第60話 小さな返事
水の底に、誰かがいた。
顔は見えない。
姿もない。
暗い水の向こうに、ただ気配だけが沈んでいる。
アリシアは岸辺に立っていた。
足元には黒い草が生え、風もないのに細い葉先が揺れている。
空はなかった。
星も、月も、夜明けもない。
見上げても、そこには深い闇があるだけだった。
けれど、不思議と息苦しくはない。
怖い。
それでも、逃げたいとは思わなかった。
水面は鏡のように静かだった。
自分の姿さえ映さない、黒い水。
その底から。
微かな声がした。
――……なし。
アリシアは耳を澄ませる。
「え?」
返事はない。
水の底には、まだ何かがいる。
それだけが分かる。
アリシアは一歩、岸辺へ近づいた。
黒い靴の先が、水面のすぐそばへ来る。
ノアの声が、どこか遠くから響いた。
――止まりなさい。
アリシアは足を止める。
水へは入らない。
手も伸ばさない。
ただ、問いかけた。
「誰か、いるの?」
長い沈黙。
水面は揺れない。
何も起こらない。
問いかけたことを後悔し始めた、その時だった。
ぽちゃん。
水の底からではない。
アリシアの足元。
岸辺のすぐそばに、小さな波紋が生まれた。
一つ。
その外側に、もう一つ。
さらに薄い輪。
アリシアは息を止める。
水面の中央に、一文字だけ浮かんだ。
『在』
いる。
ある。
存在する。
そう読めた。
「あなたは……」
声を出した瞬間、水面が崩れた。
黒い水が大きく揺れ、岸辺も空も闇も、すべてが折れ曲がる。
ノアの声が鋭く響く。
――アリシア、戻りなさい。
「戻る」
アリシアは答えた。
その瞬間。
世界が暗転した。
◇
「――っ」
アリシアは、寝台の上で目を開けた。
胸が大きく上下している。
呼吸が速い。
額には薄く汗が滲んでいた。
部屋はまだ暗かった。
窓の外は夜明け前。
机の魔導灯は消えたまま。
水差しにも異常はない。
床も濡れていない。
けれど。
耳の奥には、水音の余韻が残っていた。
ぽちゃん。
一度だけ。
そして。
『在』
夢の中で見た文字が、はっきりと記憶に残っている。
「ノア」
声が少し掠れた。
すぐに黒い影が寝台へ跳び乗る。
ノアは眠っていなかったらしい。
金色の瞳が、真っ直ぐアリシアを見た。
「夢?」
「うん」
「水?」
「うん」
「順番に話しなさい」
ノアの声は落ち着いていた。
急かさない。
けれど、いつもより低い。
アリシアは掛け布を握りしめたまま、呼吸を整えた。
吸う。
吐く。
もう一度。
胸の奥を確かめる。
痛みはない。
冷えもない。
ただ、少し深い。
昨日までのような、底が遠くなる感覚。
「水の底に……何かいた」
「姿は?」
「見えなかった。気配だけ」
「声は?」
「最初に、“なし”って聞こえた気がした」
ノアの耳がわずかに動く。
「応答なし?」
「たぶん……昨日の記録を読んだから、夢に出ただけかもしれない」
「その可能性はある」
「岸辺に立ってて、一歩近づいた。でもノアに止められた」
「夢の中の私に?」
「うん。手は伸ばさなかった。水にも入らなかった」
「それから?」
「誰かいるの、って聞いた」
ノアは黙っている。
アリシアは続けた。
「しばらく何もなかった。でも、足元に波紋が出て……一文字だけ浮かんだ」
「何と?」
「在る、の……『在』」
部屋の静けさが深くなる。
夜明け前の空気。
閉じた窓。
まだ眠る寮。
その全部が、アリシアとノアの間に落ちた沈黙を囲んでいる。
ノアはすぐには何も言わなかった。
アリシアは不安になり、尋ねる。
「知ってる文字?」
「文字そのものは知っているわ」
「そうじゃなくて……意味」
「意味も知っている。在る。存在する。残っている」
「第六補助点が……残ってるってこと?」
「決めつけない」
ノアの声が鋭くなる。
アリシアは肩を揺らした。
「ご、ごめん」
「謝らなくていい。でも、今のは早い」
「うん」
「夢は夢。昨日読んだ記録と、あなたの不安と、隠れ里での記憶が混ざった可能性がある」
「うん」
「外から何かが届いた可能性も、ゼロではない」
アリシアの胸が強く鳴った。
ノアはすぐに続ける。
「ゼロではないだけ。そこだけ選ばない」
「うん」
「まず記録。夢の中で見たこと。現実に起きたこと。分ける」
「うん」
アリシアは寝台から降りた。
膝が少し頼りない。
ノアが机まで先に跳び、練習帳の横へ座る。
