第57話 それぞれの戻る場所
翌朝。
アリシアは、鐘の音で目を覚ました。
寮の外壁に設置された小さな時鐘が、朝の始まりを告げている。
一度。
二度。
三度。
低く、やわらかな音が、まだ眠りの残る部屋へゆっくりと染み込んでくる。
水音ではなかった。
胸の奥から聞こえる、正体の分からない音でもない。
学園で毎朝鳴る、いつもの鐘。
アリシアは目を開けたまま、しばらくその余韻を聞いていた。
窓の向こうは、白み始めたばかりだった。
空はまだ青くなりきっていない。
夜の色が薄く残り、その上へ朝の白が静かに重なっている。
昨日、自分が練習帳へ書いた言葉を思い出した。
『何もなかった今日が、昨日の怖さを消さずに隣へ並んだ』
怖さは消えていない。
復帰点に水の波紋が残っていたことも、なかったことにはならない。
けれど。
同じ場所へ立って、何もなかったこと。
水音がしなかったこと。
胸の奥が反応しなかったこと。
結界にも異常がなかったこと。
それらも同じように残っている。
怖い記録の隣に。
安心した記録が並んだ。
アリシアは胸元に手を当てた。
痛みはない。
冷えもない。
深さも、今朝は気にならない。
胸の奥には、ただ静かな夜がある。
何かを隠しているようにも見える。
けれど、今すぐ手を伸ばさなければならないほど、強くは揺れていない。
「今日は普通ね」
ノアの声がした。
アリシアは窓辺へ顔を向ける。
黒猫は、細く開いた窓から入る風に髭を揺らしながら、外を見ていた。
「うん。鐘で起きた」
「いい朝ね」
「ノアがそういうこと言うの、ちょっと珍しい」
「失礼ね。私だって朝くらい褒めるわ」
「朝を褒めるって……」
アリシアは少し笑った。
その笑いは、昨日より自然に出た。
ノアはちらりと振り返る。
「水音は?」
「なし」
「胸は?」
「静か」
「昨日の場所は?」
アリシアは少し考えた。
中央演習場。
復帰点。
二分間立った場所。
何もなかった場所。
「まだ少し怖い。でも、前よりは戻れる場所に見える」
「よろしい」
ノアは窓辺から机へ跳び移った。
「記録」
「うん」
アリシアは寝台から降り、机に向かう。
練習帳を開き、朝の状態を書く。
『朝、鐘の音で目を覚ました。水音なし。胸の奥は静か。復帰点のことを思い出しても、昨日ほど強い不安はない。怖さは残っているが、戻れる場所としても思い出せる』
書き終えると、ノアが前足を練習帳の端へ置いた。
「今日は、何をする日?」
「普通の日」
「それだけ?」
アリシアは少し考えた。
「普通の日に戻る日」
「昨日も普通の日だったでしょう」
「昨日は、何もないことを確認する日だったから」
「なるほど」
ノアは少しだけ目を細める。
「では今日は?」
「確認が終わった後の日」
「いいわね」
アリシアは、もう一行書いた。
『今日は、確認が終わった後の日。何かを探さず、昨日の記録を持ったまま日常へ戻る』
「九十八点」
ノアが言った。
「減点は?」
「普通の日を、何も起こらない日だと思いかけた」
「違うの?」
「普通の日にも色々起きるわ。ただ、大きな意味をつけすぎないだけ」
「そっか」
「普通は、空白ではないのよ」
その言葉に、アリシアの指が止まった。
普通は空白ではない。
何も起きない日ではない。
朝起きる。
顔を洗う。
食事をする。
授業へ行く。
誰かと話す。
疲れる。
笑う。
間違える。
記録する。
そういうものが詰まっている。
ただ、目立つ出来事がないだけ。
「それ、書いていい?」
「書きなさい」
アリシアは練習帳の余白へ書いた。
『普通の日は、空白ではない』
ノアは満足そうに頷いた。
「それでいいわ」
◇
制服に着替え、扉を開ける。
廊下には、いつものようにメリルが待っていた。
「おはよう、アリシアちゃん」
「おはよう、メリルさん」
メリルはアリシアの顔を見ると、すぐに少し笑った。
「今日は穏やかそう」
「うん。鐘で起きた」
「水音じゃなくて?」
「うん」
「よかった」
二人は並んで歩き出す。
最近では、アリシアが自然にメリルの横へ並ぶことが増えた。
