第61話 返事の翌日
翌朝。
アリシアは、目を覚ましてからしばらく、自分がどこにいるのかを確かめるように天井を見つめていた。
白い天井。
木の梁。
閉じた窓。
薄いカーテン越しに差し込む、柔らかな朝の光。
机の横に立てかけた木刀。
昨夜閉じた練習帳。
そして、寝台の足元で丸くなっているノア。
学園の寮。
自分の部屋。
現実。
水辺ではない。
測定室でもない。
水晶板もない。
黒い波紋も、白い文字も浮かんでいない。
それでも、昨日見た一文字は、目を閉じなくても思い出せた。
『在』
水晶板の内部。
黒い波紋の中心。
細い白い光が形を結び、確かにそこへ浮かんだ文字。
夢の中でも見た。
現実でも見た。
六人全員が見た。
教員たちも確認した。
けれど、意味はまだ分からない。
何が在るのか。
誰が在るのか。
どこに在るのか。
返事なのか。
記録の反応なのか。
アリシア自身の魔力が作った文字なのか。
そのどれも、まだ決められない。
胸元へ手を当てる。
痛みはない。
冷えもない。
胸の奥は、昨日より少し浅い。
水音も聞こえない。
けれど、何もなかった朝とは少し違った。
何かを知ってしまった後の静けさ。
答えではないものを抱えたまま迎えた朝。
その静けさが、部屋の中へ薄く沈んでいる気がした。
「起きてるわね」
ノアの声がした。
アリシアは足元を見る。
ノアは目を閉じたまま言っている。
「起きてるなら、胸を確認」
「したよ」
「水音」
「なし」
「痛み」
「なし」
「冷え」
「なし」
「深さ」
「昨日より浅い」
「なら記録」
「うん」
ノアは目を開けた。
金色の瞳が、まっすぐアリシアを見る。
「それと、朝から『在』の意味を考えすぎない」
「考えてるの、分かる?」
「顔に書いてある」
「どんなふうに?」
「答えを探して、天井の木目まで文字に見え始めてる顔」
アリシアは反射的に天井を見た。
木目は、ただの木目だった。
「見てないよ」
「今見たでしょう」
「確認しただけ」
「そういうことにしておくわ」
ノアは伸びをし、寝台から机へ飛び移った。
アリシアも起き上がる。
床へ足をつけた時、昨日の緊張が少しだけ体に残っていることに気づいた。
肩。
首。
背中。
合同訓練後の疲労とは違う。
ずっと息を詰めていた後の、静かな張り。
アリシアはそれも覚えておこうと思った。
机へ向かい、練習帳を開く。
昨夜の最後の一文が、朝の光に照らされていた。
『何が在るのかは分からない。でも、私はここに在る』
『ノアも、みんなも、私の戻る場所も、ここに在る』
『だから、知らない返事へ急いで沈まなくてもいい』
その言葉を読むと、胸の奥が少し温かくなる。
アリシアは新しい頁を開いた。
『朝、水音なし。痛み、冷えなし。胸の奥は昨日より浅い。肩、首、背中に緊張の残りあり。「在」の意味を考えたくなる。でも、まだ答えではない』
そこでペンを止める。
昨日、ノアから初めて百点をもらった。
夢の中で水へ入らなかった。
現実でも追わなかった。
戻ると言えた。
意味を決めなかった。
それを褒めてもらった。
その事実も嬉しい。
けれど。
百点をもらった翌日だからといって、今日も同じようにできるとは限らない。
生活基礎で学んだ。
昨日の成功を、今日の義務にしない。
アリシアは書き足す。
『昨日百点だったから、今日も百点でなければならないわけではない。今日は今日の記録をする』
ノアが練習帳を覗く。
「いいわね」
「今日の点数は?」
「まだ早い」
「昨日は朝からつけてたのに」
「百点をもらった翌日、点数を意識しすぎ」
「う……」
「今の時点で九十四点」
「下がった」
「ほら、気にした」
アリシアは唇を尖らせそうになり、途中で少し笑った。
「ノア、わざとでしょ」
「何のことかしら」
ノアは尻尾を揺らす。
アリシアは制服へ着替えた。
鏡の前に立つ。
黒髪。
黒い瞳。
昨日より少し疲れている顔。
けれど、怯えた顔ではない。
「背筋」
ノアが言う。
アリシアは背筋を伸ばす。
「今日は、返事の意味を決めない」
「それだけ?」
「返事だったかどうかも決めない」
「よろしい」
「でも、なかったことにもしない」