アリシアは魔導灯をつけた。
淡い光が部屋を照らす。
夢の黒い水面とは違う。
現実の机。
木の感触。
紙。
インク。
ノア。
ここへ戻る。
アリシアは練習帳を開いた。
『夜明け前、夢で暗い水辺に立っていた。水底に姿の見えない気配。最初に「なし」と聞こえた気がした。岸辺へ一歩近づいたが、ノアの声で止まった。水には入らず、手も伸ばしていない』
ペン先が少し震える。
それでも続ける。
『「誰かいるの」と聞いた。しばらく反応なし。その後、足元に一度だけ水音。波紋が広がり、水面に「在」という文字が浮かんだ。そこでノアに「戻りなさい」と言われ、「戻る」と答えて目が覚めた』
現実側の記録。
『起床後、部屋に水の異常なし。床、水差し、窓、すべて異常なし。胸の奥が少し深い。痛み、冷えなし。現実の水音は確認できない。夢の記憶は明瞭』
最後に線を引き、分ける。
『事実:夢を見た。文字を覚えている。起床後の部屋に異常なし』
『感情:怖い。気になる。少し返事をもらったように感じた』
『推測:昨日の記録が夢に出た可能性。隠れ里の記憶との混合。外部からの反応の可能性。どれも未確定』
書き終えると、肩から少し力が抜けた。
ノアが練習帳を見る。
「良いわ」
「これ、先生に報告する?」
「する」
「すぐ?」
「朝食前にグランへ連絡できるなら、その方がいい」
「危ないの?」
「危険と決めたわけではない。ただ、昨日の記録を読んだ直後の夢。水音。波紋。『在』という文字。記録価値が高い」
「うん」
「それと」
ノアがアリシアを見る。
「夢の中で戻れたことも重要よ」
アリシアは少し目を開いた。
「戻れた?」
「水に入らなかった。手を伸ばさなかった。声を聞いて戻ると答えた」
「夢の中でも、訓練みたいだった」
「夢の中だからこそ、普段の練習が出たのかもしれない」
戻る。
夢の中でも言えた。
アリシアはそのことを、もう一行書き足した。
『夢の中でも「戻る」と言えた』
胸の奥が少しだけ温かくなる。
「点数は?」
アリシアが聞くと、ノアは少し考えた。
「九十九点」
「夢なのに?」
「夢でも水へ入らなかった。起きた後も窓から飛び出さず、記録した」
「飛び出さないよ」
「以前なら、中央塔を見つめ続けたかもしれない」
「……うん」
「減点は、『在』をすぐ第六補助点に結びつけたこと」
「少しだけ」
「だから一つ減点」
ノアは練習帳の端へ前足を置いた。
「朝になったら報告する」
「うん」
アリシアは窓の外を見た。
空の端が、少しずつ白くなっていた。
夜は終わろうとしている。
夢の水底はもう見えない。
それでも『在』の一文字だけが、記憶の中に残っていた。
◇
グラン先生への報告は、朝食前に行われた。
メリルへ事情を話すと、彼女は何も聞きすぎず、研究室前まで一緒に来てくれた。
「中は一人で大丈夫?」
「ノアもいるから」
「うん。終わったら待ってるね」
「ありがとう」
扉を叩く。
「アリシアです」
「どうぞ」
研究室には、グラン先生だけではなく、マリナ先生もいた。
机の上には昨日の修復記録の複写が置かれている。
アリシアが入ると、二人はすぐに表情を引き締めた。
「夢を見たそうですね」
グラン先生が言った。
どうやらノアが寮の伝達札を使い、先に簡単な連絡を送ったらしい。
「はい」
「座ってください。練習帳を見ても?」
「はい」
アリシアは練習帳を渡した。
グラン先生とマリナ先生は、夢の記録を黙って読む。
部屋の中には、紙をめくる音しかない。
アリシアは膝の上で両手を重ねた。
怖い。
何か重大なことをしたような気分になる。
でも、夢を見ただけ。
記録した。
報告した。
それでいい。
グラン先生が顔を上げる。
「非常に良い記録です」
「ありがとうございます」
「夢と現実を分けています。推測も複数置いている。戻ることもできた」
マリナ先生は『在』の文字を指で示した。
「この文字は、隠れ里で使われていましたか」
「分かりません。文字としては知っています。でも、神殿や泉で見た記憶は……はっきりしません」
「ノアさん」
マリナ先生が呼ぶ。
ノアは椅子の横に座っている。
「その文字に心当たりは?」
「文字そのものには。契約や神器特有の印としては、今の段階では答えない」
「答えられないのではなく、答えない?」
「ええ」
マリナ先生は少しだけ目を細めたが、追及しなかった。
「分かりました」
