第59話 仮説を置く場所
翌朝。
アリシアは、練習帳を開いたまま、しばらくペンを動かさなかった。
窓から差し込む朝の光が、昨夜書いた二行を静かに照らしている。
『一時的に空いた場所へ立っても、私まで一時的になるわけではない』
『役目が終わったら、私は戻る場所へ戻ればいい』
書いた時には、胸の中へすとんと落ちた言葉だった。
今朝になって読み返すと、少しだけ恥ずかしい。
けれど、消したいとは思わなかった。
一時保持線。
古い結界修復のために設けられ、役目が終われば廃止される線。
それでも、魔力残響だけが長く残ることがある。
第六支点の周辺に記されていたという言葉。
水路。
深部。
保持。
修復。
それらと、一般資料で見つけた一時保持線という仕組み。
まだ仮説にすぎない。
答えではない。
けれど、何もなかった場所に、考えるための足場が一つできた。
アリシアは、それを嬉しいと思った。
同時に、少し怖いとも思っていた。
仮説ができると、その形にすべてを当てはめたくなる。
第六支点は一時保持線だった。
古い排水線はその一部だった。
水の波紋は残響だった。
自分の胸の反応は、そこへ繋がっていた。
そう決めてしまえば、分かりやすい。
分かりやすいものは、安心できる。
けれど。
分かりやすさと、正しさは同じではない。
「朝から仮説に飲まれそうな顔ね」
ノアが窓辺から言った。
アリシアは顔を上げる。
「そんなに分かる?」
「分かるわ。目が練習帳を見てるのに、頭は地下へ行ってる」
「地下には行かないよ」
「足はね」
「……心も行かないようにする」
「それは無理」
ノアは軽やかに机へ飛び乗った。
「気になるんだから、心は行くわ。大事なのは、帰ってくること」
「戻る線」
「そう」
ノアは練習帳の文字を見下ろした。
「一時保持線という考え方は悪くない。でも、仮説は答えの代用品ではない」
「うん」
「仮説は、確認する場所を決めるために置くものよ」
「確認する場所……」
「何を比べるか。何を調べるか。どの言葉が本当に同じ意味なのか。そこを決めるため」
アリシアはペンを持ち、朝の記録を書き始めた。
『朝、水音なし。胸の反応なし。一時保持線の仮説が気になる。仮説を答えの代わりにしない。確認する場所を決めるために使う』
少し考え、続ける。
『第六支点=一時保持線、とはまだ決まっていない』
「いいわね」
ノアが言った。
「今日は、たぶん教員側から何か返ってくる」
「昨日、司書さんが共有してくれるって言ってたから?」
「ええ。仮説としては筋が通っている。無視はされないでしょう」
「もし、違うって言われたら?」
「違った仮説を捨てる」
「悲しくない?」
「少しはね。でも、間違いが分かることも前進よ」
アリシアはその言葉を練習帳へ書いた。
『仮説が違っても、確認できたことは前進』
「九十八点」
ノアが言う。
「減点は?」
「違うと言われる前から、少し傷ついた顔をした」
「頑張って考えたから……」
「仮説と自分を同じにしない」
その言葉に、アリシアの指が止まった。
「仮説と、自分を?」
「仮説が間違っていても、あなたが間違った人間になるわけじゃない」
「……うん」
「逆に、仮説が当たっても、あなたが全部正しい人間になるわけでもない」
「それは分かる」
「本当に?」
「たぶん」
「なら、今日はそこも練習ね」
アリシアは小さく頷いた。
仮説と自分を同じにしない。
考えが違ったとしても、自分の価値まで下がるわけではない。
それは、これまでのアリシアには難しい考え方だった。
失敗すると、自分全部が失敗したように感じていた。
間違えると、存在する場所がなくなったように思っていた。
けれど。
戻る場所はある。
考えが違っても。
訓練で失敗しても。
記録に修正が入っても。
自分は戻れる。
アリシアは制服に着替え、鏡の前に立った。
黒髪。
黒い瞳。
少し考えすぎている顔。
「背筋」
ノアが言う。
アリシアは背筋を伸ばした。
「今日は、仮説を置く場所を間違えない」
「よろしい」
◇
廊下では、メリルがいつものように待っていた。
「おはよう、アリシアちゃん」
「おはよう、メリルさん」
メリルはアリシアの顔を見ると、少しだけ首を傾げた。