以前のように、半歩後ろへ下がることは少ない。
もちろん、人が多い場所では少し遅れることもある。
視線が集まれば、足が小さくなることもある。
それでも、戻れる。
メリルの横へ。
自分で歩ける場所へ。
「昨日、何もなかったって聞いて安心したよ」
メリルが言った。
「うん。私も」
「復帰点、まだ怖い?」
「少し」
「でも、使える?」
「使えると思う」
少し迷ってから、アリシアは付け加える。
「使いたい、かも」
メリルが足を緩める。
「使いたい?」
「怖い跡があったからって、使わなくなるのは……なんか違う気がする」
「うん」
「先生たちも監視してくれるし。昨日は何もなかったし。だから、次も戻りたい」
その言葉を口にすると、胸が少し熱くなった。
次も戻りたい。
そこは、もうただ安全のために設定された印ではない。
みんなと決めた場所。
迷った時に戻る場所。
何度も声を受け取った場所。
そして、怖さを確認し直した場所。
「いいと思う」
メリルは優しく言った。
「怖いのに使うんじゃなくて、怖さも知った上で使うんだよね」
「うん」
「それなら、前より強い戻る場所かも」
「強い?」
「怖くない場所より、怖いことがあっても戻れる場所の方が、私は強い気がする」
アリシアはその言葉を胸の中で繰り返した。
怖いことがあっても戻れる場所。
強い戻る場所。
その言い方は、少し不思議で。
とても温かかった。
◇
食堂は、今日も朝のざわめきに満ちていた。
食器の触れ合う音。
椅子を引く音。
眠そうな生徒たちの声。
厨房から流れてくる、焼いたパンと温かなスープの匂い。
いつもの席には、すでにレオン、ミランダ、リーネ、シオンがいた。
ガレスも一緒だ。
ルシアンの姿はまだない。
「おはよう!」
レオンの声。
今日は少し大きい。
リーネが即座に言う。
「七十六点です」
「昨日より下がった!」
「朝一番で気が緩んでいます」
「なるほど!」
反省する声も大きい。
シオンがパンを持ったまま言う。
「反省で減点されそう」
「追加で七十二点です」
「本当に下がった!」
ミランダが笑い、ガレスも笑う。
アリシアも自然に口元を緩めた。
「おはようございます」
「おはよう、アリシア!」
レオンは、少し声を抑えて言い直した。
リーネが頷く。
「八十五点」
「戻った!」
アリシアは席についた。
体調について聞かれる前に、自分から言う。
「水音なし。胸の反応なし。昨日の復帰点への不安は少し残っています。でも、次も使いたいと思っています」
リーネの手が、手帳の上で止まった。
「次も使いたい」
「はい」
ミランダがぱっと笑う。
「よかった!」
レオンも大きく頷く。
「そうだ! あそこはアリシアが戻る場所だからな!」
シオンが少しだけ目を細める。
「自分でそう言えるようになったの、結構大きいね」
アリシアは少し照れながら、パンへ手を伸ばした。
「怖くないわけじゃないです」
「怖くない必要はないよ」
シオンが言う。
「怖いものがあったら捨てる、だと、持てる場所がどんどん減るし」
リーネが頷く。
「安全確認と記録を重ねた上で継続使用する。合理的です」
「リーネさんの言い方だと、訓練道具みたい」
ミランダが言う。
「復帰点は訓練上の設備でもあります」
「そうだけど!」
場が和らぐ。
ルシアンが少し遅れて席へやって来た。
「おはようございます」
全員が挨拶を返す。
ルシアンは席につくと、アリシアの話を簡単に聞いた。
「次も復帰点を使いたいと思えたのですね」
「はい」
「良いことだと思います」
少し間を置き、彼は続けた。
「怖さがなくなったからではなく、怖さを含めても使いたいと思ったのであれば」
アリシアは頷いた。
「その通りです」
ルシアンは静かに微笑んだ。
その笑顔は、以前ほど眩しく感じなかった。
慣れたわけではない。
ただ、ルシアンも普通に疲れ、迷い、謝り、考える人だと分かってきたからだろう。
アリシアはふと、昨日の生活基礎で書いた「戻れる場所」を思い出した。
練習帳。
ノア。
メリル。
