第54話 戻ってくる場所
翌朝、アリシアは練習帳の最後の一文を、指先でそっとなぞった。
『戻れる場所があるから、私は空いた場所へ行ける』
昨日の夜に書いた言葉。
今朝になって読み返すと、少しだけ照れくさく、少しだけ心強かった。
空いた場所へ行く。
それは、アリシアにとって怖いことだった。
誰かが見落とした隙間。
相手が抜けようとする場所。
味方が戻りにくい場所。
誰も立っていない場所。
そこへ入るのは、怖い。
けれど、自分がそこに入らなければ、道が崩れることもある。
前回の合同訓練で、それを知った。
ただし、入りっぱなしではいけない。
空欄を埋めるために自分が空欄になるのではない。
穴を見つけ、塞ぎ、戻る。
エレナ教官の言葉が、まだ胸に残っていた。
「今日は合同訓練ね」
ノアが窓辺から言った。
アリシアは頷く。
「うん」
「怖い?」
「怖い」
「楽しみ?」
少し間が空いた。
アリシアは正直に答える。
「……少し」
「よろしい」
ノアは机へ跳び移った。
「怖いだけでもない。楽しいだけでもない。今日は、その両方を持って行きなさい」
「うん」
「それと、復帰点」
「迷ったら戻る」
「迷わなくても、長く空いた場所に居続けない」
「うん」
「戻るのは逃げじゃない」
「戻るのは、次に動くため」
「よくできました」
アリシアは小さく笑った。
朝の練習帳に書く。
『今日は合同訓練。怖い。でも少し楽しみ。復帰点を意識する。空いた場所へ行き、塞いだら戻る。戻るのは逃げではなく、次に動くため』
ノアが覗き込み、頷いた。
「九十八点」
「減点は?」
「楽しみって書く時に、まだ照れた」
「それは……仕方ないよ」
「まあ、許容範囲ね」
アリシアは制服に着替えた。
鏡の前に立つ。
黒髪。
黒い瞳。
いつもより少し緊張している顔。
でも、俯いてはいない。
「背筋」
ノアが言う。
アリシアは背筋を伸ばす。
「今日は、戻ってくる」
「ええ」
◇
廊下へ出ると、メリルが待っていた。
「おはよう、アリシアちゃん」
「おはよう、メリルさん」
メリルはアリシアの顔を見て、ふっと笑った。
「今日は合同訓練の顔だね」
「そんな顔ある?」
「あるよ。怖いけど、ちゃんと行く顔」
アリシアは少し照れた。
「怖いけど……少し楽しみ」
「うん。いいね」
メリルは、自分のことのように嬉しそうに笑った。
「今日は見学はできないけど、終わったら聞かせてね」
「うん。話せる範囲で」
「それでいい」
二人と一匹で食堂へ向かう。
廊下を歩く足取りは、少しだけ重かった。
でも、その重さは嫌な重さではない。
大事なものを持っている時の重さに近かった。
怖さ。
楽しみ。
復帰点。
戻る線。
全部を持って、アリシアは朝食へ向かった。
食堂には、六人がほとんど揃っていた。
レオンは今日も声量調整を意識している。
「おはよう、アリシア」
驚くほど普通の声量だった。
アリシアは目を丸くする。
「おはようございます。今日は……ちょうどいいですね」
レオンの顔がぱっと輝いた。
「本当か!」
その瞬間、声量が跳ね上がった。
リーネが冷静に言う。
「最初は九十点。今ので七十点です」
「下がった!」
ミランダが笑う。
「嬉しくなると大きくなるんだね」
シオンが眠そうに言う。
「火属性らしい」
ルシアンも微笑んでいる。
アリシアは席につきながら、少しだけ緊張がほどけた。
いつもの席。
いつもの声。
合同訓練の日でも、朝食は朝食だった。
リーネが手帳を開く。
「本日の合同訓練に向けて、各自の課題を再確認します」
シオンが小さくため息をつく。
「朝食前から始まった」
「朝食中です」
「もっとだめじゃない?」
「簡潔にします」
リーネは真面目だった。
「レオン。正面圧の制御」
「はい!」
「ミランダ。右側支援と戻り」
「はい!」
「シオン。左流路の維持」
「はいはい」