「今日は、緊張してる?」
「昨日の仮説が、先生たちにどう見られるか気になってる」
「一時保持線の話?」
「うん。もし全然違ったらって」
メリルは少し考えた。
「違ったら、残念?」
「うん。たぶん」
「でも、調べたことが無駄になる?」
アリシアはすぐには答えなかった。
昨日読んだ資料。
地図の目的。
用途の変更。
保持線。
魔力残響。
仮に第六支点と関係がなくても、全部が無駄になるわけではない。
「ならない」
「じゃあ、大丈夫だね」
「大丈夫……かな」
「残念でも、大丈夫」
メリルは柔らかく笑った。
「その二つは一緒にあっていいんでしょ?」
最近、何度も出てきた言葉。
一緒にあっていい。
怖いけれど、楽しい。
嬉しいけれど、疲れる。
安心したけれど、まだ気になる。
仮説が違って残念でも、確認できたことは嬉しい。
「うん」
アリシアは小さく笑った。
二人と一匹で廊下を歩く。
朝の寮には、いつもの音があった。
扉の開閉。
足音。
制服の布が擦れる音。
遠くで誰かが名前を呼ぶ声。
普通の日。
けれど、空白ではない日。
アリシアは、その音の中を歩いた。
◇
食堂には、今日も六人の席ができていた。
最初から決められたわけではない。
誰かが予約したわけでもない。
それでも、レオン、ミランダ、リーネ、シオン、ルシアンが自然と集まる。
その中へアリシアが座る。
以前なら、自分がそこへ入っていいのか、何度も確かめていた。
今も少しだけ迷う。
でも、立ち止まるほどではない。
「おはようございます」
アリシアが言うと、レオンが顔を上げた。
「おはよう、アリシア」
声量はかなり抑えられていた。
リーネが頷く。
「九十四点です」
「最高記録か!」
喜びの声が急に大きくなる。
「八十二点です」
「下がった!」
シオンが眠そうに言う。
「喜ばなければ高得点を維持できるのに」
「喜びたい!」
「難しいね」
ミランダが笑う。
アリシアも少し笑いながら席についた。
体調を聞かれる前に、自分から報告する。
「水音なし。胸の反応なし。一時保持線の仮説が気になっています。でも、まだ答えだとは思っていません」
リーネが手帳を開く。
「良い自己整理です」
シオンが言う。
「先生たちから返事が来そうだね」
「うん。違うかもしれないけど」
レオンが不思議そうに首を傾げた。
「違ったら、また考えればいいだろ?」
あまりにも簡単に言う。
けれど、その簡単さがアリシアにはありがたかった。
「そうですね」
「俺なんか、剣の振り方を毎日直されてる!」
「胸を張るところではありません」
リーネが言う。
「でも、直されても剣をやめない!」
レオンは力強く続けた。
「だから仮説が違っても、調査をやめなきゃいい!」
アリシアは、少し驚いて彼を見た。
言葉は単純。
でも、芯がある。
「ありがとうございます」
「礼はいい!」
足元のノアが低く言う。
「それは私の台詞」
ミランダが笑った。
ルシアンは静かに紅茶を置く。
「仮説は、間違うことを許された考え方だと思います」
アリシアは顔を向けた。
「間違うことを許された?」
「はい。答えだと言い切る前に、可能性として置くものですから」
リーネが頷く。
「定義として妥当です」
ルシアンは続ける。
「仮説に間違う余地がなければ、それは仮説ではなく主張になります」
シオンが少し笑う。
「ルシアン、朝から授業っぽい」
「すみません」
「悪いとは言ってないよ」
アリシアは、その言葉を心の中で繰り返した。
間違うことを許された考え方。
仮説。
それなら、少し怖さが減る。
正解を出さなければならないわけではない。
確認するために置く。
違えば直す。
それでいい。
ノアが椅子の上で言う。
「パン」
「あ」
アリシアはパンをちぎる。
今日は少し硬い。
ゆっくり力を入れる。
端が少し崩れたが、形は残る。
「八十九点」
「仮説を考えながらでも戻れた」
「そうね」
レオンが真剣に言う。
「パンも仮説も、崩れても全部なくなるわけじゃないな!」
食卓が一瞬静かになった。
シオンが眉を寄せる。
「今の、深いようで深くない」
ミランダは楽しそうに頷く。
「でも、なんとなく分かる!」
リーネは少し考えた後、言った。