木刀を構えた時の足元。
図書館の閲覧席。
六人で立つ時の中央後方。
みんなは、どこへ戻るのだろう。
そんな疑問が浮かんだ。
アリシアは少し迷ったが、口にした。
「みんなは……戻る場所ってありますか」
食卓の空気が、少し静かになった。
唐突な質問だったかもしれない。
アリシアは慌てて付け加える。
「昨日、生活基礎で自分の戻れる場所を書いて……それで、みんなはどうなのかなって」
最初に答えたのはレオンだった。
「俺は訓練場だ!」
「即答ですね」
リーネが言う。
レオンは胸を張る。
「剣を振ってると、頭の中が戻る!」
「疲れた時も?」
「疲れてても振る!」
「それは休んでください」
リーネの指摘に、レオンは少し考える。
「じゃあ……訓練場の端で座る!」
シオンが言う。
「結局訓練場」
「落ち着くんだ!」
ミランダは少し考えてから言った。
「私は食堂かな」
「食堂?」
アリシアが聞く。
「うん。人の声がして、何か食べてて、誰かが笑ってると落ち着く」
「ミランダさんらしい」
「あと、土の上!」
ミランダは続ける。
「外で地面に座ると、戻ってきた感じがする!」
土属性らしい。
でも、それだけではない。
ミランダ自身の温かさにも合っている気がした。
リーネは少し考えた。
「私は、整理された記録です」
「場所じゃないね」
シオンが言う。
「戻れる状態です」
リーネは淡々と答える。
「情報が分類され、時系列が整い、未確定が未確定として置かれている状態。そこへ戻ると、判断できます」
アリシアは強く頷いた。
「分かります」
「アリシアさんも近いですね」
「はい。練習帳に書くと戻れます」
二人の間に、少しだけ共通する感覚が生まれた。
シオンはパンを指先で回しながら言う。
「僕は……風が通るところかな」
「外?」
「外でも窓辺でも。何かが流れてる場所。止まった部屋に長くいると、頭まで止まる」
彼らしい答えだった。
「だから、横にいるのが好きなんですか」
アリシアが聞くと、シオンは少し笑った。
「そうかもね。真ん中は空気が重い」
ルシアンは紅茶の水面を見つめながら、しばらく考えていた。
みんなが自然に彼を見る。
ルシアンは少しだけ困ったように微笑んだ。
「私は……まだ、すぐに答えられません」
意外な答えだった。
レオンが首を傾げる。
「ないのか?」
「いえ。たぶん、あるのだと思います。ただ、自分がどこへ戻っているのか、意識したことがありませんでした」
アリシアは少し驚いた。
何でも整っているように見えるルシアンにも、分からないことがある。
自分の戻る場所。
それをすぐに言えない。
ルシアンは続ける。
「光属性候補として、皆を落ち着かせる側にいることが多かったので。自分が落ち着く場所について、考える機会が少なかったのかもしれません」
短い沈黙が落ちる。
いつもの穏やかな笑顔。
けれど、その言葉の奥に、少しだけ孤独なものがある気がした。
アリシアは、どう返せばいいか迷った。
励ましすぎるのも違う。
踏み込みすぎるのも違う。
だから、静かに言った。
「見つかるといいですね」
ルシアンは目を細めた。
「はい」
それだけで会話は終わった。
半歩下がった距離。
でも、昨日までより少しだけ近い。
最後に、アリシアはノアを見る。
「ノアは?」
「私?」
「戻る場所」
ノアは一瞬、黙った。
金色の瞳が、アリシアを見上げる。
そして。
「あなたの隣」
あまりにも自然に言った。
食卓が静かになる。
アリシアは何も言えなかった。
胸の奥が、一気に温かくなる。
少し痛いくらい。
「ノア……」
「何よ」
「それ、ずるい」
「何が」
「急にそういうこと言うの」
「聞いたのはそっちでしょう」
ノアはそっぽを向いた。
ミランダが両手を胸元で組む。
「かわいい……!」
レオンも強く頷く。
「いい答えだ!」
シオンが小さく笑う。
「毒舌黒猫なのに、たまに強い」
リーネは手帳へ書こうとして、ノアに睨まれた。
「書くな」
リーネは静かに手帳を閉じた。
「承知しました」
アリシアは顔が熱くて、しばらくパンへ手を伸ばせなかった。
