第55話 戻った場所に残るもの
翌朝。
アリシアが目を覚ました時、最初に感じたのは、体の重さだった。
腕が少しだるい。
肩も、背中も、薄く張っている。
足には、昨日何度も復帰点と空いた場所の間を往復した疲れが残っていた。
痛いわけではない。
動けないほどでもない。
けれど、寝台の上で体を起こした瞬間、昨日の合同訓練がまだ体の中に残っていることが分かった。
レオンの大きな声。
ミランダの土の固定陣。
シオンの風。
リーネの水膜。
ルシアンの短い検知。
復帰点へ戻るために空いた道。
そして最後。
戻る場所が塞がれた時、みんなの声を受けて進む道へ切り替えた瞬間。
白い円へ六人全員で入った。
成功した。
怖かった。
でも、できた。
アリシアは胸元に手を当てた。
胸の奥の夜は静かだった。
水音はない。
深さも、ここ数日の中ではかなり落ち着いている。
それでも、完全に何もないわけではない。
昨日の最後の場面を思い出すと、胸の奥に小さな温かさが残る。
不安とは違う。
黒い反応でもない。
ただ、戻ってこられたという記憶。
それが、静かにそこにあった。
「起きたわね」
ノアの声がした。
アリシアは窓辺を見る。
ノアはいつものように前足を揃え、朝の薄い光を背にして座っていた。
「うん……体、ちょっと重い」
「当然でしょう。昨日は動きすぎよ」
「でも、前よりは戻れたと思う」
「ええ」
ノアは素直に頷いた。
「復帰点を使えた。戻れない時は報告した。最後は勝手に飛び出さず、全員の声を聞いた」
「うん」
「かなり上出来」
「九十九点だったもんね」
「調子に乗らない」
「はい……」
アリシアは少し笑った。
それから、寝台から降りる。
足を床につけた瞬間、ふくらはぎに小さな張りが走った。
「いた……」
「無理に伸ばさない。少しずつ動かしなさい」
「うん」
ノアの言う通り、足首をゆっくり回す。
肩も軽く動かす。
体の重さはある。
でも、嫌な疲れではない。
頑張った後の疲れ。
使った体が、まだ昨日を覚えている。
アリシアは机へ向かい、練習帳を開いた。
『朝、水音なし。胸の奥は穏やか。昨日の合同訓練の疲れが腕、肩、足にある。痛みではない。戻れたことを思い出すと、胸の奥が少し温かい』
そこで一度、ペンを止める。
昨日の最後の一文。
『戻る場所が消えそうな時も、声があれば道は見つかる』
読み返すと、少しだけ頬が熱くなる。
でも、消したいとは思わなかった。
「今日は?」
ノアが聞く。
「今日は……昨日の成功にしがみつかない」
「良いわね」
「でも、なかったことにもしない」
「それも良い」
「体が重いから、無理しない」
「よろしい」
アリシアはもう一行書き足した。
『昨日できたことを消さない。でも、今日も同じようにできると思い込まない。体が重いことも記録する』
ノアは机へ跳び乗り、練習帳を覗き込んだ。
「九十八点」
「朝から高い」
「疲れを隠さず書けたから」
「減点は?」
「最初、痛くないなら黙っていてもいいと思った」
アリシアは目を逸らした。
「……少しだけ」
「隠さない」
「はい」
制服に着替え、鏡の前に立つ。
黒髪。
黒い瞳。
少し眠そうで、少し疲れている顔。
でも、昨日までより穏やかだった。
「背筋」
ノアが言う。
アリシアは背筋を伸ばした。
「今日は、疲れたままでも日常へ戻る」
「ええ」
◇
廊下へ出ると、メリルが待っていた。
「おはよう、アリシアちゃん」
「おはよう、メリルさん」
メリルは一目で気づいた。
「疲れてる?」
「うん。少し体が重い」
「痛い?」
「痛いってほどじゃない。昨日動いた分の疲れだと思う」
「記録した?」
「した」
「えらい」
その言葉に、アリシアは少し照れる。
「そんなに?」
「うん。前なら、大丈夫って言って黙ってたかもしれないから」
「……たぶん」
二人と一匹で廊下を歩く。
アリシアの歩幅は、いつもより少し小さい。