「返事」
「はい」
「ルシアン。検知結果の短縮伝達」
「承知しました」
「アリシアさん。一時介入と復帰点への帰還」
「はい」
自分の課題を聞いた瞬間、アリシアの胸が少し引き締まった。
一時介入。
復帰点への帰還。
昨日、みんなで決めた。
今日はそれを実践する日だ。
レオンが言う。
「アリシア、戻る場所は俺たちの後ろだったな!」
「はい。レオンさんとミランダさんの後ろ、リーネさんの少し前くらい」
ミランダが拳を握る。
「戻りやすいように、私も詰めすぎない!」
シオンが言う。
「僕も左を広げすぎないようにするよ。戻る道が消えると困るし」
ルシアンは静かに続ける。
「私も検知の言葉を短くします。『正面薄い』『右強い』など、できるだけすぐ届く形に」
リーネが頷く。
「前回より、復帰を前提とした配置です」
アリシアは一人ずつ見た。
みんなが、自分の戻る場所を考えてくれている。
それが胸にじんわり広がった。
自分だけが頑張って戻るのではない。
戻れるように、周りも少しずつ場所を作ってくれる。
「ありがとうございます」
アリシアが言うと、レオンが笑った。
「戻ってこいよ!」
ミランダも笑う。
「行って、戻って、また行こう!」
シオンが小さく言う。
「忙しいね」
ルシアンが穏やかに言った。
「でも、それがアリシアさんの強みかもしれません」
アリシアは少し顔を赤くしながら、パンをちぎった。
今日のパンは柔らかい。
きれいにちぎれた。
「九十三点」
ノアの声。
アリシアは少しだけ微笑んだ。
◇
生活基礎では、セリア先生が黒板にこう書いた。
『戻る勇気』
アリシアはその言葉を見て、ペンを握る指に力を入れた。
戻る勇気。
また、今日必要な言葉だった。
セリア先生は静かに話し始める。
「前へ進む勇気は、よく語られます。挑戦する勇気、踏み出す勇気、立ち向かう勇気。けれど、戻る勇気も同じくらい大切です」
教室は静かだった。
多くの生徒が、今日の言葉に耳を傾けている。
「もう少しできそうだと思った時に戻る。自分が入りすぎたと気づいた時に戻る。誰かに任せるために戻る。休むために戻る。それは、失敗ではありません」
アリシアはノートに書く。
『もう少しできそうだと思った時に戻る』
胸に刺さった。
昨日の戦闘基礎。
もう一手いけると思って深く入りすぎた。
成功した直後ほど深く入るな。
戻る線を見ろ。
「戻る勇気を持つ人は、次にもう一度進むことができます。戻れない人は、たとえ一度進めても、そこで崩れてしまうことがあります」
戻るから、また進める。
それは今のアリシアに必要な考えだった。
班練習では、挑戦の途中で戻る場面を考えた。
メリルが言う。
「私は、頑張りすぎて疲れてるのに、まだ大丈夫って言っちゃう時があるかも」
アリシアは驚いた。
「メリルさんも?」
「うん。アリシアちゃんのことは止められるけど、自分のことは少し遅れる」
トマが頷く。
「それ分かる。人の無理は見えるけど、自分の無理は見えない」
ミーナが言う。
「だから、戻る合図を決めておくのは有効ね」
アリシアはノートに書いた。
『戻る合図』
合同訓練でも、何か合図があるといいかもしれない。
自分が入りすぎた時。
復帰点へ戻る時。
誰かに声をかけてもらうのか、自分で言うのか。
メリルが聞く。
「アリシアちゃんは、今日の合同訓練で戻る合図ある?」
「まだ……決めてない」
「決めておいた方が安心かもね」
「うん。リーネさんたちに相談してみる」
戻る勇気。
戻る合図。
今日の課題が、また一つ増えた。
でも、重くはない。
必要な道具が増えた感覚だった。
◇
戦闘基礎は、合同訓練前の軽い調整だった。
エレナ教官は、アリシアを見るなり言った。
「今日は午後に合同訓練がある。午前で潰れるな」
「はい」
「確認だけだ。無理な踏み込みはするな」
「はい」
