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『忘れられた六つ目の神器に選ばれました 〜人見知りな闇の少女と毒舌黒猫の学園英雄譚〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第58話 地図にない線



 翌朝。


 アリシアは、いつもより少し早く目を覚ました。


 水音はしなかった。


 胸の奥も静かだった。


 窓の外では、まだ朝日が昇りきっていない。


 寮の屋根。


 細い煙突。


 中庭を囲う石壁。


 遠くに見える中央塔。


 それらの輪郭が、薄い朝靄の中にぼんやり浮かんでいる。


 見えているもの。


 地図に描かれているもの。


 そこにあると、誰もが知っているもの。


 アリシアは窓辺へ近づき、中央塔の下の方を見た。


 もちろん、地下は見えない。


 地図に載っていないかもしれない古い排水線も見えない。


 昨日、司書から聞いた話。


 中央演習場の外周付近に、現在の地図と一致しない古い排水線がある可能性。


 復帰点の真下ではない。


 水の残留反応との直接的な関係も、まだ確認されていない。


 学園側が調査する。


 アリシアたちの調査範囲外。


 それらは全部、練習帳に書いてある。


 それでも。


 地図にない線。


 その言葉が、今朝も頭の隅に残っていた。


「覗いても見えないわよ」


 ノアが言った。


 アリシアは振り返る。


 黒猫は寝台の端に座り、尻尾を足元へ巻きつけていた。


「覗いてないよ」


「中央塔の地下を見ようとしてたでしょう」


「見えないのは分かってる」


「分かってる顔じゃなかったわね」


「どんな顔?」


「屋根を透かして地下まで見ようとする顔」


「そんな顔あるの?」


「今作った」


 アリシアは少しだけ笑った。


 それから、窓から離れる。


 机へ向かい、練習帳を開いた。


『朝、水音なし。胸の反応なし。古い排水線が気になる。中央塔を見て地下を想像した。見えないものを、見えたつもりにしない』


 ペンを止める。


 地図にない。


 見えない。


 記録が一致しない。


 そういうものは、アリシアにとって強く気になる。


 空欄と似ているから。


 ないもの。


 書かれていないもの。


 でも、実際には存在するかもしれないもの。


「ノア」


「何?」


「地図にないって、どういうことだと思う?」


 ノアは少しだけ目を細めた。


「いくつもあるわね」


「いくつも?」


「古すぎて記録から消えた。使われなくなって省かれた。後から埋められた。別の名前で記録された。意図的に隠された」


 最後の言葉に、アリシアの指が止まる。


 意図的に隠された。


 胸の奥が、ほんの少しだけ深くなった。


 しかし、ノアはすぐに言う。


「今のは可能性を並べただけ」


「うん」


「最後だけ選んで飛びつかない」


「うん……」


「地図にないから秘密。秘密だから第六支点。第六支点だから闇。そういう雑な線の引き方はしない」


 アリシアは耳が痛かった。


 まだそこまで考えてはいなかった。


 けれど、放っておけばきっと考えていた。


「書く」


「そうしなさい」


 アリシアは練習帳へ追加する。


『地図にない理由の可能性。古すぎて消えた。使われなくなって省かれた。埋められた。別の名称。意図的に隠された。現時点ではどれも未確定。最後だけ選ばない』


 書き終えると、胸のざわめきが少し薄れた。


「点数は?」


 アリシアが聞く。


「九十七点」


「減点は?」


「“意図的に隠された”だけ文字が少し濃い」


 アリシアは練習帳を見る。


 確かに、その一文だけ筆圧が強い。


「……本当だ」


「自分の興味は、文字に出るものよ」


「怖いね」


「便利でもあるわ。自分がどこに引かれているか分かるから」


 アリシアはその濃い文字の横へ、小さく書いた。


『強く気になったため注意』


 ノアは頷いた。


「それでいいわ」


 ◇


 廊下へ出ると、メリルがいつもの場所で待っていた。


「おはよう、アリシアちゃん」


「おはよう、メリルさん」


 メリルはアリシアの顔を見た。


「今日は考えてる顔」


「分かる?」


「最近、少し分かるようになってきた」


 アリシアは少し照れた。


「古い排水線が気になってる」


「地図にないっていう?」


「うん。でも、地図にない理由はいっぱいあるってノアが言ってくれた」


