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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第62話 応答という言葉


 翌朝。


 アリシアは、目を覚ましてから最初に窓の外を見た。


 まだ完全には明るくなっていない空。


 夜の名残を薄く溶かしたような青。


 中央塔の尖塔は朝靄の向こうに輪郭だけを浮かべ、寮の中庭には誰の姿もなかった。


 静かな朝だった。


 水音はしない。


 胸の奥も、昨日と変わらず穏やかだった。


 痛みもない。


 冷えもない。


 夢の記憶も残っていない。


 アリシアは寝台の上で一度、ゆっくり息を吸った。


 吐く。


 もう一度。


 体の中に、知らないものが入り込んでいないか確かめるような呼吸ではない。


 自分が今、ここにいると確かめるための呼吸。


 昨日の夜に書いた言葉を思い出す。


『知らない「在」の意味より、今ここにいる人たちの方が確か』


『返事を急いで増やさなくても、私は今日の声を聞ける』


『今日は今日』


 今日も。


 今日だった。


 昨日の続きではある。


 けれど、昨日と同じではない。


「今日は天井を読んでないわね」


 ノアの声がした。


 アリシアは顔を向ける。


 ノアは机の上に座っていた。


 いつの間に移動したのか分からない。


 黒い毛並みが、窓から入る淡い光を吸い込んでいる。


「読んでないよ」


「昨日は木目に答えを探してたでしょう」


「探してない」


「探しかけてた」


「少しだけ」


「素直でよろしい」


 アリシアは小さく笑い、寝台から降りた。


 床へ足をつける。


 昨日まで残っていた肩や首の緊張も、今朝はかなり軽い。


 体は日常へ戻り始めている。


 けれど頭の中には、まだ一文字がある。


『在』


 返事なのか。


 反応なのか。


 術式なのか。


 自分の記憶なのか。


 意味は決まらない。


 それでも、忘れることはできない。


「ノア」


「何?」


「昨日は、『在』を扱う時間って言われたけど……扱うって、何をすればいいのかな」


 ノアは少しだけ目を細めた。


「まず、意味を増やしすぎない」


「うん」


「次に、同じ言葉が他でどう使われているかを見る」


「他で?」


「昨日、司書が言っていたでしょう。『応答』という言葉が他の結界設備にも使われていたかを調べると」


「うん」


「『応答なし』が、人に向けた言葉なのか、設備へ使う言葉なのか。それが分かれば、少なくとも想像の幅は少し狭くなる」


「そっか」


 アリシアは机へ向かい、練習帳を開いた。


 新しい頁に書く。


『朝、水音なし。夢なし。胸の反応なし。体の緊張は軽い。「在」の意味はまだ考える。でも、今日は「応答」という言葉の使われ方を見る』


 少し考え、もう一行。


『応答という言葉が設備にも使われるなら、「応答なし」を誰かの沈黙と決めつけなくてよい』


 書いてから、アリシアはペンを止めた。


 昨日まで。


『応答なし』という文字を見るたび、寂しいと思っていた。


 誰かが呼ばれた。


 でも返事がなかった。


 忘れられた。


 眠ったまま。


 そんな物語を、無意識に重ねていた。


 けれど、もし結界設備の起動失敗を「応答なし」と呼ぶのなら。


 そこに寂しさを感じたのは、自分の心だ。


 記録そのものではない。


「少し楽になった?」


 ノアが聞く。


「まだ分からないけど……人の返事じゃない可能性を、ちゃんと見られそう」


「よろしい」


「でも、本当に返事だった可能性も残る?」


「残る」


「両方?」


「両方。今はね」


 どちらかを捨てなくていい。


 ただし、どちらかへ決めつけない。


 アリシアは頷いた。


「今日の点数は?」


「九十七点」


「まだ何もしてないのに」


「昨日の百点を引きずってないから」


「少しは気にしてる」


「だから三点引いた」


「厳しい……」


「点数を聞かなければ九十八点だったかもね」


「ずるい」


 ノアは満足そうに尻尾を揺らした。


 アリシアは制服へ着替え、鏡の前へ立つ。


 黒髪。


 黒い瞳。


 少し考え込んでいる顔。