グラン先生が小さな水晶片を机へ置く。
「いつも通り、触れずに確認しましょう」
「はい」
透明な水晶片。
アリシアはそれを見る。
呼吸を整える。
最初は何もない。
やがて、水晶の底に小さな黒い点が浮かんだ。
前にも見た反応。
点は一度だけ広がり、波紋になる。
しかし今日は、それだけでは終わらなかった。
波紋の中央に。
ごく細い、白い光が立った。
糸のような光。
ほんの一瞬。
見間違いかと思うほど短い。
すぐに消えた。
アリシアは息を飲む。
グラン先生の筆が止まった。
マリナ先生は結界板へ視線を落とす。
「今のは……」
「光反応?」
アリシアが尋ねる。
グラン先生はすぐには答えなかった。
水晶片を慎重に見つめる。
「黒い微弱反応の中心に、白色の瞬間反応。持続なし」
マリナ先生が結界板を見る。
「外部光属性干渉はありません。部屋の支点反応も正常」
ノアの尻尾が、床を一度だけ打った。
「ノア?」
「騒がない」
「うん」
アリシアは息を吸い、吐く。
決めつけない。
白い光。
光属性。
ルシアン。
五つを支える六つ目。
様々な言葉が頭へ浮かぶ。
でも、まだ何も分からない。
グラン先生が言う。
「体感は?」
「胸の奥が少し深くなりました。でも、痛みも冷えもありません。水音もありません。白い光を見た時に驚きました」
「それだけ?」
「はい」
「良いです」
グラン先生は記録する。
マリナ先生が言った。
「夢の『在』という文字と、今回の白色反応を結びつける根拠はありません」
「はい」
「ただし、どちらも昨日の第六補助点記録を読んだ後に起きています。経過観察は必要です」
「はい」
「今日は通常授業へ戻って構いません。ただし、午後に六人と教員立ち会いで、許可済み資料の確認を行います」
「六人で?」
「はい」
アリシアの胸が少し跳ねる。
一人で確かめない。
六人。
教員。
安全な場。
「何を確認するんですか」
グラン先生が昨日の資料を示す。
「『第六補助点、応答なし』という一文です」
「応答なし……」
「文字を声に出して読んだ時、反応があるかを確認します」
アリシアの肩が少し固くなる。
夢では、「なし」の後に「在」が出た。
もし。
現実でも何かが返ってきたら。
怖い。
でも、知りたい。
その両方が胸にある。
「強制ですか」
自分から聞けた。
グラン先生はすぐに首を振る。
「いいえ。あなたの同意が必要です。拒否しても構いません」
「少し……考えてもいいですか」
「もちろんです。昼までに決めてください」
「はい」
マリナ先生が言う。
「行う場合も、読み上げは一度だけ。反応がなければ終了。反応があっても即中断して記録のみ。追跡はしません」
「はい」
「何かへ呼びかける試験ではありません。記録文を読んだ時の、あなた自身と周囲の反応確認です」
その違いは大事だった。
呼びかけるのではない。
応答を求めるのでもない。
記録文を読む。
自分の反応を見る。
アリシアは頷いた。
「考えます」
◇
研究室を出ると、メリルが廊下の長椅子で待っていた。
アリシアを見ると、すぐに立ち上がる。
「どうだった?」
「夢は記録して経過を見ることになった。水晶に、黒い波紋と……白い光が少し出た」
「白い光?」
「一瞬だけ。まだ意味は分からない」
「そっか」
メリルは驚いたが、慌てなかった。
アリシアの話し方が落ち着いていたからかもしれない。
「午後、六人と先生たちの前で、『第六補助点、応答なし』っていう記録を一度だけ読む確認をするか聞かれた」
「アリシアちゃんが読むの?」
「まだ決めてない」
「怖い?」
「うん」
「やりたい?」
「……少し」
正直に言う。
メリルはゆっくり頷いた。
「じゃあ、怖いとやりたいを両方持ったまま考えよう」
「うん」
「やるなら、戻る合図は?」
アリシアは少し考える。
「自分で『戻る』って言う。誰かからは、『アリシア、戻れ』」
「合同訓練と同じ?」
「うん。あの言葉なら分かるから」
メリルは微笑んだ。
「じゃあ、一人じゃないね」
「うん」
◇
食堂へ着くと、五人はすでに集まっていた。
アリシアは、朝の夢と研究室での反応を、話してよい範囲で説明した。
夢の水辺。
『在』の文字。
水晶片の黒い波紋。
一瞬の白い光。
午後の確認。
食卓は、いつもの朝よりずっと静かだった。
レオンでさえ、すぐには声を出さなかった。
最初に口を開いたのは、リーネだった。