「比喩としては不完全ですが、部分的崩壊と全体消失を区別する点では成立します」
「成立した!」
レオンが喜ぶ。
アリシアは笑いをこらえられなかった。
◇
生活基礎の授業。
セリア先生が黒板へ書いた言葉は、今日もアリシアの心を見透かしたようだった。
『考えが違っても、自分まで否定しない』
教室が少し静かになる。
誰かが椅子へ座り直す音。
紙をめくる音。
外から入る、鳥の声。
セリア先生はゆっくりと話し始めた。
「自分の考えが間違っていた時、恥ずかしくなったり、自信をなくしたりすることがあります」
アリシアはノートを開く。
「ですが、考えが間違っていたことと、自分に価値がないことは同じではありません」
朝、ノアに言われた言葉。
胸へもう一度入ってくる。
「特に、考えることを大切にしている人ほど、考えと自分を強く結びつけやすくなります」
リーネの顔が少し浮かぶ。
そして、自分。
練習帳。
記録。
仮説。
それらが否定されると、自分の場所まで消えるように感じることがある。
「意見、予想、仮説、判断。これらは、あなた自身の一部ではあります。ですが、あなたのすべてではありません」
アリシアは大きく書いた。
『仮説は自分の一部。でも、自分の全部ではない』
「考えは修正できます。言葉も書き直せます。記録にも追記できます。修正できることは、弱さではありません」
修正。
練習帳には、訂正線がいくつもある。
最初に書いたことが、後で違うと分かった記録。
それでも、ページを破ったことはない。
その時そう思ったことも、後で変わったことも、両方残してきた。
班練習では、「自分の予想が違った時、どう受け取るか」を話した。
トマは頭を掻きながら言う。
「俺、当てたくなるんだよな。違うと悔しい」
ミーナが頷く。
「悔しいのは自然よ。でも、誤魔化さないこと」
メリルが言う。
「違った理由が分かれば、次の予想に使えるよね」
アリシアは少し考えた。
「私は……違うって言われると、考えた自分ごと恥ずかしくなる」
正直に言う。
メリルが静かに聞く。
「今は?」
「恥ずかしくなると思う。でも、仮説は間違うことを許された考え方だって、ルシアンさんが言ってた」
「いい言葉だね」
「うん。だから、違っても練習帳に追記する」
ミーナが微笑んだ。
「それで十分だと思うわ」
アリシアはノートへ書いた。
『違ったら消すのではなく、追記する』
◇
戦闘基礎では、エレナ教官が三つの進路を用意していた。
白い線。
黄色い線。
青い線。
どれが正しい道なのかは、始まるまで分からない。
「今日は予測と修正だ」
エレナ教官は言った。
「最初に進路を予測する。だが、違えばすぐに変えろ。最初の判断へ執着するな」
アリシアは木刀を握る。
仮説と同じ。
最初に考える。
状況を見る。
違えば変える。
「予測を立てない者は遅れる。予測へ固執する者は崩れる。両方避けろ」
訓練は、アリシア、メリル、カイルの三人組。
相手はミーナたち。
最初に相手が通る進路を予測する。
アリシアは足の向きを見る。
右。
そう思った。
「右だと思います」
開始。
相手は一歩だけ右へ出る。
だが、すぐ中央へ切り返した。
予測と違う。
アリシアは一瞬右を追いそうになる。
すぐ中央へ木刀を置く。
間に合う。
「止め」
エレナ教官が頷いた。
「予測は外れた。だが修正できた」
「はい」
「最初から中央だと思っていたふりをするな。外れたことも覚えておけ」
「はい」
間違いを隠さない。
二回目。
左と予測。
相手は本当に左へ来る。
アリシアは木刀を置く。
止める。
しかし、当たったことで少し安心しすぎる。
次の相手の動きが遅れる。
「止め」
エレナ教官の声。
「当たった後に止まった」
「はい」
「予測が当たったことに酔うな。状況は続く」
「はい」
外れても固まる。
当たっても固まる。
どちらも危ない。
三回目。
予測は中央。
相手は左。
すぐ修正。
メリルへ声を出す。
「左へ変わります」
「うん」
風が通る。
アリシアは中央へ戻る。
「止め」
エレナ教官が短く言う。
「良い」
訓練後、エレナ教官がアリシアへ近づいた。
「仮説の件、教員側へ届いている」
「はい」
「筋は悪くない」
胸が跳ねる。
アリシアは反射的に嬉しくなりかけた。