 でも、昨日より柔らかい。


「背筋」


 ノアが言う。


 アリシアは背筋を伸ばした。


「今日は、応答を人の返事だけだと思わない」


「ええ」


「でも、言葉の温度も無視しない」


 ノアは少しだけ目を細めた。


「いいわね」


 ◇


 廊下へ出ると、メリルがいつもの場所で待っていた。


「おはよう、アリシアちゃん」


「おはよう、メリルさん」


 メリルはアリシアの顔を見ると、少し安心したように笑った。


「今日は昨日より軽そう」


「うん。肩も楽。水音も夢もなし」


「よかった」


 二人と一匹で歩き始める。


 朝の廊下には、いつもの気配が戻っていた。


 眠そうに歩く生徒。


 教科書を抱えたまま友人を待つ生徒。


 課題を忘れたらしく、慌てた声を上げる生徒。


 誰かが笑い。


 誰かが欠伸をし。


 誰かが廊下の窓を開ける。


 流れ込んだ朝の風が、アリシアの黒髪を少し揺らした。


「今日は、何を調べるの?」


 メリルが聞いた。


「『応答』って言葉が、昔の記録でどう使われてたか」


「応答なし、の?」


「うん。私、あの言葉を人の返事みたいに受け取ってたから」


「寂しいって言ってたね」


「うん。でも、設備の起動確認でも応答って言うなら……寂しさは私が足したものになる」


 メリルは少し考えた。


「でも、寂しく感じたことまで間違いにはならないよね」


「うん。感情としては本当」


「記録の意味とは別だけど」


「うん」


 アリシアは少し笑った。


 メリルは、いつもこうして言葉を柔らかく受け止めてくれる。


 事実と感情を分ける。


 でも、感情を切り捨てない。


 その距離が心地よかった。


「昨日の『在』も、設備の反応かもしれない?」


「うん。古い術式が、『応答なし』って言葉に反応したとか」


「返事じゃなくて、確認表示みたいな?」


「それもありそう」


 メリルは頷いた。


「じゃあ、今日少し分かるかもね」


「分からないことが増えるかもしれない」


「それも調査だね」


「うん」


 二人は階段を下りる。


 途中、向かいから来た一年生らしい女子生徒二人が、アリシアを見るなり小声で何かを話した。


 黒猫。


 合同訓練。


 結界管理室。


 聞き取れたのは、その程度。


 アリシアの肩が少し固くなる。


 メリルが視線だけで気づく。


「大丈夫?」


「うん。話していいことは、まだ増えてない」


「じゃあ、そのままでいいよ」


「うん」


 知られていること。


 知られていないこと。


 話していいこと。


 話さないこと。


 そこにも境界がある。


 アリシアは、女子生徒たちを責めることなく、そのまま歩き続けた。


 ◇


 食堂へ入ると、いつもの席にはすでにレオンとミランダがいた。


 レオンはパンを丸ごと一つ持ち、なぜか真剣な顔で見つめている。


 ミランダも隣から覗き込んでいた。


「何してるんですか?」


 アリシアが尋ねると、レオンは顔を上げた。


「パンの声量を考えてた!」


 アリシアは言葉を失う。


 シオンが、少し離れた席から言った。


「聞かない方がいいと思う」


 リーネはすでに手帳を開いているが、この件は記録していない。


 ガレスだけは真剣に頷いていた。


「硬いパンは割る音が大きいからな」


「そういうことか!」


「違うと思う」


 ミランダが笑う。


 アリシアも思わず笑った。


「おはようございます」


 ルシアンも少し遅れて席へ来る。


 全員が揃う。


 アリシアは座る前に、いつもの体調報告をした。


「水音なし。夢なし。胸の反応なし。体の緊張も軽くなりました」


 リーネが頷く。


「良好です」


 シオンが言う。


「『在』の意味は?」


「決めてません。今日は、『応答』って言葉の使われ方を見るつもりです」


 ルシアンが静かに頷く。


「昨日、司書さんが話していた比較資料ですね」


「はい」


 レオンはパンを置き、少し真面目な顔になる。


「応答って、人じゃなくても使うのか?」


 リーネが答える。


「現代の結界管理でも使います。術式へ魔力を流し、所定反応が返ることを応答と呼ぶ場合があります」


「じゃあ、第六補助点の応答なしも、壊れてただけかもしれない?」