「確認条件は?」
「読み上げは一度だけ。反応なしなら終了。反応ありでも即中断。追跡なし。私が拒否してもいい」
「安全条件は妥当です」
シオンが言う。
「やりたい?」
「少し」
「怖い?」
「かなり」
「なら、両方伝えた方がいいね」
「うん」
ミランダが心配そうに尋ねる。
「夢で見た『在』って、返事なのかな」
アリシアは首を振る。
「分からない。夢だから」
ルシアンが静かに言う。
「白い反応が出たことも、光属性との関係は未確定です」
「はい」
アリシアは頷く。
ルシアンは少しだけ安心したように続ける。
「僕が関係していると決めつけないでください。もし午後に同席を求められた場合も、光属性候補としてではなく、六人の一人として参加します」
その言葉がありがたかった。
白い光。
すぐにルシアンと結びつけそうになる。
でも、本人が線を引いてくれた。
「ありがとうございます」
レオンが拳を握る。
「やるなら、俺たちがいる!」
声が少し大きい。
だが今日は誰も点数をつけなかった。
「怖くなったら戻れ!」
「はい」
ミランダも頷く。
「私もいるよ」
シオンが軽く言う。
「反応なしでも、がっかりしないこと」
「うん」
リーネが続ける。
「反応がなくても重要な記録です」
「うん」
アリシアは一人ずつ見た。
みんながいる。
先生たちもいる。
ノアもいる。
呼びかけるのではない。
一度読むだけ。
反応を追わない。
戻る言葉もある。
「やってみたい」
アリシアは言った。
声は小さい。
でも、はっきりしていた。
「午後の確認、やります」
ルシアンが静かに頷く。
「分かりました」
レオンが言う。
「一緒に行く!」
リーネは手帳に書く。
「本人同意。恐怖あり。確認希望あり」
アリシアは少し笑った。
「そこまで書くんですね」
「重要です」
ノアが椅子の上で言う。
「パン」
「あ」
こんな時でもパン。
でも、それがありがたい。
今することへ戻る。
アリシアはパンをちぎった。
少しだけ形が崩れた。
「八十七点」
「今日は緊張してるから」
「条件を考慮済み」
レオンが真剣に言う。
「八十七点なら高い!」
「ありがとうございます」
アリシアは少し笑い、パンを口へ運んだ。
◇
生活基礎の授業で、セリア先生が黒板に書いた言葉は。
『返事を求めすぎない』
だった。
アリシアは、思わずペンを握る手を止めた。
セリア先生は、いつもの穏やかな声で話し始める。
「誰かへ問いかけた時、返事がほしくなります。話を聞いてほしい。気持ちを分かってほしい。確認してほしい。そう思うことは自然です」
教室には、静かな空気が流れる。
「ですが、返事がすぐにないこともあります。返事がないから拒絶されたとは限りません。聞こえていない。考えている。答えられない。返事をする仕組みがない。様々な可能性があります」
『第六補助点、応答なし』
応答がない。
それを、寂しいと感じた。
でも。
壊れていたのか。
眠っていたのか。
接続されていなかったのか。
そもそも返事をするものではないのか。
分からない。
「返事を求めすぎると、相手の沈黙へ自分の答えを入れてしまうことがあります」
アリシアは大きく書いた。
『沈黙へ、自分の答えを入れない』
「確認は必要です。しかし、返事がない時に何度も問い続けることは、相手や自分を傷つける場合があります。一度問い、待つ。反応がなければ、今はないと記録する。それも大切です」
午後の確認と同じ。
一度読む。
反応がなければ終了。
追わない。
アリシアは深く頷いた。
班練習では、「返事がない時にどうするか」を話し合った。
トマが言う。
「俺、何回も聞いちゃうかも」
ミーナが腕を組む。
「急ぎでなければ待つ。急ぎなら別の方法で確認する」
メリルは言う。
「返事がないと、自分が悪かったのかなって思うことある」
アリシアは少し驚いた。
「メリルさんも?」
「うん。でも、相手の事情かもしれないんだよね」
アリシアはノートへ書いた。
「私は……返事がなかったら、寂しくなる。でも、返事がないことと、存在しないことは同じじゃない」
夢で見た『在』。
それが本当に返事だったかは分からない。
でも、「応答なし」と「存在なし」も同じではない。
そのことだけは、少し分かった気がした。
◇
戦闘基礎では、エレナ教官が「一度だけ伝える」訓練を行った。