 アリシアは朝の記録内容を簡単に話す。


 古すぎて消えた。


 使われなくなった。


 埋められた。


 別の名称。


 意図的に隠された。


 どれも未確定。


 メリルは真剣に頷いた。


「最後のが一番気になる?」


「うん。だから注意って書いた」


「それ、すごくいいと思う」


「興味があることを、隠さない方がいい?」


「うん。興味があるのに、ないふりすると、気づかないうちに引っ張られそうだから」


 アリシアは少し考えた。


 怖さも。


 楽しさも。


 確かめたい気持ちも。


 隠さない方が、扱いやすい。


 最近、何度も学んできたことだった。


「今日は普通の授業?」


「うん。図書館では、勝手に古い排水線を調べない」


「公開資料は?」


「調査範囲外って言われたから、今は待つ」


「えらい」


「でも、気になる」


「それも言えてえらい」


 二人は並んで歩いた。


 朝の廊下には、多くの足音がある。


 階段を下りる音。


 扉が閉じる音。


 遠くで誰かが笑う声。


 どれも、学園の日常の音。


 地図には載らない。


 でも、確かにそこにある。


 アリシアはふと、そう思った。


 地図にないものが、全部秘密とは限らない。


 誰かの足音。


 机の傷。


 廊下に残る匂い。


 そういうものも、地図には載らない。


 けれど、存在している。


「メリルさん」


「うん?」


「地図にないものって、いっぱいあるね」


「うん。人の気持ちとか?」


「それも」


 メリルは笑った。


「じゃあ、地図にないからって、すぐ危ないわけじゃないね」


「うん」


 その言葉を、アリシアは胸の中へ置いた。


 ◇


 食堂では、今日もいつもの席が賑やかだった。


 レオンは声量調整に取り組んでいる。


「おはようございます」


 少し硬い。


 けれど、音量はちょうどいい。


 リーネが頷く。


「九十一点です」


「やった!」


 喜びの声が大きい。


「七十八点へ下がりました」


「またか!」


 ミランダが笑う。


 シオンは眠そうに言う。


「レオンの戻る場所、本当に大声だね」


「癖だ!」


「知ってる」


 アリシアは席につき、挨拶をした。


 ルシアンもすでに席にいた。


 昨日、誰もいない礼拝堂が戻る場所だと話した彼は、今朝はいつもより少し穏やかに見えた。


「おはようございます」


「おはようございます」


 アリシアは先に体調を報告する。


「水音なし。胸の反応なし。古い排水線が気になっています。でも、調査範囲外なので、今日は勝手に調べません」


 リーネが手帳を開く。


「適切です」


 シオンが言う。


「今日も線を引けてるね」


「でも、気にはなってる」


「それも適切」


 ミランダが少し首を傾げる。


「地図にないって、どうしてなんだろうね」


 アリシアは朝に書いた可能性を話した。


 レオンが最後まで聞き、真剣に言う。


「俺は、埋められたに一票!」


 リーネが即座に言う。


「投票ではありません」


「でも、古い排水線なら埋められてそうだろ?」


「可能性はあります。しかし根拠はありません」


「分かった!」


 ミランダは言う。


「使われなくなって、みんな忘れたのかも」


 シオンが頬杖をつく。


「それが一番普通そう」


 ルシアンは少し考えてから言った。


「古い地図と現在の地図で、用途の分類が変わった可能性もありますね。以前は排水線、現在は結界補助路として扱われているなど」


 リーネの目が少し鋭くなる。


「別名称の可能性」


「はい」


「一般論として重要です」


 アリシアは一人ずつの意見を聞いた。


 埋められた。


 忘れられた。


 名称が変わった。


 どれもありそう。


 だから、決められない。


 それでいい。


 ノアが椅子の上で言う。


「パン」


「あ」


 アリシアはパンをちぎる。


 今日は柔らかい。


 形よくちぎれた。


「九十四点」


「高い」


「余計な想像をしながらでも、手元へ戻れたから」


 レオンが頷く。


「パンが復帰点だな!」


 シオンが言う。


「その理屈、まだ続いてたんだ」


 アリシアは笑った。


 ◇


 生活基礎の授業。


 セリア先生が黒板に書いたのは、今日もアリシアの心へ直接届くような言葉だった。


『書かれていないことを読む時』


 教室の空気が少し静かになる。


 セリア先生はチョークを置き、生徒たちを見渡した。