「可能性はあります」


 ミランダが少し寂しそうに言う。


「じゃあ、誰かが返事しなかったわけじゃないんだ」


 リーネは少し考えた。


「そうとは限りません。記録者が設備を擬人的に表現した可能性もあります。古い魔術記録では、術式反応を『眠る』『拒む』『応える』と記す例があります」


 シオンが言う。


「結局、言葉の使い方を見ないと分からないね」


「はい」


 アリシアは頷いた。


 同じ「応答」でも。


 人の返事。


 設備の起動。


 術式の反応。


 魔力の返流。


 書いた人の表現。


 いくつも意味がある。


 ルシアンが静かに言う。


「昨日の『在』も、意味だけでなく、表示方法として見る必要があるかもしれません」


「表示方法?」


「たとえば、正常なら『在』、異常なら別の文字が出る術式だった可能性です」


 レオンが目を丸くする。


「状態表示か!」


 リーネの筆が動く。


「仮説数制限は昨日の整理に対するものです。今日は新規資料確認前なので、現時点では記録のみ」


 シオンが少し笑う。


「ちゃんと制御してる」


 アリシアはルシアンの言葉を考えた。


『在』


 誰かの返事ではなく。


 状態表示。


 存在確認。


 接続確認。


 ある。


 残っている。


 機能している。


 そういう意味かもしれない。


 返事だと思いたい気持ちは、まだある。


 けれど、別の見方が増えると、少し呼吸が楽になる。


「私、返事にしたがってたと思います」


 アリシアは言った。


 食卓が少し静かになる。


「応答なしって寂しく感じたから、その後の『在』を返事だと思いたかった」


 ミランダが優しく言う。


「悪いことじゃないよ」


「うん。でも、そう思いたい気持ちと、本当にそうだったかは分ける」


 ルシアンが頷く。


「良いと思います」


 レオンが少し考える。


「俺は今も返事っぽいと思ってる」


 リーネが言う。


「感想として記録可能です」


「でも、決めつけない!」


「良いです」


 レオンは褒められたことが嬉しかったのか、顔を明るくした。


 声が大きくなりそうになる。


 しかし途中で自分から抑えた。


「……良いです、だって」


 シオンが少し驚く。


「自分で戻した」


 リーネが頷く。


「九十六点です」


「最高記録!」


 喜びでまた大きくなる。


「八十七点」


「難しい!」


 アリシアは笑いながらパンをちぎった。


 今日は少し硬い。


 両手へ均等に力を入れる。


 ぱきり。


 小さな音を立てて、きれいに割れた。


「九十五点」


 ノアが言う。


「高い」


「応答のことを考えながらでも、目の前へ戻れたから」


 レオンが言う。


「パンが応答したな!」


 シオンが目を閉じる。


「もう何でもありだね」


 ◇


 生活基礎の授業。


 セリア先生が黒板へ書いた言葉は。


『同じ言葉でも、意味は一つではない』


 だった。


 アリシアは、今日は驚かなかった。


 少しだけ予想していた。


 それでも、必要な言葉として受け取る。


 セリア先生は話し始めた。


「人は、同じ言葉を使っていても、違う意味で話していることがあります」


 黒板に例を書く。


『大丈夫』

『普通』

『帰る』

『応える』


「大丈夫と言っても、本当に問題がない場合。今は話したくない場合。誰かを安心させたい場合。様々です」


 アリシアはノートに書く。


「普通という言葉も、人によって違います。帰る場所も、家とは限りません。応えるという言葉も、声で返事をすることだけではありません」


 昨日まで話してきたことが、全部重なる。


 戻る場所。


 返事。


 応答。


 言葉の意味。


「大切なのは、言葉だけを見て意味を決めず、その言葉が使われた状況を見ることです」


『第六補助点、応答なし』


 いつ。


 誰が。


 何を確認していた時。


 どんな設備に対して。


 どういう目的で。


 それらが分からなければ、意味も決まらない。


「同じ言葉が別の資料でどう使われているかを調べることも、有効です」


 今日の図書館で行うこと。


 アリシアは強く頷いた。


 班練習では、「大丈夫」という言葉が、異なる状況でどう変わるかを考えた。