メリルはそれに合わせてくれた。
何も言わずに。
急かさずに。
横へ並び、同じ速度で歩いてくれる。
そのことに気づくと、胸が少し温かくなる。
「メリルさん」
「うん?」
「歩くの、合わせてくれてありがとう」
「気づいた?」
「うん」
「ならよかった」
メリルは柔らかく笑う。
「今日は疲れてる日だから、ゆっくりでいいよ」
「うん」
寮の階段を下りる途中、何人かの生徒とすれ違った。
そのうち一人が、アリシアへ小さく会釈した。
もう一人は、何か言いたそうにしたが、結局そのまま通り過ぎた。
合同訓練の噂。
六人の候補者。
特殊魔力反応。
そうした言葉はまだ学園の中にある。
けれど、昨日のアリシアは、噂ではなく実際に六人で動いた。
そのことが、少しだけ心の支えになっていた。
見られても。
噂されても。
自分の中には、自分が知っている昨日がある。
その感覚は、以前にはなかったものだった。
◇
食堂へ入ると、今日はいつもの席が少し静かだった。
珍しく、レオンが大声を出していない。
ミランダもいつもの元気はあるが、少し動きがゆっくりだ。
シオンは机に頬杖をついている。
リーネは本を開いているが、ページをめくる速度が遅い。
ルシアンも、紅茶を飲みながら肩を軽く回していた。
どうやら、疲れているのはアリシアだけではないらしい。
「おはようございます」
アリシアが言うと、レオンが片手を上げた。
「おはよう」
声量はちょうどよかった。
リーネが顔を上げる。
「八十八点です」
「今のでも?」
「かなり良いです」
レオンの顔が明るくなる。
「よし!」
その声だけ少し大きかった。
シオンが目を閉じたまま言う。
「喜ぶと戻るね」
「声量の復帰点が大声なんだな」
ガレスが真剣に言った。
ミランダが笑い、それにつられてアリシアも少し笑う。
席につくと、リーネがすぐに聞いた。
「体調は?」
「腕と肩と足に疲れがあります。痛みではありません。胸の反応、水音なし」
アリシアは簡潔に答える。
リーネが満足そうに頷く。
「良い報告です」
シオンが眠そうに言う。
「僕も脚だるい」
ミランダも手を上げる。
「私、右肩!」
レオンは胸を張る。
「俺は全身!」
「それは威張ることではありません」
リーネが即座に言った。
ルシアンは静かに言う。
「僕も、思ったより集中疲労が残っています。短い言葉で伝えることに意識を使いました」
アリシアは少し驚いた。
「ルシアンさんも疲れるんですね」
言ってから、失礼だったかもしれないと気づく。
「あ……すみません」
ルシアンは少しだけ笑った。
「もちろん疲れます。僕も普通の生徒です」
その言葉が、少し意外だった。
光の候補者。
整った少年。
眩しく見える存在。
でも、疲れる。
迷う。
崩れる。
普通の生徒。
そのことを、アリシアは少しずつ受け取っている。
シオンが言う。
「ルシアンが自分で普通って言うと、ちょっと怪しいね」
「なぜですか」
「完璧に言いすぎるから」
「気をつけます」
ルシアンは本当に真面目に受け取った。
レオンがパンを持ちながら言う。
「昨日、最後よかったよな!」
声が少し大きくなる。
リーネが見る。
レオンは慌てて下げた。
「……よかったよな」
ミランダが嬉しそうに頷く。
「戻る場所が塞がれた時、どうなるかと思った!」
「私は……ちょっと固まった」
アリシアが正直に言う。
シオンが頷く。
「見えたよ」
「やっぱり?」
「一瞬だけ。でも、報告したから問題ない」
ルシアンが言う。
「戻れないと分かった時に、それを共有できたことが大きかったと思います」
リーネはすぐに手帳を開いた。
「昨日の重要点。復帰不能を早期共有。全員で進路再選択」
「朝から記録?」
シオンが言う。
「忘れないうちに」
「昨日も書いてたでしょ」
「再整理です」
アリシアはそのやり取りを見ながら、パンをちぎった。
今日は少し力が入りにくい。