「文章や記録には、書かれていることと、書かれていないことがあります」


 アリシアはノートを開いた。


「書かれていないことへ気づく力は大切です。ですが、書かれていないことを、自分の想像で埋める時には注意が必要です」


 胸に刺さる。


 空欄。


 封印行。


 第六支点。


 地図にない排水線。


 アリシアは、書かれていないものへ強く引かれる。


 だからこそ、注意が必要。


「たとえば、記録に名前がない。理由が書かれていない。地図に道がない。その時、隠されたと思う人もいれば、忘れられたと思う人もいます」


 朝のノアの言葉と同じだった。


「ですが、どちらも推測です」


 セリア先生は黒板へ大きく書く。


『空欄は答えではない』


 アリシアの指が止まる。


 空欄は答えではない。


 空欄担当。


 ないものを見る役。


 でも。


 ないもの自体が、答えではない。


「空欄は、確認が必要な場所です。自由に答えを入れてよい場所ではありません」


 アリシアは強く書いた。


『空欄は確認が必要な場所。自由に埋めない』


「書かれていない理由を調べる時は、周辺記録、時代、書いた人、用途の変化を確認します。一つの資料だけで判断しません」


 周辺記録。


 時代。


 書いた人。


 用途の変化。


 古い排水線についても同じだ。


 地図が違う。


 だから隠された。


 ではない。


 何年の地図か。


 誰が作ったか。


 何のための地図か。


 それらを見なければ分からない。


 班練習では、二つの簡単な地図を比較した。


 一つは古い村の農業用地図。


 もう一つは現在の避難経路図。


 古い地図には細い水路がある。


 現在の地図にはない。


 トマが言う。


「水路が消えた?」


 ミーナが首を振る。


「可能性はあるけど、避難経路図に不要だから省かれただけかもしれない」


 メリルが言う。


「地図の目的が違うんだね」


 アリシアは頷く。


「同じ場所でも、全部を描くわけじゃない」


「そう」


 ミーナが言う。


「地図にないから存在しない、とは限らない。逆に、地図にないから秘密、とも限らない」


 アリシアはそれをそのままノートに書いた。


 今日の古い排水線も、地図の目的が違うだけかもしれない。


 そう思うと、胸の緊張が少しほどけた。


 ◇


 戦闘基礎では、エレナ教官が床に複数の線を引いていた。


 太い線。


 細い線。


 途中で消える線。


 交差する線。


 生徒たちは、不思議そうにそれを見る。


「今日は、見えている線を信じすぎない訓練だ」


 エレナ教官が言った。


 アリシアは木刀を握る。


「床の線は進路の参考だ。絶対ではない。相手が線を外れることもある。線が途中で消えることもある。目印だけを見て動くな」


 地図と同じ。


 描かれた線。


 でも、実際の動きはそれだけではない。


「アリシア」


「はい」


「お前は線のない場所を見る癖がある。今日は逆だ。線があっても、それに引かれすぎるな」


「はい」


 訓練は三人組。


 アリシア、メリル、カイル。


 相手役はミーナと別班の生徒二人。


 赤札。


 前へ出る。


 床の太い線に沿って進む。


 しかし、途中で相手が線の外へ動く。


 アリシアは線を追いそうになる。


 すぐに相手を見る。


 木刀を外へ置く。


 進路を止める。


「止め」


 エレナ教官が言う。


「今のは線を捨てられた」


「はい」


 二回目。


 細い線が二本に分かれる。


 どちらかが正しい道に見える。


 だが、相手は中央を抜ける。


 アリシアは一瞬迷う。


 線がない中央。


 そこへ木刀を置く。


「止め」


「良い。線は情報だが、現実ではない」


「はい」


 線は情報。


 現実ではない。


 地図も同じ。


 記録も同じ。


 大切だ。


 でも、現実そのものではない。


 三回目。


 床の線が途中で消える。


 アリシアの足が少し止まる。


 どこへ行く。


 相手を見る。


 メリルの位置を見る。


 カイルの戻りを見る。


 空いた場所を見る。


「中央へ入ります」


 声を出し、進む。


 木刀を置く。


 戻る。


「止め」


 エレナ教官が頷く。


「線が消えても動けた」


「はい」


「地図や印は、判断を助けるものだ。判断を代わるものではない」


「はい」


 その言葉は、今日一番大切な言葉だった。