 一つ目。


『転んだ後に、大丈夫と言った』


 二つ目。


『心配されたくなくて、大丈夫と言った』


 三つ目。


『助けを呼んだ後、もう大丈夫と言った』


 トマが言う。


「全部同じ言葉だけど、全然違うな」


 ミーナが頷く。


「状況がないと、意味を間違えるわね」


 メリルがアリシアを見る。


「『応答なし』も同じ?」


「うん。設備点検中なのか、誰かへ問いかけたのかで違う」


「じゃあ、今日は状況を探すんだね」


「うん」


 アリシアはノートに書いた。


『言葉の意味を知るには、前後を見る』


 ◇


 戦闘基礎では、エレナ教官が一つの合図を複数の意味で使う訓練を用意していた。


 床には三つの小さな円。


 赤。


 青。


 白。


「今日は、言葉と状況を同時に見ろ」


 エレナ教官は言った。


「同じ『戻れ』でも、足元の色によって戻る場所が違う。声だけで動くな」


 アリシアは木刀を握る。


 合同訓練で使った言葉。


『アリシア、戻れ』


 これまでは復帰点へ戻る意味だった。


 でも今日は、足元の色によって違う。


 赤い床なら前方円。


 青なら後方円。


 白なら現在地から一歩だけ下がる。


「言葉が同じだからといって、動きも同じとは限らない。状況を見ろ」


「はい」


 アリシアはメリルと組む。


 相手役はカイルとミーナ。


 最初の足元は青。


 カイルが前へ出る。


 アリシアが木刀を置く。


 エレナ教官の声。


「戻れ」


 アリシアは反射的に、いつもの中央へ戻りそうになる。


 青。


 後方円。


 気づいて方向を変える。


 少し遅い。


「止め」


 エレナ教官が言う。


「言葉だけで動いた」


「はい」


「状況を見ろ」


「はい」


 二回目。


 足元は白。


 ミーナが槍を伸ばす。


 アリシアが受ける。


「戻れ」


 一歩だけ下がる。


 円までは戻らない。


 成功。


「良い」


 三回目。


 赤。


 前方円。


 戻れと言われて前へ戻る。


 言葉だけなら矛盾しているように聞こえる。


 でも、訓練上の戻る場所は前方。


 アリシアは少し戸惑いながら進む。


「止め」


 エレナ教官が頷く。


「戻る方向は、後ろとは限らない」


「はい」


 昨日の合同訓練。


 復帰点が塞がれた時。


 戻るより進む方が近いとシオンが言った。


 前へ進むことが、態勢を戻すことになった。


 同じ言葉でも、状況で意味が変わる。


 授業後、エレナ教官が尋ねる。


「今日、何を調べる」


「応答という言葉が、昔の結界記録でどう使われていたかです」


「理由」


「人や意志への返事だけでなく、設備反応の意味かもしれないから」


「良い」


「昨日の『在』も、状態表示かもしれません」


「仮説だ」


「はい」


「だが、見る方向としては悪くない」


 アリシアは頷いた。


「先生は、『応答』って聞くと何を思いますか」


 エレナ教官は少し考えた。


「戦闘なら、合図に動きで返すこと」


「言葉じゃなくても?」


「当然だ。頷く暇がない時もある」


「結界なら?」


「術式が定められた反応を返すこと」


「じゃあ、先生にとっては、人だけの言葉じゃない」


「そうだ」


 やはり。


 でも、エレナ教官は続けた。


「ただし、古い記録を書いた者が同じ使い方をしたとは限らない」


「はい」


「今の言葉の意味を、昔へそのまま持ち込むな」


 時代。


 書き手。


 用途。


 生活基礎で習ったこと。


「分かりました」


「なら戻れ」


「はい」


 アリシアは列へ戻った。


 ◇


 昼食後。


 図書館の閲覧席には、司書が三冊の薄い複写資料を用意していた。


 原本ではない。


 許可された箇所だけを抜き出し、現代文字へ直したもの。


 一冊目。


『古代結界点検記録・抜粋』


 二冊目。


『術式起動確認用語集』


 三冊目。


『五属性支点初期整備記録・抜粋』


 リーネの目が、いつも以上に真剣になる。


 シオンが椅子へ座りながら言う。


「今日はリーネが戻ってこなくなりそう」


「戻ります」


「本当に?」


「時間管理します」


 レオンとミランダも来ている。