ノアが少しだけ目を細めた。
「それでいいわ」
◇
扉を開けると、メリルはいつもの場所で待っていた。
「おはよう、アリシアちゃん」
「おはよう、メリルさん」
メリルはアリシアの顔を見ると、すぐに少し心配そうな表情になった。
「眠れた?」
「うん。夢は見なかったと思う」
「水音は?」
「なし。胸も昨日より落ち着いてる」
「よかった」
メリルは、心から安心したように息を吐いた。
二人と一匹で歩き出す。
廊下の窓から、朝の光が斜めに差し込んでいる。
床へ細長く伸びた窓枠の影。
その上を歩く生徒たちの靴。
制服の布が擦れる音。
誰かが友人を呼ぶ声。
いつもの学園の朝。
アリシアは、その一つ一つを少し意識して受け取った。
昨日の測定室とは違う。
張りつめた沈黙はない。
誰も水晶板を見つめていない。
誰も反応を待っていない。
今は、朝食へ向かう時間。
「昨日のこと、ずっと考えてた?」
メリルが聞く。
「少し」
「少し?」
「……かなり」
「うん」
メリルは笑った。
「でも、答えを決めないようにしてる」
「在る、って文字のこと?」
「うん。返事みたいに感じた。でも、本当に返事なのかは分からない」
「返事だったら嬉しい?」
その質問に、アリシアは少し足を緩めた。
嬉しい。
たぶん。
『応答なし』という言葉へ。
『在』と返ってきたのだとしたら。
何も消えていなかった。
何かが残っていた。
忘れられていなかった。
そう思える。
「嬉しいと思う」
アリシアは正直に答えた。
「でも、何が在るのか分からないから……嬉しいって決めるのも少し怖い」
「怖いものかもしれない?」
「うん。それに、私の魔力が文字を作っただけかもしれない」
「そっか」
メリルは、答えを出そうとはしなかった。
「じゃあ、嬉しいかもしれないし、怖いかもしれない。今は両方だね」
「うん」
それでいい。
決めなくていい。
二人は同じ歩調で階段を下りた。
少し前を歩いていた生徒たちが、アリシアへ視線を向ける。
すぐに顔を逸らす者。
小声で何かを話す者。
会釈する者。
昨日の測定室の出来事が外へ漏れているとは考えにくい。
教員たちは情報を厳しく管理している。
それでも、六人が結界管理室へ入ったこと。
教務主任や複数の教員が集まっていたこと。
その程度の噂は、すでに広がっているのかもしれない。
アリシアの肩が少し固くなる。
メリルが気づく。
「見られてるね」
「うん」
「嫌?」
「少し。でも、今は答えなくていい」
「何を?」
「何があったのって聞かれても」
「うん。話していい範囲は先生たちが決めるもんね」
「うん」
話さないことも、隠し事とは限らない。
境界。
安全。
許可。
生活基礎で何度も学んだ。
アリシアは顔を下げすぎないように歩いた。
◇
食堂へ入ると、いつもの席はすでに埋まり始めていた。
レオン。
ミランダ。
リーネ。
シオン。
ルシアン。
ガレスも近くにいる。
六人が自然に集まるようになってから、周囲の視線は以前より増えた。
火、水、風、土、光。
五属性の候補者。
そして、黒猫を連れた黒髪の少女。
ただ一緒に朝食を取っているだけでも、少し目立つ。
「おはよう、アリシア」
レオンが言った。
声量は控えめだった。
しかし、今日はリーネも点数をつけなかった。
全員が、まずアリシアの顔を見た。
アリシアは席につく前に報告する。
「水音なし。胸の反応なし。夢なし。肩と首に少し緊張が残っています」
リーネが頷く。
「良い報告です」
ミランダがほっとしたように笑う。
「よかった」
シオンは頬杖をつきながら言った。
「昨日の後だし、もっと眠れないかと思った」
「私もそう思ったけど、寝られました」
ルシアンが静かに尋ねる。
「白い文字については、今朝も強く意識しますか」
「はい。でも、答えにはしていません」
「それが良いと思います」
レオンは少し迷ってから言った。
「俺、昨日からずっと考えてた」
全員が彼を見る。
「『在』って、やっぱり返事じゃないのか?」
リーネが眼鏡を押し上げる。
「未確定です」
「分かってる。でも、応答なしの後だぞ?」
「意味上は、返答に見えます」
ルシアンが言った。