エレナ教官はすぐに続ける。
「だが、まだ仮説だ」
「はい」
「今の顔だ。褒められた瞬間、答えにしたくなったな」
「……少し」
「そこを抑えろ」
「はい」
「午後、教務主任から話がある」
アリシアの胸がまた少し緊張する。
「どんな話ですか」
「聞けば分かる」
「はい」
「先回りするな」
「はい……」
エレナ教官はそれだけ言って離れた。
午後。
教務主任。
仮説への返答。
気になる。
でも、今は昼食。
アリシアは木刀を片づけ、戻る線を意識した。
◇
昼食後。
六人は教務室前へ集まった。
メリルは通常授業へ戻っている。
ノアはアリシアの足元。
レオンは少し落ち着かない様子で廊下を見回している。
ミランダも緊張している。
リーネは手帳を持っているが、まだ開いていない。
シオンは壁へ軽く背を預けている。
ルシアンは静かに立っていた。
「何の話だろうな」
レオンが小声で言う。
声量はかなり良い。
「仮説への返答でしょう」
リーネが答える。
「調査許可増えるかな」
ミランダが聞く。
「可能性はありますが、期待しすぎない方がいいです」
シオンが言う。
「リーネが一番期待してそうだけどね」
「調査範囲の拡大は歓迎します」
「やっぱり」
アリシアは胸元へ手を当てた。
水音なし。
反応なし。
緊張だけ。
ノアが靴へ尻尾を触れさせる。
「息」
吸う。
吐く。
扉が開いた。
教務主任。
グラン先生。
マリナ先生。
そして司書がいた。
「入りなさい」
六人と一匹は、小さな会議室へ通された。
机の上には、数枚の複写資料が置かれている。
古そうな紙ではない。
原本ではなく、必要部分だけを写したものだろう。
教務主任が六人を見渡す。
「昨日提出された、一時保持線に関する仮説を確認しました」
アリシアの背筋が自然と伸びる。
「結論から言えば、現時点で否定する根拠はありません」
レオンとミランダの表情が明るくなる。
アリシアの胸も熱くなる。
しかし。
答えではない。
アリシアは心の中で言う。
仮説。
まだ仮説。
教務主任は続けた。
「同時に、確定できる根拠もありません」
「はい」
リーネが答える。
教務主任は小さく頷いた。
「良い反応です」
机の上の資料を一枚ずつ配る。
「これは、古い結界修復記録のうち、現在公開しても問題ないと判断した抜粋です」
アリシアは紙を受け取る。
古い文字を現代文字へ直した複写。
上部には、年代と記録番号。
本文は短い。
『主五支点の同期不全により、深部保持路を臨時接続』
『保持路への流入過多を確認』
『水脈を介して残響を分散』
『第六補助点、応答なし』
最後の一行。
第六補助点。
これまで聞いていた「第六支点」と少し違う。
アリシアの胸の奥が、わずかに深くなる。
水音はない。
痛みもない。
でも、反応はある。
「体感」
グラン先生が静かに聞く。
「胸の奥が少し深くなりました。水音なし。痛み、冷えなし」
「記録します」
リーネも手帳を開く。
教務主任が言う。
「この記録から、いくつか分かることがあります」
マリナ先生が資料を指す。
「まず、第六という語の後ろが一定していません。別の記録では支点。ここでは補助点。さらに古いものでは保持点と記されている可能性があります」
「名前が違う……」
ミランダが呟く。
「はい」
マリナ先生は頷く。
「同じ設備を指すのか、別の設備なのかも未確定です」
ルシアンが静かに言う。
「名称が変わった可能性と、別物の可能性、両方ありますね」
「その通りです」
リーネの筆が走る。
「次に」
マリナ先生は続ける。
「第六補助点は、主五支点とは区別されています」
アリシアは紙を見る。
主五支点。
第六補助点。
五つと六つ目が、同列ではない可能性。
ノアが昨日言った。
闇だけの話ではない。
でも、闇と無関係でもない。
「つまり、六つ目の属性支点ではない?」
レオンが尋ねる。
「その可能性が高まりました」
教務主任が答える。
「ただし、これだけでは断定できません」
シオンが言う。
「五つを支えるための六つ目?」
「現時点の仮説としては、近いでしょう」
胸の奥が静かに揺れる。
アリシアは、一時保持線の自分との類似を思い出しかけた。
五つを支えるための六つ目。