 ルシアンは静かに資料の表紙を見ていた。


 メリルも隣の席。


 アリシアは練習帳を開く。


「目的を確認します」


 リーネが頷く。


「『応答』という語が、古い結界記録でどのような意味に使われていたかを確認する」


「『在』の意味を決めることではない」


「その通りです」


「第六補助点の正体を決めることでもない」


「はい」


 線を引く。


 今日見るもの。


 見ないもの。


 アリシアは少し安心して最初の資料を開いた。


 一冊目。


『古代結界点検記録・抜粋』


 そこには、複数の短い記録が並んでいた。


『北側冷却陣、魔力注入に応答』


『第三門封鎖式、応答遅延』


『水脈調整弁、応答なし。詰まりを確認』


『火鳥支点、呼びかけに対し熱量上昇をもって応答』


 アリシアは一行ずつ読む。


 応答。


 設備へ使っている。


 明確に。


 水脈調整弁。


 詰まり。


 そこには人格も意志もない。


 少なくとも、普通の設備記録に見える。


「設備反応の意味で使用されています」


 リーネが言った。


「はい」


 ルシアンが最後の一行を見る。


「火鳥支点は、『呼びかけ』という表現も使われています」


 シオンが言う。


「支点は神獣や神器と繋がってるから、設備と存在の中間みたいな扱いだったのかも」


「可能性があります」


 リーネは慎重に書く。


 ミランダが言う。


「じゃあ、『応答なし』だけじゃ、人か設備か分からないね」


「うん」


 アリシアは答える。


 寂しさが、少し形を変える。


『応答なし』。


 返事をもらえなかった誰かの言葉とは限らない。


 水路の詰まりと同じような記録かもしれない。


 それなら。


 昨日の『在』も、故障表示が直ったような意味かもしれない。


 アリシアは練習帳へ書く。


『事実:古い点検記録では、設備の動作反応にも「応答」を使用』

『よって、「第六補助点、応答なし」だけでは人格的沈黙と判断できない』


 書いた文字を見つめる。


 少し寂しい。


 自分が作った物語が、薄くなるような気がする。


 でも。


 それは悪いことではない。


 物語より、記録へ近づいたということ。


「少し残念?」


 メリルが小声で聞いた。


「うん。少し」


「返事じゃないかもしれないから?」


「うん。でも……残念でも、分かってよかった」


 メリルは優しく頷いた。


 ◇


 二冊目。


『術式起動確認用語集』


 そこには、「応答」の定義が複数載っていた。


『応答:魔力入力に対し、定められた変化を示すこと』


『応答遅延:反応開始まで規定時間を超えること』


『応答不全:反応はあるが、規定値へ達しないこと』


『応答なし:観測可能な変化を示さないこと』


 レオンが目を見開く。


「完全に設備の言葉だな!」


 リーネが頷く。


「少なくとも、この用語集では」


 アリシアは最後の一行を見る。


 観測可能な変化を示さないこと。


『第六補助点、応答なし』


 つまり。


 魔力を入れた。


 でも観測できる変化がなかった。


 それだけかもしれない。


 誰もいない。


 返事がない。


 忘れられた。


 そういう意味ではない。


 胸の中にあった寂しさが、少し行き場を失う。


 アリシアはその感覚を隠さず書いた。


『感情:応答なしが設備用語だと知り、少し残念。自分が物語を重ねていたと分かった』


 ノアが足元で言う。


「良いわ」


 アリシアは小さく頷く。


 シオンが用語集の次の頁を指した。


「でも、これ見て」


 そこには、別の注意書きがあった。


『神獣契約式・神器同調式においては、応答を単なる数値変化に限定しない。意志的反応、夢告、言語表示を含む場合がある』


 アリシアの胸が跳ねる。


 夢告。


 言語表示。


『在』


 全員の空気が変わる。


 レオンが言う。


「言葉も応答になるんだ」


 リーネがすぐに線を引く。


「ただし、神獣契約式・神器同調式の場合です」


 ルシアンが静かに続ける。


「第六補助点が、それらと関係する設備かどうかは未確定」


「うん」


 アリシアは呼吸を整える。


 設備用語。


 でも、神獣や神器との同調では、意志的反応や夢、文字も含む。