疲れているせいか、形が少し崩れた。
ノアが椅子の上で言う。
「八十四点」
「今日は体が重いから……」
「条件を考慮済み」
「厳しい」
「疲れている時ほど丁寧に」
「はい」
レオンが真剣に頷く。
「疲れている時ほど丁寧に!」
シオンが小声で言う。
「レオン、そのうちノアの弟子になりそう」
ノアは鼻を鳴らした。
「選ぶ権利はこちらにあるわ」
アリシアは笑いをこらえた。
◇
生活基礎の授業。
セリア先生は黒板に、ゆっくりと文字を書いた。
『成功の翌日』
その四文字を見た瞬間、教室の何人かが小さくざわついた。
合同訓練の噂を知っている者たちが、アリシアをちらりと見る。
アリシアは少し肩を縮めかけた。
けれど、すぐにノートへ視線を戻した。
今は授業。
周囲の視線ではなく、黒板を見る。
セリア先生は穏やかに言った。
「何かがうまくいった翌日、人の心は大きく二つに揺れやすくなります」
黒板に二つの言葉を書く。
『もっとできる』
『次は失敗するかもしれない』
「成功したことで自信が大きくなりすぎる場合があります。反対に、次も同じようにできるか不安になりすぎることもあります」
アリシアは、両方あると思った。
昨日できた。
次もできるかもしれない。
でも。
次は失敗するかもしれない。
また復帰点を塞がれたら。
もっと難しい条件だったら。
水音や胸の反応が重なったら。
考え始めると、どちらにも引っ張られる。
「成功の翌日に大切なのは、評価を大きくしすぎないことです。できた事実は受け取る。できなかった部分も見る。体の疲れを確認する。日常へ戻る」
アリシアは強く頷いた。
できた事実を受け取る。
でも、英雄になったような気持ちにはならない。
疲れを確認する。
日常へ戻る。
「昨日の成功を、今日の義務にしないことも大切です」
その言葉に、アリシアのペンが止まった。
昨日できた。
だから今日もできなければいけない。
そう思ってしまうことがある。
でも、成功を義務にしてはいけない。
「昨日できたから、今日も必ずできなければならない。昨日頑張れたから、今日も同じだけ頑張らなければならない。そう考えると、成功が自分を追い詰めるものになります」
胸が少し痛んだ。
アリシアはノートに大きく書いた。
『昨日の成功を、今日の義務にしない』
これは、きっと必要な言葉だ。
合同訓練だけではない。
記録できた。
報告できた。
戻れた。
それを毎回完璧にしなければならないと思ったら、苦しくなる。
班練習では、「成功した翌日に自分へ何を言うか」を考えた。
メリルが言う。
「私は、昨日よくやった。今日は今日でいい、かな」
トマが笑う。
「いいな、それ」
ミーナは少し考えて言った。
「できたことは技術として残す。でも、体調や状況は毎回違う、と自分に言う」
アリシアはノートを見つめた。
「私は……昨日戻れた。今日は疲れている。だから今日は、疲れている自分でできることをする」
メリルが微笑んだ。
「すごくいい」
「本当?」
「うん。今日のアリシアちゃんに合ってる」
アリシアは少し照れながら、その言葉をノートに書いた。
◇
戦闘基礎では、エレナ教官が全員の顔を見た瞬間、ため息をついた。
「昨日合同訓練に出た者。前へ」
アリシア、ミランダ、リーネ、シオンが前へ出る。
レオンとルシアンは別の属性基礎授業のため、この場にはいない。
エレナ教官は四人を見る。
「疲れているな」
「はい」
全員が素直に答えた。
「なら今日は動かない」
教室の空気が少し驚く。
ミランダが目を丸くする。
「動かない?」
「体が重い状態で無理に動けば、変な癖がつく。今日は観察と記録だ」
リーネの目が少し輝いた。
シオンが言う。
「リーネだけ元気になった」
「記録はできます」
「そういう問題かな」
エレナ教官は、昨日の合同訓練に出ていない生徒たちへ通常の基礎練習を指示した。
アリシアたち四人は、演習室の端で観察することになった。