 授業後、エレナ教官はアリシアへ近づいた。


「古い排水線が気になってるな」


「……顔に出てますか」


「出ている」


「勝手には調べません」


「それは分かっている」


 エレナ教官は腕を組む。


「ただ、地図にない線を、特別扱いしすぎるな」


「はい」


「古い施設ではよくある。改修、埋設、用途変更。珍しくない」


「そうなんですか」


「珍しい可能性もある。だが、最初からそっちを見るな」


「はい」


 一般的な理由を先に見る。


 特別な意味は後。


 その順番を、アリシアは胸に置いた。


 ◇


 昼食後。


 図書館の閲覧席には、今日は一般公開されている「地図の読み方」に関する資料が置かれていた。


 第六支点。


 封印行。


 古い排水線。


 それらの直接資料ではない。


 司書が、今のアリシアたちに読んでよいものとして選んだ本だった。


『古地図と現用図の比較基礎』


『施設用途変更と記録名称』


『結界施設改修史・一般編』


 三冊。


 リーネは満足そうだった。


「有用です」


 シオンが本の厚さを見て言う。


「全部読む気?」


「必要箇所のみです」


「それでも多そう」


 レオンとミランダも来ていたが、難しそうな本を前に少し身構えている。


 ルシアンは目次を静かに確認していた。


 メリルも隣に座る。


 アリシアは本を開く前に言った。


「目的を確認します」


 リーネが頷く。


「古い排水線を特定することではありません」


「地図にない理由の一般例を知ること」


「その通りです」


 シオンが言う。


「答えじゃなく、読み方を調べる」


「うん」


 それなら、境界を越えない。


 アリシアは少し安心して本を開いた。


 最初の資料には、古地図と現用図の違いが書かれていた。


 古地図は、土地所有や水路管理を目的に作られることが多い。


 現用図は、建物利用や避難経路、結界管理など、目的に応じて必要な情報だけを載せる。


 同じ場所でも、地図の目的によって描かれる線は変わる。


 リーネが読み上げる。


「同一施設でも、管理部署ごとに異なる図面が存在する場合がある」


 アリシアは書く。


『地図は一種類ではない』


 ルシアンが言う。


「古い排水線が、別部署の図面にだけ残っている可能性もありますね」


 リーネが頷く。


「一般的可能性として記録します」


 次の資料には、施設用途の変更について書かれていた。


 排水路。


 冷却路。


 魔力循環路。


 結界補助路。


 同じ地下構造でも、時代によって呼び方が変わる。


 ミランダが言う。


「じゃあ、排水線じゃなくなっただけかも?」


「可能性はあります」


 アリシアが答える。


 レオンが真剣に本を見る。


「名前が変わると、別物みたいになるな」


「人も同じかも」


 シオンが何気なく言った。


「呼び方が変わると、見え方も変わる」


 アリシアは少しだけ胸が揺れた。


 特殊魔力反応観察対象。


 生徒。


 空欄担当。


 六人目。


 同じ自分でも、呼び方によって意味が変わる。


 地図の線も同じ。


 排水線と呼ばれるか。


 補助路と呼ばれるか。


 封印路と呼ばれるか。


 名前が、見る人の理解を変える。


 ルシアンがアリシアを見る。


「何か思いましたか」


「呼び方って、大きいなって」


 アリシアは正直に答えた。


「同じものでも、名前で怖く見えたり、普通に見えたりする」


 リーネが筆を止める。


「名称による認識変化」


 シオンが笑う。


「今日の調査、地図より人間関係みたいになってきたね」


「関連性があります」


 リーネは真面目だった。


 ◇


 三冊目の資料。


『結界施設改修史・一般編』


 そこには、古い結界施設を改修する際、使われなくなった水路や補助線が封鎖されることがあると書かれていた。


 完全に埋める場合。


 入口だけ閉じる場合。


 結界上は残す場合。


 記録上の名称だけ変更する場合。


 様々だった。


 アリシアは一つずつ書く。


 しかし、ある箇所でリーネの指が止まった。


「ここ」


 全員が見る。


 そこには、こう書かれていた。


『大規模結界の改修では、主支点以外に一時的な保持線を設ける場合がある。保持線は修復後に廃止されることが多いが、魔力残響のみが長期に残る例もある』


 保持線。


 保持。


 修復。


 第六支点周辺の語と重なる。


 アリシアの胸の奥が、少しだけ深くなった。