 両方ある。


 また、答えが一つに絞れない。


 少し残念だった気持ちの隣に。


 少し期待する気持ちが戻る。


 揺れる。


「今、嬉しくなった?」


 メリルが小声で聞く。


「うん」


「返事かもしれない可能性が残ったから?」


「うん。でも、また決めつけない」


「うん」


 アリシアは書く。


『事実:神獣契約式・神器同調式では、夢告・言語表示も応答に含む場合あり』

『未確定:第六補助点が該当設備か』

『感情:返事の可能性が残り、少し嬉しい』


 ノアは何も言わない。


 ただ、アリシアの文字を見ている。


 ◇


 三冊目。


『五属性支点初期整備記録・抜粋』


 五つの属性支点を整備した時代の記録。


 火鳥。


 水蛇。


 風狼。


 土亀。


 光白猫。


 それぞれの支点へ魔力を流し、反応を確認している。


『火鳥支点、熱応答あり』


『水蛇支点、流動応答安定』


『風狼支点、循環応答遅延』


『土亀支点、固定応答正常』


『光白猫支点、照明応答および意志反応あり』


 意志反応。


 光白猫支点だけ。


 ルシアンの指が止まる。


「光支点では、設備反応と意志反応を分けて記録しています」


「はい」


 リーネが答える。


「神獣の意志が関与した可能性があります」


 アリシアはノアを見る。


 黒猫。


 闇の神獣。


 ノアは黙っている。


 資料の下部には、続きがあった。


『五主支点の応答確認後、深部補助系統へ接続試行』


『補助系統、魔力流入あり』


『表示応答なし』


『接続継続を中止』


 表示応答なし。


 アリシアの胸が少し深くなる。


 リーネが低く言う。


「第六補助点と同一かは不明ですが、深部補助系統に“表示応答”を求めている」


 シオンが言う。


「何か文字とか印が出る前提だった?」


 ルシアンが頷く。


「可能性があります」


 ミランダが『在』を思い出したように胸元へ手を置く。


「昨日は、表示が出た」


 アリシアも、白い文字を思い出す。


『在』


 記録上。


 昔は表示応答なし。


 昨日は表示応答あり。


 そう読めてしまう。


 レオンが言う。


「じゃあ、昨日は動いたってことじゃないか?」


 リーネが答える。


「同一系統であれば。しかし、まだ同一と確認されていません」


「でも、かなり近い」


「仮説としては重要です」


 アリシアの心が、一気に線を引こうとする。


 深部補助系統。


 表示応答なし。


 第六補助点、応答なし。


 昨日の『在』。


 昔は出なかった表示が、今出た。


 なぜ。


 自分がいたから。


 闇の神器が戻ったから。


 ノアが契約したから。


 そこまで思いかける。


「戻りなさい」


 ノアの声。


 アリシアは息を吸う。


 吐く。


 事実。


 古い記録に深部補助系統。


 表示応答なし。


 昨日、水晶に『在』。


 同一かは未確認。


 原因不明。


 自分との関係も未確認。


「今、かなり繋げました」


 アリシアは正直に言った。


 全員が見る。


「深部補助系統と第六補助点と昨日の『在』を。同じものだと思いかけました」


 リーネが頷く。


「自然な仮説です。ただし段階があります」


 ルシアンが静かに整理する。


「第一。深部補助系統と第六補助点が同一か」


「第二。表示応答なしという記録と、昨日の言語表示が同じ仕組みか」


「第三。昨日反応した原因が、アリシアさんなのか、記録文なのか、水晶なのか、別要因なのか」


 シオンが言う。


「三つとも分からない」


「はい」


 アリシアは頷く。


 一気に一つの答えへ行かない。


 階段。


 一段ずつ。


 アリシアは練習帳へ書く。


『新仮説候補』

『深部補助系統=第六補助点の可能性』

『古い表示応答なしと、昨日の「在」が関連する可能性』

『ただし、同一性・仕組み・原因の三点すべて未確認』


 書き終えると、胸の深さが少し戻った。


 ◇


 司書は、全員の整理が終わった頃にやって来た。


 今日は教務主任からの伝言も持っていた。


 リーネが資料から分かったことを説明する。


 設備反応としての応答。


 神獣・神器同調における夢告と言語表示。