訓練内容は、短い対人確認と戻りの練習。
アリシアはメリルと組み、カイルとミーナを相手にした。
今日の目的は、前へ出た後、必ず復帰点へ戻ること。
復帰点の代わりに、小さな円が床に描かれていた。
アリシアはそこを見た。
戻る場所。
そこへ帰る。
赤札。
前へ出る。
木刀を置く。
止める。
戻る。
円へ。
白札。
声だけ。
「メリルさん、右」
青札。
下がる。
円へ。
何度も繰り返す。
途中で一度、カイルの動きがよく見えた。
もう一歩入れば止められる。
そう思った。
しかし、今日は午後が本番。
午前で深く入らない。
戻る。
円へ。
「止め」
エレナ教官が頷いた。
「今のは戻れた」
「はい」
「見えたのに戻ったな」
「はい。午後があるので」
「それでいい」
その一言が嬉しかった。
見えたのに戻る。
それも評価される。
前へ出るだけではない。
エレナ教官は少しだけ声を低くした。
「合同訓練では、戻る合図を決めておけ」
アリシアは驚いた。
「セリア先生の授業でも、それを考えていました」
「ならちょうどいい。お前が戻り遅れた時、誰が声を出すか。お前自身が戻る時、何と言うか。決めておけ」
「はい」
「言葉は短くしろ。長いと届かない」
「分かりました」
戻る合図。
それは午後までに必ず決める必要がある。
◇
昼食後。
中央演習場へ向かう前に、六人は図書館近くの小さな控え席に集まった。
リーネが配置図を広げる。
今日は合同訓練本番。
前回と同じ魔導人形三体を使うらしいが、条件が少し変わる可能性が高い。
アリシアは生活基礎と戦闘基礎で考えたことを伝えた。
「戻る合図を決めたいです」
リーネがすぐに頷く。
「必要です」
シオンも同意する。
「短い方がいいね」
レオンが言う。
「戻れ! でいいんじゃないか?」
ミランダが頷く。
「分かりやすい!」
ルシアンは少し考えて言った。
「ただ、『戻れ』だけだと誰に向けたものか分かりにくい場合があります。アリシアさん専用なら、『黒、戻れ』は……避けた方がいいですね」
アリシアは少し固まった。
ルシアンもすぐに気づく。
「すみません。色で呼ぶのは軽率でした」
「いえ……大丈夫です」
ノアが足元で低く言う。
「大丈夫ではなく、少し嫌だったと言いなさい」
アリシアは息を吸う。
そして、小さく言った。
「少し……嫌でした」
ルシアンは真剣に頭を下げた。
「失礼しました。今後使いません」
「はい」
言えた。
嫌なことを、少し嫌だったと言えた。
場の空気は少し緊張したが、レオンが真剣に言った。
「じゃあ名前だ! アリシア、戻れ!」
シオンが頷く。
「長くないし、分かりやすい」
リーネが記録する。
「他者からの復帰指示:『アリシア、戻れ』」
ミランダが手を上げる。
「アリシアが自分で戻る時は?」
アリシアは少し考えた。
「『戻ります』だと長いかな」
シオンが言う。
「『戻る』でいいんじゃない?」
ルシアンも頷く。
「短く、明確です」
リーネが書く。
「自己復帰宣言:『戻る』」
レオンが力強く頷く。
「よし! アリシアが『戻る』って言ったら、道を空ける!」
ミランダも笑う。
「私も!」
シオンが言う。
「僕は左を少し開く」
リーネが続ける。
「私は復帰点周辺の水膜を調整します」
ルシアンが静かに言う。
「私は復帰点が塞がれそうなら知らせます」
アリシアは胸が温かくなった。
戻ると言えば、みんなが道を空けてくれる。
それは、とても心強いことだった。
「ありがとうございます」
ノアが足元で言う。
「九十九点」
アリシアは小声で聞く。
「今?」
「嫌な呼び方を嫌だと言えた。戻る合図を決めた。かなり良いわ」
アリシアは少しだけ頷いた。
◇
中央演習場。
扉が開くと、前回と同じ広い空間が広がっていた。
高い天井。
白い石床。
周囲の五属性支点石。
中央の広い円形結界陣。
