ち。


 未識別の意味をもっと知りたい。


 それでも。


 今日は。


 共有語を整理する。


「戻れたね」


 シオンが言う。


 アリシアは少し笑う。


「うん」


 リーネが手帳を開く。


「他班へ伝える内容を三つに分けます」


 一。


 言葉を決める目的。


 二。


 失敗例。


 三。


 使用条件。


「目的」


 ルシアンが言う。


「一人で抱え込む前に、状態と必要行動を共有する」


 リーネが書く。


「失敗例」


 アリシアが答える。


「声量とタイミングで届かなかった」


 ミランダ。


「同じ言葉を聞いて、二人が同じ場所へ動いて重なった」


 レオン。


「助けを呼ぶのが悔しくて、言うのが遅れた」


 シオン。


「無言合図の意味が共有されていなかった」


 ルシアン。


「名前付き支援など、既定外の言葉が必要になる場面があった」


 リーネが全部を書く。


「使用条件」


 少し沈黙。


 アリシアは、朝のエマへ言ったことを思い出す。


「班ごとに意味を決める。別の班の言葉を、そのまま使わない」


 リーネが頷く。


 レオンが言う。


「言った人を弱いと思わない」


 ミランダも。


「周りが必要だと思った時も言っていい」


 シオンが続ける。


「返事より、行動」


 ルシアンが静かに言う。


「ただし、行動だけで意味が分からない場合は、短く確認する」


 リーネがまとめる。


『共有語の原則』

・班ごとに意味と役割を決める。

・別班の言葉をそのまま流用しない。

・要求語は弱さの宣言ではなく状況報告。

・本人だけでなく周囲も必要を宣言できる。

・言葉への応答は行動を基本とする。

・届かなかった時は、誰かを責めず条件を確認する。

・うまくいった動きも、共有された意味か確認する。


 アリシアは一覧を見た。


 自分たちが。


 何日もかけて覚えたこと。


 失敗したこと。


 怖かったこと。


 全部が、短い文章になっている。


 エマの班。


 他の班。


 いつか。


 助けを呼べる人が増えるかもしれない。


「これを読んだ人が、一度で上手くできると思わない方がいい」


 アリシアが言う。


「はい」


 リーネが答える。


「最初の試験は、失敗条件を確認するために行うべきです」


 シオンが笑う。


「エレナ教官みたいな言い方」


「正しいので」


 皆が少し笑った。


 ◇


 夕方。


 寮へ戻る道で。


 メリルは、アリシアの話を最後まで聞いた。


 朝のエマ。


 食堂での採点中止。


 要求語なしの訓練。


 接続線のない『在』。


 未識別対象。


 共有語の一般化。


 情報が多い。


 アリシアも。


 話しながら何度か立ち止まりそうになった。


 それでも。


 メリルは急かさない。


 相槌だけで先へ進ませず。


 アリシアが言葉を探す時間を待つ。


 話し終える頃。


 二人は中庭の中央に近い場所まで来ていた。


 夕方の光が。


 濡れていた石畳を乾いた色へ戻している。


「未識別って、寂しかった?」


 メリルが聞いた。


「うん」


「アリシアちゃんに似てると思った?」


「うん」


「でも、今のアリシアちゃんは?」


 アリシアは少し考えた。


「まだ分からないことは多い」


「うん」


「でも……名前はある」


「うん」


「メリルさんも、みんなも呼んでくれる」


 メリルは微笑む。


「うん」


「黒月の契約者。闇の六人目。そういう役割も増えた」


「空欄担当も」


「それは正式じゃない」


「でも、みんな分かる」


 シオンと同じ。


 台帳ではない。


 正式な分類でもない。


 でも。


 分かってくれる人がいる。


「未識別の何かにも、名前があるのかな」


 アリシアが言う。


「私たちが知らないだけで?」


「うん」


「あるかもしれないね」


「なくても?」


 メリルは少し考えた。


「今は、名前がないっていう状態が分かったんじゃない?」


 アリシアは足を緩める。


「名前がないって分かった」


「うん。何もない、とは違う」


 胸の中に。


 静かに落ちる。


 未識別。


 名前がない。


 所属が分からない。


 機能が分からない。


 でも。


 在る。


「エマさん、先生に相談したかな」


「たぶん」


「共有語、作れるといいね」