「昨日、自分たちが動いたつもりで見るな。今日の生徒がどう動いているかを見る。成功を重ねるな。比較しすぎるな」
「はい」
アリシアは木刀を持たず、手帳だけを持った。
少し不思議な感覚だった。
戦闘基礎で、木刀を握らない。
でも、今日はそれが正しい。
体が重い。
なら、観察する。
カイルとミーナたちが、前へ出て戻る訓練を始める。
アリシアは見る。
昨日の自分たちと比べそうになる。
でも、エレナ教官の言葉を思い出す。
比較しすぎない。
今の動きを見る。
カイルは前へ出た後、戻る時に少し肩が上がる。
ミーナは相手の進路を止める時、槍の先が少し内へ入る。
別班の男子生徒は、後退線を見すぎて相手から視線を外す。
アリシアはそれを短く書く。
見える。
木刀を持っていなくても、見える。
ただし、今日は声を出さない。
指導するのはエレナ教官。
アリシアは観察者。
その境界も大事だった。
しばらくして、エレナ教官が四人に尋ねた。
「何が見えた」
ミランダが元気よく答える。
「前に出た後、戻る時にみんな少し急いでます!」
リーネが続ける。
「後退線の確認に意識を取られ、相手から視線を外す生徒が複数います」
シオンが言う。
「戻る道を見すぎて、戻る前にぶつかりそう」
エレナ教官はアリシアを見る。
「アリシア」
「カイル君は、戻る時に肩が上がります。たぶん、急いで下がろうとして、体が硬くなっています。ミーナさんは槍を内側に戻すので、その後の右側が少し空きます」
エレナ教官が頷く。
「よく見ている」
「はい」
「だが、今日はそれだけでいい。直しに行くな」
「はい」
見るだけ。
知らせるだけ。
動かない。
今日の自分に合った役割。
そのことが、少し嬉しかった。
疲れていても、何もできないわけではない。
やり方を変えればいい。
授業の最後、エレナ教官はアリシアたちへ言った。
「昨日の成功で体が動くと思うな。疲労は判断を遅らせる。休むのも訓練だ」
「はい」
アリシアは深く頷いた。
◇
昼食後。
図書館の閲覧席には、昨日の合同訓練の配置図が広げられていた。
今日はレオンとルシアンも合流している。
六人全員。
しかし、空気は前日より落ち着いていた。
全員が少し疲れている。
だから声も動きも自然と穏やかになる。
リーネが昨日の記録を読み上げる。
「第二回合同訓練。復帰点設定。復帰指示『アリシア、戻れ』。自己復帰宣言『戻る』。複数回の一時介入と復帰に成功」
シオンが頬杖をつく。
「読むとちゃんとしてるね」
「実際にちゃんとしていました」
「自分で言うんだ」
「事実です」
リーネは続ける。
「終盤、魔導人形一体が復帰点を直接妨害。アリシアさんが『復帰点、狙われます』と報告。ルシアンが『正面薄い』、シオンが『戻るより進む方が近い』と伝達。全員で進路再選択。六人全員が白円へ到達」
レオンが大きく頷く。
「よかった!」
声が少し大きい。
でも今日はリーネも点数をつけなかった。
たぶん、疲れているのだ。
ミランダが配置図の復帰点を指でなぞる。
「ここ、最後に塞がれたんだよね」
「はい」
アリシアは頷いた。
「怖かったです」
正直に言う。
「戻る場所がなくなるって思って……一瞬、頭が止まりました」
ルシアンが静かに言う。
「でも、止まったことを隠しませんでした」
「はい」
「それが大きかったと思います」
シオンも頷く。
「復帰点が塞がれたって言ってくれたから、全員で別の道を見られた」
レオンが言う。
「俺は前を開けられた!」
ミランダも胸を張る。
「私は右を止めた!」
リーネが少しだけ微笑む。
「各自の役割が明確でした」
アリシアは配置図を見る。
復帰点。
小さな丸。
そこへ何度も戻った。
最後だけ、戻れなかった。
だから進んだ。
アリシアは少し考え、言った。
「復帰点って、絶対戻らなきゃいけない場所じゃないんですね」
全員の視線が集まる。
アリシアは続けた。