空いた場所へ入る自分。
また重ねたくなる。
ノアが低く言う。
「分ける」
「うん」
アリシアは練習帳へ書く。
『第六補助点と私の役割が似て見える。これは私の連想。事実ではない』
グラン先生がその文字を見て、少しだけ微笑んだ。
「良い分け方です」
教務主任は続ける。
「今回、君たちに新たに許可する調査範囲を示します」
全員が顔を上げる。
「古い修復記録のうち、名称変化に関する抜粋。主五支点と補助設備の一般的関係。水脈を用いた残響分散の基礎資料。この三点です」
リーネが確認する。
「現地調査は?」
「引き続き禁止」
「古い排水線の詳細図面は?」
「閲覧不可」
「第六補助点の位置記録は?」
「未確認であり、閲覧許可も出しません」
「承知しました」
リーネはすぐに線を引いた。
調べていいこと。
まだ駄目なこと。
アリシアの胸も少し落ち着く。
境界が見える。
「それと」
グラン先生がアリシアを見る。
「あなたの水音と胸の反応については、今後も記録を続けます。ただし、第六補助点という言葉に反応したからといって、あなたが直接それと接続しているとは限りません」
「はい」
「言葉そのものが、隠れ里の記憶やノアさんとの契約記憶を刺激している可能性もあります」
アリシアはノアを見る。
ノアは何も言わない。
ただ、金色の瞳が少し細くなっている。
「ノア」
アリシアが小さく呼ぶ。
「今は聞かない」
ノアが答えた。
「うん」
教務主任がそれを見て、静かに言った。
「その判断で構いません」
レオンが資料を見ながら言う。
「五つを支える六つ目か……」
ミランダも小さく頷く。
「六つ目なのに、同じじゃないんだね」
シオンが言う。
「むしろ、同じじゃないから六つ目なのかも」
リーネがすぐに言う。
「解釈です」
「分かってる」
ルシアンは紙を静かに見つめていた。
「主五支点が同期不全を起こした時に、深部保持路を臨時接続した」
彼は読み上げる。
「五つがうまく噛み合わない時、別の場所が一時的に支えたということですね」
アリシアの胸がまた少し動く。
六人合同訓練。
五つの属性の隙間。
そこへ入る自分。
似ている。
あまりにも。
でも、似ていることと同じであることは違う。
「似て見えます」
アリシアは正直に言った。
「私の役割と。でも、同じだとは決めません」
教務主任が頷いた。
「それが良い」
マリナ先生も言う。
「類似は調査の入口になります。しかし、同一視は危険です」
「はい」
その言葉も記録する。
◇
会議が終わった後、六人は図書館へ移動した。
新しく許可された資料は、翌日以降に司書が準備することになった。
今日は、渡された抜粋の整理だけ。
リーネが机へ資料を並べる。
「現時点の更新を行います」
シオンが椅子へ座る。
「さすがに今日は必要だね」
「はい」
リーネは項目ごとに書いていく。
『第六の呼称:支点、補助点、保持点の可能性』
『主五支点とは区別される記録あり』
『深部保持路の臨時接続』
『水脈を介した残響分散』
『第六補助点、応答なし』
最後の言葉に、少しだけ空気が重くなる。
応答なし。
何かが呼びかけた。
でも、返事がなかった。
アリシアの胸に、寂しい感じが生まれる。
事実ではない。
言葉から受けた感情。
それでも、残る。
「応答なしって、壊れてたのかな」
ミランダが小さく言う。
レオンが腕を組む。
「眠ってたとか」
シオンが言う。
「そもそも、応答するものなのかも分からない」
ルシアンが頷く。
「設備の起動反応を、応答と表現しているだけかもしれません」
リーネはすべて書く。
「故障。休止。未接続。起動失敗。呼称上の表現。複数可能性」
アリシアは資料の一文を見つめた。
『第六補助点、応答なし』
ノアが足元で言う。
「名前をつけない」
「うん」
寂しさに、物語をつけない。
誰かが忘れられた。
誰かが呼ばれなかった。
そう決めない。
今は、応答なしという記録だけ。
「でも、少し寂しく感じました」
アリシアは言った。
メリルはいない。
けれど、六人がいる。
ルシアンが静かに頷く。
「感情として記録してよいと思います」
リーネが手帳へ書く。
「アリシアさん、応答なしという記述に寂しさを感じる。事実とは分離」
シオンが少し笑う。