ノアが言う。
「パン」
「今は無理……」
「食べなさい」
「はい……」
手元が少し震え、パンは不格好にちぎれた。
「七十三点」
「ノアのせいだよ」
「言い訳しない」
それでも、アリシアは笑っていた。
◇
生活基礎の授業。
黒板には、セリア先生の字でこう書かれていた。
『戻る場所は、変わってもよい』
アリシアは、今朝の食卓を思い出した。
訓練場。
食堂。
土の上。
整った記録。
風の通る場所。
まだ分からない場所。
そして。
あなたの隣。
胸がまた少し温かくなる。
セリア先生は穏やかに話し始めた。
「子どもの頃に安心した場所と、今安心する場所が同じとは限りません。人との関係が変われば、戻る場所も変わります」
アリシアはノートに書く。
『戻る場所は変わる』
「以前は一人でいることが安心だった人が、誰かの隣へ戻るようになることもあります。反対に、誰かと一緒にいることが当たり前だった人が、一人で静かに休む場所を必要とすることもあります」
以前のアリシアは、一人で隠れる場所へ戻っていた。
隠れ里。
祖父の家。
自分の部屋。
物陰。
視線の届かない場所。
でも今は。
メリルの横。
六人で立つ中央後方。
図書館の閲覧席。
ノアの隣。
戻る場所が増え、形も変わっている。
「大切なのは、以前の場所を否定しないことです」
セリア先生は続ける。
「前に戻っていた場所が、今は使えなくなることもあります。それでも、その場所が自分を支えた事実は消えません」
隠れ里を思い出す。
祖父。
家。
森。
神殿。
神泉。
今すぐ帰れない。
でも、あそこが自分を支えたことは消えない。
学園に戻る場所が増えたからといって、隠れ里を捨てたことにはならない。
そのことに、アリシアは少し安心した。
班練習では、「昔の戻る場所」と「今の戻る場所」を書くことになった。
メリルは、昔は実家の台所。
今は寮の窓辺と、朝の廊下。
トマは、昔も今も運動場。
ミーナは、昔は母親の書斎。
今は自分の机。
アリシアは、少し長く迷った。
そして書いた。
『昔:祖父の家、森、誰にも見られない場所』
『今:練習帳、ノア、メリルさん、木刀を構えた時の足元、図書館、六人の復帰点』
書いた文字を見つめる。
誰にも見られない場所。
それが、以前の戻る場所だった。
今は。
誰かがいる場所も、戻る場所になっている。
その変化に気づいた瞬間、胸が少し震えた。
「アリシアちゃん」
メリルが小さく呼ぶ。
「うん?」
「今、気づいた?」
「うん……昔は、誰にも見られない場所が安心だった」
「今は?」
「見られてても……戻れる場所がある」
メリルは静かに笑った。
「すごいね」
「まだ、誰でもいいわけじゃないけど」
「それでいいよ」
大事なのは、全部の視線を受け入れることではない。
信頼できる視線の中へ戻れること。
それだけで、以前とは大きく違う。
◇
戦闘基礎では、エレナ教官が床に複数の小さな円を描いた。
一つだけではない。
前方。
中央。
左右。
後方。
「今日の課題は、復帰点を一つに固定しないことだ」
アリシアは木刀を握りながら、少し驚いた。
昨日までは、一つの復帰点へ戻る練習をしていた。
今日は違う。
「戦場で、同じ場所へ戻れるとは限らない。道が塞がれる。地形が変わる。味方が動く。だから、戻る場所を一つに縛るな」
昨日の合同訓練。
復帰点を狙われた。
最後は戻るより進む道を選んだ。
その続きだ。
「合図ごとに、指定された円へ戻れ。戻れない場合は、別の円を選び、声で知らせろ」
「はい」
アリシアはメリルと組む。
相手役はカイルとミーナ。
最初の指定は中央。
赤札。
前へ出る。
木刀で進路を塞ぐ。
青札。
中央へ戻る。
成功。
次は右後方。
白札。
「メリルさん、左から来ます」
声だけ。
青札。
右後方へ。
しかし、カイルがその道を塞ぐ。
一瞬迷う。
戻る場所が使えない。
アリシアは別の円を見る。
左後方。
遠い。
中央。
近い。
「中央へ戻ります」
声を出す。
メリルが風の向きを変える。
道が開く。
中央へ戻る。