「戻るための基準だけど……状況が変わったら、そこにしがみつかなくてもいい。戻れないって伝えて、別の道を選ぶこともできる」
リーネの筆が止まる。
シオンが少し目を細める。
ルシアンが穏やかに頷く。
「その通りだと思います」
レオンが腕を組む。
「戻る場所は大事。でも、戻ることが目的じゃない」
「そうです」
ルシアンが答える。
ミランダが少し考えてから言う。
「目的は、みんなで崩れないこと?」
リーネが頷く。
「正確です」
アリシアは胸の奥が少し温かくなる。
戻る場所を大切にする。
でも、戻る場所に縛られない。
それはきっと、人との関係にも似ている。
練習帳にも。
隠れ里にも。
ノアにも。
戻れる場所はある。
でも、ずっとそこにいなければならないわけではない。
そのことを、少しだけ理解できた気がした。
◇
整理が進んだ頃、司書が閲覧席へやって来た。
「皆さん、昨日の記録整理ですか」
「はい」
リーネが答える。
司書はアリシアを見る。
「体調は?」
「疲れはあります。でも、胸の反応、水音、冷え、痛みはありません」
「良いですね」
その声は穏やかだった。
しかし、司書の手には一枚の紙があった。
いつもの貸出記録ではない。
少し厚い、結界記録用の紙。
アリシアは気づいたが、見続けなかった。
司書は少し迷うように紙を持ち直した。
「アリシアさん。昨日の合同訓練後、中央演習場の復帰点付近で、ごく微弱な残留反応が確認されました」
アリシアの胸が固まった。
六人の空気も変わる。
リーネの筆が止まる。
シオンが姿勢を起こす。
ルシアンの表情が少し真剣になる。
レオンとミランダも声を失った。
「残留反応……」
アリシアは小さく繰り返す。
司書はすぐに続けた。
「危険なものではありません。結界異常でもありません。黒い魔力反応とも断定されていません」
アリシアは呼吸を意識した。
吸う。
吐く。
決めつけない。
「どんな反応ですか」
アリシアは聞いた。
「復帰点の印の上に、非常に薄い水分反応が残っていました」
「水……」
耳の奥で、過去の水音が蘇りそうになる。
しかし、実際には音はしない。
胸の奥も、まだ静かだ。
司書は言う。
「床が濡れていたわけではありません。触れても乾いていました。ただ、結界板には水属性に近い微弱な残響が記録されています」
リーネが手を上げる。
「水属性候補の水膜による残留では?」
「最初にその可能性を確認しました。しかし、セレナさんの水膜は復帰点周辺を避ける形で調整されていました」
リーネはすぐに記録を見返す。
「はい。復帰点周囲は滑り防止のため、薄くしています」
ルシアンが静かに尋ねる。
「アリシアさんの黒い反応との複合ですか」
「現時点では不明です」
司書は慎重に答えた。
「黒い魔力反応は観測されていません。水属性残響のみ。ただし、形状が少し特殊でした」
アリシアは胸元へ手を当てる。
「形状?」
「小さな円です。水滴が落ちた後の波紋に似ています」
ぽちゃん。
耳の奥で、記憶の音だけが響いた。
実際の音ではない。
アリシアはそう自分へ言う。
水晶片に出た黒い波紋。
夢の水音。
第六支点。
復帰点に残った水の波紋。
点と点が、また並ぶ。
繋げたくなる。
でも、まだ早い。
「私は……昨日、水音は聞いていません」
アリシアは言った。
「胸の反応もありませんでした。訓練中、黒い力を使おうともしていません」
「はい。その記録は教員側でも確認しています」
司書は頷く。
「だからこそ、現時点ではあなたの反応と決めつけません。ただ、関連の可能性を完全には除外できないため、共有しました」
アリシアは一度、目を閉じた。
怖い。
復帰点。
戻る場所。
そこに水の波紋が残った。
まるで、自分が戻った場所へ何かが触れたように感じる。
でも、そう決めつけてはいけない。
「確認していいですか」
「どうぞ」
「その残留反応は、今もありますか」