 水音はしない。


 痛みもない。


 でも、反応はある。


「体感」


 リーネが静かに言う。


「胸の奥が少し深くなりました。水音なし。痛み、冷えなし」


 アリシアは答える。


 ルシアンが文章を見つめる。


「一時的な保持線……」


 シオンが言う。


「第六支点って、ずっと使う支点じゃなくて、修復の時だけ使うものだった可能性もある?」


 リーネがすぐに言う。


「推測です。ただし、一般資料上の概念とは一致します」


 レオンが腕を組む。


「じゃあ、終わった後に忘れられた?」


 ミランダが言う。


「使わなくなったから、地図から消えたとか?」


 点が並び始める。


 第六支点。


 水路。


 深部。


 保持。


 修復。


 古い排水線。


 一時保持線。


 魔力残響。


 アリシアの心が、線を引こうとする。


 しかし、ノアが足元で言った。


「戻る」


 アリシアは息を吸う。


 事実。


 一般資料に、一時保持線の記述。


 保持線は修復後廃止されることが多い。


 魔力残響が長く残る例あり。


 古い第六支点記録に、保持と修復の語。


 推測。


 第六支点が一時保持線だった可能性。


 まだ未確定。


 アリシアはノートに分けて書いた。


『事実:一般資料に一時保持線。修復後に廃止例。残響長期残留例』

『事実:第六支点周辺語に保持、修復』

『推測:第六支点=一時保持線の可能性。ただし未確定』

『古い排水線との関係:不明』


 書き終えた時、胸の深さが少し戻った。


「今、線を引きたくなりました」


 アリシアは正直に言った。


 シオンが頷く。


「僕も」


 ミランダも手を上げる。


「私も!」


 レオンも言う。


「かなりそれっぽい!」


 リーネは眼鏡を押し上げる。


「それっぽいことと、確定は別です」


「分かってる!」


 ルシアンが静かに言う。


「ですが、調査仮説としては価値があります」


 アリシアは少しだけ驚いた。


「仮説にしていいんですか」


「許可範囲の一般資料から生まれたものです。断定せず、教員側へ渡すなら問題ないと思います」


 リーネも頷く。


「仮説として整理し、司書へ提出します」


 自分たちで真相を決めるのではない。


 仮説を作り、渡す。


 確認は学園側。


 その形なら、境界を越えない。


「お願いします」


 アリシアは頷いた。


 ◇


 しばらくして、司書が閲覧席へ来た。


 リーネは、整理した仮説を簡潔に説明した。


 一般資料にある一時保持線。


 修復後の廃止。


 長期残留する魔力残響。


 第六支点周辺の保持、修復という語。


 司書は、途中で口を挟まず聞いた。


 説明が終わると、静かに頷いた。


「良い整理です」


 アリシアたちの空気が少し緩む。


「ただし、現時点では仮説です」


「はい」


 全員が答える。


 司書は資料を受け取った。


「教務主任、マリナ先生、グラン先生へ共有します」


 アリシアは少し迷ってから尋ねる。


「古い排水線との関係は……」


「まだ確認できません」


「はい」


「ですが、一時保持線が水路に沿って作られる例はあります」


 胸が少し跳ねる。


 司書はすぐに続ける。


「一般論です」


「はい」


「今後の確認材料にはなります。ただし、現地調査へ進む段階ではありません」


「分かりました」


 アリシアは練習帳へ書く。


『一時保持線は水路沿いに作られる例あり。一般論。現地調査段階ではない』


 司書はその様子を見て、少し微笑んだ。


「書かれていないものを、勝手に埋めずに扱えていますね」


 生活基礎で学んだばかりの言葉。


 アリシアは少し顔を赤くした。


「まだ、引っ張られますけど」


「引っ張られることに気づけるなら、戻れます」


「はい」


 その言葉が嬉しかった。


 ◇


 夕方。


 寮へ戻る道。


 空は薄い橙色に染まっていた。


 中央塔の影が長く中庭へ伸びている。


 アリシアは、その影を見た。


 地図には描かれない影。


 時間によって形が変わる線。


 あるのに、残らない線。


 地図にないもの。


 でも、確かに存在するもの。


「何見てるの?」


 メリルが聞く。


「影」


「中央塔の?」


「うん。地図にはないなって」


 メリルは少し笑う。


「毎日形が変わるもんね」


「うん。だから、地図にないもの全部が隠されたものじゃない」


「今日、何か分かった?」