「止め」
エレナ教官が頷いた。
「今のは良い。指定点が使えないと判断し、別の場所へ切り替えた」
「はい」
「戻る場所は、目的ではない。態勢を整えるための手段だ」
「はい」
また、昨日の気づきと重なる。
復帰点にしがみつかない。
場所は変わっていい。
戻る意味が残っていれば。
二回目。
三回目。
アリシアは、指定された円へ戻る。
塞がれたら変える。
声を出す。
メリルも、アリシアの新しい復帰点に合わせて位置を変える。
最初は少し混乱した。
でも、何度か繰り返すうちに、戻る場所を選び直すことへの恐怖が薄れていく。
固定された一つの場所だけが安全ではない。
状況に合わせて作り直せる。
それは、とても大きな学びだった。
授業後、エレナ教官がアリシアへ言った。
「昨日の水の残響で、復帰点に意味を持たせすぎるな」
アリシアは少し驚いた。
「先生、分かってたんですか」
「顔を見れば分かる」
「そんなに……」
「一つの場所へ意味を重ねすぎると、そこが使えなくなった時に崩れる」
「はい」
「大事なのは場所ではない。戻る判断だ」
場所ではない。
戻る判断。
アリシアは深く頷いた。
「分かりました」
「ただし」
エレナ教官は少し声を低くする。
「場所へ意味を持つな、と言っているわけではない。思い入れは力になる。だが、縛られるな」
「はい」
思い入れを捨てなくていい。
でも、縛られない。
また、一色ではない言葉だった。
◇
昼食後。
図書館の閲覧席には、今日は合同訓練の記録と、生活基礎で出た「戻る場所」の話が並んでいた。
六人全員が揃っている。
レオンは、朝の問いをまだ考えていたらしい。
「俺、訓練場以外もあった」
突然言った。
シオンが本から顔を上げる。
「何?」
「父上の剣を手入れする部屋」
レオンの声は、いつもより少し落ち着いていた。
「小さい頃、怒られた後とか、うまくいかなかった時、あの部屋に行ってた。剣がたくさんあって、油の匂いがする」
アリシアは静かに聞いた。
レオンにも、そういう場所がある。
ただ剣を振るだけではない。
記憶のある場所。
「今も戻りたい?」
ミランダが聞く。
「うん。卒業したら、一度帰りたい」
レオンは少しだけ笑った。
ミランダも言う。
「私も、食堂だけじゃないかも。家の畑!」
「畑?」
「うん。土がやわらかくて、朝は湿ってて。手で触ると、落ち着く」
土属性だから、ではなく。
ミランダの家の記憶だから。
アリシアはその違いを感じた。
リーネも、少しだけ迷った後に言う。
「私にも場所がありました」
全員が見る。
「祖母の記録室です。古い紙の匂いがして、窓が小さく、少し暗い部屋でした」
「リーネさん、やっぱり記録室」
アリシアが言うと、リーネは小さく頷いた。
「はい。ただ、今朝は状態だけだと思っていました。場所もありました」
シオンは静かに笑う。
「思い出したんだ」
「はい」
そして、全員の視線が自然にルシアンへ向く。
ルシアンは少し困ったように笑った。
「今朝から、考えていました」
机の上で手を組む。
「私の戻る場所は……礼拝堂かもしれません」
「光属性だから?」
レオンが聞く。
「それもあります。ですが、誰もいない時間の礼拝堂です」
意外だった。
「人がいる時ではなく?」
アリシアが尋ねる。
「はい。人がいると、私は光属性候補として振る舞います。祈りを求められ、相談を受け、落ち着かせる側になります」
ルシアンは少しだけ視線を下げる。
「誰もいない礼拝堂なら、何もしなくていい。光を出さなくていい。誰かを安心させなくてもいい」
その言葉は静かだった。
でも、机を囲む全員の胸へ届いた。
ルシアンは、いつも人を落ち着かせる側。
整える側。
眩しい側。
だからこそ。
何もしなくていい場所が必要だった。
アリシアは、半歩下がった距離のまま言った。
「見つかってよかったですね」
ルシアンはゆっくり頷いた。
「はい。皆さんに聞かれなければ、考えなかったと思います」
少しだけ空気が温かくなる。
シオンが頬杖をつきながら言う。