「現在は消えています」
「危険は?」
「確認されていません」
「次の合同訓練は中止になりますか」
聞くのが少し怖かった。
せっかくできた場所。
また立ちたい場所。
そこがなくなるかもしれない。
司書は静かに答えた。
「現時点で中止の予定はありません。ただし、次回は復帰点周辺の結界監視を強化します」
アリシアは少しだけ息を吐いた。
中止ではない。
でも、何もなかったわけでもない。
リーネが言う。
「記録可能な範囲は?」
「水属性に近い微弱残響。波紋状。危険性なし。現在消失。原因未確定。そこまでです」
「承知しました」
シオンが低く言う。
「戻った場所に、水の跡か」
ミランダが不安そうにアリシアを見る。
「大丈夫?」
アリシアは少し考えてから答えた。
「怖い。でも……今は大丈夫」
レオンが力強く言う。
「次も一人にしない!」
ルシアンは少しだけレオンを見る。
「もちろんです。ただ、まずは教員側の確認を待ちましょう」
「分かってる!」
声は大きかったが、レオンの真剣さは伝わった。
司書が去った後、しばらく沈黙が残った。
誰もすぐには言葉を出さなかった。
復帰点。
水の波紋。
戻った場所に残るもの。
アリシアは配置図の小さな丸を見つめた。
そこは昨日まで、安心の印だった。
今も、そうであることに変わりはない。
でも、その場所に別の意味が重なった。
怖い。
少しだけ、遠ざけたくなる。
復帰点を使わなければいいのではないか。
そんな考えが、一瞬浮かんだ。
ノアが足元で低く言う。
「逃げない」
アリシアは小さく頷く。
「うん」
シオンが聞いた。
「今、何考えた?」
アリシアは少し迷った。
でも、隠さない。
「復帰点を使わなければいいのかなって、一瞬思いました」
リーネがすぐに言う。
「それは早計です」
「うん。分かってる」
ルシアンが静かに続ける。
「原因が復帰点そのものとは限りません。むしろ、復帰点を避けることで訓練上の安全を失う可能性があります」
ミランダも頷く。
「戻る場所、必要だよ」
レオンが言う。
「水の跡があったからって、アリシアの場所じゃなくなるわけじゃない!」
その言葉に、胸が熱くなった。
自分の場所。
まだ正式な場所ではない。
仮の復帰点。
でも、レオンは迷わずそう言った。
シオンが頬杖をつきながら言う。
「次は監視強化されるんでしょ。なら、勝手に避けるより、使って記録した方がいいと思う」
リーネが頷く。
「同意します。条件を変えず、反応を比較する方が情報価値があります」
「リーネさんは研究者の顔だね」
アリシアが言うと、リーネは少しだけ眼鏡を押し上げた。
「安全管理が前提です」
「うん」
アリシアは練習帳を開いた。
手は少し震えている。
でも書く。
『合同訓練後、復帰点付近に水属性に近い微弱残響。波紋状。危険性なし。現在消失。原因未確定。私は水音、胸の反応、黒い力の使用なし』
さらに書く。
『一瞬、復帰点を使わない方がいいと思った。でも、原因はまだ分からない。次回は監視強化。勝手に避けない』
書き終えると、少しだけ呼吸が戻った。
◇
夕方。
寮へ戻る道で、アリシアはいつもより静かだった。
メリルは図書館で聞いたことを知らない。
話せる範囲で伝える必要がある。
中庭を歩きながら、アリシアは言葉を探した。
「メリルさん」
「うん」
「昨日の復帰点に、少しだけ水の反応が残ってたって」
メリルが足を止める。
「水?」
「床は濡れてなかった。でも、結界板に波紋みたいな反応。危険はなくて、もう消えてる。私が原因とも決まってない」
メリルはしばらく黙った。
それから、ゆっくり聞く。
「怖い?」
「うん」
「復帰点、嫌になった?」
あまりにも正確な問いだった。
アリシアは少し目を伏せる。
「一瞬、使わない方がいいかなって思った」
「今は?」
「使う。先生たちが監視してくれるし、原因も分からないから」
メリルは頷いた。