味方へ短い情報を伝える。
相手から返事がなくても、必要以上に重ねない。
「聞こえていないと思って声を重ねるな。情報が潰れる」
アリシアはメリルと組む。
カイルが右へ動く。
「右です」
一度だけ。
メリルは頷かず、杖を動かす。
返事はない。
でも、聞こえている。
アリシアはもう一度言いたくなる。
我慢する。
次の動きを見る。
「止め」
エレナ教官が頷く。
「今のは待てた」
「はい」
「返事が言葉とは限らない。動きで返ってくることもある」
午後の確認。
もし言葉が返らなくても。
水晶が反応するかもしれない。
胸が反応するかもしれない。
何も起きないかもしれない。
どれも記録。
二回目。
アリシアが左と伝える。
メリルは声で「うん」と返す。
安心する。
しかし、その安心で相手を見るのが遅れる。
「止め」
「すみません」
「返事を得たことで終わるな。状況は続く」
「はい」
返事がなくても止まらない。
返事があっても止まらない。
それも大事だった。
授業後、エレナ教官がアリシアを呼ぶ。
「午後、やると聞いた」
「はい」
「怖いか」
「はい」
「やめてもいい」
「分かっています。でも、やってみたいです」
「理由」
「夢と記録が重なったから、自分の反応を安全な場所で確認したいです。返事を求めたいわけではありません」
エレナ教官は短く頷いた。
「良い」
「戻る合図は、合同訓練と同じにします」
「それも良い」
「先生も来ますか」
「行く」
アリシアは少し安心した。
エレナ教官は続ける。
「何も起きなくても、残念がるな」
「はい」
「何か起きても、追うな」
「はい」
「一度で終わる」
「はい」
言葉が明確であるほど、怖さが少し小さくなる。
◇
午後。
確認は、中央演習場ではなく、結界管理室に隣接した小さな測定室で行われることになった。
広い演習場では、反応の発生場所を特定しにくい。
測定室なら、外部干渉を減らせる。
部屋の中央には、低い円卓。
その上に、透明な水晶板。
周囲に六つの椅子。
五人の候補者と、アリシア。
ノアはアリシアの椅子の横。
教員側は、教務主任、グラン先生、マリナ先生、エレナ教官。
司書も記録担当として立ち会っている。
空気は静かだった。
誰も雑談をしない。
けれど、息苦しい沈黙でもなかった。
手順を待つための沈黙。
アリシアは練習帳を膝の上に置いていた。
事前記録。
『午後、測定室で確認。六人、ノア、教務主任、グラン先生、マリナ先生、エレナ教官、司書が立ち会い。読む文は「第六補助点、応答なし」。一度だけ。反応なしでも終了。反応ありでも即中断。追跡なし。本人同意あり。恐怖あり。確認希望あり』
グラン先生が言う。
「最後に確認します。中止しますか」
アリシアは首を横に振る。
「行います」
「読み上げ途中でも、中断できます」
「はい」
「反応があった場合、誰が戻る声を出しますか」
エレナ教官が答える。
「私が出す」
ノアが続ける。
「私も」
アリシアは頷く。
「自分からは『戻る』です」
教務主任が全員を見る。
「他の五人は、反応があっても勝手に魔力を出さない。声も、必要な場合を除き出さない」
「はい」
レオンの返事は小さかった。
リーネも。
シオンも。
ミランダも。
ルシアンも。
六人が椅子に座る。
アリシアの正面には、水晶板。
その下に、複写された一文。
『第六補助点、応答なし』
文字はただの文字だ。
古い記録を現代文字へ直したもの。
封印札ではない。
術式でもない。
ただの記録文。
アリシアは手のひらを膝へ置いた。
木刀はない。
代わりに、練習帳がある。
ノアがいる。
五人がいる。
エレナ教官が後ろにいる。
戻れる。
「準備は」
グラン先生が聞く。
アリシアは息を吸う。
吐く。
「できました」
「では、一度だけ読んでください」
部屋の静けさが深くなる。
アリシアは文字を見る。
胸の奥が、少しだけ深くなる。
まだ読む前。
緊張だ。
そう分ける。
そして。
ゆっくり、声にした。
「第六補助点――応答なし」
言葉が、測定室へ落ちた。
何も起きない。
一秒。
二秒。
三秒。
水晶板は透明なまま。
胸の奥も、大きくは変わらない。
水音もしない。
アリシアは、少しだけ息を吐きそうになる。
反応なし。
それで終わる。
そう思った。
五秒目。
ぽちゃん。
水晶板の中央から、小さな水音がした。
現実の音。
全員が聞いた。