「ですが、文字が誰の意志によって生まれたかは分かりません」
シオンがパンをちぎりながら続ける。
「アリシアの無意識かもしれないし、水晶の記録反応かもしれないし、本当に何かが返したのかもしれない」
ミランダが小さく言う。
「何かって……誰?」
「それが分からないから、今は決められない」
アリシアが答えた。
自分の声で言うと、少し落ち着く。
レオンは難しい顔をした。
「でも、何もないなら文字は出ないだろ?」
リーネが言う。
「何らかの原因はあります。ただし、原因が人格や意志を持つ存在とは限りません」
「設備の反応?」
「可能性の一つです」
ルシアンは紅茶を見ながら言った。
「古い術式が、特定の言葉へ反応した可能性もあります」
シオンが続ける。
「『応答なし』っていう記録を否定するための確認術式とか」
「それも仮説です」
リーネが言う。
「分かってる」
レオンは腕を組んだ。
「難しいな」
「うん」
アリシアも頷く。
「難しいです」
以前なら。
自分だけが分からないと思っていた。
周りは全部分かっていて、自分だけが追いついていないように感じていた。
でも今は。
レオンも分からない。
ミランダも。
シオンも。
ルシアンも。
リーネでさえ、記録はできても答えは出せない。
先生たちも、まだ分からないと言っている。
分からない場所に、みんなで立っている。
そのことが、少し心強かった。
「今日、先生たちから何か話あるかな」
ミランダが聞く。
リーネが答える。
「追加試験は当面行わないと明言されています。調査範囲も変更なしです」
「じゃあ、普通の日?」
レオンが言う。
シオンが小さく笑う。
「普通の日は空白じゃないって、誰かが言ってたね」
アリシアは少し驚く。
「どうして知ってるんですか」
「前にアリシアが言ってた」
「そうだっけ」
「食堂で、普通の日ほど大事って」
自分が言ったことを、誰かが覚えている。
それだけで少し恥ずかしく、嬉しい。
ノアが椅子の上で言う。
「パン」
「あ」
アリシアはパンへ手を伸ばす。
今日は少し柔らかい。
ゆっくりちぎる。
形はきれいに残った。
「九十三点」
ノアが言う。
アリシアは少し嬉しくなる。
「昨日より低い」
「昨日は特別」
「今日も頑張ってるのに」
「点数を目的にしない」
「はい……」
レオンが真剣に言う。
「九十三点は高いぞ!」
「ありがとう」
シオンが笑う。
「レオン、最近パン採点に慣れすぎ」
食卓に小さな笑いが広がった。
昨日の緊張が、少しだけほどける。
◇
生活基礎の授業。
セリア先生が黒板に書いた言葉は。
『返事の後に、急がない』
だった。
アリシアは、思わずペンを握る手を止めた。
教室の前方。
穏やかな表情のセリア先生。
いつもの授業。
それなのに、今日も自分へ向けられたような言葉。
もちろん、昨日の出来事を先生が知っている可能性はある。
教員間で必要な情報は共有されている。
けれど、それだけではない。
この学園で生活する多くの生徒に必要な話なのだろう。
セリア先生は話し始めた。
「何かを尋ねて、返事が来た時、人は安心します」
教室に、チョークの音が響く。
「ですが、返事が来たことで、すぐ次の質問を重ねてしまうことがあります」
アリシアはノートに書く。
『返事の後、すぐ次を聞きたくなる』
まさにそうだった。
『在』
それを見た瞬間。
何が。
誰が。
どこに。
なぜ。
次々に聞きたくなった。
もう一度、読みたいと思った。
反応を追いたい気持ちもあった。
「返事は、次の問いへの許可とは限りません」
胸に強く刺さる。
返事。
もし昨日の『在』が、本当に返事だったとしても。
もっと聞いてよいという意味ではない。
「一つの返事を受け取ったら、まずその返事を扱う時間が必要です。意味を考える。誤解がないか確かめる。自分の感情を整理する。相手の負担を考える」
アリシアは大きく書いた。
『返事を受け取った後は、扱う時間』
「すぐ次へ進まないことは、臆病ではありません。受け取ったものを大切にする態度です」
昨日、追加試験はしないと決まった。
追跡もしない。
それは、ただ危険だから止めたのではない。
得た反応を扱う時間。