今日は前回よりも、空気が少し落ち着いているように感じた。
初めてではないからだろうか。
それとも、自分に戻る場所があるからだろうか。
エレナ教官、グラン先生、マリナ先生、教務主任がすでにいた。
マリナ先生は結界板を見ている。
グラン先生は水晶板を準備している。
エレナ教官は六人を見渡した。
「来たな」
「はい」
六人の声が揃う。
アリシアはその響きに、少しだけ胸が熱くなった。
エレナ教官は言った。
「今日の合同訓練は、前回と同じく進路確保。ただし条件を変える」
やはり。
アリシアは木刀を握る。
「魔導人形は三体。ただし、一体は後半で進路妨害から味方分断へ動きを変える。六人のうち三人以上が白い円へ入れば成功。ただし、今回は全員が大きく崩れずに到達することを目標とする」
前回より難しい。
ただ円へ入ればいいだけではない。
崩れずに。
分断されずに。
戻る線を残して。
エレナ教官は続ける。
「アリシア」
「はい」
「今回は復帰点を設定する。お前は一時介入後、必ず復帰点へ戻れ。戻れない場合は声を出せ」
「はい」
「合図は決めたか」
「はい。他の人からは『アリシア、戻れ』。自分では『戻る』です」
エレナ教官は頷く。
「良い。短い」
それだけで、アリシアは少し安心した。
マリナ先生が言う。
「本日も結界監視を強化しています。アリシアさん、胸の反応があればすぐ報告を」
「はい」
グラン先生も続ける。
「黒い反応を出す必要はありません。木刀と位置取りに集中してください」
「はい」
アリシアは深く息を吸った。
今日は、水音もない。
胸の奥も静か。
なら、今は訓練に集中する。
六人は配置についた。
レオンが正面。
ミランダが右前。
シオンが左。
リーネが中央後方。
ルシアンが後方。
そして、アリシアは復帰点。
レオンとミランダの後ろ。
リーネの少し前。
左右に動ける位置。
戻ってくる場所。
足元に、小さな淡い印がついている。
マリナ先生が設定した目印だった。
アリシアはその印を見る。
ここへ戻る。
ノアは演習場の端に座っている。
金色の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
エレナ教官の手が上がる。
「始め」
魔導人形三体が動き出した。
前回と同じように、正面、右、左。
レオンが正面へ出る。
「行くぞ!」
今日は声は大きいが、動きは前回より少し抑えられていた。
大剣型訓練剣の面で、正面の人形を押す。
壊すのではなく、道を作る。
ミランダが右を支える。
「右、止める!」
土の固定陣が低く広がる。
シオンが左へ風を流す。
「左、逸らす」
リーネが水膜を張る。
「足元、調整」
ルシアンが白い光を灯す。
「正面、やや強い。右は安定」
言葉が短い。
届きやすい。
アリシアは復帰点に立ち、全体を見る。
前回より情報が整理されている。
でも、安心しすぎない。
正面の人形が、レオンに押されながら左へ抜けようとする。
シオンが対応しようとするが、左の人形も同時に動く。
左が詰まる。
空いた場所。
レオンの左後方。
アリシアは動いた。
復帰点から一歩。
もう一歩。
木刀を低く置く。
正面人形の進路を遅らせる。
「左、止めます」
言えた。
シオンがすぐに反応する。
「助かる」
風が通る。
レオンが戻る。
アリシアはそれ以上追わない。
「戻る」
短く言って、復帰点へ戻る。
リーネが水膜を少し開ける。
ミランダが右を支えながら声を出す。
「戻れた!」
アリシアは復帰点に戻り、息を整える。
できた。
一回目。
入って、戻れた。
エレナ教官の声はない。
つまり、続行。
次に、右の人形がミランダを押し込む。
ミランダは踏ん張る。
しかし、足場が少し外へ流れる。
前回と似ている。
アリシアは動きそうになる。
だが、ルシアンの声が飛ぶ。
「右、強い。ミランダさん、半歩引いて」