アリシアの肩が震える。
水晶板の表面に、水はない。
それでも。
透明な板の内部へ、黒い点が一つ浮かんだ。
点が広がる。
一つの波紋。
二つ目。
三つ目。
その中心に、白い光が細く立つ。
朝と同じ。
しかし、今度は消えなかった。
白い光が揺れる。
文字のような形へ変わる。
アリシアの胸が深く沈む。
痛みはない。
冷えもない。
ただ、強い引力。
水底へ見下ろされているような感覚。
白い光が、一文字を作る。
『在』
夢と同じ。
部屋の空気が凍った。
誰も声を出さない。
アリシアは水晶板を見つめた。
怖い。
嬉しい。
分からない。
返事。
そう思いそうになる。
その瞬間。
エレナ教官の声が飛んだ。
「アリシア、戻れ」
ノアも言う。
「戻りなさい」
アリシアは息を吸った。
水晶から視線を外す。
「戻る」
声にした。
その瞬間。
黒い波紋が消えた。
白い『在』も消える。
水晶板は透明へ戻った。
部屋に残ったのは、全員の呼吸だけだった。
グラン先生が即座に言う。
「終了。追跡しません」
マリナ先生が結界板を確認する。
「外部干渉なし。五属性支点、正常。室内結界、正常」
教務主任が言う。
「全員、魔力を出していないことを確認」
リーネが答える。
「出していません」
シオンも。
「出してない」
ミランダも。
「出してません」
レオンも。
「出してない」
ルシアンは静かに言った。
「光属性反応の発動はありません」
アリシアは胸元へ手を当てた。
呼吸が少し速い。
でも、立っていられる。
「体感」
グラン先生が尋ねる。
「胸の奥が深くなりました。痛み、冷えなし。水晶の文字が出た時、引かれる感じがありました。でも……戻るって言ったら消えました」
「水音は」
「一度、全員が聞いた音だけです。胸の中では聞いていません」
「良い」
司書の筆が走る。
マリナ先生が水晶板を封印布で覆う。
「再確認は行いません」
「はい」
アリシアは頷いた。
もっと見たい。
一瞬だけ、そう思った。
でも、言わない。
追わない。
ノアの尻尾が、アリシアの足首へ触れる。
戻る。
今はここ。
六人と先生たちのいる測定室。
教務主任は全員を見渡した。
「確認できた事実を整理します」
部屋の緊張が少しだけ形を持つ。
「一。記録文『第六補助点、応答なし』を一度読み上げた」
「二。約五秒後、水晶内部で水音と波紋状反応」
「三。黒色波紋中央に白色文字反応。文字は『在』」
「四。外部干渉なし。五属性候補者は魔力未使用」
「五。アリシアさんが復帰宣言後、反応消失」
「六。危険反応、結界異常、身体的異常なし」
一つずつ。
事実だけ。
意味はまだつけない。
アリシアは練習帳へ書き写す。
手は少し震えていた。
でも、文字は読める。
教務主任が続ける。
「現時点で、この反応を第六補助点からの返答と断定しません」
アリシアの胸が少しだけ痛む。
残念。
でも、それでいい。
「同時に、単純な夢の再現とも断定できません。複数名が水音と文字反応を確認しています」
現実だった。
全員が見た。
全員が聞いた。
それだけで、夢とは違う。
マリナ先生が言う。
「白色反応が光属性由来でないことは確認しました。色だけで属性を判断しません」
ルシアンが静かに頷く。
「承知しました」
グラン先生はアリシアを見る。
「今、何を感じていますか」
アリシアは少し考えた。
怖い。
安心。
嬉しい。
寂しい。
返事があったように感じる。
でも、答えではない。
「……返事をもらったように感じました」
正直に言う。
「でも、それは私の感情です」
「はい」
「事実は、『在』という反応が出たこと。何が在るのか、誰が返したのか、そもそも返事なのかは分かりません」
グラン先生は頷いた。
「非常に良い整理です」
リーネの筆が止まる。
シオンが、ゆっくり息を吐く。
ミランダは胸元で両手を握っている。
レオンは何か言いたそうだが、我慢している。
ルシアンは静かに水晶板を見ていた。
教務主任が言う。
「本日の確認は終了です。この反応に関する追加試験は、当面行いません」
「はい」
「調査範囲は昨日示したものから変更しません。現地調査も禁止のままです」
「はい」
「今日得たものは、答えではありません」
教務主任の声は厳しくも、落ち着いていた。
「ただし、無視できない記録です」
アリシアは胸の奥へその言葉を置いた。
答えではない。