「うん。私も、その方がいいと思う」
「でも……戻る場所に何かが残るって、少し怖い」
「そうだね」
メリルは否定しなかった。
「でも、戻った場所に残るのって、怖いものだけじゃないと思う」
アリシアは顔を上げる。
「どういうこと?」
「昨日、アリシアちゃんが戻ったことで、みんな安心したでしょ。声も残ったし、動きも残ったし、次にどうするかって記録も残った」
「……うん」
「水の跡は怖い。でも、それだけが残ったものじゃないよ」
アリシアは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
戻った場所に残るもの。
水の波紋。
でも。
安心。
記録。
声。
次のための道。
それらも残る。
「ありがとう」
「うん」
メリルは笑った。
「今日は早く休もうね」
「うん」
◇
夜。
アリシアは練習帳を開いた。
今日は朝から、たくさんのことがあった。
成功の翌日。
疲れ。
観察だけの訓練。
合同訓練の整理。
そして、復帰点に残った水の波紋。
一つずつ書く。
『今日は合同訓練の翌日でした。体に疲れがありました。生活基礎では、昨日の成功を今日の義務にしないことを学びました。昨日できたから、今日も同じようにできなければならないわけではありません』
続ける。
『戦闘基礎では、疲れていたので動かず観察しました。休むのも訓練だとエレナ先生に言われました。木刀を握らなくても、相手の動きを見ることはできました』
さらに書く。
『図書館で、昨日の復帰点に水属性に近い微弱な残響が残っていたと聞きました。波紋の形。床は濡れていない。危険性なし。現在は消えている。原因は未確定です。私は昨日、水音も胸の反応も黒い力の使用もありませんでした』
アリシアはペンを止める。
怖さが戻ってくる。
練習帳の文字だけを見ていると、復帰点の小さな印の上に黒い水の波紋が浮かぶような気がする。
実際は黒ではない。
水属性に近い反応。
でも、頭の中では水晶の黒い波紋と重なる。
アリシアは深呼吸した。
事実。
推測。
感情。
『感情:怖い。戻る場所に何かが触れたように感じる』
『推測:第六支点、水路、水音との関連可能性。ただし未確定』
『事実:復帰点付近に微弱水属性残響。現在消失』
分ける。
書く。
戻る。
ノアが机へ飛び乗った。
「今日は?」
アリシアが聞くと、ノアは少し長く考えた。
「九十八点」
「昨日より下がった」
「十分高いわ。水の残響を聞いて、復帰点を捨てたくなった。でも、その気持ちを言えた。原因未確定と書けた。勝手に避けないと決めた」
「減点は?」
「一瞬、復帰点の印を黒い波紋みたいに想像して飲まれかけた」
「うん……」
「でも事実と推測に戻った」
「うん」
ノアは練習帳を見る。
「最後に書くなら?」
アリシアは考えた。
戻った場所。
水の波紋。
怖さ。
みんなの声。
メリルの言葉。
残った安心。
残った記録。
それらを思い浮かべる。
そして、ゆっくり一行を書いた。
『戻った場所に残るのは、怖い跡だけではない』
ノアはその一文を見て、静かに目を細めた。
「続けるなら?」
アリシアは少し驚く。
ノアが続きを促すのは珍しい。
少し考えて、もう一行書いた。
『声も、安心も、次に進むための記録も残る』
ノアは満足そうに頷いた。
「いいわ」
アリシアは練習帳を閉じた。
夜は静かだった。
水音はしない。
胸の奥も、大きくは揺れていない。
それでも、復帰点に残った波紋のことは消えなかった。
きっと、明日も考える。
第六支点。
古い水路。
水の残響。
それらと繋がるかもしれない。
でも、今夜はそれだけを見ない。
戻った場所に残った、みんなの声を思い出す。
――アリシア、戻れ。
――戻る。
――正面薄い。
――戻るより進む方が近い。
あの声も、確かに残っている。
だからアリシアは、怖さだけを抱えて眠る必要はなかった。