今はそこ。
班練習では、「返事を受け取った後、どうするか」を話し合った。
トマが言う。
「返事来たら、すぐ聞き返すけどな」
ミーナが少し笑う。
「内容によるわね」
メリルは言う。
「大事な返事なら、一回持って帰って考えるかも」
アリシアはノートを見ながら言った。
「私は……返事かもしれないものを受け取って、すぐ意味を決めたくなった。でも、今は記録して、みんなと考える」
トマが首を傾げる。
「返事かもしれないもの?」
アリシアは一瞬、言いすぎたかと思った。
話せる範囲。
詳細は言わない。
「調査の中で、そういうことがあって」
「そっか」
トマはそれ以上聞かなかった。
その距離がありがたい。
ミーナが言う。
「急がない判断ができているなら、それでいいと思うわ」
アリシアは頷いた。
◇
戦闘基礎では、エレナ教官が生徒たちを二列に並べた。
今日の課題は、「反応の後」。
「相手が一度動いた後、すぐ次を決めるな」
エレナ教官は木剣を持ち、床を軽く叩いた。
「一手目を見て、相手の癖を決めつける者がいる。右へ動いたから次も右。下がったから弱気。攻撃したから前進型。早すぎる」
昨日の『在』と同じ。
一つの反応。
それだけで、全部を決めない。
「一度の反応は情報だ。性質の確定ではない」
アリシアは木刀を握った。
メリルと組む。
相手はカイルとミーナ。
一回目。
カイルが右へ踏み込む。
アリシアは右型だと思いそうになる。
次の瞬間、カイルは左へ切り返す。
アリシアは遅れる。
「止め」
エレナ教官が言う。
「一手目で決めたな」
「はい」
「反応を見た。だが、相手の全部を知ったわけではない」
「はい」
二回目。
ミーナが槍を低く構える。
下から来る。
そう思う。
だが、槍は上へ上がる。
アリシアは木刀を動かしかけ、止める。
相手を見る。
修正する。
「止め」
「今のは待てた」
「はい」
三回目。
カイルが右。
次も右。
今度は同じ。
それでも、アリシアは安心しすぎない。
動きを最後まで見る。
メリルへ短く伝える。
「右、続きます」
「うん」
風が通る。
「止め」
エレナ教官が頷く。
「反応が続いた場合も、二回で性質を決めるな」
「はい」
「記録は重ねる。判断は更新する」
調査と同じ。
水音。
夢。
黒い波紋。
白い光。
『在』
一度だけではないものもある。
でも、まだ少ない。
判断は更新する。
決めつけない。
授業後、エレナ教官がアリシアを呼んだ。
「昨夜は」
「眠れました。夢なし。水音なし。胸の反応なし」
「意味を決めたか」
「決めてません」
「次を試したいか」
アリシアは少し迷った。
「少しは」
「正直でいい」
「でも、今はやりません」
「それもいい」
エレナ教官は腕を組む。
「昨日の反応は、敵ではないと決まったわけではない」
「はい」
「味方とも決まっていない」
「はい」
「自分の一部とも、外部とも決まっていない」
「はい」
「だから、今は一度の反応として置け」
「はい」
明確な言葉だった。
少し冷たくも聞こえる。
でも、安全な線。
アリシアは頷いた。
「一つだけ聞いてもいいですか」
「言え」
「先生は……あの文字を見て、怖かったですか」
エレナ教官は少し黙った。
まっすぐな視線がアリシアへ向く。
「警戒した」
「怖いとは違う?」
「似ている。だが、動ける形にしたものが警戒だ」
アリシアはその言葉を胸へ置いた。
怖さを、動ける形にする。
警戒。
記録。
報告。
境界。
それが、今の先生たちの姿勢なのだ。
「ありがとうございます」
「礼はいい。戻れ」
「はい」
アリシアはいつもの場所へ戻った。
◇
昼食後。
図書館の閲覧席には、昨日の測定記録の複写が置かれていた。
直接の水晶板は、すでに結界管理室で封印保管されている。
六人は紙だけを見る。
司書からの指示は明確だった。
今日は事実整理のみ。
新しい試験提案は禁止。
現地調査禁止。
『在』の意味に関する仮説は三つまで。
リーネはその条件を手帳の最上部へ書いていた。
「仮説三つまで、って珍しいね」
シオンが言う。
「増やしすぎ防止です」
「リーネ対策?」
「全員です」
レオンが資料を見ながら腕を組む。