「僕も、風が通ればどこでもいいと思ってたけど……家の屋根かも」
「屋根?」
ミランダが目を輝かせる。
「登ってたの?」
「うん。よく怒られた」
「危ない!」
「風が一番通るんだよ」
シオンの表情は、少し懐かしそうだった。
こうして一人ずつ話していくと、五属性候補という肩書きの向こう側が見える。
火。
水。
風。
土。
光。
それぞれの色ではなく。
一人一人の記憶。
家。
匂い。
音。
誰もいない時間。
それらが、戻る場所になっている。
アリシアは思った。
六人は、属性の代表候補として集められた。
でも。
戻る場所を話す時、誰も属性だけでは説明できなかった。
そのことが、少し嬉しかった。
◇
しばらくして、司書が閲覧席へやって来た。
今日は古い結界記録を持っていない。
いつもの貸出簿だけ。
それだけで、アリシアは少し安心した。
「今日は訓練整理ですか」
「はい」
リーネが答える。
「復帰点を固定しない訓練と、各自の戻る場所について話していました」
司書は少し微笑んだ。
「良い題材ですね」
アリシアは、昨日の確認記録について尋ねた。
「昨日の復帰点の記録、その後何か変化はありましたか」
「ありません」
司書は明確に答えた。
「同じ場所での再反応なし。結界板も正常です」
「ありがとうございます」
何もない。
今日も何もない。
その記録がまた増えた。
アリシアは手帳へ短く書いた。
『翌日も復帰点に再反応なし。結界正常』
司書は、その様子を見て頷く。
「良い記録です」
そして、少しだけ声を落とした。
「ただし、別件で一つ確認が必要になるかもしれません」
机を囲む空気が変わる。
アリシアの胸が、少しだけ固くなる。
だが、司書はすぐに続けた。
「危険な話ではありません。昨日、古い地下水路の公開記録を整理していたところ、復帰点の真下ではなく、中央演習場の外周付近に、現在の地図と一致しない古い排水線がある可能性が出ました」
古い排水線。
アリシアは息を吸う。
水路。
地図にない水路。
また、点が増える。
リーネが尋ねる。
「公開範囲ですか」
「現時点では、一般資料の照合段階です。現地調査はまだ行いません」
司書は明確に線を引いた。
「皆さんが調べる範囲にも含めません。学園側で確認します」
「承知しました」
リーネはすぐに頷く。
シオンが低く言う。
「復帰点の真下じゃないんだ」
「はい」
司書は答える。
「現時点で、復帰点の残留反応と古い排水線を直接結びつける根拠はありません」
アリシアはその言葉を、ゆっくり受け取る。
真下ではない。
直接の根拠はない。
関連するかもしれない。
でも、まだ結びつけない。
「確認していいですか」
「どうぞ」
「その古い排水線は、図書館地下の水路と繋がっていますか」
司書は少し考える。
「記録上は不明です」
「はい」
「今はそこまでです」
「分かりました」
アリシアは手帳に書く。
『中央演習場外周付近に、現地図と一致しない古い排水線の可能性。復帰点真下ではない。残留反応との直接関係なし。学園側で確認。調査範囲外』
書き終えると、胸のざわめきが少し落ち着いた。
点は増えた。
でも、線にはしない。
戻る。
今は、みんなの戻る場所の話。
アリシアは司書に礼を言い、資料を閉じた。
◇
夕方。
寮へ戻る道で、メリルとアリシアは中庭の端を歩いていた。
風は弱い。
木々の葉が、わずかに揺れるだけ。
「古い排水線、気になる?」
メリルが聞く。
「うん。気になる」
「行きたい?」
アリシアは少し考えた。
「前ほどじゃない」
「どうして?」
「調査範囲外って言われたから。それと、復帰点の真下じゃないって分かったから」
「少し離れた?」
「うん。頭の中で、全部重なってたのが少し離れた」
復帰点。
水の波紋。
古い排水線。
第六支点。
図書館地下の水路。
以前なら、全部を一つの線で結びたくなっていた。
でも今は。
それぞれの点に、少し距離を置ける。
分からないもの同士を、無理に重ねない。
「今日、みんなの戻る場所を聞いたの」
アリシアが言う。
「どんな場所だった?」