「うん」


 見つからない名前。


 作られる言葉。


 二つが、アリシアの中で並んだ。


 ◇


 夜。


 アリシアは机へ向かい。


 練習帳を開いた。


 今日は。


 一日の中に、いくつもの出来事があった。


 最初に。


 朝の噂。


『廊下で、昨日の訓練について話す声を聞いた。恥ずかしくて布団へ戻りたくなった。でも、声と連携を見られたことは少し嬉しかった』


 次。


 エマ。


『エマ・ローディさんから、共有語を使ってよいか聞かれた。治癒補助で助けを呼ぶのが遅れることがあるそうです』


『六人の言葉をそのまま使うのではなく、班で意味を決め、先生に相談した方がよいと伝えました』


 食堂。


『レオンさんの声量採点を、公開の食堂では中止しました。六人だけの練習が、周囲から見世物のように見えるのは嫌だとレオンさんが言いました』


『本人が楽しかったことでも、見る人が増えると意味が変わることがあります』


 訓練。


『要求語なしでも、六人はある程度動けました。でも、ミランダさんの支援へ私とシオンさんが重なりました』


『言葉は、動きを命令するだけではなく、自分が何を判断したかを他者へ知らせるために必要です』


 そして。


 接続線のない『在』。


 アリシアは、丁寧に書く。


『中間照合結果』


『水晶に現れた文字は、標準表示の「在」とは完全一致しません。下部接続線がありません』


『接続線のない「在」は、未識別対象を検知した時に使用された記録があります』


『意味:対象は検知した。しかし既存登録と一致せず、名称、所属、機能を識別できない』


『未確認:昨日の表示と同じ仕組みか。対象が何か。なぜ記録文に反応したか。なぜ「戻る」で消えたか』


 ペンが少し止まる。


 感情。


『未識別という言葉を、自分に似ていると感じました。学園へ来た時、私も既存の属性へ当てはまらず、何なのか分からなかったからです』


『寂しかったです』


 隠さない。


 続ける。


『でも今の私は、完全な未識別ではありません。アリシアという名前があります。ノアの相棒です。黒月の契約者です。六人の一人です。みんなが呼んでくれます』


 ノアが机へ跳び乗る。


 いつもなら。


「今日は?」


 と聞く前に、点数を考える。


 でも。


 今日は少し違った。


 アリシアは、練習帳を閉じずにノアを見る。


「ノア」


「何?」


「接続線のない『在』、知ってた?」


 ノアは。


 すぐには答えなかった。


 金色の瞳が。


 練習帳の文字へ落ちる。


 長い沈黙。


 アリシアは。


 待った。


 問いを重ねない。


 返事の後に急がない。


 返事がない時に、沈黙へ自分の答えを入れない。


 やがて。


 ノアは静かに言った。


「形は知っていた」


 胸が鳴る。


「意味も?」


「似た意味を」


「どうして、言わなかったの」


 責める言い方にならないように。


 それでも。


 少しだけ声が震えた。


 ノアは、視線を逸らさない。


「私の知る意味と、学園の記録上の意味が同じとは限らなかったから」


「でも……」


「それと」


 ノアは少し間を置いた。


「あなたが、私の答えだけで決めてしまうのが怖かった」


 アリシアは何も言えなかった。


 ノアの言葉。


 自分は信じる。


 信じすぎる。


 ノアが返事だと言えば。


 返事にした。


 危険だと言えば。


 危険にした。


 それを。


 ノアも分かっている。


「ごめん」


 アリシアが言うと。


 ノアは少し不機嫌そうに目を細めた。


「謝る場面ではない」


「でも、ノアに答えを言わせないようにしてた」


「私が選んだ」


「うん」


「あなたが悪い話にしない」


 朝から何度も出てきた。


 届かなかった時。


 言わなかった時。


 誰かの価値へ繋げない。


「ノアの知ってる意味、聞いていい?」


 アリシアは尋ねた。


 ノアは少し考えた。


「今は、一つだけ」


「うん」


「接続線がない『在』は、私の知る古い言い方では」


 静かな声。


 部屋の夜へ落ちる。


「“ここにいるが、まだ呼ばれていない”」


 アリシアの胸が。


 大きく鳴った。


 水音はしない。


 痛みもない。


 でも。


 深い場所が、わずかに動く。


「呼ばれていない……」