「三つなら、厳選しないとな」
ミランダも真剣に頷く。
アリシアは、少しだけおかしくなる。
大事な調査。
緊張もある。
でも、六人で考えると、息が詰まりすぎない。
リーネが整理を始める。
「まず事実」
全員で確認する。
記録文を一度読み上げた。
約五秒後に水音。
黒い波紋。
白い『在』。
外部干渉なし。
五属性候補は魔力未使用。
アリシアの復帰宣言後に反応消失。
身体異常なし。
再試験なし。
「次に、夢との共通点」
アリシアが話す。
夢でも、水音。
波紋。
『在』。
戻ると言って終了。
「相違点」
ルシアンが言う。
「夢は水辺。現実は水晶板」
シオンが続ける。
「夢はアリシア一人。現実は複数人立会い」
ミランダが言う。
「夢はノアちゃんだけが戻れって言った。現実はエレナ先生も」
レオンが言う。
「夢は何秒後か分からない。現実は五秒」
リーネがすべて記録する。
「では、仮説を三つ」
最初に口を開いたのはルシアンだった。
「一。アリシアさんの夢の記憶が、水晶反応へ投影された」
リーネが書く。
「二つ目」
シオンが言う。
「夢と現実に、同じ外部要因が作用した」
「外部と断定しない方がいい」
リーネが指摘する。
「同一原因」
「修正します。同一原因が、夢と現実の両方に作用」
書く。
「三つ目」
全員が少し黙る。
レオンが言った。
「第六補助点か何かが、本当に返した」
部屋が静かになる。
あまりにも真っ直ぐな仮説。
アリシアの胸が少し揺れる。
リーネは、すぐには否定しなかった。
「表現を慎重にします」
少し考え、書く。
『第六補助点、または関連術式が、記録文に対して応答反応を示した』
「これなら?」
リーネが尋ねる。
ルシアンが頷く。
「人格や意志の存在を前提にしていません」
シオンも頷く。
「いいと思う」
アリシアは三つの仮説を見る。
一。自分の記憶の投影。
二。同一原因が夢と現実へ作用。
三。第六補助点、または関連術式による応答反応。
どれもあり得る。
どれもまだ分からない。
「アリシアさんは?」
リーネが聞く。
「どれが近いと感じますか」
アリシアは少し考えた。
本当は三つ目。
返事。
何かが応えた。
そう感じたい。
でも、感じたいことと、近いと思うことは同じではない。
「気持ちは三つ目です」
正直に言う。
「でも、判断はできません」
リーネが頷く。
「感情と判断を分離」
シオンが少し笑う。
「アリシア、かなり上手くなったね」
「最近、そればかりしてるから」
「でも、できるようになったのは事実」
アリシアは少しだけ照れた。
◇
しばらくして、司書が閲覧席へ来た。
リーネは三つの仮説を見せる。
司書は丁寧に読み、頷いた。
「許可した範囲に収まっています」
その言葉に、全員が少し安心する。
「今後は?」
レオンが尋ねる。
「当面、追加試験はありません」
司書ははっきり答えた。
「既存記録の比較を優先します」
「どんな記録ですか」
リーネが聞く。
「第六補助点、保持点、支点という名称が使われた年代。『応答』という言葉が、他の結界設備でも使われていたか。白色文字反応の前例」
アリシアはすぐに確認する。
「私たちが見てもいいですか」
「一部は、後日公開範囲へ追加される可能性があります。今は待ってください」
「はい」
待つ。
返事の後に、急がない。
今日の生活基礎と同じ。
司書はアリシアを見る。
「次の反応を求めたい気持ちはありますか」
直接の質問だった。
アリシアは少し緊張したが、答える。
「あります」
「どのくらい?」
「昨日ほどではないです。でも、もう一度読んだら、別の文字が出るのかなって思います」
「正直で良いです」
司書は穏やかに言った。
「その気持ちは記録してください。ただし、実行には移さない」
「はい」
「返事らしきものを受け取った直後は、問いを増やしたくなります。今は、受け取った一文字を扱う時間です」
「分かりました」
アリシアは練習帳へ書いた。
『次の反応を見たい気持ちあり。ただし実行しない。今は「在」を扱う時間』
ノアが足元で頷く。
◇
夕方。
寮へ戻る道で、六人は途中まで一緒だった。
レオンとミランダが前を歩く。