 アリシアは、一時保持線の仮説を話した。


 修復のために一時的に使われる線。


 役目が終われば廃止される。


 でも、魔力残響が残ることがある。


 第六支点の周辺語と似ている。


 ただし未確定。


 メリルは静かに聞いた。


「少し近づいた感じ?」


「うん。でも……答えに近づいたっていうより、考え方が増えた感じ」


「それ、いいね」


「第六支点が、ずっとある六つ目の支点じゃない可能性も出た」


「必要な時だけ作られる場所?」


「うん。まだ仮説だけど」


 必要な時だけ。


 誰かの欠けた場所を補う。


 役目が終われば消える。


 でも、残響だけは残る。


 その考えは、どこかアリシア自身の役割に似ていた。


 空いた場所へ入る。


 塞ぐ。


 戻る。


 ずっとそこにいるわけではない。


 でも、声や記録が残る。


「私と似てるって思った?」


 メリルが不意に聞いた。


 アリシアは足を止めそうになった。


「分かる?」


「顔で」


「みんな、私の顔分かりすぎる……」


「最近、表情が増えたからだよ」


 メリルは笑った。


「似てると思う?」


「少し。一時的に空いた場所へ入って、役目が終わったら戻る。でも、何かが残る」


「うん」


「怖い?」


 アリシアは少し考える。


「前なら、自分は一時的で、終わったら忘れられるって思ったかも」


「今は?」


「戻れる場所があるから……空いた場所に行く役目が終わっても、私は消えない」


 言葉にしてから、胸が熱くなった。


 メリルは、すぐには何も言わなかった。


 ただ、少しだけ目を潤ませるように笑った。


「うん」


 それだけだった。


 でも、十分だった。


 ◇


 夜。


 アリシアは練習帳を開いた。


 今日一日を、ゆっくり書く。


『今日は、地図にない線について考えました。地図にない理由は、古すぎて消えた、使われなくなった、埋められた、別の名称、意図的に隠された、など複数あります。どれも未確定です』


 続ける。


『生活基礎では、空欄は答えではなく、確認が必要な場所だと学びました。地図に線がないからといって、自由に理由を入れてはいけません。地図の目的、時代、作成者、用途を確認する必要があります』


 さらに。


『戦闘基礎では、床の線を信じすぎない訓練をしました。線は情報ですが、現実そのものではありません。線が消えても、相手と味方と空いた場所を見て動きました』


 そして、図書館で見つけた一般資料。


『古い結界修復では、一時的な保持線を作る場合があるそうです。保持線は修復後に廃止されることが多い。でも、魔力残響だけが長く残る例があります』


 アリシアは丁寧に分けて書く。


『事実:一般資料に一時保持線』

『事実:第六支点周辺語に保持、修復』

『推測:第六支点が一時保持線だった可能性』

『古い排水線との関係:不明』

『現地調査:まだ行わない』


 ペンを止める。


 ノアが机へ跳び乗った。


「今日は?」


 アリシアが聞くと、ノアは少し考えた。


「九十九点」


「また高い」


「強い仮説が出ても断定しなかった。司書へ渡した。地図にないものを特別扱いしすぎなかった」


「減点は?」


「一時保持線が自分に似てると思った時、少し悲しい方向へ行きかけた」


「……うん」


「でも戻った」


「戻れる場所があるから」


「そう」


 ノアは練習帳を見る。


「最後に書くなら?」


 アリシアは少し考えた。


 一時保持線。


 空いた場所。


 役目が終われば消える線。


 残る魔力。


 戻る自分。


 待っている人たち。


 それらを胸の中で並べる。


 そして、一行を書いた。


『一時的に空いた場所へ立っても、私まで一時的になるわけではない』


 ノアは静かに頷いた。


「続けるなら?」


 アリシアはもう一行書いた。


『役目が終わったら、私は戻る場所へ戻ればいい』


 ノアは満足そうに目を細めた。


「いいわ」


 アリシアは練習帳を閉じた。


 夜は静かだった。


 水音はしない。


 胸の奥も穏やかだった。


 第六支点。


 一時保持線。


 古い排水線。


 魔力残響。


 新しい仮説は生まれた。


 でも、まだ答えではない。


 それでいい。


 空欄は、自由に埋める場所ではない。


 確認するために残しておく場所。


 アリシアはそれを、少しずつ理解し始めていた。

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