でも、無視できない。
小さな返事のようなもの。
◇
測定室を出た後、六人はすぐには図書館へ向かわなかった。
廊下の窓辺にある長椅子へ座った。
全員が、少しずつ離れた場所へ腰を下ろす。
誰もすぐには話さない。
測定室の緊張が、まだ体に残っている。
アリシアは練習帳を抱えていた。
ノアは膝の上。
最初に口を開いたのは、レオンだった。
「……返事、だったのかな」
声は小さい。
リーネが答える。
「未確定です」
「分かってる」
レオンは少しだけ笑う。
「でも、そう思った」
ミランダも頷く。
「私も」
シオンが窓の外を見る。
「『応答なし』を読んだ後に『在』だからね。そう見えるのは自然」
ルシアンが静かに言う。
「自然な解釈と、確定した意味は別です」
「うん」
アリシアは答える。
「でも、みんなも見たんですね」
リーネが頷く。
「はい。水音も聞きました」
夢ではない。
自分だけではない。
そのことが、少し怖く。
少し嬉しかった。
「怖かった?」
ミランダが聞く。
「怖かった」
「戻れた?」
「うん。先生とノアに言われて、『戻る』って言えた」
シオンが少し笑う。
「夢でも現実でも同じだったね」
「うん」
ルシアンが言う。
「戻ることで反応が消えた点も重要ですね」
リーネがすぐに書きそうになり、手を止める。
「後で正式記録から確認します」
疲れているのだろう。
いつものように即座に書かない。
レオンが大きく息を吐いた。
「アリシアが戻ってよかった」
単純な言葉。
けれど、胸に響いた。
「ありがとう」
「礼はいい!」
今日は声が少し大きかった。
シオンが苦笑する。
「戻ったね、声量」
緊張が少しほどけた。
ミランダが笑う。
リーネも小さく息を吐く。
ルシアンの表情も柔らかくなる。
アリシアも笑った。
小さな笑い。
でも、全員を現実へ戻す笑いだった。
◇
図書館では、司書が用意した確認記録の複写を元に、話せる範囲だけを整理した。
今日は仮説を増やしすぎない。
司書から、そう指示された。
事実だけ。
夢と現実の共通点。
相違点。
アリシアは表を作った。
『夢』
・暗い水辺
・「なし」と聞こえた気がした
・波紋
・「在」
・ノアの声
・「戻る」と言って目覚め
『現実』
・測定室
・記録文「第六補助点、応答なし」
・約五秒後、水音
・黒い波紋
・白い「在」
・エレナ教官とノアの声
・「戻る」と言って反応消失
並べると、似ている。
けれど違う。
夢には水辺があった。
現実には水晶板。
夢では一人だった。
現実ではみんながいた。
夢では文字が水面に浮かんだ。
現実では水晶の内部。
シオンが表を見る。
「同じ形だけど、場所は違う」
リーネが頷く。
「夢が予兆だった可能性。現実反応が夢の記憶によって誘発された可能性。両方あり得ます」
ルシアンが言う。
「あるいは、同じ原因が夢と現実の両方へ現れた」
「それも仮説です」
リーネが答える。
アリシアは全部を書かない。
今日は、司書から仮説を増やしすぎないよう言われている。
必要なものだけ。
『共通原因の可能性。未確定』
ミランダが『在』の文字を見ながら言う。
「何があるんだろう」
レオンが答える。
「第六補助点?」
シオンが言う。
「機能だけ残ってるとか」
ルシアンが言う。
「記録が存在している、という意味かもしれません」
リーネが言う。
「アリシアさん自身の存在確認という可能性も、解釈としてはあります」
その言葉に、アリシアの胸が揺れた。
「私の……?」
「仮説ではなく、文字の多義性です」
リーネはすぐに補足する。
「『在』だけでは、主語も対象もありません」
何が在る。
誰が在る。
どこに在る。
何も分からない。
ただ、在る。
アリシアは文字を見つめた。
応答なし。
その後の在。
もしかしたら。
存在していると言いたかったのかもしれない。
でも、何が。
誰が。
分からない。
アリシアは練習帳に書いた。
『「在」には主語がない。対象もない。何が在るのか未確定』
そして、少し迷って。
『でも、「ない」ではなかった』
そこまで書いた。
ノアが足元で言う。
「それは事実ではない」
「分かってる。感情のところに書く」
アリシアは線を引き直した。
『感情:何もないのではなかった、と感じて少し嬉しい』
ノアは頷いた。
「それならいい」
◇
夕方。
寮へ戻る道で、アリシアはメリルへ今日の確認を話した。