シオンとリーネが少し後ろ。
ルシアンはアリシアから半歩離れた位置。
ノアは足元。
メリルは別授業の後で合流し、アリシアの隣にいる。
六人と一人と一匹。
以前なら、これほど多くの人に囲まれるだけで疲れていた。
今も疲れる。
でも、息ができる。
沈黙があっても、怖くない。
レオンが振り返る。
「なあ、在るって一文字だけだと、何にでも使えるよな」
リーネが言う。
「だからこそ、意味の確定が難しいです」
「俺たちが在る、でもいいよな」
レオンの言葉に、アリシアは少し目を見開く。
ミランダが笑う。
「うん。六人が在る!」
シオンが肩をすくめる。
「僕たちは見れば分かるけどね」
ルシアンは静かに言う。
「しかし、確認できる存在を基準にするのは悪くありません」
アリシアは一人ずつ見る。
レオンがいる。
ミランダがいる。
リーネがいる。
シオンがいる。
ルシアンがいる。
メリルがいる。
ノアがいる。
そして、自分も。
昨日の文字の意味は分からない。
でも、ここにいる人たちの存在は分かる。
触れられる。
声を聞ける。
返事が来る。
「昨日の『在』より、こっちの方が分かりやすいです」
アリシアが言う。
レオンが笑う。
「そうだろ!」
声が大きい。
リーネが反射的に言う。
「七十四点です」
「今日は採点なしじゃなかったのか!」
「今朝だけです」
全員が笑った。
アリシアも笑う。
笑い声が、中庭の石壁へ反響する。
それもまた、一つの返事のようだった。
◇
夜。
アリシアは練習帳を開いた。
今日一日を、ゆっくり書く。
『今日は、返事らしきものを受け取った翌日でした。水音、夢、胸の反応はありません。肩と首に昨日の緊張が少し残っていました』
『生活基礎では、返事の後に急がないことを学びました。返事が来たからといって、次の質問をしてよいとは限りません。まず、受け取ったものを扱う時間が必要です』
『戦闘基礎では、一度の反応で相手の性質を決めない訓練をしました。反応は情報ですが、全部ではありません』
『図書館では、「在」について三つだけ仮説を置きました』
一。夢の記憶が水晶へ投影。
二。同一原因が夢と現実へ作用。
三。第六補助点、または関連術式による応答反応。
『私の気持ちは三つ目です。でも、判断はできません』
アリシアはペンを止める。
今日、司書に聞かれたことも書く。
『次の反応を見たい気持ちはあります。でも、今は実行しません。「在」を扱う時間です』
ノアが机へ跳び乗る。
「今日は?」
アリシアが聞く。
ノアは少し考えた。
「九十八点」
「百点じゃない」
「当然でしょう」
「減点は?」
「朝、百点を意識した」
「うん」
「それから、『在』の次の文字を少し考えた」
「……うん」
「でも、実行しないと決めた。仮説も三つに絞った。十分良い」
アリシアは少しだけ笑った。
「昨日百点だったけど、今日九十八点でも大丈夫?」
「点数はあなたの価値じゃない」
ノアは即答した。
アリシアは目を瞬いた。
朝、自分で書いたこと。
仮説と自分を同じにしない。
点数とも同じにしない。
「うん」
「今日の九十八点は、昨日の百点より下という意味じゃない。今日は今日」
「うん」
「最後に書くなら?」
アリシアは考えた。
昨日の返事。
今日の沈黙。
次を知りたい気持ち。
急がない判断。
そして、帰り道に見たみんな。
少し考えて、一行を書く。
『知らない「在」の意味より、今ここにいる人たちの方が確か』
ノアは静かに頷いた。
アリシアはもう一行書く。
『返事を急いで増やさなくても、私は今日の声を聞ける』
ノアは目を細めた。
「いいわね」
アリシアは最後に、短く付け加えた。
『今日は今日』
練習帳を閉じる。
夜は静かだった。
水音はしない。
白い文字も浮かばない。
胸の奥には、まだ深い場所がある。
その底に何が在るのかは分からない。
けれど、今夜のアリシアは、答えを求めて水底を覗き込み続けなかった。
窓の外には月がある。
机の上には練習帳がある。
足元にはノアがいる。
明日になれば、またメリルが廊下で待っている。
食堂には、六人の席ができる。
それらの方が、今はずっと確かだった。