 五主支点確認後の深部補助系統。


 表示応答なし。


 司書は静かに聞いた。


「整理は妥当です」


 アリシアたちの肩から、少しだけ力が抜ける。


「ただし、今日の資料だけで、昨日の『在』を深部補助系統の表示応答と断定できません」


「はい」


 全員が答える。


 司書は続けた。


「ですが、確認すべき比較点が明確になりました」


 アリシアは顔を上げる。


「比較点?」


「昨日の水晶反応に使われた文字形と、古い深部補助系統が想定していた表示形式が一致するか」


 胸が少し鳴る。


「古い表示形式の資料があるんですか」


「可能性があります。現在、教員側で確認中です」


「私たちは見られますか」


「まだ決まっていません」


「はい」


 すぐに引く。


 司書は小さく頷いた。


「もう一つ。『在』という文字が、古い結界管理でどの状態を表したか。存在、接続、残存、起動。複数の意味が考えられます」


 また、主語がない。


 何が在るのか。


 けれど、少しだけ調べる方向が見えた。


「現時点では、次の試験は行いません」


「はい」


「記録比較のみです」


「はい」


「昨日の反応を再現したい気持ちは?」


 司書がアリシアへ尋ねる。


 アリシアは正直に答えた。


「あります。今日の資料を読んで、もっと強くなりました」


 六人の空気が少し緊張する。


 だが、アリシアは続ける。


「でも、やりません。表示形式の比較が先です」


 司書は穏やかに頷いた。


「良い判断です」


 ノアの尻尾が、足元で一度だけ揺れた。


 ◇


 資料整理が一段落した後。


 レオンが椅子の背へ寄りかかり、大きく息を吐いた。


「今日のは難しかった」


「いつも言ってるね」


 シオンが言う。


「今日は特に難しい!」


 ミランダも頷く。


「応答って言葉だけで、こんなに意味あるんだね」


 リーネが眼鏡を外し、布で拭きながら言う。


「言葉は記録条件で変化します」


 ルシアンは静かに資料を閉じた。


「ただ、昨日の反応が完全に偶然とは考えにくくなった気はします」


 リーネがすぐに言う。


「推測です」


「はい」


 ルシアンは穏やかに頷いた。


 シオンがアリシアを見る。


「今、どんな感じ?」


 突然の問い。


 アリシアは少し考えた。


「昨日より……返事だって思う気持ちは弱くなりました」


 ミランダが少し寂しそうな顔をする。


 アリシアは続ける。


「でも、ただの偶然だと思う気持ちも弱くなりました」


 シオンが小さく笑う。


「真ん中に来たね」


「うん。何かの応答だった可能性はある。でも、誰かの返事とは限らない」


 ルシアンが頷く。


「現時点では、とても適切な位置だと思います」


 レオンが言う。


「俺はまだ返事だと思う!」


「レオンさんは変わらないね」


 アリシアは少し笑った。


「でも、決めつけない!」


 レオンは自分から付け加えた。


 リーネが頷く。


「良いです」


 全員が少し笑った。


 仮説は違う。


 感じ方も違う。


 でも、同じ机で考えられる。


 それが嬉しかった。


 ◇


 夕方。


 寮へ戻る道。


 メリルとアリシアは、中庭の端をゆっくり歩いた。


 今日の空は薄い灰色。


 雨は降っていない。


 けれど、遠くの雲が少し重い。


「今日、少し分かった?」


 メリルが聞く。


「応答って、設備の反応にも使われるって分かった」


「じゃあ、返事じゃなかった?」


「それはまだ分からない。神獣とか神器の術式では、夢や文字も応答になることがあるって」


「両方残ったんだ」


「うん」


 アリシアは、深部補助系統の記録について話す。


 五主支点を確認した後。


 深部補助系統へ接続。


 魔力流入あり。


 表示応答なし。


「昨日は表示が出たんだよね」


 メリルが言う。


「うん。でも、同じものか分からない」


「もし同じだったら?」


 アリシアは少し考える。


「昔は出なかった表示が、昨日は出たことになる」


「どうして?」


「分からない」


 口にすると、胸の奥が少し深くなる。


 自分が来たから。


 ノアがいるから。


 黒月があるから。


 そう考えたくなる。


 メリルが静かに聞く。