「リーネ、感情まで記録するの慣れたね」
「調査に影響するため必要です」
アリシアは、自分でも練習帳へ書いた。
『応答なし、という言葉を寂しく感じた。これは私の感情』
書くと、少しだけ落ち着いた。
◇
夕方。
寮へ戻る道で、メリルへ今日のことを話した。
主五支点。
深部保持路。
第六補助点。
応答なし。
新しく許可された調査範囲。
アリシアは話せる範囲だけを、ゆっくり説明した。
メリルは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「五つを支えるための六つ目……」
「うん。まだ仮説だけど」
「アリシアちゃんと似て見える?」
「似て見えた」
「怖かった?」
アリシアは少し考える。
「少し。でも……前みたいに、私は一時的な代わりなんだって思わなかった」
「どう思ったの?」
「役割が似ていても、私と設備は違う」
当たり前の言葉。
でも、大事だった。
「それに、私は自分で戻れる。みんなも待っててくれる」
メリルは嬉しそうに笑った。
「うん」
「第六補助点が何だったのかは、まだ分からない。でも、私までそれになる必要はない」
「うん」
中庭に風が通る。
木々の葉が静かに揺れる。
中央塔の影が、石畳を横切っている。
アリシアはその影を見た。
地図にはない線。
時間とともに動く線。
それでも、今そこにある。
「応答なしって言葉、寂しかった」
アリシアが言う。
メリルは少しだけ黙った。
「返事がなかった感じがするから?」
「うん。でも、設備の記録かもしれない」
「それでも、寂しく感じるのは悪くないよ」
「うん。感情として記録した」
「えらい」
アリシアは少し笑った。
◇
夜。
アリシアは練習帳を開いた。
今日のページは、いつもより丁寧に書きたかった。
『今日は、一時保持線の仮説について教員側から返答がありました。現時点で否定する根拠はない。でも、確定する根拠もない。仮説のままです』
続ける。
『古い修復記録の抜粋を見ました。主五支点の同期不全により、深部保持路を臨時接続。水脈を介して残響を分散。第六補助点、応答なし』
さらに、分かったことを書く。
『第六の後ろにつく言葉は、支点、補助点、保持点の可能性があります。同じ設備か、別の設備かは未確定です。主五支点とは区別されている記録があります』
『五つを支える六つ目に見えます。でも、まだ仮説です』
ペンが止まる。
自分との類似。
それも書く。
『私の合同訓練での役割と似て見えました。五つの隙間へ入り、一時的に支え、戻る。でも、似ていることと同じであることは違います。私は第六補助点ではありません』
その一文を書くと、胸の奥が少し軽くなった。
ノアが机へ飛び乗る。
「今日は?」
アリシアが聞くと、ノアは少し考えた。
「九十九点」
「仮説、否定されなかったのに?」
「だからよ。否定されなかった時の方が危ない。すぐ答えにしたくなるから」
「うん」
「でも、確定ではないと書けた。自分と補助点を分けられた。応答なしに感じた寂しさも、事実と分けた」
「減点は?」
「教務主任が“否定する根拠はない”と言った瞬間、少し勝った顔をした」
「勝った顔……?」
「してたわ」
「恥ずかしい」
「仮説と勝負しない」
「はい」
ノアは練習帳の最後の空白を見る。
「最後に書くなら?」
アリシアは少し考えた。
仮説。
答えではないもの。
確認するために置くもの。
間違うことを許された考え方。
自分とは違うもの。
それらを並べ、一行を書く。
『仮説は、私が立つ場所ではなく、次に見る場所を示す印』
ノアは静かに頷いた。
「続けるなら?」
アリシアは、もう一行書いた。
『印が違っていたら、私は戻って別の道を探せばいい』
ノアは満足そうに目を細めた。
「いいわ」
アリシアは練習帳を閉じた。
夜は静かだった。
水音はしない。
胸の奥も穏やかだった。
第六支点。
第六補助点。
第六保持点。
呼び方すら、まだ定まらない。
けれど。
分からないことは、以前ほど怖いだけのものではなくなっていた。
仮説を置く。
確かめる。
違えば戻る。
また別の道を見る。
アリシアは、答えのない場所でも立ち続ける方法を、少しずつ覚え始めていた。