メリルは興味深そうに尋ねる。
アリシアは一人ずつ話した。
レオンの剣の手入れ部屋。
ミランダの畑。
リーネの祖母の記録室。
シオンの家の屋根。
ルシアンの誰もいない礼拝堂。
そしてノアの答え。
「ノアは?」
「……私の隣」
言うだけで、また顔が熱くなる。
メリルは目を丸くした後、柔らかく笑った。
「うん。ノアちゃんらしい」
「毒舌なのに」
「だからこそ、本当なんだと思う」
アリシアは足元のノアを見る。
ノアは何も聞いていないふりをして歩いている。
「メリルさんの戻る場所に、私が入ってたのも嬉しかった」
「私も、アリシアちゃんのところに自分がいて嬉しかったよ」
二人は少しだけ照れながら歩いた。
戻る場所を言葉にする。
それは、自分が大切にしているものを見せることでもある。
少し恥ずかしい。
でも、温かい。
◇
夜。
アリシアは練習帳を開いた。
今日も、書くことは多かった。
『今日は、水音も胸の反応もありませんでした。復帰点への不安は残っていますが、次も使いたいと思えました。怖いことがあっても戻れる場所は、前より強い戻る場所かもしれないとメリルさんが言いました』
続ける。
『朝食で、みんなの戻る場所を聞きました。レオンさんは父上の剣を手入れする部屋。ミランダさんは家の畑。リーネさんは祖母の記録室。シオンさんは家の屋根。ルシアンさんは誰もいない礼拝堂。ノアは、私の隣と言いました』
そこまで書いて、ペンが止まる。
胸が温かい。
少しだけ目の奥も熱い。
でも、泣くほどではない。
アリシアは続きを書く。
『戻る場所は、属性だけでは決まりませんでした。家の記憶、匂い、音、一人になれる時間。みんな、それぞれ違いました』
さらに。
『戦闘基礎では、復帰点を一つに固定しない訓練をしました。戻る場所は目的ではなく、態勢を整えるための手段。指定された場所が使えなければ、別の場所を選び、声で知らせる。場所は変わっても、戻る意味は残ります』
そして、司書から聞いた新しい情報。
『中央演習場の外周付近に、現在の地図と一致しない古い排水線がある可能性が出ました。復帰点の真下ではありません。残留反応との直接関係もありません。学園側で確認し、私たちの調査範囲外です』
アリシアは一度、深呼吸した。
点。
点。
点。
でも、今日は無理に線にしない。
『古い排水線は気になります。でも、復帰点、水の波紋、第六支点とすぐに結びつけません。それぞれ別の点として置きます』
ノアが机へ跳び乗った。
「今日は?」
アリシアが聞く。
ノアは少し考えた。
「九十九点」
「また?」
「復帰点を使いたいと言えた。みんなの戻る場所を聞けた。古い排水線を聞いても、一つの線にしなかった。かなり良い」
「減点は?」
「私の答えでパンを崩した」
「それはノアが悪い」
「言い訳」
「でも……嬉しかった」
アリシアが小さく言うと、ノアは一瞬黙った。
それから、視線を逸らす。
「……なら、減点は一つ減らしてもいいわ」
「百点?」
「九十九・五点」
「細かい」
「満点は簡単に出さない」
アリシアは笑った。
ノアは練習帳を見る。
「最後に書くなら?」
アリシアは今日の会話を思い出した。
それぞれの戻る場所。
変わってもいい場所。
一つに固定しなくていい復帰点。
ノアの隣。
メリルの横。
六人の中央後方。
そして、まだ遠い隠れ里。
少し考えて、一行を書いた。
『戻る場所は一つではないし、ずっと同じでなくてもいい』
ノアは頷いた。
「続けるなら?」
アリシアは、もう一行書いた。
『それでも、私が戻りたいと思った場所は、どれも消えない』
ノアは、その一文を長く見つめた。
「いいわね」
アリシアは練習帳を閉じた。
夜は静かだった。
水音はしない。
胸の奥も穏やかだった。
古い排水線。
第六支点。
水の波紋。
まだ分からないことは残っている。
けれど今夜、アリシアの中には、それらよりも温かいものがあった。
戻る場所。
誰かの記憶。
誰かの隣。
それぞれ違う形をしているのに。
どれも、その人をもう一度立たせる場所だった。