メリルは参加していなかった。
だから、話せる範囲だけ。
一度読んだこと。
水音。
波紋。
『在』。
戻ると言って反応が消えたこと。
メリルは驚き、しばらく言葉を失った。
「本当に……文字が?」
「うん。みんなも見た」
「怖かった?」
「怖かった。でも、夢よりは怖くなかった」
「どうして?」
「みんながいたから。戻るって言えたから」
メリルはゆっくり頷いた。
「在る、って……何があるんだろうね」
「分からない」
「返事だと思う?」
「そう感じた。でも、まだ分からない」
「そっか」
メリルは、それ以上意味を決めようとはしなかった。
ただ、アリシアの横を歩く。
その沈黙がありがたい。
中庭へ差す夕方の光。
石畳の影。
風。
木々のざわめき。
現実の音。
そこへ戻っている。
「でも」
メリルが小さく言った。
「何が在るのか分からなくても、アリシアちゃんがここにいるのは分かるよ」
アリシアは足を止めかけた。
「メリルさん……」
「それだけ」
メリルは少し照れたように前を向く。
胸の奥が、温かくなる。
夢の『在』。
水晶の『在』。
その意味は分からない。
でも。
自分がここにいること。
ノアが隣にいること。
みんながいること。
それは分かる。
「ありがとう」
「うん」
◇
夜。
アリシアは机へ向かい、練習帳を開いた。
今日の記録は、長くなった。
夢。
水晶片。
白い光。
午後の確認。
水音。
波紋。
『在』。
戻る。
一つずつ、事実と感情を分けながら書く。
『今日は、記録文「第六補助点、応答なし」を一度だけ読みました。約五秒後、水晶板の中で水音がしました。黒い波紋が広がり、中央に白い「在」という文字が出ました』
『六人は魔力を使っていません。外部干渉、五属性支点異常、室内結界異常なし。私は胸の奥が深くなり、少し引かれる感覚がありました。痛み、冷えなし』
『エレナ先生とノアに戻れと言われ、「戻る」と答えました。その直後、波紋と文字は消えました。追跡、再確認はしていません』
そして。
『事実:文字は「在」』
『未確定:何が在るのか。誰の反応か。返事かどうか』
『感情:返事をもらったように感じた。怖かった。少し嬉しかった』
『判断:今は追わない』
アリシアはペンを置いた。
ノアが机へ跳び乗る。
「今日は?」
アリシアが聞く。
ノアは、いつもより長く考えた。
「百点」
アリシアは目を見開いた。
「え?」
「百点」
「本当に?」
「ええ」
「初めて……?」
「たぶんね」
アリシアは練習帳とノアを交互に見る。
「どうして?」
「夢の中で水へ入らなかった。起きて記録した。午後の確認を自分で選んだ。反応が出ても追わなかった。戻ると言えた。『在』を返事と感じながらも、事実とは分けた」
「減点は?」
「今日はなし」
「本当に……?」
「何度言わせるの」
ノアは少し不機嫌そうに顔を逸らす。
でも、尻尾の先がゆっくり動いている。
アリシアの胸がいっぱいになる。
百点。
完璧だったという意味ではない。
怖くなかったわけでもない。
正解を出したわけでもない。
でも。
今日の自分にできることを、全部できた。
それをノアが認めてくれた。
「ありがとう」
「礼はいいわ」
「でも、言いたいから」
「……知ってる」
ノアは小さく答えた。
「最後に書くなら?」
アリシアは、今日の文字を思い出した。
『在』
答えではない。
でも、ないではない。
存在。
何か。
誰か。
あるいは、自分。
様々な意味を持てる文字。
アリシアは、ゆっくり一行を書いた。
『何が在るのかは分からない。でも、私はここに在る』
ノアはその文字を見つめた。
アリシアはもう一行続ける。
『ノアも、みんなも、私の戻る場所も、ここに在る』
ノアは目を細めた。
「いいわ」
アリシアは最後に、小さく書き足した。
『だから、知らない返事へ急いで沈まなくてもいい』
練習帳を閉じる。
夜は静かだった。
水音はしない。
窓の外には月が出ている。
机の横には木刀。
足元にはノア。
胸の奥には、まだ深い場所がある。
第六補助点。
応答なし。
そして。
『在』
小さな返事のように現れた、一文字。
その意味はまだ分からない。
けれど、アリシアはもう、水底へ一人で飛び込もうとは思わなかった。
ここにいる。
戻る場所がある。
声をかけてくれる人がいる。
その事実の方が、今夜はずっと確かだった。