「分かった!」
ミランダが自分で戻る。
アリシアは動かない。
行かなくてもいい場面。
見えるからといって、全部に入らない。
復帰点で待つ。
シオンが小さく言う。
「今の待てたね」
アリシアは小さく頷く。
次は左。
シオンが風で流すが、人形が急に速度を落とした。
風を受け流すように動く。
左の進路が崩れる。
シオンが一瞬だけ遅れる。
アリシアは左へ入る。
木刀を置く。
だが、今回は人形がすぐに向きを変えた。
アリシアの復帰点へ向かう道を塞ぐように動く。
後半で分断へ動きを変える一体。
これだ。
戻る道が塞がれる。
胸が跳ねる。
アリシアは一瞬、前へ抜けることを考えた。
このまま左へ回れば、避けられるかもしれない。
でも、それだと復帰点から離れすぎる。
戻る線が切れる。
アリシアは声を出した。
「戻る道、塞がれます」
ルシアンが即座に答える。
「復帰点、左側詰まる」
リーネが水膜を調整する。
「中央、開けます」
シオンが風を引く。
「アリシア、戻れ」
短い声。
アリシアは木刀を下げ、押し返さない。
人形の腕を斜めに流し、中央へ戻る。
レオンが正面から一歩だけ圧をかけ、人形の視線を引く。
ミランダが右から足場を固める。
道ができる。
アリシアは復帰点へ戻った。
息が少し上がる。
でも、戻れた。
「戻りました」
リーネが短く言う。
「確認」
シオンが小さく笑う。
「いいね」
まだ訓練は続く。
魔導人形は、前回より賢く動いている。
こちらの復帰点を狙うように、時々道を塞ぐ。
アリシアが入った後、戻る場所を消そうとする。
そのたびに、六人は少しずつ対応した。
レオンが正面の圧を少し引く。
ミランダが足場を固めすぎず、戻る余白を作る。
リーネが水膜を復帰点周辺で薄くする。
シオンが風で道を開ける。
ルシアンが短く知らせる。
アリシアは入る。
塞ぐ。
戻る。
何度も繰り返す。
疲れる。
でも、前回よりは少し楽だった。
戻る場所があるから。
戻る合図があるから。
みんなが道を空けてくれるから。
終盤。
白い円まであと数歩。
三体の魔導人形が一斉に動く。
正面がレオンを押さえ、右がミランダを引きつけ、左がシオンを外へ流す。
そして一体が、アリシアの復帰点へ向かってきた。
復帰点を潰す動き。
アリシアは息を飲む。
戻る場所が消える。
一瞬、胸が冷えそうになる。
しかし、痛みではない。
恐怖だ。
恐怖なら、見られる。
アリシアは叫ぶのではなく、短く言った。
「復帰点、狙われます」
ルシアンが即答する。
「確認。正面薄い」
レオンが叫ぶ。
「俺が前を開ける!」
リーネが水膜を前方へ流す。
「進路、中央」
シオンが風を横から送る。
「戻るより、進む方が近い」
ミランダが右を押さえる。
「右、止める!」
戻る場所が塞がれた。
なら、戻るのではなく、みんなで進む。
ただし、勝手に進むのではない。
全員の声が揃っている。
戻る線は消えたのではない。
前へ進む道に変わった。
アリシアは木刀を握る。
「中央、行きます」
レオンが道を開ける。
ミランダが右を支える。
シオンが左を流す。
リーネが足元を整える。
ルシアンの光が中央を示す。
アリシアは、中央の薄い道へ木刀を置いた。
魔導人形の腕を斜めに逸らす。
道が開く。
一人。
二人。
三人。
白い円へ入る。
さらに、四人、五人。
最後にアリシアが入った。
「止め!」
エレナ教官の声が響いた。
魔導人形が停止する。
演習場に、静かな余韻が残った。
前回のような勢い任せの成功ではない。
何度も戻り、何度も道を作り、最後は復帰点を狙われた上で、全員で進路を選び直した。
アリシアは息を吐いた。
膝が少し震えそうになる。
でも立っている。
木刀を握っている。
レオンが笑った。
「成功だな!」
ミランダが嬉しそうに言う。
「全員入った!」
シオンが肩を回す。