「名前がない。所属がない。接続先が定まらない。だから、呼びようがない」


「学園の未識別と、似てる」


「似ているだけ」


 ノアはすぐに線を引く。


「同じとは決めない」


「うん」


「それと、昨日の表示が私の知るものと同じかも決めない」


「うん」


 アリシアは練習帳へ追記する。


『ノアの知る古い意味:ここにいるが、まだ呼ばれていない』


『注意:学園記録の未識別表示と同じかは未確認。昨日の表示と同じかも未確認』


 文字を書きながら。


 目の奥が少し熱くなる。


 ここにいる。


 でも。


 まだ呼ばれていない。


 何か。


 誰か。


 設備。


 神器。


 支点。


 残響。


 分からない。


 でも。


 その言葉が。


 とても寂しかった。


「泣く?」


 ノアが聞く。


「少し」


「泣けば」


「でも、まだ決まってない」


「決まってなくても、寂しいものは寂しいでしょう」


 アリシアは。


 少しだけ目を伏せた。


 一粒。


 涙が練習帳の余白へ落ちそうになり。


 慌てて手の甲で拭う。


「紙に落とさない」


 ノアが言う。


「濡れるから」


「そこ?」


「大事よ」


 アリシアは、泣きながら少し笑った。


 ノアは机の上で。


 アリシアの手へ額を押しつけた。


 黒い毛。


 温かい。


 戻る場所。


「今日は?」


 アリシアが少し掠れた声で尋ねる。


 ノアは考えなかった。


「百点」


「泣いたのに」


「点数と涙を結びつけない」


「噂から隠れた」


「起きて歩いた」


「『在』を自分に重ねた」


「同じとは決めなかった」


「ノアに、どうして言わなかったのって聞いた」


「聞いていい」


「少し責めた」


「後で分けた」


「……うん」


 ノアは前足を、アリシアの手の上へ置いた。


「今日の百点は、知らない人に言葉を渡す時、無責任に渡さなかった点数」


「うん」


「レオンが嫌だと言った時、採点を続けなかった点数」


「うん」


「未識別を、自分の価値へ繋げきらなかった点数」


「うん」


「そして、私の答えだけで決めなかった点数」


 胸の中に。


 静かに入る。


「ありがとう」


「礼はいい」


「でも、言いたいから」


「知ってる」


 ノアは最後の余白を見る。


「書くなら?」


 アリシアは。


 今日一日を思い返す。


 広がった噂。


 エマ。


 共有語。


 見られること。


 言葉が外へ出ること。


 未識別。


 名前がない。


 呼ばれていない。


 そして。


 自分を呼んでくれる人たち。


 ゆっくり一行を書く。


『名前が分からなくても、在るものは消えない』


 ノアは黙って見ている。


 アリシアは続けた。


『でも、呼ばれないまま在ることは、きっと寂しい』


 少しだけ手が止まる。


 そして。


 最後の一行。


『だから、いつか正しい名前が分かった時は、私たち六人で呼びたい』


 ノアの金色の瞳が。


 静かに細くなる。


「それでいいわ」


 アリシアは練習帳を閉じた。


 夜は静かだった。


 水音はしない。


 接続線のない『在』も。


 もう浮かばない。


 けれど。


 胸の中には。


 一つの言葉が残った。


 ここにいる。


 まだ呼ばれていない。


 それが何を指すのか。


 まだ分からない。


 自分たちが呼んでよいものなのかも。


 分からない。


 だから。


 今は、急いで名前をつけない。


 勝手な呼び方で縛らない。


 ただ。


 在る可能性を記録する。


 分からないことを、分からないまま守る。


 そして。


 いつか。


 名前が見つかった時。


 誰か一人ではなく。


 六人で。


 同じ意味を知り。


 同じ言葉で。


 呼べるように。


 アリシアは灯りを落とし、寝台へ入った。


 足元にはノア。


 明日になれば。


 メリルが廊下で待っている。


 食堂には六人の席ができる。


 エマの班も。


 自分たちの言葉を作り始めるかもしれない。


 呼びかければ。


 返事が来る人たちがいる。


 その確かな存在へ戻りながら。


 アリシアは、まだ名前のない何かを。


 胸の奥で、静かに待つことにした。

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