「アリシアちゃんがいるからって思った?」


「うん」


「怖い?」


「少し。特別な理由にされるのが」


 視線。


 役割。


 六人目。


 忘れられた神器。


 自分が原因だと分かれば、また多くの人に見られる。


「でも」


 アリシアは続けた。


「本当に私が関係してるなら、知りたい気持ちもある」


「うん」


「怖いけど、逃げたいだけじゃない」


 メリルは笑った。


「それも一緒にあっていいね」


「うん」


 風が少し強くなる。


 中庭の木々がざわめく。


 水音ではない。


 葉の音。


 現実の音。


 アリシアはそれを聞きながら歩いた。


 ◇


 夜。


 アリシアは練習帳を開いた。


 今日も、書くことが多い。


『今日は「応答」という言葉の使われ方を調べました』


『古い点検記録では、水脈調整弁や封鎖式など、設備の動作反応にも「応答」を使っていました。「応答なし」は、観測可能な変化がなかったという設備用語でもあります』


『だから、「第六補助点、応答なし」を誰かが返事をしなかった記録だとは決められません』


 書いてから、感情も記す。


『そのことを知って、少し残念でした。私は、返事がなかった誰かの物語を重ねていたからです』


 続ける。


『ただし、神獣契約式や神器同調式では、意志反応、夢告、言語表示も応答に含む場合があります。昨日の「在」が、そうした応答である可能性は残っています』


『五主支点の確認後、深部補助系統へ接続し、「表示応答なし」と記録した資料もありました。昨日は文字表示がありました。でも、同じ系統か、同じ仕組みか、原因が何かは未確認です』


 アリシアは、線を引いて三つ書く。


『未確認』

 一、深部補助系統と第六補助点が同一か。

 二、古い表示応答と昨日の「在」が同じ仕組みか。

 三、昨日の反応原因が何か。


 最後に、自分の感情。


『私は、自分が関係しているのではないかと思いました。特別な原因にされることは怖い。でも、本当に関係があるなら知りたい気持ちもあります』


 ノアが机へ跳び乗る。


「今日は?」


 アリシアが聞く。


 ノアは練習帳を一通り見てから答えた。


「九十九点」


「百点じゃない」


「今日は百点を狙ってないでしょう」


「狙ってないよ」


「なら、それでいい」


「減点は?」


「深部補助系統の記録を見た時、自分が起動させたと一瞬決めた」


「うん」


「でも三段階に分けられた。再現したい気持ちも隠さず、実行しないと言えた」


「うん」


「かなり良い」


 アリシアは少し笑った。


「点数、やっぱり嬉しい」


「嬉しいのは構わない。縛られなければ」


「うん」


 ノアは練習帳の最後の空白を見る。


「最後に書くなら?」


 アリシアは今日の一日を思い返した。


 応答。


 設備。


 神獣。


 表示。


 返事。


 状態確認。


 全部、同じ言葉の周りにある。


 少し考えて、一行を書く。


『同じ「応答」でも、返しているものは一つとは限らない』


 ノアは頷いた。


 アリシアは続ける。


『だから私は、聞きたい答えだけを返事に選ばない』


 ノアの金色の瞳が、少し柔らかくなる。


「いいわね」


 アリシアはもう一行書いた。


『それでも、返事かもしれないと願った気持ちは、消さなくていい』


 ノアは、その一文を長く見つめた。


「ええ」


 小さな返事だった。


 アリシアは練習帳を閉じた。


 夜は静かだった。


 水音はしない。


『在』の文字も浮かばない。


 胸の奥には、まだ答えのない場所がある。


 けれど今日。


 その周りに、少しだけ言葉が増えた。


 応答。


 設備反応。


 夢告。


 言語表示。


 深部補助系統。


 まだ線にはならない。


 でも、点の置き場所は少しずつ見えてきている。


 アリシアは灯りを落とした。


 知らないものへ急いで手を伸ばさない。


 聞きたい返事だけを選ばない。


 それでも。


 いつか本当に意味を知る日が来るなら。


 その時は、みんなと一緒に受け取りたい。


 そう思いながら、アリシアは静かに目を閉じた。

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