「今回は戻り多くて疲れたね」
リーネは息を整えながらも、もう記録したそうな顔をしている。
ルシアンはアリシアを見て言った。
「最後、よく切り替えましたね」
アリシアは首を横に振る。
「みんなが言ってくれたから。戻るより進む方が近いって」
シオンが頷く。
「言ったね」
「だから……進めました」
エレナ教官が近づいてきた。
六人は姿勢を正す。
「初回より良い」
それだけで、全員の顔が少し明るくなった。
エレナ教官は続ける。
「今回は復帰点を狙わせた。そこで崩れるかを見た」
やはり。
アリシアは息を飲む。
「アリシア。復帰点を狙われた時、固まりかけたな」
「はい」
「だが、報告できた」
「はい」
「戻れない時は、戻れないと知らせる。最後は戻る道ではなく進む道を選んだ。悪くない」
アリシアの胸が熱くなる。
「ありがとうございます」
「ただし、自分一人で判断するな。今回は周囲の声を拾えたから成功した」
「はい」
エレナ教官は全員を見る。
「レオン、前を開ける判断は良かった。ミランダ、右を止めながら押し込みすぎなかった。セレナ、水膜の調整は前回より早い。シオン、左を見ながらアリシアへの声が出た。ルシアン、検知の伝達が短くなった」
それぞれが頷く。
「全員、前回より良い。だが、まだ荒い。次回までに今日の崩れを整理しろ」
「はい!」
六人の声が揃った。
アリシアはその響きの中で、静かに息を吸った。
怖かった。
でも、できた。
戻れた。
そして、戻れない時も、みんなと進めた。
◇
夜。
アリシアは練習帳を開いた。
手は疲れていた。
足も重い。
でも、書きたいことがたくさんあった。
『今日は合同訓練でした。復帰点を決めて、空いた場所へ一時介入し、戻る練習をしました。合図は、他の人からは「アリシア、戻れ」、自分からは「戻る」です』
続ける。
『最初はうまく戻れました。途中、魔導人形が復帰点を塞ごうとして、戻る道がなくなりそうになりました。その時、戻る道が塞がれると報告できました。みんなが道を空けてくれて、戻れました』
さらに書く。
『最後、魔導人形が復帰点を狙いました。戻る場所が消えるのが怖かったです。でも、ルシアンさんが正面が薄いと言い、シオンさんが戻るより進む方が近いと言ってくれました。みんなが道を作ってくれて、私は中央へ入りました。全員で白い円に入りました』
アリシアはペンを止める。
胸が温かい。
疲れているのに、少しだけ嬉しい。
『戻る場所は大事です。でも、戻る場所が塞がれた時、一人で固まらず、みんなの声を聞けば、別の道を選べることも分かりました』
ノアが机へ飛び乗った。
「今日は?」
アリシアが聞くと、ノアは少し長く考えた。
「九十九点」
「満点じゃないんだ」
「復帰点を狙われた瞬間、少し泣きそうな顔をした」
「それは……怖かった」
「でも報告した。戻れた。最後は進めた。かなり良いわ」
アリシアは小さく笑った。
「ありがとう」
「礼はいいわ」
「でも、言いたいから」
「知ってる」
ノアは練習帳を見る。
「最後に書くなら?」
アリシアは考えた。
戻る場所。
戻る合図。
塞がれた復帰点。
みんなの声。
開いた中央。
白い円。
それらを思い浮かべて、一行を書いた。
『戻る場所が消えそうな時も、声があれば道は見つかる』
ノアはその一文を見て、静かに頷いた。
「いいわ」
アリシアは練習帳を閉じた。
夜は静かだった。
水音はない。
胸の奥も穏やかだった。
古い水路も、第六支点も、まだ遠くにある。
けれど今日は、別のことを学んだ。
戻れる場所があること。
戻れない時は、戻れないと伝えること。
そして、誰かの声があれば、別の道を選べること。
アリシアは木刀を机の横に立てかけ、そっと指先で触れた。
次に空いた場所へ行く時も。
自分は、きっと戻ってこられる。
そう思える夜だった。




